actions

「コサック」の版間の差分

(1版 をインポートしました)
 
1行目: 1行目:
{{Otheruses}}
 
[[ファイル:Cossack Mamay 1890.jpg|thumb|250px|[[コサック・ママーイ]]。コサックの理想像。]]
 
  
'''コサック'''({{lang-uk|''козак''}}<ref>'''コザーク'''、'''カザーク'''、'''コザック'''などとも書かれる。({{lang-uk|''козак''}} <small>コザーク</small>、複数形は''{{lang|uk|козаки}}'' <small>コザクィー</small>。{{lang-pl|''kozak''}} <small>コザーク</small>、複数形は''{{lang|pl|kozacy}}'' <small>コザーツィ</small>。{{lang-ru|''казак''}} <small>カザーク</small>、複数形は''{{lang|ru|казаки}}'' <small>カザキー</small>)</ref>、'''哥薩克''')は、[[ウクライナ]]と南[[ロシア]]などに15世紀以降に帝政ロシアの農奴制から逃亡した農民や没落貴族で形成された独特の軍事的[[共同体]]、またはその共同体の一員である。18世紀以降から帝政ロシアによる自治剝奪後に国境警備や領土拡張の先兵、国内の民衆運動の鎮圧などを行った<ref>{{Cite web|url=https://www.sankei.com/world/news/180524/wor1805240021-n1.html|title=デモ参加者に襲いかかるコサック ロシアに漂う危険な兆候|accessdate=2018年5月25日|publisher=}}</ref>。
+
'''コサック'''({{lang-uk|''козак''}}<ref>'''コザーク'''、'''カザーク'''、'''コザック'''などとも書かれる。({{lang-uk|''козак''}} <small>コザーク</small>、複数形は''{{lang|uk|козаки}}'' <small>コザクィー</small>。{{lang-pl|''kozak''}} <small>コザーク</small>、複数形は''{{lang|pl|kozacy}}'' <small>コザーツィ</small>。{{lang-ru|''казак''}} <small>カザーク</small>、複数形は''{{lang|ru|казаки}}'' <small>カザキー</small>)</ref>、'''哥薩克'''
  
== 概要 ==
+
ロシア語ではカザークと呼ばれる。「自由な人」「豪胆な者」を意味するトルコ語に由来する。元来はドネプル川下流域を活躍の舞台とする半独立的タタール人の一団をさした。 15世紀になるとロシアとポーランド・リトアニア (リトワ) 国家の抑圧,搾取を嫌って,多数の農民,手工業者が南方に逃れ,みずから「自由な人」すなわちコサックと称するようになった。彼らは周囲の封建国家,遊牧民などとの戦いの必要上,一種の軍事共同体を組織した。
[[Image:Repin Cossacks.jpg|thumb|250px|[[オスマン帝国]]の[[スルターン|スルタン]]へ手紙を書く[[ウクライナ・コサック|ザポロージャ・コサック]]([[イリヤ・レーピン]]、[[1880年]])。]]
 
[[ファイル:23. Kozaky rozvazhajutsa.jpg|thumb|250px|遊び中のコサック(ティモフィイ・カルィーンシクィイ、[[1786年]])。]]
 
[[ファイル:Pymonenko U pohid 1902.jpg|thumb|250px|出陣へ([[ムィコーラ・プィモネーンコ]]、[[1902年]])]]
 
  
コサックの起源については不明な点が多い。[[15世紀]]後半にコサックは、[[ウクライナ]]の中南部、「[[荒野 (ウクライナ)|荒野]]」という[[草原]]地帯で発祥し、[[ドニエプル川|ドニプロ川]]の中流を中心とする[[ザポロージャ]]地方に[[シーチ|根拠地]]を築いた。[[16世紀]]にコサックの一部は[[ドン川]]の下流に移住し、そこで新たな根拠地を創立した。それらのコサックは[[ウクライナ・コサック|ザポロージャ・コサック]]<ref>いわゆる[[ウクライナ・コサック]]。[[リトアニア大公国]]、[[ポーランド王国]](後に[[ポーランド・リトアニア共和国]]として一体化)、[[ロシア帝国]]によって支配された[[ウクライナ]]という地域(主として現在のウクライナの辺り)に住んでいたコサック。</ref>と[[ドン・コサック]]<ref>いわゆる[[ロシア・コサック|ロシアのコサック]]。[[ロシア帝国]]によって支配された[[ドン]]、[[クバーニ]]、[[ウラル]]、[[極東ロシア|極東]]の地域(現在の南部のロシアの辺り)に生活したコサック。</ref>と呼ばれ、コサック諸軍の中で最古軍であった。初期のコサックは、没落した[[欧州]]諸国の[[貴族]]と[[遊牧民]]の[[盗賊]]によって構成され、[[河川]]が豊かな土地を有する自治共同体を編成し、[[黒海]]・[[アゾフ海]]の北岸地帯で略奪行為を行い、東欧における[[キリスト教]]の世界の先隊として[[イスラム]]の諸勢力と戦った。
+
15世紀末から 16世紀初頭,まずドン,ボルガ,ドネプル,ヤイクなどのコサック組織が,次いでザポロージエ,テレク,さらにシベリア・コサックなどが発生した。すでに 16世紀後半,ポーランド王はウクライナのザポロージエ・コサックの一部を登録コサックとして認めて特権を与え,国境警備などの軍事義務を課していた。しかし統制が強まるにつれ摩擦がふえ,17世紀中頃ボグダン・[[フメリニツキー]]下のウクライナ・コサックはポーランド王に反乱を起し,モスクワの[[ツァーリ]]に保護を求めたため,ウクライナにもロシア皇帝の権威が及ぶようになった。以後ロシア皇帝はコサックを国境警備や領土拡張,のちには国内の革命運動の鎮圧に積極的に活用することとなった。コサックは当初自治を認められていたが,17世紀後半になると削減されはじめ,[[ステンカ・ラージン]][[K.A.ブラービン]][[E.I.プガチョーフ]]らのたび重なる反乱にもかかわらず,ついにはロシア皇帝の軍事勤務人の地位に落された。 20世紀初頭,ロシアにはドン,クバン,ウラルなど 12のコサックのボイスコ (軍管区) があり,1200万の人口を数え,そのうちコサックとしての特別の身分をもつ者は 500万人以上であった。ロシア革命後の内戦でコサックは赤軍,白衛軍に分裂して戦い,第2次世界大戦中には,古くからのコサック社会はソ連の新しい行政機構のなかに解消した。
 
 
16世紀後半にコサックは隣国の保護を受け、正式な軍団として公認された。ウクライナのザポロージャ・コサックは[[ポーランド・リトアニア共和国]]に属するようになり、ドン・コサックは[[ロシア・ツァーリ国]]に依存するようになった。しかし、両国はコサックを軍事力として利用しながら、コサックの自治権を縮減してコサックの領地を自国にものにする政策を実行していたためにコサックはしばしば保護国に対して叛乱を繰り返した。
 
 
 
叛乱の中で特に規模が大きかったのは[[1648年]]の[[フメリヌィーツィクィイの乱]]と[[1670年]]の[[ラージンの乱]]であった。後者はドン・コサックの失敗に終わり、ドン地帯はロシア領となった。それに対して、前者はウクライナにおけるザポロージャ・コサックの[[ヘーチマン国家|国家]]を誕生させ、ポーランド・リトアニア共和国の衰退を促した。コサックの国家は、独立を維持するためにロシアの保護を受けたが、[[ポーランド王国]]、[[オスマン帝国]]、[[クリミア・ハン国]]に対する盾となり、東欧におけるロシアの強国化に貢献した。
 
 
 
[[17世紀]]後半から[[18世紀]]にかけてロシアに対しドン・コサックは、[[ラージンの乱]]([[1670年]] - [[1671年]])、{{仮リンク|ブラヴィンの乱|ru|Булавинское восстание|en|Bulavin Rebellion}}、[[プガチョフの乱]]([[1773年]] - [[1775年]])などを起こしたが、いずれもロシア軍によって鎮圧された結果、ドン・コサックは完全にロシアの体制に取り込まれた。一方、ザポロージャ・コサックは[[大北方戦争]]の際にロシアに反発したり、コサック国家の近代化によって自国存続を強く意識したりしていたので、18世紀末に「分離主義者」として[[ロシア帝国]]によって滅亡させられた。
 
 
 
[[19世紀]]に入ると、ロシアにおけるコサックは貴族・聖職者・農民・商人とならぶ[[階級]]の一つとなり、税金免除の引き換えに騎兵として常の[[兵役]]の義務が課された。ロシアはザポロージャ・コサックとドン・コサックをモデルに[[植民地]]化すべく地域において十数のコサック軍団を編成し、それらを[[国境]]防備や[[治安]]維持などのために活用した。コサック諸軍団の中に、ドン・コサックと並んで、[[カフカズ戦争]]や[[ロシア・トルコ戦争]]に高名をあげた[[クバーニ・コサック]]の役割が大きかった。
 
 
 
[[1917年]]に[[ロシア革命]]が勃発して[[ロシア内戦]]が始まると、[[ウクライナ国|ウクライナ]]、[[ドン民共和国|ドン]]、[[クバーニ人民共和国|クバーニ]]においてコサック三国が独立を宣言した。三国はロシア[[白軍]]および[[シベリア]]のコサック諸軍と共にロシアの[[ソビエト連邦共産党|共産党]]とその[[赤軍]]に抵抗したが、敗北した。[[1918年]]から[[1920年]]にかけてコサック階級は排除され、コサック諸軍は廃軍となった。内戦後、裕福なコサックの一部は欧米諸国へ逃亡したが、残されたコサックは共産党による苛烈な弾圧の対象となった。ソビエト政府はコサックの大部分とそれらの家族全員を死刑もしくは流刑し、[[ホロドモール]]によって餓死させた。そのため[[第二次世界大戦]]においてコサックの残党はドイツ軍に味方し、ソ連軍と戦った。ドイツの敗北とともに、コサックは共同体としての姿を消した。
 
 
 
[[ソ連崩壊]]後、[[ウクライナ]]や[[ロシア]]の市民団体はコサックの復帰運動を行っている。現在、ウクライナ、ロシア、[[カザフスタン]]、[[アメリカ]]などにおいて「コサック軍」と名のるいくつかの組織が存在している。組織の活動はコサック文化振興から軍事支援までの広い範囲にわたっている。なお、国のレベルでコサックの遺産を受け継いでいるのは[[ウクライナ]]である。
 
 
 
== 語源 ==
 
[[ファイル:Czaty nad Dnieprem.jpg|thumb|right|250px|[[ドニプロ川]]の河岸でのコサックの見張番。]]
 
「コサック」という[[日本語]]の単語は[[英語]]の「Cossack」の発音記号に書き換えたものであるが、英語の単語は[[フランス語]]の「Cosaque」から借用した外来語である。その外来語は[[ウクライナ語]]の「{{lang|uk|козак}}」(コザーク)に由来している。しかし、「コザーク」の語源については定説はなく、以下にいくつかの仮説を説明する。
 
*「コザーク」は[[クリミア・タタール語]]などの[[テュルク語]]の「Qazaq」(カザーク)に由来し、「自由の人」・「冒険家」・「放浪者」を意味している<ref>{{uk icon}} {{lang|uk|''Етимологічний словник української мови'': в 7 т.}}(ウクライナ語源辞典。7巻){{lang|uk|/ ред. Л.К. Артемєва. - К.: Наукова думка, 1985. - Т.2. – 495 с.}}</ref>。
 
*「コザーク」は{{仮リンク|クマン語 (テュルク語族)|label=クマン語|en|Cuman language}}の「Cosac」(コザク)の言葉で、[[13世紀]]に作成されたクマン語の辞典『[[:en:Codex Cumanicus|コーデクス・クマニクス]]』に見られ、「番」・「警備」を意味している<ref>{{uk icon}} {{lang|uk|Грушевский М.С. ''Нариси історії українського народу''}}(ウクライナ民族概略史){{lang|uk|. – К.: Либідь, 1990. – 400 с.}};{{lang|uk|Дорошенко Д.І. ''Нариси історії України'': в 2 т.}}(ウクライナ概略史。2巻){{lang|uk|– К.: Глобус, 1991. – Т.1 - 238 с.}}</ref>。
 
*「コザーク」はクマン語とクリミア・タタール語に由来し、「自由の人」・「冒険家」・「放浪者」・「番人」・「盗賊」・「傭兵」などの多様な意味合いを持つ外来語である<ref>{{uk icon}} {{lang|uk|''Україна – козацька держава''}}(コサックの国ウクライナ){{lang|uk|/ ред. Недяк В.В.; Наукові ред. Щербак В.О., Федорук О.К. – К.: Емма, 2004. – 1216 с.}}</ref>。
 
現在の研究史によって却下された仮説は次のようなものである。
 
*[[中世]]後期の[[ポーランド]]の歴史学者によれば、「コザーク」は古代コサックの頭領であったコザークという人物の名前に由来している<ref>{{pl icon}} Stryjkowski M. ''Kronika Polska Litewska, Zmudzka i Wszystkie Rusi''. Georg. Osterberger, Królewiec. 1582.</ref>
 
*[[近世]]のポーランドの学者によれば、「コザーク」は、ウクライナ語の「コザー」([[山羊]])に由来している。理由は、コサックが山羊のように身動きが軽くて素早いであること<ref>{{pl icon}} ''Kronika Pawla Piaseckiego, biskupa przemyslskiego''. Krakow, 1870.- p. 46.</ref>、また、コサックが野生の山羊を狩猟していたこと<ref>Twardowski S. ''Wojna domowa''.— Calissii.— 1681.- p.2-3.</ref>からであるという。
 
 
 
== 経緯 ==
 
=== ウクライナ・コサック ===
 
{{Main|ウクライナ・コサック|登録コサック}}
 
[[ファイル:22. Kozak z golovoju tatarina.jpg|thumb|250px|[[イスラーム教徒]]の頸を串指しにしている凱旋のウクライナ・コサック(ティモフィイ・カルィーンシクィイ、1786年の画像)。]]
 
コサックは、本来は14世紀後半から現在のウクライナに当たる地域を治めていた自治集団のことであった。ウクライナ語の発音に近い表記は「コザーク」となる。一般に、最も有力だった「[[ザポロージャ]]・コザーク」が「[[ドニエプル川|ドニプロ]]・コサック」または「[[ウクライナ・コサック]]」の一つ集団として知られている。現在のウクライナの地域にあったコサック集団はそこにあった町や村の数だけあったと言え、それらが基本的には互いに独立して西欧における小国家<small>(ドイツ地域の王国、公国などのような)</small>と同じような小共同体を形成していた。
 
 
 
ウクライナは[[バトゥ]]率いる[[モンゴル帝国]]の襲来により中央集権国家[[キエフ・ルーシ]]が崩壊した後、[[リトアニア大公国]]、[[ポーランド王国]]、[[モスクワ大公国]]等様々な周辺国によって支配されてきた経緯があるため、コサックもそれら様々な勢力に属し、或は独立を求めて反旗を翻してきた。ポーランドに対し叛乱を起こした[[ボフダン・フメリニツキー]]、ロシアに対して叛乱を起こした[[イヴァン・マゼーパ]]は特に有名である。しかしながら、ウクライナの[[ロシア・ツァーリ国]]への併合によって、ウクライナのコサックの独立は失われた。
 
 
 
=== ロシア・コサック ===
 
[[ファイル:Amur Cossaks 189x 190x.JPG|thumb|right|250px|ロシアの[[アムール・コサック]]。]]
 
ロシア・コサックは、ウクライナのコサックをモデルに[[ロシア帝国]]によって編成された半農武装集団である。ロシア帝国のコサック兵は、[[アストラハン・コサック軍|アストラハン]]、[[アムール・コサック軍|アムール]]、[[クバーニ・コサック軍|クバーニ]]、[[テレク・コサック軍|テレク]]、[[ドン・コサック軍|ドン]]、{{仮リンク|ウラル・コサック|en|Ural Cossacks|label=ウラル}}、[[ザバイカル・コサック軍|ザバイカル]]などの特別軍管区に生活し、平時には農耕を行い、有事には軍務を行うことを条件に特権的な土地使用を認められた階級をなしていた。
 
 
 
なお、[[ロシア語]]では、コサックは「カザーク」と呼ばれる。ロシア・コサックは、しばしば異民族の富やツァーリからの恩賞を求めて[[アジア]]へと進出し、北・東アジアにおけるロシア植民地化政策に多く貢献した。[[ロシア革命]]とそれに続く[[ロシア内戦]]の際には、コサック兵たちは[[反革命]]側の強大な軍事勢力を形成し、各地で[[赤軍]]と大規模な戦闘を繰り広げた。クバーニなどのコサックはツァーリの処刑後独立を宣言したが、こうした「独立政権」は旧ロシア帝国領内に無数に誕生した。
 
 
 
==== 日露戦争 ====
 
[[ファイル:Battle of Yalu River 1904.jpg|250px|thumb|[[日露戦争]]中のコサック。]]
 
[[1904年]]に日露戦争が勃発すると、ロシア帝国の[[極東ロシア|極東]]に駐屯する[[アムール・コサック|アムール]]、[[ザバイカル・コサック|ザバイカル]]、{{仮リンク|ウスリ・コサック|en|Ussuri Cossacks|label=ウスリ}}、{{仮リンク|シベリア・コサック|en|Siberian Cossacks|label=シベリア}}のコサック諸軍が動員された。1904年4月にザバイカル・コサックが戦線に出発し、それに続くシベリア・コサック師団(4連隊)、ウラル・コサック旅団(2連隊)、ウスリ・コサック連隊、クバーニ=テレク・コサック混合連隊も戦地に赴いた。さらに7月に{{仮リンク|オレンブルク・コサック|en|Orenburg Cossacks}}師団(4連隊)も加わった。コサックの諸部隊は、南[[満州]]での[[鴨緑江会戦]]、[[遼陽会戦]]、[[沙河会戦]]などに参加したが、ロシア軍の司令官に判断力が不足していたため、コサックの騎兵は力を発揮することができなかった。一方、ザバイカル・コサックの歩兵と砲兵は[[旅順攻囲戦|旅順防戦]]に参加し、二百三高地の防衛で活躍した。旅順防戦で活躍したロシア軍側の司令官[[ロマン・コンドラチェンコ]]と大砲隊の指揮官[[ヴァスィーリ・ビールィイ]]も、ウクライナ・コサックの家系である。
 
 
 
1904年9月に第4[[ドン・コサック]]師団(4連隊)が戦地に到着し、それに続く[[1905年]]4月にカフカス・コサック混合師団([[クバーニ・コサック]]の2つの連隊と、[[テレク・コサック]]の2つの連隊)ならびに第2クバーニ歩兵連隊(6大隊)が満州についた。[[パウロー・ミーシチェンコ]]大将が率いるコサックの諸部隊は1904年12月に[[営口市]]を襲撃し、1905年1月に[[黒溝台会戦]]にも参加した。さらに、1905年2月にシベリア・コサックは17日にわたる[[奉天会戦]]にも戦った。5月から6月にかけて、ミーシチェンコ大将のウラル・ザバイカル・クバーニ・テレクのコサック混合部隊は日本軍の陣地の背後を襲撃して荒らしたが、戦況を変えることはできなかった。
 
 
 
=== コサックの滅亡 ===
 
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 146-1975-099-15A, Russland, Kosaken in der Wehrmacht.jpg|250px|thumb|[[ドイツ国防軍]]のコサック部隊]]
 
 
 
[[ロシア革命]]において政権を掌握した[[ボリシェヴィキ]]は、コサックを「敵階級」「反革命分子」と見なし、[[ロシア内戦]]において徹底的に弾圧した。[[赤軍]]と[[チェーカー]]の手によりコサックの一掃が行われ、人口440万人の70%に当たる308万人が、戦闘、処刑、流刑などで死亡した。
 
 
 
[[レーニン]]の後継者となった[[スターリン]]も、レーニンのコサック根絶政策を忠実に継承し、[[ホロドモール]]によって多くのコサックが餓死した。弾圧を逃れたコサックの多くは海外に逃れた後に、[[独ソ戦]]において[[ドイツ軍]]に協力した。第二次大戦が終わると一部が欧米諸国へ逃亡するものの、ソ連軍に強制連行されるなどして過酷な運命を辿った者も少なくない。
 
 
 
その一方でソ連政府は、1936年に共産党に従順なコサックを中心に赤コサック軍として編成し始めたが、基準に合ったコサックは殆どいなかったので、[[内務人民委員部]]の士官や[[赤軍]]の兵士、そして非コサックであった町人や農民が赤コサック軍の多数を占めた。結果として、クバーニやドンなどでは従来のコサックの姿は殆ど消え、赤コサック軍の軍人が住居するようになった。
 
 
 
=== 復帰の試み ===
 
[[1991年]]にソ連が崩壊し、ウクライナとロシアにおいて政治家や市民団体はコサックの復帰運動を開催した。
 
 
 
[[ロシア連邦]]で「ロシアの国土を広げ、それを守る愛国者」と見直しは進められ、[[プーチン]]政権における[[ロシア軍]]の「愛国主義養成プログラム」では「コサックの歴史」の学習が軍の幹部養成学校では必須となった<ref>「NHKスペシャル 揺れる大国 プーチンのロシア」2009年3月23日午後10時放送「プーチンの子どもたち」([[日本放送協会]]製作)より</ref>。現在{{いつ|date=2013年12月}}、ロシアで自ら「コサック」と名乗っている人は300万人。プーチンとロシアを熱烈に支持している。チェチェンなどの紛争にも積極的に参加している<ref>「新シルクロード 激動の大地をゆく」2007年6月24日(日)午後9時 「荒野に響く声 祖国へ」より</ref>。ロシア正規軍への志願とは別に[[義勇兵]]として戦地に赴くことに彼らの特徴がある。
 
 
 
== コサックの有名人 ==
 
*[[イヴァン・マゼーパ]] - [[ウクライナ・コサック]]の[[ヘーチマン|頭領]]。[[大北方戦争]]中にスウェーデンに寝返ってロシアと戦った。[[ピョートル・チャイコフスキー|ピョートル・チャイコーフスキイ]]の[[オペラ]]「[[マゼッパ (チャイコフスキー)|マゼッパ]]」([[1884年]])に描かれている。また、[[フランツ・リスト]]も「[[マゼッパ (リスト)|マゼッパ]]」で題材にしている。
 
*[[イェルマーク]] - コサックの[[アタマン|長]]。ロシアの富豪[[ストローガノフ家]]に雇われ、[[シビル・ハン国]]の征服者とされるが、彼自身はシビル・ハン国滅亡の前に戦死した。
 
*[[グリゴリー・セミョーノフ]] - ザバイカル・コサックの長。[[ロシア革命]]後の[[ロシア内戦]]時代、反革命勢力に与して戦い、日本軍に協力した。
 
*[[スチェパン・ラージン]] - [[ドン・コサック]]の長。[[ラージンの乱]]の指導者。
 
*[[ペトロー・コナシェーヴィチ・サハイダーチュヌィイ|ペトロー・サハイダーチュヌィイ]] - ウクライナ・コサックの頭領、コサック海軍の開祖。
 
*[[ボフダン・フメリニツキー]] - ウクライナ・コサックの頭領、[[フメリヌィーツィクィイの乱]]の指導者。
 
*[[エメリヤン・プガチョフ]] - コサックの長。[[プガチョフの乱]]の指導者。
 
*[[セルゲイ・ジャーロフ]] - [[ドン・コサック]]軍の副官であった。[[1921年]]1月、ジャーロフは[[トルコ]]の捕虜収容所にいたコサックやロシア人難民を集め、ドン・コサック合唱団を結成した。この合唱団は西欧、米国や日本にて高い人気を得た。
 
 
 
== その他 ==
 
コサックに付随するものとしては、以下のようなものがある。
 
*[[コサック・ダンス]]は、文字通りには「コサックがする踊り」のことであるが、日本では特に「腰を低くして腕を組み、足を高く上げて踊る独特の[[ダンス]]」という[[固定観念|ステレオタイプ]]が定着している。コサックのダンスには、実際にはこの他にもいろいろなスタイルのものがある。
 
*コサック ({{lang|en|Cossack}}) は、[[An-225 (輸送機)|An-225ムリーヤ]]に対して[[北大西洋条約機構|NATO]]が付けた[[NATOコードネーム|コードネーム]]。
 
*[[コサック (駆逐艦・2代)|コサック]]は、[[イギリス海軍]]の[[駆逐艦]]の名称。
 
*「[[コサックス]]」は、ウクライナの[[コンピューターゲーム]]。[[フランス]]軍がロシア帝国に侵攻し、ロシア帝国の支配に対するウクライナの民族主義の盛り上がっていた[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]時代を背景に作られている。「コサックス2」も現在ウクライナ等で売り出されており、日本で[[2005年]]に行われた[[2005年日本国際博覧会|愛知万博]]のウクライナ館でも宣伝されていた。
 
*『[[コサック (アニメ)|コサック]]』というアニメシリーズがある。
 
*映画「007」シリーズで、007([[ジェームズ・ボンド]])の同僚[[ジェームズ・ボンド#他の00要員|006]](アレック・トレヴェルヤン)はコサック出身の孤児という設定であった。多くの[[ハリウッド]]映画で悪役を演じている[[ショーン・ビーン]]が役を演じ、ジェームズ・ボンドを裏切って殺された。シリーズ第17作『[[007 ゴールデンアイ]]』([[1995年]])に登場。
 
*東映制作の[[スーパー戦隊シリーズ]]の第3作(現在の作品に直接繋がるシリーズとしては第1作)・『[[バトルフィーバーJ]]』には、ユーラシアを代表する戦士として、南ロシア・中央アジアにゆかりがあり、コサック・ダンスを応用した技を持つバトルコサックが登場する。
 
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[アタマン|オタマン]]
 
*[[ウクライナ・コサック]]
 
*[[コサック・ダンス]]
 
*[[ヘーチマン]]
 
*[[ハイダマーカ]]
 
コサックの反乱
 
*[[ナルィヴァーイコの乱]]
 
*[[フメリヌィーツィクィイの乱]]
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
*{{ja icon}} コサック / 阿部重雄著; 新装. 教育社, 1986.
 
*{{ja icon}} 『ポーランド・ウクライナ・バルト史 』/ 伊東孝之, 井内敏夫, 中井和夫. 山川出版社, 1998.12. (新版世界各国史 ; 20)
 
*{{uk icon}} {{lang|uk|Голобуцький В. ''Запорозьке козацтво''. — К., 1994.}}
 
*{{uk icon}} {{lang|uk|Грушевський М.С. ''Історія України-Руси''. – Т. 4-10. – К., 1993-1999}}
 
*{{uk icon}} {{lang|ru|Рігельман О. І. ''Літописна оповідь про Малу Росію та її народ і козаків узагалі'' / Вст. ст., упор. та примітки П. М. Саса, В. О.Щербака. — К.: Либідь, 1994.}}
 
*{{uk icon}} {{lang|uk|Щербак В. О. ''Українське козацтво: формування соціального стану''.— К., 2000.}}
 
*{{uk icon}} {{lang|uk|Яворницький Д.І. ''Історія запорозьких козаків''. – Т. 1.-3. – К., 1990-1993}}
 
*{{ru icon}} {{lang|ru|Висковатов А. В. ''Историческое описание одежды и вооружения российских войск, с рисунками, составленное по высочайшему повелению'': в 30 т.: в 60 кн. — Факсимильное издание 1841–1862 гг. — СПб.: Альфарет, 2007–2008.}}
 
*{{ru icon}} {{lang|ru|''Донские казаки в прошлом и настоящем'' / под общ. редакцией Ю.Г. Волкова. Изд-во Ростовского университета, 1998.}}
 
*{{ru icon}} {{lang|ru|''История казачества Азиатской России'' : в 3 т. / В.В. Алексеев ; Н.А. Миненко. - Екатеринбург, 1995.}}
 
*{{ru icon}} {{lang|ru|Таирова-Яковлева Т. ''Мазепа''. - Москва: Молодая гвардия, 2007.}}
 
 
 
*{{en icon}} ''Cossack rebellions : social turmoil in the sixteenth-century Ukraine'' / Linda Gordon. State University of New York Press, 1983.
 
*{{en icon}} ''The Cossacks of the Ukraine'' / New York: AMS Press, 1985.
 
*{{en icon}} ''Cossacks in the German army, 1941-1945'' / Samuel J. Newland. London, England; Portland, Or.: F. Cass, 1991.
 
*{{en icon}} ''The Cossacks : an illustrated history'' / John Ure. Overlook, 2002
 
*{{en icon}} ''The Cossacks'' / Shane O'Rourke. Manchester University Press, 2007.
 
*{{de icon}} ''Die Geschichte der Kosaken: wilder Osten 1500-1700'' / Klaus J. Gröper. Bertelsmann, 1976.
 
*{{de icon}} ''Führer und Geführte bei den Zaporogser Kosaken : Struktur und Geschichte kosakischer Verbände im polnisch-litauischen Grenzland (1550-1648)'' / Carsten kumke. O. Harrassowitz, 1993.
 
*{{fr icon}} ''Les Cosaques de l'Ukraine : rôle historique, représentations littéraires et artistiques : actes du 5e colloque international franco-ukrainien'' / textes réunis et présentés par Michel Cadot et Émile Kruba. Presses de la Sorbonne nouvelle, 1995.
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{Commonscat|Cossacks}}
 
* [http://history.franko.lviv.ua/IIIh.htm 『ウクライナ史事典』/ I.ピドコーヴァ、R.シュースト編. — キエフ: ゲネザ, 1993.] {{uk icon}}
 
* [http://www.encyclopediaofukraine.com/display.asp?AddButton=pages\D\A\DanubianSich.htm コサック・ポーランド戦争(ウクライナ百科辞典)]{{en icon}}
 
* [http://www.youtube.com/watch?v=5aatGbjRPRM&feature=channel_page フメリヌィーツィクィイの乱時代のの流行歌]{{uk icon}} {{ja icon}}
 
* [http://jp.rbth.com/arts/2014/03/25/20_47671.html 20世紀のコサックの運命] ロシアNOW
 
* [http://jp.rbth.com/arts/2013/06/25/43773.html 「コサック」とは「自由人」のこと] ロシアNOW
 
  
 +
{{テンプレート:20180815sk}}
 
{{DEFAULTSORT:こさつく}}
 
{{DEFAULTSORT:こさつく}}
 
[[Category:コサック|*]]
 
[[Category:コサック|*]]

2018/10/16/ (火) 19:14時点における最新版

コサックウクライナ語: козак[1]哥薩克

ロシア語ではカザークと呼ばれる。「自由な人」「豪胆な者」を意味するトルコ語に由来する。元来はドネプル川下流域を活躍の舞台とする半独立的タタール人の一団をさした。 15世紀になるとロシアとポーランド・リトアニア (リトワ) 国家の抑圧,搾取を嫌って,多数の農民,手工業者が南方に逃れ,みずから「自由な人」すなわちコサックと称するようになった。彼らは周囲の封建国家,遊牧民などとの戦いの必要上,一種の軍事共同体を組織した。

15世紀末から 16世紀初頭,まずドン,ボルガ,ドネプル,ヤイクなどのコサック組織が,次いでザポロージエ,テレク,さらにシベリア・コサックなどが発生した。すでに 16世紀後半,ポーランド王はウクライナのザポロージエ・コサックの一部を登録コサックとして認めて特権を与え,国境警備などの軍事義務を課していた。しかし統制が強まるにつれ摩擦がふえ,17世紀中頃ボグダン・フメリニツキー下のウクライナ・コサックはポーランド王に反乱を起し,モスクワのツァーリに保護を求めたため,ウクライナにもロシア皇帝の権威が及ぶようになった。以後ロシア皇帝はコサックを国境警備や領土拡張,のちには国内の革命運動の鎮圧に積極的に活用することとなった。コサックは当初自治を認められていたが,17世紀後半になると削減されはじめ,ステンカ・ラージンK.A.ブラービンE.I.プガチョーフらのたび重なる反乱にもかかわらず,ついにはロシア皇帝の軍事勤務人の地位に落された。 20世紀初頭,ロシアにはドン,クバン,ウラルなど 12のコサックのボイスコ (軍管区) があり,1200万の人口を数え,そのうちコサックとしての特別の身分をもつ者は 500万人以上であった。ロシア革命後の内戦でコサックは赤軍,白衛軍に分裂して戦い,第2次世界大戦中には,古くからのコサック社会はソ連の新しい行政機構のなかに解消した。



楽天市場検索:


  1. コザークカザークコザックなどとも書かれる。(ウクライナ語: козак コザーク、複数形はкозаки コザクィーポーランド語: kozak コザーク、複数形はkozacy コザーツィロシア語: казак カザーク、複数形はказаки カザキー