ギニア

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ギニア共和国
République de Guinée
国の標語:Travail, Justice, Solidarité
(フランス語: 労働、正義、連帯)
公用語 フランス語
首都 コナクリ
最大の都市 コナクリ

面積

総計 245,857km275位
水面積率 極僅か

人口

総計(2012年 10,500,000人(???位
人口密度 38人/km2
GDP(自国通貨表示)

合計(2008年 20兆8,930億[1]ギニア・フラン
GDP (MER)

合計(2008年 45億[1]ドル(134位
GDP (PPP)

合計(2008年103億[1]ドル(135位
1人あたり 1,002[1]ドル
独立
 - 日付
フランスより
1958年10月2日
通貨 ギニア・フラン (GNF)
時間帯 UTC (0)(DST:なし)
ISO 3166-1 GN / GIN
ccTLD .gn
国際電話番号 224

ギニア共和国(ギニアきょうわこく)、通称ギニアは、西アフリカ西端に位置する共和制国家。北にセネガル、北西にギニアビサウ、北東にマリ、南にシエラレオネリベリア、南東にコートジボワールと国境を接し、西は大西洋に面する。首都はコナクリ

フランスの植民地の中でも、1958年に他の植民地に先駆けて国民投票で独立した国家である。

国名

正式名称はフランス語で、République de Guinée(レピュブリック・ドゥ・ギネ)。通称、Guinéeギネ)。

公式の英語表記は、Republic of Guinea(リパブリック・オブ・ギニー)。通称、Guineaギニー)。

日本語の表記は、ギニア共和国。通称、ギニア漢字による当て字は、幾内亜または銀名

  • 1958年 - 1978年 ギニア共和国
  • 1978年 - 1984年 ギニア人民革命共和国
  • 1984年 - ギニア共和国

ギニア」の国名の由来には諸説ある。赤道ギニアギニアビサウパプアニューギニアとは、それぞれ別の国である。これらを区別するため、首都の名を冠して「ギニア・コナクリ」と呼ばれることも多い。

歴史

12世紀ガーナ王国が滅ぼされると、スースー族English版は、反イスラムのスースー王国English版を興してベルベル人ムラービト朝に対抗した。 16世紀初頭に、ヨーロッパ人が奴隷貿易の地域の一つとして入植を始めた。1725年フータ・ジャロンen:Timboを王都とするフラニ人フータ・ジャロン王国English版1725年 - 1896年)を興した。1878年サモリ・トゥーレen:Bissanduguを王都とするジュラ族English版サモリ帝国English版1878年 - 1898年)を興した。1887年イギリスからフランスへ譲られたトンボ島English版ロス諸島)に、1890年コナクリ首都とする植民地フランス領ギニアEnglish版Guinée française)が建設された。1890年ノエル・バレイfrançais版が初代総督に就任。1895年フランス領西アフリカに併合された(Colony of French Guinea)。

独立・トゥーレ政権

1958年にフランスからギニア共和国として独立し、セク・トゥーレ大統領(任期:1958年 - 1984年)が就任した。この時、宗主国であったフランスはギニアへの一切の援助を打ち切り、公共施設や道路を破壊しつくすなど国家テロに手を染め、国土台帳などの書類や公共施設にあった備品を全てフランス本土に持っていってしまった。そのため、ギニアは世界最貧国に転落し、この状況を打開するためトゥーレは社会主義施策を敷き、政敵および人権論者の抑圧を行った。また、アフリカ諸国連合に加盟したりもした。1970年11月22日緑海作戦ポルトガルの植民地戦争中のギニアビサウ独立戦争の戦闘のひとつ)。

コンテ政権

1984年にトゥーレが死亡すると、無血クーデターによりランサナ・コンテ大佐が政権を掌握した。コンテはトゥーレの政治路線を大きく改め、国際通貨基金世界銀行などの国際機関からの支援を得つつ、旧社会主義体制から自由主義体制への移行を推進した。1993年に初の大統領選挙が行われた後、1998年2003年に大統領選が行われたが、いずれもコンテが当選している。しかしその選挙結果や、2001年の国民投票で大統領任期を5年から7年に延長するなど独裁色を強めたコンテの政治手法については多くの議論が交わされている。

2007年1月には、コンテ政権下における政治腐敗の横行や物価上昇・財政悪化に抗議し、大統領辞任と首相ポストの新設を要求する労働組合によりゼネストが発生。首都で発生したデモでは市民と治安部隊、警察の間で衝突が発生し、数十人もの死者、200人以上の負傷者が生じた。ストライキは18日間にも及び、コンテ大統領と組合間で合意が結ばれ終結が見られたものの治安は悪化。2月には、大統領が国家非常事態を宣言、戒厳令を敷いた。その後も不安定な政情が続き、クーデター発生の可能性も出ていた。

首相の任命をめぐる政府と労組の立場は対立していたが、近隣諸国及び西アフリカ諸国経済共同体 (ECOWAS) 仲裁ミッションの働きかけもあり、2月23日に戒厳令は解除され、労組は同27日よりゼネストを中断することを発表。3月2日までに労組及び市民団体により推薦される首相候補の中から新首相を任命することが合意され、アフメド・ティジャンヌ・スアレが新首相に就任した。

カマラ大尉時代

2008年12月22日、コンテ大統領が死去し、国民議会のアブバカル・ソンパレ下院議長が大統領代行に就任したと報じられたが、翌12月23日、軍の一部勢力がクーデターEnglish版を起こし、士官ら数千人の兵士がコナクリの国営テレビ局を占拠。陸軍・燃料補給部隊長のムーサ・ダディ・カマラ大尉は憲法停止や政府各機関の解散、軍人や文民から構成する評議機関「民主主義発展国家評議会」(National Council for Democracy and Development)の設置を宣言。政府側による目立った抵抗はなく、コナクリを制圧した。ただギニア陸軍軍参謀総長は「クーデターに参加したのは兵士の一部」と語り、コナクリ近郊の軍駐屯地で反乱軍と政府軍の代表が交渉を行っていると説明。カマラ大尉もフランステレビ局に「軍内部で多数派ではない」と語り、軍として憲法に基づく権力移譲を支持していることを明らかにした。一方スアレ首相はフランスラジオ局に「政府は今も実権を握っている」と述べ、クーデターは成功しなかったと強調、軍関係者らに事態の沈静化を求めた。

24日、カマラ大尉は「今後2年間、陸軍が暫定的に権力を保持し、2010年12月に自由で公正な選挙を実施する。権力を握り続ける意図はない」との声明を発表。地元記者らに対し、自らが「暫定政府大統領として指名された」と宣言した。カマラ大尉と「民主主義発展国家評議会」の勢力は同日、コナクリ市内をパレード。手を振って市民に呼び掛けたところ、数千人の市民から歓迎の声が上がった。また「民主主義発展国家評議会」は同日、国内全域に夜間外出禁止令を敷いた。スアレ首相は24日未明に「政府は今も実権を握っている」と重ねて表明したが、その後身の安全のため所在を明らかにせず、首相に連絡が取れない事態になるなど混乱した。

しかし翌25日、カマラ大尉の求めに応じたスアレ首相と閣僚ら約30人はコナクリ近郊の陸軍基地に投降し、基地内でカマラ大尉と面会。スアレ首相らは同グループへの降伏の意思を伝え、カマラ大尉の新政権を正統な政権と認めると述べた。地元ラジオ局はスアレ首相がカマラ大尉を「大統領」と呼び「我々はあなたに従います」と述べた肉声を伝えた。スアレ首相は記者会見でも同様の意思を示し、カマラ大尉の実権掌握と暫定大統領就任が確定した。カマラ大尉はスアレ首相と閣僚らに身の安全を約束した上で、「国を内戦に引き込む武力衝突を避けられるようにして欲しい」と述べ、スアレ首相に無血クーデター成功への協力と新政権を支援するよう促した。 暫定大統領に就任したカマラは2009年中に選挙を行うと公表。カマラ自身が選挙出馬を表明した。

2009年9月28日9月28日スタジアムで大規模抗議集会(en:2009 Guinea protest)。12月3日に側近のアブバカール・ディアキテfrançais版中尉による暗殺未遂事件でカマラ暫定大統領は頭を撃たれ重症を負う。同日に暫定大統領に就任した防衛大臣のセクバ・コナテ大将が大統領選挙実施を引き継ぎ、2010年6月27日に投票が行われた。

コンデ政権

2010年11月7日大統領選挙の決選投票が行われた。独立国家選挙管理委員会は野党指導者アルファ・コンデが得票率52.52%で、ディアロ元首相の得票率は47.48%であったと発表。同年12月21日にコンデが大統領に就任した。

2011年7月19日、コナクリ市キペ地区にあるコンデ大統領の私邸が軍人の集団により襲撃される事件が発生した。

政治

ギニアは立憲共和制国家である。現行憲法1991年12月23日に国民投票により承認されたもの。

国家元首である大統領は、国民の直接選挙により選出され、任期は5年。再選制限は無い。首相と、内閣に相当する閣僚評議会 (Conseil de Ministres)のメンバーは、大統領により任命される。事

議会は一院制国民議会 (Assemblée Nationale)。定数114議席。議員は国民の直接選挙で選出され、任期は5年。ただし、国民議会は2007年に任期を終えたのち2008年末にクーデター政権により解散された後、依然として国民議会選挙は実施されておらず、2010年に設立された国家暫定評議会 (CNT) が暫定の立法機関となっており、2012年7月現在、国民議会は存在しない。

主要政党にはランサナ・コンテ2008年12月22日死去)率いる統一進歩党 (PUP) があり、1984年から24年間続いたコンテ長期政権の維持に利用された。現在の与党はコンデ大統領が党首であるギニア人民連合(RPG)を中心に結成された「虹同盟」(Alliance Arc-en-ciel)と呼ばれる政党連合を形成している。主要野党としてはギニア民主勢力連合(UFDG)などがある。

最高司法機関は最高裁判所 (Cour Suprême) である。

地方行政区分

ギニアの地方行政は7つの州と33の県に分かれている。

主要都市

主要な都市はコナクリ(首都)、ンゼレコレキンディアボケカンカンがある。

地理

首都コナクリのある海岸部は熱帯雨林の広がる平野が広がっている。そこから内陸に入ると、標高は高くないが分水嶺をなすフータ・ジャロン山地があり、草原が広がる。フータ・ジャロンを越えるとサバンナが広がる上ギニアと呼ばれる地域となる。

経済

労働人口の80%が農業に従事する。独立時にはバナナ、パイナップル、コーヒー、ピーナッツ、パーム油が主要輸出物であった。いまやボーキサイトに交代し、ダイアモンド、金などを含め、鉱業が主要産業。ただし、コンテ政権末期から経済状況は悪化し、貧困層が増大している。汚職、政治的不安定、不透明予算システムから外国からの投資が遅れている。米国との間で投資保証合意がなされ、米国投資家には海外民間投資会社OPICにより政治リスクの保険がある。 2005年にマリとの間に道路が新設されたが、補修ができず流通が不十分である。電気と水の供給不足が頻繁で長引くため、高価な発電機とその燃料を使用せざるを得ない。

鉱業

主要会社は政府と米アルコアおよびリオ・ティント/アルキャンの合弁CBGで、年間1400万トンを輸出。ほかにルサール(ロシア)がフリアおよびキンディアの生産。グローバルアルミナとアルコア・アルキャンは各々20億ドル、15億ドルの精練事業を計画しており、サブサハラ最大の民間投資となる。

  • ダイヤモンドは政府と豪・英・スイスの合弁AREDORが1984年から採掘・輸出している。
  • 金は政府とカナダ企業の合弁SMDが最大採掘企業。
  • 鉄鉱石の開発事業も始まっている。沿岸のフォレカリア県では豪企業Bellzoneが2012年6月より採掘を開始した。森林地方のシマンドゥ鉱区ではリオ・ティント社などによる開発計画が進められている。
  • ウランについては可能性があるが調査が進んでいない。
  • 2006年に米Hyperdynamics社が石油探鉱契約をして作業中。2011年10月より掘削調査を開始。

国民

民族

住民は、フラニ族マリンケ族スースー族English版クペレ族キッシ族Zialoジュラ族English版など。

言語

言語はフランス語公用語だが、日常生活では各民族ごとの言語を用いている。[2]

宗教

宗教はイスラム教が85%、キリスト教が8%、現地宗教が7%である。

教育

著名な出身者

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1]
  2. http://www.moj.go.jp/content/000056409.pdf

関連項目

参考文献

外部リンク

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