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[[File:Mercator Congo map.jpg|thumb|180px|メルカトルによる地図 (1630年頃)]]
 
 
'''コンゴ王国'''(コンゴおうこく、{{Lang-kg|'''Kongo ya Ntotila'''}})は、[[14世紀]]末から[[1914年]]までの間、中部[[アフリカ]]大西洋岸にあった[[王国]]である。現在の[[コンゴ共和国]]・[[コンゴ民主共和国]]・北[[アンゴラ]]・[[ガボン]]に相当する地域を支配していた。首都は[[ンバンザ・コンゴ]]。
 
 
== 歴史 ==
 
コンゴ王国の成立は、14世紀の[[コンゴ人]]、{{仮リンク|ルケニ・ルア・ニミ|en|Lukeni lua Nimi}}が周辺諸国を平定したこととされる<ref name=oda25>[[#小田(1991)|小田(1991:25)]]</ref>。ヨーロッパ人がアフリカに来航する以前、コンゴ王国は、稠密な貿易網の上になりたつきわめて高度に整備された[[国家]]であった。
 
 
1482年に[[ポルトガル人]]の[[ディオゴ・カン]]が[[コンゴ川]]に到来し、コンゴ王国にもポルトガル人が来航した。1485年にはコンゴ王国とポルトガル王国の国交が結ばれ、両国の対等な関係と[[キリスト教]]の布教が承認された。[[1491年]]には[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]の宣教師が初めてンバンザ・コンゴに到達し、{{仮リンク|マニコンゴ|en|Manikongo|label=コンゴ王}}[[ジョアン1世 (コンゴ王)|ンジンガ・ンクウ]]は5月23日にカトリックに改宗し、ジョアンの洗礼名を受けた。また同じくカトリックの洗礼名アフォンソを受けた王子[[アフォンソ1世 (コンゴ王)|ンジンガ・ムベンバ]]をポルトガルへ留学させた。
 
 
1506年に[[アフォンソ1世 (コンゴ王)|アフォンソ1世]]が即位した。ヨーロッパ留学を経験していたアフォンソ1世はポルトガル語を学んで積極的に欧化政策を採り、首都もンバンザ・コンゴからサン・サルヴァドール(ポルトガル語で[[イエズス・クリストゥス|聖救世主]]を意味する)に改名された。しかし、同時代中からポルトガル商人による[[奴隷貿易]]が始まり、王国を蝕んでいった。アフォンソ1世は奴隷貿易の進行がコンゴを荒廃させていたことに鑑み、ポルトガル王[[ジョアン3世]]に奴隷貿易の停止を求める書簡を送ったが、ジョアン3世はポルトガルの国益のためにこの書簡を無視し、その後コンゴ王国はアフリカにおける[[奴隷貿易]]の中心地となった。
 
 
1545年にアフォンソ1世が没すると、コンゴでは反乱が相次ぎ、奴隷貿易とキリスト教の布教、そしてポルトガルの侵攻によってコンゴ王国は徐々に力を失っていった。[[1568年]]に{{仮リンク|ジャガ (コンゴ)|en|Jaga (Kongo)|label=ジャガ}}と呼ばれる武装部族集団がコンゴ王国に侵入し、コンゴ王{{仮リンク|アルヴァロ1世 (コンゴ王)|en|Álvaro I of Kongo|label=アルヴァロ1世}}が事態の収拾のために[[ポルトガル軍]]の派遣を要請したため、ポルトガル軍の実力によって独立を回復したコンゴ王はポルトガルへの帰順を誓わされ、以後コンゴ王国はポルトガルの属国となった。
 
 
1641年に即位した{{仮リンク|ガルシア2世 (コンゴ王)|en|Garcia II of Kongo|label=ガルシア2世}}はオランダとポルトガルの対立を利用して独立の維持を図り、この政策は功を奏してコンゴ王国は中興を遂げたが、ガルシア2世の死後、王位継承の混乱に乗じて[[1665年]]にアンゴラからポルトガル軍が侵攻し、{{仮リンク|アンブイラの戦い|en|Battle of Mbwila}}でコンゴ王国軍はポルトガル軍に敗れた。国王{{仮リンク|アントニオ1世 (コンゴ王)|en|António I of Kongo|label=アントニオ1世}}は廷臣に殺害された。これがきっかけとなり、[[:en:Kongo Civil War]]([[1665年]]–[[1709年]])が始まる。
 
 
コンゴ王国はその後も名目のみ存続したが、[[19世紀]]末、[[ベルギー]]と[[ポルトガル]]の[[植民地]]として分割統治をすることと決められ、王国は消滅した。これは[[1885年]]の[[ベルリン会議 (アフリカ分割)|ベルリン会議]]の決定によるものである。
 
 
 
== 歴代マニコンゴ ==
 
{{main|{{仮リンク|コンゴの統治者一覧|en|List of rulers of Kongo}}}}
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
== 参考文献 ==
 
{{脚注の不足|date=2016年10月|section=1}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[小田英郎]]|date=1991-09|title=世界現代史15──アフリカ現代史III 第2版|publisher=[[山川出版社]]|isbn=4-634-42150-X|ref=小田(1991)}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[川田順造]]編|date=2009-08|title=新版世界各国史10──アフリカ史|publisher=[[山川出版社]]|isbn=4-634-41400-6|ref=川田編(2009)}}
 
  
== 関連項目 ==
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'''コンゴ王国'''(コンゴおうこく、{{Lang-kg|'''Kongo ya Ntotila'''}})
* [[コンゴ人]]
 
* [[大航海時代]]
 
* [[奴隷貿易]]
 
* [[アフリカ分割]]
 
* [[アジア・アフリカ諸国の独立年表]]
 
  
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中央アフリカ西部,[[コンゴ川]]の南方に存在した王国。1390年頃にルケニ・ルア・ニミが樹立したとされる。首都は[[ムバンザコンゴ]]。1483年にポルトガル人が到来。1491年,国王ンジンガ・ア・ンクワと王子ムベンバ・ア・ンジンガは[[カトリック]]に改宗し,それぞれジョアン1世,アフォンソ1世の洗礼名を受けた。1509年頃に即位したアフォンソ1世は,[[奴隷貿易]]などの大西洋交易をめぐってポルトガル商人と対立した。1542年にアフォンソ1世が没したのち,激しい後継者争いが繰り広げられ,この混乱に乗じて 1568年に武装集団ジャガ族が東方から侵攻し王国を制圧した。アルバロ1世(ニミ・ア・ルケニ。在位 1568~87)は,ポルトガル軍の支援を得てようやく事態を収拾した。またガルシア2世(ンカンガ・ア・ルケニ。在位 1641~61)はオランダと手を組み,ポルトガルに対抗した。王国とポルトガルは統治権をめぐって対立し,小規模な衝突を繰り返したが,1665年10月29日にムブウィラの戦い(ウランガの戦い)に発展し,アントニオ1世(ンビタ・ア・ンカンガ)が殺害された。これ以降,王国は名目上は存続したが,統一国家としての機能は果たさず,17世紀末まで内戦が続いた。ポルトガルは後継者争いに介入し,ペドロ5世(アグア・ロサダ・レロ。在位 1859~91)を擁立。1913~14年,ポルトガル人の統治に対してアルバロ・ブタが反乱を起こした。反乱は鎮圧され,これを引き金に王国は崩壊,ポルトガル領アンゴラに併合された。
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コンゴ王国(コンゴおうこく、コンゴ語: Kongo ya Ntotila

中央アフリカ西部,コンゴ川の南方に存在した王国。1390年頃にルケニ・ルア・ニミが樹立したとされる。首都はムバンザコンゴ。1483年にポルトガル人が到来。1491年,国王ンジンガ・ア・ンクワと王子ムベンバ・ア・ンジンガはカトリックに改宗し,それぞれジョアン1世,アフォンソ1世の洗礼名を受けた。1509年頃に即位したアフォンソ1世は,奴隷貿易などの大西洋交易をめぐってポルトガル商人と対立した。1542年にアフォンソ1世が没したのち,激しい後継者争いが繰り広げられ,この混乱に乗じて 1568年に武装集団ジャガ族が東方から侵攻し王国を制圧した。アルバロ1世(ニミ・ア・ルケニ。在位 1568~87)は,ポルトガル軍の支援を得てようやく事態を収拾した。またガルシア2世(ンカンガ・ア・ルケニ。在位 1641~61)はオランダと手を組み,ポルトガルに対抗した。王国とポルトガルは統治権をめぐって対立し,小規模な衝突を繰り返したが,1665年10月29日にムブウィラの戦い(ウランガの戦い)に発展し,アントニオ1世(ンビタ・ア・ンカンガ)が殺害された。これ以降,王国は名目上は存続したが,統一国家としての機能は果たさず,17世紀末まで内戦が続いた。ポルトガルは後継者争いに介入し,ペドロ5世(アグア・ロサダ・レロ。在位 1859~91)を擁立。1913~14年,ポルトガル人の統治に対してアルバロ・ブタが反乱を起こした。反乱は鎮圧され,これを引き金に王国は崩壊,ポルトガル領アンゴラに併合された。



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