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{{Infobox プロレスラー
 
| 名前 = ジャンボ鶴田<br />Jumbo Tsuruta
 
| 画像 =
 
| 画像サイズ =
 
| 画像説明 =
 
| リングネーム = '''ジャンボ鶴田'''<br />トミー・ツルタ<br />鶴田 友美
 
| 本名 = 鶴田 友美
 
| ニックネーム = 完全無欠のエース<br />怪物<br />若大将
 
| 身長 = 196cm
 
| 体重 = 127kg(全盛時)
 
| 誕生日 = {{生年月日と年齢|1951|3|25|死去}}
 
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1951|3|25|2000|5|13}}
 
| 出身地 = [[山梨県]][[東山梨郡]][[牧丘町]](現:[[山梨市]])
 
| 所属 = [[全日本プロレス]]
 
| スポーツ歴 = [[アマチュアレスリング|レスリング]]<br />[[バスケットボール]]
 
| トレーナー = [[ジャイアント馬場]]<br />[[ドリー・ファンク・ジュニア]]<br />[[テリー・ファンク]]<br />[[ルー・テーズ]]
 
| デビュー = [[1973年]][[3月24日]]
 
| 引退 = [[1999年]][[3月6日]]
 
}}
 
  
'''ジャンボ 鶴田'''(ジャンボ つるた、[[1951年]][[3月25日]] - [[2000年]][[5月13日]])は、[[日本]]の[[プロレスラー]]。本名および旧リングネーム:'''鶴田 友美'''(つるた ともみ)。[[三冠ヘビー級王座]]の初代王者であり、日本人初の[[AWA世界ヘビー級王座|AWA世界ヘビー級王者]](第30代)。
 
  
== 人物概要 ==
+
'''ジャンボ 鶴田'''(ジャンボ つるた、[[1951年]][[3月25日]] - [[2000年]][[5月13日]]
[[1972年ミュンヘンオリンピック]][[アマチュアレスリング|レスリング]][[グレコローマンスタイル]]最重量級代表を経て[[全日本プロレス]]に入り、[[ジャイアント馬場]]後継の次の時代の大型エースとして期待され順調に成長して[[1980年代]]、トップレスラーとして活躍したが[[B型肝炎]]を発症したことにより第一線を退いた。その後、[[桐蔭横浜大学]]、[[中央大学]]、[[慶應義塾大学]]で非常勤[[講師 (教育)|講師]]を務めるなど教育者としても活躍した。
 
  
[[山梨県]][[東山梨郡]][[牧丘町]](現:[[山梨市]])出身。[[山梨県立日川高等学校]]を経て、[[中央大学]][[法学部]][[政治学|政治学科]]を卒業。血液型O型。ニックネームは「完全無欠のエース」、「怪物」。座右の銘である「人生はチャレンジだ、チャンスは掴め」は、鶴田のプロレスの師匠であるジャイアント馬場から継承したものである。
+
[[日本]]の[[プロレスラー]]。本名および旧リングネーム:'''鶴田 友美'''(つるた ともみ)。[[三冠ヘビー級王座]]の初代王者であり、日本人初の[[AWA世界ヘビー級王座|AWA世界ヘビー級王者]](第30代)。
 
 
[[オリンピック]]出場時の選手名簿には身長196cm、体重110kgと書いてある。
 
 
 
== 来歴 ==
 
=== プロ入りまで ===
 
広大な[[ブドウ]]農園を営む家に生まれる。生まれた時は3000gと普通の大きさであった<ref>2016年の取材では兄の恒良が農園の主人を行っており、農園には『ジャンボ鶴田園』の名がついていることが明らかになった。因みに兄も推定身長190cmと弟に負けず劣らずの高身長である。</ref><ref name="tsurutatsutayaGODMAN">『G SPIRITS Vol.42』(辰巳出版・ISBN 9784777818129)p.40</ref>。
 
生まれた頃は体が小さく、女の子のようだからという理由で「友美」と名付けられた<ref name="rival">『全日本プロレス中継スペシャル』「ジャンボ鶴田と5人のライバル」</ref>。兄の恒良の証言によると、幼少期の鶴田は先輩たちの後に付いてチャンバラごっこなどをして遊んだという。この頃はスポーツなどはせず、家の手伝いをして体を鍛えていた<ref name="tsurutatsutayaMOG">『G SPIRITS Vol.42』(辰巳出版・ISBN 9784777818129)p.41</ref>。荷物を持って坂道を上り下りする作業がアマレスやプロレスで発揮した脚力の源となったとされる。小学生の頃に虫垂炎の手術を経験したが、後の肝炎を除けばこれを除いて大病には縁が無かった。
 
 
 
中学では野球をやっていたが、この頃になると体が大きすぎて履くものに困るようになったため、運動会では運動靴のかわりにゴム草履で走っていた。2年生の夏休みには朝日山部屋に入門。本当は体験入門のつもりであったが新弟子検査に受かってしまったため力士になってしまい、叔父の甲斐錦が慌てて話を付けて新弟子検査を取り消させ、すぐに地元に戻った。そのためか、日本相撲協会には鶴田の記録が残っていない。事情を知らない地元の人からは「相撲がダメで帰って来た」というような目で見られ、この体験が鶴田の心に影を落としたと推測する文献もいくつかみられるが、兄の恒良は「友美もまだ子供でしたからね。本人は何も気にしていなかったですよ」と鶴田の没後に証言している<ref name="tsurutatsutayaMOG"/>。
 
 
 
高校時代はバスの便が悪いこととバスの天井が低くて乗り心地が悪いことから自転車通学をしていた。行きは下りだが帰りはずっと登りであり、しかも道は舗装されていない砂利道であったため、自転車は何台も乗り潰していた。これも鶴田が鍛えられた要因である。中学時代にやっていた野球は受験の影響で目が悪くなったことからボールが目で追えなくなり、それなら大きいボールを扱う方が良いとバスケットボールに転向した<ref name="tsurutatsutayaMOG"/>。プロレスはというとテレビで見ていたため全く知らないわけではなかった。ちょうど高校時代にはBI砲の全盛時代であり、ジャイアント馬場の姿はインプットされた。高校のバスケットボール部は山梨県下では無敗であり、在学時は3年連続でチームはインターハイに出場。自身は1年生の時こそ半年間野球部に在籍していたのでインターハイには出られなかったが、2年生の時は石川県、3年生の時は広島県で開催されたインターハイに連続出場した。3年生の時には山梨県の相撲大会に出場して3位の成績を収めた<ref name="tsurutatsutayaMOGOGO">『G SPIRITS Vol.42』(辰巳出版・ISBN 9784777818129)p.42</ref>。
 
 
 
[[中央大学]][[法学部]]政治学科<ref>[http://obata.misc.hit-u.ac.jp/~hayakawa/talk/talk0.htm 特別対談 ジャンボ鶴田-早川武彦 対談者略歴] </ref>1年生の頃までは、[[バスケットボール]]の選手であった。練馬の中村橋にある親戚の建材店に下宿させてもらい、仕事を手伝う代わりに食事の世話をしてもらった。だが、バスケットボールではプロ選手になれないことや、日本のバスケットボールの実力では、予選に勝ってオリンピックに出場することができないということで、バスケットボール部を退部したということになっている(ちなみにバスケット日本代表はミュンヘンオリンピックもモントリオールオリンピックも出場しており、鶴田の予想は外れた格好となった)<ref name="tsurutatsutayaMOGOGO"/>。
 
 
 
選手層の薄い[[アマチュアレスリング|レスリング]]であればオリンピックに出場しやすいと考え、大学のレスリング部に入部を申し込むが、「一つのスポーツをやりとおすことのできない奴は何をやってもダメ」との理由で一旦は断られる。この時断った側の一人に関川哲夫([[ミスター・ポーゴ]])がいるが、彼の語るところによると鶴田の格闘技への思いは本物だったということで反省しているようである(ミルホンネット「ある極悪レスラーの懺悔」より)。そこで、自衛隊のレスリング道場で練習を始め、わずか1年半足らずで全日本選手権フリー・グレコローマン両種目とも2連覇([[1971年]]、[[1972年]])するほどの選手となった。大学3年次にレスリング部から逆に入部を勧められ、4年次に[[石井庄八]]、[[笹原正三]]、[[池田三男]]、[[渡辺長武]]、[[中田茂男]]ら金メダリストを輩出した名門中央大学レスリング部へ入部した。レスリング日本代表にも選ばれ、当初の目的通り1972年の[[ミュンヘンオリンピック]]に出場する(グレコローマンスタイル100kg以上級)。因みにオリンピックの開催時期は農繁期であったため、牧丘町では鶴田のオリンピック出場を聞いて騒ぎにこそなれ、壮行会をやることなどはなかった。
 
 
 
レスリングでの実績により、[[ジャイアント馬場]]から[[プロレス]]にスカウトされる。プロレスに対する偏見や評価などを考え葛藤したが、1972年9月16日、父親の死をきっかけに自分自身で人生に挑戦しようと思ったことと、大学の監督、先輩、マスコミなどからのアドバイス、日本レスリング界のドン[[八田一朗]]の「プロが栄えればアマも栄える」の言葉に励まされプロレスラー入りを決意した。
 
 
 
=== 全日本プロレス入団 ===
 
大学在籍時の[[1972年]]10月31日、[[全日本プロレス]](以下、全日)への入団表明の際、「僕のようなでっかい体の人間が就職するのには、全日本プロレスが一番適した会社かなぁと思って。尊敬する馬場さんの会社を選びました」と発言。これが'''「全日本プロレスに就職します」'''と報道される。デビュー当初は、本名・'''鶴田友美'''を[[リングネーム]]に用いていた。ニックネームは「若大将」。入団したばかりの頃、馬場から月10万円の小遣いをもらったり、自分の体のサイズに合うスーツを新調してもらったりと、入団以前まで貧乏学生であった鶴田の生活は一変した<ref name="tsurutatsutayaEX">『G SPIRITS Vol.42』(辰巳出版・ISBN 9784777818129)p.7</ref>。元日本テレビプロデューサーの原章は「後で思うと、その頃はあまり肉が付いてなくてヒョロヒョロっとして、ひ弱な青年という感じでしたね(笑)。ただ、背が高かったから、これからトレーニングして大きくなるだろうという予感はありました。今考えると、アマチュアレスラーの身体だったんでしょうね。体重を絞って、肉を付けていなかったのかもしれません」と入団当初の鶴田の印象を語っている<ref name="tsurutatsutayaBLUE">『G SPIRITS Vol.42』(辰巳出版・ISBN 9784777818129)p.32</ref>。
 
 
 
入団後ほどなくして、[[テキサス州]][[アマリロ (テキサス州)|アマリロ]]の[[ザ・ファンクス]]のもとへ修行に行き、[[スタン・ハンセン]]や[[ボブ・バックランド]]とも邂逅。特にハンセンとは気が合ったようで、ハンセンは鶴田を「トミー」の愛称で呼び、鶴田が日本から持ち込んだ[[インスタントラーメン]]を分け合って食べる程の仲だった(ハンセンはその味に感動し、鶴田に黙って勝手に食べていたという話も残っている)<ref name="tsuruta">週刊ゴング別冊号 ジャンボ鶴田追悼号(2000年、[[日本スポーツ出版社]])</ref><ref name="atsuki" />。ザ・ファンクスの父、[[ドリー・ファンク・シニア]]は鶴田を見て「この男はレスラーになるための下地はとっくに出来ている。あとは経験を積むだけだ」と評した。ハンセンは「身体は細いのに自分より何キロも重い[[ベンチプレス]]を上げていた」と当時の鶴田のパワーを語っている。
 
 
 
[[1973年]]3月24日、テキサス州アマリロにてエル・タピアを相手にプロデビュー。2ヶ月後の5月20日には[[ニューメキシコ州]][[アルバカーキ]]にて、[[ドリー・ファンク・ジュニア]]の[[NWA世界ヘビー級王座]]に挑戦するという大抜擢を受ける<ref>{{cite web|url=http://www.wrestling-titles.com/nwa/world/nwa-h-matches/1970s/nwa-h-matches1973.html|title=The Records of NWA World Heavyweight Championship Matches 1973|accessdate=2014-12-29|publisher=Wrestling-Titles.com}}</ref>。その後、[[サイクロン・ネグロ]]や[[ゴードン・ネルソン]]ら実力者との対戦を経て、8月9日にはスタン・ハンセンと組み、当時ザ・ファンクスが保持していた[[インターナショナル・タッグ王座]]に挑戦した<ref>{{cite web|url=http://wrestlingdata.com/index.php?befehl=shows&show=266493|title=Show at Amarillo: Thursday, 1973/08/09|accessdate=2014-12-29|publisher=Wrestlingdata.com}}</ref>。
 
 
 
凱旋帰国後の同年10月6日、[[後楽園ホール]]における[[ムース・モロウスキー]]戦で国内デビュー(フォール勝ち)。3日後の10月9日、[[蔵前国技館]]でのザ・ファンクスとのインターナショナル・タッグ王座戦の馬場のパートナーに選ばれる。この抜擢については試合前に「たかが半年、150試合のアメリカ修行で一体どれだけ成長出来るというんだ。プロはそんなに甘いものじゃない」と全日内外、さらにメディアからも猛批判が上がったが、アメリカに渡り鶴田の成長ぶりをその目で確認していた馬場は「まあまあ、とにかく試合を見て判断してくれ」と自信たっぷりに答えている<ref name="tsuruta" />。
 
60分3本勝負の1本目では[[テリー・ファンク]]から[[ジャーマン・スープレックス|ジャーマン・スープレックス・ホールド]]で[[ピンフォール]]を奪い大器の片鱗を見せ(結果は1-1の引き分け)、すぐに馬場に次ぐ全日本プロレスNo.2の地位につく。
 
 
 
20代の中頃までは若い女性の親衛隊もいたほどの人気であった。ファンからの公募により、1973年10月27日にリングネームを'''ジャンボ鶴田'''と改名。日本でも[[日本航空]]で[[ボーイング747|ジャンボジェット機]]が就航し、一般にもその名称が浸透し始めた時期であり、師匠である馬場と同様にスケールの大きなプロレスを期待されての命名であった<ref name="tsuruta" />。尚、鶴田は「投票の途中経過でジャンボ鶴田がダントツで1位だったので、もうその時点で『ジャンボ鶴田に決まりだな』と思った」そうである<ref name="atsuki" />。
 
 
 
[[1974年]]3月から4月にかけて、再びアメリカ遠征に出発。[[太平洋岸北西部]]から[[アメリカ合衆国南部|南部]]、[[アメリカ合衆国北東部|北東部]]、[[アメリカ合衆国中西部|中西部]]まで各テリトリーを回り、3月23日には[[オレゴン州]][[ポートランド (オレゴン州)|ポートランド]]にて[[ダッチ・サベージ]]<ref>{{cite web|url=http://wrestlingdata.com/index.php?befehl=shows&show=32447|title=PNW at Portland: Saturday, 1974/03/23|accessdate=2014-12-29|publisher=Wrestlingdata.com}}</ref>、3月29日には[[ジョージア州]][[アトランタ]]にて[[ボビー・ダンカン]]など<ref>{{cite web|url=http://wrestlingdata.com/index.php?befehl=shows&show=246083|title=GCW at Atlanta: Friday, 1974/03/29|accessdate=2014-12-29|publisher=Wrestlingdata.com}}</ref>、各地のトップ選手と対戦。4月1日には[[ニューヨーク]]の[[マディソン・スクエア・ガーデン]]に登場し、[[ジョニー・ロッズ]]から勝利を収めている<ref>{{cite web|url=http://www.thehistoryofwwe.com/70smsg.htm|title=Madison Square Garden - The 70s|accessdate=2014-12-29|publisher=The History of WWE}}</ref>。翌日の4月2日には[[フロリダ州]][[タンパ]]にて[[ダニー・ホッジ]]<ref>{{cite web|url=http://wrestlingdata.com/index.php?befehl=shows&show=140838|title=CWF at Tampa: Tuesday, 1974/04/02|accessdate=2014-12-29|publisher=Wrestlingdata.com}}</ref>、4月4日には[[ノースカロライナ州]][[グリーンズボロ (ノースカロライナ州)|グリーンズボロ]]にて[[ネルソン・ロイヤル]]<ref>{{cite web|url=http://wrestlingdata.com/index.php?befehl=shows&show=199127|title=MACW at Greensboro: Thursday, 1974/04/04|accessdate=2014-12-29|publisher=Wrestlingdata.com}}</ref>、4月7日にはニューメキシコ州アルバカーキにて[[キラー・カール・コックス]]と対戦するなど、世界王者級のタイトなスケジュールをこなした<ref>『Gスピリッツ Vol.34』P67(2014年、[[辰巳出版]]、ISBN 4777814165)</ref>。
 
 
 
=== 1970年代中盤:ライバル達との出世争い ===
 
[[1970年代]]中盤は、復活した[[ユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座|UNヘビー級王座]]決定戦で[[ジャック・ブリスコ]]を破り初めてのシングルタイトルを獲得し、[[タイガー戸口|キム・ドク]]との抗争や、[[国際プロレス]]の[[ラッシャー木村]]との対抗戦、喧嘩番長[[ディック・スレーター]]を[[ジャーマン・スープレックス]]で破っての[[チャンピオン・カーニバル (プロレス)|チャンピオン・カーニバル]]初優勝など、徐々に実績を上げていく。[[1977年]]8月25日に行われた[[ミル・マスカラス]]との雨中[[田園コロシアム]]決戦を含め、[[東京スポーツ]]主催の[[プロレス大賞]]において3年連続年間最高試合賞(ベストバウト)を受賞(他の2試合は[[1976年]]3月28日に蔵前国技館で行われたUNヘビー級選手権試合のジャンボ鶴田vsラッシャー木村戦と、[[1978年]]1月20日に[[北海道]][[帯広市総合体育館]]で行われたNWA世界ヘビー級選手権試合の[[ハーリー・レイス]]vsジャンボ鶴田戦)。
 
 
 
この時期の鶴田の代名詞は、[[ユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座|UNヘビー級王座]]と背後に星を刻んだレスリングタイツ。必殺技は4種類のスープレックス<ref>これは1973年8月6日に日本テレビのロサンゼルス支局がテキサス州エルパソへ取材に行ってきた際に報じたことで注目を浴びた</ref><ref name="tsurutatsutayaBLUE"/>、特に[[ジャーマン・スープレックス]]とトップロープからの[[ウルトラC]][[ドロップキック]]([[ドロップキック#ミサイルキック|ミサイルキック]])を大一番で用いている。このころの好敵手に[[ビル・ロビンソン]]、[[ハーリー・レイス]]、[[アブドーラ・ザ・ブッチャー]]らがいる。
 
 
 
=== 1980年代前半:世界の鶴田へ ===
 
[[1980年代]]前半は、[[NWA世界ヘビー級王座]]や[[AWA世界ヘビー級王座]](当時世界三大王座〔[[NWA (プロレス)|NWA]]・[[アメリカン・レスリング・アソシエーション|AWA]]・[[WWE|WWF]]〕の中のふたつ)に対してあと一歩でタイトルを取り逃がす歯がゆい試合を続けたため「善戦マン」と呼ばれていたが、[[1982年]]のNWA戦からタイツも黒を基調としたエースらしいものに変更し「善戦マン」からの脱却を心がけた。この当時の鶴田について[[上田馬之助 (プロレスラー)|上田馬之助]]は「ジャンボはなぁ…あれだけ恵まれた体格をして、才能、瞬発力、柔軟性、運動神経を全て高い次元で持っているのに……ジャンボには何かこう、ガツーンと来るものがないんだよね。全日どころか日本マット界のエースになれる素材なのに。[[藤波辰爾|藤波]]もそうだけど、デビュー当時からの『爽やかお兄チャン』のイメージを、いまだに捨て切れてないというか。まぁ、最近はトランクスを黒に変えて、自分の中の何かを変えようと必死になっているのは分かるけどね」と語っていた<ref>月刊ビッグレスラー 1982年10月号P114-119 『まだら狼上田馬之助のレスラーぶった斬り』([[立風書房]])</ref>。また、この年の秋に訪日していた[[ルー・テーズ]]に、必殺の[[バックドロップ]]のコツを教えてもらっている。
 
 
 
[[1983年]]4月、若手レスラーの登竜門と言われたトーナメント大会ルー・テーズ杯の特別レフェリーとして再度全日に登場したテーズから、[[バックドロップ]]と[[フライング・ボディシザース・ドロップ]]を今度は本格的なマンツーマン特訓で伝授される。このとき「今の(コーチ料)は100万ドルだな」というテーズの言葉に「世界チャンピオンになったら払います」と答えた逸話が残されている<ref>翌年鶴田はAWA世界王者に就いた{{要出典範囲|date=2016年1月18日|が、テーズに本当に100万ドルを払ったかどうかは不明である。ちなみに当時のレートで100万ドルは2億円以上になる}}。</ref>。
 
 
 
6月8日にはNWA王者[[リック・フレアー]]に挑戦し、三本勝負を1-0で時間切れ勝ちはするものの、「三本勝負の場合、二本勝たなければ王座の移動はしない」というルール規定により、世界奪取はならなかった。しかし、フレアーとのNWA戦では[[1981年]]の1-2での敗北や[[1982年]]のダブルフォールでの引き分け(この試合は一本勝負)に比べるともっとも善戦した<ref>{{要出典範囲|date=2016年1月18日|後のAWA王座を奪取するまでの間「鶴田が世界に一番近づいた日」と呼ばれていた}}</ref>。フレアーからは30年の時を経て「日本人でベストな選手を3人挙げるとしたら、ツルタ、[[天龍源一郎|テンルー]]、[[武藤敬司|ムタ]]」<ref>[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/sports/fight/all/2013/columndtl/201301250006-spnavi?page=2 通算64回目!リック・フレアーがご機嫌来日]</ref> とのコメントがある。
 
 
 
米国遠征中の6月17日に長年就いていたUNヘビー級王座を返上<ref>[http://www.wrestling-titles.com/jp/japan/alljapan/j-un-h.html プロレス選手権変遷史]</ref>。7月31日にはAWA王者[[ニック・ボックウィンクル]]に挑戦をし、反則勝ちをするが、「(三本勝負の場合2本とも)ピンフォール勝ち、ノックアウト勝ちもしくはギブアップ勝ちでないと王座は移動しない」というルール規定により王座移動せず、世界奪取は失敗に終わる。過去のニックとのAWA戦([[1978年]]三本勝負で鶴田の2-1だが3本目が反則勝ち、[[1980年]]一本勝負で鶴田の反則勝ち、[[1982年]]一本勝負で両者リングアウト、3試合ともニックの防衛)同様、のらりくらりとかわされつつ最終的にダーティなファイトで防衛されてしまう内容だった。
 
 
 
8月31日の蔵前国技館において、[[力道山]]以来の日本プロレス界の至宝[[インターナショナル・ヘビー級王座]]を[[ブルーザー・ブロディ]]から奪取、第14代王者となる。試合後、ロッカールームでジャイアント馬場から「よくやった、今日からお前がエースだ」と祝福され、公式に全日のエースの座を襲名する。年末の[[世界最強タッグ決定リーグ戦]]では馬場との師弟コンビを解散、天龍との[[鶴龍コンビ]]で参加するが、[[ミラクルパワーコンビ]]に次ぐ準優勝に終わる。この年、インター・ヘビー級王座獲得の功績が認められ、[[プロレス大賞]]の最優秀選手賞(MVP)を、同世代を表す「[[鶴藤長天]]」の中で初受賞。そして鶴龍コンビも最優秀タッグチーム賞を受賞した。
 
 
 
翌[[1984年]]、入場曲を「J」に変更。2月23日に蔵前国技館で、自らが保持するインターナショナル・ヘビー級王座を懸けてのダブルタイトルマッチとして、AWA王者のニック・ボックウィンクルに再び挑戦。インター王座とのダブルタイトルマッチということで、インター選手権のルールも適用され、反則やリングアウトでも王座移動、さらにレフリーの失神等でのアクシデントを防ぐため、主審に[[テリー・ファンク]]、副主審に[[ジョー樋口]]を起用するという万全の態勢で、ニックのダーティーなファイトを防ぎ<ref>だが、ニックも鶴田の腕を徹底的に攻めるなど、鶴田に主導権を取らさせず追い詰める試合巧者ぶりを発揮し、それまでの反則やリングアウトで勝利するダーティーなレスラーというイメージを払拭している。</ref>、「[[バックドロップ#バックドロップ・ホールド|バックドロップ・ホールド]]」によって勝利し、当時日本人として初めて'''[[AWA世界ヘビー級王座]]を獲得'''、念願の世界奪取を達成した。この一戦は当時の『土曜トップスペシャル』で放送されるほどのビッグマッチであった<ref name="tsurutatsutayaROSE">『G SPIRITS Vol.42』(辰巳出版・ISBN 9784777818129)p.35</ref>。
 
 
 
AWA王座獲得後、同王座を[[リック・マーテル]]に奪取されるまで、前王者ニック・ボックウィンクルをはじめ、[[ブラックジャック・ランザ]]、[[ビル・ロビンソン]]、[[ジム・ブランゼル]]、[[グレッグ・ガニア]]、[[ブラックジャック・マリガン]]、[[バロン・フォン・ラシク]]らを挑戦者に16回の防衛<ref>{{cite web|url=http://www.wrestling-titles.com/awa/awa-h-matches/awa-h-matches1984.html|title=The Records of AWA World Heavyweight Championship Matches 1984|accessdate=2014-12-29|publisher=Wrestling-Titles.com}}</ref>、日米2国間を往復しての世界ヘビー級王座防衛は、日本人初の快挙であった。この年、[[プロレス大賞]]のMVPを2連覇。
 
 
 
これらの活躍により同世代「[[鶴藤長天]]」の中では一段上の扱いとなり、実力的には馬場・猪木の後継者とされるものの、人気では維新革命の[[長州力]]や天龍の後塵を拝す。このレスラーとしての格と人気面のギャップは、「バックドロップは相手の受身の技量によって落とす角度を変えている」などという鶴田の発言に対し、ファンが「本気でやれ」「手加減するな、殺す気でやれ」という反応を見せ、さらに鶴田が「相手のレスラー生命を終わらせる、もしくは死に至らしめるのがいいレスラーだというのなら、僕は明日にでも会社(全日)に辞表を出す」と反論するなど、良くも悪くも「気は優しくて力持ち」的な鶴田のキャラクターや試合ぶりにファンが感情移入しにくい点に一因があった<ref name="kakuryu">[[週刊大衆]]特別編集『プロレス大事変50の真相』眠れる天才が怪物に覚醒・鶴龍対決の壮絶死闘「ジャンボ鶴田対天龍源一郎」([[双葉社]])</ref>{{要ページ番号|date=2018年5月}}。
 
<!--*<sup>註</sup> 最初はジャーマンを狙っていたが、自分の頭がニックの脇に入ってしまいそのままバックドロップに変更した。また、バックドロップ・ホールドという名前は後にプロレスのマスコミ等などによって命名された、当時実況していた日本テレビの[[倉持隆夫]]アナは、ただ単に「バックドロップ」と実況。日本テレビのスポーツニュースでは「バックドロップからのスープレックス・ホールド」と報道された。-->
 
 
 
=== 1980年代中盤:超獣コンビ、ウォリアーズ、ジャパンプロレス勢との闘い ===
 
「プロレス界のキングコング」と称された[[ブルーザー・ブロディ]]やハンセン、[[ロード・ウォリアーズ]]といった大型外人レスラーとの戦いがメインとなっていた1980年代中盤、大型の外人と戦っても見劣りしないレスリング技術は、後に全日に参戦した長州力、ブロディが新日本に移籍した後で対戦した[[アントニオ猪木]]らの戦いと比較される中で評価されるようになった。相手レスラーからの評価も高く、戦った選手のほとんどは鶴田の運動能力、身体的能力を絶賛している。
 
 
 
新日本プロレスのエースであり、1984年末から全日に参戦した長州力と、[[1985年]]11月4日に大阪でシングルマッチを行う。結果は、60分フルタイムドローで終わったが、試合後はスタミナ切れのためロッカールームで全く動けなかった長州に対し、鶴田はシャワーを浴びて若手レスラーたちと大阪市内へ飲みに出かけた、といった伝説を作る<ref>和田京平著『読む全日本プロレス』(2010年、[[メディアファクトリー]])</ref>。また、鶴田は、この一戦はリング中央でどっしりと構え、自身の周りを長州が動き回るようにファイトすることを意識し引退後[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]のインタビューで「あれは僕の作戦勝ちでしょ」と語っている。これは馬場がエース候補生たちに必ず教えていた心構えであり、また、自分が格上のレスラーであると印象付けられる上にスタミナの消費も少ないという効果を狙ったものだった(ただし、当時、鶴田はバックステージで[[ジャパンプロレス]]勢とのマッチメイクだと聞かされると、「今日は[[カラータイマー]]だから楽だな」と話していた、という逸話もある。これは、[[ジャパンプロレス]]勢が攻めばかりで、スタミナが極端にないことを揶揄したものである)。そのため、鶴田が[[王道プロレス]]を体現した試合として名高い。一方、長州は対戦前には鶴田を「ぬるま湯に浸かっている」「アイツはレスラーじゃない、ただのサラリーマン」と散々酷評していたが、対戦後は鶴田へ一目置くようになり、マスコミに対し「ボクシングのような判定制だったら(俺の)負けだったな」「彼には勝てないよ」と語った。以後、鶴田を評価する発言を度々行うようになる。この評価は鶴田戦後長年にわたり一貫しており、2012年10月5日の長州と[[高田延彦]]とのトークショーにおいても、「鶴田先輩は本当にすごい」と、新日・全日時代のキャラクターにとらわれず、アマレス時代の先輩である鶴田に対する敬意を素直に表現している<ref>[http://news.ameba.jp/20121010-374/ 長州力×高田延彦トークショー 2] </ref>。長州とのこのシングル対決は1985年のプロレス大賞の年間最高試合(ベストバウト)に選出されている。
 
 
 
しかし、この時期の鶴田はシングル戦線では苦戦していた。[[1985年]]4月<ref>{{cite web|url=http://www.wrestling-titles.com/nwa/world/nwa-h-matches/1980s/nwa-h-matches1985.html|title=The Records of NWA World Heavyweight Championship Matches 1985|accessdate=2017-02-14|publisher=Wrestling-Titles.com}}</ref>と[[1987年]]3月<ref>{{cite web|url=http://www.wrestling-titles.com/nwa/world/nwa-h-matches/1980s/nwa-h-matches1987.html|title=The Records of NWA World Heavyweight Championship Matches 1987|accessdate=2017-02-14|publisher=Wrestling-Titles.com}}</ref>にフレアーのNWA王座に挑むが奪取に失敗し、[[1986年]]にはAWA王座再戴冠を目指し当時の王者スタン・ハンセンに3度挑むがこれもすべて奪取失敗<ref>{{cite web|url=http://www.wrestling-titles.com/awa/awa-h-matches/awa-h-matches1986.html|title=The Records of AWA World Heavyweight Championship Matches 1986|accessdate=2017-02-14|publisher=Wrestling-Titles.com}}</ref>、同年7月の敗戦では自らのインター王座も奪われるなど
 
(同年10月に奪回に成功)<ref>{{http://www.wrestling-titles.com/jp/japan/alljapan/j-int-h.html}}</ref>、世界最高峰クラスの王座を奪取した選手としては物足りない戦績であった。
 
 
 
=== 1980年代後半〜1992年:天龍同盟、超世代軍との闘い ===
 
鶴田が怪物レスラー、完全無欠のエースとしての評価を高めたのは、[[1987年]]に「[[天龍同盟]]」を結成した天龍源一郎との一連の抗争、そして天龍離脱後の[[超世代軍]](のちの全日本[[プロレス四天王]])との戦いであった。
 
 
 
天龍が繰り出す激しい攻撃に触発され、鶴田も恵まれた身体能力を背景に覚醒、一般的なプロレス技で[[仲野信市]]や天龍を失神させる、[[寺西勇]]や[[アニマル浜口]]が全治数ヶ月の入院を余儀なくされる、といった怪物ぶりを発揮した。特に天龍は[[世界タッグ王座|世界タッグ戦]]でバックドロップの3連発(後述)、[[1989年]]4月の三冠戦では後に「ジャンボ・リフト」と呼ばれる掟破りの超急角度の垂直落下型パワーボムと、2度失神させられている。
 
 
 
[[1988年]]6月には、[[谷津嘉章]]との'''[[五輪コンビ]]'''でインターナショナル・タッグ王座と[[PWF世界タッグ王座]]を統一、初代世界タッグ王者に就いた。同年8月30日、前日に[[龍原砲]](天龍と[[阿修羅・原]]のコンビ)に王座を奪われ五輪コンビで挑戦者チームとして戦った一戦では、バックドロップを連続で食らいすでに意識がなく自力で立ち上がれない天龍の髪の毛を掴んで、無理やり引きずり起こし3発目のバックドロップで完全失神に追い込みかばう原ごとピンフォールし、王座を奪回した。
 
 
 
[[1989年]]4月には、シングルタイトルであるインター・PWF・UNの三冠を統一し、初代[[三冠ヘビー級王座|三冠ヘビー級王者]]となる。これらの実力が認められた結果、ジャンボ鶴田の人気は不動のものとなり、[[1990年]]2月10日、新日本プロレス東京ドーム大会では敵地であるにもかかわらず、入場時に「ツルタ、オー!」コールが爆発するなど、全日のエースから日本プロレス界のエースと呼ばれるにふさわしい存在になっていた。この時期、全日本のリングから、かつて鶴田が世界王座戦線で何度も苦杯を飲まされたリングアウト決着、反則決着が徐々に消え、リング内での完全決着が目指されるようになったことも、鶴田には追い風となった。
 
 
 
天龍が新天地を求めて全日本プロレスを離脱し[[SWS]]に移籍した後、ライバルとして名乗りをあげたのは弟子の[[三沢光晴]]であった。1990年6月、三沢はシングルマッチで鶴田越えを果たすが、この試合は「丸め込み」合戦を制してのもので、真に鶴田越えを果たしたとは言い難いものだった(試合後、勝った三沢はリング上で倒れこんだままで、負けた鶴田はレフェリーに抗議している)。三沢は最初で最後の涙をリングで流し、観客が総立ちであった。三ヶ月後、三冠ヘビー級王座への挑戦権をかけて再度三沢と戦うが、今度は鶴田がジャンボ[[ラリアット]]からのバックドロップ・ホールドで三沢から完璧な3カウントを奪っている。
 
 
 
[[1991年]]1月19日、ハンセンを破り、三冠ヘビー級王者(第8代目)に返り咲く。この年は三沢、[[川田利明]]、[[スティーブ・ウィリアムス]]が鶴田の三冠王座に挑戦するが、全て完勝といっていい内容で退けている。1月下旬の[[後楽園ホール]]大会では、川田から顔面へのステップキックを執拗に繰り出された直後、鶴田は目の色を変え、大迫力のエルボー(この段階で川田を戦意喪失させ半失神状態に追い込んだが鶴田の怒りは収まらず、無理矢理起こして次の攻撃を続けた)、顎へまともに入る[[ビッグブーツ|ジャンボ・キック]]、場外でのボディスラム、座面ではなくステンレス部分でのイス攻撃などを川田に繰り出した。タッグパートナーの[[渕正信]]が止めに入るものの、渕を突き飛ばし、解説の[[竹内宏介]]も言葉が出なくなるほど壮絶な攻撃であった。
 
[[和田京平]]によると、試合後の控え室では「何でボク、あんなにキレちゃったんだろう」と普段のジャンボ鶴田に戻っていたという。この時の鶴田について、和田京平は「あれはお客さんに見せるものじゃない。普段の余裕のジャンボを見せたかった」と自書で語っている。
 
 
 
また10月の[[大阪府立体育会館|大阪府立第二体育館]]での6人タッグ戦では、鶴田のエルボーが[[三沢光晴]]の鼻を直撃し、三沢が鼻骨を骨折してしまう。鼻を負傷しながらなおも試合を続ける三沢に、鶴田はその鼻に狙いを絞った攻撃を徹底する。鶴田は反旗後の三沢に、「あいつはもっと良い奴だと思っていた」という意味不明なコメントを残しているが、この試合後に「三沢はまだまだ良い奴じゃないよ」と語っており、自分が超世代軍の壁であることを自認していたとも言える。
 
 
 
この年の鶴田は全日本プロレス中継内の三沢との三冠戦後のインタビューで「一回でいいから、世界最強といわれる[[ハルク・ホーガン]]と、負けてもいいから思いっきり闘いたい」と発言したことがある。当時ホーガンが所属するWWF(現[[WWE]])と全日本とは全く団体間の交流はなく、しかも、全日は選手のスタンド・プレーに厳しかった。対戦したい相手として他に、[[前田日明]]、[[藤波辰爾|藤波辰巳]]の名も挙げており、一時は[[新日本プロレス]]への移籍を本気で考えた時期もあったという。[[タイガー戸口]]によると、戸口が1981年に全日本から新日本プロレスに移籍する際に、鶴田も一緒に全日本を離れようとしていたことが後年戸口の口から明らかにされており、もし実現していればプロレスとの関わりを断ったのではないかと戸口は推測している。1980年代後半に戸口は鶴田から「プロレスを辞めて焼肉屋をやろうかなと思うんだよ」と言われたことがあり、実際に経営に関する本も読んでいたという<ref>『G SPIRITS Vol.42』(辰巳出版・ISBN 9784777818129)p.48</ref>。
 
 
 
ジャイアント馬場VS[[アントニオ猪木]]戦争に対しても、「全日本に閉鎖的な面もあると思うが、(馬場に偽の挑戦状を叩きつけた)猪木さんは今は良いけど、あと何年かすれば年齢でベストなファイトが出来なくなるのは確実だ。(猪木さんも)そういう状態で挑まれても納得出来ないでしょう?」と第三者として中立的なコメントを残している。(猪木が40歳を過ぎた頃に[[UWF]]の[[前田日明]]が、そして1986年に第2回[[プロレス夢のオールスター戦]]の企画が上がった際に鶴田がシングル対決希望を表明したが、結局猪木は前田、鶴田の対戦要求に応じることはなかった)
 
 
 
1991年は7年ぶりに[[プロレス大賞]]のMVPを三度目の受賞。
 
 
 
最後のタイトルマッチとなったのは、1992年10月7日の世界タッグ選手権だった。田上と組み、殺人魚雷コンビことゴディ&ウィリアムス組の挑戦を受けた。この年は古傷の左足首の故障で1シリーズを全休したことに加え、1月にはハンセンに敗れて3冠ベルトを奪われる、チャンピオン・カーニバルで同ブロックとなった三沢の後塵を拝して優勝戦進出を逃す(結果的に三沢とは最後の対決となった試合で時間切れの引き分けに終わり、苦手のゴディにも引き分けていたため、三沢とは勝ち点1の差でカーニバル敗退)など、前年の怪物振りと比べると陰りも見えていた。だが、この年に急成長を見せていたパートナーの田上が体調万全ではない鶴田をカバーする大活躍を見せる。田上はこの年に開発した喉輪落としでゴディからフォールを奪い、王座の防衛に成功。田上の躍進を見届けた鶴田は、結果的に第一線を退くこととなった。
 
 
 
=== 1992年入院以降 ===
 
[[1992年]]11月に[[B型肝炎]]を発症したことを告白、長期入院を余儀なくされた。元々鶴田がB型肝炎ウイルスキャリアであることは1985年8月の時点で判明しており、当時の[[主治医]]による[[インターフェロン]]療法がうまくいかず症状を悪化させたため、と後に保子夫人が著書で述べている<ref>鶴田保子著 『つぅさん、またね。:ジャンボ鶴田を支えた家族の記録』([[ベースボール・マガジン社]]、2000年)ISBN 4-583-03595-0</ref>。
 
 
 
[[1993年]]の復帰後も、再発の危険性があるため、極端に負担のかかる第一線に立つことはなくなった。鶴田自身、その時の様子を「[[棺]]桶に片足を入れた状態」と評している。「一昔前なら棺桶に両足を入れていた(つまり、死んでいた)」とも発言している。
 
 
 
これでメインイベンターとしての鶴田の価値は消え去ったのだが、それでも馬場は鶴田の給料を下げることをしなかったという。入院中に読んだ雑誌に女子プロゴルファーの[[桝井映里]]が大学院に入学した記事があったことがきっかけとなり、教授レスラーへの道を目指す。[[1994年]]10月に[[筑波大学]]大学院体育研究科コーチ学専攻に合格し、遂には非常勤講師ながら大学教員となった。並行して大会場でのスポット出場という形で現役プロレスラーを継続する。ほとんどの試合は馬場と組んでの6人タッグであった。
 
 
 
そして[[1999年]]1月31日の馬場が死去した直後に[[引退]]・全日本取締役辞任会見を[[キャピトル東急ホテル]]で行う。この後に「全盛期に[[前田日明]]と戦ってみたかった。藤波君が度々対戦要求を出してきたが、マスコミの前のポーズだけで実際の交渉は一切なかった。僕はそれが大嫌いだった」とコメントしたことも話題になった。後日、鶴田は藤波に「失礼な発言をしてしまい申し訳ない」と、[[ファクシミリ|FAX]]で謝罪した。
 
 
 
ただし、鶴田は1990年代のある番組の中で(ファンサービスもあったにせよ)「今年の夢は藤波選手と闘うことです」と発言していた。[[1987年]]1月4日、[[東京スポーツ]]主催のプロレス大賞授賞式の席上でも、「今年は藤波選手と闘って最高試合賞を取りたい」とコメントしており、[[週刊ゴング]]による鶴藤長天キャンペーンのきっかけの一つとなっていた。
 
 
 
=== 引退、闘病、死去 ===
 
1999年2月20日の引退記者会見に続いて、1999年3月6日に[[日本武道館]]にて引退セレモニーが行われ、研究交流プロフェッサー制度によりスポーツ生理学の教授待遇として、オレゴン州ポートランド州立大学に赴任することを明らかにした。なお、勤務先であった桐蔭横浜大学のサイトには「客員研究員として」<ref>[http://www.cc.toin.ac.jp/kika/paulownia/73/keijiban.html 桐蔭横浜大学 - ポロニア No. 73:平成12年5月20日] </ref>とある。鶴田がアメリカへ向かう際、[[成田国際空港|成田空港]]に見送りに来たのは三沢、[[仲田龍]]、大八木賢一専務のたった三人であったが、仲田の著書によれば、鶴田サイドと[[馬場元子]]オーナーとの間には既に距離があり、見送りに行けない空気を振り切って来たとのことである。これが鶴田と三沢の最後の対面となったが、その際鶴田は「何かあったらすぐに言って来いよ。俺はミチャワくん(鶴田が三沢を呼ぶ際の愛称)の味方だから、それだけは忘れないでくれ」と告げたと言われる。
 
 
 
この前後よりB型肝炎は[[肝硬変]]を経て、[[肝臓癌]]へ転化かつ重篤な状態へ進行していた。鶴田は第三者らの進言もあり肝臓移植を受けることを決断。日本では親族間の生体肝移植しか認められておらず、親族で唯一血液型が合致した実兄がドナー候補となるも最終的に移植条件に合致しなかったため、日本での移植が不可能となり、海外での脳死肝移植に望みを賭けた。[[オーストラリア]]で臓器提供を待っていたところ、2000年春になり[[フィリピン]]・[[マニラ]]でドナー出現の報を聞き、フィリピンに渡航。国立腎臓研究所にて手術が行われたが、肝臓移植手術中に大量出血を起こしてショック症状に陥る事態が発生、長らくの治療や16時間にも渡る手術の甲斐なく同年[[5月13日]]17時(現地時間では16時)に死去した。奇しくもこの日は1984年にリック・マーテルに敗れてAWA世界ヘビー級王座から陥落した日でもあった。{{没年齢|1951|3|25|2000|5|13}}。戒名は「空大勝院光岳常照居士」。和田京平の著書によると、「鶴田は元々血を流すと止まりにくい体質であった」と記されている。
 
 
 
=== 没後 ===
 
鶴田の死から1ヶ月後の6月13日、かつて鶴田の付き人を務めていた[[三沢光晴]]が全日本プロレスを退団し、その三日後の記者会見で新団体([[プロレスリング・ノア]])の旗揚げを正式発表した。これに伴い全日本の選手が大量離脱したことに対して、彼らが全日本で冷遇されていたことを知らなかった鶴田の妻の[[鶴田保子|保子]]は、「ジャンボ鶴田・お別れの会」にて「夫は三沢君を支持したと思います。でも、三沢君に全日本を潰す権利は無いです」と話したが、真相を知った後に自身のWebサイトで「三沢君達の気持ちがやっと分かりました」「(馬場)[[馬場元子|元子さん]]は許せないです」と語った。
 
 
 
鶴田の突然の死は各方面で大々的に報道され、[[2000年]]11月26日には『[[知ってるつもり?!]]』([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系)で「ジャンボ鶴田、家族の絆と衝撃死の真相」と題した追悼番組が放送された<ref>[http://www.ntv.co.jp/shitteru/next_oa/001126.html 「ジャンボ鶴田、家族の絆と衝撃死の真相」] 日本テレビ『知ってるつもり?!』</ref>。
 
 
 
2014年4月13日、鶴田の故郷の[[山梨市民総合体育館]]においてノアの協力により「ジャンボ鶴田追悼記念大会」が開催された。同年11月28日(日本時間29日)、米国プロレス殿堂入りを果たした。日本人では[[力道山]]、馬場、猪木に次ぐ4人目の快挙<ref>[http://www.nikkansports.com/battle/news/p-bt-tp0-20141130-1402873.html ジャンボ鶴田さん米殿堂入り]</ref>。鶴田が生前親交があった[[原辰徳]]も「凄いね、価値あるよ」と祝福した<ref>[http://www.tokyo-sports.co.jp/sports/baseball/347948/ 原監督がジャンボ鶴田さん「殿堂入り」祝福「すごいね」]</ref>。
 
 
 
== 人物・評価 ==
 
* 現役時代からフォークシンガーとしてレコードを発売したり、ファンの前でギター片手に歌ったこともある。[[井上陽水]]の「傘がない」をテレビで披露したこともある(ただし付き添った川田曰く「アンコールはなかったね」とのこと)。
 
* [[中央大学]]へはバスケットのスポーツ推薦でなく、一般入試を受け合格したとされている<ref name="atsuki">ジャンボ鶴田・編 久堂一・著『熱き若武者の叫び―ジャンボ鶴田“青春マインド”』 ([[笠倉出版]]、1983年)ISBN 4905587743</ref>。しかし[[鎌田誠]]<ref>Gスピリッツ Vol.10(タツミムック) 19ページ</ref>(中大レスリング部およびミュンヘンオリンピックレスリング代表の同期)や[[ミスター・ポーゴ]](中大同級生)は「鶴田はバスケット特待生だった」と明言している。自著の受験指南書『ジャンボ鶴田の受験は格闘技だ』では、大学院入試の経験については詳細であるが、大学受験に関しては具体的に語られていない。
 
* 1975年頃、[[新間寿]]が鶴田を[[新日本プロレス]]へ引き抜くことを計画していた。しかしこの計画が、当時[[東京スポーツ]]の社長だった井上博や、当時の三浦甲子二[[テレビ朝日]]専務の怒りを買うことになった。最終的に新間による鶴田引き抜き計画は失敗に終わった<ref>『週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史vol.8』P3 - P6(2015年、ベースボール・マガジン社)ISBN 978-4-583-62269-9 </ref>。
 
* レスラー時代は[[バラエティ番組]]へも出演しており、プロレス好きの[[三宅裕司]]の番組や[[さんまのまんま]]にも出演した。また[[日野自動車]]の[[貨物自動車|トラック]]や[[井関農機]]の[[コンバイン]]「太郎」シリーズのCMにも出演経験有。
 
* 虫が大の苦手。[[セミ]]はおろか、[[毛虫]]なんかもっての他(夫人談)
 
* 家宝は[[坂本龍馬]]の像で、プロレスで得た[[トロフィー]]などは無造作に押入れへ保管したり、欲しがる人にあげていたと言う。
 
* 後輩であっても「君」付けで呼び、先輩風を吹かせたり、無理を言ったりすることもなかったという<ref name="misawa">『船出―三沢光晴自伝』</ref>。リングを降りるとマイペースを貫き、若手選手と飲食店で同席しても特におごることは無く、コンビニの袋を抱えて宿泊宿へ戻るなど、プライベートでは鶴田友美として過ごした<ref name="misawa" />。この「使い分け」は外人選手に対しても同様であったため、[[テリー・ファンク]]も1983年の一度目の引退のあと「馬場の次のボスは鶴田ではなく天龍だ」と語っていた。天龍はプロレス転身当初鶴田から気のよさそうな挨拶を受け、後年「ジャンボのおかげでプロレス界にスッと入っていけた。もしあの時、元関取でもプロレスではそうはいかないぞ!みたいなムードを感じていたらその後のプロレスへの取り組み方は変わってしまっていたかもしれない。」と振り返っている。
 
** しかし2016年に天龍はインタビューの中で「リングの中で相手を見下したような試合をしたり、リングの外で”プロレスラーの鶴田友美です”というのが嫌そうなジャンボを見て、段々嫌になっていったんだよ」と1987年春の鶴龍コンビに嫌気がさしていた頃の様子を語っている。同じインタビューで天龍はまたリング上で常に余裕のある自分を見せたがっていた鶴田の生前のその姿勢を指摘している<ref name="tsurutatsutaya">『G SPIRITS Vol.42』(辰巳出版・ISBN 9784777818129)p.25-26</ref>。
 
* 鶴田が「大きな技を無闇やたらに使うな」というジャイアント馬場の教えをずっと守ってきた点は鶴田のプロレスが古くなってしまった要因であり損をした部分であるという評価もある。天龍はこれについて「分かりやすく言えば、長州力はバックドロップ、パッとサソリ固めとか沸点が続くけど、ジャンボの場合はバックドロップをやったら”これで終わりなんだな”というところかな。沸点の回数が少ないんだよ。(中略)3つ以上重ねて技をやるのを嫌がるっていうのは、体が大きいという自分のプライドなんだろうし、それをお客さんにわからせたかったというのもあっただろうし」と話している<ref name="tsurutatsutaya2">『G SPIRITS Vol.42』(辰巳出版・ISBN 9784777818129)p.27</ref>。
 
* 全日本プロレスの主力選手として名を馳せたが独立や団体経営などに対する欲が皆無であった。佐藤昭雄はこれについて「馬場さん、猪木さんのように”俺の会社なんだから、俺が作って、俺が客をいっぱいにしてやる”というのがなかった。結局、ジャンボがリングの中でどんなにいい試合をやって、控室に帰ってきて意気揚々とコメントしても、常に馬場さんが葉巻をくわえて、もっと大きな態度で座ってるわけよ。そこなんだよ、ジャンボに物足りなさを感じたというか、もうひとつ上にいけなかったのは。その後のもう一歩は何かと言ったら、独立してお山の大将にならないと最終段階というのが作れないわけよ。それをジャンボはやらなかったからね」と話している<ref name="tsurutatatsuta">『G SPIRITS Vol.42』(辰巳出版・ISBN 9784777818129)p.16</ref>。
 
* 「ナチュラルな強さ」と言われることが多い。付き人であった[[三沢光晴]]も「鶴田さんが筋力トレーニングをしているところを見たことがない。おそらく自分の好きな[[テニス]]や[[バスケットボール]]を楽しみながら必要な筋肉を付けていたのだと思う」と著書の中で述べている<ref name="misawa" />。生まれ持った運動基礎能力が、他人よりも格段に優れていたようで、吉田豪曰く「若い頃にただ山道を自転車で走り回っていただけで、自然に超人的な体力がつき、特に練習しないままに、オリンピックに出られた人」である。大学一回生の時に「ずっと打ち込んでいたバスケットボールでは、どうやら五輪に出られなさそうだ」と不安を抱き、バスケットを辞める事を決意する。鶴田は「僕は五輪に出たい。なんでもいい。時間は3年しかない」という強い想いから、各スポーツを検討した結果「アマレスなら、なんとかなるんじゃないか?」と想定してレスリングを選んだ。バスケットボール特待生で大学に入った男が、「五輪に出られないから」という理由でバスケットを辞めてレスリング部に入部希望をするという行為は、レスリング部にとってみれば、意味の分からない行為であった。その為にレスリング部は鶴田の入部希望を受け入れず、即座に追い返した。途方に暮れた鶴田は、自衛隊体育学校では一般人でもレスリングが練習可能と知り、そこで練習を始める。自衛隊学校のコーチは鶴田の非凡な運動能力に気づき、本腰を入れて指導すると、鶴田は経験なしの状態からすぐに「全日本社会人選手権」と「国体」の両大会で優勝を果たした。日本のアマレスレベルは、数多くのメダリストを輩出しているように非常に高く、これは驚異的な事であった。少し前に鶴田が入部を断わられたレスリング部から、逆に「鶴田君、ウチに来てくれないか」と誘われる事になる。鶴田は、当初入部する気はなかったが、自衛隊体育学校のコーチから入部を薦められて、所属するようになる。鶴田は、なんと経験二年余りで、ミュンヘンオリンピック出場を勝ち取った。オリンピック本戦では、経験不足はいかんともしがたく、戦術の乏しさと国際ルールの不慣れに戸惑い、老獪なヨーロッパ選手の敵ではなく、肝心の攻撃が殆ど出来る事なく警告負けに終わった。
 
* 1985年夏にB型肝炎のウィルスキャリアであるのが判明してから、本当にハードなトレーニングが出来なくなり、上記の三沢の自著に記してあるように、もっぱらテニスやバスケットボールで体力を維持していた。対して[[天龍源一郎]]はオフでも週に5日は練習・稽古を欠かさない「稽古の鬼」であったが、ハードトレーニングをしなくても怪物的な強さを見せ付ける鶴田に「コイツと俺らは、持って生まれたものが違うんだなぁ」としみじみ思ったという<ref name="kakuryu" />。三沢も自著で「鶴田さんは持って生まれたものが凄すぎた。レスラーに必要な能力を全て備えていた」と語っている。
 
* [[ブルーザー・ブロディ]]が鶴田を特別にライバル視していたように、鶴田もまたブロディをライバル視していた<ref>週刊大衆特別編集『プロレス大事変50の真相』これぞ最強レスラー決定戦・怪物対超獣の頂上対決「ジャンボ鶴田対ブルーザー・ブロディ」(双葉社)</ref>。
 
* [[アマチュアレスリング]]では鶴田よりも身長が13センチ低い<ref>[http://www.sports-reference.com/olympics/athletes/ts/tomomi-tsuruta-1.html Olympics at Sports-Reference.com Tomomi Tsuruta Height: 6'4" (194 cm)] </ref><ref>[http://www.sports-reference.com/olympics/athletes/is/yorihide-isogai-1.html Olympics at Sports-Reference.com Yorihide Isogai Height: 5'11" (181 cm)] </ref>小柄な[[磯貝頼秀]]に一度も勝利することができなかったなど、国内において無敵の選手であったとは言い難い面もある。なお五輪など国際戦では外国人選手に全敗している。ただ、[[ジャンボ鶴田試練の十番勝負]]の第7戦目では[[1972年]][[1972年ミュンヘンオリンピック|ミュンヘン五輪]]レスリングの男子フリースタイル120kg級銅メダリストの[[クリス・テイラー (プロレスラー)|クリス・テイラー]]に勝利している。
 
* 上記の通り[[藤波辰爾|藤波]]と共に[[上田馬之助 (プロレスラー)|上田馬之助]]から「ガツーンと来るものがない、デビュー当時からの『爽やかお兄チャン』のイメージを、いまだに捨て切れてない」と批判された事もあった。ただ、鶴田26歳、藤波24歳の時に別冊ゴングで行われた対談では「プロレスラーは怖いオジサン達の集まり、というイメージを僕らで変えていきたい」という考えで藤波と意気投合している<ref>別冊ゴング 1979年8月号 『特別対談 ジャンボ鶴田vs藤波辰巳』(日本スポーツ出版社)</ref>。
 
 
 
== 得意技 ==
 
; [[バックドロップ]]
 
: この技自体は若手時代から使用していた技なのだが、当時は相手の股へ手を差し込んだ抱え式のバックドロップであった(馬場やドリーのバックドロップと同じ形)。しかし[[1982年]]の夏頃から反り投げ式のバックドロップ(現在でいう投げっぱなしジャーマンのようなスタイル)をフィニッシュに使用しはじめ、そして同年秋にバックドロップの祖である[[ルー・テーズ]]から「ヘソで小さく弧を描くように投げろ」とアドバイスを受け、自分の頭を相手の脇下にいれ、相手の胴を両手でクラッチしてブリッジを効かせて投げるルー・テーズ型バックドロップに磨きをかけるようになる。[[1983年]]4月にルー・テーズ杯のためにテーズが再度全日を訪れた際には本格的なマンツーマン特訓も受け、以後は[[ジャーマン・スープレックス]]に代わる鶴田の絶対的な切り札となる。
 
: 最初はつま先をマットにつけたまま素早く低く叩きつける低空高速型([[渕正信]]や[[蝶野正洋]]が使用しているタイプ)だったが、観客の見栄えを意識してか徐々につま先を流しながら高く持ち上げ落下させるスタイルに変化させていく。
 
; [[バックドロップ#バックドロップ・ホールド|バックドロップ・ホールド]]
 
: つま先をつけたまま低い体勢で素早く叩きつけるスタイルの低空高速式バックドロップは後のバックドロップ・ホールドへと昇華されていく。[[ニック・ボックウィンクル]]との[[AWA世界ヘビー級王座|AWA世界ヘビー級]]戦でバックドロップ・ホールドでフォールしてベルトを奪取して以降、鶴田の代名詞と呼ばれるようになり、また、AWA世界王座奪取の決め手のなったことから「世界を獲ったバックドロップ」とも言われていた。身長2m、体重190kgの超肥満体型選手だった[[ワンマン・ギャング]]も綺麗に投げてみせた事もある。
 
: 相手の受身の力量によって落とす角度を変えており、[[三沢光晴]]や[[川田利明]]に対しては、とんでもない角度で落としていた。別名「岩石落とし」。
 
: 1980年代前半のある時、「ルー・テーズばりの本物のバックドロップを見せてくれよ」と日本テレビ側からけしかけられたこともあって、対戦相手の[[ハーリー・レイス]]に危険な角度でバックドロップを行った。受身技術では当時世界最高レベルと評価された<ref>月刊ビッグレスラー 1982年10月号・P157 ジャイアント馬場のコメントより ([[立風書房]])</ref>ほどのレイスだが試合後鶴田の元へ怒鳴り込んで「お前、この場でもう1回やってみろ」と凄んだ。これに反省したのか鶴田は相手の受け身の角度によってバックドロップで投げる角度を調整するようになったという<ref name="tsurutatsutayaROSE"/>。
 
; [[ニー・バット#ジャンピング・ニー・バット|ジャンピング・ニー・バット]]
 
: 一時期「鶴田が相手をロープに振ったら90%この技」といわれた。決まった後は右手を高々と掲げ「オー!」と叫んでアピールする事がほとんど。現在では[[秋山準]]が鶴田から直接教わったことを明言して使用し、女子でも[[西田夏]]([[NEO女子プロレス|NEO]])が習得し、[[仲村由佳]]([[NEO女子プロレス|NEO]])・[[りほ|里歩]]([[我闘雲舞]])へと伝承されている。バスケの経験から得た跳躍力を活かしている。
 
: 若手時代は「相手に考慮し」当たる瞬間体を横に向け太もものあたりを当てるようにしていたが、[[天龍源一郎]]との抗争からそのまま真っ直ぐ飛んで鋭角的な膝を顔面に叩き込むようになった。重要な一戦ではコーナーポスト最上段から放つダイビング式([[ニー・バット#ダイビング・ニー・アタック|ダイビング・ニー・アタック]]と呼ばれた)、ランニング式も使用し、[[スタン・ハンセン]]を失神させた事もある。
 
: この技のバリエーションとして、同時に相手の脳天に肘を落すジャンピング・エルボ―・ニー・バットや、両膝でジャンプし相手に当てるダブル・ジャンピング・ニー・バットも一時期使用している。
 
; ダブルチョップ
 
: ダブルハンマーとも。頭上から両手を揃えて相手の背中へ張り手の様に放つチョップ。超世代軍相手に放つことが多く、その威力と大きな音で場内がどよめくことも多かった。技自体は単純だが、相手に格の違いを見せ付ける色合いが強い打撃技である。
 
; [[ドロップキック]]
 
: 新人時代に多用したが、キャリア中盤以降も印象的な場面でしばしば用いた。持ち前のバネを活かした打点の高さ、威力、タイミング、フォームの美しさ、どれも随一で若手時代は「日本人No.1のドロップキックの使い手」と評された。師匠[[ジャイアント馬場]]との初対決でこの技を繰り出した時には、あまりに高く飛び上がりすぎて足先が馬場の頭部(2m9cm)を越えてしまったこともある。
 
; 4種のスープレックス
 
: [[ジャーマン・スープレックス|ジャーマン]]、[[ダブルアーム・スープレックス|ダブルアーム]]、[[フロント・スープレックス|フロント]]、サイドの4種類の[[スープレックス]]を使いこなし、特にジャーマンのブリッジは真円を描くかのごとく美しかった。しかし、鶴田のジャーマン・スープレックスは1982年のリック・フレアーとの[[NWA (プロレス)|NWA]]戦を最後に封印される。表向きの理由は「恐ろしい威力を誇り危険であり調節も難しいため」であったが、和田京平レフェリー曰く「ハゲるのが嫌だから」であった。ただ、鶴田のジャーマン・スープレックスはスピードを落として持ち上げて一旦止めてから投げていく、現在でいう二段モーション式ジャーマンなので、結果相手は高角度からほぼ垂直に落下する危険なタイプのものであるのは確かで、第8回[[チャンピオン・カーニバル]]の決勝で仕掛けられた[[ディック・スレーター]]が首を負傷してしまったのは有名。
 
: なお、フロント・スープレックスをフィニッシュにしたレスラーは鶴田が初めてで<ref name="front" />、([[カール・ゴッチ]]は『私は彼(鶴田)が騒がれる前からサルト(フロント)を使用していた』と主張しているが、ゴッチが試合でフロントを使用したという記録は少なくとも現時点では存在していない)<ref name="tsuruta" />、[[ジャック・ブリスコ]]から[[ユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座|UNヘビー級王座]]を奪取する決め手となったのはフロントだった。鶴田曰く「ジャーマンは1週間で習得出来たが、フロントは4週間かかった。4種類のスープレックスでは一番難しく、本当に受身の上手い選手にしか使わない」そうである<ref name="front">月刊デラックス・プロレス 1982年11月号・60P『マイ・フェバリット・ホールド』</ref>。
 
: サイド・スープレックスについては、長身の馬場を投げきる場面が印象的な映像として頻繁に流されている。
 
: 最もよく使われており得意としていたのはダブルアーム・スープレックスで、ジャンピングニー、ボストンクラブなどとともに、80年代前半は大試合で必ず見られるムーブのひとつであった。
 
; [[ドロップキック#ミサイルキック|ミサイルキック]]
 
: [[倉持隆夫]]アナからは'''ウルトラCドロップキック'''、もしくは'''ジャンボ・ミサイルキック'''と呼ばれていた。[[1975年]]全日本に参戦したリッキー・ギブスンが公開、ドロップキックを得意技にしていた鶴田はこのミサイルキックを自分のものとした。ジャーマン・スープレックスと共に若手時代の鶴田のフィニッシュだった。スワンダイブ式が全盛の今と違い、2m近い巨体の鶴田が体を捻りながら蹴るミサイルキックの威力は高く、[[ミル・マスカラス]]、[[リック・フレアー]]といった一流どころからも3カウントを奪っている。
 
; [[ラリアット|ジャンボ・ラリアット]]
 
: スタン・ハンセンのような一撃必殺技とは行かないが、試合の要所でこの技を使用した。キャリアが中盤になるころから使い出した技。1984年の[[テリー・ゴディ]]との[[一騎討ち]]あたりから黒いアームサポーターをしごいて放つジャンボラリアットが誕生したと言われる。鶴田のラリアットの打ち方は特徴があり、通常は下から体ごと伸び上がりながらノドを突き上げる。ただし、[[菊地毅]]のような小柄のレスラーには肘を曲げて上から体重を乗せるような打ち方をした。いずれにせよ、鶴田の身長を上手く利用した打ち方であった。また、[[長州力]]のリキラリアット同様、使用した当初は腕を痛めたポーズをとっていた。
 
; [[フライング・ボディシザース・ドロップ]](テーズ・プレス)
 
: ジャンプして相手に飛びついて、馬乗りになるような状態で背中から叩きつける。1983年4月、ルー・テーズにバックドロップを習った際に一緒に教わったもの。そのままフォールの体勢になることも多いが、トップロープに自らの喉元を打ち付ける誤爆も多かった。また長身でジャンプ力のある鶴田が使うと勢い余ってヒップドロップの形で落下してしまうこともあった。技の説得力から使用回数の割にフィニッシュムーブとなることが多かった。
 
; [[パワーボム]]
 
: 天龍との1989年4月20日大阪における三冠ヘビー級選手権で、喉笛へのチョップを何度も食らったために怒りで我を忘れた鶴田が、その天龍に対し放った技。のちに「ジャンボ・リフト」の別名がついたそのパワーボムは超急角度かつハイスピードなもので、頭から垂直に落とされた天龍は口から泡を吹いて失神。
 
: 直後に天龍の異変に気付いた鶴田が慌ててフォールし、試合を終わらせている。(実際には鶴田のミスであり、それまではパワーボムをほとんど使用してなかったために『加減が分からずやりすぎた(鶴田・談)』)
 
; [[エルボー・バット]]
 
: 鶴田が大きな技へのつなぎ技、反撃の糸口として使うエルボー・バットは[[エルボー・バット#エルボー・スマッシュ|エルボー・スマッシュ]]と、体を半回転させて打ち込む、今でいう[[エルボー・バット#ローリング・エルボー|ローリング・エルボー]]の形に近いものが多かった。どちらも[[ドリー・ファンク・ジュニア]]の得意技で、ファンクス道場での修業中にドリーから教えられたもの。
 
; ショルダースルー
 
: この技はほとんど相手の反撃にあって失敗する。いわゆる「お約束」的なムーブである。相手の攻撃を「引き出す」ための動きだが、鶴田に比較的余裕のある状態で行われるため、やや不自然なものであることが多い。ブルーザー・ブロディとのシングル戦では、双方がショルダースルーに行こうとしては反撃で失敗する「ダブルお約束」的シーンが見られた。
 
; タックル
 
: この技も、ほとんど相手の反撃にあって失敗する。いわゆる「お約束」的な動きである。コーナーに投げた相手に向かってタックルをかけるべく頭から突進するがキックを食らうかもしくは自爆。決まったことは数えるほどしかない。
 
; 場外でのヘッドロックから鉄柱攻撃
 
: この技もまた、ほとんど反撃にあって失敗する。いわゆる「お約束」的な動きである。場外で相手をヘッドロックにかかえたまま相手の頭部を鉄柱に打ち当てるべく突進。頭を抜かれて自分が鉄柱に体当たりする。
 
; [[キチンシンク]]
 
: ロープに振り、戻ってきた相手の腹部に膝蹴りを入れる。2、3回ほど行うのが常だった。特に川田利明の受けっぷりは見事であった。見ている者に最も痛みを感じさせる技とも言われた。長州が全日に参戦していた直後から鶴田も使い始めた事から、長州に影響を受けたものと思われる。
 
; 拷問コブラツイスト
 
: 通常の[[コブラツイスト]]と異なり、かけた相手の頬・側頭部を上から押さえつける。川田との拷問コブラ合戦は名場面の一つ。また、菊地毅はこの技を文字通り「押し潰される」ように受けた。
 
; [[ラリアット#レッグ・ラリアット|レッグ・ラリアット]]
 
: 対[[ブルーザー・ブロディ]]用秘密兵器、という触れ込みで開発された。[[木村健悟|木村健吾]]の技とはまったく違い、ジャンピング・ニーバットが横に流れた形。膝ではなく、脛が相手の首にヒットする。見た目がほとんどジャンピング・ニー・バットと変わらないことからあまり評判が良くなかったのか、数回使っただけで封印された。
 
; [[逆エビ固め]](ボストンクラブ)
 
: キャリア前半では、ジャンピング・ニーバットからスープレックスへのつなぎ技として多用していた。キャリア終盤時は体格差のある菊地毅へ決めた形が片仮名の「コ」に見えることから「コの字固め」とも呼ばれていた。馬場の「試合終了間際に攻めている方が強くみえる」という教えに沿って、残り時間が30秒を切ってから仕掛けることもよくあった。
 
; ジャンボホイップ
 
: [[アトミック・ドロップ]]の要領で抱え上げ、前方へ放り投げる荒技。菊地毅が主な犠牲者。ホイップせずにそのままアトミック・ドロップに行くことも。
 
; [[ランニング・ネックブリーカー・ドロップ]]
 
: 走りこんで相手の首に腕を掛けそのままマットに相手の後頭部を叩きつける。師匠馬場の必殺技であった。
 
; [[延髄斬り]]
 
: 相手の延髄めがけてジャンプをしながらハイキックを入れる。天龍が多用していた技でもある。鶴田の場合は軸足を掴まれた状態から放つキャッチ式[[延髄斬り#派生技|延髄斬り]]をここ一番で効果的に使っていた。
 
; [[十六文キック|ビッグブーツ]]
 
: 相手レスラーに向かってフロントキックをぶちかます。[[福沢朗]]アナは'''十四文キック'''、[[若林健治]]アナは'''ジャンボ・キック'''と呼称していた。ライバルのブルーザー・ブロディが死去したことで折角威力のある技であるし、ファンがブロディを忘れることがない様にと使う様にした。事実、試合でヘビー級レスラーをも吹っ飛ばしていた。1989年4月20日の三冠ヘビー級選手権では、天龍をパワーボムで失神させる前に、この技で天龍の歯をへし折っている。また、馬場とのコンビではダブル・フロントキックをよく使っていた(実況では三十文キックとも呼ばれた)。
 
; [[パイルドライバー]]
 
: ドリル・ア・ホール式で、相手の頭を股間に挟み込んでリングへ脳天を叩きつける。技の妨害を受ける心配がない場合は挟み込んだ体勢で四方に身体を向けてアピールしてから落とすこともあった。また、ライバルのブロディのパイルドライバー同様何らかの工夫をしていたのか、決まった時の衝撃音が非常に大きかった。
 
; [[痙攣]]
 
: 相手選手の攻撃を受けダウンした状態のとき(主にうつぶせの場合)ピクピクと痙攣するシーンも大一番ではよく見られた。似た技(?)で関節技をされている際に「足バタバタ」というのもある。「鶴田が痙攣してたり、足をバタバタさせている内はまだまだ余裕がある」というのは全日ファンの間では暗黙の認識だった。(鶴田が痙攣状態からそのままピンフォールを奪われたのは1988年3月のブロディとのインター・ヘビー級選手権くらいで、これらのムーブのあと何事もなかったかのように涼しい顔で反撃に出るのがほとんどだった)
 
 
 
== 生涯 ==
 
* [[山梨県立日川高等学校|県立日川高校]]時代、[[バスケットボール]]部で、全国高校選手権大会に出場。
 
* [[中央大学]]時代、[[アマチュアレスリング|レスリング]]で全日本選手権制覇。そのうち[[1971年]]のフリースタイルはレスリングでの実績がない選手2人を破っての優勝であり、同年のグレコローマンは他に出場選手がなく不戦勝による優勝<ref>日本体育協会編『日本アマチュアスポーツ年鑑 1972年版』(帝国地方行政学会, 1972年)</ref>となっている。
 
* 1971年のレスリング世界選手権にフリー<ref>[http://www.japan-wrestling.org/date/rekidai/worldFF.pdf 各年度優勝選手と日本代表選手成績(フリースタイル)] 日本レスリング協会</ref>・グレコ<ref>[http://www.japan-wrestling.org/date/rekidai/worldGR.pdf 各年度優勝選手と日本代表選手成績(グレコローマン)] 日本レスリング協会</ref>両スタイルで出場するが、ともに2戦2敗で敗退。
 
* [[1972年]]のレスリング全日本選手権では、同選手権での優勝経歴のある[[磯貝頼秀]]、[[山口勇雄]]を抑えてのフリー・グレコ両部門2連覇をはたしている。
 
* [[1872年ミュンヘンオリンピック|ミュンヘンオリンピック]]で、レスリング グレコローマン100kg超級に出場するも、2戦2敗<ref>[http://www.japan-wrestling.org/date/rekidai/top.htm 五輪日本代表選手 全成績(男女)] 日本レスリング協会</ref>。
 
* [[ジャイアント馬場]](以下、「馬場」)にスカウトされ、「全日本プロレスに就職します」とコメントし、プロレス界入り。
 
* [[1973年]]3月22日、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]修行。150戦消化の後、同年10月1日帰国。10月6日、日本デビュー戦([[後楽園ホール]])。
 
* [[1975年]]、馬場と組んでの、インタータッグ選手権。相手は[[ザ・ファンクス]]([[ドリー・ファンク・ジュニア]]と[[テリー・ファンク]]兄弟)。
 
* [[1976年]]8月28日、[[ユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座|UNヘビー級]]のタイトル獲得。
 
* 同年3月10日 - [[1979年]]1月5日まで、十番勝負。通算成績、4勝2敗4分。
 
* [[1983年]]8月31日、[[ブルーザー・ブロディ]]より、[[インターナショナル・ヘビー級王座]]獲得。第14代チャンピオンとなった。
 
* [[1984年]]2月23日、蔵前国技館においてニック・ボックウィンクルとの、[[AWA世界ヘビー級王座|AWA世界ヘビー]]、インター・ヘビーのダブルタイトル戦を行い、鶴田が勝利しインター・ヘビー級王座防衛ともに、第30代AWA世界ヘビー級王者となった。
 
*: その後、AWA王座を同年5月13日に[[リック・マーテル]]に敗れるまで16回の防衛を果たした。日米2国間を往復しての世界王座防衛は、日本人初の快挙。
 
* 1984年9月23日、元[[日本航空]]の[[客室乗務員|スチュワーデス]]であった、[[鶴田保子|荒牧保子]]と結婚。
 
* [[1985年]]11月14日、[[大阪城ホール]]での、対[[長州力]]戦。結果は、60分時間切れ引き分け。控え室で完全なスタミナ切れを起こしていた長州を尻目に、鶴田は街へ飲みに繰り出すという伝説を残す。
 
* [[1988年]]6月10日、[[日本武道館]]にて[[インターナショナル・タッグ王座|インターナショナル・タッグ]]王者・[[ロード・ウォリアーズ]]に勝利し、[[PWF世界タッグ王座|PWF世界タッグ]]と王座統一し、'''初代[[世界タッグ王座|世界タッグ王者]]'''となった(パートナーは[[谷津嘉章]])。
 
* [[1989年]]4月18日、東京大田区体育館で三冠統一戦を行いハンセンを破り、インター・ヘビー級・PWFヘビー級・UNヘビー級の各王座を統一し、'''[[三冠ヘビー級王座|三冠統一の初代王者]]'''となった。
 
* [[1990年]]4月19日、最後の対[[天龍源一郎]]戦。鶴田が勝利し、三冠王座二度目の防衛(天龍戦の通算成績は4勝3敗2分)。天龍はそれまでに日本人レスラーで唯一、馬場にピンフォール勝ち(3カウント勝ち)をしたレスラーで、それまで鶴田とも対等の闘いをしていたが、前シリーズでタッグ決別したハンセンによる試合前の襲撃(ラリアット)のダメージが回復しないまま、鶴田の勝利に終わる。シリーズ終了後に行われた新日本・全日本・WWF共催の[[東京ドーム]]大会直後、天龍は突如全日本プロレスを退団。
 
* [[1992年]]11月13日、自ら[[B型肝炎]]発症を告白、[[昭和大学|昭和大学病院]]へ長期入院。
 
* [[1993年]]3月退院、同年9月23日、リング上挨拶、同年10月23日復帰戦。
 
* [[1994年]]10月28日、[[筑波大学]]大学院修士課程体育研究科コーチ学、社会人特別選抜枠で受験し合格。
 
* [[1996年]]4月より、[[慶應義塾大学]]、[[桐蔭横浜大学]]の講師に就任。
 
* [[1997年]]3月、筑波大学大学院修了、4月より中央大学の講師となった。
 
* [[1998年]]5月1日、[[全日本プロレス]]東京ドーム大会に出場。[[菊地毅]]にバックドロップを披露。
 
* 1998年9月11日、現役最後の試合。[[ジャイアント馬場]]&[[ラッシャー木村]]と組み、[[渕正信]]、[[永源遙]]、[[菊地毅]]組と対戦。
 
* [[1999年]]2月20日、[[東京]][[永田町]]の[[キャピトル東急ホテル]]にて、引退記者会見。全日本プロレス取締役の辞任も発表。
 
* 同年3月6日、日本武道館に於いて引退セレモニー。
 
* 同年3月10日、[[アメリカ合衆国]][[オレゴン州]][[ポートランド (オレゴン州)|ポートランド]]州立大学に客員研究員として留学。スポーツ生理学。
 
* [[2000年]][[5月13日]]、[[フィリピン]]・[[マニラ]]にて、[[肝臓]]移植手術中にショック症状、出血多量により死去。{{死亡年月日と没年齢|1951|3|25|2000|5|13}}
 
* 同年6月18日、「ジャンボ鶴田メモリアル献花式」が[[青山葬儀所]]でとり行われる。
 
* 現在、山梨県の実家近く慶徳寺に永眠している。墓碑には「人生はチャレンジだ!!」と刻まれている。
 
 
 
== タイトル歴 ==
 
* [[三冠ヘビー級王座]] - 3度戴冠
 
* [[AWA世界ヘビー級王座]]
 
* [[インターナショナル・ヘビー級王座]] - 3度戴冠
 
* [[ユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座|UNヘビー級王座]] - 5度戴冠
 
* [[インターナショナル・タッグ王座]] - パートナーはジャイアント馬場、天龍源一郎、谷津嘉章。
 
* [[PWF世界タッグ王座]] - パートナーは[[三沢光晴|タイガーマスク]](2代目)、谷津嘉章。
 
* [[世界タッグ王座]] - 7度戴冠。パートナーは谷津嘉章(5回)、[[ザ・グレート・カブキ]]、[[田上明]](各1回)
 
* [[NWA (プロレス)|NWA]]認定デトロイトタッグ王座 - パートナーはジャイアント馬場。1980年6月28日にアメリカ合衆国[[デトロイト]]で行われたワンナイトトーナメントで優勝して獲得したが、1度も防衛戦を行わずにタイトルを返上した。
 
* [[チャンピオン・カーニバル (プロレス)|チャンピオン・カーニバル]] - 2度優勝。(1980年、1991年)
 
 
 
== 入場テーマ曲 ==
 
* チャイニーズ・カンフー
 
* ローリング・ドリーマー(作曲:[[川口真]]) - インストバージョンを使用。
 
* T.T.バックドロップ(1983年8月31日・[[ブルーザー・ブロディ]]戦(リングアウト勝ちによりインターヘビー級奪取の試合)のみの限定使用)
 
* J(作曲:[[鈴木宏昌]]、1983年12月から。1980年代前半とそれ以降でそれぞれ違うバージョンのものを使用していた)
 
 
 
== レコード発売 ==
 
* ローリング・ドリーマー(1981年、作詞:[[喜多條忠]] 作曲:川口真)
 
* 明日があるさ(1984年、作詞:[[山田孝雄 (作詞家)|山田孝雄]] 作曲:[[幸耕平]])
 
: ※[[坂本九]]の『[[明日があるさ]]』とは全く別の楽曲
 
 
 
== 著作 ==
 
* 『リングより愛をこめて:ジャンボ鶴田のファッショナブル・トーク』([[講談社]],1981年) ISBN 4-06-127769-3
 
* 『ジャンボ鶴田の受験は格闘技だ』([[ごま書房]],1996年) ISBN 4-341-01747-0
 
* 『ジャンボ鶴田のナチュラルパワー強化バイブル』([[ナツメ社]],1999年) ISBN 4-8163-2533-6
 
 
 
== 関連書籍 ==
 
* 東海林さだお編 『ラーメン大好き!!』(冬樹社,1982年)ISBN 4-10-136402-8
 
* 久堂一著、ジャンボ鶴田編 『熱き若武者の叫び:ジャンボ鶴田“青春マインド"』([[笠倉出版]],1983年)ISBN 4905587743
 
* 黒瀬悦成著 『ジャンボ鶴田第二のゴング』(朝日ソノラマ,1999年)ISBN 4-257-03527-7
 
* 鶴田保子著 『つぅさん、またね。:ジャンボ鶴田を支えた家族の記録』([[ベースボール・マガジン社]],2000年)ISBN 4-583-03595-0
 
 
 
== CM ==
 
* [[井関農機]]・コンバイン太郎
 
* [[日野自動車|日野]]・[[日野・レンジャー|レンジャー]]、[[日野・スーパードルフィン|スーパードルフィン]]
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[プロレスラー一覧]]
 
* [[男子レスリング選手一覧]]
 
* [[鶴藤長天]]
 
* [[鶴田保子]]
 
* [[ジャンボ鶴田試練の十番勝負]]
 
* [[清雲栄純]]
 
* [[1972年ミュンヘンオリンピックのバスケットボール競技・男子日本選手団]]
 
* [[甲斐錦勝]](元幕内力士。鶴田の叔父に当たる)
 
  
 
== 外部リンク ==
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.jumbo-t.com/index.html ジャンボ鶴田の部屋]
 
* [http://www.jumbo-t.com/index.html ジャンボ鶴田の部屋]
* [http://sportsnews.blog.ocn.ne.jp/column/fight100617_1_1.html プロレス最強王者列伝 第2回 ジャンボ鶴田]
 
* {{SportsReference|ts/tomomi-tsuruta-1|NAME=鶴田友美}}
 
* [http://www.onlineworldofwrestling.com/bios/j/jumbo-tsuruta/ Profile at OWW]
 
* [http://www.cagematch.net/?id=2&nr=593&gimmick=Jumbo+Tsuruta Profile at Cagematch]
 
 
{{全日本プロレス}}
 
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ジャンボ 鶴田(ジャンボ つるた、1951年3月25日 - 2000年5月13日

日本プロレスラー。本名および旧リングネーム:鶴田 友美(つるた ともみ)。三冠ヘビー級王座の初代王者であり、日本人初のAWA世界ヘビー級王者(第30代)。

外部リンク



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