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{{Infobox baseball player
+
[[ファイル:ジョー・ディマジオ.jpg|サムネイル]]
|選手名            = ジョー・ディマジオ
+
'''ジョセフ・ポール・ディマジオ'''('''Joseph Paul DiMaggio''', [[1914年]][[11月25日]] - [[1999年]][[3月8日]]
|英語表記          = Joe DiMaggio
 
|所属球団          =
 
|背番号            =
 
|選手写真ファイル名 = Joe_DiMaggio_1951.png
 
|写真サイズ        = 250
 
|写真のコメント    = 1951年
 
|国籍              = {{USA}}
 
|出身地            = [[カリフォルニア州]][[マーティネズ (カリフォルニア州)|マーティネズ]]
 
|生年月日          = [[1914年]][[11月25日]]
 
|没年月日          = {{死亡年月日と没年齢|1914|11|25|1999|3|8}}
 
|身長              = {{フィートとcm (身長用変換)|6|2}}
 
|体重              = {{ポンドとkg (体重用変換)|193}}
 
|利き腕            = 右
 
|打席              = 右
 
|守備位置          = [[外野手]]
 
|プロ入り年度      = 1936年
 
|ドラフト順位      =
 
|初出場            = 1936年5月3日
 
|最終出場          = 1951年9月30日
 
|年俸              =
 
|経歴              =
 
; 選手歴
 
* [[ニューヨーク・ヤンキース]](1936 - 1942, 1946 - 1951)
 
; コーチ歴
 
* [[オークランド・アスレチックス]](1968 - 1969)
 
|選出国 = アメリカ
 
|選出年 = 1955年
 
|得票率 = 88.84%
 
|選出方法 = [[全米野球記者協会]]選出
 
}}
 
{{External media
 
|width=250px
 
|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=gufSWZ5xSBc ディマジオの特集。1分14秒以降に貴重な現役時代のプレー映像。2分52秒頃では1947年のワールドシリーズで本塁打性の打球を「アル・ジオンフリードのザ・キャッチ」で好捕され、珍しく感情を露わにする(WatchMojo.comがアップロードした動画)]
 
|video2=[https://www.youtube.com/watch?v=ZRqqnyzx8HE 1995年のディマジオのSSスピーチ(TheSportsSpectacularがアップロードした動画)]
 
}}
 
'''ジョセフ・ポール・ディマジオ'''('''Joseph Paul DiMaggio''', [[1914年]][[11月25日]] - [[1999年]][[3月8日]])は、[[メジャーリーグベースボール|MLB]]の[[プロ野球選手]]([[外野手]])。[[カリフォルニア州]][[マーティネズ (カリフォルニア州)|マーティネズ]]出身。ニックネームは「'''ヤンキー・クリッパー'''('''Yankee Clipper''')」「'''ジョルティン・ジョー'''('''Joltin' Joe''')」。右投右打。
 
  
56試合連続[[安打]]の[[MLB]]記録保持者。
+
アメリカのプロ野球選手。本名 Joseph Paul DiMaggio。父はイタリアからの移民。 1936~51年[[大リーグ]]のニューヨーク・ヤンキーズの外野手として活躍,首位打者 (1939,1940) ,本塁打王 (1937,1948) ,打点王 (1941,1948) を各2回獲得,アメリカンリーグの最優秀選手 (1939,1941,1947) にも3回選ばれた。
  
== 経歴 ==
+
1954年女優の[[マリリン・モンロー]]と結婚,翌 1955年離婚。不滅の記録といわれる 56試合連続安打を 1941年にマークし,終身打率3割2分5厘,本塁打 361本,打点 1537の成績を残し,1955年[[野球殿堂]]入りを果たした。
=== 生い立ち ===
 
ジョー・ディマジオは[[漁師]]ジュゼッペ・ディマジオの四男(9人の兄弟姉妹の中で8番目)として生まれた<ref name=officiallifestory>The Official Site of Joe Dimaggio. "[http://www.joedimaggio.com/LifeStory.php?n=1 The Life Story]" (2008年4月16日アクセス)</ref><ref name=slugger80>康奉雄「ジョー・ディマジオ」『[[スラッガー (雑誌)|SLUGGER]]』通巻第3号(1998年7月号)、[[日本スポーツ企画出版社]]、80頁</ref>。父ジュゼッペと母ロザリーはシチリア出身の貧しい移民夫婦であったが、5人の息子の内ジョーを含め3人のメジャーリーガーを輩出した<ref name=slugger80/>。
 
  
=== 現役時代 ===
+
{{テンプレート:20180815sk}}
[[1932年]]10月、兄の[[ビンス・ディマジオ]]が所属していた[[パシフィックコーストリーグ]]の[[サンフランシスコ・シールズ]]と契約。この年はシーズン終了間際だったので3試合に出場したのみだったが、翌[[1933年]]は187試合に出場、5月27日から7月25日まで61試合連続安打を記録<ref>Great Baseball Feats, Facts and Figures, 2008 Edition, p.210, David Nemec and Scott Flatow, A Signet Book, Penguin Group, New York, NY, ISBN 978-0-451-22363-0</ref>するなど打率.340、259安打、28本塁打を記録した。
 
  
[[1934年]]はシーズン途中で膝を故障。シーズン後、チームは[[ニューヨーク・ヤンキース]]との間でディマジオ1人と、4人+5,000ドルを交換するトレードを成立させた。[[1935年]]はケガをした膝の具合を見る意味もあり、そのままシールズでプレーする。172試合で打率.398、34本塁打、154打点を記録してリーグMVPとなった。
 
 
[[ベーブ・ルース]]の引退後の[[1936年]]、ヤンキースからメジャーリーグにデビューし、打率.323、29本塁打、125打点とルースの穴を埋めて余りある成績を残した。[[ルー・ゲーリッグ]]がシーズン途中で引退した[[1939年]]には、いずれも初のMVPと首位打者に輝き、両雄の居なくなったヤンキースのナンバーワン・プレイヤーとなる。1936年から1939年までのチームの[[ワールドシリーズ]]4連覇に大きく貢献した。
 
 
[[1941年]]には'''56試合連続安打'''を達成。この連続試合安打記録はメジャー記録であり、2017年現在も破られていない。期間中の安打数は91で、4安打が4試合、3安打が5試合、2安打が13試合、1安打が34試合であった(なお、57試合目で3打数0安打で記録が途絶えた次の試合から再び16試合連続で安打を放っている)。
 
 
その後も本塁打王や打点王を獲得するなど活躍。ヤンキース一筋で、現役の間、チームの9回のワールドシリーズ制覇に大いに貢献した。全盛期の期間に[[第二次世界大戦]]の従軍で3年間プレーしない時期があったこともあり、実働期間は13年と短かったが、球界を代表するスーパースターとして活躍し続けた。
 
 
[[1951年]]に[[現役引退]]。ディマジオの[[野球の背番号|背番号]]'''5'''は、引退と共にヤンキースの[[野球界の永久欠番|永久欠番]]に指定されている。
 
 
=== 引退後 ===
 
現役引退後は後進の指導を中心に力を尽くし、故郷に近いオークランドに[[オークランド・アスレチックス|アスレチックス]]が移ってきた当初の2年間はコーチを務めている(この時の縁で、ディマジオの死後、臨時コーチ時につけていた背番号5が一時アスレチックスのホームスタジアムに掲げられた)。[[1968年]]に[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]]、[[1975年]]には[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ]]で春季キャンプ臨時コーチを務めた。死の前年まで、古巣ヤンキースの開幕戦始球式はディマジオの務めであり、また後輩の[[ヨギ・ベラ]]と[[ジョージ・スタインブレナー]]オーナーの対立においても仲裁に動くなど、非常に大きな影響力を持っていた。
 
 
また、[[1995年]]に[[カル・リプケン]]がかつてのチームメイト、[[ルー・ゲーリッグ]]の連続試合出場記録を破った2131試合目のオリオールズ戦に来賓の一人として招かれ、記録更新に立ち会った。試合後のセレモニーでは「ルー(ゲーリッグ)はここには来れないけれど、きっと君(リプケン)にお祝いを言うだろう」とコメントしている。
 
 
他にも引退後にはコーヒーメーカー[[Mr. Coffee]]社のCMに起用され、「ミスター・コーヒー」とあだ名がつけられた。
 
 
近年になって、生前に[[マフィア|シチリア・マフィア]]との関係があったことが明るみに出ている。
 
 
そのディマジオの人生の成功ぶりは「アメリカ人の成功者の中で、生まれて一度もレストランや飛行機の予約をしたことがないのはディマジオだけだ」、「[[ビートルズ]]のメンバー以外では最高にリッチな人生を送った」とアメリカで語られるほどであった。
 
 
== 選手としての特徴 ==
 
[[ファイル:Joe DiMaggio salutes his bat.jpg|thumb|200px|バットにキスをするディマジオ(1941年12月15日)]]
 
=== 打撃 ===
 
打者としては、高打率を残しながら、デス・バレーと呼ばれるヤンキースタジアムの左中間スタンドに打球を放り込むほどのパワーも持ち合わせていた。大振りであったがライナーを意識した打撃で、三振が少なく、1941年シーズンは622打席に立ってわずか13三振であった。
 
 
=== 守備・走塁 ===
 
ディマジオのプレーは、見ている人が惚れ惚れするような優雅なプレーといわれた。特に守備の上手さは芸術的と評価されており、[[ウィリー・メイズ]]の守備は「メイズは、その打球が本当に難しいのだと分からせる捕り方をした」と表現されたが、ディマジオの守備は長い脚で駆け回る姿が誰よりも優雅で「ディマジオは難しい打球が難しく見えないような捕り方をした」、「彼が守備位置のセンターで打球を追っているのを見ると、その優雅さに息を飲むような気持ちにさせられる。少しも急いでいるように見えないのに素晴らしいスピードで球に追いついている(殿堂入り選手[[モンテ・アーヴィン]]の発言)」と表現された。ライバルとしてよく比較された[[テッド・ウィリアムズ]]も、「自分とディマジオの違いは、ディマジオはすべてのプレーを優雅にこなす点にあり、ディマジオは三振しても絵になった」と語っている。
 
 
もうひとつディマジオの優雅さを決定づけたのはその走塁だった。当時のヤンキース監督の[[ジョー・マッカーシー]]は、「誰よりも足が速いというわけではなかったが、走塁技術は抜群だった。走らせれば50、60盗塁は楽に記録したはずだ」、「でも、1日に2度も3度も固い地面の上で滑り込みさせるわけにはいかない。そのことで脚を痛めたりしたら被害甚大だからね」と語っている。
 
 
== 逸話 ==
 
=== 人物 ===
 
グラウンドでの態度やファンへの誠実な対応は、野球選手の鑑とされた。同時代のライバル、[[テッド・ウィリアムズ]]があまりにも求道者的態度が過ぎてマスコミ受けが悪かったのとは好対照だった。性格は寡黙で紳士的で、[[ミッキー・マントル]]や[[ホワイティ・フォード]]はディマジオの威厳がありすぎてほとんど話しかけられなかったという。その一方で[[ビリー・マーチン]]とは同じカリフォルニア生まれだったこともあり、たびたび食事や酒を飲むなどで交友があったという。
 
 
[[沢村栄治]]がマイナー時代のディマジオと対戦した逸話が残っている。[[フランク・オドール]]監督から「うちの4番から三振を奪ってみろ」と言われ、躍起になって打ち取りにいったがとうとう三振は奪えず、1本塁打を打たれた。オドール監督は、「ディマジオはいずれメジャーでクリーンアップを打つ打者だ」と予言。沢村はのちに「あれほどのレベルの打者が、アメリカでは[[マイナーリーグ|マイナー]]にもゴロゴロしてる」と日米の格差を述懐している。ただし、このとき沢村が変化球を投げる際に口を「への字」に曲げる癖がアメリカでは浸透していた。
 
 
[[File:Dimaggio and O'Doul in Japan.jpg|thumb|250px|訪日時のディマジオとオドール]]
 
現役最後の年となった1951年には日米野球で訪日し、[[杉下茂]]([[中日ドラゴンズ|中日]])から本塁打を打った翌日に、まだ試合が残っているにもかかわらず突然帰国し、すぐに引退を発表している。その本塁打は、三塁を守っていた[[服部受弘]](中日)が「ジャンプして捕ろうとしたら、そのまま伸びてスタンドに入った」と言っていたといい、ディマジオにとっても印象的な本塁打の一つだったようで、後年になっても「俺がホームランを打ったピッチャー(杉下)は元気にしてるか?」と杉下のことをよく尋ねていたという。
 
 
[[長嶋茂雄]]はディマジオのファンであり、野球選手の模範としてディマジオを挙げている<ref>長嶋茂雄『野球選手は人生そのものだ』日本経済新聞</ref>。[[ファイル:C1395-14Reagan-DiMaggio.jpg|thumb|300px|[[ホワイトハウス]]にて[[ロナルド・レーガン]]大統領と会見(1981年3月27日)]]
 
 
何度も来日しており、来日した際には[[日本外国特派員協会]]で記者会見を行っている。
 
 
[[アーネスト・ヘミングウェイ]]の『[[老人と海]]』にディマジオに関する記述があり<ref>Barnes, B. "[http://www.washingtonpost.com/wp-srv/sports/baseball/daily/march99/08/dimaggioobit.htm American Icon Joe DiMaggio Dies at 84]", Washington: ''[[ワシントンポスト|The Washington Post]]'', 1999年3月8日 (2008年4月16日アクセス)</ref>、[[サイモン&ガーファンクル]]のヒット曲『[[ミセス・ロビンソン]]』<ref name=encarta>[[エンカルタ|Microsoft Encarta Online Encyclopedia]] "[http://encarta.msn.com/encyclopedia_761577014/joe_dimaggio.html Joe DiMaggio]" (2008年4月16日アクセス)</ref>、[[ビリー・ジョエル]]のヒット曲『[[ハートにファイア]]』にもディマジオの名前が出てくる。1975年の映画『[[さらば愛しき女よ]]』では、主人公の私立探偵[[フィリップ・マーロウ]]がディマジオの連続安打記録を気にし続けるという原作小説にはない描写が付け加えられているなど、ディマジオがいかにアメリカ人にとってヒーローであったかが窺える。そのため、ディマジオもそのイメージを保つ為に自分の節制にはとても厳しかったという。
 
 
=== 家族 ===
 
ジョーの2歳年上の兄[[ビンス・ディマジオ]]は、[[1937年]]から[[1946年]]まで[[ピッツバーグ・パイレーツ]]等5チームでプレイし、1,110試合に出場し、打率.249、125本塁打、584打点を記録した。オールスターにも2度出場している。ジョーの3歳年下の弟[[ドム・ディマジオ]]は、[[1940年]]から[[1953年]]までヤンキースのライバル、[[ボストン・レッドソックス]]でプレイし、オールスターにも7回出場した。1,399試合に出場し1,680安打を放ち、通算打率は.298である。3兄弟は全員[[中堅手]]であった。なお、兄弟でチームメイトになったことは一度もなかった。
 
 
ディマジオは生涯に二度結婚している。最初の妻、女優の{{仮リンク|ドロシー・アーノルド|en|Dorothy Arnold (actress)}}とは1939年に結婚し、1男を儲けた<ref name=sfc2006>Shea, J. "[http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?file=/c/a/2006/05/17/SPGLFIT1GH1.DTL Joe's Bid-ness: DiMaggio's granddaughters are selling off their memorabilia]", San Francisco: ''[[サンフランシスコ・クロニクル|San Francisco Chronicle]]'', 2006年5月17日 (2008年4月20日アクセス)</ref>が、1944年に離婚した<ref name=encarta/>。ディマジオとドロシー・アーノルドの間に生まれた男児は、父の死の5か月後に死去した<ref name=sfc2006/>。
 
 
==== マリリン・モンローとの関係 ====
 
[[ファイル:Marilyn Monroe Joe DiMaggio January 1954.jpg|thumb|250px|マリリン・モンローとディマジオ(1954年)]]
 
現役を引退した翌1952年の春、アスレチックスが球団の売り出し作戦として新人[[ハリウッド]]女優の[[マリリン・モンロー]]を球団の宣伝用写真として使い、その写真を見たディマジオが「自分もあんな美人と一緒に写真を撮られてみたいもんだ」と冗談を言った事をきっかけに映画関係のプロモーターからモンローを紹介され、映画の都ハリウッドで会食をした。モンローがプロモーターと芸能界の話ばかりしていたためにディマジオも最初は大人しくしていたが、途中から野球好きの俳優[[ミッキー・ルーニー]]が加わり、ディマジオの活躍を賞賛した。このルーニーのディマジオ評にモンローも大変興味をそそられたと言われている。その帰りにディマジオが車でモンローを送っていく途中、「野球のことは何も知らなくてごめんなさい」と謝るモンローに、「気にしないで。私も映画についてほとんど知らないから」と慰めた<ref>{{Cite web|url=http://www.pbs.org/wgbh/amex/dimaggio/peopleevents/pande10.html|title=Meeting Marilyn and the Wedding|publisher=[[公共放送サービス|PBS.org]]|accessdate=2013-12-24}}</ref>。これが馴れ初めで1954年1月14日に二人は結婚し、同年2月1日に新婚旅行で日本を訪れた<ref>福岡県立図書館「[http://www.lib.pref.fukuoka.jp/tosho/1954nittei01.htm マリリン・モンロー ジョー・ディマジオ来日(新婚旅行)の日程]」 (2008年4月16日アクセス)<br /> [http://blogs.dion.ne.jp/tontonton/archives/9084953.html 晴耕雨読: マリリン・モンローは妊娠していた?]<br /> [http://www.geocities.jp/mink_okayama/minpousi03.html みんなで語ろう民放史. 泣き笑いスポーツアナ奮戦記 -カープを追い続けた地方局- 山中 善和 (RCC) ]{{リンク切れ|date=2017年9月}}</ref>。
 
 
日本では、アメリカを代表するスーパースターであるはずのディマジオよりもモンローの方に記者の質問が集中し、ディマジオはプライドを傷つけられてしまう。日本滞在中のディマジオは野球の仕事を兼ねて外出する事が多く、[[帝国ホテル]]で退屈していたモンローは[[朝鮮戦争]]のアメリカ兵を慰問する仕事が依頼されると、新婚旅行を中断し、一人で[[朝鮮半島]]へ向かってしまった<ref name="DON!">{{Cite web|url=http://www.ntv.co.jp/don/contents03/2011/03/199938.html|title=1999年3月8日「ジョー・ディマジオ選手が亡くなった日」|publisher=[[DON!]]特集|accessdate=2013-12-24}}</ref>。女優の仕事に忙しく自由奔放なモンローと、独占欲から嫉妬が芽生えたディマジオの間には喧嘩が絶えなかった。
 
 
最終的には地下鉄の通気口から吹き上げる風にモンローのスカートがめくれ上がり、太ももと下着が露わになる有名なシーンで知られる『[[七年目の浮気]]』の撮影に居合わせたディマジオと大喧嘩をしたモンローが「[[心理的虐待]]」を受けたとして離婚訴訟を起こし<ref>{{Cite web|url=http://www.pbs.org/wgbh/amex/dimaggio/peopleevents/pande11.html|title=The Breakup with Marilyn|publisher=PBS.org|accessdate=2013-12-24}}</ref>、結婚後わずか274日で離婚した<ref name="福岡">{{Cite web|url=https://www.lib.pref.fukuoka.jp/hp/tosho/1954m&d.htm|title=マリリン・モンローとジョー・ディマジオ|publisher=福岡県立図書館ホームページ|accessdate=2013-12-24}}</ref><ref>康、82頁</ref><ref name=encarta/>。しかし、ディマジオは離婚後も新しい恋に傷ついたり心ないマスコミの攻撃にさらされて孤独に陥った時に頼ってきたモンローを一途に支え続け<ref name="福岡" />、彼女の亡くなる数日前には2人が再婚するつもりである事を友人に語っている<ref name="DON!" /><ref name="PBS">{{Cite web|url=http://www.pbs.org/wgbh/amex/dimaggio/peopleevents/pande12.html|title=Joe Directs Marilyn’s Funeral |publisher=PBS.org|accessdate=2013-12-24}}</ref>。
 
 
1962年にモンローが死去。葬儀はかつて夫だった男の中でディマジオだけが参列し<ref name="福岡" />、ディマジオは映画界からの参列はすべて固辞した。息を引き取ったモンローを前に「愛している」と声をかけ続け、涙を流したと伝えられている<ref name="DON!" />。{{by|1978年}}の[[1978年のMLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]の日本向け衛星中継で63歳のディマジオとマイクの前に並んだ[[伊東一雄]]は、ディマジオが「マリリンほど素晴らしい女性はいなかった・・・」とポツリと漏らしていたのを耳にしたという<ref>{{Cite book|author=[[伊東一雄]]|title=[[メジャーリーグこそ我が人生:パンチョ伊東の全仕事]]|publisher=[[サンケイスポーツ]]|page=418}}</ref>。20年にわたり、週3回、彼女の墓に赤い[[バラ]]を送り続けたという逸話もある<ref name="福岡" /><ref name="Scotsman">{{Cite web|url=http://www.scotsman.com/news/world/joe-dimaggio-died-convinced-jfk-had-monroe-killed-1-545640|title=Joe DiMaggio died convinced JFK had Monroe killed|publisher=[[スコッツマン|The Scotsman]]|accessdate=2013-12-24}}</ref>。
 
 
結局、モンローとの離婚後は独身を通した。亡くなるまでモンローについてのコメントは控え、「ある女性誌が、貴方が話してくれたら5万ドル払うと言っているが」と尋ねられた時も「'''世の中には金にかえられないものがある。それは愛の思い出だ'''」と即座に答えた<ref name="福岡" />。[[ジョン・F・ケネディ]]と[[ロバート・ケネディ]]によってモンローは殺害されたと本気で考えており、[[ケネディ家|ケネディ一族]]を終生憎んでいた<ref name="Scotsman" />。
 
 
ディマジオは[[1999年]][[3月8日]]に[[肺癌|肺がん]]で死去。{{没年齢|1914|11|25|1999|3|8}}。亡くなる数日前に友人に語った最期の言葉は、「死んだら、マリリンのところへいける」だった<ref>{{Cite web|url=http://abcnews.go.com/Sports/story?id=100802&page=1|title=Report: DiMaggio's Final Words|publisher=[[ABCニュース (アメリカ)|ABC News.go.com]]|accessdate=2013-12-24}}</ref>。
 
 
ディマジオとモンローが復縁しようとしていた時期、1961年のヤンキースの[[スプリングトレーニング]]中に両者が[[署名|サイン]]を入れた[[ボール (野球)#用具としてのボール|ボール]]が[[2006年]]5月5日に[[ヘリテージ・オークション]]にて191,200[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]で販売された。明かされたところによると、購入者は「ディマジオとモンローの両方の大ファンである[[アメリカ合衆国東海岸|東海岸]]の匿名の収集家」だという<ref>{{Cite web|url=http://sports.espn.go.com/mlb/news/story?id=2437952|title=Ball signed by DiMaggio and Monroe breaks bank|publisher=[[ESPN|ESPN.com]]|language=英語|accessdate=2014-03-07}}</ref>。最も高額で取引された野球のサインとして[[ギネス世界記録]]に認定された<ref>{{Cite web|url=http://www.guinnessworldrecords.com/world-records/4000/most-expensive-baseball-autographed-sold-at-auction|title=Most expensive baseball autographed sold at auction|publisher=Guinness World Records|language=英語|accessdate=2014-03-06}}</ref>。
 
 
== 詳細情報 ==
 
=== 年度別打撃成績 ===
 
{| {{年度別打撃成績|リーグ=メジャーリーグベースボール}}
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1936}}
 
|rowspan="13" style="text-align: center;"|[[ニューヨーク・ヤンキース|NYY]]
 
|138||668||637||132||206||44||'''15'''||29||367||125||4||0||3||-||24||-||4||39||-||.323||.352||.576||.928
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1937}}
 
|151||692||621||151||215||35||15||'''46'''||'''418'''||167||3||0||2||-||64||-||5||37||-||.346||.412||.673||1.085
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1938}}
 
|145||660||599||129||194||32||13||32||348||140||6||1||0||-||59||-||2||21||-||.324||.386||.581||.967
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1939}}
 
|120||524||462||108||176||32||6||30||310||126||3||0||6||-||52||-||4||20||11||'''.381'''||.448||.671||1.119
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1940}}
 
|132||572||508||93||179||28||9||31||318||133||1||2||0||-||61||-||3||30||16||'''.352'''||.425||.626||1.051
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1941}}
 
|139||622||541||122||193||43||11||30||'''348'''||'''125'''||4||2||0||-||76||-||4||13||6||.357||.440||.643||1.083
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1942}}
 
|154||680||610||123||186||29||13||21||304||114||4||2||0||-||68||-||2||36||9||.305||.376||.498||.874
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1946}}
 
|132||567||503||81||146||20||8||25||257||95||1||0||3||-||59||-||2||24||13||.290||.367||.511||.878
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1947}}
 
||141||601||534||97||168||31||10||20||279||97||3||0||0||-||64||-||3||32||14||.315||.391||.522||.913
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1948}}
 
|153||669||594||110||190||26||11||'''39'''||'''355'''||'''155'''||1||1||0||-||67||-||'''8'''||30||20||.320||.396||.598||.994
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1949}}
 
|76||329||272||58||94||14||6||14||162||67||0||1||0||-||55||-||2||18||11||.346||.459||.596||1.055
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1950}}
 
|139||606||525||114||158||33||10||32||307||122||0||0||0||-||80||-||1||33||14||.301||.394||.585||.979
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1951}}
 
|116||482||415||72||109||22||4||12||175||71||0||0||0||-||61||-||6||36||16||.263||.365||.422||.787
 
|-
 
!colspan="2"|通算:13年
 
|1736||7671||6821||1390||2214||389||131||361||3948||1537||30||9||14||-||790||-||46||369||*130||.325||.398||.579||.977
 
|}
 
* 「-」は公式記録なし。
 
* 通算成績の「*数字」は、不明年度がある事を示す。
 
* '''太字'''はリーグ1位。
 
* 1943年 - 1945年は試合出場なし。
 
 
=== 獲得タイトル・記録 ===
 
* [[最優秀選手 (MLB)|MVP]]:3回([[1939年]]、[[1941年]]、[[1947年]])
 
* [[首位打者 (MLB)|首位打者]]:2回(1939年、[[1940年]])
 
* [[最多本塁打 (MLB)|本塁打王]]:2回([[1937年]]、[[1948年]])
 
* [[最多打点 (MLB)|打点王]]:2回(1941年、1948年)
 
* 56試合連続安打(1941年5月15日 - 7月16日)
 
 
== 出典 ==
 
{{Reflist}}
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[ディマジオ (小惑星)]]
 
*[[ミセス・ロビンソン]] - [[サイモン&ガーファンクル]]のヒット・シングル。[[1968年]]当時のアメリカの国民的英雄が小粒になっていたことに関し「ジョー・ディマジオ、君はどこに行ってしまったんだい?」と比喩していた。
 
 
== 外部リンク ==
 
{{Commonscat|Joe DiMaggio}}
 
*{{bbhof|dimaggio-joe}}
 
{{MLBstats |mlb= |espn= |br=d/dimagjo01 |fangraphs=1003311 |cube=joe-dimaggio}}
 
 
{{アメリカ野球殿堂表彰者 (中堅手)}}
 
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{{アメリカンリーグMVP}}
 
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{{アメリカンリーグ本塁打王}}
 
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{{Navboxes|title=ニューヨーク・ヤンキース ワールドシリーズ ロースター (9回)
 
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[[Category:アメリカ合衆国の野球選手]]
 
[[Category:アメリカ合衆国の野球選手]]

2019/5/2/ (木) 09:29時点における最新版

ジョー・ディマジオ.jpg

ジョセフ・ポール・ディマジオJoseph Paul DiMaggio, 1914年11月25日 - 1999年3月8日

アメリカのプロ野球選手。本名 Joseph Paul DiMaggio。父はイタリアからの移民。 1936~51年大リーグのニューヨーク・ヤンキーズの外野手として活躍,首位打者 (1939,1940) ,本塁打王 (1937,1948) ,打点王 (1941,1948) を各2回獲得,アメリカンリーグの最優秀選手 (1939,1941,1947) にも3回選ばれた。

1954年女優のマリリン・モンローと結婚,翌 1955年離婚。不滅の記録といわれる 56試合連続安打を 1941年にマークし,終身打率3割2分5厘,本塁打 361本,打点 1537の成績を残し,1955年野球殿堂入りを果たした。



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