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{{政治家
 
|人名 = 初代ラッセル伯爵ジョン・ラッセル
 
|各国語表記 = {{lang|en|John Russell, 1st Earl Russell}}
 
|国略称 ={{GBR3}}
 
|画像 = Lord John Russell.jpg
 
|画像サイズ = 180px
 
|画像説明 = 初代ラッセル伯({{仮リンク|ジョン・ジェイベズ・エドウィン・メイオール|en|John Jabez Edwin Mayall}}撮影)
 
|生年月日 = [[1792年]][[8月18日]]
 
|出生地 = {{GBR1606}}、[[ロンドン]]、[[メイフェア]]
 
|没年月日 = [[1878年]][[5月28日]] (満85歳没)
 
|死没地 = {{GBR3}}、[[サリー (イングランド)|サリー]]州、[[リッチモンド公園]]、[[ペンブローク・ロッジ]]
 
|出身校 = [[エディンバラ大学]]
 
|所属政党 = [[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]→[[自由党 (イギリス)|自由党]]
 
|称号・勲章 = [[ガーター勲章]]勲爵士 (KG)<br />[[聖マイケル・聖ジョージ勲章]]一等勲爵士 (GCMG)<br />[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]] (PC)
 
|親族(政治家) = [[ジョン・ラッセル (第4代ベッドフォード公爵)|第4代ベッドフォード公爵]] (曽祖父)<br />[[ジョン・ラッセル (第6代ベッドフォード公爵)|第6代ベッドフォード公爵]] (父)<br />[[ギルバート・エリオット=マーレイ=キニンマウンド (第2代ミントー伯爵)|第2代ミントー伯爵]] (義父)
 
|配偶者 = (1) アデレード・リスター<br />(2) レディ・フランセス・エリオット
 
|サイン = John Russell, 1st Earl Russell Signature.svg
 
|国旗 = UK
 
|職名 = [[イギリスの首相|首相]]
 
|就任日 = [[1846年]][[7月6日]] - [[1852年]][[2月20日]]<br/>[[1865年]][[10月30日]]
 
|退任日 = [[1866年]][[6月26日]]<ref name="秦(2001)509">[[#秦(2001)|秦(2001)]] p.509</ref>
 
|元首職 = [[イギリスの君主|女王]]
 
|元首 = [[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]
 
|国旗2 = UK
 
|職名2 = [[外務・英連邦大臣|外務大臣]]
 
|内閣2 = [[ジョージ・ハミルトン=ゴードン (第4代アバディーン伯)|アバディーン伯爵]]内閣<br/>第二次[[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン子爵]]内閣
 
|就任日2 = [[1852年]][[12月28日]] - [[1853年]][[2月21日]]<br/>[[1859年]][[6月18日]]
 
|退任日2 = [[1865年]][[10月30日]]<ref name="秦(2001)509"/>
 
|国旗3 = UK
 
|職名3 = [[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員
 
|就任日3 = [[1861年]]
 
|退任日3 = [[1878年]]<ref name="HANSARD">[http://hansard.millbanksystems.com/people/lord-john-russell/ HANSARD 1803–2005]</ref>
 
|国旗4 =UK
 
|職名4 = [[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員
 
|選挙区4 = {{仮リンク|タヴィストック選挙区|en|Tavistock (UK Parliament constituency)}}<br/>{{仮リンク|タヴィストック選挙区|en|Tavistock (UK Parliament constituency)}}<br/>{{仮リンク|ハンティンドンシャー選挙区|en|Huntingdonshire (UK Parliament constituency)}}<br/>{{仮リンク|バンドン選挙区|en|Bandon (UK Parliament constituency)}}<br/>{{仮リンク|タヴィストック選挙区|en|Tavistock (UK Parliament constituency)}}<br/>{{仮リンク|デヴォンシャー選挙区|en|Devonshire (UK Parliament constituency)}}<br/>{{仮リンク|サウス・デヴォン選挙区|en|South Devon (UK Parliament constituency)}}<br/>{{仮リンク|ストラウド選挙区|en|Stroud (UK Parliament constituency)}}<br/>{{仮リンク|シティ・オブ・ロンドン選挙区|en|City of London (UK Parliament constituency)}}<ref name="HANSARD"/>
 
|就任日4 = [[1813年]][[5月4日]] - [[1817年]][[3月12日]]<br/>[[1818年]][[6月18日]] - [[1820年]][[12月31日]]<br/>[[1820年]][[3月16日]] - [[1826年]][[6月20日]]<br/>[[1826年]][[12月19日]] - [[1830年]][[8月7日]]<br/>[[1830年]][[11月27日]] - [[1831年]][[7月13日]]<br/>[[1831年]][[5月10日]] - [[1832年]][[12月10日]]<br/>[[1832年]][[12月10日]] - [[1835年]][[1月6日]]<br/>[[1835年]][[5月19日]] - [[1841年]][[6月29日]]<br/>[[1841年]][[6月29日]]
 
|退任日4 = [[1861年]][[7月27日]]<ref name="HANSARD"/>
 
}}
 
初代[[ラッセル伯爵]]'''ジョン・ラッセル'''({{lang|en|John Russell, 1st Earl Russell}}、[[1792年]][[8月18日]] - [[1878年]][[5月28日]])は、[[イギリス]]の貴族、政治家。[[ガーター勲章]]勲爵士(KG)、[[聖マイケル・聖ジョージ勲章]]ナイト・グランド・クロス勲爵士(GCMG)、[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]](PC)。
 
  
[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]([[自由党 (イギリス)|自由党]]の前身)の改革派として名を馳せ、[[ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵)|メルバーン子爵]]退任後にホイッグ党首となり、1846年に[[イギリスの首相|首相]]となったが、[[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン子爵]]と対立を深め、党内が分裂状態となり、1852年2月に総辞職した。
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初代[[ラッセル伯爵]]'''ジョン・ラッセル'''{{lang|en|John Russell, 1st Earl Russell}}、[[1792年]][[8月18日]] - [[1878年]][[5月28日]]
  
ついで1852年12月成立のピール派とホイッグ党の連立政権[[ジョージ・ハミルトン=ゴードン (第4代アバディーン伯)|アバディーン伯爵]]内閣に[[外務・英連邦大臣|外務大臣]]として入閣。[[1855年]]2月にパーマストン子爵が首相となるとホイッグ党首の座も彼に譲る。ホイッグ党が野党だった頃の1859年6月にパーマストンと和解して[[自由党 (イギリス)|自由党]]結成と保守党政権打倒に貢献した。第二次パーマストン内閣に外務大臣として入閣し、パーマストンが1865年に死去すると代わって首相・自由党党首となったが、翌1866年に選挙法改正に失敗して総辞職した。1867年に自由党党首の座を[[ウィリアム・グラッドストン|グラッドストン]]に譲った。
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イギリスの政治家。6代ベッドフォード公の第3子。[[ホイッグ党]]の名門貴族の家に生れ,1813年下院に入り,ホイッグ党改革派に所属。 30年 C.グレー内閣軍事支払総監。第1次選挙法改正法案の成立に貢献。 35~39年メルバーン内閣内相,39~41年陸相および植民相。 R.ピール内閣崩壊後,46~52年首相。在任中各種の自由主義的改革を実現し,48年には[[チャーティスト運動]]の高揚に対処。 52~53年アバディーン連立内閣外相,53~54年無任所相,54~55年枢密院議長を経て,59~65年パーマストン内閣外相。 61年伯爵。 65年首相となったが,選挙法改正法案が不成立に終り,66年辞任した。
 
 
[[1861年]]までは[[卿]]の[[儀礼称号]]を付けて「ジョン・ラッセル卿」と称されていた<ref group="註釈">1861年の叙爵前に卿(Lord)を称していたのは公爵の余子だったためで、法的身分は平民であった。この儀礼称号は姓名または名に付くので「ジョン・ラッセル卿(Lord John Russell)」や「ジョン卿(Lord John)」が正しく、「ラッセル卿」は誤りである。一方叙爵して貴族となった後は「ラッセル伯爵(The Earl Russell)」あるいは略して「ラッセル卿(Lord Russell)」となる。イギリスにおいて爵位は必ず爵位名(本記事の人物の場合姓に由来する「ラッセル」)とセットで与えられるものであるため、「ジョン・ラッセル伯爵」や「ジョン・ラッセル卿」とするのは誤りである。妻についても同様で、夫の叙爵前は「ジョン・ラッセル卿夫人(Lady John Russell)」、叙爵後は「ラッセル伯爵夫人(Countess Russell)」となる。</ref>。哲学者の第3代ラッセル伯爵[[バートランド・ラッセル]]は孫にあたる。
 
 
 
== 経歴 ==
 
=== 生い立ち ===
 
第6代[[ベッドフォード公爵]][[ジョン・ラッセル (第6代ベッドフォード公爵)|ジョン・ラッセル]]と最初の妻ジョージアナ・ビングの三男として生まれた<ref name="世界伝記大事典(1981,11)453">[[#世界伝記大事典(1981,11)|世界伝記大事典(1981)世界編11巻]] p.453</ref>。[[イングランド]]有数の富豪であり、[[17世紀]]以来[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]の政治家を輩出してきた[[ラッセル家]]出身であったが、三男の彼には一族の所領を継承する見込みはなかった。
 
 
 
[[パブリックスクール]]の[[ウェストミンスター・スクール]]を経て、[[エディンバラ大学]](3年在籍したが単位が取れなかった)で学んだ<ref>[[#Prest(1972)|Prest(1972)]] p.11-13</ref><ref name="Doyle">[[#Doyle(1886)|Doyle(1886)]] p.185-186</ref><ref name="Burke">[[#Burke(1869)|Burke(1869)]] p.966</ref>。ラッセルは[[オックスフォード大学]]にも[[ケンブリッジ大学]]にも在籍したことがない、イギリス史においては珍しい経歴を有する首相の1人である。
 
 
 
=== 首相就任まで ===
 
1813年、[[デヴォン]]州の{{仮リンク|タヴィストック選挙区|en|Tavistock (UK Parliament constituency)}}から初当選。1817年の[[補欠選挙]]で落選するも{{仮リンク|1818年イギリス総選挙|en|United Kingdom general election, 1818|label=1818年の総選挙}}で返り咲き、以後叙爵される1861年まで40年以上にわたって選挙区を替えつつ[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]([[自由党 (イギリス)|自由党]])の[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員を務めた<ref>{{Cite encyclopedia |first= David R. |last= Fisher |authorlink= |editor-first= R. G. |editor-last= Thorne |encyclopedia= [[:en:The History of Parliament|The History of Parliament: the House of Commons 1790-1820]] |title= RUSSELL, Lord John II (1792-1878). |url= http://www.historyofparliamentonline.org/volume/1790-1820/member/russell-john-ii-1792-1878 |accessdate=2013-07-20 |edition= |year= 1986 |publisher= Secker & Warburg |volume= |location= [[ロンドン|London]] }}</ref><ref>{{Cite encyclopedia |first= David R. |last= Fisher |authorlink= |editor-first= David R. |editor-last= Fisher |encyclopedia= [[:en:The History of Parliament|The History of Parliament: the House of Commons 1820-1832]] |title= RUSSELL, Lord John (1792-1878). |url= http://www.historyofparliamentonline.org/volume/1820-1832/member/russell-lord-john-1792-1878 |accessdate=2013-07-20 |edition= |year= 2009 |publisher= [[ケンブリッジ大学出版局|Cambridge University Press]] |volume= |location= [[ケンブリッジ|Cambridge]] }}</ref>。
 
 
 
ラッセルは改革派の政治家で、1820年代から議会改革や信仰による差別を撤廃する運動に尽力した<ref name="世界伝記大事典(1981,11)453">[[#世界伝記大事典(1981,11)|世界伝記大事典(1981)世界編11巻]] p.453</ref>。
 
 
 
1830年に発足した[[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)|グレイ伯爵]]内閣では{{仮リンク|陸軍支払長官 (イギリス)|label=陸軍支払長官|en|Paymaster of the Forces}}となり<ref name="Doyle" />、当初[[閣外大臣]]だったが1831年から閣僚となった。1832年の[[第一次選挙法改正]]では法案を起草した四人委員会(他に[[ジョン・ラムトン (初代ダラム伯爵)|ダラム男爵]]、[[ジョン・ポンソンビー (第4代ベスボロー伯爵)|ダンカノン子爵]]、[[ジェームズ・グラハム (第2代准男爵)|サー・ジェームズ・グラハム准男爵]])の一人となった<ref name="横越(1960)111">[[#横越(1960)|横越(1960)]] p.111</ref>。法案の庶民院提出と説明もラッセルが行った<ref name="横越(1960)117">[[#横越(1960)|横越(1960)]] p.117</ref>。
 
 
 
だがこの改革への熱意が、国王[[ウィリアム4世 (イギリス王)|ウィリアム4世]]に疎まれ、1834年11月に首相[[ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵)|メルバーン子爵]](グレイ伯爵の後任)がラッセルを[[庶民院院内総務]]に推挙した際には国王が強く反対し、これが{{仮リンク|第一次メルバーン子爵内閣|en|Whig Government 1830–1834#The Viscount Melbourne’s Cabinet, July 1834 – November 1834}}政権の総辞職につながった<ref name="君塚(1999)63">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.63</ref>。
 
 
 
[[保守党 (イギリス)|保守党]]政権を挟んで1835年に成立した第二次[[ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵)|メルバーン子爵]]内閣では[[内務大臣 (イギリス)|内務大臣]]兼[[庶民院院内総務]]として入閣した<ref>{{LondonGazette |issue = 19261 |date = 18 April 1835 |startpage = 769 |accessdate = 2013-07-20 }}</ref>。1839年に[[陸軍・植民地大臣]]に転じた<ref name="Doyle" />。しかし1841年の{{仮リンク|1841年イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, 1841}}にホイッグ党が敗北したことで、メルバーン子爵政権は議会で敗北して総辞職することになった。代わって[[保守党 (イギリス)|保守党]]の[[ロバート・ピール]]の政権が誕生する<ref name="神川(2011)100">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.100</ref>。
 
 
 
その翌年の[[1842年]]に党首メルバーン子爵が病に倒れた。これを受けて庶民院ホイッグ党はラッセルが、貴族院ホイッグ党は[[ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第3代ランズダウン侯爵)|ランズダウン侯爵]]が指導するようになった<ref name="君塚(1999)75">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.75</ref>。
 
 
 
1845年にアイルランドで[[ジャガイモ飢饉]]があると[[穀物法]]を廃止して穀物自由貿易化を求める機運が高まり、ピール保守党政権が自由貿易派と保護貿易派に分裂した。この情勢を見たラッセルは、同年11月に保守党政権に揺さぶりをかける目的でホイッグ党内の合意形成を得ることなく、独断で穀物法廃止を党の方針として発表した。だがホイッグ党内にも保護貿易派の地主議員が多く、彼らはラッセルの独断に強く反発した。同年12月にピールが[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]に総辞職を申し出、ラッセルに組閣の大命があったが、ホイッグ地主たちの協力を得られなかったため、ラッセルは組閣に失敗した<ref>[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.119-121</ref>。
 
 
 
首相続投することになったピールは、1846年5月にラッセルらホイッグ党自由貿易主義者の協力を得て穀物法を廃止したが、これによって保守党は分裂した。ピールに火中の栗を拾わせたラッセルは、同月のうちにピール内閣の倒閣に成功した。ラッセルが組閣の大命を受け、ホイッグ党政権が誕生した<ref>[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.124-129</ref>。
 
 
 
=== 第一次内閣 ===
 
こうして発足した{{仮リンク|第一次ラッセル内閣|en|First Russell ministry}}(1846年 - 1852年)だが、ホイッグ党は議会の多数派ではないから、[[ピール派]](自由貿易を奉じて保守党を離れた議員たち)との協力が不可欠であった。ピール派は穀物法を復活させないために保守党政権を阻止するという立場であったものの、経済思想以外は保守的であったので、彼らとの連携は難しかった<ref>[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.119-121</ref>。
 
 
 
それでも[[工場法]]の1847年改正({{interlang|en|Factories Act 1847}}; 通称[[十時間労働法]])や1848年[[公衆衛生法]]({{interlang|en| Public Health Act 1848}})の制定、1850年には[[ニューサウスウェールズ州]]の自治に関する[[オーストラリア植民地政府法]]({{interlang|en|Australian Colonies Government Act}})の制定を行なっている<ref name="世界伝記大事典(1981,11)453">[[#世界伝記大事典(1981,11)|世界伝記大事典(1981)世界編11巻]] p.453</ref>。
 
 
 
1850年秋にローマ教皇[[ピウス9世 (ローマ教皇)|ピウス9世]]が{{仮リンク|ウェストミンスター大司教|en|Archbishop of Westminster}}職を新設した際には、[[イングランド国教会]]を害するものと激しく反発し、[[聖職者称号法]]({{interlang|en|Ecclesiastical Titles Act 1851}})によってカトリックが国教会の聖職者と同じ称号を持つことを禁止した<ref name="世界伝記大事典(1981,11)453">[[#世界伝記大事典(1981,11)|世界伝記大事典(1981)世界編11巻]] p.453</ref>。これによりラッセル政権とカトリックのアイルランド議員との連携が断ち切られ、1851年2月20日の庶民院の投票で敗北を喫し、女王に総辞職を申し出ることになったが、[[エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)|ダービー伯爵]]率いる保守党が組閣に失敗したため続投できた<ref>[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.347-349</ref>。
 
 
 
1851年12月にフランスで起こった大統領[[ナポレオン3世|ルイ・ナポレオン]](ナポレオン3世)のクーデタに際しては、ラッセルは「女王陛下の政府は中立の立場をとる」と声明したが、[[外務・英連邦大臣|外務大臣]][[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン子爵]]が独断でルイ・ナポレオンのクーデタを支持した。これに激怒したヴィクトリア女王は「これでは女王の政府の公正と威信が世界中から疑われる」とラッセルを叱責した<ref name="君塚(2006)156">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.155-156</ref>。パーマストンはこれまでも独断的な外交を多くしてきたが、これまでラッセルは彼の国民人気と党内右派の支持を配慮して目をつぶってきた。しかし今回は許容せず、パーマストンを外相から解任した<ref>[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.145-146</ref>。
 
 
 
これ以降ホイッグ党は自由党結成までラッセル派とパーマストン派という二大派閥に引き裂かれることとなった。両派は第三会派や世論を取り込もうと、それぞれ別個のアピールをするようになった。ラッセル派は主に議会改革、パーマストン派は主に砲艦外交や強硬外交を主張した<ref name="ブレイク(1993)319">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.319</ref>。
 
 
 
パーマストンを解任した後、ラッセルは、クーデタによって独裁権力を手にしたフランスのルイ・ナポレオンが、伯父の仇をとろうとイギリスに上陸作戦を決行するという不安に駆られるようになり、それに対抗するため1852年2月に会期が始まった議会でイングランド南東岸に民兵組織を作る法案を提出した<ref name="君塚(2006)158">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.158</ref>。ところがパーマストンがラッセル内閣倒閣を狙って、その法案の修正法案を提出した。しかも保守党庶民院院内総務[[ベンジャミン・ディズレーリ]]がパーマストンに協力することを決定したため、修正法案はパーマストン派と保守党の賛成多数で可決された。これによりラッセル内閣は総辞職を余儀なくされた<ref name="ブレイク(1993)362">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.362</ref>。
 
{{-}}
 
=== 再度首相になるまで ===
 
[[File:John Russell, 1st Earl Russell by Sir Francis Grant detail.jpg|180px|thumb|1853年のジョン・ラッセル卿を描いた絵画({{仮リンク|フランシス・グラント (画家)|label=フランシス・グラント|en|Francis Grant (artist)}}画)]]
 
1852年2月のラッセル内閣崩壊後、ダービー伯爵保守党政権が誕生するもホイッグ党ラッセル派、ピール派、急進派の連携で同年12月には倒閣に成功した<ref name="君塚(2006)170">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.170</ref>。
 
 
 
しかしラッセルとパーマストンの険悪な関係は続き、両者ともお互いにその下に就くことを拒否したため、ホイッグ党首班の内閣を作るのは無理な情勢であった。女王は12月末にピール派党首[[ジョージ・ハミルトン=ゴードン (第4代アバディーン伯)|アバディーン伯爵]]に組閣の大命を与え、ラッセルとパーマストンはその閣僚として入閣することになった<ref name="神川(2011)152">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.152</ref>。ラッセルは外務大臣<ref>{{LondonGazette |issue = 21396 |date = 28 December 1852 |startpage = 3931 |accessdate = 2013-07-21 }}</ref>兼[[庶民院院内総務]]<ref name="君塚(1999)121">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.121</ref>として入閣している。
 
 
 
この内閣でラッセルは労働者階級にも選挙権を拡大させる選挙法改正を目指し、それに集中するため外相の職位は1853年2月に辞した。[[東方問題]]が緊迫化してきている11月に選挙法改正案を作成して閣議に提出したが、内相パーマストンが強く反対した。激しい閣内論争の末、1854年2月にラッセルは穏和化された選挙法改正法案を議会に提出したが、ロシアとの開戦が迫る国際情勢の中でアバディーンは選挙法改正法案の延期を決定した。そしてイギリスは[[クリミア戦争]]に突入していった<ref>[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.121-133</ref>。
 
 
 
自分の入閣の最大の目標を退けられたラッセルは、首相の地位を欲するようになった。アバディーンは組閣時にラッセルに次の首相の座を任せると密約していたが、1年以上たっても未だ首相の地位を譲られる気配がないことに不満を抱いたラッセルはアバディーンを失脚させようとした。その計略は失敗に終わったが、アバディーンにごり押しして庶民院議員が任命された前例がない枢密院議長に自分を任命させた。この強引な就任によりラッセルは逆にホイッグ党内の大半の支持を失った<ref>[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.133-134</ref>。それが尾を引いて1855年1月にアバディーンが辞職した際、組閣の大命を受けたにも関わらず組閣に失敗した。結局パーマストンが首相に就任することとなった<ref name="君塚(1999)139">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.139</ref>。
 
 
 
その後もパーマストンとの対立は続き、第一次パーマストン内閣には入閣しなかったが、1855年3月から3か月にわたって[[オーストリア帝国|オーストリア]]・[[ウィーン]]で開催されることになったクリミア戦争の和平交渉会議にイギリス代表として出席することを了承した。だがいまだセヴァストポリ要塞が陥落していなかったため、ロシアが強硬姿勢を示し会議は決裂。これによりラッセルの権威は低下し、パーマストンの党内の優位が確立された<ref>[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.185-196</ref>。
 
 
 
1858年に成立したダービー伯爵保守党政権打倒のために1859年6月にパーマストンと和解し、ピール派や急進派も糾合して[[自由党 (イギリス)|自由党]]を結成した<ref name="君塚(2006)222">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.222</ref>。同月に成立した{{仮リンク|第二次パーマストン子爵内閣|en|Second Palmerston Ministry}}では外務大臣を務め<ref>{{LondonGazette |issue = 22276 |date = 18 June 1859 |startpage = 2401 |accessdate = 2013-07-21 }}</ref>、在任中の1861年に[[連合王国貴族]]「アンバレー子爵」および「[[ラッセル伯爵]]」に叙爵し<ref>{{LondonGazette |issue = 22534 |date = 30 July 1861 |startpage = 3193 |accessdate = 2013-07-21 }}</ref>、庶民院議員から[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員に転じた<ref name="HANSARD"/>。外務大臣としては[[イタリア統一運動]]を支持したが、パーマストンに反対され介入できなかった。また[[生麦事件]]に端を発した日本の[[薩摩藩]]との武力衝突([[薩英戦争]])では、武力行使に積極的な役割を演じた。[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争#第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争|第二次シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争]]をめぐっては1864年4月から6月にかけてロンドン会議を主催し、[[デンマーク]]と[[ドイツ]]([[プロイセン王国|プロイセン]]・[[オーストリア帝国|オーストリア]])の講和を斡旋しようとしたが、ラッセルもパーマストンも親デンマーク的態度を取り過ぎたため会議は決裂。以降イギリスはこの問題に不介入方針をとることになった<ref>[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.247-256</ref>。
 
 
 
=== 第二次内閣 ===
 
1865年10月に首相パーマストンが死去し、代わって首相・自由党党首となった<ref name="神川(2011)207-208">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.207-208</ref>。パーマストンは選挙権拡大に慎重だったが、ラッセルは前向きだったため、これを機に選挙法改正が動き出した<ref name="横越(1960)345">[[#横越(1960)|横越(1960)]] p.345</ref>。
 
 
 
1866年3月、パーマストンに代わって[[庶民院院内総務]]となった[[ウィリアム・グラッドストン]]が庶民院に選挙権改正法案を提出したが、旧パーマストン派をはじめとして自由党内からも強い反発を受けた。1866年6月には法案の修正案が僅差で可決された。党分裂を恐れたラッセルは解散総選挙を避けて総辞職した<ref>[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.210-216</ref>。
 
 
 
[[第二次選挙法改正]]は続くダービー伯爵政権でディズレーリの主導により達成されることになる<ref>[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.226-232</ref>。
 
{{-}}
 
=== 退任後 ===
 
[[File:John Russell, Vanity Fair, 1869-06-05.jpg|180px|thumb|1869年6月5日の『[[バニティ・フェア (イギリスの雑誌)|バニティ・フェア]]』誌のラッセル伯爵の戯画。]]
 
[[1867年]]12月、76歳の高齢を理由に党首職をグラッドストンに譲った<ref name="ブレイク(1993)578">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.578</ref>。党首退任後は文筆を主とするようになった<ref name="世界伝記大事典(1981,11)453">[[#世界伝記大事典(1981,11)|世界伝記大事典(1981)世界編11巻]] p.453</ref>。
 
 
 
1868年11月の総選挙で自由党が大勝し、12月に[[第一次グラッドストン内閣]]が成立した。グラッドストンは「目立ちたがり屋」のラッセルを封じ込めようと無任所大臣として入閣することを求めたが、ラッセルは政権批判が出来なくなるのを嫌がり、これを拒否した<ref name="君塚(1999)163">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.163</ref>。その後ラッセルは貴族院議員として法案審議に携わる中で1869年の一代貴族法案、1872年の{{仮リンク|アラバマ号事件|en|Alabama Claims}}、[[秘密投票]]制度の導入などをめぐってグラッドストン政権批判を行い、党内を動揺させた<ref name="君塚(1999)164">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.164</ref>。
 
 
 
1878年に死去、息子のジョンに先立たれていたため孫の{{仮リンク|フランシス・ラッセル (第2代ラッセル伯爵)|label=フランシス|en|Frank Russell, 2nd Earl Russell}}が爵位を継いだ<ref name="Doyle" />。
 
{{-}}
 
 
 
== 家族 ==
 
[[File:Lady John Russell.png|thumb|アデレード・ラッセル(旧姓リスター)]]
 
ラッセルの最初の妻であるアデレードとは1835年4月11日に結婚し、二女をもうけた<ref name="Doyle" /><ref name="Burke" />。
 
* ジョージアナ・アデレード・ラッセル (1836年 - 1922年)
 
* ヴィクトリア・ラッセル (1838年 - 1880年)
 
アデレードと1838年に死別すると、1841年7月20日にレディ・フランセス・アンナ・マリア・エリオット=マーレイ=キニンマウンドと再婚した。彼女は第2代[[ミントー伯爵]][[ギルバート・エリオット=マーレイ=キニンマウンド (第2代ミントー伯爵)|ギルバート・エリオット=マーレイ=キニンマウンド]]の娘で、間に三男一女をもうけた<ref name="Doyle" /><ref name="Burke" />。
 
* [[ジョン・ラッセル (1842-1876)|アンバレー子爵ジョン・ラッセル]] (1842年 - 1876年)
 
* [[オナラブル]]・ジョージ・ギルバート・ウィリアム・ラッセル (1848年 - 1933年)
 
* オナラブル・フランシス・アルバート・ロロ・ラッセル (1849年 - 1914年)
 
* メアリ・アガサ・ラッセル (1853年 - 1933年)
 
ラッセル伯爵夫人フランセスは1898年に死去した。
 
{{-}}
 
== 著作 ==
 
1853年から1856年にかけ、ラッセルは8巻以上になる[[トマス・ムーア]]の回顧録を編集し出版した<ref>http://www.archive.org/details/memoirsjournalan01mooruoft</ref><ref>http://www.archive.org/details/memoirsjournalan08mooruoft</ref>。
 
 
 
== 栄典 ==
 
1830年に[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]]に列せられ<ref>{{LondonGazette |issue = 18748 |date = 23 November 1830 |startpage = 2449 |accessdate = 2013-07-20 }}</ref>、1862年に[[ガーター勲章]]<ref>{{LondonGazette |issue = 22628 |date = 23 May 1862 |startpage = 2672 |accessdate = 2013-07-21 }}</ref>、1869年に[[聖マイケル・聖ジョージ勲章]]ナイト・グランド・クロス<ref>{{LondonGazette |issue = 23512 |date = 1 July 1869 |startpage = 3750 |accessdate = 2013-07-21 }}</ref>を受勲した。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
=== 註釈 ===
 
{{Reflist|group=註釈}}
 
=== 出典 ===
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* {{Cite book|和書|author=[[神川信彦]]|editor=[[君塚直隆]]編|date=2011年(平成23年)|title=グラッドストン 政治における使命感|publisher=[[吉田書店]]|isbn=978-4905497028|ref=神川(2011)}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[君塚直隆]]|date=1999年(平成11年)|title=イギリス二大政党制への道 後継首相の決定と「長老政治家」 |publisher=[[有斐閣]]|isbn=978-4641049697|ref=君塚(1999)}}
 
* {{Cite book|和書|author=君塚直隆|date=2006年(平成18年)|title=パクス・ブリタニカのイギリス外交 パーマストンと会議外交の時代|publisher=[[有斐閣]]|isbn=978-4641173224|ref=君塚(2006)}}
 
* {{Cite book|和書|date=2001年(平成13年)|title=世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000|editor=[[秦郁彦]]編|publisher=[[東京大学出版会]]|isbn=978-4130301220|ref=秦(2001)}}
 
* {{Cite book|和書|author={{仮リンク|ロバート・ブレイク (ブレイク男爵)|label=ブレイク男爵|en|Robert Blake, Baron Blake}}|translator=谷福丸|editor=瀬尾弘吉監修|date=1993年(平成5年)|title=ディズレイリ|publisher=[[大蔵省印刷局]]|isbn=978-4172820000|ref=ブレイク(1993)}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[横越英一]]|date=1960年(昭和35年)|title=近代政党史研究|publisher=[[勁草書房]]|asin=B000JAPE20|ref=横越(1960)}}
 
* {{Cite book|和書|date=1981年(昭和56年)|title=世界伝記大事典〈世界編 11〉ミーラロ|publisher=[[ほるぷ出版]]|asin=B000J7XCO0|ref=世界伝記大事典(1981,11)}}
 
* {{Cite book|author=John Prest|date=1972|title=Lord John Russell|publisher=University of South Carolina Press|isbn=978-0333133149|ref=Prest(1972)}}
 
* [[File:PD-icon.svg|12px]] {{cite encyclopedia |editor-first= James William Edmund |editor-last= Doyle |editor-link= :en:James William Edmund Doyle |encyclopedia= The Official Baronage of England: Showing the Succession, Dignities, and Offices of Every Peer from 1066 to 1885 |title= RUSSELL. |url = http://archive.org/stream/officialbaronag02doylgoog#page/n206/mode/2up |accessdate = 2013-7-18 |language = 英語 |edition = |year = 1886 |publisher = [[:en:Longmans|Longmans]] |volume = 3 |location = [[ロンドン|London]] |ref= Doyle(1886) }}
 
* [[File:PD-icon.svg|12px]] {{cite encyclopedia |editor-first= Bernard, Sir |editor-last= Burke |editor-link= :en:Bernard Burke |encyclopedia= [[:en:Burke's Peerage|A genealogical and heraldic dictionary of the peerage and baronetage of the British Empire]] |title= RUSSELL. |url= http://www.archive.org/stream/genealogicalhera00inburk#page/966/mode/2up |accessdate= 2013-7-18 |language= 英語 |edition= 31 |year= 1869 |publisher= Harrison |volume=  |location= [[ロンドン|London]] |ref= Burke(1869) }}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[ホイッグ党 (イギリス)]]
 
*[[自由党 (イギリス)]]
 
*[[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* {{Commonscat-inline|John Russell, 1st Earl Russell|初代ラッセル伯爵ジョン・ラッセル}}
 
* {{wikisource author-inline|John Russell|初代ラッセル伯爵ジョン・ラッセル}}
 
* {{wikiquote-inline|en:John Russell, 1st Earl Russell|初代ラッセル伯爵ジョン・ラッセル}}
 
* {{Hansard-contribs | lord-john-russell | Lord John Russell }}
 
* {{UK National Archives ID}} {{en icon}}
 
* [https://www.gov.uk/government/history/past-prime-ministers/lord-john-russell-1st-earl-russell Lord John Russell 1st Earl Russell] - [[ダウニング街10番地]] {{en icon}}
 
* {{NPG name|03900}}
 
* {{Find A Grave|10193|name=John Russell}}
 
 
 
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{{Succession box| title  = {{flagicon|UK}} {{仮リンク|陸軍支払長官 (イギリス)|label=陸軍支払長官|en|Paymaster of the Forces}}| years  = [[1830年]]-[[1834年]]| before ={{仮リンク|ジョン・キャルクラフト (1765-1831)|label=ジョン・キャルクラフト|en|John Calcraft (the younger)}}| after  = {{仮リンク|エドワード・ナッチブル (第9代準男爵)|label=サー・エドワード・ナッチブル准男爵|en|Sir Edward Knatchbull, 9th Baronet}}}}
 
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{{Succession box| title  = {{仮リンク|アバディーン大学学長|en|Rector of the University of Aberdeen}}| years  = [[1863年]]-[[1866年]]| before = {{仮リンク|エドワード・メイトランド (バーケープル卿)|label=バーケープル卿|en|Edward Maitland, Lord Barcaple}}| after  = {{仮リンク|M.E.グラント・ダフ|label=M.E.グラント・ダフ|en|M. E. Grant Duff}}}}
 
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2019/5/2/ (木) 10:07時点における最新版

初代ラッセル伯爵ジョン・ラッセルJohn Russell, 1st Earl Russell1792年8月18日 - 1878年5月28日

イギリスの政治家。6代ベッドフォード公の第3子。ホイッグ党の名門貴族の家に生れ,1813年下院に入り,ホイッグ党改革派に所属。 30年 C.グレー内閣軍事支払総監。第1次選挙法改正法案の成立に貢献。 35~39年メルバーン内閣内相,39~41年陸相および植民相。 R.ピール内閣崩壊後,46~52年首相。在任中各種の自由主義的改革を実現し,48年にはチャーティスト運動の高揚に対処。 52~53年アバディーン連立内閣外相,53~54年無任所相,54~55年枢密院議長を経て,59~65年パーマストン内閣外相。 61年伯爵。 65年首相となったが,選挙法改正法案が不成立に終り,66年辞任した。



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