「カール3世 (フランク王)」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
(1版 をインポートしました)
 
1行目: 1行目:
{{出典の明記|date=2009年8月13日 (木) 02:25 (UTC)|ソートキー=人0888年没}}
 
{{基礎情報 君主
 
| 人名      = カール3世
 
| 各国語表記 = <span lang="de">Karl III.</span>
 
| 君主号    = ローマ皇帝<br>東フランク王<br>イタリア王<br>西フランク王
 
| 画像      = Charles the Fat.jpg
 
| 画像サイズ =
 
| 画像説明  =
 
| 在位      = [[876年]] - [[887年]](東フランク王)<br>[[879年]] - 887年(イタリア王)<br>[[881年]] - 887年(西ローマ皇帝)<br>[[884年]] - 887年(西フランク王)
 
| 戴冠日    =
 
| 別号      =
 
| 全名      =
 
| 出生日    = [[839年]][[6月13日]]
 
| 生地      =
 
| 死亡日    = [[888年]][[1月13日]]
 
| 埋葬日    =  
 
| 埋葬地    = [[ライヒェナウ島]]
 
| 継承者    =
 
| 継承形式  =
 
| 配偶者1    = リヒャルディス
 
| 配偶者2    =
 
| 配偶者3    =
 
| 配偶者4    =
 
| 配偶者5    =
 
| 配偶者6    =
 
| 配偶者7    =
 
| 配偶者8    =
 
| 配偶者9    =
 
| 配偶者10  =
 
| 子女      =
 
| 王家      = [[カロリング家]]
 
| 王朝      = [[カロリング朝]]
 
| 王室歌    =
 
| 父親      = [[ルートヴィヒ2世 (東フランク王)|ルートヴィヒ2世]]
 
| 母親      = ヘンマ・フォン・シュッセンガウ
 
| 宗教      = [[カトリック教会]]
 
| サイン    =
 
}}
 
[[ファイル:Die deutschen Kaiser Karl der Dicke.jpg|thumb|right|180px|カール3世]]
 
'''カール3世'''([[ドイツ語]]:'''Karl III. der Dicke''', [[839年]][[6月13日]] - [[888年]][[1月13日]])は中世西欧の[[フランク・ローマ皇帝|西ローマ皇帝]]<ref>『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』カルル3世(肥満王)</ref>(在位:[[881年]] - [[887年]])、[[東フランク王国]]の[[フランク王の一覧|国王]](在位:[[882年]] - [[887年]])。後に[[西フランク王国]][[フランク王の一覧|国王]]を兼ねる(在位:[[884年]] - [[887年]])。西フランク王としては'''シャルル肥満王'''([[フランス語]]:'''Charles le Gros''')と呼ばれる。異称は「'''肥満王'''」(ドイツ語:''der Dicke''、フランス語:''le Gros'')。東フランク王[[ルートヴィヒ2世 (東フランク王)|ルートヴィヒ2世]](ドイツ人王)とその王后でシュッセンガウ伯ヴェルフの娘ヘンマの息子。分裂していた[[フランク王国]]を一時的に統一したが、統合を維持することはできなかった。
 
  
== 生涯 ==
+
'''カール3世'''([[ドイツ語]]:'''Karl III. der Dicke''', [[839年]][[6月13日]] - [[888年]][[1月13日]]
[[876年]]、ルートヴィヒ2世の死去を受け、カール3世は兄の[[カールマン (東フランク王)|カールマン]]・[[ルートヴィヒ3世 (東フランク王)|ルートヴィヒ3世]]とともに父の遺領を分割し、[[アレマニア]](後の[[シュヴァーベン]])を継承した<ref>成瀬 他、pp. 52 - 53</ref>。[[879年]]にカールマンからイタリア王位の譲位を受け、<!--[[880年]]には[[リブモント条約|リブモン条約]]によって[[ロタリンギア]]北東部を領有し、-->[[881年]]2月21日にはローマで皇帝[[シャルル2世 (西フランク王)|カール2世]](西フランク王シャルル2世)の後を嗣いで教皇[[ヨハネス8世 (ローマ教皇)|ヨハネス8世]]より皇帝として戴冠した<ref name=Sehara55>瀬原、p. 55</ref>。[[882年]]には死去したルートヴィヒ3世の遺領を相続し、東フランク全土を手中に収めた。さらに[[884年]]、西フランク王[[カルロマン (西フランク王)|カルロマン]]が死去、西フランクの政治を担っていたジュミエージュ修道院長ゴズランから西フランクをゆだねられ西フランク王として即位した<ref name=Sehara55 /><ref>柴田 他、p. 171</ref>。これにより、カール3世はフランク王国の統一を達成した。
 
  
カール3世の権威の上昇には、西ヨーロッパ全体の復興の可能性があった。しかし彼は優柔不断でその才能も熱心さもなく、病([[てんかん]]と考えられている<ref name=Sehara55 />)を患っていた。[[サラセン人]]の侵入に対して[[イタリア遠征]]を繰り返したものの失敗に終わり、[[886年]]には[[パリ]]に侵攻してきた[[ヴァイキング]]に対して、[[サンス]]地方への進出の許可および700リーヴルの支払いを約束し講和を結んだ<ref name=Sehara56>瀬原、p. 56</ref><ref>堀越 他、p. 83</ref>。さらに、庶子のベルンハルト、次いでプロヴァンス王[[ボソ (プロヴァンス王)|ボソ]]の子[[ルイ3世 (プロヴァンス王)|ルイ3世]](プロヴァンス王、のち皇帝)を後継者にしようとして失敗した<ref name=Sehara56 />。
+
西ローマ皇帝 (在位 881~887) ,西フランク王 (在位 884~887) 。シャルル3世 (肥満王) とも呼ばれる。東フランク王[[ルートウィヒ2世 (ドイツ王) ]]の末子。 876年東フランクの一部の王となり,2人の兄の死で西ローマ皇帝,西フランク王を兼ねた。カルル1世 (大帝) 時代の領土を支配したが実力なく,ノルマンの侵入にあたって屈辱的講和を結んだ。そのため 887年甥の[[アルヌルフ]]に廃位され,帝国は分裂した。
  
これによって、カール3世はますます弱腰で無能であるとみなされるようになり、[[887年]]11月には甥の[[アルヌルフ (東フランク王)|アルヌルフ]]がドイツを拠点に反乱を起こすに至った。しかしカール3世はナイディンゲンに逃れただけで何の策も打てず、トリブールの帝国議会において退位し<ref>カラー世界史百科、p. 127</ref>、2ヵ月後の888年1月13日に死去した。
+
{{テンプレート:20180815sk}}
彼の歿後、アルヌルフが東フランクとロタリンギアを、ヴァイキングとの戦いに功があった[[パリ伯]][[ウード (西フランク王)|ウード]]が西フランクを、[[ルートヴィヒ1世 (フランク王)|ルートヴィヒ1世]]の孫のフリウリ公[[ベレンガリオ1世]]がイタリアを、[[ルドルフ1世 (ブルグント王)|ルドルフ1世]]が上ブルグントを、[[ルイ3世 (プロヴァンス王)|ルイ3世]](盲目王)が[[プロヴァンス]]をそれぞれ継承した。そしてこれより後、フランク王国がみたび統一されることはなかった。また、891年には[[ヴィドー家]]のスポレート公[[グイード・ダ・スポレート|グイード]]が皇帝として戴冠した。
 
 
 
== 子女 ==
 
シュヴァーベンの伯エルハンガーの娘とみられるリヒャルディスと結婚したが<ref>Reuter, p. 73</ref>、嫡子は得られなかった。
 
 
 
以下の庶子がいる<ref>Reuter, p. 336</ref>。
 
* ベルンハルト(? - 891年?)
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* [[成瀬治]] 他 編 『世界歴史大系 ドイツ史 1』 [[山川出版社]]、1997年
 
* 瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年
 
* 柴田三千雄 他 編 『世界歴史大系 フランス史 1』 山川出版社、1995年
 
* ハンス・K・シュルツェ 『西欧中世史事典Ⅱ-皇帝と帝国-』 ミネルヴァ書房、2005年
 
* 堀越孝一 他 『世界の歴史 5 中世ヨーロッパ』 社会思想社、1974年
 
* 成瀬治 監修 『カラー世界史百科 増補版』 平凡社、1985年
 
* Reuter, Timothy. ''Germany in the Early Middle Ages 800-1056''. New York: Longman, 1991.
 
 
 
{{先代次代|[[ユーラブルグント王国|上ブルグント王]]|879年 - 887年|[[カールマン (東フランク王)|カールマン]]|[[ルドルフ1世 (ブルグント王)|ルドルフ1世]]}}
 
{{先代次代|[[西フランク王国|西フランク王]]|884年 - 887年|[[カルロマン (西フランク王)|カルロマン]]|[[ウード (西フランク王)|ウード]]}}
 
{{神聖ローマ皇帝|}}
 
{{東フランク王国国王|876年 - 887年(882年から東フランク単独王)}}
 
{{中世イタリア王||879年 - 887年}}
 
{{ロタリンギア王||882年 - 887年}}
 
{{フランス君主}}
 
{{プロヴァンス王||884年 - 887年}}
 
{{Normdaten}}
 
 
{{DEFAULTSORT:かる3}}
 
{{DEFAULTSORT:かる3}}
 
[[Category:フランク人のローマ皇帝]]
 
[[Category:フランク人のローマ皇帝]]

2019/4/30/ (火) 01:43時点における最新版

カール3世ドイツ語Karl III. der Dicke, 839年6月13日 - 888年1月13日

西ローマ皇帝 (在位 881~887) ,西フランク王 (在位 884~887) 。シャルル3世 (肥満王) とも呼ばれる。東フランク王ルートウィヒ2世 (ドイツ王) の末子。 876年東フランクの一部の王となり,2人の兄の死で西ローマ皇帝,西フランク王を兼ねた。カルル1世 (大帝) 時代の領土を支配したが実力なく,ノルマンの侵入にあたって屈辱的講和を結んだ。そのため 887年甥のアルヌルフに廃位され,帝国は分裂した。



楽天市場検索: