「カール・ライネッケ」の版間の差分

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'''カール・ライネッケ'''(カール・ハインリヒ・カーステン・ライネッケ '''Carl Heinrich Carsten Reinecke''', [[1824年]][[6月23日]] [[ハンブルク=アルトナ|アルトナ]] - [[1910年]][[3月10日]] [[ライプツィヒ]])は、[[ドイツ]][[ロマン派]]の[[作曲家]]、[[ピアニスト]]、[[指揮者]]、教育者<ref name="Sietz">{{Cite web |url=http://www.oxfordmusiconline.com/subscriber/article/grove/music/23128 |title=Reinhold Sietz. “Reinecke, Carl.” ''Grove Music Online. Oxford Music Online'' |publisher=Oxford University Press |accessdate=2013-11-13}}</ref>。
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'''カール・ライネッケ'''(カール・ハインリヒ・カーステン・ライネッケ '''Carl Heinrich Carsten Reinecke''', [[1824年]][[6月23日]] [[ハンブルク=アルトナ|アルトナ]] - [[1910年]][[3月10日]] [[ライプツィヒ]]
  
== 略歴 ==
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ドイツのピアニスト,作曲家,指揮者。音楽教師の父に学び,1836年にデビュー。のちライプチヒに行き,シューマン,メンデルスゾーンに師事した。 46~48年にはコペンハーゲンのクリスティアン8世の宮廷ピアニストをつとめ,ケルン,バルメン,ブレスラウなどで教師や指揮者をしたのち,60年からライプチヒ・ゲバントハウス管弦楽団の指揮者を 35年間つとめた。作品は3つの交響曲をはじめ 300曲以上に上り,ピアニストとしてはモーツァルト演奏家として知られた。モーツァルトやベートーベンなどのピアノ協奏曲につけたカデンツァも有名。
音楽理論や音楽教育書の著作を出していた高名な音楽教育者の父親ルドルフ(ヨハン・ペーター・ルドルフ・ライネッケ Johann Peter Rudolph Reinecke, 1795年11月22日 [[ハンブルク]] - 1883年8月14日 {{仮リンク|ゼーゲベルク|en|Segeberg}})に学ぶ<ref name="Sietz"></ref>。
 
  
* 7歳までに作曲を始め、12歳でピアニストとして初めて公開演奏を行う。
 
* [[1843年]](19歳) 北欧に演奏旅行を行い、引き続きライプツィヒで[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]や{{要出典範囲|[[ロベルト・シューマン|シューマン]]に師事|date=2013年11月}}。
 
* [[1846年]](22歳) [[デンマーク]]にて宮廷ピアニスト。
 
* [[1851年]](27歳) [[フランツ・リスト]]の娘達、ブランディーネと[[コジマ・ワーグナー|コジマ]]にピアノのレッスンをする。のち、作曲家の[[フェルディナント・ヒラー]]に乞われて[[ケルン音楽大学|ケルン音楽院]]で教える<ref name="村澤">{{Cite web |url=http://www.naruto-u.ac.jp/repository/metadata/107 |title=村澤由利子 (2007) 「カール・ライネッケ作曲「ピアノ協奏曲第4番 ロ短調 作品254」についての一考察」 『鳴門教育大学研究紀要』22: 303-317. |publisher=鳴門教育大学 |accessdate=2013-11-13}}</ref>。
 
* [[1860年]](36歳) [[ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団]]の楽長、[[フェリックス・メンデルスゾーン音楽演劇大学|音楽院]]の教授に就任。
 
* [[1869年]] [[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]の「[[ドイツ・レクイエム]]」を、この年の2月18日に[[ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団]]を指揮して初演する。
 
* [[1875年]] [[ベルリン芸術アカデミー|王立プロイセン芸術アカデミー]]の会員となる<ref name="Sietz"></ref>。
 
* [[1897年]] ライプツィヒ音楽院の院長に就任<ref name="Sietz"></ref>。
 
* [[1902年]] 公職から引退する<ref name="Sietz"></ref>。
 
 
ライプツィヒ音楽院での門下生に、[[マックス・ブルッフ|ブルッフ]]、[[エドヴァルド・グリーグ|グリーグ]]、[[ヨハン・スヴェンセン|スヴェンセン]]、[[クリスティアン・シンディング|シンディング]]、[[アーサー・サリヴァン|サリヴァン]]、[[レオシュ・ヤナーチェク|ヤナーチェク]]、[[イサーク・アルベニス|アルベニス]]、[[フェリックス・ワインガルトナー|ワインガルトナー]]、[[フーゴー・リーマン|リーマン]]らがいる<ref name="Sietz"></ref>。
 
 
19世紀の音楽家としては長寿に恵まれたため、晩年になって[[ピアノロール]]に自作自演を含む吹込みを残した。特に、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]の「[[ピアノ協奏曲第26番 (モーツァルト)|戴冠式]]」の第2楽章が有名である。現在ではCD化もされている(Archiphon ARC-106など)。
 
 
== 作品 ==
 
初期にはメンデルスゾーンやシューマン、[[フレデリック・ショパン|ショパン]]の影響が顕著であったが、のちにはブラームス作品のもつ綿密さや堅固な構成力が加わった<ref group="注">ただし、ライネッケとブラームスは互いに批判的であった(村澤 (2007)、306ページ)。</ref>。公職から引退後も死の間際まで作曲活動を続けていたため、創作数は出版作品だけで300曲を超え、未出版の作品を数えると千曲以上ともいわれる。様々な分野の曲を書いているが、魅力的な旋律と創意に富む数多くのピアノ曲で殊に有名であった。また、室内楽曲も優れており、[[フルートソナタ (ライネッケ)|フルートソナタ「ウンディーネ」]]は彼の作品中最も頻繁に演奏される曲である。一方で、「マンフレッド王 (''König Manfred'')」などの[[オペラ]]では成功しなかった<ref name="Sietz"></ref>。
 
 
保守的な音楽観を持ち<ref name="Sietz"></ref>、名人芸もほとんど用いなかった為、死後は多くの作品が演奏家のレパートリーから消えることとなった。
 
 
教育目的で書かれた作品には「ミニチュアソナタ」や「左手の為のピアノソナタ」など創意工夫に富んだ物が多く、今日の教育に於いても使用可能である。
 
 
彼が師事したシューマンの作品で合唱曲として名高い「[[流浪の民]]」のフルオーケストラ版編曲も手がけた。こちらも長らく埋もれていたが、2010年10月13日、[[ライプツィヒ大学]]入学式に於いて同大学管弦楽団・合唱団によって現ゲヴァントハウス大ホールにて蘇演がなされた。
 
 
=== 交響曲 ===
 
* 交響曲第1番 イ長調 Op.79 (1858年)
 
* 交響曲第2番 ハ短調 Op.134 (1874年)
 
* 交響曲第3番 ト短調 Op.227 (1895年)
 
* 子どもの交響曲(おもちゃの交響曲)ハ長調 Op.239 (1895年)
 
 
=== 協奏曲 ===
 
* ハープ協奏曲 ホ短調 Op.182 (1884年)
 
* ピアノ協奏曲第1番 嬰ヘ短調 Op.72 (1860年)
 
* ピアノ協奏曲第2番 ホ短調 Op.120 (1872年)
 
* ピアノ協奏曲第3番 ハ長調 Op.144 (1877年)
 
* [[ピアノ協奏曲第4番 (ライネッケ)|ピアノ協奏曲第4番 ロ短調]] Op.254 (1901年)
 
* チェロ協奏曲 ニ短調 Op.82 (1864年)
 
* ヴァイオリン協奏曲 ト短調 Op.141 (1876年)
 
* [[フルート協奏曲 (ライネッケ)|フルート協奏曲 ニ長調]] Op.283 (1908年)
 
 
=== 室内楽曲 ===
 
* 3つの易しいピアノ三重奏曲(ハ長調、ホ短調、ヘ長調) Op.159
 
* [[フルートソナタ (ライネッケ)|フルートソナタ ホ短調 「ウンディーネ」]] Op.167(1881年)
 
* 弦楽三重奏曲 ハ短調 Op.249
 
 
=== ピアノ曲 ===
 
* アンダンテと変奏曲(2台) 変ホ長調 Op.6 (1844年)
 
* 3つのソナチネ Op.47 (1854年)
 
* ゆりかごから墓場まで Op.202 (1888年)
 
* 左手のためのピアノソナタ ハ短調 Op.179 (1884年)
 
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist|group="注"}}
 
 
== 出典 ==
 
{{Reflist}}
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.carl-reinecke.de/ CARL REINECKE (ドイツ語)]
 
* {{IMSLP|id=Reinecke%2C_Carl|cname=カール・ライネッケ}}
 
*{{YouTube|C_ELXJNMIE8|ライネッケによるモーツァルトのピアノ協奏曲第23番と26番の第2楽章の演奏(ピアノロール)}}
 
 
{{ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団楽長}}
 
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2018/10/28/ (日) 19:57時点における最新版

カール・ライネッケ
Carl Heinrich Carsten Reinecke
基本情報
生誕 1824年6月23日
Holstein Arms.svg ホルシュタイン公国 アルトナ
死没 (1910-03-10) 1910年3月10日(85歳没)
ドイツの旗 ドイツ帝国 ライプツィヒ
ジャンル ロマン派
職業 作曲家
ピアニスト
指揮者
教育者
担当楽器 ピアノ

カール・ライネッケ(カール・ハインリヒ・カーステン・ライネッケ Carl Heinrich Carsten Reinecke, 1824年6月23日 アルトナ - 1910年3月10日 ライプツィヒ

ドイツのピアニスト,作曲家,指揮者。音楽教師の父に学び,1836年にデビュー。のちライプチヒに行き,シューマン,メンデルスゾーンに師事した。 46~48年にはコペンハーゲンのクリスティアン8世の宮廷ピアニストをつとめ,ケルン,バルメン,ブレスラウなどで教師や指揮者をしたのち,60年からライプチヒ・ゲバントハウス管弦楽団の指揮者を 35年間つとめた。作品は3つの交響曲をはじめ 300曲以上に上り,ピアニストとしてはモーツァルト演奏家として知られた。モーツァルトやベートーベンなどのピアノ協奏曲につけたカデンツァも有名。




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