グレゴリオ暦

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グレゴリオ暦(グレゴリオれき、: Calendarium Gregorianum: Calendario gregoriano: Gregorian calendar)は、ローマ教皇グレゴリウス13世ユリウス暦の改良を命じ、1582年10月15日(グレゴリオ暦)から行用されている暦法である。現行太陽暦として世界各国で用いられている。グレゴリオ暦を導入した地域では、ユリウス暦に対比して新暦ラテン語: Ornatus)と呼ばれる場合もある[1]紀年法はキリスト紀元(西暦)を用いる。

グレゴリオ暦の本質は、平年では1年を365とするが、400年間に(100回ではなく)97回の閏年を置いてその年を366日とすることにより、400年間における1年の平均日数を、365日 + (97/400)日 = {{safesubst:#invoke:val|main}}日、とすることである。この平均日数{{safesubst:#invoke:val|main}}日は、実際に観測で求められる平均太陽年(回帰年)の{{safesubst:#invoke:val|main}}日(2013年年央値)に比べて26.821秒だけ長いだけであり、ユリウス暦に比べると格段に精度が向上した。

日本では1872年(ほぼ明治5年に当たる。)に採用され、明治5年12月2日(旧暦)の翌日を明治6年1月1日(新暦)(グレゴリオ暦の1873年1月1日)とした。

制定の概要

キリスト教では、重要な祭日である復活祭の日付は毎年の春分日を起点として定義されるが、325年に開催された第1ニカイア公会議にて春分日はユリウス暦上で毎年3月21日とすることが決められた[2]ユリウス暦は紀元前45年にユリウス・カエサルによって制定されて以降、キリスト教文化圏を中心に使用されてきた、暦年の平均日数を{{safesubst:#invoke:val|main}}日とする暦法である。しかし、実際の太陽年は、約{{safesubst:#invoke:val|main}}日であるので、そのずれは毎年蓄積されていき、天文現象としての春分と、暦としての春分日がずれていくことになる。このことは13世紀には認識されており、たびたび改暦の提案がなされるようになった。

16世紀後半には、ユリウス暦上の春分日である3月21日に対して、実際の春分日(天文現象としての太陽の春分点通過日)は平均してユリウス暦上の3月11日となり、10日ものずれが生じていた。このため、ローマ・カトリック教会は、改暦委員会に暦法改正を委託した。この改暦は対抗宗教改革の一環としてなされたものであって、改暦に関しては賛成・反対の立場から大きな論争が巻き起こった。委員会の作業の末に完成した新しい暦は1582年2月24日に発布され、1582年10月4日木曜日)の翌日を、曜日を連続させながら、10日間を省いて、1582年10月15日金曜日)とすることを定め、その通りに実施された。

グレゴリオ暦の実施日前後の日付
年月日 曜日 適用の暦 0時(世界時)のユリウス日
1582年10月03日 水曜日 ユリウス暦 main}}
1582年10月04日 木曜日 ユリウス暦 main}}
1582年10月15日 金曜日 グレゴリオ暦 main}}
1582年10月16日 土曜日 グレゴリオ暦 main}}

ただし、上記の日付通りに改暦を実施したのは、イタリア、スペイン、ポルトガルなどごく少数の国に過ぎず[3]、その他のヨーロッパの国々での導入は遅れた。

なおグレゴリオ暦を1582年以前に遡って適用すると、200年3月1日から300年2月28日までは、ユリウス暦と同じ日付となる(ユリウス通日も参照)。

ユリウス暦によるずれ

1582年10月4日まで用いられていたユリウス暦では、平年は1年を365日とし、4年ごとに置く閏年を366日とし、これによって平均年を365.25日としていた。

( 365 + 1/4 )日 = 365.25(日)……1年間の平均日数(平均年)= 365日6時間 = 正確に{{safesubst:#invoke:val|main}}秒

しかし、平均太陽年、つまり実際に地球が太陽の周りを1周する平均日数は、365日5時間48分45.179秒 = {{safesubst:#invoke:val|main}}秒 = 約{{safesubst:#invoke:val|main}}日(2013年年央)[4]である。したがって、ユリウス暦の1年は、実際の1太陽年に比べて、365.25日 − 365.2422日 = 約{{safesubst:#invoke:val|main}}日(約11分15秒)長い。黄道上で太陽が特定の点(春分点秋分点夏至点冬至点など)を通過するという天文現象の発生日時は、暦上は4年毎に約{{safesubst:#invoke:val|main}}日({{safesubst:#invoke:val|main}}日 × 4)ずつ早まって行き、約128年で1日分だけ早まることになる。

ユリウス暦は、その制定当時の天文観測水準を考えればかなりの精度だったが、千数百年も暦の運用が続くと天文現象の発生日時と暦の上の日付の乖離は無視できないものとなった。16世紀末に10日ものずれが生じていたのは、このためである。

{{safesubst:#invoke:val|main}}秒/年 − {{safesubst:#invoke:val|main}}秒/年 = 674.821秒/年 = 11分14.821秒/年 …… 1年ごとのずれ
{{safesubst:#invoke:val|main}}秒/日(= 1日)÷ 674.821秒/年 = 128.03年 …… 1日のずれが生じる年数

なお、上記の計算は、2013年時点での計算であり、グレゴリオ改暦が議論されていた16世紀中頃の計算とは少し差異がある。

改暦委員会と改暦案の提案

ユリウス暦による春分日のずれを、ローマ・カトリック教会としても無視できなくなり[5]第5ラテラン公会議(1512-1517)において改暦が検討された。このときフォッソンブローネ司教のミデルブルフのパウル(en:Paul of Middelburg)(1446-1534)は、コペルニクスを含めてヨーロッパ中の学者に意見を求めた。しかし、コペルニクスは「太陽年の長さの精度は不十分であり、改暦は時期尚早である」と返答した[6][7]。コペルニクスは彼の主著「天球の回転について」の序文でこのことを明記している[8]

次に、トリエント公会議1545年 - 1563年)において、実際の春分日を第1ニカイア公会議の頃の3月21日に戻すため、教皇庁に暦法改正を委託した。時の教皇グレゴリウス13世は、これを受けて1579年にシルレト枢機卿を中心とする委員会を発足させ、暦法の研究を始めさせた。この委員会のメンバーには、最初の改暦案を考案した天文学者のアロイシウス・リリウスEnglish版の弟であるアントニウス・リリウスや数学者クリストファー・クラヴィウスらが含まれていた。委員会が1577年に刊行したCompendium novae rationis restituendi kalendarium(Compendium of the New Plan for Restoring the Calendar: 暦改正の新しい原理の大要)という24ページの冊子[9][10]によると、アロイシウスは1252年に書かれたアルフォンソ天文表における365日5時間49分16秒 = 365.242 5463日を採用し[11]、改暦案を考案した。しかし、アロイシウスは1576年に死亡しており、その年に実際に案を委員会に提出したのは弟のアントニウスである[12][13]

ずれ修正の二つの提案

ユリウス暦の約1300年間の運用により蓄積された10日間のずれをどのように修正するかについては、次の2案が委員会に提出された。

  • 第一案:1584年以降の40年間にわたって、閏日を設けない。

   40年 ÷ 4年 = 10 であるから、これによって、10日間だけ暦を進めることができる。

  • 第二案:1582年の最も適当な月に10日間を省く。

結局、委員会は、第二案を採用したのである[14]

どの月から10日間を省くか

10日間を省く月を1582年の10月にしたことについて、クラヴィウスは、単に10月が宗教典礼日(religious observance)が最も少ない月であり、教会への影響が最小だからだと説明している[15]

暦法

グレゴリオ改暦が議論され始めていた1560年頃には、平均太陽年は、365.2422日であることが知られていた。(365.25日 − 365.2422日)× 400年 = 3.12日/400年 であるから、ユリウス暦における置閏法(400年間で100回の閏年)に比べて400年間に3回の閏年を省けば、かなりよい近似となることが分かる。このため、グレゴリオ暦では、400年間に、97回 (= 100 − 3) の閏年を置くこととして、1年の平均日数を365.2425日 = 365日5時間49分12秒 = 正確に{{safesubst:#invoke:val|main}}秒 とした。

365日 + 97/400 = 365.2425(日/年)…… グレゴリオ暦による1年の平均日数

なお、400年間の日数は、365.2425 × 400 = 146 097日であり、これは7で割り切れる({{safesubst:#invoke:val|main}} ÷ 7 = {{safesubst:#invoke:val|main}})ので、グレゴリオ暦は、曜日も含めて400年周期である。

400年間における閏年の回数の差
暦法 閏年 平年 合計
ユリウス暦 100回 300回 400回
グレゴリオ暦 97回 303回 400回

400年間に3回の閏年を省くには様々な方法があり得るが、3回の平年がなるべく均等に分布すること、わかりやすく記憶しやすいことを考慮して、「西暦紀元(西暦)の年数が、100で割り切れるが400では割り切れない年は、平年とする。これ以外の年では、西暦年数が4で割り切れる年は閏年とする。」というルールが採用された。

100で割り切れる年は400年間に4回あるが、400で割り切れる年は400年間に1回だけである。以上のルールによって、ユリウス暦では閏年になる3回分の年を、グレゴリオ暦では平年とすることができるのである。

100で割り切れる年のうち、西暦1600年2000年2400年400で割り切れるので、これらの年は閏年のままである。しかし、西暦1700年1800年1900年2100年2200年2300年2500年、2600年、2700年は400で割り切れないので、これらの年は平年となる。

西暦年の平年と閏年
西暦年 平閏の区分
1600年 閏年
1700年 平年
1800年 平年
1900年 平年
2000年 閏年
2100年 平年
2200年 平年
2300年 平年
2400年 閏年
2500年 平年
2600年 平年
2700年 平年
2800年 閏年

平年および閏年のそれぞれにおける各月の日数は、グレゴリオ暦でもユリウス暦と同じである。すなわち、1月、3月、5月、7月、8月、10月、12月は31日、4月、6月、9月、11月は30日、2月は平年が28日、閏年は29日である。

精度

前項の記述の通り、本来は400年間で3.12日の閏年の省略とすべきところを、整数値である3日間の省略としたため、1年間では、(3.12日 − 3.00日)/400年 × {{safesubst:#invoke:val|main}}秒/日 = 約26秒/年の誤差が生じることは、当時から計算されていた。

これを最近値で計算し直すと、下記のようにグレゴリオ暦での平均の1年は、実際に観測される平均太陽年(2013年年央)に比べて26.821秒(= 約0.000 310 428日)だけ長い。このずれが蓄積しては約3221年で1日に達する。

365 .2425日/年 × {{safesubst:#invoke:val|main}}秒/日 = {{safesubst:#invoke:val|main}}秒/年
{{safesubst:#invoke:val|main}}秒/年 − {{safesubst:#invoke:val|main}}秒/年[16] = 26.821秒/年 …… 1年ごとのずれ
{{safesubst:#invoke:val|main}}秒/日(= 1日)÷ 26.821秒/年 = 3221.36(年)…… 1日のずれが生じる年数

以上のように、ユリウス暦では1日のずれが生じるまでに約128年しかかからなかったのに対して、グレゴリオ暦では同じく1日のずれが生じるまでに約3221年を要するまでに精度が高まった。

デイヴィッド・E・ダンカンによると、1997年時点では、1582年以来の誤差が累積して、すでに約2時間59分12秒だけ進んでいる[17]

なお、上記の計算は平均太陽年が不変であるとした場合のものである。実際には平均太陽年は100年(正確には1ユリウス世紀)ごとに0.532秒ずつ短くなっている(太陽年の項を参照)。このため、3221年後には、約17秒ほど平均太陽年が短くなっていることを考慮すると、グレゴリオ暦との1日のずれはもっと早い時点で起こることになる(太陽年#太陽年の変化平均太陽年の計算式(英語版))。

また、春分日時の間隔に着目した誤差は歳差などの影響により上記の計算とは異なり、西暦2000年時点で7700年に1日[18]、明治改暦(1873年)時点で7200年に1日[19]となる。

各国・各地域における導入

ユリウス暦と太陽年(実際の季節)とのずれは、13世紀の哲学者ロジャー・ベーコンが指摘してから300年もの間顧みられず、16世紀になって宗教上の問題が顕著になるまで放置された。このずれを修正し新たにグレゴリオ暦を制定した後も、それがローマ教皇による発令だったため、その導入時期は国・地域によってまちまちであった。カトリックの国は比較的早く導入したが、一方でそうでない国では宗派上の対立もあり導入までに少なくとも100年以上かかった。正教会の大半は現在も改暦せずユリウス暦を使用し続けている。また、非キリスト教国においても1873年日本(後述)を皮切りに、徐々にグレゴリオ暦を導入する国家が増加していった。

カトリック

グレゴリオ暦の制定後、実施日である1582年10月15日に即座にこの暦を導入したのはカトリックを奉じるイタリア諸国、スペイン、スペインに併合されていたポルトガル、ポーランドである。フランスは2カ月ほど遅れたものの、1582年中に導入を果たした。1583年には神聖ローマ帝国のカトリック諸邦で、1584年にはスイスのカトリック諸州で導入され、カトリック諸国の改暦は数年を経ずして完了した。

プロテスタント

プロテスタント諸国については、グレゴリオ暦への改暦に消極的だった理由の一つとして、復活祭の日付の決定がある。自らの祭事の日付をカトリックが定めた暦によって決められることを嫌ったためである。しかし、ユリウス暦の日付がずれており、ずれた日付を基に祭日を決めることに問題があることは、プロテスタントの宗教家も認識はしていた。このためグレゴリオ暦はプロテスタントにも徐々に浸透した。最も早くグレゴリオ暦を導入したのは、ドイツのプロテスタント諸国で、1699年のレーゲンスブルク帝国議会において日付の決定のみグレゴリオ暦を使用するが、復活祭の日付の計算にはプロテスタントのドイツ人天文学者ヨハネス・ケプラーが作成したルドルフ星表を使うということで妥協した。この暦は改良帝国暦と呼ばれた。しかしケプラーはグレゴリオ暦の方が優れていることを知っていたため、日付計算はすべてグレゴリオ暦で行っていた。このため、実質的には改良暦はグレゴリオ暦で計算するのとほぼ同じだった。この妥協はうまくいき、1700年に実施された際には隣国デンマークもこれに倣った。周辺プロテスタント諸国も徐々にこれに追随していった。1752年にはイギリスが帝国全域においてグレゴリオ暦を導入し、1753年にはスウェーデンが独自暦だったスウェーデン暦を排してグレゴリオ暦を導入することを決定し、これでプロテスタント諸国もすべてグレゴリオ暦を導入することとなった。

正教会

正教会が優勢な東欧では、導入までにより長い時間がかかった。16世紀、コンスタンディヌーポリ全地総主教イェレミアス2世はグレゴリオ暦を否認し、他の正教会でもグレゴリオ暦を承認する教会はなかった。このことはブレスト合同が不完全なものに終わる結果にも影響があった。

現在でも正教会は、フィンランド正教会を除いてグレゴリオ暦を使用していない。ロシアで最も強い影響力をもつロシア正教会は正教会に属しており、同国で1917年グレゴリオ暦3月に起きた革命を「2月革命」、同11月に起きた革命を「10月革命」と呼称するのは、当時のロシアで採用されていた暦に従ったためである。コンスタンディヌーポリ教会1923年に採用した暦は修正ユリウス暦英語: Revised Julian calendar)と呼ばれるものであり、厳密にはグレゴリオ暦ではないが、グレゴリオ暦とユリウス暦の月日の修正が行われ、2800年までは二つの暦の間にずれが出ないようになっている。なお、2800年以降は再びずれが生じる。

今でもエルサレム総主教庁グルジア正教会ロシア正教会セルビア正教会日本正教会はユリウス暦を使用している。ただし、ロシアでも教会以外の一般社会ではグレゴリオ暦を採用している。従って、ユリウス暦12月25日の降誕祭はロシアのカレンダーでは「1月7日」と表示されている。

他方、復活大祭の算出には全正教会がユリウス暦を使用するため、復活祭およびそれに伴う祭日斎日は全正教会(フィンランド正教会を除く)が一致して祝っている。ただしこれは、ユダヤ教の祭日が決まった後でキリスト教の祭日を決定するという初期のキリスト教の祭日決定法に従うためで、グレゴリオ暦を導入していないことによるものではない。ユダヤ教では1年の長さがユリウス暦とほぼ同じユダヤ暦を基準にして祭日を決定するため、正教会では完全にグレゴリオ暦に移行できないだけである。

日本におけるグレゴリオ暦導入

日本では、明治5年(ほぼ西暦1872年に当たる)に、従来の太陰太陽暦を廃して翌年から太陽暦を採用することが布告された。この「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」(明治5年太政官布告第337号、改暦ノ布告)では、「來ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事」として、グレゴリオ暦1873年1月1日に当たる明治5年12月3日を明治6年1月1日とすることなどを定めた。そのため、明治5年12月2日まで使用されていた天保暦旧暦となった(明治改暦)。

この布告は年も押し迫った明治5年11月9日 (旧暦)(新暦の1872年12月9日に当たる)に公布されたため、社会的な混乱を来した。暦の販売権をもつ弘暦者(明治5年には頒暦商社が結成された)は、例年10月1日に翌年の暦の販売を始めることとしており、この年もすでに翌年の暦が発売されていた。急な改暦により従来の暦は返本され、また急遽新しい暦を作ることになり、弘暦者は甚大な損害を蒙ることになった。一方、福澤諭吉は、太陽暦改暦の決定を聞くと直ちに『改暦弁』を著して改暦の正当性を論じた。太陽暦施行と同時の1873年(明治6年)1月1日付けで慶應義塾蔵版で刊行されたこの書は大いに売れて、内務官僚の松田道之に宛てた福澤の書簡(1879年(明治12年)3月4日付)には、この出来事を回想して「忽ち10万部が売れた」と記している[20][21]

これほど急な新暦導入が行われた理由として、当時参議であった大隈重信の回顧録『大隈伯昔日譚』によれば、明治政府の財政状況が逼迫していたことが挙げられる。すなわち、旧暦のままでは明治6年は閏月があるため、13か月となる。すると、月給制に移行したばかりの官吏への報酬を、1年間に13回支給しなければならない。これに対して、新暦を導入してしまえば閏月はなくなり、12か月分の支給ですむ[22]。また、明治5年12月は2日しかないことを理由に支給を免れ、結局11か月分しか給料を支給せずに済ますことができる。さらに、当時は1、6のつく日を休業とする習わしがあり、これに節句などの休業を加えると年間の約4割は休業日となる計算であった。新暦導入を機に週休制にあらためることで、休業日を年間50日余に減らすことができる[23]

しかし、施行まで1か月に満たない期間の中で慌てて布告されたためか、この布告には置閏法に不備があった。それはグレゴリオ暦の肝腎な要素である「400年に3回、西暦年数が100で割り切れるが400で割り切れない年を、閏年としない」旨の規定が欠落していたことである。このままでは導入された「新しい太陽暦」はグレゴリオ暦ではなく、さりとて日付が12日ずれているためユリウス暦そのものでもなく、「ユリウス暦と同じ置閏法を採用した日本独自の暦」となってしまう。また、同布告の前文にある文面もおかしく、グレゴリオ暦で実際に1日の誤差が蓄積されるのに要する年数は約3200年であるにもかかわらず、「七千年ノ後僅ニ一日ノ差ヲ生スルニ過キス」としていた。これは、起草者が参考にした天文書『遠西観象図説』の誤りと考えられている。

そこで、西暦1898年(皇紀2558年・明治31年)5月11日に、改めて勅令「閏年ニ關スル件」(明治31年勅令第90号)を出して、グレゴリオ暦に合わせた置閏法に改めた。

閏年ニ關スル件(明治31年勅令第90号)
神武天皇即位紀元年數ノ四ヲ以テ整除シ得ヘキ年ヲ閏年トス
但シ紀元年數ヨリ六百六十ヲ減シテ百ヲ以テ整除シ得ヘキモノノ中更ニ四ヲ以テ商ヲ整除シ得サル年ハ平年トス

この勅令では、神武天皇即位紀元(皇紀)年数を用いて閏年か平年かを判別しているが、西暦年数を用いたグレゴリオ暦と同じ値になる(皇紀年数から660を減じるとする点で、西暦とグレゴリオ暦そのものを参照していると解釈できる)。この置閏法の誤りを修正する勅令が公布された時には、日本で太陽暦を導入してから初めての「紀元年數ヨリ六百六十ヲ減シテ百ヲ以テ整除シ得ヘキモノノ中更ニ四ヲ以テ商ヲ整除シ得サル年」である皇紀2560年すなわち西暦1900年(明治33年)は、1年半後に迫っていた。

グレゴリオ暦導入の経緯

国立天文台暦計算室の暦Wikiの「明治以降の編暦」の記事も参照のこと。

  • 明治5年10月1日(1872年11月1日):例年どおり、弘暦者(頒暦商社)により翌年の暦(旧暦)が全国で発売される。
    • 11月初旬(12月初旬):太政官権大外史塚本明毅により建議[24]
    • 11月9日(12月9日):「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」(明治5年太政官布告第337号、改暦ノ布告)を公布。突如として明治5年は12月2日で終了すると定められる。
    • 11月23日(12月23日):太政官布告第359号で「来ル十二月朔日二日ノ両日今十一月卅日卅一日ト被定候」(12月1日および2日を11月30日および31日と定めた)とする。翌24日付け太政官達書で取り消す。
    • 11月27日(12月27日):太政官布達第374号により、「当十二月ノ分ハ朔日二日別段月給ハ不賜」(この12月の分は、1日・2日の2日あるが、別段月給を支給しない。)と、12月分の月給不支給が各省に通告される[25]
    • 12月2日天保暦を廃止。
  • 1873年1月1日に当たる明治5年12月3日(旧暦)を明治6年1月1日(新暦)とする太陽暦への改暦(明治改暦)。
  • 1873年(明治6年)1月12日:頒暦商社の損失補填のため、向こう3年間の暦販売権を認める。
  • 1875年(明治8年)1月12日:頒暦商社の暦販売権を明治15年まで延長する。
  • 1883年(明治16年):本暦と略本暦が伊勢神宮から頒布される。
  • 1898年(明治31年)5月11日:明治5年の改暦における置閏法の問題(明治33年(西暦1900年)がグレゴリオ暦と異なり閏年となってしまう)を修正した勅令「閏年ニ關スル件」(明治31年勅令第90号)が公布される。
  • 1910年(明治43年):官暦の旧暦併記が消滅。
  • 2010年(平成22年):(非公式)この年をもって海上保安庁海洋情報部による非公式な新暦旧暦の対照表の公表が終了した(海洋情報部による暦関連の業務は、天測暦他の必要性によるもので、旧海軍水路部の明治以来のものである)。
  • 2033年:旧暦2033年問題:2033年の秋から翌2034夏にかけて旧暦の8月~翌3月および閏月の配置が、天保暦のルールでは決定できない問題。

※ただし国立天文台は、毎年2月に「暦要項」を官報告示し、翌年の「二十四節気および雑節」、「朔弦望」(朔=朔、望=15日など)を計算・提示している。すなわち、毎年、旧暦の「30日の大月、29日の小月」の設定、置閏の基準である「中気」の提示は「公的」に行われていることになる[26]

各国のグレゴリオ暦導入年月日

   フランドルとベルギーの一部では、1582年12月21日の翌日を1583年1月1日とした。これは1582年のクリスマスを失ったことを意味する[27]

問題点と改暦運動

グレゴリオ暦はユリウス暦に比べはるかに精度が高くなっているが、それでも上記のとおり誤差は完全に解消されたわけではない。そもそも地球の自転周期と公転周期の比は整数の比になっていない以上、この誤差は必然的に生ずるものである。

また年初の日付が、天文学的な現象とは関係がない日付であること[29]や、各月の日数が不規則であること、一年の日数が週の倍数になっていないため暦日と曜日が一致しないことなどの問題点が指摘され[30]、しばしば改暦運動が盛り上がった。こうした改暦運動で実施されたものは1793年にフランスで施行されたフランス革命暦のみであるが、合理に徹するあまりそれまでの週や七曜の廃止を行うなどして大混乱を招き、1806年にはグレゴリオ暦に復帰した。しかしその後も、世界暦への改暦提案などがしばしばなされている。

脚注

  1. 日本では1873年(明治6年)からグレゴリオ暦に移行し、それまでの天保暦を旧暦、導入したグレゴリオ暦を新暦と呼ぶ。
  2. 山崎昭・久保良雄 『暦の科学』、講談社〈ブルーバックス〉、1984年、pp. 96-98。
  3. デイヴィッド・E・ダンカン 『暦をつくった人々 人類は正確な一年をどう決めてきたか』 松浦俊輔訳、河出書房新社、1998年12月。ISBN 4-309-22335-4。
  4. 天文年鑑2013年版、p190(このページの執筆者:井上圭典)ISBN 9784416212851
  5. デイヴィッド・E・ダンカン 『暦をつくった人々 人類は正確な一年をどう決めてきたか』 松浦俊輔訳、河出書房新社、1998年12月。ISBN 4-309-22335-4。
  6. Copernicus and Calendar Reform Starry Messenger,Department of History and Philosophy of Science, University of Cambridge, 1999. "Copernicus wrote in a response, which is now lost, but probably stated something along the position stated in the preface to his Revolutions, that reform of the calendar was premature because the precise length of the tropical year was not yet known with sufficient accuracy."
  7. 青木信仰、「時と暦」、東京大学出版会、1982年9月20日、ISBN 4130020269、p.83 コペルニクスは遠慮深く、「今の天文学は不確かで、暦を改良するほど知識が揃っていない」として断っている。
  8. De Revolutionibus (On the Revolutions)天球の回転について Nicholas Copernicus, 1543 C.E., 序文 TO HIS HOLINESS, POPE PAUL III,NICHOLAS COPERNICUS’ PREFACE TO HIS BOOKS ON THE REVOLUTIONS の最後のパラグラフの中程。「For not so long ago under Leo X the Lateran Council considered the problem of reforming the ecclesiastical calendar. The issue remained undecided then only because the lengths of the year and month and the motions of the sun and moon were regarded as not yet adequately measured.」
  9. 1981年10月に歴史家のゴードン・モイアー (Gordon Moyer) が発見した。
  10. GREGORIAN REFORM OF THE CALENDAR - Proceedings of the Vatican Conference to commemorate its 400th Anniversary 1582-1982 ALOISUIS LILIUS AND THE "COMPENDIUM NOVAE RATIONIS RESTITUENDI KALENDARIUM" by Gordon Moyer ,pp.173-174
  11. GREGORIAN REFORM OF THE CALENDAR - Proceedings of the Vatican Conference to commemorate its 400th Anniversary 1582-1982 p.182
  12. GREGORIAN REFORM OF THE CALENDAR - Proceedings of the Vatican Conference to commemorate its 400th Anniversary 1582-1982 p.172
  13. デイヴィッド・E・ダンカン 『暦をつくった人々 人類は正確な一年をどう決めてきたか』 松浦俊輔訳、河出書房新社、1998年12月。ISBN 4-309-22335-4。
  14. GREGORIAN REFORM OF THE CALENDAR - Proceedings of the Vatican Conference to commemorate its 400th Anniversary 1582-1982 pp.182-183
  15. GREGORIAN REFORM OF THE CALENDAR - Proceedings of the Vatican Conference to commemorate its 400th Anniversary 1582-1982 p.183 クラヴィウスからMichael Maestlin への返書による。
  16. 天文年鑑2013年版、p190(このページの執筆者:井上圭典)ISBN 9784416212851
  17. デイヴィッド・E・ダンカン 『暦をつくった人々 人類は正確な一年をどう決めてきたか』 松浦俊輔訳、河出書房新社、1998年12月。ISBN 4-309-22335-4。 ダンカンは1年につき約25.96秒の誤差があるとし、1582年10月から1997年年初までの累積時間を計算している。
  18. Meeus, J. & Savoie, D. (1992) “The history of the tropical year” Journal of the British Astronomical Association, 102(1) p. 42による。
  19. Meeus, J. “Astronomical Algorithms” (1991) p.166 および 須賀隆 “「七千年ノ後僅ニ一日」の謎” 日本暦学会 第21号 (2014) p.5 表2 による。
  20. 福澤諭吉 『福澤諭吉書簡集』第2巻、岩波書店、1975年、173-175。ISBN 4-00-092422-2。に収録。
    其後改暦の令あり。此時も同様、唯一片の詔にて更に諭告文を見ず。余り難堪存候に付、生は私に改暦弁と申小冊子を出版して、一時に十万部計り国内に分布し、此出版にては聊か行政の便を助けたること、今日も私に自負の意あり。 — 福澤諭吉松田道之宛て書簡(1879年(明治12年)3月4日付)
  21. 福澤は『福澤全集緒言』の中で、『改暦弁』は風邪で寝込んでいるときに6時間で書き上げたもので、発売後ベストセラーになり、2~3箇月で売上額が700円に達したと記している。その後の2~3箇月も同じように売れ続けたので、売上額は合計1000円~1500円に達したようだと記している。
    以上の公文を見れば古来の太陰暦を廃し〔太〕陽暦に改むることにしてはなはだ妙なり。吾々われわれの本願はただ旧をてゝ新にかんとするの一事のみなれば、何はさて置きず大賛成を表したりといえども、も一国の暦日を変するがごときは無上の大事件にして、これを断行するには国民一般にその理由を知らしめて丁寧反覆、新旧両暦の相異あいことなる由縁を説き、双方得失の在る所を示して心の底より合点がてんせしむこそ大切なれ。欧羅巴ヨーロツパ耶蘇ヤソ教陽暦国にて、露国の暦は他にことなることわずかに十二日なれども、古来の慣行にて今日これを改むるを得ず。しかるに日本においては陰陽暦を一時に変化しておよそ一箇月の劇変を断行しながら、政府の布告文を見れば簡単至極しごくにしてそのつまびらかなるを知るによしなし、畢竟ひつきよう官辺かんぺんにその注意なくしてつは筆る人の乏しきがめなりと推察せざるを得ず。れば民間の私に之を説明して余処よそながら新政府の盛事せいじを助けんものをと思付おもいつき、匆々そうそう書綴かきつづりたるは改暦弁なり。その起草は発令の月か翌十二月か、日は忘れたり、少々風邪に犯されとこの上にて筆をり、朝より午後に至るまでおよそ六時間にて脱稿したり。もとより木葉このは同様の小冊子にて何の苦労もなかりしが、さてこれを木版にして発売を試みたるに何千何万の際限あることなし。三版も五版も同時に彫刻して製本を書林しよりんに渡しさえすればただちに売れ行くその有様ありさまは之を見ても面白し。一冊何銭とてたかの知れたる定価なれども、ちりも積れば山とるのことわざれず、発売後二、三箇月にして何かのついでに改暦弁より生じたる純益の金高を調べたるに七百円余にのぼりたることあり。その時、著者はひとり心に笑い、この書を綴りたるはわずかに六時間の労なり、六時間の報酬に七百円とは実に驚き入る、学者の身にかかる利益を収領しゆうりようしてもよろしかるべきやと、あたかも半信半疑にみずから感じたるは、旧藩士族根性のしからしむる所にして今尚これを記憶す。二、三箇月の後も売捌うりさばきは依然としてまず、利益の全額は千円も千五百円も得たることならん。畢竟ひつきよう余が今日に至るまで何に一つの商売もせず、工業もせず、家富みてあまりあるにはあらざれども、大勢の家族と共に心配なく生活してしずかに老余を楽しむは、改暦弁のみならず他の著訳書より得たる利益の多かりしが故なり。 — 福澤諭吉福澤諭吉 『福澤全集緒言』 時事新報社、1897年、102-104。
  22. 太政官布告第359号では旧暦の11月が29日までであったものを30日,31日を追加してそのまま新暦の明治6年1月1日としていたが翌日取り消された。太政官布告第372号で2日しかない12月については月給を給付しない、とした。
  23. 円城寺清 『大隈伯昔日譚』 立憲改進党々報局、1895年、pp. 601ff。
  24. http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994174/131
  25. 『法令全書 明治5年』第7冊、内閣官報局、1912年、pp. 358 f。NDLJP:787952/236漢字は新字体にあらためた。
  26. 2015年(平成27年)の場合、2月2日(月)に発行された第6463号の25~26ページに「平成28年(2016)暦要項」が「告示」(掲載)されている。
  27. デイヴィッド・E・ダンカン 『暦をつくった人々 人類は正確な一年をどう決めてきたか』 松浦俊輔訳、河出書房新社、1998年12月。ISBN 4-309-22335-4。
  28. Saudi Arabia adopts the Gregorian calendar
  29. この暦法の制定は3月21日を春分とするキリスト教の教義上の都合に由来し、そこから年初である1月1日が定まる。
  30. 「暦の大事典」朝倉書店 2014年7月20日初版第1刷

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