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{{Infobox 哲学者
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[] 1818.5.5. トリール
| region          = [[西洋哲学]]
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[] 1883.3.14. ロンドン
| era              = [[19世紀の哲学]]
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| image_name      = Karl Marx.jpg
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ドイツの経済学者,哲学者,革命指導者,科学的社会主義の創始者。中流のユダヤ人弁護士の家庭に生れ,ボン大学,ベルリン大学で法律,哲学を学び,1841年イェナ大学で博士号を取得。 42年ケルンの急進的ブルジョアの機関紙"Rheinische Zeitung"の主筆となったが,43年パリに移住,44年共同で"Deutsch-Französische Jahrbücher"を発行。 F.[[エンゲルス]]と出会い,社会主義的傾向を深めた。 47年共産主義者同盟に参加,48年エンゲルスとともに『[[共産党宣言]]』を執筆し,唯物史観を確立。三月革命に際してはケルンで"Neue Rheinische Zeitung"を発行してドイツの革命運動の促進をはかったが挫折し,49年ロンドンに亡命。極度の貧困のなかで著作を続け,67年マルクス経済学を代表する『[[資本論]]』 Das Kapitalの第1巻を発表。『資本論』のなかで最も印象的なのはイギリス労働者階級の窮状についての記述である。第2巻,第3巻は彼の死後エンゲルスの手で編集され,85,94年に刊行された。マルクスの社会科学理論上の最も重要な貢献は,剰余価値論を中核とした資本主義の経済分析にあるが,その透徹した社会分析は政治学,歴史学,社会学,哲学などをも包含する壮大な思想体系であるマルクス主義理論を形成している。
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| image_caption    = [[1875年]][[8月24日]]のマルクスの写真
 
| name            = カール・ハインリヒ・マルクス<br />Karl Heinrich Marx
 
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| birth_date      = {{生年月日と年齢|1818|5|5|死去}}
 
| birth_place      = {{DEU1815}}・{{PRU}}・{{仮リンク|ニーダーライン大公国県|de|Provinz Großherzogtum Niederrhein}}[[トリーア]]
 
| death_date      = {{死亡年月日と没年齢|1818|5|5|1883|3|14}}
 
| death_place      = {{GBR}}・[[イングランド]]・[[ロンドン]]
 
| spouse          = [[イェニー・フォン・ヴェストファーレン]]
 
| school_tradition = [[大陸哲学]]、[[唯物論]]、[[マルクス主義|科学的社会主義]]、[[共産主義]]、若いころは[[青年ヘーゲル派]]
 
| main_interests  = [[自然哲学]]、[[唯物論]]、[[自然科学]]、[[歴史哲学]]、[[倫理学]]、[[社会哲学]]、[[政治哲学]]、[[法哲学]]、[[経済学]]、各国の近現代史、[[政治学]]、[[社会学]]、[[資本主義]][[経済]]の分析
 
| notable_ideas    = [[唯物弁証法|弁証法的唯物論]]、[[唯物史観|史的唯物論]]、[[疎外]]、[[労働価値説]]、[[階級闘争]]、[[剰余価値]]の[[搾取]]、[[価値形態]]
 
| influences      = [[チャールズ・バベッジ]]、[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル]]、[[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ]]、[[バールーフ・デ・スピノザ]]、[[ピエール・ジョゼフ・プルードン]]、[[マックス・シュティルナー]]、[[アダム・スミス]]、[[ヴォルテール]]、[[デヴィッド・リカード]]、[[ジャンバッティスタ・ヴィーコ]]、[[マクシミリアン・ロベスピエール]]、[[ジャン=ジャック・ルソー]]、[[ウィリアム・シェイクスピア]]、[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ]]、[[クロード=アドリアン・エルヴェシウス]]、[[ポール=アンリ・ティリ・ドルバック]]、[[ユストゥス・フォン・リービッヒ]]、[[チャールズ・ダーウィン]]、[[シャルル・フーリエ]]、[[ロバート・オウエン]]、[[モーゼス・ヘス]]、[[フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー]]、[[コンスタンタン・ペクール]]、[[アリストテレス]]、[[エピクロス]]など
 
| influenced      = [[大陸哲学|大陸哲学系]][[現代思想]]、[[フランクフルト学派]]、[[批判理論]]、多くの[[マルクス主義|マルクス主義者]]、[[分析的マルクス主義]]、[[マルクス経済学]]など
 
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| website          = <!-- {{URL|example.com}} -->
 
}}
 
'''カール・ハインリヒ・マルクス'''({{lang-de|'''Karl Heinrich Marx'''}}, [[1818年]][[5月5日]] - [[1883年]][[3月14日]])は、[[ドイツ]]・[[プロイセン王国]]出身の[[哲学者]]、[[思想家]]、[[経済学者]]、[[革命家]]。[[1845年]]にプロイセン国籍を離脱しており、以降は[[無国籍|無国籍者]]であった。[[1849年]](31歳)の渡英以降は[[イギリス]]を拠点として活動した。
 
  
[[フリードリヒ・エンゲルス]]の協力を得ながら、包括的な[[世界観]]および[[革命]]思想として[[マルクス主義|科学的社会主義(マルクス主義)]]を打ちたて、資本主義の高度な発展により[[共産主義]]社会が到来する必然性を説いた。ライフワークとしていた[[資本主義]]社会の研究は『[[資本論]]』に結実し、その理論に依拠した経済学体系は[[マルクス経済学]]と呼ばれ、[[20世紀]]以降の[[国際政治]]や[[思想]]に多大な影響を与えた{{#tag:ref|なお、[[2005年]]のイギリス[[BBC]]のラジオ番組の視聴者投票でもっとも偉大な哲学者に選ばれた<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-07-23/2005072301_02_2.html 「最も偉大な哲学者」マルクスが1位 英BBCラジオの視聴者投票]</ref>。|group=注釈}}。
 
 
== 概要 ==
 
マルクスは、その生涯の大部分を亡命者として過ごした。出生地はプロイセン領だったが、[[1849年]]にパリに追放され、のちにロンドンに居住して、そこで死んだ。彼は、生涯をひどい貧困の中で過ごしたと言われているが、家政婦を雇い家政婦を孕ますほどの経済力はあった。また、生前はあまり有名ではなかった。しかし、ロンドンでの彼の[[社会運動|運動]]と[[著作]]は、その後の世界の[[社会主義]]運動に多大な影響を与えた。
 
 
マルクスの死後、[[19世紀]]終わりから[[20世紀]]初めにかけて、世界中にできた社会主義政党は、皆何らかの形で[[マルクス主義]]を採用した。マルクス主義の核心は、[[階級闘争]]と社会主義社会建設のための理論であり、経済的[[搾取]]と社会的不平等を根絶することを目指していた。[[マルクス主義]]の一派である[[共産主義]]は、[[ウラジーミル・レーニン]]によって、[[1917年]]のロシアで最初の革命を成功させ、[[コミンテルン]]が各国で創設した[[共産党]]は、世界中の注目と議論を惹き起こした。
 
 
マルクスの理論の中心は、[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]哲学を基礎とした[[弁証法]][[哲学]]と[[政治経済]]論である。マルクスは、当初ヘーゲルの[[観念論]]から出発し、のちに自分の革命的政治観に行き着いた。マルクスは、多数の論文、パンフレット、レポートを書き、幾つかの著作を出版した。詳細は後述する。
 
 
マルクスの世界観の核心は、彼の経済システム論ではない。そもそもマルクスは、経済学を批判的に扱っている。また、彼の経済理論は、[[アダム・スミス]]や[[リカード]]に多くを拠っている。「資本論」は、経済の専門的分析というよりも、社会経済問題に対する制度と価値の考察を通じた規範的分析である。マルクスが「資本論」で訴えているのは、人類の救済であり、彼の理論で最も卓越していた点は、経済学というより歴史理論と政治学である。
 
 
マルクスの思想の中心は、史的唯物論である。史的唯物論は、経済システムが観念を規定するという考えと、歴史の発展は経済構造によって基礎づけられているという考えからなる。前者の考えは、ヘーゲル哲学を唯物論的に解釈し直したもので、後者の考えは、弁証法哲学を歴史理論に応用したものである。<ref>Suzanne Michele Bourgoin and Paula Kay,ed.,"Encyclopedia of world biography"10,pp.304-308.</ref>
 
{{-}}
 
 
== 生涯 ==
 
=== 出生と出自 ===
 
[[File:Karl Heinrich Marx House.JPG|250px|thumb|ブリュッケンシュトラーセ10番地(当時はブリュッカーガッセ664番地)にある{{仮リンク|カール・マルクスの生家|label=マルクスの生家|de|Karl-Marx-Haus}}。<br/><small>この家は[[1928年]]に[[ドイツ社会民主党|ドイツ社会民主党(SPD)]]によって買い取られ、以降マルクス博物館として保存されている。[[国家社会主義ドイツ労働者党|国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)]]政権下で社民党が解散していた時期にはナチ党機関紙の本部になっていた。戦後再興した社民党によってマルクス博物館に戻された<ref name="ウィーン(2002)21">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.21</ref>。</small>]]
 
[[1818年]][[5月5日]]午前2時頃、[[プロイセン王国]]{{仮リンク|ニーダーライン大公国県|de|Provinz Großherzogtum Niederrhein}}に属する[[モーゼル川]]河畔の町[[トリーア]]のブリュッカーガッセ(Brückergasse)664番地に生まれる<ref name="ウィーン(2002)21"/><ref name="カー(1956)14">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.14</ref>。
 
 
父は[[ユダヤ教]][[ラビ]]だった[[弁護士]]{{仮リンク|ハインリヒ・マルクス|de|Heinrich Marx (Justizrat)}}<ref name="廣松(2008)16">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.16</ref><ref name="小牧(1966)39">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.39</ref>。母は[[オランダ]]出身のユダヤ教徒ヘンリエッテ(Henriette)(旧姓プレスボルク(Presburg))<ref name="廣松(2008)16">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.16</ref>。マルクスは夫妻の第3子(次男)であり、兄にモーリッツ・ダーフィット(Mauritz David)、姉にゾフィー(Sophia)がいたが、兄は夭折したため、マルクスが実質的な長男だった<ref name="廣松(2008)17">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.17</ref>。また後に妹が4人、弟が2人生まれているが、弟2人は夭折・若死にしている<ref name="廣松(2008)17"/>。
 
 
マルクスが生まれたトリーアは古代から続く歴史ある都市であり、長きにわたって[[トリーア大司教]]領の首都だったが、[[フランス革命戦争]]・[[ナポレオン戦争]]中には他の[[ライン地方]]ともどもフランスに支配され、自由主義思想の影響下に置かれた。ナポレオン敗退後、同地は[[ウィーン会議]]の決議に基づき[[封建主義]]的なプロイセン王国の領土となったが、プロイセン政府は統治が根付くまではライン地方に対して慎重に統治に臨み、[[ナポレオン法典]]の存続も認めた。そのため[[自由主義]]・[[資本主義]]・[[カトリック教会|カトリック]]の気風は残された<ref name="石浜(1931)43">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.43</ref><ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.18/22</ref><ref>[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.26-27</ref>。
 
 
マルクス家は代々ユダヤ教のラビであり、[[1723年]]以降にはトリーアのラビ職を世襲していた。マルクスの祖父マイヤー・ハレヴィ・マルクスや伯父{{仮リンク|ザムエル・マルクス|de|Samuel Marx (Rabbiner)}}もその地位にあった<ref name="ウィーン(2002)17">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.17</ref>。父ハインリヒも元はユダヤ教徒でユダヤ名をヒルシェルといったが<ref name="ウィーン(2002)18">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.18</ref>、彼は[[ヴォルテール]]や[[ドゥニ・ディドロ|ディドロ]]の影響を受けた自由主義者であり<ref name="小牧(1966)39"/><ref name="石浜(1931)44">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.44</ref><ref name="城塚(1970)25">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.25</ref>、[[1812年]]からは[[フリーメーソン]]の会員にもなっている<ref>Nikolaus Sandmann: Heinrich Marx, Jude, Freimaurer und Vater von Karl Marx. In: Humanität, Zeitschrift für Gesellschaft, Kultur und Geistesleben, Hamburg; Heft 5/1992, p.13–15.</ref>。そのため宗教にこだわりを持たず、トリーアがプロイセン領になったことでユダヤ教徒が公職から排除されるようになったことを懸念し{{#tag:ref|プロイセン政府は1815年にも[[ドイツ連邦]]規約16条に基づき、ユダヤ教徒の公職追放を開始した。この措置とユダヤ人迫害機運の盛り上がりの影響でこの時期にユダヤ教徒から改宗者が続出した。[[ハインリヒ・ハイネ]]や[[エドゥアルト・ガンス]]らもこの時期に改宗している<ref name="廣松(2008)19">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.19</ref>。マルクスの父ヒルシェルは当時トリーア市の法律顧問を務めていたため、やはり公職追放の危機に晒された。彼ははじめ改宗を拒否し、ナポレオン法典を盾に公職に止まろうとした。その主張は地方高等裁判所長官フォン・ゼーテからも支持を得ていたが、プロイセン中央政府の{{仮リンク|法務大臣 (プロイセン)|label=法務大臣|de|Liste der preußischen Justizminister}}{{仮リンク|フリードリヒ・レオポルト・フォン・キルヒアイゼン|de|Friedrich Leopold von Kircheisen}}から例外措置はありえないと通告された。結局ヒルシェルはゼーテからの勧めで最終手段として改宗したのだった<ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.19-20</ref>。|group=注釈}}、[[1816年]]秋([[1817年]]春とも)にプロイセン[[国教]]である[[プロテスタント]]に改宗して「[[ハインリヒ]]」の洗礼名を受けた<ref name="ウィーン(2002)18">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.18</ref><ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.17-19</ref><ref>[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.3/8</ref>。
 
 
母方のプレスボルク家は数世紀前に[[中欧]]からオランダへ移民したユダヤ人家系であり<ref name="カー(1956)15">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.15</ref>、やはり代々ラビを務めていた<ref name="廣松(2008)17">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.17</ref><ref name="メーリング(1974,1)36">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.36</ref>。母自身もオランダに生まれ育ったので、[[ドイツ語]]の発音や書くことに不慣れだったという<ref name="カー(1956)15"/>。彼女は夫が改宗した際には改宗せず、マルクスら生まれてきた子供たちも[[シナゴーグ|ユダヤ教会]]に籍を入れさせた<ref name="廣松(2008)17">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.17</ref><ref>[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.4/9</ref>。叔父は欧州最大の電機メーカーである[[フィリップス]]の創業者[[:de:Lion Philips|リオン・フィリップス]]であった<ref>Heinz Monz: ''Der Erbteilungsvertraag Henriette Marx''</ref><ref>Manfred Schöncke: ''Karl und Heinrich Marx und ihre Geschwister'', S. 307–309</ref><ref>Jan Gielkens, S. 220–221</ref>。
 
{{-}}
 
 
=== 幼年期 ===
 
[[File:Trier BW 2011-09-22 18-02-16.JPG|180px|thumb|ジメオンガッセ(当時はジメオンシュトラーセ)にある{{仮リンク|カール・マルクスの育った家|label=マルクスの育った家|de|Karl-Marx-Wohnhaus}}]]
 
一家は[[1820年]]にブリュッカーガッセ664番地の家を離れて同じトリーア市内のジメオンシュトラーセ(Simeonstraße)1070番地へ引っ越した。
 
 
マルクスが6歳の時の[[1824年]]8月、第8子のカロリーネが生まれたのを機にマルクス家兄弟はそろって父と同じプロテスタントに改宗している。母もその翌年の[[1825年]]に改宗した<ref name="廣松(2008)17">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.17</ref><ref>[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.9-10</ref>。この時に改宗した理由は資料がないため不明だが、封建主義的なプロイセンの統治や1820年代の農業恐慌でユダヤ人の土地投機が増えたことで[[反ユダヤ主義]]が強まりつつある時期だったからかもしれない<ref name="石浜(1931)46">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.46</ref><ref name="メーリング(1974,1)40">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.40</ref>。
 
 
マルクスが小学校教育を受けたという記録は今のところ発見されていない。父や父の法律事務所で働く修司生による家庭教育が初等教育の中心であったと見られる<ref name="廣松(2008)21">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.21</ref><ref name="ウィーン(2002)21">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.21</ref>。 マルクスの幼年時代についてもあまりよく分かっていない<ref name="ウィーン(2002)21">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.21</ref>。<!--この記述は必要ですか?/ 泥団子はともかく、幼少期の親の評価はなかなか興味深いんじゃないかと思います。とりあえずこの状態のまま、もう少しマルクスに肯定的に加筆・修正しておきますね。/
 
 
学校に入る前のマルクスの幼年時代については他の兄弟姉妹によく[[泥団子]]を食わせていたなどといった逸話以外不明な点が多い<ref name="ウィーン(2002)21">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.21</ref>。
 
 
父ハインリヒは息子カールに天分の素質を見出し、「いつか人類の幸福に貢献するだろう」とその将来を嘱望し、母も息子カールをこの子の手にかかると全てうまくいく幸運児であると称したという。一方で父は息子の中に潜む「魔性」も感じ取り、不安に思っていたという<ref>[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.36-37</ref>。 -->
 
 
=== トリーアのギムナジウム ===
 
[[1830年]]、12歳の時にトリーアの{{仮リンク|フリードリヒ・ヴィルヘルム・ギムナジウム (トリーア)|label=フリードリヒ・ヴィルヘルム・ギムナジウム|de|Friedrich-Wilhelm-Gymnasium (Trier)}}に入学した<ref name="ウィーン(2002)21-22">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.21-22</ref>。この[[ギムナジウム]]は父ハインリヒも所属していたトリーアの進歩派の会合『カジノクラブ』のメンバーであるフーゴ・ヴィッテンバッハが校長を務めていたため、自由主義の空気があった<ref name="廣松(2008)25">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.25</ref><ref name="小牧(1966)43">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.43</ref><ref name="ウィーン(2002)22">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.22</ref>。
 
 
1830年にフランスで[[7月革命]]があり、ドイツでも自由主義が活気づいた。トリーアに近い{{仮リンク|ハンバッハ|de|Hambach (bei Diez)}}でも[[1832年]]に自由と[[ドイツ統一]]を求める反政府派集会が開催された。これを警戒したプロイセン政府は反政府勢力への監視を強化し、ヴィッテンバッハ校長やそのギムナジウムも監視対象となった。[[1833年]]にはギムナジウムに警察の強制捜査が入り、ハンバッハ集会の文書を持っていた学生が一人逮捕された<ref name="廣松(2008)25">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.25</ref><ref name="ウィーン(2002)22"/>。ついで1834年1月には父ハインリヒも{{仮リンク|ライン県|de|Rheinprovinz}}県議会議員の集まりの席上でのスピーチが原因で警察の監視対象となり、地元の新聞は彼のスピーチを掲載することを禁止され、「カジノクラブ」も警察監視下に置かれた<ref name="ウィーン(2002)19">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.19</ref><ref name="廣松(2008)26">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.26</ref>。さらにギムナジウムの[[数学]]と[[ヘブライ語]]の教師が革命的として処分され、ヴィッテンバッハ監視のため保守的な古典教師ロエルスが副校長として赴任してきた<ref name="ウィーン(2002)22">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.22</ref><ref name="廣松(2008)27">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.27</ref>。
 
 
マルクスは15歳から17歳という多感な時期にこうした封建主義の弾圧の猛威を間近で目撃したのだった。しかしギムナジウム在学中のマルクスが政治活動を行っていた形跡はない。唯一それらしき行動は卒業の際の先生への挨拶回りで保守的なロエルス先生のところには挨拶にいかなかったことぐらいである(父の手紙によるとロエルス先生のところへ挨拶に来なかった学生はマルクス含めて二人だけで先生は大変怒っていたという)<ref name="廣松(2008)27">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.27</ref>。
 
 
このギムナジウムでのマルクスの卒業免状や卒業試験が残っている<ref name="カー(1956)15">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.15</ref>。それによれば卒業試験の結果は、宗教、ギリシャ語、ラテン語、古典作家の解釈で優秀な成績を収め、数学、フランス語、自然科学は普通ぐらいの成績だったという<ref name="シュワルツシルト(1950)18">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.18</ref>。卒業免状の中の「才能及び熱意」の項目では「彼は良好な才能を有し、古代語、ドイツ語及び歴史においては非常に満足すべき、数学においては満足すべき、フランス語においては単に適度の熱意を示した」と書いてある<ref name="カー(1956)15">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.15</ref>。この成績を見ても分かる通り、この頃のマルクスは文学への関心が強かった。当時のドイツの若者はユダヤ人詩人[[ハインリヒ・ハイネ]]の影響でみな詩を作るのに熱中しており、ユダヤ人家庭の出身者ならなおさらであった。マルクスも例外ではなく、ギムナジウム卒業前後の将来の夢は詩人だったという<ref name="シュワルツシルト(1950)17">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.17</ref>。
 
 
卒業論文は『職業選択に際しての一青年の考察』。「人間の職業は自由に決められる物ではなく、境遇が人間の思想を作り、そこから職業が決まってくる」という記述があり、ここにすでに[[唯物論]]の影響が見られるという指摘もある<ref name="廣松(2008)29">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.29</ref>。「われわれが人類のために最もよく働きうるような生活上の地位を選んだ時には、重荷は我々を押しつぶすことはできない。何故なら、それは万人のための犠牲だからである」という箇所については、[[E.H.カー]]は「マルクスの信念の中のとは言えないが、少なくとも彼の性格の中の多くのものが、彼の育ったところの、規律、自己否定、および公共奉仕という厳しい伝統を反映している」としている<ref name="カー(1956)16-17">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.16-17</ref>。他方ヴィッテンバッハ校長は「思想の豊富さと材料の配置の巧みさは認めるが、作者(マルクス)はまた異常な隠喩的表現を誇張して無理に使用するという、いつもの誤りに陥っている。そのため、全体の作品は必要な明瞭さ、時として正確さに欠けている。これは個々の表現についても全体の構成についても言える」という評価を下し<ref name="シュワルツシルト(1950)18-19">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.18-19</ref>、マルクスの悪筆について「なんといやな文字だろう」と書いている<ref name="カー(1956)16">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.16</ref>{{#tag:ref|[[ヨーゼフ・シュンペーター]]はマルクスの著作の傾向を看破したものとしてこの評価に注目しており、「マルクスがこの種の文体を使った時は、いつも何らかの隠さなければならない弱点があると見てよい」と評している<ref name="シュワルツシルト(1950)18-19">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.18-19</ref>。|group=注釈}}。
 
 
{{-}}
 
=== ボン大学 ===
 
[[File:Marx1.jpg|180px|thumb|1836年ボン大学学生時代のマルクス]]
 
[[1835年]]10月に[[ボン大学]]に入学した<ref name="カー(1956)17">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.17</ref>。大学では法学を中心としつつ、詩や文学、歴史の講義もとった<ref name="城塚(1970)30">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.30</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.52-53</ref>。大学入学から三カ月にして文学同人誌へのデビューを計画したが、父ハインリヒが「お前が凡庸な詩人としてデビューすることは嘆かわしい」と説得して止めた<ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.64-65</ref>。実際、マルクスの作った詩はそれほど出来のいい物ではなかったという<ref name="城塚(1970)30">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.30</ref>。
 
 
また1835年に18歳になったマルクスは{{仮リンク|プロイセン陸軍|de|Preußische Armee}}に徴兵される予定だったが、「胸の疾患」で兵役不適格となった。マルクスの父はマルクスに書簡を出して、医師に証明書を書いて兵役を免除してもらうことは良心の痛むようなことではない、と諭している<ref name="ウィーン(2002)24">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.24</ref>。
 
 
当時の大学では平民の学生は出身地ごとに同郷会を作っていた(貴族の学生は独自に学生会を作る)。マルクスも30人ほどのトリーア出身者から成る同郷会に所属したが、マルクスが入学したころ、政府による大学監視の目は厳しく、学生団体も政治的な話は避けるのが一般的で[[決闘]]ぐらいしかすることはなかったという。マルクスも貴族の学生と一度決闘して左目の上に傷を受けたことがあるという<ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.65-66</ref>。しかも学生に一般的だった[[サーベル]]を使っての決闘ではなく、[[ピストル]]でもって決闘したようである<ref name="シュワルツシルト(1950)21">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.21</ref>。
 
 
全体的に素行不良な学生だったらしく、酔っぱらって狼藉を働いたとされて一日禁足処分を受けたり、上記の決闘の際にピストル不法所持で警察に一時勾留されたりもしている(警察からはピストルの出所について背後関係を調べられたが、特に政治的な背後関係はないとの調査結果が出ている)<ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.65-66</ref>。こうした生活で浪費も激しく、父ハインリヒは「まとまりも締めくくりもないカール流勘定」を嘆いたという<ref name="メーリング(1974,1)43">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.43</ref>。
 
 
[[1836年]]夏にトリーアに帰郷した際に[[イェニー・マルクス|イェニー・フォン・ヴェストファーレン]]と婚約した<ref name="ウィーン(2002)27">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.27</ref><ref name="廣松(2008)66">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.66</ref><ref name="城塚(1970)30">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.30</ref>。彼女の父{{仮リンク|ルートヴィヒ・フォン・ヴェストファーレン|de|Ludwig von Westphalen}}は貴族であり、参事官としてトリーアに居住していた<ref name="石浜(1931)56">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.56</ref><ref name="廣松(2008)156">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.156</ref>。イェニーはマルクスより4歳年上で姉ゾフィーの友人だったが<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.22-23</ref><ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.26/28</ref><ref name="メーリング(1974,1)43">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.43</ref>、マルクスとも幼馴染の関係にあたり、幼い頃から「ひどい暴君」(イェニー)だった彼に惹かれていたという<ref name="ウィーン(2002)28">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.28</ref>。
 
 
貴族の娘とユダヤ人弁護士の息子では身分違いであり、イェニーも家族から反対されることを心配してマルクスとの婚約を1年ほど隠していた。しかし彼女の父ルートヴィヒは自由主義的保守派の貴族であり(「カジノクラブ」にも加入していた)、貴族的偏見を持たない人だったため、婚約を許してくれた<ref name="ウィーン(2002)27">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.27</ref><ref name="カー(1956)23">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.23</ref><ref name="メーリング(1974,1)45">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.45</ref>。
 
{{-}}
 
 
=== ベルリン大学 ===
 
[[File:Berlin Universitaet um 1850.jpg|250px|thumb|マルクス在学中から10年後の1850年の[[ベルリン大学]]を描いた絵。]]
 
[[1836年]]10月に[[ベルリン大学]]に転校した<ref name="石浜(1931)57">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.57</ref><ref name="城塚(1970)31">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.31</ref><ref name="メーリング(1974,1)51">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.51</ref>。ベルリン大学は厳格をもって知られており、ボン大学で遊び歩くマルクスにもっとしっかり法学を勉強してほしいと願う父の希望での転校だった<ref name="城塚(1970)31">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.31</ref><ref name="石浜(1931)55">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.55</ref><ref name="メーリング(1974,1)50">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.50</ref>。しかし、マルクス自身は、イェニーと疎遠になると考えて、この転校に乗り気でなかったという<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.57-58</ref><ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.66-67</ref><ref name="メーリング(1974,1)50"/>。
 
 
同大学で受講した講義は、法学がほとんどで、詩に関する講義はとっていない<ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.67-68</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.62-64</ref>。だが、詩や美術史への関心は持ち続け、それに[[ローマ法]]への関心が加わって、[[哲学]]に最も強い関心を持つようになった<ref name="城塚(1970)31">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.31</ref>。[[1837年]]と[[1838年]]の冬に病気をしたが、その時に療養地[[シュトラロー]]で、[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]哲学{{#tag:ref|[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]は、当時プロイセンで最も高名な哲学者だった。ヘーゲルは、「この世の全てのものは矛盾をもっているので、不可避で否定を持つが、絶対的なもの(彼はこれを精神と見た)の意思に従って、否定から否定へとジグザグに動いて矛盾を解消して、より理性的な状態へと近づけていく運動である」と考えた。この概念で把握することを[[弁証法]]という<ref name="小牧(1966)72">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.72</ref><ref>[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.41-42</ref>。ヘーゲルのこの考えに従えば、理性的なものは必ず現実に現れてくるはずだし、現在の状態は、必ず理性的な部分があるということになる。ヘーゲルは「理性の最高段階は国家であり、あらゆる矛盾は国家によって解消される」と考えた。そして、プロイセン王国こそがそれを最も体現している国であるとした。プロイセン政府にとっては、フランス革命的な西欧自由主義への対抗として、都合のいい哲学であった。しかし、ヘーゲルは1831年に死去し、その思想の継承者たちは右派・中央派・左派に分裂した。自由主義・啓蒙主義思想から封建主義的なプロイセンの現状の批判する左派は、現実の中に理性を探すのではなく、理性によって現実を審査すべきとしてヘーゲル批判を行うようになった。若き日のマルクスも、このヘーゲル左派の立場に立った<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.74-76</ref>。|group=注釈}}の最初の影響を受けた<ref name="石浜(1931)66">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.66</ref><ref name="廣松(2008)80">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.80</ref>。
 
 
以降ヘーゲル中央派に分類されつつも[[ヘーゲル左派]]寄りの[[エドゥアルト・ガンス]]の授業を熱心に聴くようになった<ref name="廣松(2008)67">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.67</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)29">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.29</ref>。また、[[ブルーノ・バウアー]]や{{仮リンク|カール・フリードリヒ・ケッペン|de|Karl Friedrich Köppen}}、[[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ]]、[[アーノルド・ルーゲ|アーノルト・ルーゲ]]、{{仮リンク|アドルフ・フリードリヒ・ルーテンベルク|de|Adolf Friedrich Rutenberg}}らヘーゲル左派哲学者の酒場の集まり「[[ドクター|ドクトル]]・クラブ(Doktorclub)」に頻繁に参加するようになり、その影響で一層ヘーゲル左派の思想に近づいた<ref name="ウィーン(2002)39">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.39</ref><ref name="カー(1956)27">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.27</ref><ref name="城塚(1970)32">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.32</ref><ref name="メーリング(1974,1)54">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.54</ref>。とりわけバウアーとケッペンから強い影響を受けた<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.68-69</ref><ref name="メーリング(1974,1)64">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.64</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)37">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.37</ref>。ちょうどこの時期は「ドクトル・クラブ」が[[キリスト教]]批判・[[無神論]]に傾き始めた時期だったが、マルクスはその中でも最左翼であったらしい<ref name="廣松(2008)96">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.96</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)43">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.43</ref>。
 
 
ベルリン大学時代にも放埓な生活を送り、多額の借金を抱えることとなった。これについて、父ハインリヒは、手紙の中で「裕福な家庭の子弟でも年500[[ターレル]]以下でやっているというのに、我が息子殿ときたら700ターレルも使い、おまけに借金までつくりおって」と不満の小言を述べている<ref name="廣松(2008)68">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.68</ref><ref name="メーリング(1974,1)56">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.56</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)33">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.33</ref>。また、ハインリヒは、自分が病弱だったこともあり、息子には早く法学学位を取得して法律職で金を稼げるようになってほしかったのだが、哲学などという非実務的な分野にかぶれて法学を疎かにしていることが心配でならなかった<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.39-40</ref>。
 
 
[[1838年]][[5月10日]]に父ハインリヒが病死した。父の死によって、法学で身を立てる意思はますます薄くなり、大学に残って哲学研究に没頭したいという気持ちが強まった<ref name="ウィーン(2002)43">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.43</ref><ref name="廣松(2008)93-94">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.93-94</ref>。博士号を得て哲学者になることを望むようになり、[[古代ギリシャ]]の哲学者[[エピクロス]]と[[デモクリトス]]の論文の執筆を開始した<ref name="廣松(2008)96">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.96</ref><ref name="カー(1956)27">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.27</ref><ref name="城塚(1970)42">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.42</ref>。だが、母ヘンリエッテは、一人で7人の子供を養う身の上になってしまったため、長兄マルクスには早く卒業して働いてほしがっていた。しかし、マルクスは、新たな仕送りを要求するばかりだったので、母や姉ゾフィーと金銭をめぐって争うようになり、家族仲は険悪になっていった<ref name="廣松(2008)93-94"/>。
 
 
[[1840年]]に[[キリスト教]]と[[正統主義]]思想の強い影響を受ける[[ロマン主義]]者[[フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム4世]]がプロイセン王に即位し、保守的な{{仮リンク|ヨハン・アルブレヒト・フォン・アイヒホルン|de|Johann Albrecht Friedrich von Eichhorn}}が{{仮リンク|文部大臣 (プロイセン)|label=文部大臣|de|Preußisches Ministerium der geistlichen, Unterrichts- und Medizinalangelegenheiten}}に任命されたことで言論統制が強化された<ref name="ウィーン(2002)44">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.44</ref><ref name="カー(1956)27">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.27</ref><ref name="廣松(2008)123-125">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.123-125</ref>{{#tag:ref|前王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム3世]]は優柔不断な性格の王でヘーゲル派の{{仮リンク|カール・フォム・シュタイン・ツム・アルテンシュタイン|de|Karl vom Stein zum Altenstein}}を文部大臣にしていたため、これまでヘーゲル左派への弾圧も比較的緩やかであった<ref name="廣松(2008)123-125"/>。|group=注釈}}。ベルリン大学にも1841年に反ヘーゲル派の[[フリードリヒ・シェリング]]教授が「不健全な空気を一掃せよ」という国王直々の命を受けて赴任してきた<ref name="ウィーン(2002)44"/>。
 
ベルリン大学で[[学士号]]、[[修士号]]を取得後、[[博士号]]を取得するべく[[博士論文]]の執筆を始める。
 
 
そのようなこともあって、マルクスは、ベルリン大学に論文を提出することを避け、[[1841年]][[4月6日]]に審査が迅速で知られる[[イェーナ大学]]に『{{仮リンク|デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異|en|The Difference Between the Democritean and Epicurean Philosophy of Nature}}(Differenz der Demokritischen und Epikureischen Naturphilosophie)』と題した論文を提出し、9日後の[[4月15日]]に同大学から[[博士|哲学博士号]]を授与された<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.43/45-46</ref>。この論文は文体と構造においてヘーゲル哲学に大きく影響されている一方、エピクロスの「アトムの偏差」論に「自己意識」の立場を認めるヘーゲル左派の思想を踏襲している<ref name="石浜(1931)72">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.72</ref><ref>[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.59/61-62</ref><ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.105-106</ref>{{#tag:ref|[[デモクリトス]]と[[エピクロス]]はアトム(原子)を論じた古代ギリシャの哲学者。デモクリトスはあらゆるものはアトムが直線的に落下して反発しあう運動で構成されていると考えた初期唯物論者だった。これに対してエピクロスはデモクリトスのアトム論を継承しつつもアトムは自発的に直線からそれる運動(偏差)をすることがあると考えた<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.67-68</ref>。近代まで長らくエピクロスはデモクリトスに余計なものを付け加えた改悪者とされてきたが、自由主義の風潮が高まると哲学的観点から再評価が始まった。デモクリトスのアトム論では人間の行動や心までもアトムの運動による必然ということになってしまうのに対し、エピクロスは偏差の考えを付け加えることで自由を唯物論の中に取り込もうとしたのではないかと考えられるようになったからである。ヘーゲル左派もエピクロスを[[ストア派]]や[[懐疑主義]]とともに自分たちの「自己意識」の立場の原型と看做した。マルクスもそうした立場を踏襲してエピクロスとデモクリトスを比較する論文を書いたのだった<ref>[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.54-59</ref>。|group=注釈}}。
 
 
=== 大学教授への道が閉ざされる ===
 
[[File:Bruno Bauer.jpg|180px|thumb|[[ブルーノ・バウアー]]。<br/><small>若い頃のマルクスのヘーゲル左派・無神論仲間だったが、後にマルクスによって批判される。晩年は無神論や共産主義から離れた。</small>]]
 
1841年4月に学位を取得した後、トリーアへ帰郷した<ref name="カー(1956)28">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.28</ref><ref name="廣松(2008)126">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.126</ref>。大学教授になる夢を実現すべく、同年7月に[[ボン]]へ移り、ボン大学で教授をしていたバウアーのもとを訪れる。バウアーの紹介で知り合ったボン大学教授連と煩わしがりながらも付き合うようになった<ref name="廣松(2008)126">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.126</ref>。しかしプロイセン政府による言論統制は強まっており、バウアーはすでに解任寸前の首の皮一枚だったため、マルクスとしてはバウアーの伝手は大して期待しておらず、いざという時には[[岳父]]ヴェスファーレンの伝手で大学教授になろうと思っていたようである(マルクスの学位論文の印刷用原稿にヴェストファーレンへの献辞がある)<ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.125-126</ref>。
 
 
ボンでのマルクスとバウアーは『無神論文庫』という雑誌の発行を計画したが、この計画はうまくいかなかった<ref name="カー(1956)31">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.31</ref><ref name="廣松(2008)126">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.126</ref>。二人は夏の間、ボンで無頼漢のような生活を送った。飲んだくれ、教会で大声をだして笑い、[[ロバ]]でボンの街中を走りまわった。そうした無頼漢生活の極めつけが匿名のパロディー本『ヘーゲル この無神論者にして反キリスト者に対する最後の審判のラッパ(Die Posaune des jüngsten Gerichts über Hegel, den Atheisten und Antichristen)』を[[ザクセン王国]][[ライプツィヒ]]で出版したことだった<ref name="ウィーン(2002)46">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.46</ref><ref name="カー(1956)31">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.31</ref>。その内容は、敬虔なキリスト教徒が批判するというかたちでヘーゲルの無神論と革命性を明らかにするというもので、これは基本的にバウアーが書いた物であるが、マルクスも関係しているといわれる<ref name="廣松(2008)126">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.126</ref><ref name="カー(1956)31"/>。
 
 
やがてこの本を書いたのは敬虔なキリスト教信徒ではなく無神論者バウアーと判明し、したがってその意図も明らかとなった<ref name="ウィーン(2002)46"/>。バウアーはすでに『共観福音書の歴史的批判』という反キリスト教著作のためにプロイセン政府からマークされていたが、そこへこのようなパロディー本を出版したことでいよいよ政府から危険視されるようになった。[[1842年]]3月にバウアーが大学で講義することは禁止された。これによってマルクスも厳しい立場に追い込まれた<ref name="カー(1956)31"/><ref name="ウィーン(2002)46">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.46</ref><ref name="城塚(1970)67">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.67</ref><ref name="廣松(2008)128">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.128</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)48">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.48</ref>。
 
 
マルクスのもう一つの伝手であった岳父ヴェストファーレンも同じころに死去し、マルクスの進路は大学も官職も絶望的となった<ref name="廣松(2008)128">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.128</ref>。
 
{{-}}
 
 
=== 『ライン新聞』のジャーナリストとして ===
 
[[File:Rheinische-zeitung.gif|180px|thumb|マルクスが編集長を務めていた『{{仮リンク|ライン新聞|de|Rheinische Zeitung}}』]]
 
1841年夏に[[アーノルド・ルーゲ|アーノルト・ルーゲ]]は検閲が比較的緩やかな[[ザクセン王国]]の王都[[ドレスデン]]へ移住し、そこで『ドイツ年誌(Deutsch Jahrbücher)』を出版した。マルクスはケッペンを通じてルーゲに接近し、この雑誌にプロイセンの検閲制度を批判する論文を寄稿したが、ザクセン政府の検閲で掲載されなかった<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.76-77</ref><ref name="城塚(1970)68">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.68</ref><ref name="廣松(2008)126">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.126</ref><ref name="ウィーン(2002)49">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.49</ref>{{#tag:ref|ルーゲはマルクスの論文を含む掲載を認められなかった論文を1843年にスイスで『アネクドータ(Anekdote)』という雑誌にして出版している<ref name="石浜(1931)77">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.77</ref>。|group=注釈}}。
 
 
ザクセンでも検閲が強化されはじめたことに絶望したマルクスは、『ドイツ年誌』への寄稿を断念し、彼の友人が何人か参加していたライン地方の『{{仮リンク|ライン新聞|de|Rheinische Zeitung}}』に目を転じた<ref name="ウィーン(2002)49">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.49</ref>。この新聞は1841年12月にフリードリヒ・ヴィルヘルム4世が新検閲令を発し、検閲を多少緩めたのを好機として[[1842年]]1月に{{仮リンク|ダーゴベルト・オッペンハイム|de|Dagobert Oppenheim}}や{{仮リンク|ルドルフ・カンプハウゼン|de|Ludolf Camphausen}}らライン地方の急進派ブルジョワジーとバウアーやケッペンやルーテンベルクらヘーゲル左派が協力して創刊した新聞だった<ref name="石浜(1931)79">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.79</ref><ref name="廣松(2008)130">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.130</ref><ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.32-33</ref><ref name="太田(1930)7">[[#太田(1930)|太田(1930)]] p.7</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)50">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.50</ref>{{#tag:ref|この新聞は自由主義的だが、ライン地方がプロイセン領であること自体は受け入れており、親仏的・反プロイセン的カトリック新聞『ケルン新聞』への対抗としてプロテスタントのプロイセン政府としても必ずしも邪魔な存在ではなく、その発刊に際しては好意的でさえあったという<ref name="廣松(2008)130">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.130</ref><ref>[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.49-50</ref>。|group=注釈}}。
 
 
同紙を実質的に運営していたのは社会主義者の[[モーゼス・ヘス]]だったが、彼はヘーゲル左派の新人マルクスに注目していた。当時のマルクスは社会主義者ではなかったから「私は社会主義哲学には何の関心もなく、あなたの著作も読んではいません」とヘスに伝えていたものの、それでもヘスはマルクスを高く評価し、「マルクス博士は、まだ24歳なのに最も深い哲学の知恵を刺すような機知で包んでいる。[[ジャン=ジャック・ルソー|ルソー]]とヴォルテールと[[ポール=アンリ・ティリ・ドルバック|ホルバッハ]]と[[ゴットホルト・エフライム・レッシング|レッシング]]とハイネとヘーゲルを溶かし合わせたような人材である」と絶賛していた<ref>[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.53-54</ref>。
 
 
マルクスは1842年5月にも[[ボン]](後に[[ケルン]])へ移住し、ヘスやバウアーの推薦で『ライン新聞』に参加し、論文を寄稿するようになった<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.80-81</ref><ref name="カー(1956)33">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.33</ref>。6月にプロイセン王を支持する形式をとって無神論の記事を書いたが、検閲官の目は誤魔化せず、この記事は検閲で却下された。また8月にも結婚の教会儀式に反対する記事を書いたのが検閲官に却下された。当時の新聞記事は無署名であるからマルクスが直接目を付けられる事はなかったものの、新聞に対する目は厳しくなった。最初の1年は試用期間だったが、それも終わりに近づいてきた10月に当局は『ライン新聞』に対して反政府・無神論的傾向を大幅に減少させなければ翌年以降の認可は出せない旨を通達した。またルーテンベルクを編集長から解任することも併せて求めてきた。マルクスは新聞を守るために当局の命令に従うべきと主張し、その意見に賛同した出資者たちからルーテンベルクに代わる新しい編集長に任じられた<ref name="シュワルツシルト(1950)61">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.61</ref>。
 
 
このような経緯であったから新編集長マルクスとしては新聞を存続させるために穏健路線をとるしかなかった。まず検閲当局に対して「これまでの我々の言葉は、全て[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ大王]]の御言葉を引用することで正当化できるものですが、今後は必要に迫られた場合以外は宗教問題を取り扱わないとお約束いたします」という誓約書を提出した<ref name="シュワルツシルト(1950)62">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.62</ref>。実際にマルクスはその誓約を守り、バウアー派の急進的・無神論的な主張を抑え続けた(これによりバウアー派との関係が悪くなった)<ref name="廣松(2008)147">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.147</ref><ref name="城塚(1970)85">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.85</ref>。プロイセン検閲当局も「マルクスが編集長になったことで『ライン新聞』は著しく穏健化した」と満足の意を示している<ref name="廣松(2008)152">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.152</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)66">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.66</ref>。
 
 
また7月革命後の[[1830年代]]のフランスで台頭した社会主義・共産主義思想が[[1840年代]]以降にドイツに輸出されてきていたが、当時のマルクスは共産主義者ではなく、あくまで自由主義者・民主主義者だったため、編集長就任の際に書いた論説の中で「『ライン新聞』は既存の共産主義には実現性を認めず、批判を加えていく」という方針を示した<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.82-83</ref><ref name="ウィーン(2002)58">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.58</ref><ref name="城塚(1970)80">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.80</ref><ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.142-143</ref>{{#tag:ref|ただしこの論説のなかでマルクスは「[[ピエール・ジョゼフ・プルードン|プルードン]]の洞察力ある著作については研究の必要がある」ともしている<ref name="石浜(1931)82">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.82</ref><ref name="ウィーン(2002)58">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.58</ref><ref name="廣松(2008)143">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.143</ref>。|group=注釈}}。また「持たざる者と中産階級の衝突は平和的に解決し得ることを確信している」とも表明した<ref name="シュワルツシルト(1950)62">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.62</ref>。
 
 
一方で法律や節度の範囲内での反封建主義闘争は止めなかった。ライン県議会で制定された木材窃盗取締法を批判したり{{#tag:ref|農民が森林所有者の許可なく木材を採取することを盗伐として取り締まる法案。マルクスはこの法案を貧民の[[入会権|慣習上の権利]]を侵すものとして反対した。ただしこの法案は森林所有者の財産権保護だけを目的とする物ではなく、当時凄まじい勢いで進んでいた森林伐採を抑えようという自然環境保護の目的もあった。そちらの観点についてはマルクスは何も語っていない<ref name="廣松(2008)140">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.140</ref>。|group=注釈}}、{{仮リンク|ライン県|de|Rheinprovinz}}知事{{仮リンク|エドゥアルト・フォン・シャーパー|de|Eduard von Schaper}}の方針に公然と反対するなどした<ref name="廣松(2008)152">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.152</ref>。
 
 
だがこの態度が災いとなった。検閲を緩めたばかりに自由主義新聞が増えすぎたと後悔していたプロイセン政府は、1842年末から検閲を再強化したのである。これによりプロイセン国内の自由主義新聞はほとんどが取り潰しにあった。国内のみならず隣国のザクセン王国にも圧力をかけてルーゲの『ドイツ年誌』も廃刊させる徹底ぶりだった<ref name="廣松(2008)152">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.152</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)72">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.72</ref>。マルクスの『ライン新聞』もプロイセンと[[神聖同盟]]を結ぶ[[ロシア帝国]]を「反動の支柱」と批判する記事を掲載したことでロシア政府から圧力がかかり、[[1843年]]3月をもって廃刊させられることなった<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.62-63</ref><ref name="石浜(1931)85">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.85</ref><ref name="カー(1956)35">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.35</ref><ref name="太田(1930)9">[[#太田(1930)|太田(1930)]] p.9</ref>。
 
 
マルクス当人は政府におもねって筆を抑えることに辟易していたので、潰されてむしろすっきりしたようである。ルーゲへの手紙の中で「結局のところ政府が私に自由を返してくれたのだ」と政府に感謝さえしている<ref name="ウィーン(2002)64">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.64</ref>。また『ライン新聞』編集長として様々な時事問題に携わったことで自分の知識(特に経済)の欠如を痛感し、再勉強に集中する必要性を感じていた<ref name="石浜(1931)87">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.87</ref>。
 
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=== 結婚 ===
 
年俸600ターレルの『ライン新聞』編集長職を失ったマルクスだったが、この後ルーゲから『[[独仏年誌]]』をフランスかベルギーで創刊する計画を打ち明けられ、年俸850ターレルでその共同編集長にならないかという誘いを受けた。次の職を探さねばならなかったマルクスはこれを承諾した<ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.152-153</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.89-90</ref>。
 
 
ルーゲ達が『独仏年誌』創刊の準備をしている間の1843年6月12日、[[バート・クロイツナハ|クロイツナハ]]において25歳のマルクスは29歳の婚約者イェニーと結婚した<ref name="カー(1956)37">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.37</ref><ref name="石浜(1931)90">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.90</ref><ref name="廣松(2008)155">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.155</ref><ref name="ウィーン(2002)69">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.69</ref>。
 
 
前ヴェストファーレン家当主ルートヴィヒは自由主義的な人物で二人の婚約に反対しなかったが、今の当主{{仮リンク|フェルディナント・フォン・ヴェストファーレン|label=フェルディナント|de|Ferdinand von Westphalen}}(イェニーの兄)は保守的な貴族主義者だったのでマルクスのことを「ユダヤのヘボ文士」「過激派の無神論者」と疎み、「そんなロクデナシと結婚して家名を汚すな」と結婚に反対した。他の親族も反対する者が多かった。だがイェニーの意思は変わらなかった<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.68-69</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)78">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.78</ref>。
 
 
これについてマルクスは「私の婚約者は、私のために最も苦しい闘い ―[[神|天上の主]]と[[プロイセン国王|ベルリンの主]]を崇拝する信心深い貴族的な親類どもに対する闘い― を戦ってくれた。そのためにほとんど健康も害したほどである」と述べている<ref name="シュワルツシルト(1950)78"/>。
 
 
=== フォイエルバッハの人間主義へ ===
 
[[File:Ludwig feuerbach.jpg|180px|thumb|[[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ|ルートヴィヒ・フォイエルバッハ]]<br/><small>マルクスは彼から人間主義的唯物論の影響を受けつつ、その人間観が経済的基礎に裏付けられていないと批判した。</small>]]
 
マルクスの再勉強はヘーゲル批判から始まった<ref name="城塚(1970)87">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.87</ref>。その勉強の中で『{{仮リンク|キリスト教の本質|de|Das Wesen des Christentums (Feuerbach)}}』(1841年)を著した[[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ|フォイエルバッハ]]の[[人間主義]]的唯物論から強い影響を受けるようになった。フォイエルバッハ以前の無神論者たちはまだ聖書解釈学の範疇から出ていなかったが、フォイエルバッハはそれを更に進めて神学を人間学にしようとした<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.81-82</ref><ref name="城塚(1970)88">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.88</ref>。彼は「人間は個人としては有限で無力だが、類(彼は共同性を類的本質と考えていた<ref name="廣松(2008)190">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.190</ref>)としては無限で万能である。神という概念は類としての人間を人間自らが人間の外へ置いた物に過ぎない」「つまり神とは人間である」「ヘーゲル哲学の言う精神あるいは絶対的な物という概念もキリスト教の言うところの神を難しく言い換えたに過ぎない」といった主張を行うことによって「絶対者」を「人間」に置き換えようとし、さらに「歴史の推進力は精神的なものではなく、物質的条件の総和であり、これがその中で生きている人間に思考し行動させる」として「人間」を「物質」と解釈した<ref name="カー(1956)100">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.100</ref><ref name="バーリン(1974)84">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.84</ref><ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.104-107</ref><ref name="城塚(1970)90">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.90</ref>。
 
 
マルクスはこの人間主義的唯物論に深く共鳴し、後に『[[聖家族 (政治思想書)|聖家族]]』の中で「フォイエルバッハは、ヘーゲル哲学の秘密を暴露し、精神の弁証法を絶滅させた。つまらん『無限の自己意識』に代わり、『人間』を据え置いたのだ」と評価した<ref name="小牧(1966)107">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.107</ref>。マルクスはこの1843年に弁証法と市民社会階級の対立などの社会科学的概念のみ引き継いでヘーゲル哲学の観念的立場から離れ、フォイエルバッハの人間主義の立場に立つようになったといえる<ref name="石浜(1931)89">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.89</ref><ref>[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.91-92</ref>。
 
 
マルクスは1843年3月から8月にかけて書斎に引きこもって『ヘーゲル国法論批判(Kritik des Hegelschen Staatsrechts)』の執筆にあたった<ref name="石浜(1931)89">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.89</ref><ref name="廣松(2008)163">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.163</ref>。これはフォイエルバッハの人間主義の立場からヘーゲルの国家観を批判したものである。ヘーゲルは「近代においては政治的国家と市民社会が分離しているが、市民社会は自分のみの欲求を満たそうとする欲望の体系であるため、そのままでは様々な矛盾が生じる。これを調整するのが国家であり、それを支えるのが優れた国家意識をもつ中間身分の官僚制度である。また市民社会は身分(シュタント)という特殊体系をもっており、これにより利己的な個人は他人と結び付き、国会(シュテンデ)を通じて国家の普遍的意志と結合する」と説くが<ref>[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.94-96</ref>、これに対してマルクスは国家と市民社会が分離しているという議論には賛同しつつ<ref name="廣松(2008)171">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.171</ref>、官僚政治や身分や国会が両者の媒介役を務めるという説には反対した<ref name="城塚(1970)97">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.97</ref>。国家を主体化するヘーゲルに反対し、人間こそが具体物であり、国は抽象物に過ぎないとして「人間を体制の原理」とする「民主制」が帰結と論じ、「民主制のもとでは類(共同性)が実在としてあらわれる」と主張する。この段階では「民主制」という概念で語ったが、後にマルクスはこれを共産主義に置き換えて理解していくことになる<ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.167-170</ref>。
 
{{-}}
 
 
=== パリ在住時代 ===
 
『独仏年誌』の発刊場所についてマルクスは[[7月王政|フランス王国]]領[[ストラスブール]]を希望していたが、ルーゲやヘスたちは検閲がフランスよりも緩めな[[ベルギー王国]]王都[[ブリュッセル]]を希望した。しかし最終的には印刷環境がよく、かつドイツ人亡命者が多いフランス王都[[パリ]]に定められた<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.90-92</ref><ref name="カー(1956)38">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.38</ref><ref name="廣松(2008)195">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.195</ref>。
 
 
こうしてマルクスは1843年10月から新妻とともにパリへ移住し、ルーゲが用意した{{仮リンク|フォーブール・サンジェルマン|fr|Faubourg Saint-Germain}}の共同住宅でルーゲとともに暮らすようになった<ref name="石浜(1931)92">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.92</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)79">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.79</ref>。
 
==== 「人間解放」 ====
 
[[File:Deutsch Franz Jahrbücher (Ruge Marx) 071.jpg|180px|thumb|『[[独仏年誌]]』に掲載された『{{仮リンク|ヘーゲル法哲学批判序説|de|Zur Kritik der Hegelschen Rechtsphilosophie}}』<br/><small>この著作からマルクスは「非人間」の[[プロレタリアート]]階級を中心にした「人間解放」を訴えるようになった。</small>]]
 
[[1844年]]2月に『独仏年誌』1号2号の合併号が出版された。マルクスとルーゲのほか、ヘスや[[ハインリヒ・ハイネ|ハイネ]]、[[フリードリヒ・エンゲルス|エンゲルス]]が寄稿した<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.94-95</ref><ref name="小牧(1966)111">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.111</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)80">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.80</ref>。このうち著名人といえる者はハイネのみだった。ハイネはパリ在住時代にマルクスが親しく付き合っていたユダヤ人の亡命詩人であり、その縁で一篇の詩を寄せてもらったのだった<ref name="小牧(1966)111"/><ref name="シュワルツシルト(1950)80">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.80</ref>{{#tag:ref|仮借ない批判で知られるマルクスだが、不思議なことにハイネだけは最後まで批判しなかった。マルクスとハイネの意見が相違しなかったからではない。ハイネはプロレタリアートが勝利した世界に芸術や美術の居場所はないと感じ取り、共産主義を好んでいなかった。また1856年に死去した際には神に許しを請う遺言書を書いている。このような「反共」や「信仰への墜落」にも関わらず、マルクスはハイネに対して何らの非難も発しなかったのである。マルクスの娘のエレナによれば「父はあの詩人をその作品と同じぐらい愛していました。だから彼の政治的弱さはどこまでも大目に見ていたのです。それを父はこう説明していました。『詩人というのは妙な人種で彼らには好きな道を歩ませてやらねばならない。彼らを常人の尺度で、いや常人ではない尺度でも図ってはならないのだ』」<ref name="ウィーン(2002)84">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.84</ref>。|group=注釈}}。エンゲルスは父が共同所有するイギリスの会社で働いていたブルジョワの息子だった。マルクスが『ライン新聞』編集長をしていた1842年11月に二人は初めて知り合い、以降エンゲルスはイギリスの社会状況についての論文を『ライン新聞』に寄稿するようになっていた<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.55-56</ref><ref>[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.127-128</ref>。エンゲルスは当時全くの無名の人物だったが、誌面を埋めるために論文を寄せてもらった<ref name="シュワルツシルト(1950)80"/>。マルクスは尊敬するフォイエルバッハにも執筆を依頼していたが、断られている<ref name="石浜(1931)95">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.95</ref>。
 
 
マルクス自身はこの創刊号にルーゲへの手紙3通と『[[ユダヤ人問題によせて]]』と『{{仮リンク|ヘーゲル法哲学批判序説|de|Zur Kritik der Hegelschen Rechtsphilosophie}}』という2つの論文を載せている<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.111-112</ref><ref name="石浜(1931)95">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.95</ref><ref name="太田(1930)9">[[#太田(1930)|太田(1930)]] p.9</ref>。この中でマルクスは「ユダヤ人はもはや宗教的人種的存在ではなく、隣人から被った扱いによって貸金業その他職業を余儀なくされている純然たる経済的階級である。だから彼らは他の階級が解放されて初めて解放される。大事なことは政治的解放(国家が政治的権利や自由を与える)ではなく、市民社会からの人間的解放だ。」<ref>[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.106-107</ref><ref name="小牧(1966)113">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.113</ref>、「哲学が批判すべきは宗教ではなく、人々が宗教という[[阿片]]に頼らざるを得ない人間疎外の状況を作っている国家、市民社会、そしてそれを是認するヘーゲル哲学である」<ref name="小牧(1966)115">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.115</ref>、「今や先進国では近代(市民社会)からの人間解放が問題となっているが、ドイツはいまだ前近代の封建主義である。ドイツを近代の水準に引き上げたうえ、人間解放を行うためにはどうすればいいのか。それは市民社会の階級でありながら市民から疎外されている[[プロレタリアート]]階級が鍵となる。この階級は市民社会の他の階級から自己を解放し、さらに他の階級も解放しなければ人間解放されることがないという徹底的な非人間状態に置かれているからだ。この階級はドイツでも出現し始めている。この階級を心臓とした人間解放を行え」といった趣旨のことを訴えた<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.116-117</ref><ref>[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.114-116</ref><ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.219-221</ref><ref name="石浜(1931)96">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.96</ref>。こうしていよいよプロレタリアートに注目するようになったマルクスだが、一方で既存の共産主義にはいまだ否定的な見解を示しており、この段階では人間解放を共産革命と想定していたわけではないようである。もっとも[[ローレンツ・フォン・シュタイン]]が紹介した共産主義者の特徴「プロレタリアートを担い手とする社会革命」と今やほとんど類似していた<ref name="廣松(2008)222">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.222</ref>。
 
 
しかし結局『独仏年誌』はハイネの詩が載っているということ以外、人々の関心をひかなかった<ref name="ウィーン(2002)85-86">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.85-86</ref>。当時パリには10万人のドイツ人がいたが、そのうち隅から隅まで読んでくれたのは一人だけだった。まずいことにそれは駐フランス・プロイセン大使だった。大使は直ちにこの危険分子たちのことをベルリン本国に報告した<ref name="シュワルツシルト(1950)87">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.87</ref>。この報告を受けてプロイセン政府は国境で待ち伏せて、プロイセンに送られてきた『独仏年誌』を全て没収した(したがってこれらの分は丸赤字)。さらに「マルクス、ルーゲ、ハイネの三名はプロイセンに入国次第、逮捕する」という声明まで出された<ref name="ウィーン(2002)85">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.85</ref><ref name="石浜(1931)105">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.105</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)88">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.88</ref>。
 
 
スイスにあった出版社は赤字で倒産し、『独仏年誌』は創刊号だけで廃刊せざるをえなくなった<ref name="廣松(2008)206">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.206</ref><ref name="小牧(1966)121">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.121</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.104-105</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)88">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.88</ref>。マルクスはルーゲが金の出し惜しみをしたせいで廃刊になったと考え、ルーゲを批判した<ref name="シュワルツシルト(1950)89">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.89</ref>。そのため二人の関係は急速に悪化し、ルーゲはマルクスを「恥知らずのユダヤ人」、マルクスはルーゲを「山師」と侮辱しあうようになった。二人はこれをもって絶縁した。後にマルクスもルーゲもロンドンで30年暮らすことになるが、その間も完全に没交渉だった<ref name="カー(1956)47">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.47</ref>。
 
 
<!--これは必要な記述ですか? それに初めて無心したと書いていますが、父にも無心してますし、寄生生活という言葉は穏当な表現ではないですね。/ 『独仏年誌』の仕事を失って収入を無くしたマルクスは『ライン新聞』以来の彼の崇拝者であるゲオルク・ユング(Georg Jung)、岳母ヴェストファーレン未亡人、母の甥にあたるミーンヘール・フィリップスなどから金の無心をして生計を立てるようになった。これがマルクスの金の無心の最初であり、以降こうした寄生生活が常態化していくことになる<ref name="シュワルツシルト(1950)90">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.90</ref>。-->
 
{{-}}
 
 
==== そして共産主義へ ====
 
[[File:Friedrich Engels-1840-cropped.jpg|180px|thumb|[[フリードリヒ・エンゲルス]](1840年頃)。<br/><small>1844年に『[[聖家族 (政治思想書)|聖家族]]』を共著してから親しくなり、以降生涯を通じて最も近しいパートナーとなった。</small>]]
 
マルクスは『独仏年誌』に寄稿された論文のうち、エンゲルスの『国民経済学批判大綱(Umrisse zu einer Kritik der Nationalökonomie)』に強い感銘を受けた<ref name="小牧(1966)122">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.122</ref><ref>[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.127-129</ref>。エンゲルスはこの中でイギリス産業に触れた経験から私有財産制やそれを正当化する[[アダム・スミス]]、[[デヴィッド・リカード|リカード]]、[[ジャン=バティスト・セイ|セイ]]などの国民経済学([[古典派経済学]])を批判した<ref name="城塚(1970)128">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.128</ref>。
 
 
これに感化されたマルクスは経済学や社会主義、フランス革命についての研究を本格的に行うようになった。アダム・スミス、リカード、セイ、[[ジェームズ・ミル]]等の国民経済学者の本、また[[アンリ・ド・サン=シモン|サン=シモン]]、[[シャルル・フーリエ|フーリエ]]、[[ピエール・ジョゼフ・プルードン|プルードン]]等の社会主義者の本を読み漁った<ref name="小牧(1966)122">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.122</ref>。この時の勉強のノートや草稿の一部を[[ソビエト連邦|ソ連]]のマルクス・エンゲルス・レーニン研究所が1932年に編纂して出版したのが『{{仮リンク|経済学・哲学草稿|de|Ökonomisch-philosophische Manuskripte aus dem Jahre 1844}}』である<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.123-124</ref><ref>[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.129-130</ref>。その中でマルクスは「国民経済学者は私有財産制の運動法則を説明するのに労働を生産の中枢と捉えても、労働者を人間としては認めず、労働する機能としか見ていない」点を指摘する<ref name="城塚(1970)131">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.131</ref>。またこれまでマルクスは「類としての人間」の本質をフォイエルバッハの用法そのままに「共同性・普遍性」という意味で使ってきたが、経済学的見地から「労働する人間」と明確に規定するようになった<ref>[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.136-138</ref><ref name="小牧(1966)124">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.124</ref>。「生産的労働を行って、人間の類的本質<!--括弧内はマルクスの言葉ですか?/(社会的共存)-->を達成することが人間の本来的あり方<!--(自己実現)-->」「しかし市民社会では生産物は労働者の物にはならず、労働をしない資本家によって私有・独占されるため、労働者は自己実現できず、疎外されている」と述べている<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.124-125</ref><ref name="城塚(1970)139">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.139</ref>。またこの中でマルクスはいよいよ自分の立場を'''[[共産主義]]'''と定義するようになった<ref name="城塚(1970)144">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.144</ref>。
 
 
1844年8月から9月にかけての10日間エンゲルスがマルクス宅に滞在し、2人で最初の共著『[[聖家族 (政治思想書)|聖家族]]』を執筆を約束する。これ以降2人は親しい関係となった<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.122-123</ref><ref name="石浜(1931)117">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.117</ref>。この著作はバウアー派を批判したもので<!--関係が悪くなっていたから批判したのではなく、マルクスとエンゲルスが経済学的見地で社会をとらえる見方で合意したから批判したんですよね。-->、「完全なる非人間のプロレタリアートにこそ人間解放という世界史的使命が与えられている」「しかしバウアー派はプロレタリアートを侮蔑して自分たちの哲学的批判だけが進歩の道だと思っている。まことにおめでたい聖家族どもである」「ヘーゲルの弁証法は素晴らしいが、一切の本質を人間ではなく精神に持ってきたのは誤りである。神と人間が逆さまになっていたように精神と人間が逆さまになっている。だからこれをひっくり返した[[唯物弁証法|新しい弁証法]]を確立せねばならない」と訴えた<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.129-132</ref>。
 
 
また1844年7月にルーゲが『{{仮リンク|フォールヴェルツ|de|Vorwärts (Wochenblatt)}}』誌にシュレージエンで発生した織り工の一揆について「政治意識が欠如している」と批判する匿名論文を掲載したが、これに憤慨したマルクスはただちに同誌に反論文を送り、「革命の肥やしは政治意識ではなく階級意識」としてルーゲを批判し、シュレージエンの一揆を支持した<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.106-108</ref><ref name="ウィーン(2002)87">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.87</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)106">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.106</ref>。マルクスはこれ以外にも23もの論文を同誌に寄稿した<ref name="カー(1956)58-59">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.58-59</ref>。
 
 
しかしこの『フォールヴェルツ』誌は常日頃プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世を批判していたため、プロイセン政府から目を付けられていた。プロイセン政府はフランス政府に対して同誌を取り締まるよう何度も圧力をかけており、ついに1845年1月、[[外務大臣 (フランス)|フランス外務大臣]][[フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー|フランソワ・ギゾー]]は、[[内務省 (フランス)|内務省]]を通じてマルクスはじめ『フォールヴェルツ』に寄稿している外国人を国外追放処分とした<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.108-109</ref><ref name="ウィーン(2002)112">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.112</ref><ref name="カー(1956)58-59"/><ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.121-122/135</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)118">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.118</ref>。
 
 
こうしてマルクスはパリを去らねばならなくなった。パリ滞在は14か月程度であったが、マルクスにとってこの時期は共産主義思想を確立する重大な変化の時期となった<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.93/109</ref>。
 
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=== ブリュッセル在住時代 ===
 
マルクス一家は[[1845年]]2月にパリを離れ、ベルギー王都[[ブリュッセル]]に移住した<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.135-136</ref><ref name="石浜(1931)109">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.109</ref>。ベルギー王[[レオポルド1世 (ベルギー王)|レオポルド1世]]は政治的亡命者に割と寛大だったが、それでもプロイセン政府に目を付けられているマルクスがやって来ることには警戒した。マルクスはベルギー警察の求めに応じて「ベルギーに在住する許可を得るため、私は現代の政治に関するいかなる著作もベルギーにおいては出版しないことを誓います。」という念書を提出した<ref name="ウィーン(2002)112">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.112</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)120">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.120</ref>。しかし、マルクスはこの確約は政治に参加しないことを意味するものではないと解釈し、以後も政治的な活動を続けた<ref name="ウィーン(2007)">[[#ウィーン(2007)|ウィーン(2007)]]</ref>。またプロイセン政府はベルギー政府にも強い圧力をかけてきたため、マルクスは「北アメリカ移住のため」という名目でプロイセン国籍を正式に離脱した。以降マルクスは死ぬまで[[無国籍]]者であった<ref name="石浜(1931)124">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.124</ref>。
 
 
ブリュッセルにはマルクス以外にもドイツからの亡命社会主義者が多く滞在しており、ヘス、詩人[[フェルディナント・フライリヒラート]]、元プロイセン軍将校のジャーナリストである{{仮リンク|ヨーゼフ・ヴァイデマイヤー|de|Joseph Weydemeyer}}、学校教師の{{仮リンク|ヴィルヘルム・ヴォルフ|de|Wilhelm Wolff (Publizist)}}、マルクスの義弟{{仮リンク|エドガー・フォン・ヴェストファーレン|de|Edgar von Westphalen}}などがブリュッセルを往来した<ref name="石浜(1931)130">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.130</ref>。1845年4月にはエンゲルスもブリュッセルへ移住してきた<ref name="小牧(1966)136">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.136</ref>。この頃からエンゲルスに金銭援助してもらうようになる<ref name="石浜(1931)122-123">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.122-123</ref>。
 
 
==== 唯物史観と剰余価値理論の確立 ====
 
1845年夏からエンゲルスとともに『[[ドイツ・イデオロギー]]』を共著したが、出版社を見つけられず、この作品は二人の存命中には出版されることはなかった<ref name="小牧(1966)137">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.137</ref><ref name="ウィーン(2002)115-116">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.115-116</ref><ref name="石浜(1931)125">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.125</ref>。この著作の中でマルクスとエンゲルスは「西欧の革新的な哲学も封建主義的なドイツに入ると頭の中だけの哲学的空論になってしまう。大事なのは実践であり革命」と訴え、バウアーやフォイエルバッハらヘーゲル後の哲学者、またヘスや[[カール・グリューン]]ら「真正社会主義者」{{#tag:ref|ブリュッセル時代にも[[モーゼス・ヘス]]とマルクス・エンゲルスはしばしば共同で研究をしていたが、ヘスは哲学的観点が抜けきれず、階級闘争など過激な路線を嫌い、階級間を和合させようとしたため、マルクスたちから「真正社会主義者」という批判を受けた<ref name="石浜(1931)137">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.137</ref>。|group=注釈}}に批判を加えている<ref name="石浜(1931)129-130">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.129-130</ref><ref name="小牧(1966)138">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.138</ref>。マルクスは同じころに書いたメモ『[[フォイエルバッハに関するテーゼ]]』の中でもフォイエルバッハ批判を行っており、その中で「生産と関連する人間関係が歴史の基礎であり、宗教も哲学も道徳も全てその基礎から生まれた」と主張し、マルクスの最大の特徴ともいうべき[[唯物史観]]を萌芽させた<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.138-139</ref>。
 
 
さらに1847年には『[[哲学の貧困]]』を著した。これはプルードンの著作『貧困の哲学([[フランス語|仏]]:Système des contradictions économiques ou Philosophie de la misère)』を階級闘争の革命を目指さず、[[漸進主義]]ですませようとしている物として批判したものである<ref name="石浜(1931)144">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.144</ref>。この中でマルクスは「プルードンは労働者の賃金とその賃金による労働で生産された生産物の価値が同じだと思っているようだが、実際には賃金の方が価値が低い。低いから労働者は生産物と同じ価値の物を手に入れられない。したがって労働者は働いて賃金を得れば得るほど貧乏になっていく。つまり賃金こそが労働者を奴隷にしている」と主張し、[[剰余価値]]理論を萌芽させた<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.141-142</ref>。また「生産力が増大すると人間の生産様式は変わる。生産様式が変わると社会生活の様式も変わる。思想や社会関係もそれに合わせて変化していく。古い経済学はブルジョワ市民社会のために生まれた思想だった。そして今、共産主義が労働者階級の思想となり、市民社会を打ち倒すことになる」と唯物史観を展開して階級闘争の必然性を力説する<ref name="小牧(1966)142">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.142</ref>。そして「プルードンは、古い経済学と共産主義を両方批判し、貧困な弁証法哲学で統合しようとする[[小ブルジョア]]に過ぎない」と結論している<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.142-143</ref>。
 
 
1847年末にはドイツ労働者協会の席上で労働者向けの講演を行ったが、これが1849年に『新ライン新聞』上で『{{仮リンク|賃金労働と資本|de|Lohnarbeit und Kapital}}』としてまとめられるものである。その中で剰余価値理論(この段階ではまだ剰余価値という言葉を使用していないが)をより後の『資本論』に近い状態に発展させた。「賃金とは労働力という商品の価格である。本来労働は、人間自身の生命の活動であり、自己実現なのだが、労働者は他に売るものがないので生きるためにその力を売ってしまった。したがって彼の生命力の発現の労働も、その成果である生産物も彼の物ではなくなっている(労働・生産物からの疎外)。」<ref name="小牧(1966)144">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.144</ref>、「商品の価格は、その生産費、つまり労働時間によってきまる。労働力という商品の価格(賃金)も同様である。労働力の生産費、つまり生活費で決まる」<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.145-146</ref>、「資本家は労働力を購入して、そしてその購入費以上に労働をさせて労働力を搾取することで資本を増やす。資本が増大すればブルジョワの労働者への支配力も増す。賃金労働者は永久に資本に隷従することになる。」といった主旨のことを述べている<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.146-147</ref>。
 
 
==== 共産主義者同盟の結成と『共産党宣言』 ====
 
[[File:Communist-manifesto.png|180px|thumb|[[共産主義者同盟]]の綱領として書かれた革命実践の小冊子『[[共産党宣言]]』]]
 
パリ時代のマルクスは革命活動への参加に慎重姿勢を崩さなかったが、唯物史観から「プロレタリア革命の必然性」を確信するようになった今、マルクスに革命を恐れる理由はなかった。「現在の問題は実践、つまり革命である」と語るようになった<ref name="小牧(1966)153">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.153</ref>。
 
 
1846年2月にはエンゲルス、ヘス、義弟{{仮リンク|エドガー・フォン・ヴェストファーレン|de|Edgar von Westphalen}}、[[フェルディナント・フライリヒラート]]、{{仮リンク|ヨーゼフ・ヴァイデマイヤー|de|Joseph Weydemeyer}}、[[ヴィルヘルム・ヴァイトリング]]、{{仮リンク|ヘルマン・クリーゲ|de|Hermann Kriege}}、{{仮リンク|エルンスト・ドロンケ|de|Ernst Dronke (Schriftsteller)}}らとともにロンドンのドイツ人共産主義者の秘密結社「[[正義者同盟]]」との連絡組織として「共産主義通信委員会」をブリュッセルに創設している<ref name="石浜(1931)146">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.146</ref><ref name="小牧(1966)154">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.154</ref><ref name="ウィーン(2002)127">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.127</ref>。しかしマルクスの組織運営は独裁的と批判される。創設してすぐにヴァイトリングとクリーゲを批判して除名する。そのあとすぐモーゼス・ヘスが除名される前に辞任した。マルクスは瞬く間に「民主的な独裁者」の悪名をとるようになる<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.127-131</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)147-158">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.147-158</ref>。その一方、マルクスはフランスのプルードンに参加を要請したが、「運動の最前線にいるからといって、新たな不寛容の指導者になるのはやめましょう」と断られている。この数カ月後にマルクスは上記の『哲学の貧困』でプルードン批判を開始する<ref name="ウィーン(2002)132">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.132</ref>。
 
 
新たな参加者が現れず、停滞気味の中の[[1847年]]1月、ロンドン正義者同盟の{{仮リンク|マクシミリアン・ヨーゼフ・モル|de|Maximilien Joseph Moll}}がマルクスのもとを訪れ、マルクスの定めた綱領の下で両組織を合同させることを提案した。マルクスはこれを許可し、6月のロンドンでの大会<!--必要な記述ですか?/(マルクスは路銀が用意できず、エンゲルスが代わりに出席)-->で共産主義通信委員会は正義者同盟と合同し、国際秘密結社「[[共産主義者同盟 (1847年)]]」を結成することを正式に決議した<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.146-150</ref><ref name="小牧(1966)155">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.155</ref>。またマルクスの希望でプルードン、ヴァイトリング、クリーゲの三名を「共産主義の敵」とする決議も出された<ref name="ウィーン(2002)138">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.138</ref>。
 
 
合同によりマルクスは共産主義者同盟ブリュッセル支部長という立場になった<ref name="ウィーン(2002)138">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.138</ref>。11月にロンドンで開催された第二回大会に出席し、同大会から綱領作成を一任されたマルクスは1848年の2月革命直前までに小冊子『[[共産党宣言]]』を完成させた<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.153-154</ref><ref name="小牧(1966)156">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.156</ref>。一応エンゲルスとの共著となっているが、ほとんどマルクスが一人で書いたものだった<ref name="ウィーン(2002)145">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.145</ref>。
 
 
この『共産党宣言』は「一匹の妖怪がヨーロッパを徘徊している。共産主義という名の妖怪が」という有名な序文で始まる。ついで第一章冒頭で「これまでに存在したすべての社会の歴史は階級闘争の歴史である」と定義し、第一章と第二章でプロレタリアが共産主義革命でブルジョワを打倒することは歴史的必然であると説く<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.157-162</ref><ref name="石浜(1931)155">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.155</ref>。さらに第三章では「似非社会主義・共産主義」を批判する{{#tag:ref|たとえば貴族や聖職者がブルジョワへの復讐で提唱する「封建主義的社会主義・キリスト教的社会主義」、ブルジョワの一部が自分の支配権を延命させるべく主張する「ブルジョワ社会主義」、大工業化で零落した小ブルジョワによる[[ギルド]]的な「小ブルジョワ社会主義」、哲学者が思弁的哲学の中だけで作っている「真正社会主義」、プロレタリアート革命なしで階級対立と搾取の無い世界を実現できるかのように語る「[[空想的社会主義]]」などである<ref name="石浜(1931)155"/><ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.163-165</ref>。|group=注釈}}。そして最終章の第四章で具体的な革命の行動指針を定めているが、その中でマルクスは、封建主義的なドイツにおいては、ブルジョワが封建主義を打倒するブルジョワ革命を目指す限りはブルジョワに協力するが、その場合もブルジョワへの対立意識を失わず、封建主義体制を転覆させることに成功したら、ただちにブルジョワを打倒するプロレタリア革命を開始するとしている<ref name="小牧(1966)166">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.166</ref>。そして最後は以下の有名な言葉で締めくくった。
 
 
{{Quotation|共産主義者はこれまでの全ての社会秩序を暴力的に転覆することによってのみ自己の目的が達成されることを公然と宣言する。支配階級よ、共産主義革命の前に恐れおののくがいい。プロレタリアは革命において鎖以外に失う物をもたない。彼らが獲得する物は全世界である。[[万国の労働者よ、団結せよ!|万国のプロレタリアよ、団結せよ]]<ref name="カー(1956)79">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.79</ref>。}}
 
 
=== 1848年革命をめぐって ===
 
[[File:Europe_1848_map_en.png|280px|thumb|[[1848年革命]]のヨーロッパ。]]
 
1847年の恐慌による失業者の増大でかねてから不穏な空気が漂っていたフランス王都[[パリ]]で[[1848年]]2月22日に暴動が発生し、24日に[[フランス王]][[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ]]が王位を追われて[[フランス第二共和政|共和政]]政府が樹立される事件が発生した([[1848年のフランス革命#二月革命|2月革命]])<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.158-160</ref><ref name="小牧(1966)168">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.168</ref>{{#tag:ref|ルイ・フィリップ王は1830年の[[フランス7月革命|7月革命]]で[[復古王政]]が打倒された後、ブルジョワに支えられて王位に就き、多くの自由主義改革を行った人物である。しかしその治世中、労働者階級が台頭するようになり、労働運動が激化した。1839年に社会主義者[[ルイ・オーギュスト・ブランキ]]の一揆が発生したことがきっかけで保守化を強め、ギゾーを中心とした専制政治を行うようになった<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.157-158</ref>。1847年の恐慌で失業者数が増大、社会的混乱が増して革命前夜の空気が漂い始めた。そして1848年2月22日、パリで選挙法改正運動が政府に弾圧されたのがきっかけで暴動が発生<ref name="小牧(1966)168">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.168</ref>。23日にはギゾーが首相を辞し、24日にはルイ・フィリップ王は国外へ逃れる事態となったのである<ref name="石浜(1931)160">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.160</ref><ref name="ウィーン(2002)151">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.151</ref>。|group=注釈}}。この2月革命の影響は他のヨーロッパ諸国にも急速に波及した。全ヨーロッパで自由主義・民主主義・社会主義・共産主義・[[ナショナリズム]]・民族統一運動など「進歩思想」が燃え上がった。これを[[1848年革命]]と呼ぶ。
 
 
{{仮リンク|ドイツ連邦議会 (ドイツ連邦)|label=ドイツ連邦議会|de|Bundestag (Deutscher Bund)}}議長国である[[オーストリア帝国]]の帝都[[ウィーン]]では3月13日に学生や市民らの運動により宰相[[クレメンス・フォン・メッテルニヒ]]が辞職してイギリスに亡命することを余儀なくされ、皇帝[[フェルディナント1世 (オーストリア皇帝)|フェルディナント1世]]も一時ウィーンを離れる事態となった。オーストリア支配下の[[ハンガリー]]や[[ボヘミア]]、北イタリアでは民族運動が激化。イタリア諸国の[[イタリア統一運動]]も刺激された<ref name="石浜(1931)162">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.162</ref>。プロイセン王都ベルリンでも3月18日に市民が蜂起し、翌19日には国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が国王軍をベルリン市内から退去させ、自ら市民軍の管理下に入り、自由主義内閣の組閣、憲法の制定、{{仮リンク|プロイセン国民議会|de|Preußische Nationalversammlung}}の創設、[[ドイツ統一]]運動に承諾を与えた<ref name="石浜(1931)163">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.163</ref><ref name="エンゲルベルク(1996)257-258">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.257-258</ref>。他のドイツ諸邦でも次々と同じような蜂起が発生した<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.162-163</ref>。そして自由都市[[フランクフルト・アム・マイン]]にドイツ統一憲法を制定するためのドイツ国民議会([[フランクフルト国民議会]])が設置されるに至った<ref name="小牧(1966)169">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.169</ref>。こうしたドイツにおける1848年革命は「3月革命」と呼ばれる。
 
 
==== ベルギー警察に逮捕される ====
 
マルクスは、2月革命後にフランス臨時政府のメンバーとなっていた{{仮リンク|フェルディナン・フロコン|fr|Ferdinand Flocon}}から「ギゾーの命令は無効になったからパリに戻ってこい」という誘いを受けた<ref name="石浜(1931)166">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.166</ref><ref name="カー(1956)83">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.83</ref><ref name="メーリング(1974,1)266">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.266</ref>。マルクスはこれ幸いと早速パリに向かう準備を開始した<ref name="ウィーン(2002)153">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.153</ref><ref name="カー(1956)83">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.83</ref>。
 
 
その準備中の3月3日、革命の波及を恐れていたベルギー王[[レオポルド1世 (ベルギー王)|レオポルド1世]]からの「24時間以内にベルギー国内から退去し、二度とベルギーに戻るな」という勅命がマルクスのもとに届けられた<ref name="ウィーン(2002)152">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.152</ref>。いわれるまでもなくベルギーを退去する予定のマルクスだったが、3月4日に入った午前1時、ベルギー警察が寝所にやってきて逮捕された<ref name="小牧(1966)170">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.170</ref>。町役場の留置場に入れられたが、「訳の分からないことを口走る狂人」と同じ監房に入れられ、一晩中その「狂人」の暴力に怯えながら過ごす羽目になったという<ref name="ウィーン(2002)153">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.153</ref>。同日早朝、マルクスとの面会に訪れた妻イェニーも身分証を所持していないとの理由で「放浪罪」容疑で逮捕された<ref name="ウィーン(2002)154">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.154</ref>。
 
 
マルクス夫妻の逮捕についてベルギー警察を批判する意見もあるが、妻イェニーは「ブリュッセルのドイツ人労働者は武装することを決めていました。そのため短剣やピストルをかき集めていました。カールはちょうど遺産を受け取った頃だったので、喜んでその金を武器購入費として提供しました。(ベルギー)政府はそれを謀議・犯罪計画と見たのでしょう。マルクスは逮捕されなければならなかったのです。」と証言している<ref name="ウィーン(2002)154">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.154</ref><ref name="カー(1959)"> </ref>。
 
 
3月4日午後3時にマルクスとイェニーは釈放され、警察官の監視のもとで慌ただしくフランスへ向けて出国することになった。その道中の列車内は革命伝染阻止のために出動したベルギー軍人で溢れかえっていたという。列車はフランス北部の町[[ヴァランシエンヌ]]で停まり、マルクス一家はそこから[[乗合馬車]]でパリに向かった<ref name="ウィーン(2002)154">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.154</ref>。
 
{{-}}
 
 
==== 共産主義者同盟をパリに移す ====
 
[[File:PontdArcole1848 v2.jpg|250px|thumb|1848年の[[パリ]]]]
 
3月5日にパリに到着したマルクスは翌6日にも共産主義者同盟の中央委員会をパリに創設した。議長にはマルクスが就任し、エンゲルス、[[カール・シャッパー]]、モル、ヴォルフ、ドロンケらが書記・委員を務めた<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.170-171</ref><ref name="メーリング(1974,1)267">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.267</ref>。議長マルクスはメンバーに赤いリボンを付けることを決議して組織の団結力を高めたが、共産主義者同盟は秘密結社であるから、この名前で活動するわけにもいかず、表向きの組織として「ドイツ労働者クラブ」も結成した<ref name="ウィーン(2002)155">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.155</ref>。
 
 
3月21日にはエンゲルスとともに17カ条から成る『ドイツにおける共産党の要求』を発表した。ブルジョワとの連携を意識して『共産党宣言』よりも若干マイルドな内容になっている<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.156-157</ref>{{#tag:ref|たとえば『共産党宣言』では「あらゆる相続権の廃止」「全ての土地の国有化」となっていたのを、『ドイツにおける共産党の要求』では「相続権の縮小」「封建主義的領地の国有化」としている。また国立銀行の創設の要求について「国立銀行が貨幣を硬貨と交換するようになれば、万国の両替手数料は安くなり、外国貿易に金銀が使用可能となる」とブルジョワ目線で説明を付けている<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.156-157</ref>。|group=注釈}}。
 
 
マルクスは革命のために必要なのは詩人や教授の部隊ではなく、プロパガンダと扇動だと考えていた<ref name="ウィーン(2002)156">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.156</ref>。しかし在パリ・ドイツ人労働者には即時行動したがる者が多く、[[ゲオルク・ヘルヴェーク]]と{{仮リンク|アデルベルト・フォン・ボルンシュテット|de|Adelbert von Bornstedt}}の「パリでドイツ人労働者軍団を組織してドイツへ進軍する」という夢想的計画が人気を集めていた。フランス臨時政府も物騒な外国人労働者たちをまとめて追い出すチャンスと見てこの計画を積極的に支援した。一方マルクスは「馬鹿げた計画はかえってドイツ革命を阻害する。在パリ・ドイツ人労働者をみすみす反動政府に引き渡しに行くようなものだ」としてこの計画に強く反対した<ref name="石浜(1931)169">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.169</ref><ref name="ウィーン(2002)156">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.156</ref><ref name="メーリング(1974,1)266">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.266</ref>。ヘルヴェークとボルンシュテットが「黒赤金同盟」を結成すると、マルクスはこれを自分の共産主義者同盟に対抗するものと看做し、ボルンシュテットを共産主義者同盟から除名した(ヘルヴェークはもともと共産主義者同盟のメンバーではなかった)<ref name="カー(1956)84">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.84</ref>。結局この二人は4月1日から数百人のドイツ人労働者軍団を率いてドイツ国境を越えて進軍するも、バーデン軍の反撃を受けてあっというまに武装解除されてしまう<ref name="石浜(1931)169">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.169</ref><ref name="ウィーン(2002)156">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.156</ref><ref name="カー(1956)86">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.86</ref>。
 
 
マルクスはこういう国外で労働者軍団を編成してドイツへ攻め込むというような冒険的計画には反対だったが、革命扇動工作員を個別にドイツ各地に送り込み、その地の革命を煽動させることには熱心だった<ref name="石浜(1931)171">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.171</ref>。マルクスの指示のもと、3月下旬から4月上旬にかけて共産主義者同盟のメンバーが次々とドイツ各地に工作員として送りこまれた<ref name="ウィーン(2002)157">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.157</ref>。フロコンの協力も得て最終的には300人から400人を送りこむことに成功した<ref name="石浜(1931)171">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.171</ref>。エンゲルスは父や父の友人の資本家から革命資金を募ろうと[[ヴッパータール]]に向かった<ref name="ウィーン(2002)158">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.158</ref>。
 
 
==== ケルン移住と『新ライン新聞』発行 ====
 
[[File:Neue Rheinische Zeitung N.jpg|180px|thumb|『[[新ライン新聞]]』1848年6月19日号]]
 
マルクスとその家族は4月上旬にプロイセン領ライン地方[[ケルン]]に入った<ref name="ウィーン(2002)158">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.158</ref>。
 
 
革命扇動を行うための新たな新聞の発行準備を開始したが、苦労したのは出資者を募ることだった。ヴッパータールへ資金集めにいったエンゲルスはほとんど成果を上げられずに戻ってきた<ref name="石浜(1931)173">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.173</ref><ref name="メーリング(1974,1)268">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.268</ref>。結局マルクス自らが駆け回って4月中旬までには自由主義ブルジョワの出資者を複数見つけることができた<ref name="石浜(1931)173">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.173</ref><ref name="カー(1956)86">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.86</ref>。
 
 
新たな新聞の名前は『[[新ライン新聞]]』と決まった。創刊予定日は当初7月1日に定められていたが、封建勢力の反転攻勢を阻止するためには一刻の猶予も許されないと焦っていたマルクスは、創刊日を6月1日に早めさせた<ref name="ウィーン(2002)159">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.159</ref><ref name="カー(1956)86">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.86</ref>。
 
 
同紙はマルクスを編集長として、エンゲルスやシャッパー、ドロンケ、フライリヒラート、ヴォルフなどが編集員として参加した<ref name="石浜(1931)173">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.173</ref><ref name="ウィーン(2002)159">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.159</ref>。しかしマルクスは同紙の運営も独裁的に行い、{{仮リンク|ステファン・ボルン|de|Stephan Born}}からは「どんなに暴君に忠実に仕える臣下であってもマルクスの無秩序な専制にはついていかれないだろう」と評された。マルクスの独裁ぶりは親友のエンゲルスからさえも指摘された<ref name="ウィーン(2002)159">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.159</ref>{{#tag:ref|マルクスの独裁ぶりを象徴するのがケルン労働者協会会長で共産主義者同盟にも所属していた{{仮リンク|アンドレアス・ゴットシャルク|de|Andreas Gottschalk}}をつまらないことで激しく糾弾したことだった。ゴットシャルクはこれにうんざりして共産主義者同盟から離脱してしまった。マルクスのゴットシャルク批判は方針の相違では説明を付け難い。フランシス・ウィーンは、「嫉妬がからんでいたということだけは言えるだろう」としている。ウィーンによれば、マルクスは自分の統括下にない組織や機関に批判的だったし、貧しい人たちへの医療活動で知られる医者のゴットシャルクは編集発行人のマルクスより多くの信奉者を得ていた。<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.161-162</ref>。|group=注釈}}。
 
 
同紙は「共産主義の機関紙」ではなく「民主主義の機関紙」と銘打っていたが、これは出資者への配慮、また封建主義打倒まではブルジョワ自由主義と連携しなければいけないという『共産党宣言』で示した方針に基づく戦術だった<ref name="小牧(1966)172">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.172</ref><ref name="カー(1956)87">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.87</ref><ref name="石浜(1931)174">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.174</ref>。
 
 
プロレタリア革命の「前段階」たるブルジョワ革命を叱咤激励しながら、「大問題・大事件が発生して全住民を闘争に駆り立てられる状況になった時のみ蜂起は成功する」として時を得ないで即時蜂起を訴える意見は退けた。またドイツ統一運動も支援し、フランクフルト国民議会にも参加していく方針を示した<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.172-173</ref>。マルクスは国境・民族を越える人であり、民族主義者ではないが、ドイツの「政治的後進性」は小国家分裂状態によってもたらされていると見ていたのである<ref name="バーリン(1974)185">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.185</ref>。外交面ではポーランド人やイタリア人、ハンガリー人の民族運動を支持した。また「革命と民族主義を蹂躙する反動の本拠地ロシアと戦争することが(革命や民族主義を蹂躙してきた)ドイツの贖罪であり、ドイツの専制君主どもを倒す道でもある」としてロシアとの戦争を盛んに煽った<ref name="メーリング(1974,1)275-276">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.275-276</ref>。
 
 
==== 革命の衰退 ====
 
[[File:Meissonier Barricade.jpg|180px|thumb|パリの[[6月蜂起]]でフランス軍に殲滅された蜂起労働者たちの死体を描いた絵画]]
 
しかし革命の機運は衰えていく一方だった。「反動の本拠地」ロシアにはついに革命が波及しなかったし、[[4月10日]]にはイギリスで[[チャーティスト運動]]が抑え込まれた<ref name="エンゲルベルク(1996)279">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.279</ref>。[[6月23日]]にはフランス・パリで労働者の蜂起が発生するも([[6月蜂起]])、[[ルイ=ウジェーヌ・カヴェニャック]]将軍率いるフランス軍によって徹底的に鎮圧された<ref name="エンゲルベルク(1996)279">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.279</ref><ref name="カー(1956)86">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.86</ref>。この事件はヨーロッパ各国の保守派を勇気づけ、保守派の本格的な反転攻勢の狼煙となった<ref name="石浜(1931)174">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.174</ref><ref name="エンゲルベルク(1996)278">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.278</ref>。[[ヨーゼフ・フォン・ラデツキー]][[元帥 (ドイツ)|元帥]]率いる[[オーストリア軍]]が[[ロンバルディア]](北イタリア)に出動してイタリア民族運動を鎮圧することに成功し、オーストリアはヨーロッパ保守大国の地位を取り戻した<ref name="エンゲルベルク(1996)280">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.280</ref>。プロイセンでは革命以来{{仮リンク|ルドルフ・カンプハウゼン|de|Ludolf Camphausen}}や{{仮リンク|ダーヴィト・ハンゼマン|de|David Hansemann}}の自由主義内閣が発足していたが、彼らもどんどん封建主義勢力と妥協的になっていた<ref>[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.271-272</ref>。5月から開催されていたフランクフルト国民議会も夏の間、不和と空回りした議論を続け、ドイツ統一のための有効な手を打てなかった<ref name="カー(1956)87">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.87</ref>。
 
 
革命の破局の時が迫っていることに危機感を抱いたマルクスは、『新ライン新聞』で「ハンゼマンの内閣は曖昧な矛盾した任務を果たしていく中で、今ようやく打ち立てられようとしているブルジョワ支配と内閣が反動封建分子に出し抜かれつつあることに気づいているはずだ。このままでは遠からず内閣は反動によって潰されるだろう。ブルジョワはもっと民主主義的に行動し、全人民を同盟者にするのでなければ自分たちの支配を勝ち取ることなどできないということを自覚せよ」「ベルリン国民議会は泣き言を並べ、利口ぶってるだけで、なんの決断力もない」「ブルジョワは、最も自然な同盟者である農民を平気で裏切っている。農民の協力がなければブルジョワなど貴族の前では無力だということを知れ」とブルジョワの革命不徹底を批判した<ref>[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.272-273/290</ref>。
 
 
マルクスの『新ライン新聞』に対する風当たりは強まっていき、[[7月7日]]には検察官侮辱の容疑でマルクスの事務所に強制捜査が入り、起訴された<ref name="ウィーン(2002)164">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.164</ref>。だがマルクスは立場を変えようとしなかったので、[[9月25日]]にケルンに戒厳令が発せられた際に軍司令官から新聞発行停止命令を受けた。シャッパーやベッカーが逮捕され、エンゲルスにも逮捕状が出たが、彼は行方をくらました。新聞の出資者だったブルジョワ自由主義者もこの頃までにほとんどが逃げ出していた<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.164-166</ref>。
 
 
10月12日に戒厳令が解除されるとマルクスはただちに『新ライン新聞』を再発行した。ブルジョワが逃げてしまったので、マルクスは将来の遺産相続分まで含めた自分の全財産を投げ打って同紙を個人所有し、何とか維持させた。
 
 
しかし革命派の戦況はまずます絶望的になりつつあった。[[10月16日]]にオーストリア帝都ウィーンで発生した市民暴動は同月末までに[[アルフレート1世・ツー・ヴィンディシュ=グレーツ|ヴィンディシュ=グレーツ伯爵]]率いるオーストリア軍によって蹴散らされた。またこの際ウィーンに滞在中だったフランクフルト国民議会の民主派議員{{仮リンク|ローベルト・ブルム|de|Robert Blum}}が見せしめの即決裁判で処刑された<ref>[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.299-300</ref>。プロイセンでも[[11月1日]]に保守派の[[フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ブランデンブルク]]伯爵が宰相に就任し、[[11月10日]]には[[フリードリヒ・フォン・ヴランゲル]]元帥率いるプロイセン軍がベルリンを占領して市民軍を解散させ、プロイセン国民議会も停会させた<ref name="エンゲルベルク(1996)301">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.301</ref>。
 
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==== 武装闘争とプロイセンからの追放 ====
 
[[File:NGR RED.jpg|180px|thumb|1849年5月18日に赤刷りで出した『新ライン新聞』最終号]]
 
プロイセン国民議会は停会する直前に納税拒否を決議した<ref name="エンゲルベルク(1996)303">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.303</ref><ref name="石浜(1931)179">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.179</ref>。マルクスはこの納税拒否の決議をあくまで推進しようと、11月18日に「民主主義派ライン委員会」の決議として「強制的徴税はいかなる手段を用いてでも阻止せねばならず、(徴税に来る)敵を撃退するために武装組織を編成せよ」という宣言を出した<ref name="ウィーン(2002)173">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.173</ref><ref name="メーリング(1974,1)305">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.305</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.179-180</ref>。
 
 
[[フェルディナント・ラッサール]]が[[デュッセルドルフ]]でこれに呼応するも、彼は[[11月22日]]に反逆容疑で逮捕された<ref name="メーリング(1974,1)306">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.306</ref>。マルクスも反逆を煽動した容疑で起訴され、[[1849年]][[2月8日]]に[[陪審制]]の裁判にかけられた<ref name="メーリング(1974,1)306">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.306</ref>。マルクスは「暴動を示唆」したことを認めていたが、陪審員には反政府派が多かったため、「国民議会の決議を守るために武装組織の編成を呼び掛けただけであり、合憲である」として全員一致でマルクスを無罪とした<ref name="ウィーン(2002)173">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.173</ref>。
 
 
この無罪判決のおかげで『新ライン新聞』はその後もしばらく活動できたが、軍からの警戒は強まった。[[3月2日]]には軍人がマルクスの事務所にやってきて[[サーベル]]を抜いて脅迫してきたが、マルクスは拳銃を見せて追い払った。エンゲルスは後年に「8000人のプロイセン軍が駐屯するケルンで『新ライン新聞』を発行できたことをよく驚かれたものだが、これは『新ライン新聞』の事務所に8丁の銃剣と250発の弾丸、[[ジャコバン派]]の赤い帽子があったためだ。強襲するのが困難な要塞と思われていたのだ」と語っている<ref name="ウィーン(2002)174-175">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.174-175</ref>。
 
 
5月にフランクフルト国民議会の決議した[[パウロ教会憲法|ドイツ帝国憲法]]とドイツ帝冠をプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が拒否したことで、ドイツ中の革命派が再び蜂起した。とりわけバーデン大公国とバイエルン王国領[[プファルツ]]地方で発生した武装蜂起は拡大した。亡命を余儀なくされたバーデン大公はプロイセン軍に鎮圧を要請し、これを受けてプロイセン[[皇太弟]][[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム]](後のプロイセン王・ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世)率いるプロイセン軍が出動した<ref name="石浜(1931)182">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.182</ref><ref name="エンゲルベルク(1996)320">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.320</ref>。
 
 
革命の機運が戻ってきたと見たマルクスは『新ライン新聞』で各地の武装蜂起を嬉々として報じた<ref name="ウィーン(2002)175">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.175</ref>。これがきっかけで5月16日にプロイセン当局より『新ライン新聞』のメンバーに対して国外追放処分が下され、同紙は廃刊を余儀なくされた。マルクスは5月18日の『新ライン新聞』最終号を[[赤]]刷りで出版し、「我々の最後の言葉はどこでも常に労働者階級の解放である!」と締めくくった<ref name="ウィーン(2002)175">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.175</ref><ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.174-175</ref><ref name="メーリング(1974,1)317">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.317</ref>。マルクスは全ての印刷機や家具を売り払って『新ライン新聞』の負債の清算を行ったが、それによって一文無しとなった<ref name="ウィーン(2002)175">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.175</ref><ref name="メーリング(1974,1)317"/>。
 
 
パリ亡命を決意したマルクスは、エンゲルスとともにバーデン・プファルツ蜂起の中心地である[[カイザースラウテルン]]に向かい、そこに作られていた臨時政府からパリで「ドイツ革命党」代表を名乗る委任状をもらった。そこからの帰途、二人はヘッセン大公国軍に逮捕されるも、まもなく[[フランクフルト・アム・マイン]]で釈放された<ref name="メーリング(1974,1)318">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.318</ref>。マルクスはそのままパリへ亡命したが、エンゲルスは逃亡を嫌がり、バーデンの革命軍に入隊し、武装闘争に身を投じた<ref name="メーリング(1974,1)318">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.318</ref><ref name="小牧(1966)176">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.176</ref><ref name="ウィーン(2002)176">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.176</ref>。
 
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==== フランスを経てイギリスへ ====
 
6月初旬に「プファルツ革命政府の外交官」と称して偽造パスポートでフランスに入国。パリの{{仮リンク|リール通り|fr|Rue de Lille (Paris)}}に居住し、「ランボス」という偽名で文無しの潜伏生活を開始した<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.176-177</ref>。ラッサールやフライリヒラートから金の無心をして生計を立てた<ref name="メーリング(1974,1)319">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.319</ref>。
 
 
この頃のフランスはナポレオンの甥にあたるルイ・ナポレオン・ボナパルト(後のフランス皇帝[[ナポレオン3世]])が大統領を務めていた<ref>[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.63-68</ref>。ルイ・ボナパルトはカトリック保守の{{仮リンク|秩序党|fr|Parti de l'Ordre (1848)}}の支持を得て、教皇のローマ帰還を支援すべく、対[[ローマ共和国 (19世紀)|ローマ共和国]]戦争を遂行していたが、左翼勢力がこれに反発し、[[6月13日]]に蜂起が発生した。しかしこの蜂起はフランス軍によって徹底的に鎮圧され、フランスの左翼勢力は壊滅的な打撃を受けた(6月事件)<ref name="鹿島(2004)79">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.79</ref><ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.176-177</ref>。
 
 
この事件の影響でフランス警察の外国人監視が強まり、偽名で生活していたマルクスも8月16日にパリ行政長官から[[モルビアン県]]へ退去するよう命令を受けた。マルクス一家は命令通りにモルビアンへ移住したが、ここは{{仮リンク|ポンティノ湿地|fr|Marais pontins}}の影響で[[マラリア]]が流行していた。このままでは自分も家族も病死すると確信したマルクスは、「フランス政府による陰険な暗殺計画」から逃れるため、フランスからも出国する覚悟を固めた<ref name="ウィーン(2002)177">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.177</ref>。
 
 
ドイツ諸国やベルギーには戻れないし、スイスからも入国を拒否されていたマルクスを受け入れてくれる国は[[イギリス]]以外にはなかった<ref name="ウィーン(2002)177">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.177</ref>。
 
 
=== ロンドン在住時代 ===
 
==== ディーン通りで赤貧生活 ====
 
[[File:Commemorative plaque "Karl Marx (1818-1883) lived here 1851-56". Dean Street 28, London.jpg|180px|thumb|マルクスが暮らしていた{{仮リンク|ディーン通り|en|Dean Street}}28番地の住居。マルクスの[[ブルー・プラーク]]が入っている。]]
 
ラッサールら友人からの資金援助でイギリスへの路銀を手に入れると<ref name="バーリン(1974)190">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.190</ref>、1849年8月27日に<!--シャルル・マルクスは偽名ではなく、カール・マルクスをフランス語で書いたもの/「シャルル・マルクス博士」という偽名で-->船に乗り、イギリスに入国した<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.177-179</ref>。この国がマルクスの終生の地となるが、入国した時には一時的な避難場所のつもりだったという<ref name="バーリン(1974)191">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.191</ref>。
 
 
イギリスに到着したマルクスは早速ロンドンで{{仮リンク|キャンバーウェル|en|Camberwell}}にある家具付きの立派な家を借りたが、家賃を払えるあてもなく、1850年4月にも家は差し押さえられてしまった<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.121-122</ref>。
 
 
これによりマルクス一家は貧困外国人居住区だった[[ソーホー (ロンドン)|ソーホー]]・{{仮リンク|ディーン通り|en|Dean Street}}28番地の二部屋を賃借りしての生活を余儀なくされた<ref name="カー(1956)123">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.123</ref><ref name="石浜(1931)206">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.206</ref><ref name="ウィーン(2002)199">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.199</ref>。
 
 
プロイセン警察がロンドンに放っていたスパイの報告書によれば「(マルクスは)ロンドンの最も安い、最も環境の悪い界隈で暮らしている。部屋は二部屋しかなく、家具はどれも壊れていてボロボロ。上品な物は何もない。部屋の中は散らかっている。居間の真ん中に油布で覆われた大きな机があるが、その上には彼の原稿やら書物やらと一緒に子供の玩具や細君の裁縫道具、割れたコップ、汚れたスプーン、ナイフ、フォーク、ランプ、インク壺、パイプ、煙草の灰などが所狭しと並んでいる。部屋の中に初めて入ると煙草の煙で涙がこぼれ、何も見えない。目が慣れてくるまで洞穴の中に潜ったかのような印象である。全ての物が汚く、埃だらけなので腰をかけるだけでも危険だ。椅子の一つは脚が3つしかないし、もう一個の満足な脚の椅子は子供たちが遊び場にしていた。その椅子が客に出される椅子なのだが、うっかりそれに座れば確実にズボンを汚してしまう」という有様だったという<ref name="バーリン(1974)205">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.205</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)265">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.265</ref>。また当時ソーホー周辺は不衛生で病が流行していたので、マルクス家の子供たちもこの時期に三人が落命した<ref name="カー(1956)127">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.127</ref>。その葬儀費用さえマルクスには捻出することができなかった<ref name="小牧(1966)180">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.180</ref><ref name="ウィーン(2002)212">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.212</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)267">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.267</ref>。
 
 
それでもマルクスは毎日のように[[大英博物館]]図書館に行き、そこで朝9時から夜7時までひたすら勉強していた<ref name="バーリン(1974)206">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.206</ref>。のみならず<!--ウィーンによればピーパーの業務は口述筆記と翻訳/勉強のための-->秘書としてヴィルヘルム・ピーパーという文献学者を雇い続けた。妻イェニーはこのピーパーを嫌っており、お金の節約のためにも秘書は自分がやるとマルクスに訴えていたのだが、マルクスは聞き入れなかった<ref name="ウィーン(2002)215">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.215</ref>。また、[[レイ・ランケスター]]といった博物館関係者とも親交を得た。
 
 
生計は[[フリードリヒ・エンゲルス]]からの定期的な仕送り{{#tag:ref|エンゲルスはロンドンに来た後、ロンドンの新聞社に務めることを夢見ていたが、その夢は叶わず、他の自活の手段も見つけられなかったので父親と和解し、1850年12月からマンチェスターにある父の共同所有する会社で勤務するようになった<ref name="バーリン(1974)204">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.204</ref>。とはいえこの頃エンゲルスの給料も年100ポンドを超えることはなかったと見られており、また父の代わりにマンチェスターの大世帯をやり繰りしなければならなかったのでマルクスにやれる金にも限度があった<ref>[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.206-207</ref>。|group=注釈}}、また他の友人(ラッサールやフライリヒラート、リープクネヒトなど)への不定期な金の無心、金融業者から借金、質屋通い、後述するアメリカ合衆国の新聞への寄稿でなんとか保った。没交渉の母親にさえ金を無心している(母とはずっと疎遠にしていたので励ましの手紙以外には何も送ってもらえなかったようだが)<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.123/128</ref>。
 
 
しかし1850年代の大半を通じてマルクス一家はまともな食事ができなかった<ref name="ウィーン(2002)215">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.215</ref>。着る物もほとんど質に入れてしまったマルクスはよくベッドに潜り込んで寒さを紛らわせていたという<ref name="バーリン(1974)204">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.204</ref>。借金取りや家主が集金に来るとマルクスの娘たちが近所の子供のふりをして「マルクスさんは不在です」と答えて追い返すのが習慣になっていたという<ref name="カー(1956)123">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.123</ref><ref name="バーリン(1974)204">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.204</ref>。
 
 
<!--バーリンがこうした評価を下したのは事実ですが、バーリンの評価は中立的な観点ではないし、カーやウィーンといった他のマルクス研究者の一般的な評価でもありません。/
 
こうした惨めな赤貧生活は、「自分は命令的地位につく資格がある」と思い込んでいたマルクスのプライドをズタズタにし、彼の憎悪と憤怒の感情を高めることにつながったという<ref name="バーリン(1974)206">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.206</ref>。-->
 
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==== 自分の雑誌とアメリカの新聞で文芸活動 ====
 
[[File:Nytrib1864.jpg|250px|thumb|1864年の『[[ニューヨーク・トリビューン]]』]]
 
エンゲルスが参加していたバーデン・プファルツの武装闘争はプロイセン軍によって完全に鎮圧された。エンゲルスはスイスに亡命し、女と酒に溺れる日々を送るようになった。マルクスは彼に手紙を送り、「スイスなどにいてはいけない。ロンドンでやるべきことをやろうではないか」とロンドン移住を薦めた<ref name="ウィーン(2002)178">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.178</ref><ref name="メーリング(1974,2)7">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974) 2巻]] p.7</ref>。これに応じてエンゲルスも[[11月12日]]にはロンドンへやってきた<ref name="ウィーン(2002)183">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.183</ref>。
 
 
エンゲルスや{{仮リンク|コンラート・シュラム|de|Conrad Schramm}}の協力を得て新しい雑誌の創刊準備を進め、1850年1月から[[ドイツ連邦]][[自由都市]][[ハンブルク]]で月刊誌『{{仮リンク|新ライン新聞 政治経済評論|de|Neue Rheinische Zeitung. Politisch-ökonomische Revue}}』を出版した<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.187-188</ref><ref name="小牧(1966)177">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.177</ref><ref name="カー(1956)122">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.122</ref><ref name="ウィーン(2002)187">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.187</ref><ref>[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974) 2巻]] p.7-8</ref>。同誌の執筆者はマルクスとエンゲルスだけだった。マルクスは『1848年6月の敗北』と題した論文を数回にわたって掲載したが、これが後に『フランスにおける階級闘争(Die Klassenkämpfe in Frankreich 1848 bis 1850)』として発刊されるものである<ref name="小牧(1966)177">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.177</ref>。この中でマルクスはフランス2月革命の経緯を唯物史観に基づいて解説し、1848年革命のそもそもの背景は1847年の不況にあったこと、そして1848年中頃から恐慌が収まり始めたことで反動勢力の反転攻勢がはじまったことを指摘した<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.189-190</ref>。結局この『新ライン新聞 政治経済評論』はほとんど売れなかったため、資金難に陥って、最初の四カ月間に順次出した4号と11月の5号6号合併号のみで廃刊した<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.177-178</ref><ref name="カー(1956)122"/>。
 
 
ついで1851年秋から[[アメリカ合衆国]][[ニューヨーク]]で発行されていた当時20万部の発行部数を持っていた急進派新聞『[[ニューヨーク・トリビューン]]』のロンドン通信員となった<ref name="ウィーン(2002)215">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.215</ref>。マルクスはこの新聞社の編集者チャールズ・オーガスタス・デーナと1849年にケルンで知り合っており、その伝手で手に入れた仕事だった<ref name="バーリン(1974)209">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.209</ref>。原稿料ははじめ1記事1ポンドだった。1854年以降に減らされるものの、借金に追われるマルクスにとっては重要な収入源だった<ref name="ウィーン(2002)215">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.215</ref><ref name="バーリン(1974)210">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.210</ref>。マルクスは英語が不自由だったので記事の執筆にあたってもエンゲルスの力を随分と借りたようである<ref name="石浜(1931)211">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.211</ref>。
 
 
マルクスが寄稿した記事はアメリカへの愛がこもっており、アメリカ人からの評判も良かったという。アメリカの[[黒人]][[奴隷]]制を批判した{{仮リンク|ハリエッタ・サザーランド=ルーソン=ゴア (サザーランド公爵夫人)|label=サザーランド公爵夫人|en|Harriet Sutherland-Leveson-Gower, Duchess of Sutherland}}に対して「[[サザーランド公爵|サザーランド公爵家]]も[[スコットランド]]の領地で住民から土地を奪い取って窮乏状態に追いやっている癖に何を抜かしているか」と批判を加えたこともある<ref name="バーリン(1974)217">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.217</ref>。マルクスと『ニューヨーク・トリビューン』の関係は10年続いたが、1861年にアメリカで[[南北戦争]]が勃発したことで解雇された(マルクスに限らず同紙のヨーロッパ通信員全員がこの時に解雇されている。内乱中にヨーロッパのことなど論じている場合ではないからである)<ref name="カー(1956)186">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.186</ref>。
 
 
==== 共産主義者同盟の再建と挫折 ====
 
[[1849年]]秋以来、共産主義者同盟のメンバーが次々とロンドンに亡命してきていた。モルは革命で戦死したが、シャッパーやヴォルフは無事ロンドンに到着した。また大学を出たばかりの[[ヴィルヘルム・リープクネヒト]]、バーデン・プファルツ革命軍でエンゲルスの上官だった{{仮リンク|アウグスト・ヴィリヒ|de|August Willich}}などもロンドンへやってきてマルクスの新たな同志となった。彼らを糾合して1850年3月に共産主義同盟を再結成した<ref>[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974) 2巻]] p.22-24</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.190-191</ref><ref name="カー(1956)144">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.144</ref>。
 
 
再結成当初は、近いうちにまた革命が起こるという希望的観測に基づく革命方針を立てた。ドイツでは小ブルジョワ民主主義組織が増える一方、労働者組織はほとんどなく、あっても小ブルジョワ組織の指揮下におさめられてしまっているのが一般的だったので、まず独立した労働者組織を作ることが急務とした。またこれまで通り、封建主義打倒までは急進的ブルジョワとも連携するが、彼らが自身の利益固めに走った時はただちにこれと敵対するとし、ブルジョワが抑制したがる官公庁占拠など暴力革命も積極的に仕掛けていくことを宣言した。ハインリヒ・バウアー(Heinrich Bauer)がこの宣言をドイツへ持っていき、共産主義者同盟をドイツ内部に秘密裏に再建する工作を開始した(バウアーはその後オーストリアで行方不明となる)<ref>[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974) 2巻]] p.24-25</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.191-192</ref>。
 
 
しかし[[1850年]]夏には革命の火はほとんど消えてしまった。フランスでは左翼勢力はすっかり蚊帳の外で、ルイ・ボナパルトの帝政復古か、秩序党の王政復古かという情勢になっていた。ドイツ各国でもブルジョワが革命を放棄して封建主義勢力にすり寄っていた。革命精神が幾らかでも残ったのはプロイセンがドイツ中小邦国と組んで起こそうとした[[小ドイツ主義]]統一の動きだったが、それもオーストリアとロシアによって叩き潰された([[オルミュッツ協定|オルミュッツの屈辱]])<ref name="メーリング(1974,2)27">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974) 2巻]] p.27</ref><ref>[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.343-344</ref>。
 
 
こうした状況の中、マルクスは今の好景気が続く限り、革命は起こり得ないと結論するようになり<ref name="石浜(1931)195">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.195</ref>、共産主義者同盟のメンバーに対し、即時行動は諦めるよう訴えた<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.144-145</ref>。だが共産主義者同盟のメンバーには即時行動を求める者が多かった。マルクスの独裁的な組織運営への反発もあって、とりわけヴィリヒが反マルクス派の中心人物となっていった。シャッパーもヴィリヒを支持し、共産主義者同盟内に大きな亀裂が生じた<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.195-196</ref><ref name="カー(1956)145">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.145</ref>。
 
 
1850年[[9月15日]]の執行部採決ではマルクス派が辛くも勝利を収めたものの、一般会員にはヴィリヒ支持者が多く、両派の溝は深まっていく一方だった。そこでマルクスは共産主義者同盟の本部をプロイセン王国領ケルンに移す事を決定した。そこには潜伏中の秘密会員しかいないが、それ故にヴィリヒ派を抑えられると踏んだのである<ref name="カー(1956)146">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.146</ref>。だがこの決定に反発したヴィリヒ達は共産主義者同盟から脱退し、ルイ・ブランとともに「国際委員会」という新組織を結成した。マルクスはこれに激怒し、この頃彼がエンゲルスに宛てて送った手紙もこの組織への批判・罵倒で一色になっている<ref name="カー(1956)147">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.147</ref>。
 
 
共産主義者同盟の本部をケルンに移したことは完全に失敗だった。[[1851年]]5月から6月にかけて共産主義者同盟の著名なメンバー11人が大逆罪の容疑でプロイセン警察によって摘発されてしまったのである<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.147-149</ref><ref name="小牧(1966)178">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.178</ref>。しかもこの摘発を命じたのはマルクスの義兄(イェニーの兄)にあたるフェルディナント・フォン・ヴェストファーレン(当時プロイセン内務大臣)だった。フェルディナントは今回の陰謀事件がどれほど悪質であったか、その陰謀の背後にいるマルクスがいかに恐ろしいことを企んでいるかをとうとうと宣伝した<ref name="シュワルツシルト(1950)271">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.271</ref>。これに対抗してマルクスは11人が無罪になるよう駆け回ったものの、ロンドンで証拠収集してプロイセンの法廷に送るというのは難しかった。そもそも暴動を教唆する文書を出したのは事実だったから、それを無害なものと立証するのは不可能に近かった。結局[[1852年]]10月に開かれた法廷で被告人11人のうち7人が有罪となり、共産主義者同盟は壊滅的打撃を受けるに至った(ケルン共産党事件)<ref name="カー(1956)151">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.151</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.207-209</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)273">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.273</ref>。
 
 
これを受けてさすがのマルクスも共産主義者同盟の存続を諦め、1852年[[11月17日]]に正式に解散を決議した<ref name="小牧(1966)178"/>。以降マルクスは10年以上もの間、組織活動から遠ざかることになる<ref name="カー(1956)151">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.151</ref>。
 
 
==== ナポレオン3世との闘争 ====
 
[[File:Napoleon-III1.jpg|180px|thumb|マルクスが厳しく批判した[[フランス皇帝]][[ナポレオン3世]]]]
 
一方フランスでは[[1851年]]12月に大統領ルイ・ボナパルトが議会に対するクーデタを起こし、1852年1月に大統領に権力を集中させる[[1852年憲法|新憲法]]を制定して独裁体制を樹立した<ref>[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.118-139</ref>。さらに同年12月には皇帝に即位し、[[ナポレオン3世]]と称するようになった<ref name="鹿島(2004)79">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.79</ref>。
 
 
マルクスは彼のクーデタを考察した『[[ルイ・ボナパルトのブリュメール18日]]』を執筆し、これをアメリカの週刊新聞『レヴォルツィオーン』に寄稿した<ref name="カー(1956)152">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.152</ref><ref name="ウィーン(2002)225">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.225</ref>。この論文は「ヘーゲルはどこかで言った。歴史上のあらゆる偉大な事実と人物は二度現れると。彼はこう付け加えるのを忘れた。最初は悲劇として、二度目は茶番として」という有名な冒頭で始まり<ref name="カー(1956)152">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.152</ref>、ナポレオン3世に激しい弾劾を加えつつ、このクーデタの原因を個人の冒険的行動や抽象的な歴史的発展に求める考えを退けて、フランスの階級闘争が何故こうした凡庸な人物を権力の座に就けるに至ったかを分析する。<ref name="カー(1956)152">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.152</ref>。
 
 
ナポレオン3世は[[東方問題]]をめぐってロシア帝国と対立を深め、イギリス首相[[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン子爵]]と連携して[[1854年]]から[[クリミア戦争]]を開始した。マルクスはロシアの[[ツァーリズム]]に対するこの戦争を歓迎した<ref name="メーリング(1974,2)80-81">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974) 2巻]] p.80-81</ref>。ところが、自分が特派員になっている『ニューヨーク・トリビューン』は反英・親露的立場をとり、マルクスを困惑させた。マルクスとしては家計的にここと手を切るわけにはいかないのだが、エンゲルスへの手紙の中では「同紙が汎スラブ主義反対の声明を出すことが是非とも必要だ。でなければ僕らはこの新聞と決別するしかなくなるかもしれない」とまで書いている<ref name="カー(1956)184">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.184</ref>。
 
 
一方でマルクスは英仏にも疑惑の目を向けていた。「偽ボナパルトとパーマストン卿がやっている以上この戦争は偽善であり、ロシアを本気で倒すつもりなどないことは明らか」というのがマルクスの考えだった。マルクスはナポレオン3世もパーマストン子爵も[[ツァーリ]](ロシア皇帝)と秘密協定を結んでいると思いこんでいた<!--この注釈をとりあえずコメントアウト。ウィーンの伝記には、マルクスが、アーカートと共通するのはパーマストンに関する見解だけで、そのほかの点ではすべて相反していると手紙に書いていることが記述されている。「アーカートから金を引き出した」とあるが、これはマルクス憎さのあまりバーリンがわざと誤解をまねくような書き方をしただけで、マルクスは「じつにしつこい」アーカートの信奉者の依頼に負けて新聞に記事を書き、原稿料をもらっただけである。「経済的にはありがたいことだが、しかし、彼らと政治的に深い関わりをもつべきなのかどうか、そこのところが私にはまだわからない」(ウィーン、250頁)。{{#tag:ref|[[ナポレオン3世]]はともかく、ロシアに一切容赦がない[[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン子爵]]を「ロシアの犬」とするマルクスの言説は実に奇妙なものだった。そればかりかマルクスは「[[ピョートル大帝]]の時代にロシアとイギリスは秘密協定を結んでおり、以降150年にわたって共謀関係にある。今回ロシアと戦争をしたのはその共謀関係を隠すための偽装工作なのだ」というロシア[[陰謀論]]的主張までするようになった。マルクスのこうした胡散臭い主張はロシア陰謀論者の[[庶民院]]議員{{仮リンク|デヴィッド・アーカート|en|David Urquhart}}の影響だったようである<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.248-249</ref><ref name="バーリン(1974)215">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.215</ref>。アーカートは別に社会主義者でも何でもなくただの変人だったが、マルクスと彼の奇妙な友情は彼が死ぬまで続いた。またマルクスは彼からだいぶ金を引き出したようである<ref>[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.215-216</ref>。|group=注釈}}。-->それは極端な意見だったが、実際クリミア戦争は[[クリミア半島]][[セヴァストポリの戦い (クリミア戦争)|セヴァストポリ要塞]]を陥落させたところで中途半端に終わった<ref name="メーリング(1974,2)80-81">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974) 2巻]] p.80-81</ref>。
 
 
ナポレオン3世は[[1859年]]に[[サルデーニャ王国]]宰相[[カミッロ・カヴール]]と連携して[[ロンバルド=ヴェネト王国|北イタリア]]を支配するオーストリア帝国に対する戦争を開始した([[イタリア統一戦争]])。この戦争は思想の左右を問わずドイツ人を困惑させた。言ってみれば「フランス国内で自由を圧殺する専制君主ナポレオン3世がイタリア国民の自由を圧殺する専制君主国オーストリアに闘いを挑んだ」状態だからである。結局[[大ドイツ主義]]者(オーストリア中心のドイツ統一志向)がオーストリアと連携してポー川(北イタリア)を守るべしと主張し、[[小ドイツ主義]]者(オーストリアをドイツから排除してプロイセン中心のドイツ統一志向)はオーストリアの敗北を望むようになった<ref name="カー(1956)207">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.207</ref>。
 
 
この戦争をめぐってエンゲルスは小冊子『ポー川とライン川』を執筆し、ラッサールの斡旋でプロイセンのドゥンカー書店から出版した<ref name="メーリング(1974,2)126">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974)2巻]] p.126</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.224-225</ref>。この著作の中でエンゲルスは「確かにイタリア統一は正しいし、オーストリアが[[ポー川]](北イタリア)を支配しているのは不当だが、今度の戦争はナポレオン3世が自己の利益、あるいは反独的利益のために介入してきてるのが問題である。ナポレオン3世の最終目標は[[ライン川]](西ドイツ)であり、したがってドイツ人はライン川を守るために軍事上重要なポー川も守らねばならない」といった趣旨の主張を行い、オーストリアの戦争遂行を支持した。マルクスもこの見解を支持した<ref name="メーリング(1974,2)126-128">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974)2巻]] p.126-128</ref>。
 
 
マルクスが警戒したのはナポレオン3世の帝政がこの戦争を利用して延命することとフランスとロシアの連携がドイツ統一に脅威を及ぼしてくることだった<ref name="メーリング(1974,2)133">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974)2巻]] p.133</ref>。そのためマルクスはプロイセンがオーストリア側で参戦しようとしないことに憤り、「中立を主張するプロイセンの政治家どもは、ライン川左岸のフランスへの割譲を許した[[バーゼルの和約]]に歓声を送り、また[[ウルムの戦い]]や[[アウステルリッツの戦い]]でオーストリアが敗れた時に両手をこすり合わせていた連中である」と批判した<ref name="メーリング(1974,2)134">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974)2巻]] p.134</ref>。また「オーストリアは全ドイツの敵であり、プロイセンは中立の立場を取るべき」と主張する{{仮リンク|カール・フォークト|de|Carl Vogt}}を「ナポレオン3世から金をもらっている」と批判した<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.110-111</ref><ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.209-210</ref>。
 
 
しかしナポレオン3世を批判するあまり、イタリア統一運動を妨害し、[[ハプスブルク家]]による民族主義蹂躙を支持しているかのように見えるマルクスたちの態度にはラッサールも疑問を感じた。彼は独自に『イタリア戦争とプロイセンの義務(Der italienische Krieg und die Aufgabe Preussens)』という小冊子を執筆し、プロイセンは今度の戦争に参戦すべきではなく、ナポレオン3世が民族自決に基づいて南方の地図を塗り替えるならプロイセンは北方の[[シュレースヴィヒ]]と[[ホルシュタイン]]に対して同じことをすればよいと訴えた。マルクスはこれに激怒し、ラッサールに不信感を抱くようになった<ref name="江上(1972)107-108">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.107-108</ref>。この論争について[[フランツ・メーリング]]は「ラッサールはロシアの危険性を軽視し過ぎだったし、一方マルクスとエンゲルスはロシアの侵略性を過大評価しすぎた」としている。
 
 
==== グラフトン・テラスへ引っ越し ====
 
[[File:Marx3.jpg|180px|thumb|1861年のマルクス]]
 
1855年春と1856年夏に、妻イェニーの伯父と母が相次いで死去した。とくに母の死はイェニーを悲しませたが、イェニーがその遺産の一部を相続したため、マルクス家の家計は楽になった<ref name="ウィーン(2002)266">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.266</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)268">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.268</ref>。
 
 
マルクス家は悲惨なディーン街を脱出し、ロンドン北部{{仮リンク|ベルサイズ・パーク|en|Belsize Park}}グラフトン・テラス(Grafton Terrace)9番地へ移住した<ref name="ウィーン(2002)266">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.266</ref>。当時この周辺は開発されていなかったため、不動産業界の評価が低く、安い賃料で借りることができた。イェニーはこの家について「これまでの穴倉と比べれば、私たちの素敵な小さな家はまるで王侯のお城のようでしたが、足の便の悪い所でした。ちゃんとした道路がなく、辺りには次々と家が建設されてガラクタの山を越えていかないといけないのです。ですから雨が降った日にはブーツが泥だらけになりました」と語っている<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.266-270</ref>。
 
 
引っ越してもマルクス家の金銭的危機は続いた。最大の原因は1857年にはじまった恐慌だった。これによって最大の援助者であるエンゲルスの給料が下がったうえ<ref name="バーリン(1974)240">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.240</ref>、『ニューヨーク・トリビューン』に採用してもらえる原稿数も減り、収入が半減したのである<ref name="ウィーン(2002)271">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.271</ref>。結局金融業者と質屋を回る生活が続いた<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.232-233</ref>。マルクスは1857年1月のエンゲルス宛の手紙の中で「何の希望もなく借金だけが増えていく。なけなしの金を注ぎ込んだ家の中で二進も三進もいかなくなってしまった。ディーン通りにいた頃と同様、日々暮らしていくことさえ難しくなっている。どうしていいのか皆目分からず、5年前より絶望的な状況だ。私は既に自分が世の中の辛酸を舐めつくしたと思っていたが、そうではなかった。」と窮状を訴えている。エンゲルスは驚き、毎月5ポンドの仕送りと、必要なときにはいつでも余分に送ることを約束する。「(エンゲルスはそのとき猟馬を買ったばかりだったが、)きみときみの家族がロンドンで困っているというのに、馬なんか飼っている自分が腹立たしい」<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.269-270</ref>。
 
 
終わる気配のない困窮状態にマルクスとイェニーの夫婦喧嘩も増えたようである。この頃のエンゲルスへの手紙の中でマルクスは「妻は一晩中泣いているが、それが私には腹立たしくてならぬ。妻は確かに可哀そうだ。この上もない重荷が彼女に圧し掛かっているし、それに根本的に彼女が正しいのだから。だが君も知っての通り、私は気が短いし、おまけに多少無情なところもある」と告白している<ref name="シュワルツシルト(1950)269">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.269</ref>。
 
 
特に1861年に『ニューヨーク・トリビューン』から解雇されると困窮が深刻化した。マルクスが鉄道の出札係に応募したほどである(悪筆のため断られている。)<ref name="バーリン(1974)240">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.240</ref>。
 
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==== 『経済学批判』と『資本論』 ====
 
[[File:Zentralbibliothek Zürich Das Kapital Marx 1867.jpg|180px|thumb|『[[資本論]]』初版のタイトルページ]]
 
マルクスの最初の本格的な経済学書である『[[経済学批判]]』は、1850年9月頃から大英博物館で勉強しながら少しずつ執筆を進め、1857年から1858年にかけて一気に書きあげたものである。[[1859年]]1月にこの原稿を完成させたマルクスはラッサールの仲介でドゥンカー書店からこれを出版した<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.185-187</ref>。『経済学批判』は本格的な経済学研究書の最初の1巻として書かれた物であり、その本格的な研究書というのが[[1866年]]11月にハンブルクのオットー・マイスネル書店から出版した『[[資本論]]』第1巻だった<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.188-189</ref>。そのため経済学批判の主要なテーゼは全て資本論の第1巻に内包されている<ref name="バーリン(1974)228">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.228</ref>。よってこの二つはまとめて解説する。マルクスは『資本論』の中で次の主旨のことを主張した。
 
 
「人間が生きていくためには生産する必要があり、それは昔から行われてきた。ある場所で生産された物が別の場所で生産された物と交換される。それが成り立つのは生産物双方の[[使用価値]](用途)が異なり、またその[[価値]](生産にかかっている人間の労働量)が同じだからだ。だが資本主義社会では生産物は商品にされ、特に貨幣によって仲介されることが多い。たとえ商品化されようと貨幣によって仲介されようと使用価値の異なる生産物が交換されている以上、人間の労働の交換が行われているという本質は変わらないが、その意識は希薄になってしまう。商品と化した生産物は物として見る人がほとんどであり、商品の取引は物と物の取引と見られるからである。人間の創造物である神が人間の外に追いやられて人間を支配したように、人間の創造物である商品や貨幣が人間の外に追いやられて人間を支配したのである。商品や貨幣が神となれば、それを生産した者ではなく、所有する者が神の力で支配するようになる」<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.196-199</ref>
 
 
「ブルジョワ市民社会の発展は労働者を生み出した。この労働者というのは労働力(自分の頭脳や肉体)の他には売れる物を何も所有していない人々のことである。労働者は自らの労働力を商品化し、資本家にそれを売って生活している。資本家は利益を上げるために購入した労働力という商品を、価値以上に使用して[[剰余価値]]を生み出させ、それを[[搾取]]しようとする(賃金額に相当する生産物以上の物を生産することを労働者に要求し、それを無償で手に入れようとする)。資本家が剰余価値を全部消費するなら単純再生産が行われるし、剰余価値の一部が資本に転換されれば、拡大再生産が行われる。拡大再生産が進むと機械化・オートメーション化により労働者人口が過剰になってくる。産業予備軍(失業者)が増え、産業予備軍は現役労働者に取って代わるべく現役労働者より悪い条件でも働こうとしだすので、現役労働者をも危機に陥れる。こうして労働者階級は働けば働くほど窮乏が進んでいく。」<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.199-204</ref>
 
 
「商品は、[[不変資本]](機械や原料など生産手段に投下される資本)、[[可変資本]](労働力購入のために投下される資本)、剰余価値からなる。不変資本は新しい価値を生まないが、可変資本は自らの価値以上の剰余価値を生むことができる。この剰余価値が資本家の利潤を生みだす。ところが拡大再生産が進んで機械化・オートメーション化してくると不変資本がどんどん巨大化し、可変資本がどんどん下がる状態になるから、資本家にとっても剰余価値が減って[[利潤率]]が下がるという事態に直面する。投下資本を大きくすれば利潤の絶対量を上げ続けることはできる。だが利潤率の低下は生産力の更なる発展には妨げとなるため、資本主義生産様式の歴史的限界がここに生じる」<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.203-206</ref>。
 
 
そして「労働者の貧困と隷従と退廃が強まれば強まるほど彼らの反逆も増大する。ブルジョワはプロレタリア階級という自らの墓掘り人を作り続けている。収奪者が収奪される運命の時は近づいている。共産主義への移行は歴史的必然である」と結論する<ref name="小牧(1966)208">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.208</ref>。
 
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==== プロイセン帰国騒動 ====
 
1861年1月、祖国プロイセンで国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が[[崩御]]し、[[皇太弟]]ヴィルヘルムが[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]として新たな国王に即位した。即位にあたってヴィルヘルム1世は政治的亡命者に大赦を発した<ref name="ウィーン(2002)296">[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.296</ref>。これを受けてベルリン在住の友人[[フェルディナント・ラッサール|ラッサール]]はマルクスに手紙を送り、プロイセンに帰国して市民権を回復し、『新ライン新聞』を再建してはどうかと勧めた<ref name="ウィーン(2002)296"/><ref name="江上(1972)132">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.132</ref>。マルクスは「ドイツの革命の波は我々の船を持ち上げるほど高まっていない」と思っていたものの、プロイセン市民権は回復したいと思っていたし、『ニューヨーク・トリビューン』の仕事を失ったばかりだったのでラッサールとラッサールの友人ハッツフェルト伯爵夫人{{仮リンク|ゾフィー・フォン・ハッツフェルト|label=ゾフィー|de|Sophie von Hatzfeldt}}が『新ライン新聞』再建のため資金援助をしてくれるという話には魅力を感じた<ref name="ウィーン(2002)296">[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.296</ref>。
 
 
マルクスはラッサールと伯爵夫人の援助で4月1日にもプロイセンに帰国し、ベルリンのラッサール宅に滞在した。ところがラッサールと伯爵夫人は貴族の集まる社交界や国王臨席のオペラにマルクスを連れ回す貴族的歓待をしたため、贅沢や虚飾を嫌うマルクスは不快に感じた<ref name="ウィーン(2002)297">[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.297</ref>。マルクスがこういう生活に耐えていたのはプロイセン市民権を回復するためだったが、4月10日にはマルクスの市民権回復申請は警察長官から正式に却下され、マルクスは単なる外国人に過ぎないことが改めて宣告された<ref>[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.297-298</ref>。
 
 
マルクスが帰国の準備を始めると、伯爵夫人は「仕事の都合が付き次第、ベルリンを離れるというのが私が貴方に示した友情に対するお答えなのでしょうか」とマルクスをたしなめた<ref name="ウィーン(2002)298">[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.298</ref>。だがマルクスの方はラッサールやベルリンの人間の「虚栄的生活」にうんざりし、プロイセンに帰国する意思も『新ライン新聞』を再建する意思もすっかりなくしたようだった。とくにラッサールと数週間暮らしたことはマルクスとラッサールの関係に変化を与えた。マルクスはこれまでラッサールの政治的立場を支持してきたが、このプロイセン帰国でドイツの同志たちの「ラッサールは信用ならない」という評価を受け入れるようになった<ref name="ウィーン(2002)298">[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.298</ref>。
 
 
==== ラッサールとの亀裂 ====
 
[[File:Bundesarchiv Bild 183-J0827-500-002, Ferdinand Lassalle.jpg|180px|thumb|[[フェルディナント・ラッサール]]<br/><small>マルクスの友人の社会主義者だが、マルクスと違いヘーゲル左派の影響を残していたので国家に依存した。対資本家で封建主義者と共闘することも厭わなかった。</small>]]
 
1862年の夏、ラッサールが[[ロンドン万国博覧会 (1862年)|ロンドン万博]]で訪英するのをマルクスが歓迎することになった。先のベルリンで受けた饗応の返礼であったが、マルクス家には金銭的余裕はないから、このために色々と質に入れなければならなかった。しかしラッサールは、マルクス家の窮状に鈍感で浪費が激しかった。また彼は自慢話が多く、その中には誇大妄想的なものもあった。たとえばイタリアの[[マッツィーニ]]や[[ジュゼッペ・ガリバルディ|ガリバルディ]]もプロイセン政府と同じく自分の動かしている「歩」に過ぎないと言いだして、マルクスやイェニーに笑われた。しかしラッサールの方は、マルクスは抽象的になりすぎて政治の現実が分からなくなっているのだとなおも食い下がった。イェニーはラッサールの訪問を面白がっていたようだが、マルクスの方はうんざりし、エンゲルスへの手紙の中でラッサールについて「去年あって以来、あの男は完全に狂ってしまった」「あの裏声で絶えまないおしゃべり、わざとらしく芝居がかった所作、あの教条的な口調!」と評した。帰国直前になってようやくマルクス家の窮状に気付いたラッサールはエンゲルスを保証人にして金を貸すが、数か月後、返済期限をめぐってエンゲルスから「署名入りの借用書」を求めてマルクスともめる。マルクスは謝罪の手紙をだしたが、ラッサールは返事をださず、二人の関係は絶えた<ref name="ウィーン(2002)301-303">[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.301-303</ref>。
 
 
プロイセンでは、1861年12月とつづく1862年4月の総選挙で保守派が壊滅的打撃を被り、ブルジョワ自由主義政党[[ドイツ進歩党]]が大議席を獲得していた<ref name="エンゲルベルク(1996)482-483">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.482-483</ref>。軍制改革問題をめぐって国王ヴィルヘルム1世は自由主義勢力に追い詰められ、いよいよブルジョワ革命かという情勢になった。
 
 
ところがラッサールは進歩党の「[[夜警国家]]」観や「エセ立憲主義」にしがみ付く態度を嫌い、[[1863年]]に進歩党と決別して[[全ドイツ労働者同盟]]を結成しはじめた<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.167-189</ref>。そしてヴィルヘルム1世が対自由主義者の最終兵器として宰相に登用した[[ユンカー]]の保守主義者[[オットー・フォン・ビスマルク]]と親しくするようになりはじめた。これはマルクスが『共産党宣言』以来言い続けてきた、封建制打倒まではプロレタリアはブルジョワ革命を支援しなければならないという路線への重大な逸脱だった。
 
 
不信感を持ったマルクスはラッサールの労働運動監視のため[[ヴィルヘルム・リープクネヒト]]をベルリンに派遣した。リープクネヒトは全ドイツ労働者同盟に加入し、{{仮リンク|ユリウス・ファールタイヒ|de|Julius Vahlteich}}ら同盟内部の反ラッサール派と連絡を取り合い、彼らを「マルクス党」に取り込もうと図った<ref name="江上(1972)209">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.209</ref><ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.245-246</ref>。また、マルクスはラッサールとともにビスマルクから国営新聞の編集に誘われた時もその反ビスマルク的姿勢から拒否してる<ref>[[アウグスト・ベーベル]]『ベーベル自叙伝』</ref>。
 
 
ところがラッサールは1864年8月末に恋愛問題に絡む決闘で命を落とした<ref name="江上(1972)261">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.261</ref>。ラッサールの死を聞いたエンゲルスは冷淡な反応を示したが、マルクスの方はラッサール不信にも関わらず、「古い仲間が次々と死に、新しい仲間は増えない」と語って随分と意気消沈した。そして伯爵夫人やラッサールの後継者{{仮リンク|ヨハン・バプティスト・フォン・シュヴァイツァー|de|Johann Baptist von Schweitzer}}に彼の死を惜しむ弔辞を書いた<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.248-249</ref><ref name="メーリング(1974,2)194">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974)2巻]] p.194</ref>{{#tag:ref|これについてマルクスの伝記を書いた[[E・H・カー]]は「マルクスはラッサールに腹を立てていた。彼を軽蔑したり、時には憎悪したこともあった。彼に対して陰謀を企みもした。しかしラッサールには常に生々しい情熱、力強い人格、自己犠牲の献身、紛う方なき天才の閃きがあり、これがために否応なくマルクスから尊敬を、ほとんど愛情さえ勝ち得たのである。マルクスはエンゲルスの冷静な批判の影響を受けたが、それに完全に納得したことは一度もなかった。恐らくマルクスが[[ゲットー]]のユダヤ人を軽蔑していたにも関わらず、目に見えぬ、自分には気づかれぬ人種的親近性があったのであろう。二人の意見と性格がどれほど違っても、マルクスがラッサールに無関心であったことは一度もなかった。ラッサールの死はマルクスの生涯においてもヨーロッパ社会主義の歴史においても、一時期を画した」と評している<ref name="カー(1956)249">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.249</ref>。|group=注釈}}。
 
 
ラッサールの死で最も有名な社会主義者はマルクスになった<ref name="カー(1956)251">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.251</ref>。
 
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==== メイトランド・パークへの引っ越し ====
 
[[1863年]]11月に母ヘンリエッテが死去した。マルクスは母の死には冷淡で「私自身棺桶に足を入れている。この状況下では私には母以上の物が必要だろう」と述べた。遺産は前仮分が多額だったのでそれほど多くは出なかった<ref>[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.319-320</ref>。しかしともかくもその遺産を使って[[1864年]]3月にメイトランドパーク・モデナ・ヴィラズ1番地(1 Modena Villas, Maitland Park)の一戸建ての住居を借りた<ref name="ウィーン(2002)320">[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.320</ref>。家賃と税金はこれまでの住居の倍だったが、妻イェニーはこの家を「新しいし、日当たりもいいし、風通しも良い住み心地のいい家」と絶賛している<ref>[[#ガンブレル(1989)|ガンブレル(1989)]] p.136-137</ref>。
 
 
さらに[[1864年]][[5月9日]]には同志のヴィルヘルム・ヴォルフが死去した。ヴォルフは常にマルクスとエンゲルスに忠実に行動を共にしていた人物であり、彼は遺産のほとんどをマルクスに捧げる遺言書を書き残していた。マルクスは彼の葬儀で何度も泣き崩れた。ヴォルフは単なる外国語講師に過ぎなかったが、倹約家でかなりの財産を貯めていた。これによってマルクスは一気に820ポンドも得ることができた。この額はマルクスがこれまで執筆で得た金の総額よりも多かった<ref name="ウィーン(2002)321">[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.321</ref>。マルクスがこの数年後に出した資本論の第一巻をエンゲルスにではなくヴォルフに捧げているのはこれに感謝したからのようである<ref name="ウィーン(2002)322">[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.322</ref>。
 
 
急に金回りが良くなったマルクス一家は浪費生活を始めた。パーティーを開いたり、旅行に出かけたり、子供たちのペットを大量購入したり、アメリカやイギリスの株を購入したりするようになったのである<ref>[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.322-323</ref>。しかしこのような生活を続けたため、すぐにまた借金が膨らんでしまった。再びエンゲルスに援助を求めるようになり、結局1869年までにエンゲルスがその借金を肩代わりすることになった(この4年間にエンゲルスが出した金額は1862ポンドに及ぶという)。この借金返済以降、ようやくマルクス家の金銭事情は落ち着いた<ref name="ガンブレル(1989)139">[[#ガンブレル(1989)|ガンブレル(1989)]] p.139</ref>。
 
 
[[1875年]]春には近くのメイトランド・パーク・ロード41番地に最後の引っ越しをしている。以降マルクスは死去するまでここを自宅とすることになる<ref name="メーリング(1974,3)182">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.182</ref>。
 
 
==== 第一インターナショナルの結成 ====
 
[[File:FRE-AIT.svg|180px|thumb|[[第一インターナショナル]](国際労働者協会)のロゴ]]
 
1857年からの不況、さらにアメリカ南北戦争に伴う[[綿花]]危機でヨーロッパの綿花関連の企業が次々と倒産して失業者が増大したことで1860年代には労働運動が盛んになった<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.241-242</ref>。イギリスでは1860年に{{仮リンク|ロンドン労働評議会|en|London Trades Council}}がロンドンに創設された<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.242-243</ref>。フランスでは1860年代以降ナポレオン3世が「{{仮リンク|自由帝政|fr|Empire libéral}}」と呼ばれる自由主義化改革を行うようになり<ref name="鹿島(2004)178">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.178</ref>、皇帝を支持するサン・シモン主義者や労働者の団体『パレ・ロワイヤル・グループ(groupe du Palais-Royal)』の結成が許可された<ref>[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.369-370</ref>。プルードン派や[[ルイ・オーギュスト・ブランキ|ブランキ]]派の活動も盛んになった<ref name="石浜(1931)243">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.243</ref>。前述したようにドイツでも1863年にラッサールが全ドイツ労働者同盟を結成した<ref name="江上(1972)210">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.210</ref>。
 
 
こうした中、労働者の国際連帯の機運も高まった。[[1862年]][[8月5日]]にはロンドンの{{仮リンク|フリーメーソン会館 (ロンドン)|label=フリーメーソン会館|en|Freemasons' Hall, London}}でイギリス労働者代表団とフランス労働者代表団による初めての労働者国際集会が開催された<ref name="カー(1956)255">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.255</ref>。労働者の国際組織を作ろうという話になり、[[1864年]][[9月28日]]にロンドンの{{仮リンク|女王劇場 (ロング・エーカー)|label=セント・マーチン会館|en|Queen's Theatre, Long Acre}}でイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スイス、ポーランドの労働者代表が出席する集会が開催され、{{仮リンク|ロンドン労働評議会|en|London Trades Council}}の{{仮リンク|ジョージ・オッジャー|en|George Odger}}を議長とする[[第一インターナショナル]](国際労働者協会)の発足が決議されるに至った<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.259-261</ref>。
 
 
マルクスはこの集会に「ドイツの労働者代表」として参加するよう要請を受け、共産主義者同盟の頃から友人である{{仮リンク|ヨハン・ゲオルク・エカリウス|de|Johann Georg Eccarius}}とともに出席した<ref name="カー(1956)259">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.259</ref>。マルクスは総務評議会(執行部)と起草委員会(規約を作るための委員会)の委員に選出された<ref name="カー(1956)262">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.262</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.245-249</ref>。
 
 
マルクスは早速に起草委員として規約作りにとりかかった。委員はマルクスの他にもいたものの、彼らの多くは経験のない素人の労働者だったので(労働者の中ではインテリであったが)、長年の策略家マルクスにとっては簡単な議事妨害と批評だけで左右できる相手だった<ref name="カー(1956)263">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.263</ref>。マルクスもエンゲルスへの手紙の中で「難しいことではなかった。相手は『労働者』ばかりだったから」と語っている<ref name="カー(1956)263">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.263</ref>。イタリア人の委員が[[ジュゼッペ・マッツィーニ]]の主張を入れようとしたり、イギリス人の委員が[[ロバート・オウエン|オーエン主義]]を取り入れようとしたりもしたが、いずれもマルクスによって退けられている<ref name="石浜(1931)249">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.249</ref>。唯一マルクスが譲歩を迫られたのは、前文に「権利・義務」、協会の指導原理に「真理・道義・正義」といった表現が加えたことだったが、マルクスはエンゲルスの手紙の中でこれらの表現を「何ら害を及ぼせない位置に配置した」と語っている<ref name="カー(1956)263">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.263</ref>。
 
 
こうして作成された規約は全会一致で採択された<ref name="石浜(1931)249">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.249</ref>。後述するイギリス人の労働組合主義、フランス人のプルードン主義、ドイツ人のラッサール派などをまとめて取り込むことを視野に入れて、かつての『共産党宣言』よりは包括的な規約にしてある(結局ラッサール派は取り込めなかったが)<ref name="石浜(1931)256">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.256</ref>。それでも最後には「労働者は政治権力の獲得を第一の義務とし、もって労働者階級を解放し、階級支配を絶滅するという究極目標を自らの手で勝ち取らねばならない。そのために万国のプロレタリアよ、団結せよ!」という『共産党宣言』と同じ結び方をしている<ref name="小牧(1966)211">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.211</ref>。
 
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{{See also|第一インターナショナル}}
 
 
==== プルードン主義・労働組合主義・議会主義との闘争 ====
 
[[File:Marx1867.jpg|180px|thumb|1867年のマルクス]]
 
インターナショナルの日常的な指導はマルクスとインターナショナル内の他の勢力との権力闘争の上に決定されていた。他の勢力とは主に「プルードン主義」、[[労働組合主義]]、バクーニン派であった<ref name="カー(1956)266">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.266</ref>([[#バクーニンの分立主義とユダヤ陰謀論との闘争|バクーニン]]については後述)。
 
 
フランス人メンバーは[[フランス革命]]に強く影響されていたため、マルクスがいうところの「プルードン主義」「小ブルジョワ社会主義」に走りやすかった。そのためマルクスが主張する[[私有財産制]]の廃止に賛成せず、小財産制を擁護する者が多かった。また概してフランス人は直接行動的であり、ナポレオン3世暗殺計画を立案しだすこともあった。彼らは「ドイツ人」的な小難しい科学分析も、「イギリス人」的な議会主義も嫌う傾向があった。ただフランス人はインターナショナルの中でそれほど数は多くなかったから、マルクスにとって大きな脅威というわけでもなかった<ref name="カー(1956)266-267">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.266-267</ref>。
 
 
むしろマルクスにとって厄介だったのはイギリス人メンバーの方だった。インターナショナル創設の原動力はイギリス労働者団体であったし、インターナショナルの本部がロンドンにあるため彼らの影響力は大きかった<ref name="カー(1956)268">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.268</ref>。イギリス人メンバーは[[労働組合主義]]や[[議会主義]]に強く影響されているので、労働条件改善や選挙権拡大といった[[社会改良主義|社会改良]]だけで満足することが多く、また何かにつけて「ブルジョワ議会」を通じて行動する傾向があった<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.266/269</ref>。インターナショナルはイギリスの男子選挙権拡大を目指す[[改革連盟]]に書記を送っていたものの、その指導者である弁護士{{仮リンク|エドモンド・ビールズ|en|Edmond Beales}}がインターナショナルの総評議会に入ってくることをマルクスは歓迎しなかった。マルクスはイギリスの「ブルジョワ政治家」たちが参加してくるのを警戒していた。ビールズが次の総選挙に出馬を決意したことを理由に「インターナショナルがイギリスの[[政党政治]]に巻き込まれることは許されない」としてビールズ加入を阻止した<ref name="カー(1956)270">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.270</ref>。
 
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{{See also|改革連盟}}
 
 
==== リンカーンの奴隷解放政策を支持 ====
 
1861年に[[アメリカ南北戦争]]が勃発して以来、イギリス世論はアメリカ北部([[アメリカ合衆国]])を支持するかアメリカ南部([[アメリカ連合国]])を支持するかで二分されていた。イギリス貴族や資本家は「連合国の奴隷制に問題があるとしても合衆国が財産権を侵害しようとしているのは許しがたい」と主張する親連合国派が多かった。対してイギリス労働者・急進派は奴隷制廃止を掲げる合衆国を支持した。この問題をめぐる貴族・資本家VS労働者・急進派の対立はかなり激しいものとなっていった<ref name="カー(1956)269">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.269</ref>。
 
 
これは様々な勢力がいるインターナショナルが一致させることができる問題だった。ちょうど1864年11月には[[1864年アメリカ合衆国大統領選挙|合衆国大統領選挙]]があり、奴隷制廃止を掲げる[[エイブラハム・リンカーン]]が再選を果たした。マルクスはインターナショナルを代表してリンカーンに再選祝賀の手紙を書き、[[在イギリスアメリカ合衆国大使|アメリカ大使]][[チャールズ・フランシス・アダムズ (1世)|アダムズ]]に提出した<ref>[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.329-330</ref><ref name="カー(1956)269">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.269</ref>。マルクスはエンゲルスへの手紙の中で「奴隷制を資本主義に固有な本質的諸害悪と位置付けたことで、通俗的な民主的な言葉遣いとは明確に区別できる手紙になった」と語っている<ref name="カー(1956)269">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.269</ref>。
 
 
この手紙に対してリンカーンから返事があった。マルクスは手紙の中でリンカーンにインターナショナル加入を勧誘していたが、リンカーンは返事の中で「宣伝に引き入れられたくない」と断っている。だがマルクスは「アメリカの自由の戦士」から返事をもらったとしてインターナショナル宣伝にリンカーンを大いに利用した<ref name="シュワルツシルト(1950)330">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.330</ref>。実際そのことが『[[タイムズ]]』に報道されたおかげで、インターナショナルはわずかながら宣伝効果を得られたのだった<ref name="カー(1956)269">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.269</ref>。
 
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==== ラッサール派の親ビスマルク路線との闘争 ====
 
[[ファイル:Bismarck pickelhaube.jpg|180px|thumb|プロイセン王国宰相[[オットー・フォン・ビスマルク]]]]
 
ラッサールの死後、全ドイツ労働者同盟(ラッサール派)はラッサールから後継者に指名されたベルンハルト・ベッケルとハッツフェルト伯爵夫人を中心とするラッサールの路線に忠実な勢力と{{仮リンク|ヨハン・バプティスト・フォン・シュヴァイツァー|de|Johann Baptist von Schweitzer}}を中心とする創設者ラッサールに敬意を払いつつも独自の発展が認められるべきと主張する勢力に分裂した<ref name="カー(1956)287">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.287</ref>。
 
 
そうした情勢の中でシュヴァイツァーがマルクスに接近を図るようになり、同盟の新聞『ゾチアール・デモクラート(社会民主主義)』に寄稿するよう要請を受けた。マルクスとしてはこの新聞に不満がないわけでもなかったが、インターナショナルや(当時来年出ると思っていた)『資本論』の販売のためにベルリンに足場を持っておきたい時期だったので当初は協力した。しかしまもなく同紙のラッサール路線の影響の強さにマルクスは反発するようになった<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.288-289</ref>。結局1865年2月23日にエンゲルスとともに同紙との絶縁の宣言を出すに至った。その中で「我々は同紙が進歩党に対して行っているのと同様に内閣と封建的・貴族的政党に対しても大胆な方針を取るべきことを再三要求したが、『社会民主主義』紙が取った戦術(マルクスはこれを「王党的プロイセン政府社会主義」と呼んだ)は我々との連携を不可能にするものだった」と書いている<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.288-290</ref><ref>[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974)2巻]] p.215-216</ref>。
 
 
このマルクスとラッサール派の最終的決裂を受けて、1865年秋にプロイセンから国外追放されたリープクネヒトは、ラッサール派に対抗するため、[[アウグスト・ベーベル]]とともに「ザクセン人民党」を結成しオーストリアも加えた[[大ドイツ主義]]的統一・反プロイセン的な主張をするようになった<ref name="カー(1956)291">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.291</ref><ref name="メーリング(1974,3)79">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974) 3巻]] p.79</ref>。ラッサール派の[[小ドイツ主義]]統一(オーストリアをドイツから追放し、プロイセン中心のドイツ統一を行う)路線に抵抗するものだった<ref name="カー(1956)291">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.291</ref>。
 
 
もっともビスマルクにとっては労働運動勢力が何を主張し合おうが関係なかった。彼は小ドイツ主義統一を推し進め、[[1866年]]に[[普墺戦争]]でオーストリアを下し、ドイツ連邦を解体してオーストリアをドイツから追放するとともにプロイセンを盟主とする[[北ドイツ連邦]]を樹立することに成功した<ref name="シュワルツシルト(1950)340-341">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.340-341</ref>。マルクスはビスマルクが王朝的に小ドイツ主義的に統一を推し進めていくことに不満もあったものの、諸邦分立状態のドイツ連邦が続くよりはプロイセンを中心に強固に固まっている北ドイツ連邦の方がプロレタリア闘争に有利な展望が開けていると一定の評価をした<ref name="メーリング(1974,3)78"/>。リープクネヒトとベーベルも1867年に北ドイツ連邦の[[帝国議会 (ドイツ帝国)|帝国議会]]選挙に出馬して当選を果たした<ref name="カー(1956)292">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.292</ref>。
 
 
マルクスはリープクネヒトはあまり当てにしていなかったが、ベーベルの方は高く評価していた。ベーベルは[[1868年]]初頭にシュヴァイツァーの『社会民主主義』紙に対抗して『民主主義週報』紙を立ち上げ、これを起点にラッサール派に参加していない労働組合を次々と取り込むことに成功し、マルクス派をラッサール派に並ぶ勢力に育て上げることに成功したのである<ref name="カー(1956)292">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.292</ref>。そしてその成功を盾にベーベルとリープクネヒトは1869年8月初めに[[アイゼナハ]]において{{仮リンク|社会民主労働党 (ドイツ)|label=社会民主労働党|de|Sozialdemokratische Arbeiterpartei (Deutschland)}}(アイゼナハ派)を結成した<ref name="カー(1956)295">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.295</ref>。
 
 
マルクスもこの状況を満足げに眺め、フランス労働運動よりドイツ労働運動の方が先進的になってきたと評価するようになった。
 
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==== 普仏戦争をめぐって ====
 
[[File:1870 bei Le Bourget.jpg|180px|thumb|普仏戦争で進軍するプロイセン軍。]]
 
[[ファイル:Wernerprokla.jpg|250px|thumb|1871年1月18日にヴェルサイユ宮殿で行われたプロイセン王[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]のドイツ皇帝即位式。白い軍服が[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]。]]
 
[[1870年]]夏に勃発した[[普仏戦争]]はビスマルクの謀略で始まったものだが、ナポレオン3世を宣戦布告者に仕立てあげる工作が功を奏し、北ドイツ連邦も南ドイツ諸国もなく全ドイツ国民のナショナリズムが爆発した国民戦争となった。亡命者とはいえ、やはりドイツ人であるマルクスやエンゲルスもその熱狂からは逃れられなかった。
 
 
開戦に際してマルクスは「フランス人はぶん殴ってやる必要がある。もしもプロイセンが勝てば国家権力の集中化はドイツ労働者階級の集中化を助けるだろう。ドイツの優勢は西ヨーロッパの労働運動の重心をフランスからドイツへ移すことになるだろう。そして1866年以来の両国の運動を比較すれば、ドイツの労働者階級が理論においても組織においてもフランスのそれに勝っている事は容易にわかるのだ。世界的舞台において彼らがフランスの労働者階級より優位に立つことは、すなわち我々の理論がプルードンの理論より優位に立つことを意味している」と述べた<ref name="カー(1956)295">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.295</ref><ref>[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974) 3巻]] p.81-82</ref>。エンゲルスに至っては「今度の戦争は明らかにドイツの守護天使がナポレオン的フランスのペテンをこれ限りにしてやろうと決心して起こしたものだ」と嬉々として語っている<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.296-297</ref>。
 
 
もっともこれは私的な意見であり、フランス人も参加しているインターナショナルの場ではマルクスももっと慎重にふるまった。開戦から10日後の7月23日、マルクスはインターナショナルとしての公式声明を発表し、その中で「ルイ・ボナパルトの戦争策略は1851年のクーデタの修正版であり、第二帝政は始まった時と同じく[[パロディー]]で終わるだろう。しかしボナパルトが18年もの間、帝政復古という凶悪な茶番を演じられたのはヨーロッパの諸政府と支配階級のおかげだということを忘れてはならない」「ビスマルクは[[ケーニヒグレーツの戦い]]以降、ボナパルトと共謀し、奴隷化されたフランスに自由なドイツを対置しようとせず、ドイツの古い体制のあらゆる美点を注意深く保存しながら第二帝政の様々な特徴を取り入れた。だから今や[[ライン川]]の両岸にボナパルト体制が栄えている状態なのだ。こういう事態から戦争以外の何が起こりえただろうか」<ref name="カー(1956)297">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.297</ref><ref>[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974) 3巻]] p.79-80</ref>、「今度の戦争はドイツにとっては防衛戦争だが、その性格を失ってフランス人民に対する征服戦争に墜落することをドイツ労働者階級は許してはならない。もしそれを許したら、ドイツに何倍もの不幸が跳ね返ってくるであろう」とした<ref name="小牧(1966)214">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.214</ref><ref name="カー(1956)299">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.299</ref><ref name="メーリング(1974,3)80">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974) 3巻]] p.80</ref><ref name="ウィーン(2002)385">[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.385</ref>。
 
 
戦況はプロイセン軍の優位に進み、1870年9月初旬の[[セダンの戦い]]でナポレオン3世がプロイセン軍の捕虜となった。第二帝政の権威は地に堕ち、パリで革命が発生して[[フランス第三共和政|第三共和政]]が樹立されるに至った<ref name="ウィーン(2002)387">[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.387</ref>。共和政となったフランスとの戦いにはマルクスは消極的であり、「あのドイツの俗物(ビスマルク)が、神にへつらう[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム]]にへつらえばへつらうほど、彼はフランス人に対してますます弱い者いじめになる」「もしプロイセンが[[アルザス=ロレーヌ]]を併合するつもりなら、ヨーロッパ、特にドイツに最大の不幸が訪れるだろう」「戦争は不愉快な様相を呈しつつある。フランス人はまだ殴られ方が十分ではないのに、プロイセンの間抜けたちはすでに数多くの勝利を得てしまった」と私的にも不満を述べるようになった<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.298-299</ref>。
 
 
9月9日にはインターナショナルの第二声明を出させた。その中でドイツの戦争がフランス人民に対する征服戦争に転化しつつあることを指摘した。ドイツは領土的野心で行動すべきではなく、フランス人が共和政を勝ち取れるよう行動すべきとし、ビスマルクやドイツ愛国者たちが主張するアルザス=ロレーヌ併合に反対した<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.299-300</ref><ref name="小牧(1966)214">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.214</ref>。アルザス=ロレーヌ割譲要求はドイツの安全保障を理由にしていたが、これに対してマルクスは「もしも軍事的利害によって境界が定められることになれば、割譲要求はきりがなくなるであろう。どんな軍事境界線もどうしたって欠点のあるものであり、それはもっと外側の領土を併合することによって改善される余地があるからだ。境界線というものは公平に決められることはない。それは常に征服者が被征服者に押し付け、結果的にその中に新たな戦争の火種を抱え込むものだからだ」と反駁した<ref name="カー(1956)300">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.300</ref><ref>[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.388-389</ref>。
 
 
一方ビスマルクはパリ包囲戦中の1871年1月にもドイツ軍大本営が置かれているヴェルサイユ宮殿で南ドイツ諸国と交渉し、南ドイツ諸国が北ドイツ連邦に参加する形でのドイツ統一を取り決め、ヴィルヘルム1世をドイツ皇帝に戴冠させて[[ドイツ帝国]]を樹立した。その10日後にはフランス臨時政府にアルザス=ロレーヌの割譲を盛り込んだ休戦協定を結ばせることにも成功し、普仏戦争は終結した。これを聞いたマルクスは意気消沈したが、「戦争がどのように終わりを告げようとも、それはフランスのプロレタリアートに銃火器の使用方法を教えた。これは将来に対する最良の保障である」と予言した<ref name="カー(1956)301">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.301</ref>。
 
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==== パリ・コミューン支持をめぐって ====
 
[[File:Communeprisoners.jpg|250px|thumb|ティエール政府の軍隊により逮捕される[[パリ・コミューン]]のメンバー。]]
 
マルクスの予言はすぐにも実現した。休戦協定に反発したパリ市民が武装蜂起し、1871年3月18日には[[アドルフ・ティエール]]政府をパリから追い、プロレタリア独裁政府[[パリ・コミューン]]を樹立したのである。3月28日にはコミューン92名が普通選挙で選出されたが、そのうち17人はインターナショナルのフランス人メンバーだった<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.302-303</ref><ref name="ウィーン(2002)391">[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.391</ref>。マルクスはパリは無謀な蜂起するべきではないという立場をとっていたが、いざパリ・コミューン誕生の報に接すると、「なんという回復力、なんという歴史的前衛性、なんという犠牲の許容性を[[パリジャン]]は持っていることか!」「歴史上これに類する偉大な実例はかつて存在したことはない!」とクーゲルマンへの手紙で支持を表明した<ref name="ウィーン(2002)391">[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.391</ref><ref name="メーリング(1974,3)97">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.97</ref>。しかし結局このパリ・コミューンは2カ月強しか持たなかった。ヴェルサイユに移ったティエール政府による激しい攻撃を受けて5月終わり頃には滅亡したのである<ref name="カー(1956)303">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.303</ref><ref name="小牧(1966)214">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.214</ref><ref name="ウィーン(2002)391">[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.391</ref>。
 
 
マルクスは5月30日にもインターナショナルからパリ・コミューンに関する声明を出した。この声明を後に公刊したのが『フランスにおける内乱(Der Bürgerkrieg in Frankreich)』である。その中でマルクスは「パリ・コミューンこそが真のプロレタリア政府である。収奪者に対する創造階級の闘争の成果であり、ついに発見された政治形態である」と絶賛した<ref name="石浜(1931)269">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.269</ref><ref name="メーリング(1974,3)103">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.103</ref>。そしてティエール政府の高官を悪罵してその軍隊によるコミューン戦士2万人の殺害を「蛮行」と批判し、コミューンが報復として行った聖職者人質60数名の殺害を弁護した<ref name="カー(1956)304">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.304</ref>。またビスマルクがフランス兵捕虜を釈放してティエール政府の軍隊に参加させたことに対しては、自分が以前が主張してきたように、「各国の政府はプロレタリアに対する場合には一つ穴の狢」だと弾劾した。<ref name="カー(1956)304">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.304</ref>。
 
 
その後もマルクスは「コミューンの名誉の救い主」(これは後に批判者たちからの嘲笑的な渾名になったが)を自称して積極的なコミューン擁護活動を行った。イギリスへ亡命したコミューン残党の生活を支援するための委員会も設置させている<ref name="カー(1956)307">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.307</ref>。娘婿[[ポール・ラファルグ]]や[[ジュール・ゲード]]など、コミューン派だったために弾圧された人々はこうしたネットワークを拠点にマルクスと緊密に連携するようになり、のちの[[フランス社会党(SFIO)|フランス社会党]]の一翼を形成することになる。
 
 
しかしパリ・コミューンの反乱は全ヨーロッパの保守的なマスコミや世論を震え上がらせており、さまざまな媒体から、マルクスたちが黒幕とするインターナショナル陰謀論、マルクス陰謀論、[[ユダヤ陰謀論]]が出回るようになった{{#tag:ref|たとえば『{{仮リンク|フレイザーズ・マガジン|en|Fraser's Magazine}}』は「インターナショナルの影響について我々はあまり目にすることも耳にすることもないが、その隠された手は神秘的かつ恐ろしい力で革命装置を操っている」と書いた<ref name="ウィーン(2002)399">[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.399</ref>。『{{仮リンク|ペルメル・ガゼット|en|Pall Mall Gazette}}』紙は「マルクスは生まれながらのユダヤ人であり、政治的共産主義を生み出すことを目的とする途方もない陰謀の長である」と書いた<ref name="ウィーン(2002)400">[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.400</ref>。フランスのある新聞は「マルクスは陰謀家の最高権威であり、ロンドンの隠れ家からコミューンを指揮した。インターナショナルは700万人の会員を擁し、全員がマルクスの決起命令を待っている」などと報じている<ref name="ウィーン(2002)398">[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.398</ref>。|group=注釈}}。この悪評でインターナショナルは沈没寸前の状態に陥ってしまった<ref name="カー(1956)309">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.309</ref><ref name="ガンブレル(1989)150">[[#ガンブレル(1989)|ガンブレル(1989)]] p.150</ref>。
 
 
こうした中、オッジャーらイギリス人メンバーはインターナショナルとの関係をブルジョワ新聞からも自分たちの穏健な同志たちからも糾弾され、ついにオッジャーは1871年6月をもってインターナショナルから脱退した<ref name="カー(1956)310">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.310</ref>。これによりマルクスのイギリス人メンバーに対する求心力は大きく低下した。マルクスの独裁にうんざりしたイギリス人メンバーは自分たちの事柄を処理できるイギリス人専用の組織の設置を要求するようになった。自分の指導下から離脱しようという意図だと察知したマルクスは、当初これに反対したものの、もはや阻止できるだけの影響力はなく、最終的には彼らの主張を認めざるを得なかった。マルクスは少しでも自らの敗北を隠すべく、自分が提起者となって「イギリス連合評議会」をインナーナショナル内部に創設させた<ref name="カー(1956)309">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.309</ref>。
 
 
マルクスの権威が低下していく中、追い打ちをかけるように[[ミハイル・バクーニン|バクーニン]]との闘争が勃発し、いよいよインターナショナルは崩壊へと向かっていく<ref name="カー(1956)333">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.333</ref>。
 
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{{See also|パリ・コミューン}}
 
 
==== バクーニンの分立主義とユダヤ陰謀論との闘争 ====
 
[[File:Bakunin.png|180px|thumb|[[ミハイル・バクーニン]]<br/><small>ロシア貴族出の革命家でマルクスの旧友だったが、インターナショナルでは地方団体独立を主張して中央のマルクスと敵対。更に[[ユダヤ陰謀論]]からマルクスの正体を怪しんだ。</small>]]
 
[[ミハイル・バクーニン]]はロシア貴族の家に生まれがら共産主義的無政府主義の革命家となった異色の人物だった。1844年にマルクスと初めて知り合い、1848年革命で逮捕され、[[シベリア]][[流刑]]となるも脱走して、1864年に亡命先のロンドンでマルクスと再会し、インターナショナルに協力することを約束した。そして1867年以来[[スイス]]・[[ジュネーブ]]でインターナショナルと連携しながら労働運動を行っていたが、1869年夏にはインターナショナル内部で指導的地位に就くことを望んでインターナショナルに参加した人物だった<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.321-325</ref><ref>[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.380-383</ref>。
 
 
バクーニンは、これまでマルクスを称賛してきたものの、マルクスの権威主義的組織運営に対する反感を隠そうとはしなかった<ref name="バーリン(1974)243">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.243</ref>。彼はマルクスの中央権力を抑え込むべく、インターナショナルを中央集権組織ではなく、半独立的な地方団体の集合体にすべきと主張するようになった。この主張は、スイスや[[イタリア王国|イタリア]]、[[スペイン]]の支部を中心にマルクスの独裁的な組織運営に反発するメンバーの間で着実に支持を広げていった<ref>[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.242/274</ref>。しかしマルクスの考えるところではインターナショナルは単なる急進派の連絡会であってはならず、各地に本部を持ち統一された目的で行動する組織であるべきだった。だからバクーニンの動きは看過できないものだった<ref>[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.242-243</ref>。
 
 
しかもバクーニンは強烈な[[反ユダヤ主義|反ユダヤ主義者]]であり、インターナショナル加盟後も「ユダヤ人はあらゆる国で嫌悪されている。だからどの国の民衆革命でもユダヤ人大量虐殺を伴うのであり、これは歴史的必然だ」などと述べてユダヤ人虐殺を公然と容認・推奨していた<ref name="ウィーン(2002)408">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.408</ref>。だからマルクスとの対立が深まるにつれてバクーニンのマルクス批判の調子もだんだん反ユダヤ主義・[[ユダヤ陰謀論]]の色彩を帯びていった<ref name="バーリン(1974)244">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.244</ref>。たとえば「マルクスの共産主義は中央集権的権力を欲する。国家の中央集権には中央銀行が欠かせない。このような銀行が存在するところに人民の労働の上に相場を張っている寄生虫民族ユダヤ人は、その存在手段を見出すのである」<ref name="外川(1973)390">[[#外川(1973)|外川(1973)]] p.390</ref>「この世界の大部分は、片やマルクス、片や[[ロスチャイルド家]]の意のままになっている。私は知っている。反動主義者であるロスチャイルドが共産主義者であるマルクスの恩恵に大いに浴していることを。」「ユダヤの結束、歴史を通じて維持されてきたその強固な結束が、彼らを一つにしているのだ」「独裁者にしてメシアであるマルクスに献身的なロシアとドイツのユダヤ人たちが私に卑劣な陰謀を仕掛けてきている。私はその犠牲となるだろう。[[ラテン系]]の人たちだけがユダヤの世界制覇の陰謀を叩き潰すことができる」といった具合である<ref name="ウィーン(2002)408">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.408</ref>。
 
 
ヨーロッパ中でインターナショナルの批判が高まっている時であったからバクーニンのこうした粗暴な反ユダヤ主義はインターナショナル総評議会にとっても看過するわけにはいかないものだった。総評議会は1872年6月にマルクスの書いた『インターナショナルにおける偽装的分裂』を採択し、その中でバクーニンについて人種戦争を示唆し、労働運動を挫折させる無政府主義者の頭目であり、インターナショナル内部に秘密組織を作ったとして批判した<ref name="ウィーン(2002)409">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.409</ref>。同じころ、バクーニンの友人セルゲイ・ネチャーエフがバクーニンのために送った強請の手紙を入手したマルクスは、1872年9月に[[オランダ]]・[[ハーグ]]で開催された大会においてこれを暴露した。劇的なタイミングでの提出だったのでプルードン派もバクーニン追放に回り、大会は僅差ながらバクーニンをインターナショナルから追放する決議案を可決させた<ref name="ウィーン(2002)416">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.416</ref><ref>[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.273-274</ref>。
 
 
==== インターナショナルの終焉 ====
 
バクーニンを追放することには成功したマルクスだったが、[[ハーグ大会]]の段階でインターナショナルにおけるマルクスの権威は失われていた。イギリス人メンバーがマルクスの反対派に転じていたし、親しかったエカリウスとも喧嘩別れしてしまっていた<ref name="カー(1956)354-355">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.354-355</ref>。
 
 
ハーグ大会の際、エンゲルスが自分とマルクスの意志として総評議会をアメリカ・[[ニューヨーク]]に移すことを提起した。エンゲルスはその理由として「アメリカの労働者組織には熱意と能力がある」と説明したが、そうした説明に納得する者は少なかった。インターナショナル・アメリカ支部はあまりに小規模だった<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.412-413</ref><ref name="バーリン(1974)274">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.274</ref>。エンゲルスの提案は僅差で可決されたものの、「ニューヨークに移すぐらいなら月に移した方がまだ望みがある」などという意見まで出る始末だった<ref name="バーリン(1974)274">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.274</ref><ref name="ウィーン(2002)413">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.413</ref>。『{{仮リンク|ザ・スペクテイター|en|The Spectator}}』紙も「もはやコミューンの運気もその絶頂が過ぎたようだ。絶頂期自体さほど高い物でもなかったが。そこがロシアでもない限り、再び運動が盛り上がる事はないだろう」と嘲笑的に報じた<ref name="ウィーン(2002)413"/>。
 
 
なぜエンゲルスとマルクスがこのような提案をしたのか、という問題については議論がある。マルクスは大会前に引退をほのめかす個人的心境を[[クーゲルマン]]に打ち明けており、彼が『資本論』の執筆のために総評議員をやめたがっていたことは周知の事実だった。このことから、マルクスはインターナショナルを終わらせるためにこのような提案をしたのだという見解がでてくる<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.412-413</ref>。しかしこの説には疑問が残る。というのも、ハーグ大会でマルクスたちはむしろ総評議会の権限を強化しているし、大会後のマルクスとエンゲルスの往復書簡の内容はどのように読んでも彼らがインターナショナルを見限ったと解釈できるものではないからだ。したがってもう一つの説として、マルクスは本部をアメリカに移すことによってインターナショナルを危機から遠ざけ、ハーグ大会での「政治権力獲得のための政党の組織」(規約第7条付則)の決議に沿うようにアメリカで社会主義政党結成を支援していたインターナショナルの幹部[[:en:Friedrich Adolf Sorge|フリードリヒ・アドルフ・ゾルゲ]]らアメリカのマルクス主義者を通じてその勢力を保とうとしたのではないか、という解釈も生まれる<ref>[[渡辺孝次(1996)『時計職人とマルクス』同文館]]p.309-310</ref>。
 
 
しかし結局のところ、アメリカでのインターナショナルの歴史は長くなかった。最終的には1876年の[[フィラデルフィア]]大会において解散決議が出され、その短い歴史を終えることとなった<ref name="ウィーン(2002)416">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.416</ref>。
 
 
インターナショナルの再建にはその後13年待たなければならない(マルクスはすでに死去)。再建された[[第二インターナショナル]]は、[[イギリス労働党]]、[[フランス社会党 (SFIO)|フランス社会党]]、[[ドイツ社会民主党]]、[[ロシア社会民主党]]といった有力政党を抱えるヨーロッパの一大政治組織になった。第二インターナショナルはドイツの[[ベルンシュタイン]]からロシアの[[レーニン]]まで多様な政治的色彩をもつ党派の連合体だった。
 
 
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==== 『ゴータ綱領批判』 ====
 
[[File:Wilhelm Liebknecht 2.jpg|180px|thumb|[[ヴィルヘルム・リープクネヒト]]<br/><small>基本的にマルクスに忠実な部下だが、アイゼナハ派とラッサール派の合同はマルクスの意に沿わぬ形で行い、マルクスから『ゴータ綱領批判』で批判を受けた。</small>]]
 
ドイツではラッサール派の信望が高まっている時期だった。インターナショナルも衰退した今、アイゼナハ派のリープクネヒトとしては早急にラッサール派と和解し、ドイツ労働運動を一つに統合したがっていた。ドイツの内側にいるリープクネヒトから見ればマルクスやエンゲルスは外国にあってドイツの政治状況も知らずに妥協案を拒否する者たちであり、政治的戦術にかけては自分の方が把握できているという自負心があった<ref name="バーリン(1974)276">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.276</ref>。
 
 
すでにアイゼナハ派はオーストリアも加えたドイツ統一の計画を断念していたし、ラッサール派も1871年にシュヴァイツァーが党首を辞任して以来ビスマルク寄りの態度を弱めていたから両者が歩み寄るのはそれほど難しくもなかった。ただ対立期間が長かったので冷却期間がしばらく必要なだけだった。だからその冷却期間も過ぎた[[1875年]]2月には[[ゴータ]]で両党代表の会合が持たれ、5月にも同地で大会を開催のうえ両党を合同させることが決まったのである<ref name="カー(1956)394-395">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.394-395</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.275-276</ref>。
 
 
この合同に際して両党の統一綱領として作られたのが{{仮リンク|ゴータ綱領|de|Gothaer Programm}}だった。ラッサール派は数の上で優位であったにも関わらず、綱領作成に際して主導権を握ることはなかった。彼らはすでにラッサールの民族主義的な立場や労働組合への不信感を放棄していたためである。そのためほぼアイゼナハ派の綱領と同じ綱領となった<ref name="カー(1956)395">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.395</ref>。リープクネヒトはマルクスにもこの綱領を送って承認を得ようとしたが、マルクスはこれを激しく批判する返事をリープクネヒトに送り、エンゲルスにも同じような手紙を送らせた<ref name="バーリン(1974)276">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.276</ref>。
 
 
この時のマルクスの手紙を後に編纂して出版したものが『[[ゴータ綱領批判]]』である。マルクスから見れば、この綱領は最悪の敵である国家の正当性を受け入れて「労働に対する正当な報酬」や「相続法の廃止」といった小さな要求を平和的に宣伝していれば社会主義に到達できるという迷信に立脚したものであり、結局は国家を支え、資本主義社会を支える結果になるとした<ref name="バーリン(1974)277">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.277</ref>。
 
 
マルクスは、綱領に無意味な語句や曖昧な自由主義的語句が散りばめられていると批判した<ref name="バーリン(1974)277">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.277</ref>。とりわけ「公平」という不明瞭な表現に強く反発した<ref name="カー(1956)396">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.396</ref>。自分の著作の引用部分についてもあらさがしの調子で批判を行った<ref name="カー(1956)397">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.397</ref>。ラッサール派の影響を受けていると思われる部分はとりわけ強い調子で批判した。綱領の中にある「労働者階級はまず民族国家の中で、その解放のために働く」については「さぞかしビスマルクの口に合うことだろう」と批判し<ref name="カー(1956)397">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.397</ref>。「[[賃金の鉄則]]」はラッサールがリカードから盗んだものであり、そのような言葉を綱領に入れたのはラッサール派への追従の証であると批判した<ref name="カー(1956)397">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.397</ref>。
 
 
また綱領が「プロレタリアート独裁」にも「未来の共産主義社会の国家組織」にも触れず、「自由な国家」を目標と宣言していることもブルジョワ的理想と批判した<ref name="カー(1956)397">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.397</ref>。
 
 
リープクネヒトはマルクスからの手紙をいつも通り敬意をこめて取り扱ったものの、これをつかうことはなく、マルクスやエンゲルスも党の団結を優先してこの批判を公表しなかった<ref name="バーリン(1974)277">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.277</ref><ref name="カー(1956)398">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.398</ref>。ゴータ綱領は、わずかに「民族国家の中で」という表現について「国際的協力の理想へ向かう予備的段階」であることを確認する訂正がされただけだった<ref name="カー(1956)398">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.398</ref>。ゴータ綱領のもとに[[ドイツ社会主義労働者党]]が結成されるに至った。これについてマルクスは口惜しがったし<ref name="カー(1956)398">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.398</ref>、この政党を「プチブル集団」「民主主義集団」と批判し続けたが<ref>[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.411-412/414</ref>、マルクスの活動的な生涯はすでに終わっており、受けた打撃もそれほど大きいものではなかったという<ref name="カー(1956)398">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.398</ref>。
 
 
マルクスの死後、ドイツ社会主義労働者党ではマルクス派が優勢になり、1891年には[[ドイツ社会民主党]]と党名を変更する。そのとき、ドイツ労働運動界の長老だったエンゲルスは、ラッサール主義からの脱却の意図を込めて長らく非公開だったこの『ゴータ綱領批判』を出版した。
 
 
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=== 晩年の放浪生活 ===
 
[[File:Marx old.jpg|180px|thumb|1882年のカール・マルクス]]
 
マルクスは不健康生活のせいで以前から病気がちだったが、[[1873年]]には肝臓肥大という深刻な診断を受ける。以降[[鉱泉]]での[[湯治]]を目的にあちこちを巡ることになった。1876年までは[[オーストリア=ハンガリー帝国]]領[[カールスバート]]にしばしば通った<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.401-402</ref>。1877年にはドイツ・ライン地方の[[バート・ノイェンアール=アールヴァイラー]](Bad Neuenahr-Ahrweiler)にも行ったが、それを最後にドイツには行かなくなった。マルクスによれば「ビスマルクのせいでドイツに近づけなくなった」という<ref name="カー(1956)402">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.402</ref>。1878年からは[[イギリス王室属領|イギリス王室の私領]]である[[チャンネル諸島]]で湯治を行った<ref name="カー(1956)403">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.403</ref>。
 
 
1880年秋からイギリス人社会主義者[[ヘンリー・ハインドマン]]と親しくするようになった。ハインドマンは1881年にイギリスでマルクス主義を標榜する{{仮リンク|社会民主主義連盟|en|Social Democratic Federation}}を結成する。この組織には[[エリノア・マルクス]]や[[ウィリアム・モリス]]も参加していたが、ハインドマンが1881年秋に出版した『万人のためのイギリス』の中で、『資本論』の記述を無断で引用した(マルクスの名前は匂わす程度にしか触れていなかった)ことをきっかけに、日頃ハインドマンを快く思っていなかったマルクスは彼との関係を絶った。彼の社会民主主義連盟はその後もマルクス主義を称したが、エリノアやウィリアム・モリスもマルクスの死後脱退し、[[社会主義同盟]]を結成することになる。マルクス自身は死の直前でハインドマンと和解したが、エンゲルスはその後も社会民主主義連合を批判した<ref name="カー(1956)405">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.405</ref>。結局、イギリス労働運動は[[ケア・ハーディ]]や[[トム・マン]]らの[[独立労働党]](のちの[[イギリス労働党]])に収斂することになる。[[イギリス労働党]]は第二インターナショナルの議会派の一翼を形成する。
 
 
[[1881年]]夏には妻イェニーとともにパリで暮らす既婚の長女と次女のところへ訪れた。マルクスは1849年以来、フランスを訪れておらず、パリ・コミューンのこともあるので訪仏したら逮捕されるのではという不安も抱いていたが、長女の娘婿{{仮リンク|シャルル・ロンゲ|fr|Charles Longuet}}が[[ジョルジュ・クレマンソー]]からマルクスの身の安全の保証をもらってきたことで訪仏を決意したのだった<ref name="カー(1956)406">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.406</ref>。
 
 
パリからロンドンへ帰国した後の1881年12月2日に妻イェニーに先立たれた。マルクスの悲しみは深かった。「私は先般来の病気から回復したが、精神的には妻の死によって、肉体的には肋膜と気管支の興奮が増したままであるため、ますます弱ってしまった」<ref name="カー(1956)407">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.407</ref>と語った。エンゲルスはイェニーの死によってマルクスもまた死んでしまったとマルクスの娘[[エリノア・マルクス|エリノア]]に述べている<ref name="バーリン(1974)292">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.292</ref>。
 
 
独り身となったマルクスだったが、病気の治療のために[[1882年]]も活発に各地を放浪した。1月にはイギリス・{{仮リンク|ヴェントナー|en|Ventnor}}を訪れたかと思うと、翌2月にはフランスを経由して[[フランス植民地帝国|フランス植民地]][[フランス領アルジェリア|アルジェリア]]の[[アルジェ]]へ移った<ref name="石浜(1931)280">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.280</ref><ref name="カー(1956)407">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.407</ref><ref>[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974)3巻]] p.215-216</ref>。[[北アフリカ]]の灼熱に耐えかねたマルクスはここでトレードマークの髪と髭を切った<ref name="カー(1956)408">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.408</ref>。アルジェリアからの帰国途中の6月には[[モナコ公国]][[モンテカルロ]]に立ち寄り、さらに7月にはフランスに行って長女イェニーの娘婿ロンゲのところにも立ち寄ったが、この時長女イェニーは病んでいた。つづいて次女ラウラとともに[[スイス]]の[[ヴェヴェイ]]を訪問したが、その後イギリスへ帰国して再びヴェントナーに滞在した<ref name="石浜(1931)281">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.281</ref><ref name="カー(1956)408">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.408</ref><ref name="メーリング(1974,3)216">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.216</ref>。
 
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=== 死去 ===
 
1883年1月12日に長女イェニーが病死した。その翌日にロンドンに帰ったマルクスだったが、すぐにも娘の後を追うことになった。3月14日昼頃に椅子に座ったまま死去しているのが発見されたのである。64歳だった<ref name="カー(1956)410">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.410</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.281-282</ref><ref name="メーリング(1974,3)217">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.217</ref>。
 
 
その3日後に[[ハイゲイト墓地]]の無宗教墓区域にある妻の眠る質素な墓に葬られた。葬儀には家族のほか、エンゲルスやリープクネヒトなど友人たちが出席したが、大仰な儀式を避けたマルクスの意思もあり、出席者は全員合わせてもせいぜい20人程度の慎ましいものだった<ref name="小牧(1966)221">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.221</ref><ref>[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.219-221</ref>。
 
 
葬儀でエンゲルスは「この人物の死によって、欧米の戦闘的プロレタリアートが、また歴史科学が被った損失は計り知れない物がある」「[[チャールズ・ダーウィン|ダーウィン]]が有機界の発展法則を発見したようにマルクスは人間歴史の発展法則を発見した」「マルクスは何よりもまず革命家であった。資本主義社会とそれによって作り出された国家制度を転覆させることに何らかの協力をすること、近代プロレタリアート解放のために協力すること、これが生涯をかけた彼の本当の仕事であった」「彼は幾百万の革命的同志から尊敬され、愛され、悲しまれながら世を去った。同志は[[シベリア]]の鉱山から[[カリフォルニア]]の海岸まで全欧米に及んでいる。彼の名は、そして彼の仕事もまた数世紀を通じて生き続けるであろう」と弔辞を述べた<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.221-222</ref><ref>[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.219-221</ref>。
 
 
マルクスの死後、イギリスでは[[労働党]]が1922年に労働党政権を誕生させる。フランスでは1936年に社会党と共産党による[[人民戦線]]内閣が誕生。ドイツでは[[ドイツ社会民主党]]がワイマール共和国で長く政権を担当する。そしてロシアでは[[レーニン]]の指導する[[ロシア革命]]を経て、[[ソヴィエト連邦]]が誕生した。
 
 
マルクスの遺産は250ポンド程度であり、家具と書籍がその大半を占めた。それらやマルクスの膨大な遺稿はすべてエンゲルスに預けられた。エンゲルスはマルクスの遺稿を整理して、1885年7月に『資本論』第2巻、さらに1894年11月に第3巻を出版する<ref name="ウィーン(2002)461">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.461</ref><ref name="石浜(1931)284">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.284</ref>{{#tag:ref|『資本論』第4部こと『[[剰余価値学説史]]』は、エンゲルスの死後[[カール・カウツキー]]の編集で出版されたが、これが本文の改竄を含んでいるという理由で、ソ連マルクス=レーニン主義研究所により編集し直された。これは構成および各節の小見出しが上の研究所の手になるものである。その後、未編集の草稿の状態を再現した「1861-63年の経済学草稿」が日本語訳でも出版されている。『資本論』に関するもの以外にもマルクス、エンゲルスの死後に発見された著作やノートには同様の問題をはらんでいるものがあり、特に1932年のいわゆる旧MEGAに収録された『[[ドイツ・イデオロギー]]』は原稿の並べ替えが行われ、[[廣松渉]]から「偽書」と批判された(詳細は『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』(岩波文庫)の「解説」および『廣松渉著作集』、岩波書店、第八巻参照)。『経済学・哲学草稿』は旧MEGA版、ディーツ版、ティアー版などの各版で順序や収録された原稿が異なる<ref>『経済学・哲学草稿』、岩波文庫版、p.298</ref>。|group=注釈}}。
 
 
マルクスの墓は[[1954年]]に墓地内の目立つ場所に移され、[[1956年]]には頭像が取り付けられている。その墓には「[[万国の労働者よ、団結せよ!|万国の労働者よ、団結せよ]]」という彼の最も有名な言葉と『[[フォイエルバッハに関するテーゼ]]』から取った「哲学者たちはこれまで世界をさまざまに解釈してきただけである。問題は世界を変革することである」という言葉が刻まれている<ref name="ガンブレル(1989)170">[[#ガンブレル(1989)|ガンブレル(1989)]] p.170</ref>。
 
{{Gallery
 
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|File:Karl Marx First Grave.jpg|マルクスのもともとの墓(ロンドン、[[ハイゲイト墓地]])
 
|File:KarlMarx Tomb.JPG|1954年に移されたマルクスの新しい墓(ロンドン、ハイゲイト墓地)
 
|File:Karl Marx in North Korea.jpg|マルクスの肖像画([[北朝鮮]]・[[平壌]]・外国貿易省)
 
|File:Bundesarchiv Bild 183-19400-0029, Berlin, Marx-Engels-Platz, Demonstration.jpg|マルクス、エンゲルス、[[レーニン]]、[[スターリン]]の肖像画を掲げての行進(東ドイツ・ベルリンの{{仮リンク|シュロース広場|label=マルクス・エンゲルス広場|de|Schloßplatz (Berlin)}})
 
}}
 
{{-}}
 
 
== 人物 ==
 
[[File:Karl Marx 1867 Hannover.jpg|180px|thumb|1867年のカール・マルクス]]
 
=== 健康状態・体格 ===
 
小柄で肥満体形だった<ref name="石浜(1931)272">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.272</ref>。娘婿の[[ポール・ラファルグ]]は舅マルクスの体格について「背丈は普通以上で肩幅は広く、胸はよく張り、四肢はバランスが良い。もっとも[[脊柱]]はユダヤ人種によく見られるように、脚の割に長かった」と評している。要するに短足で座高が高いので座っていると大きく見えたようである<ref name="メーリング(1974,3)175">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.175</ref>。
 
 
マルクスは病弱者ではなかったが、生活が不規則で栄養不足なことが多かったので、ロンドンで暮らすようになった頃からしばしば病気になった<ref name="カー(1956)401">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.401</ref>。[[肝臓病]]や[[脳病]]、[[神経病]]など様々な病気に苦しんだ<ref name="石浜(1931)274">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.274</ref>。『資本論』第1巻を執筆していた頃にはお尻のオデキに苦しみ、しばしば座っていることができず、立ちながら執筆したという。この股間の痛みが著作の中の激しい憎しみの表現に影響を与えているとエンゲルスが手紙でからかうと、マルクスも「滅びる日までブルジョワジーどもが私のお尻のオデキのことを覚えていることを祈りたい。あのむかつく奴らめ!」と返信している<ref name="ウィーン(2002)354">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.354</ref>。
 
 
また新陳代謝機能に障害があり、食欲不振・[[便秘]]・[[痔]]・[[胃腸]][[カタル]]などに苦しんだ。この食欲不振を打ち払うために塩辛い物をよく口にした<ref name="小泉(1967)29">[[#小泉(1967)|小泉(1967)]] p.29</ref>。{{仮リンク|オットー・リュウレ|de|Otto Rühle (Politiker, 1874)}}は著書『マルクス、生涯と事業』の中でここにマルクスの極端な性格の原因を求め、「マルクスは食事に関する正しい知識を持っておらず、ある時は少なく、ある時は不規則に、ある時は不愉快に食べ、その代わりに食欲を塩っ辛い物で刺激した。」「悪しき飲食者は悪しき労作者であり、悪しき僚友でもある。彼は飲食について何も食わないか、胃袋を満杯にするかの二極だった。同じく執筆について執筆を全く面倒くさがるか、執筆のために倒れるかの二極だった。同じく他者について、人間を避けるか、誰もが利益せぬ全ての人と友になるかの二極だった。彼は常に極端に動く」と述べる<ref name="小泉(1967)29">[[#小泉(1967)|小泉(1967)]] p.29</ref>。
 
 
酒好きであり<ref name="石浜(1931)43">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.43</ref>、また[[ヘビースモーカー]]だった。マルクスがラファルグに語ったところによると「資本論は私がそれを書く時に吸った葉巻代にすらならなかった」という。家計の節約のために安物で質の悪い葉巻を吸い、体調を壊して医者に止められている<ref name="ウィーン(2002)353">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.353</ref><ref name="メーリング(1974,3)176">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.176</ref>。
 
 
=== 趣味・嗜好 ===
 
詩や[[劇文学]]を愛好した。[[古代ギリシャ]]の詩人では[[アイスキュロス]]と[[ホメーロス]]を愛した。とりわけアイスキュロスはお気に入りで、娘婿のラファルグによればマルクスは1年に1回はアイスキュロスをギリシャ語原文で読んだという<ref>[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.176-177</ref>。[[ドイツ文学]]では[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]と[[ハインリヒ・ハイネ|ハイネ]]を愛していたが、ドイツから亡命することになった後はドイツ文学への関心は薄れていったという。亡命後のドイツ文学への唯一の反応は[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]を「ドイツ神話を歪曲した」と批判したことだけだった<ref name="メーリング(1974,3)177">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.177</ref>。[[フランス文学]]では[[ドゥニ・ディドロ|ディドロ]]の『ラモーの甥』のような啓蒙文学と[[オノレ・ド・バルザック|バルザック]]の『[[人間喜劇]]』のような[[写実主義]]文学を愛した<ref>[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.177-178</ref>。特にバルザックの作品はブルジョワ社会を良く分析したものとして高く評価し、いつかバルザックの研究書を執筆したいという希望を周囲に漏らしていたが、それは実現せずに終わった<ref name="バーリン(1974)291">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.291</ref><ref name="メーリング(1974,3)178">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.178</ref>。逆に[[フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン|シャトーブリアン]]ら[[ロマン主義]]作家のことは嫌った<ref name="メーリング(1974,3)177">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.177</ref>。ロンドン亡命後には[[イギリス文学]]にも関心を持った。イギリス文学ではやはりなんといっても[[ウィリアム・シェイクスピア |シェイクスピア]]が別格だった。マルクス家は一家をあげてシェイクスピアを崇拝していたといっても過言ではない<ref name="メーリング(1974,3)178">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.178</ref>。[[ヘンリー・フィールディング|フィールディング]]の『[[トム・ジョーンズ]]』も愛した<ref name="メーリング(1974,3)178">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.178</ref>。またロマン主義を嫌うマルクスだが、[[ウォルター・スコット]]の作品は「ロマン類の傑作」と評していた<ref name="メーリング(1974,3)178"/>。[[ジョージ・ゴードン・バイロン|バイロン]]と[[パーシー・ビッシュ・シェリー|シェリー]]については、前者は長生きしていたら恐らく反動的ブルジョワになっていたので36歳で死んで良かったと評し、後者は真の革命家であるので29歳で死んだことが惜しまれると評している<ref name="メーリング(1974,3)178">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.178</ref>。[[イタリア文学]]では[[ダンテ・アリギエーリ|ダンテ]]を愛した<ref name="メーリング(1974,3)176">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.176</ref><ref name="バーリン(1974)290">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.290</ref>。
 
 
前述したように食欲不振に苦しみ、それを解消するために[[ハム]]、薫製の[[魚料理]]、[[キャビア]]、[[ピクルス]]など塩辛い物を好んで食べたという<ref name="メーリング(1974,3)176">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.176</ref>。
 
 
[[チェス]]が好きだったが、よくその相手をした[[ヴィルヘルム・リープクネヒト]]に勝てた例がなかった。マルクスは彼に負けるのが悔しくてたまらなかったという<ref name="カー(1956)126">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.126</ref>。気分転換は高等数学を解くことであった<ref>{{Cite book |和書 |last= |first= |author=木原武一 |authorlink=木原武一 |year=1994 |title=天才の勉強術 |publisher=[[新潮選書]] |page= |id= |isbn= |quote= }}</ref>。
 
 
「告白」というヴィクトリア朝時代に流行った遊びでマルクスの娘たちの20の質問に答えた際、好きな色として[[赤]]、好きな花として[[月桂樹]]、好きなヒーローとして[[スパルタクス]]、好きなヒロインとして[[ファウスト 第一部|グレートヒェン]]をあげた<ref name="ウィーン(2002)463">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.463</ref>。
 
 
他人に渾名を付けるのが好きだった。妻イェニーはメーメ、三人の娘たちはそれぞれキーキ、コーコ、トゥシーだった<ref name="バーリン(1974)290">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.290</ref><ref name="カー(1956)124">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.124</ref>。エンゲルスのことは「安楽椅子の自称軍人」(彼は軍事研究にはまっていた)という意味で「将軍」と呼んだ<ref name="ウィーン(2002)182">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.182</ref><ref name="メーリング(1974,2)75">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974) 2巻]] p.75</ref>。[[ヴィルヘルム・リープクネヒト]]は「幼稚」という意味で「ヴィルヘルムヒェン(ヴィルヘルムちゃん)」<ref name="カー(1956)291">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.291</ref>。ラッサールは色黒なユダヤ系なので「イジー男爵」「ユダヤの[[ニガー]]」だった<ref name="ウィーン(2002)299">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.299</ref>。マルクス自身もその色黒と意地悪そうな顔から娘たちやエンゲルスから「[[ムーア人]]」や「オールド・ニック(悪魔)」と渾名された<ref name="ウィーン(2002)51">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.51</ref><ref name="カー(1956)124">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.124</ref><ref name="バーリン(1974)290">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.290</ref>。マルクス当人は娘たちには自分のことを「ムーア人」ではなく、「オールド・ニック」あるいは「チャーリー」と呼んでほしがっていたようである<ref name="ウィーン(2002)183">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.183</ref>。
 
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=== 家計 ===
 
ロバート・L.ハイルブローナーは「もしマルクスが折り目正しく金勘定のできる人物だったなら、家族は体裁を保って生活できたかもしれない。けれどもマルクスは決して会計の帳尻を合わせるような人物ではなかった。たとえば、子供たちが音楽のレッスンを受ける一方で、家族は暖房無しに過ごすということになった。破産との格闘が常となり、金の心配はいつも目前の悩みの種だった」と語っている<ref name="ハイルブローナー(2001)">[[#ハイルブローナー(2001)|ハイルブローナー(2001)]]</ref>。
 
 
マルクス家の出納帳は収入に対してしばしば支出が上回っていたが、マルクス自身は贅沢にも虚飾にも関心がない人間だった<ref name="ウィーン(2002)81">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.81</ref>。マルクス家の主な出費は、マルクスの仕事の関係だったり、家族が中流階級の教育や付き合いをするためのものが大半だった。マルクスは極貧のなかでも三人の娘が中流階級として相応しい教養をつけるための出費を惜しまなかったが、そのためにいつも借金取りや大家に追われていた。
 
 
マルクスは定職に就くことがなかったため(前述のように一度鉄道の改札係に応募しているが、断られている)、マルクス家の収入はジャーナリストとしてのわずかな収入と、エンゲルスをはじめとする友人知人の資金援助、マルクス家やヴェストファーレン家の遺産相続などが主だった。友人たちからの資金援助はしばしば揉め事の種になった。ルーゲやラッサールが主張したところを信じれば、彼らとマルクスとの関係が断絶した理由は金銭問題だった。1850年にはラッサールとフライリヒラートに資金援助を請うた際、フライリヒラートがそのことを周囲に漏らしたことがあり、マルクスは苛立って「おおっぴらに乞食をするぐらいなら最悪の窮境に陥った方がましだ。だから私は彼に手紙を書いた。この一件で私は口では言い表せないほど腹を立てている」と書いている<ref name="メーリング(1974,1)319">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.319</ref>。エンゲルスの妻メアリーの訃報の返信として、マルクスが家計の窮状を訴えたことで彼らの友情に危機が訪れたこともある<ref name="ウィーン(2002)315">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.315-319</ref>。しかしエンゲルスは生涯にわたって常にマルクスを物心両面で支え続けた。『資本論』が完成した時、マルクスはエンゲルスに対して「きみがいなければ、私はこれを完成させることはできなかっただろう」と感謝した<ref name="ウィーン(2002)357">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.357</ref>。
 
 
=== 人間関係 ===
 
マルクスは[[亡命者]]だったので、ロンドン、ブリュッセル、パリなどの亡命者コミュニティの中で生活した。
 
 
マルクスを支えたのは、イェニー、イェニーヒェン、ラウラ、エリノアなどの家族の他、エンゲルスのような親友、リープクネヒトやベーベルのような部下、ヴォルフやエカリウスのような同志たちだった。マルクスはロンドンで学者コミュニティと接触があったようで、生物学者や化学者といった人たちと交流があった。ドイツの医師である[[クーゲルマン]]とは頻繁に手紙のやり取りをしている。マルクスは[[チャールズ・ダーウィン|ダーウィン]]の仮説を称賛していて、自分の著した『資本論』をダーウィンに送っている。ダーウィンは謝辞の返信をだしているが、『資本論』自体はあまりに専門的すぎて最後まで読んでいなかったらしい。
 
 
マルクスは組織運営の問題や思想上の対立でしばしば論敵をつくった。マルクスの批判を免れた人には、[[ブランキ]]、[[ハインリヒ・ハイネ|ハイネ]]、[[オコーナー]]、[[ジュゼッペ・ガリバルディ|ガリバルディ]]などがいるが、[[ピエール・ジョゼフ・プルードン|プルードン]]、[[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ|フォイエルバッハ]]、[[ブルーノ・バウアー|バウアー]]、[[オイゲン・デューリング|デューリング]]、[[ジュゼッペ・マッツィーニ|マッツィーニ]]、[[ミハイル・バクーニン|バクーニン]]などは厳しい批判にさらされた。
 
 
批判者からは以下のような意見が見られる。
 
 
1848年8月、当時ボン大学の学生だった[[カール・シュルツ]]はケルンで開催された民主主義派の集会に出席したが、その時演説台に立ったマルクスの印象を次のように語っている。「彼ほど挑発的で我慢のならない態度の人間を私は見たことがない。自分の意見と相いれない意見には謙虚な思いやりの欠片も示さない。彼と意見の異なる者はみな徹底的に侮蔑される。(略)自分と意見の異なる者は全て『ブルジョワ』と看做され、嫌悪すべき精神的・道徳的退廃のサンプルとされ、糾弾された。」<ref name="ウィーン(2002)163">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.163</ref>。
 
 
[[アーノルド・ルーゲ]]は「私はこの争いを体裁の悪い物にしたくないと思って極力努力したが、マルクスは手当たり次第、誰に向かっても私の悪口を言う。マルクスは共産主義者を自称するが、実際は狂信的なエゴイストである。彼は私を本屋だとかブルジョワだとか言って迫害してくる。我々は最悪の敵同士になろうとしている。私の側から見れば、その原因は彼の憎悪と狂気としか考えられない」と語る<ref name="シュワルツシルト(1950)89">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.89</ref>。
 
 
[[ミハイル・バクーニン]]は「彼は臆病なほど神経質で、たいそう意地が悪く、自惚れ屋で喧嘩好きときており、ユダヤの父祖の神[[エホバ]]の如く、非寛容で独裁的である。しかもその神に似て病的に執念深い。彼は嫉妬や憎しみを抱いた者に対してはどんな嘘や中傷も平気で用いる。自分の地位や影響力、権力を増大させるために役立つと思った時は、最も下劣な陰謀を巡らせることも厭わない。」と語る<ref name="バーリン(1974)118">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.118</ref>。
 
 
マルクスの伝記を書いた[[E・H・カー]]は「彼(マルクス)は同等の地位の人々とうまくやっていけた試しがなかった。政治的な問題が討議される場合、彼の信条の狂信的性格のために、他の人々を同等の地位にある者として扱うことができなかった。彼の戦術はいつも相手を抑えつけることであった。というのも彼は他人を理解しなかったからである。彼と同じような地位と教育をもっていて政治に没頭していた人々の中では、エンゲルスのように彼の優位を認めて彼の権威に叩頭するような、ごく少数の者だけが彼の友人としてやっていくことができた」と評している<ref name="カー(1956)145">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.145</ref>。
 
 
マルクス主義者の[[フランツ・メーリング]]さえも「(マルクスが他人を批判する時の論法は)相手の言葉を文字通りとったり、歪曲したりすることで、考え得る限りのバカバカしい意味を与えて、誇張した無軌道な表現にふけるもの」と批判している<ref name="シュワルツシルト(1950)109">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.109</ref>。メーリングはラッサールはじめマルクスが批判した他の社会主義者を弁護することが多いが、彼はその理由として「マルクスは超人ではなかったし、彼自身人間以上のものであることを欲しなかった。考えもなく口真似することこそは、まさに彼が一番閉口したことであった。彼が他人に加えた不正を正すことは、彼に加えられた不正を正すことに劣らず、彼の精神を呈して彼を尊敬することなのだ。」と述べている<ref name="メーリング(1974,2)184">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974)2巻]] p.184</ref>。
 
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== 思想 ==
 
=== エンゲルスとの関係 ===
 
 
[[マルクス]]と[[フリードリヒ・エンゲルス|エンゲルス]]は生涯盟友として活動していたため、その思想はつねに一致していたとしばしば捉えられる。確かに彼らは頻繁に往復書簡で思想交流をしていたために大きな意見の違いはなかったが、マルクスとエンゲルスの思想の差異を指摘する研究者もいる。
 
 
たとえばエンゲルスは『[[反デューリング論]]』でマルクス主義が一貫した体系という性格をもっていることを指摘したが、マルクス自身は自分の論稿を常に一貫した体系として提示したわけではなかった。またエンゲルスは『[[自然弁証法]]』で[[弁証法哲学]]が[[自然科学]]の領域にも応用できることを示したが、これについてマルクスは「ぼくは時間をとって、その問題についてじっくり考え『権威たち』の意見を聞くまでは、あえて判断をくださないようにしよう」と返信している<ref>[[テレル・カーヴァー]](1995)『マルクスとエンゲルスの知的関係』世界書院 p.153</ref>。
 
 
とはいえマルクスとエンゲルスは、多くの領域の著作を執筆段階で密接に意見を交換し合って執筆しており、基本的な認識及び価値観を共有していることは明らかである。エンゲルスはマルクス死後、マルクスの著作の正当性を管理する立場に立った。
 
 
=== 「決定論」 ===
 
マルクスの思想体系は「[[経済決定論]]」だという批判がしばしばある。その含意は、社会や政治や心理の発展過程はすべて経済に規定されているとマルクスは考えていた、というものである<ref>[[オフェル・フェルドマン(2006)『政治心理学』ミネルヴァ書房]] p.35</ref>。また、[[カール・ポパー]]や[[アイザイア・バーリン]]はマルクスが[[ヘーゲル主義]]的な「歴史決定論」に陥っていると批判している<ref>[[E.H.カー]](1962)『歴史とは何か』[[岩波新書]] p.134-136</ref>。
 
 
マルクスがヘーゲルの言う「[[理性の狡知]]」の論理をしばしば用いたのは事実だが、マルクス自身は人間の主体性や歴史の偶然性を度々認めている。たとえば[[イーグルトン]]はマルクスが初期の著作で人間の[[類的存在]]と歴史に対する能動的な役割を認めていたことを指摘する<ref>イーグルトン(2011)『なぜマルクスは正しかったのか』河出書房新社 p.84</ref>。またマルクスは『[[フォイエルバッハ・テーゼ]]』で「環境の変革と教育に関する唯物論の学説は、環境が人間によって変革され、教育者自身が教育されなければならないことを忘れている」と書いているし<ref>[[マルクス(2002)『ドイツ・イデオロギー』岩波文庫]] p.230</ref>、『[[ルイ・ボナパルトのブリュメール18日]]』では、マルクス自身がプルードンが歴史的決定論に陥っていると批判している<ref>[[マルクス(2008)『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』平凡社]] p.198</ref>。
 
 
E.H.カーは、[[カール・ポパー]]や[[アイザイア・バーリン]]がマルクス主義を歴史決定論であると批判したことに触れて、マルクスの立場は決定論ではなく、因果関係の重視であると反論している<ref>[[E.H.カー]](1962)『歴史とは何か』[[岩波新書]] p.149</ref>。カーはマルクスの「もし世界史にチャンスの余地がなかったとしたら、世界史は非常に神秘的な性格のものになるであろう。もちろん、このチャンスそのものは発展の一般的傾向の一部になり、他の形態のチャンスによって埋め合わされる。しかし、発展の遅速は、初め運動の先頭に立つ人々の性格の『偶然的』性格を含む、こうした『偶然事』に依存する」という発言を引用して、マルクスが単純な歴史決定論ではないより精緻な態度をとっていることを指摘している。
 
 
=== ユダヤ人観 ===
 
マルクスは自分が[[ユダヤ人]]であることを否定したことも、逆にそれを積極的にアピールしたこともなかった。これはマルクスの娘[[エリノア・マルクス]]が自分がユダヤ人であることを誇りを持ってアピールしていたのと対照的であった<ref name="ウィーン(2002)73">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.73</ref>。マルクスは[[自由主義]]的な[[ライン地方]]に生まれ育ち、6歳のときに親の方針で[[キリスト教]]に改宗していたので[[ハインリヒ・ハイネ|ハイネ]]や[[フェルディナント・ラッサール|ラッサール]]のようにユダヤ人の出自で苦しむということは少なかった<ref name="江上(1972)13">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.13</ref>。
 
 
しばしば見られる批判として、マルクスはユダヤ人を蔑視していた、というものがある。マルクスがラッサールのことを「ユダヤの[[ニガー]]」と渾名したことや{{#tag:ref|マルクス自身も色黒のユダヤ系であったが、マルクスはラッサールが色黒のユダヤ系なのを捉えて彼が[[黒人]]系ユダヤ人であると揶揄していた。エンゲルスへの手紙の中で「彼(ラッサール)の頭の髪の伸び方([[縮れ毛]])がよく示している通り、彼は[[モーセ]]がユダヤ人を連れて[[エジプト]]から脱出した際に同行した[[ニグロ]]の子孫である。彼の母親か父親がニガーと交わったのでない限り。片やドイツとユダヤの混ぜ合わせ、かたやニグロの血、この二つがこの奇妙な生き物をこの世に誕生させたのだ。この男のしつこさは紛れもなくニガーのそれである」と書いている<ref name="ウィーン(2002)299">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.299</ref><ref name="カー(1956)243">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.243</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)311">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.311</ref>。|group=注釈}}、マルクスが若い頃に書いた『[[ユダヤ人問題によせて]]』でユダヤ人のことを悪徳な貸金業者として描写したことがその根拠となっている。
 
 
『[[ユダヤ人問題によせて]]』でマルクスは、[[ブルーノ・バウアー]]がユダヤ人を解放するには彼らをユダヤ教からキリスト教に改宗させればよいと主張したのに反論して、国家がユダヤ人を排除していることが職業へと向かわせていると指摘し、「実際的ユダヤ教」と「賤業」とを比喩的に同一視しながら、「クリスチャンがユダヤ人となり」、遂には人類全体を「実際的」ユダヤ教から解放する必要があると言っている<ref name=yosete>マルクス(1844)『ユダヤ人問題によせて』</ref>。また、「他方、ユダヤ人が自分のこの実際的な本質をつまらぬものとみとめてその廃棄にたずさわるならば、彼らは自分のこれまでの発展から抜けでて、人間的解放そのものにたずさわり、そして人間の自己疎外の最高の実際的表現に背をむけることになる。」ともいい、「ユダヤ人がユダヤ人的なやり方で自己を解放したのは、ただたんに彼らが金力をわがものとしたことによってではなく、貨幣が、彼らの手を通じて、また彼らの手をへないでも、世界権力となり、実際的なユダヤ精神がキリスト教諸国民の実際的精神となったことによってなのである。ユダヤ人は、キリスト教徒がユダヤ人になっただけ、それだけ自分を解放したのである。(中略)ユダヤ人の社会的解放はユダヤ教からの社会の解放である。」とも言っている<ref name=yosete/>。
 
 
=== 労働者観 ===
 
マルクスやエンゲルスは[[労働者]]を軽蔑していたという主張がある。
 
 
{{仮リンク|レオポルト・シュワルツシルト|de|Leopold Schwarzschild}}は「マルクスとエンゲルスは公にはプロレタリアートを人類の救済者と呼び、その独特の優れた性格を賛美してやまなかった。だが私的にはプロレタリアートについての彼らの言葉はますます尊大に侮蔑的になってきた。エンゲルスはマルクスへの報告の中で、まるでプロイセン軍の軍曹が新兵に向かって用いるような言葉でプロレタリアを語っている。『あいつら』、『あの駄馬たち』、『何でも信じる愚かな労働者』」と主張する<ref name="シュワルツシルト(1950)155">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.155</ref>。マルクスに批判的な{{仮リンク|シュロモ・アヴィネリ|en|Shlomo Avineri}}も「プロレタリアートが自らのゴールを設定し、他からの援助なしにそれを実現する能力に関してマルクスが懐疑的であったことは様々な資料からうかがい知れる。このことは革命は決して大衆から起こることはなく、エリート集団から発するものだという彼の見解とも一致する」と主張する<ref name="ウィーン(2002)333">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.333</ref>。{{仮リンク|ロバート・ペイン|en|Robert Payne<!-- 曖昧さ回避ページ -->|FIXME=1}}も「マルクスは人間を侮蔑していた。とりわけ彼がプロレタリアートと呼んだ人種を」と主張する<ref name="ウィーン(2002)333">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.333</ref>。
 
 
一方{{仮リンク|フランシス・ウィーン|en|Francis Wheen}}は、アヴィネリの批判について「様々な資料」というが何のことなのか具体的に指摘していないと批判し、そこには「雑魚に対するマルクスの侮辱は世界的に知れているので実証するまでもない」という態度があると批判する<ref name="ウィーン(2002)333-334">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.333-334</ref>。マルクスが労働者を侮辱した例としてアヴィネリが上げる[[ヴィルヘルム・ヴァイトリング]]については「マルクスはヴァイトリングに対して実に寛大だった。その信念のために罰せられた哀れな仕立て職人を邪険に扱うべきではないと言ったのは他でもないマルクスであり、二人の関係にひびが入ったのはマルクスが最下層の人間を侮蔑していたからではなく、ヴァイトリングの耐えがたいほど自己中心的な政治的および宗教的な誤謬のせいであった。むしろヴァイトリングが労働者階級ではなく中産階級者だったらもっと激しい攻撃を加えていただろう」と述べている<ref name="ウィーン(2002)333-334">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.333-334</ref>。
 
 
またウィーンは、同じくアヴィネリがマルクスから侮辱を受けた労働者の同志として例示する{{仮リンク|ヨハン・ゲオルク・エカリウス|de|Johann Georg Eccarius}}についても、マルクスは彼自身悲惨な生活を送っていた1850年代を通じてエカリウスの生活に気をかけていたことを指摘する。ワシントンにいる同志のジャーナリストに依頼してエカリウスの論文が新聞に掲載されるよう取り計らったり、またエカリウスが病気になった時には、エンゲルスに依頼してワインを送ったり、エカリウスの子供たちが死んだ時にも葬儀費用を稼ぐための募金活動を行ったことを指摘した。そして「にもかかわらず、マルクスはただの仕立職人には狭量な軽侮の念を抱いていたなどという旧態依然たる戯言を未だに繰り返す研究者がなんと多いことか」と嘆いている<ref name="ウィーン(2002)334-335">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.334-335</ref>。
 
 
=== 戦争観 ===
 
マルクスは戦争を資本主義社会や階級社会に特有の付随現象と見ていた<ref name="メーリング(1974,3)77">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.77</ref>。だが労働者階級が戦争に対して取るべき態度については、戦争の前提と帰結から個別に決めていく必要があると考えていた<ref name="メーリング(1974,3)77">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.77</ref>。とりわけその戦争がプロレタリア革命にとって何を意味しているかを最も重視した<ref name="石浜(1931)219">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.219</ref><ref>[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.77-78</ref>。
 
 
1848年革命中の『新ライン新聞』時代には、[[諸国民の春]]に対して[[ヨーロッパの憲兵]]として振舞ったロシアと開戦すべきことを盛んに煽ったし<ref name="メーリング(1974,1)275-276"/>、クリミア戦争も反ロシアの立場から歓迎した<ref name="メーリング(1974,2)80-81"/>。イタリア統一戦争では反ナポレオン3世の立場からオーストリアの戦争遂行を支持し、参戦せずに中立の立場をとろうとするプロイセンを批判した<ref name="メーリング(1974,2)126-128"/>。[[普墺戦争]]も連邦分立状態が続くよりはプロイセンのもとに強固にまとまる方がプロレタリア闘争に有利と考えて一定の評価をした<ref name="メーリング(1974,3)78">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.78</ref>。
 
 
しかし弟子たちの模範になったのは、[[普仏戦争]]に対する次のようなマルクスの立場だった。普仏戦争勃発時、マルクスは戦争を仕掛けたナポレオン3世に対してドイツの防衛戦争を支持したが、戦争がフランス人民に対する侵略戦争と化せば、その勝敗にかかわらず両国に大きな不幸をもたらすだろうと警告した。「差し迫った忌まわしい戦争がどのような展開を見せようと、すべての国の労働者階級の団結が最後には戦争の息の根を止めるだろう。公のフランスと公のドイツが兄弟殺しにも似た諍いをしているあいだにも、フランスとドイツの労働者たちは互いに平和と友好のメッセージを交換し合っているという事実。歴史上、類を見ないこの偉大な事実が明るい未来を見晴らす窓を開けてくれる」<ref name="ウィーン(2002)385-386">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.385-386</ref>。<br>
 
 
マルクスのこの立場は、職業軍人による十九世紀的な戦争から、二十世紀的な国民総動員へと戦争の性格が変わっていくにつれ、彼の弟子たちにますます重視されるようになった。
 
 
=== 各国観 ===
 
プロイセン政府に追われてからのマルクスは、基本的に[[コスモポリタン]]で、『[[共産党宣言]]』には「プロレタリアは祖国を持たない」という有名な記述がある。そのため、労働貴族が形成されつつあったイギリスの労働者階級や、ナポレオン三世の戴冠を許したフランスの労働者階級のナショナリズムにはしばしば厳しい批判を行っている<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.244-245</ref>。他方、イギリスの[[チャーチスト運動]]やフランスの[[パリコミューン]]を遂行した労働者の階級意識は評価するなど、マルクスの各国観は民族的偏見というよりはむしろ階級意識が評価の基準だった<ref name="ウィーン(2002)391"/>。ヨーロッパ列強に支配されていたポーランドやアイルランドの民族主義については、これを支援している。またマルクス自身はドイツ人だったが、自分をほとんどドイツ人とは認識していなかったようである。プロイセン政府は専制体制と評価し、これを批判していた。
 
 
十九世紀、[[ヨーロッパの憲兵]]として反革命の砦だったロシアには非常に当初厳しい評価を下している。E.H.カーはこれをスラブ人に対するドイツ的偏見と解釈していた<ref name="カー(1956)183">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.183</ref>。マルクス自身はロシアの将来について、「もし農民が決起するなら、ロシアの一七九三年は遠くないであろう。この半アジア的な農奴のテロル支配は史上比類ないものとなろう。しかしそれはピョートル大帝のにせの改革につぐ、ロシア史上第二の転換点となり、次はほんとうの普遍的な文明を打ち立てるだろう」と予測している(『マルクスエンゲルス全集』12巻648頁)。1861年の[[農奴解放令]]によって近代化の道を歩み始めて以降のロシアに対しては積極的に評価し、[[フロレンスキー]]の『ロシアにおける労働者階級の状態』を読み、「きわめてすさまじい社会革命が-もちろんモスクワの現在の発展段階に対応した劣ったかたちにおいてではあれ-ロシアでは避けがたく、まぢかに迫っていることを、痛切に確信するだろう。これはよい知らせだ。ロシアとイギリスは現在のヨーロッパの体制の二大支柱である。それ以外は二次的な意義しかもたない。美しい国フランスや学問の国ドイツでさえも例外ではない」と書いている(『マルクス・コレクション7』p.340-342)。更に死の2、3年前には「ロシアの村落的共同体はもし適当に指導されるなら、未来の社会主義的秩序の萌芽を含んでいるかもしれぬ」とロシアの革命家[[ヴェラ・ザスーリッチ]]に通信している<ref name="カー(1956)316">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.316</ref>。
 
 
=== 植民地観 ===
 
マルクスは、『[[共産党宣言]]』では、ポーランド独立運動において「農業革命こそ国民解放の条件と考える政党」を支持し<ref>マルクス・エンゲルス、大内兵衛・向坂逸郎訳(1848:1946)『共産党宣言』岩波書店p.86</ref>、1867年の[[フェニアン]]によるアイルランド反乱の際には、、植民地問題をイギリスの社会革命の一環として捉えるようになる。マルクスによれば、当時イギリスに隷属していたアイルランドはイギリスの地主制度の要塞になっている。イギリスで社会革命を推し進めるためには、アイルランドで大きな打撃を与えなければならない。「他の民族を隷属させる民族は、自分自身の鉄鎖を鍛えるのである。」「現在の強制された合併(すなわちアイルランドの隷属)を、できるなら自由で平等な連邦に、必要なら完全な分離に変えることが、イギリス労働者階級の解放の前提条件である」<ref>マルクス「総評議会からラテン系スイス連合評議会へ」『マルクス・エンゲルス全集 16巻』大月書店p.383.</ref>。
 
 
他方、マルクスのインド・中国論には[[オリエンタリズム]]という批判がある(たとえば[[サイード]]のマルクス論)。しかし一方でマルクスのインド・中国論はヘーゲル的な歴史観によるものだという解釈もある<ref>今村仁司「解説」『マルクス・コレクション6』440-444頁</ref>。マルクスによれば、イギリスのインド支配や中国侵略は低劣な欲得づくで行われ、利益追求の手段もまた愚かだった。しかしイギリスは、無意識的にインドや中国の伝統的社会を解体するという歴史的役割を果たした。マルクスによれば、この事実を甘いヒューマニズムではなく冷厳なリアリズムで確認するべきである。「ブルジョワジーがひとつの進歩をもたらすときには、個人や人民を血と涙のなかで、悲惨と堕落のなかでひきずりまわさずにはこなかったではないか」。
 
 
ヨーロッパによって植民地、半植民地状態におかれたインドと中国の将来については、マルクスは次のように予測した。
 
 
「大ブリテンそのもので産業プロレタリアートが現在の支配階級にとってかわるか、あるいはインド人自身が強くなってイギリスのくびきをすっかりなげすてるか、このどちらかになるまでは、インド人は、イギリスのブルジョワジーが彼らのあいだに播いてくれた新しい社会の諸要素の果実を、取り入れることはないであろう。それはどうなるにしても、いくらか遠い将来に、この偉大で興味深い国が再生するのを見ると、期待してまちがいないようである」<ref>マルクス「イギリスのインド支配の将来の結果」『マルクス・エンゲルス全集 9巻』大月書店p.210-211.</ref>。
 
 
「完全な孤立こそが、古い中国を維持するための第一の条件であった。こうした孤立状態がイギリスの介入によってむりやりに終わらされたので、ちょうど封印された棺に注意ぶかく保管されたミイラが外気に触れると崩壊するように、崩壊が確実にやってくるに違いない」<ref>マルクス「中国とヨーロッパにおける革命」『マルクス・コレクション6』296-297頁</ref>。
 
 
== 評価 ==
 
マルクスの伝記作家{{仮リンク|フランシス・ウィーン|en|Francis Wheen}}は「20世紀の歴史はマルクスの遺産のようなものだ。[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]も[[毛沢東]]も[[チェ・ゲバラ]]も[[フィデル・カストロ|カストロ]]も ―現代の偶像も、あるいは怪物も、みな自らをマルクスの後継者と宣言して憚らなかった。マルクスが生きていたら彼らをその通りに認めたかどうか、それはまた別問題だ。実際、彼の弟子を自称する道化たちは、彼の存命中からしばしば彼を絶望の淵に追いやることが少なくなかった。たとえば、フランスの新しい政党が自分たちはマルキシストであると宣言した時、マルクスはそれを聞いて『少なくとも私はマルキシストではない』と答えたという。それでも彼の死後、百年のうちに世界の人口の半数がマルキシズムを教義と公言する政府によって統治されるようになった。さらに彼の理念は経済学、歴史学、地理学、社会学、文学を大きく変えた。微賎の貧者がこれほどまでに世界的な信仰を呼び起こしながら、悲惨なまでに今なお誤解され続けているのは、それこそ[[イエス・キリスト]]以来ではないだろうか」と評する<ref name="ウィーン(2002)467-468">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.467-468</ref>。
 
 
同じくマルクスの伝記を書いた[[E.H.カー]]は「マルクスは破壊の天才ではあったが、建設の天才ではなかった。彼は何を取り去るべきかの認識においては、極めて見通しがきいた。その代わりに何を据えるべきかに関する彼の構想は、漠然としていて不確実だった。」「彼の全体系の驚くべき自己矛盾が露呈せられるのはまさにこの点である」と述べつつ、「彼の事業の最も良い弁護は結局バクーニンの『破壊の情熱は建設の情熱である』という金言の中に発見されるかもしれない。」「彼の当面の目標は階級憎悪であり、彼の究極の目的は普遍的愛情であった。一階級の独裁、―これが彼の建設的政治学への唯一の堅固で成功した貢献であるが― は階級憎悪の実現であり延長であった。それがマルクスによってその究極の目的として指定された普遍的愛情の体制へ到達する可能性があるか否かは、まだ証明されていない」「しかしマルクスの重要性は彼の政治思想の狭い枠を超えて広がっている。ある意味でマルクスは20世紀の思想革命全体の主唱者であり、先駆者であった」と評している<ref name="カー(1956)412-413">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.412-413</ref>。
 
 
同じくマルクスの伝記を書いた[[アイザイア・バーリン]]は「マルクスは自分の思想が他の思想家に負うていることを決して否定しようとはしなかった。」「マルクスの求める指標は目新しさではなく、真理であった。彼はその思想が最終的な形を取り始めたパリ時代の初期に他人の著作の中に真理を発見すると自己の新しい総合の中にそれを組み入れようと努力した」「それゆえマルクスが発展させた何らかの理論について、その直接の源流をたどってみることは比較的に簡単なことである。だがマルクスの多くの批判者はこのことにあまりにも気を遣いすぎているように思える。彼の諸見解の中で、その萌芽が彼以前や同時代の著作家たちの中にないようなものは、恐らく何一つないといっていい{{#tag:ref|バーリンはその例として、[[唯物論]]は[[バールーフ・デ・スピノザ|スピノザ]]や[[ポール=アンリ・ティリ・ドルバック|ドルバック]]、[[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ|フォイエルバッハ]]に負うところが大きいこと、「人類の歴史は全て階級闘争」とする歴史観は{{仮リンク|シモン=ニコラ=アンリ・ランゲ|fr|Simon-Nicolas-Henri Linguet}}や[[アンリ・ド・サン=シモン|サン=シモン]]が主張していたこと、「恐慌の周期的発生の不可避」という科学的理論は[[ジャン=シャルル=レオナール・シモンド・ド・シスモンディ|シスモンディ]]の発見であること、「第四階級の勃興」は初期フランス共産主義者によって主張されたこと、「プロレタリアの疎外」は[[マックス・シュティルナー]]がマルクスより1年早く主張していること、プロレタリア独裁は[[フランソワ・ノエル・バブーフ|バブーフ]]が設計したものであること、[[労働価値説]]は[[ジョン・ロック]]や[[アダム・スミス]]、[[デヴィッド・リカード|リカード]]ら古典経済学者に依拠していること、[[搾取]]と[[剰余価値説]]も[[シャルル・フーリエ]]がすでに主張していたこと、それへの対策の国家統制策も{{仮リンク|ジョン・フランシス・ブレイ|en|John Francis Bray}}、{{仮リンク|ウィリアム・トンプソン (哲学者)|label=ウィリアム・トンプソン|en|William Thompson (philosopher)}}、[[トーマス・ホジスキン]]らがすでに論じていたことなどをあげる<ref name="バーリン(1974)19">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.19</ref>。|group=注釈}}。」「マルクスはこれら膨大な素材をふるいにかけて、その中から独創的で真実かつ重要と思えるものを引き出してきた。そしてそれらを参照しつつ、新しい社会分析の方法を構築したのである。」「この長所は簡明な基本的諸原理を包括的・現実的にかつ細部にわたって見事に総合したことである」「いかなる現象であれ最も重要な問題は、その現象が経済構造に対して持っている関係、すなわちこの現象をその表現とする社会構造の中での経済力の諸関係に関わるものであると主張することによって、この理論は新しい批判と研究の道具を作り出したのである。」「社会観察の上に立って研究を行っている全ての人は必然的にその影響を受けている。あらゆる国の相争う階級、集団、運動、その指導者のみならず、歴史家、社会学者、心理学者、政治学者、批評家、創造的芸術家は、社会生活の質的変化を分析しようと試みる限り、彼らの発想形態の大部分はカール・マルクスの業績に負うことになる」「その主要原理の誇張と単純化した適用は、その意味を大いに曖昧化し、理論と実践の両面にわたる多くの愚劣な失策は、マルクスの理論の名によって犯されてきた。それにも関わらず、その影響力は革命的であったし、革命的であり続けている」と評する<ref>[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.18-20/205</ref>。
 
 
マルクスの若いころの伝記を書いた[[城塚登]]はマルクスは元々経済学の人ではなく、哲学の人であり、「人間解放」という哲学的結論に達してから経済学に入ったがゆえに、それまでの国民経済学者と異なる結論に達したと主張する<ref name="城塚(1970)132">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.132</ref>。そんなマルクスのことを[[フェルディナント・ラッサール]]は「経済学者になった[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]であり、社会主義者になった[[デヴィッド・リカード|リカード]]」と表現した<ref name="ウィーン(2002)276">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.276</ref>。
 
{{-}}
 
 
== 家族 ==
 
[[File:Marx+Family and Engels.jpg|180px|thumb|マルクスと妻[[イェニー・マルクス|イェニー]]、次女{{仮リンク|ジェニー・ラウラ・ラファルグ|label=ラウラ|de|Laura Lafargue}}、四女[[エリノア・マルクス|エリノア]]。[[フリードリヒ・エンゲルス|エンゲルス]]とともに。]]
 
[[File:Helene Demuth.jpg|180px|thumb|マルクスの非嫡出子を儲けたマルクス家のメイドの{{仮リンク|ヘレーネ・デムート|de|Helena Demuth}}]]
 
1836年にトリーア在住の貴族{{仮リンク|ルートヴィヒ・フォン・ヴェストファーレン|de|Ludwig von Westphalen}}の娘である[[イェニー・マルクス|イェニー(ジェニー)]]と婚約し、1843年に結婚した<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.51/229</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)78">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.78</ref>。マルクスは反貴族主義者だが、妻が貴族であることは非常に誇りにし、妻には「マダム・イェニー・マルクス。旧姓バロネッセ(男爵令嬢)・フォン・ヴェストファーレン」という名刺を作らせて、商人や保守派相手にはしばしばそれを見せびらかした<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.218-219</ref>。また困窮の時でもドイツの男爵令嬢にみすぼらしい恰好をさせるわけにはいかないとイェニーの衣服には金を使い、債権者を怒らせた<ref name="ウィーン(2002)218">[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.218</ref>。
 
 
マルクスの伝記作家は概してヴェストファーレン家の貴族としての家格を誇張しがちであるが、実際にはヴェストファーレン家は由緒ある貴族というわけではなく、ルートヴィヒの父である{{仮リンク|フィリップ・フォン・ヴェストファーレン|label=フィリップ|de|Philipp von Westphalen}}の代に戦功で貴族に列したに過ぎない。同家は[[スコットランド]]王室に連なるなどという噂もあるが、ヨーロッパでは多くの家がどこかで王室と繋がっているため、それは名門であることを意味しない。ルートヴィヒはトリーアの統治を任せられていたわけではなく、一介の役人としてトリーアに赴任していただけである。プロイセン封建秩序の中にあってヴェストファーレン家など取るに足らない末席貴族であることは明らかであり、実質的な生活状態は平民と大差なかったと考えられる。ただ末席貴族ほど気位が高いというのは一般によくある傾向であり、その末席貴族の娘がユダヤ人に「降嫁」するのは異例と言えなくもない<ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.155-156</ref>。
 
 
イェニーの兄でルートヴィヒの跡を継いでヴェストファーレン家の当主となった{{仮リンク|フェルディナント・フォン・ヴェストファーレン|label=フェルディナント|de|Ferdinand von Westphalen}}は、マルクスとは対極に位置するような徹底した保守主義者であり、妹を「国際的に悪名高いユダヤ人」から引き離したがっていた<ref name="ウィーン(2002)68">[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.68</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)78">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.78</ref>。また彼は1850年代の保守派の反転攻勢期にプロイセン内務大臣となり、時の宰相[[オットー・フォン・マントイフェル]]の方針に背いてまで[[ユンカー]]のための保守政治を推し進めた人物でもある<ref name="メーリング(1974,1)47">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.47</ref>。一方イェニーの弟{{仮リンク|エドガー・フォン・ヴェストファーレン|label=エドガー|de|Edgar von Westphalen}}はマルクス夫妻の良き理解者であった。初期のマルクスの声明にはよく彼も署名していたが最後までマルクスと行動を共にしたわけではなく、後に渡米し、帰国後には自堕落に過ごしていた<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.133-134</ref><ref>[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.47-48</ref>。
 
 
マルクスとイェニーは二男四女に恵まれた。マルクスは政治的生活では独裁的だったが、家庭ではおおらかな父親であり、「子供が親を育てねばならない」とよく語っていた<ref name="カー(1956)124">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.124</ref>。晩年にも孫たちの訪問をなによりも喜び、孫たちの方からも愛される祖父だった<ref name="カー(1956)404">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.404</ref>。
 
 
長女{{仮リンク|ジェニー・ロンゲ|label=ジェニー・カロリーナ|de|Jenny Longuet}}([[1844年]]-[[1883年]])は、パリ・コミューンに参加してロンドンに亡命したフランス人社会主義者{{仮リンク|シャルル・ロンゲ|fr|Charles Longuet}}と結婚した<ref name="石浜(1931)289">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.289</ref><ref name="ウィーン(2002)392">[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.392</ref>。彼女は父マルクスに先立って1883年1月に死去している<ref name="石浜(1931)290">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.290</ref>。
 
 
次女{{仮リンク|ジェニー・ラウラ・ラファルグ|label=ジェニー・ラウラ|de|Laura Lafargue}}([[1845年]]-[[1911年]])は、インターナショナル参加のために訪英したフランス人社会主義者[[ポール・ラファルグ]]と結婚したが、子供はできなかった。ポールとラウラは、社会主義者は老年になってプロレタリアのために働けなくなったら潔く去るべきだ、という意見をもっていて、1911年にポールとともに自殺した<ref name="ウィーン(2002)462">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.462</ref>。彼らの自殺は当時ヨーロッパの社会主義者たちの間でセンセーションを巻き起こした。
 
 
長男エドガー([[1847年]]-[[1855年]])は義弟エドガー・フォン・ヴェストファーレンに因んで名づけられた<ref name="石浜(1931)134">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.134</ref>。マルクスはこの長男エドガーをとりわけ可愛がっていた。娘に冷たいわけではなかったが、息子の方により愛着を持っていた<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.261-262</ref>。1855年4月のエドガーの死にあたってマルクスは絶望し、この3カ月後にラッサールに送った手紙の中で「真に偉大な人々は、自然の世界との多くの関係、興味の対象を数多く持っているので、どんな損失も克服できるという。その伝でいけば、私はそのような偉大な人間ではないようだ。我が子の死は私を芯まで打ち砕いた」と書いている<ref name="ウィーン(2002)264">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.264</ref>。
 
 
次男ヘンリー・エドワード・ガイ([[1849年]]-[[1850年]])はイギリス議会爆破未遂犯[[ガイ・フォークス]]に因んで名付けたが<ref name="ウィーン(2002)182">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.182</ref>、ディーン通りに引っ越す直前に幼くして突然死した<ref name="ウィーン(2002)200">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.200</ref>。
 
 
三女ジェニー・エヴェリン・フランセス([[1851年]]-[[1852年]])もディーン通りの住居で気管支炎により幼い命を落としている<ref name="ウィーン(2002)211">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.211</ref>。
 
 
四女[[エリノア・マルクス|ジェニー・エリノア]]([[1855年]]-[[1898年]])は、三人の娘たちの中でも一番のおてんばであり、マルクスも可愛がっていた娘だった。とりわけ晩年のマルクスは彼女が側にいないと、いつも寂しそうにしたという<ref name="カー(1956)386-387">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.386-387</ref>。彼女はイギリス人社会主義者{{仮リンク|エドワード・エイヴリング|en|Edward Aveling}}と同棲するが、このエイヴリングは女ったらしで、{{要検証範囲|やがて女優と結婚することが決まるとエリノアが邪魔になり、彼女を自殺に追い込む意図で心中を持ちかけた。エリノアは彼の言葉を信じて彼から渡された[[青酸カリ]]を飲んで自殺したが、エイヴリングは自殺せずにそのまま彼女の家を立ち去った|date=2015年1月}}。明らかに[[殺人罪]]であるが、エイヴリングが逮捕されることはついになかった<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.461-462</ref>。
 
 
ヴェストファーレン家でイェニーのメイドをしていた{{仮リンク|ヘレーネ・デムート|de|Helena Demuth}}(愛称レンヒェン)は、イェニーの母がイェニーのためにマルクス家に派遣し、以降マルクス一家と一生を共にすることになった。彼女は幼い頃から仕えてきたイェニーを崇拝しており、40年もマルクス家に献身的に仕え、マルクス家の困窮の時にはしばしば給料ももらわず無料奉仕してくれていた<ref name="カー(1956)121">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.121</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)88">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.88</ref>。彼女は1851年にディーン通りのマルクス家の住居においてフレデリック(フレディ)・デムートを儲けた<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.205-211</ref>。フレディの出生証明の父親欄は空欄になっており、[[里子]]に出されたが、1962年に発見された[[アムステルダム]]の「社会史国際研究所」の資料と1989年に発見されたヘレーネ・デムートの友人のエンゲルス家の女中の手紙からフレディの父親はマルクスであるという説が有力となった<ref name="ウィーン(2002)205">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.205</ref>。
 
 
このエンゲルス家の女中の手紙や娘のエリノアの手紙から、マルクスの娘たちはフレディをエンゲルスの私生児だと思っていて、エリノアはエンゲルスが父親としてフレディを認知しないことを批判していた事が分かる<ref name="ウィーン(2002)209">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.209</ref>。エンゲルス家の女中の手紙によれば、エンゲルスは死の直前に人を介してエリノアにフレディはマルクスの子だと伝えたが、エリノアは嘘であるといって認めなかった。それに対してエンゲルスは「トゥッシー(エリノア)は父親を偶像にしておきたいのだろう」と語ったという<ref name="ウィーン(2002)206">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.206</ref>。
 
 
ちなみにフレディ当人は自分がマルクスの子であるとは最後まで知らなかった。彼はマルクスの子供たちの悲惨な運命からただ一人逃れ、ロンドンで旋盤工として働き、1929年に77歳で生涯を終えている<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.205/462</ref>。
 
{{-}}
 
 
== マルクスの著作 ==
 
[[File:Das Kapital.JPG|180px|thumb|1973年に[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]で出版された『[[資本論]]』]]
 
*『{{仮リンク|デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異|en|The Difference Between the Democritean and Epicurean Philosophy of Nature}}』([[1840年]])
 
*『ヘーゲル国法論批判(Kritik des Hegelschen Staatsrechts)』([[1842年]])
 
*『{{仮リンク|ヘーゲル法哲学批判序説|de|Zur Kritik der Hegelschen Rechtsphilosophie}}』([[1843年]])
 
*『[[ユダヤ人問題によせて]]』([[1843年]])
 
*『{{仮リンク|経済学・哲学草稿|de|Ökonomisch-philosophische Manuskripte aus dem Jahre 1844}}』([[1844年]])
 
*『[[聖家族 (政治思想書)|聖家族]]』([[1844年]]、[[フリードリヒ・エンゲルス|エンゲルス]]との共著)
 
*『[[ドイツ・イデオロギー]]』([[1845年]]、エンゲルスとの共著)
 
*『[[フォイエルバッハに関するテーゼ]]』(1845年)
 
*『[[哲学の貧困]]』([[1847年]])
 
*『[[共産党宣言]]』([[1848年]]、エンゲルスとの共著)
 
*『{{仮リンク|賃金労働と資本|de|Lohnarbeit und Kapital}}』([[1849年]])
 
*『フランスにおける階級闘争(Die Klassenkämpfe in Frankreich 1848 bis 1850)』([[1850年]])
 
*『[[ルイ・ボナパルトのブリュメール18日]]』([[1852年]])
 
*『[[経済学批判要綱]]』([[1858年]])
 
*『[[経済学批判]]』([[1859年]])
 
*『{{仮リンク|フォークト君よ|de|Herr Vogt}}』([[1860年]])
 
*『{{仮リンク|剰余価値理論|de|Theorien über den Mehrwert}}』([[1863年]])
 
*『{{仮リンク|価値、価格と利益|de|Lohn, Preis und Profit}}』([[1865年]])
 
*『[[資本論]]』(1巻[[1867年]]、2巻[[1885年]]、3巻[[1894年]]。2巻と3巻はマルクスの遺稿をエンゲルスが編纂・出版)
 
*『フランスにおける内乱(Der Bürgerkrieg in Frankreich)』([[1871年]])
 
*『[[ゴータ綱領批判]]』([[1875年]])
 
*『{{仮リンク|労働者へのアンケート|de|Fragebogen für Arbeiter}}』([[1880年]])
 
*『{{仮リンク|ザスーリチへの手紙|de|Sassulitsch-Brief}}』([[1881年]])
 
{{-}}
 
 
== マルクス像 ==
 
マルクス生誕200年となる2018年には生誕地であるドイツのトリーアに中国から高さ5.5m、重さ2.3tの彫像が寄贈されたが、ドイツでは共産党による独裁や戦後の東西分断につながったマルクスに対して否定的な見方が根強くあり彫像設置には批判も出ている<ref>[http://www.sankei.com/world/news/180504/wor1805040044-n1.html マルクス像寄贈は中国のプロパガンダか? 独で議論「独裁の土台」「毒のある贈り物」] 産経ニュース 2018年5月6日閲覧</ref>。
 
{{Gallery
 
|lines=3
 
|File:Marx Engels Denkmal Berlin.jpg|[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]時代に建てられたマルクスとエンゲルスの銅像([[ドイツ]]・[[ベルリン]]の{{仮リンク|マルクス・エンゲルス・フォーラム|de|Marx-Engels-Forum}})
 
|File:Chemnitz-Marxmonument-gp.jpg|東ドイツ時代に建てられたマルクスの巨大頭像(ドイツ・[[ケムニッツ]])
 
|File:Marx et Engels à Shanghai.jpg|マルクスとエンゲルスの像([[中華人民共和国]]・[[上海]])
 
}}
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
=== 注釈 ===
 
{{reflist|group=注釈|1}}
 
=== 出典 ===
 
{{reflist|colwidth=20em}}
 
 
== 参考文献 ==
 
*{{Cite book|和書|author=[[ジャック・アタリ]]|translator=[[的場昭弘]]||date=2014年|title=世界精神マルクス|publisher=[[藤原書店]]|ref={{harvid|[アタリ]]|2014}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[石浜知行]]|date =1931年(昭和6年)|title=マルクス伝|url={{NDLDC|1880408}}|series=偉人傳全集第6巻|publisher=[[改造社]]|ref=石浜(1931)}}
 
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|フランシス・ウィーン|en|Francis Wheen}}|translator=[[田口俊樹]]|date=2002年(平成14年)|title=カール・マルクスの生涯|publisher=[[朝日新聞社]]|isbn=978-4022577740|ref=ウィーン(2002)}}
 
*{{Cite book|和書|author=フランシス・ウィーン|translator=[[中山元]]|date=2007年(平成19年)|title=マルクスの『資本論』 (名著誕生)|publisher=[[ポプラ社]]|isbn=978-4591099124|ref=ウィーン(2007)}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[江上照彦]]|date=1972年(昭和47年)|title=ある革命家の華麗な生涯 フェルディナント・ラッサール|publisher=[[社会思想社]]|asin=B000J9G1V4|ref=江上(1972)}}
 
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|エルンスト・エンゲルベルク|de|Ernst Engelberg}}|translator=[[野村美紀子]]|date=1996年(平成8年)|title=ビスマルク <small>生粋のプロイセン人・帝国創建の父</small>|publisher=[[海鳴社]]|isbn=978-4875251705|ref=エンゲルベルク(1996)}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[大内兵衛]]|date=1964年(昭和39年)|title=マルクス・エンゲルス小伝|publisher=[[岩波書店]]|isbn=978-4004110668|ref=大内(1964)}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[太田恭二]]|date =1930年(昭和5年)|title=マルクスとエンゲルスその生涯と学説|url={{NDLDC|1457632}}|publisher=[[紅玉堂書店]]|ref=太田(1930)}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[E・H・カー]]|translator=[[石上良平]]|date=1956年(昭和31年)|title=カール・マルクス その生涯と思想の形成|publisher=[[未来社]]|asin=B000JB1AHC|ref=カー(1956)}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[鹿島茂]]|date=2004年(平成16年)|title=怪帝ナポレオンIII世 <small>第二帝政全史</small>|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4062125901|ref=鹿島(2004)}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[コーリン・ガンブレル]]|translator=[[湯浅赴男]]|series=リバー・ブックス|date=1989年(平成元年)|title=カール・マルクス|publisher=[[西村書店]]|isbn=978-4890131105|ref=ガンブレル(1989)}}
 
*{{Cite book|和書|author=ハリンリヒ・グムコー,マルクス=レーニン主義研究所|year=1972 |translator=[[土屋保男]],[[松本洋子]]|title=フリードリヒ・エンゲルス 一伝記(上)、(下)|publisher=[[大月書店]]|ref={{harvid|グムコー|1972}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[小泉信三]]|date=1967年(昭和42年)|title=小泉信三全集〈第7巻〉|publisher=[[文藝春秋]]|asin=B000JBGBO4|ref=小泉(1967)}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[ジョナサン・スパーバー]]|translator=[[小原淳]] |year=2015 |title=マルクス(上)(下):ある十九世紀人の生涯|publisher=白水社 |ref={{harvid|スパーバー|2015}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[外川継男]]、[[左近毅]](編)|date=1973年(昭和48年)|title=バクーニン著作集 第6巻|publisher=[[白水社]]|asin=B000J9MY6U|ref=外川(1973)}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[小牧治]]|date=1966年(昭和41年)|title=マルクス|series=人と思想20|publisher=[[清水書院]]|isbn=978-4389410209|ref=小牧(1966)}}
 
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|レオポルト・シュワルツシルト|de|Leopold Schwarzschild}}|translator=[[竜口直太郎]]|date =1950年(昭和25年)|title=人間マルクス|publisher=[[雄鶏社]]|asin=B000JAPR54|ref=シュワルツシルト(1950)}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[城塚登]]|date =1970年(昭和45年)|title=若きマルクスの思想|publisher=[[勁草書房]]|asin=B000J9OBWA|ref=城塚(1970)}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[ロバート・L.ハイルブローナー]]|translator=[[八木甫]]、[[浮田聡]]、[[堀岡治男]]、[[松原隆一郎]]、[[奥井智之]]|date =2001年(平成13年)|title=入門経済思想史 世俗の思想家たち|publisher=[[筑摩書房]]|isbn=978-4480086655|ref=ハイルブローナー(2001)}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[アイザイア・バーリン]]|translator=[[倉塚平]]、[[小箕俊介]]|date =1974年(昭和49年)|title=カール・マルクス その生涯と環境|publisher=[[中央公論社]]|asin=B000J9G9Z2|ref=バーリン(1974)}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[アイザイア・バーリン]]|translator=[[谷福丸]]|editor=[[福田歓一]]、[[河合秀和 (政治学者)|河合秀和]]監修|series=バーリン選集 1|date=1983年(平成5年)|title=思想と思想家|publisher=[[岩波書店]]|isbn=978-4000010009|ref=バーリン(1983)}}
 
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|トリストラム・ハント|en|Tristram Hunt}} |translator=[[東郷えりか]] |year=2016 |title=エンゲルス: マルクスに将軍と呼ばれた男 |publisher=筑摩書房|ref={{harvid|ハント|2016}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[廣松渉]]|date=2008年(平成20年)|title=青年マルクス論|publisher=[[平凡社]]|isbn=978-4582766547|ref=廣松(2008)}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[フランツ・メーリング]]|translator=[[栗原佑]]|date =1974年(昭和49年)|title=マルクス伝1|series=[[国民文庫]]440a|publisher=[[大月書店]]|asin=B000J9D4WI|ref=メーリング(1974,1)}}
 
*{{Cite book|和書|author=フランツ・メーリング|translator=栗原佑|date =1974年(昭和49年)|title=マルクス伝2|series=国民文庫440b|publisher=大月書店|asin=B000J9D4W8|ref=メーリング(1974,2)}}
 
*{{Cite book|和書|author=フランツ・メーリング|translator=栗原佑|date =1974年(昭和49年)|title=マルクス伝3|series=国民文庫440c|publisher=大月書店|asin=B000J9D4VY|ref=メーリング(1974,3)}}
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[マルクス主義]]、[[マルクス経済学]]
 
* [[共産党宣言]]、[[資本論]]
 
* [[剰余価値]]、[[搾取]]、[[唯物弁証法]]、[[唯物史観]]、[[階級闘争]]、[[プロレタリア独裁]]
 
* [[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]、[[弁証法]]
 
* [[青年ヘーゲル派]]、[[ヘーゲル主義者の一覧]]、[[ブルーノ・バウアー]]、[[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ|ルートヴィヒ・フォイエルバッハ]]
 
* [[フリードリヒ・エンゲルス]]
 
* [[フェルディナント・ラッサール]]、[[オットー・フォン・ビスマルク]]
 
* [[ミハイル・バクーニン]]
 
* [[ヴィルヘルム・リープクネヒト]]、[[アウグスト・ベーベル]]、[[ドイツ社会民主党]]、[[ゴータ綱領批判]]
 
* [[ナポレオン3世]]、[[ルイ・ボナパルトのブリュメール18日]]
 
* [[共産主義者同盟]]、[[第一インターナショナル]]、[[パリ・コミューン]]
 
* [[ロシア革命]]、[[ウラジーミル・レーニン]]、[[ボルシェヴィキ]]
 
* [[マルクス主義関係の記事一覧]]
 
* [[カール・マルクス・ホーフ]]、[[カール=マルクス=アレー]]
 
* [[マルクス・エンゲルス]]
 
{{社会哲学と政治哲学}}
 
{{共産主義}}
 
{{大陸哲学}}
 
{{Normdaten}}
 
{{Good article}}
 
 
==外部リンク==
 
{{wikisourcelang|de|Karl Marx|カール・マルクス}}
 
{{Wikiquote|カール・マルクス}}
 
{{Commons|Karl Marx}}
 
* {{DDB|Person|118578537}}
 
* {{青空文庫著作者|1138|マルクス カール・ハインリッヒ}}
 
  
 
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2018/8/19/ (日) 20:54時点における最新版

[生] 1818.5.5. トリール [没] 1883.3.14. ロンドン

ドイツの経済学者,哲学者,革命指導者,科学的社会主義の創始者。中流のユダヤ人弁護士の家庭に生れ,ボン大学,ベルリン大学で法律,哲学を学び,1841年イェナ大学で博士号を取得。 42年ケルンの急進的ブルジョアの機関紙"Rheinische Zeitung"の主筆となったが,43年パリに移住,44年共同で"Deutsch-Französische Jahrbücher"を発行。 F.エンゲルスと出会い,社会主義的傾向を深めた。 47年共産主義者同盟に参加,48年エンゲルスとともに『共産党宣言』を執筆し,唯物史観を確立。三月革命に際してはケルンで"Neue Rheinische Zeitung"を発行してドイツの革命運動の促進をはかったが挫折し,49年ロンドンに亡命。極度の貧困のなかで著作を続け,67年マルクス経済学を代表する『資本論』 Das Kapitalの第1巻を発表。『資本論』のなかで最も印象的なのはイギリス労働者階級の窮状についての記述である。第2巻,第3巻は彼の死後エンゲルスの手で編集され,85,94年に刊行された。マルクスの社会科学理論上の最も重要な貢献は,剰余価値論を中核とした資本主義の経済分析にあるが,その透徹した社会分析は政治学,歴史学,社会学,哲学などをも包含する壮大な思想体系であるマルクス主義理論を形成している。