「グレゴリウス5世 (ローマ教皇)」の版間の差分

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'''グレゴリウス5世'''(Gregorius V, [[972年]]? - [[999年]][[2月18日]])は、[[教皇|ローマ教皇]](在位:[[996年]][[5月3日]] - [[999年]][[2月18日]])。[[ドイツ人]]初のローマ教皇と言われる。本名は'''ブルーノ1世'''(Bruno I)。
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'''グレゴリウス5世'''(Gregorius V, [[972年]]? - [[999年]][[2月18日]]
  
==概要==
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ケルンテン出身の第138代[[教皇]](在位 996~999)。本名 Brun von Kärnten。初のドイツ人教皇。神聖ローマ皇帝[[オットー1世]](在位 962~973)の孫であり,[[オットー3世]](在位 996~1002)の従兄で宮廷司祭であった。996年5月,オットー3世に任命されて登位し,次いでオットー3世を戴冠した。近親結婚をしたとしてフランス王[[ロベール2世]](在位 996~1031)を破門した。996年に有力貴族クレスケンチウス2世がローマで反旗を翻したため亡命し,[[ヨハネス16世]](17世。在位 997~998)が[[対立教皇]]として登位したが,オットー3世により退位させられ,グレゴリウス5世は 998年に再び教皇となった。しかし翌 999年,20代の若さで[[マラリア]]で死去した。
[[オットー1世 (神聖ローマ皇帝)|オットー大帝]]の外曾孫。父は[[ケルンテン公国|ケルンテン公]][[オットー1世 (ケルンテン公)|オットー1世]]。兄は[[シュパイアー]]伯[[ハインリヒ2世 (シュパイアー伯)|ハインリヒ2世]]、弟は[[ケルンテン公国|ケルンテン公]][[コンラート1世 (ケルンテン公)|コンラート1世]]、[[ストラスブール|シュトラスブルク]][[大司教]][[ヴィルヘルム (シュトラスブルク司教)|ヴィルヘルム]]ら。[[甥]]は[[ザーリアー朝]]初代の[[神聖ローマ皇帝]][[コンラート2世 (神聖ローマ皇帝)|コンラート2世]]と[[レーゲンスブルク]][[大司教]]の[[ゲープハルト]]兄弟(ともにハインリヒ2世の子)、ケルンテン公[[コンラート2世 (ケルンテン公)|コンラート2世]]と[[ヴュルツブルク]]大司教[[ブルーノ2世]]兄弟(ともにコンラート1世の子)ら。
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[[ヨハネス15世 (ローマ教皇)|ヨハネス15世]]の後を継いで教皇に就任したグレゴリウス5世は24歳であった。ローマに進軍していた[[オットー3世 (神聖ローマ皇帝)|オットー3世]]の従軍[[司祭]]であった彼はオットー3世によって推薦され教皇となる。
 
 
 
グレゴリウス5世はドイツ人初のローマ教皇だと言われる。[[ボニファティウス2世 (ローマ教皇)|ボニファティウス2世]]([[530年]] - [[532年]])がドイツ人初の教皇とされることがあるが、ボニファティウス2世は[[東ゴート族]]であって、[[ゲルマン人]]であるがドイツ人ではない。
 
 
 
政治上、グレゴリウス5世は首尾一貫してローマにおける皇帝の代理人として行動し、[[神聖ローマ帝国]]領内の[[修道院]]に格別な特権を多く付与した。また就任当初にはオットー3世の戴冠([[996年]][[5月21日]])を行いもした。また戴冠式の数日後には[[教会会議]]を開いた。この教会会議にて、[[ユーグ・カペー]]によって失権していたアルヌルフを[[ランス (マルヌ県)|ランス]]司教座へ復帰させることが決められ、ジェルベール(のちの[[シルウェステル2世 (ローマ教皇)|シルウェステル2世]])はランス司教座の簒奪者として非難されている。またフランス王[[ロベール2世 (フランス王)|ロベール2世]][[ブロワ]]伯ティボー2世の未亡人[[ベルト・ド・ブルゴーニュ|ベルト]]との結婚については、ベルトがロベール2世の又従姉にあたるため、ロベール2世を[[破門]]とした。このためロベール2世は自国内の司教叙任権の主張を引き下げざるをえなくなった。
 
 
 
当時のローマはクレッシェンティウス2世をはじめとしたローマ[[貴族]]の力が強く、まだ16歳と若年であったオットー3世の意思に反旗を翻し、対立教皇[[ヨハネス16世 (対立教皇)|ヨハネス16世]]([[997年]] - [[998年]])を選出させるほどであった。しかしオットー3世はクレッシェンティウス2世らの鎮圧に成功しローマに凱旋、対立教皇ヨハネス16世は逃亡し、クレッシェンティウス2世は[[サンタンジェロ城]]に立て篭もった。対立教皇ヨハネス16世は皇帝軍により追捕され、鼻と耳を削がれ、舌も切り取られ、眼を潰され、オットー3世とグレゴリウス5世の面前にて職位失効が宣言され、そして神聖ローマ帝国領内の[[フルダ]]修道院に送られることとなり、[[1013年]]までその修道院で人生を送ることとなった。サンタンジェロ城はオットー3世の兵に取り囲まれ、998年にクレッシェンティウス2世は捕らえられて城壁に吊るされた。
 
 
 
999年2月18日にグレゴリウス5世は謎の急死を遂げた。その突然の死を受けて、オットー3世は親交深くかつての家庭教師でもあった[[シルウェステル2世 (ローマ教皇)|シルウェステル2世]]を後継として選出した。
 
  
 
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2018/8/23/ (木) 23:55時点における最新版

グレゴリウス5世の墓碑

グレゴリウス5世(Gregorius V, 972年? - 999年2月18日

ケルンテン出身の第138代教皇(在位 996~999)。本名 Brun von Kärnten。初のドイツ人教皇。神聖ローマ皇帝オットー1世(在位 962~973)の孫であり,オットー3世(在位 996~1002)の従兄で宮廷司祭であった。996年5月,オットー3世に任命されて登位し,次いでオットー3世を戴冠した。近親結婚をしたとしてフランス王ロベール2世(在位 996~1031)を破門した。996年に有力貴族クレスケンチウス2世がローマで反旗を翻したため亡命し,ヨハネス16世(17世。在位 997~998)が対立教皇として登位したが,オットー3世により退位させられ,グレゴリウス5世は 998年に再び教皇となった。しかし翌 999年,20代の若さでマラリアで死去した。






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