「カルロ1世 (シチリア王)」の版間の差分

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{{Redirect|シャルル・ダンジュー}}
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[[ファイル:シャルル1世(装飾写本,挿絵,1278~79,パリ,フランス国立図書館).jpg|サムネイル]]
{{出典の明記|date=2012年2月|ソートキー=人1282年没___世界史}}
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'''カルロ1世'''({{lang-it|Carlo I d'Angiò}}, [[1227年]][[3月21日]] - [[1285年]][[1月7日]]
{{基礎情報 君主
 
| 人名      = カルロ1世
 
| 各国語表記 = {{lang|it|Carlo I}}
 
| 君主号    = [[ナポリとシチリアの君主一覧|シチリア王 / ナポリ王]]
 
| 画像      = Arnolfo di cambio, monumento a carlo I d'angiò, 1277 ca. 03.JPG
 
| 画像サイズ = 200px
 
| 画像説明  =
 
| 在位      = [[1266年]][[1月6日]] - 1285年1月7日
 
| 戴冠日    =
 
| 別号      = [[アカイア公国|アカイア公]]、[[アンジューの領主一覧|アンジュー伯]]、[[プロヴァンス伯]]
 
| 全名      =
 
| 出生日    = [[1227年]][[3月21日]]
 
| 生地      = [[File:Flag of France (XII-XIII).svg|border|25x20px]] [[フランス王国]]
 
| 死亡日    = [[1285年]][[1月7日]]
 
| 没地      = [[File:Flag of the Kingdom of Naples.svg|border|25x20px]] [[ナポリ王国]]、[[フォッジャ]]
 
| 埋葬日    =  
 
| 埋葬地    = {{FRA}}、[[サン=ドニ大聖堂]]
 
| 継承者    =
 
| 継承形式  =
 
| 配偶者1    = [[ベアトリス・ド・プロヴァンス]]
 
| 配偶者2    = [[マルゲリータ・ディ・ボルゴーニャ|マルグリット・ド・ブルゴーニュ]]
 
| 配偶者3    =
 
| 配偶者4    =
 
| 配偶者5    =
 
| 配偶者6    =
 
| 配偶者7    =
 
| 配偶者8    =
 
| 配偶者9    =
 
| 配偶者10  =
 
| 子女      = [[カルロ2世 (ナポリ王)|カルロ2世]] [[#家族|ほか]]
 
| 王家      = [[ファイル:Arms of Jean dAnjou.svg|20px]] [[アンジュー=シチリア家]]
 
| 王朝      = [[ナポリ・アンジュー朝]]
 
| 王室歌    =
 
| 父親      = [[ルイ8世 (フランス王)]]
 
| 母親      = [[ブランシュ・ド・カスティーユ]]
 
| 宗教      =
 
| サイン    =
 
}}
 
'''カルロ1世'''({{lang-it|Carlo I d'Angiò}}, [[1227年]][[3月21日]] - [[1285年]][[1月7日]])は、[[シチリア王国|シチリア王]](在位:[[1266年]] - [[1282年]])、後に[[ナポリ王国|ナポリ王]](在位:[[1282年]] - [[1285年]])。[[カペー家|カペー系]]アンジュー家([[アンジュー=シチリア家]])の祖で、[[フランス王国|フランス]]王[[ルイ8世 (フランス王)|ルイ8世]]と王妃[[ブランシュ・ド・カスティーユ]]の子<ref>{{Cite book|和書 |author = 亀長洋子 |year = 2011 |title = イタリアの中世都市  |publisher = [[山川出版社]] |page = 73 |isbn = 978-4-634-34944-5}}</ref>。[[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]]の末弟。シチリア王位に就くまでの活躍により、フランス語名を元に'''アンジュー伯シャルル'''、'''シャルル・ダンジュー'''({{lang|fr|Charles d'Anjou}})と表記されることが多い。本項でも以降シャルルと表記する。
 
  
フランス南部や[[北イタリア|イタリア北部]]に積極的な勢力拡大を行い、[[教皇|ローマ教皇]]の支持を得て[[ホーエンシュタウフェン朝|ホーエンシュタウフェン家]]を滅亡させ[[シチリア王国]]を征服し、さらには[[東ローマ帝国]]の征服と地中海帝国の建設を夢見たが、[[シチリアの晩祷]]事件を契機に失敗に終わった。
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シチリア王 (在位 1265~82) ,ナポリ王 (在位 65~85) 。フランス王ルイ8世の子。アンジュー伯。イタリア名カルロ1世。皇帝派 (ギベリーニ) への対抗者として教皇クレメンス4世によって選ばれ,1265年ローマでシチリア王とナポリ王に即位。 66年ベネベントの戦いで神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の庶子[[マンフレート]]を討ってシチリアとナポリの支配権を確立。 82年「[[シチリアの夕べの祈り]]」と呼ばれるパレルモの蜂起にあってシチリア王の座から追放され,新たにシチリア王となったアラゴン王[[ペドロ3世 (大王) ]]との抗争中に南イタリアで死亡。
 
 
== 生涯 ==
 
=== プロヴァンス伯継承 ===
 
[[1246年]]にシャルルは[[プロヴァンス伯]][[レーモン・ベランジェ4世]]の末娘[[ベアトリス・ド・プロヴァンス|ベアトリス]]と結婚し、プロヴァンス伯領を継承した。さらに、[[1247年]]にフランス王家から[[アンジュー]]、[[メーヌ]]伯領を[[アパナージュ|親王采地]]として受け取った。しかし、プロヴァンス伯の妻のベアトリスや他の娘たちは、末娘のプロヴァンス継承に不満を唱えた。さらに、プロヴァンスは法的には[[神聖ローマ帝国]]([[ブルグント王国|アルル・ブルグンド王国]])領であり、支配下の諸侯や[[マルセイユ]]、[[アルル]]、[[アヴィニョン]]等の都市は大幅な自治を享受していたため、まもなくシャルルのフランス風の集権的な支配に対して不満を持ち、反乱を起こすようになった。シャルルが完全にプロヴァンスの反乱を鎮圧するには[[1262年]]までかかった。
 
 
 
=== 十字軍 ===
 
[[1248年]]、兄のフランス王[[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]]は[[第7回十字軍]]を起こして[[エジプト]]に攻め入った。末弟としてシャルルもこれに参加し勇戦したが、共に捕虜になった。解放された後はフランスに戻り、兄のトゥールーズ伯アルフォンスや母ブランシュと共に摂政を務めた。
 
 
 
また、[[1270年]]の[[第8回十字軍]]にも参加し、自己の勢力拡大を狙って[[チュニジア]]を攻撃するよう仕向けたが、ルイ9世が遠征先で病没する結果となった。
 
 
 
=== シチリア ===
 
[[1252年]]、[[教皇|ローマ教皇]][[インノケンティウス4世 (ローマ教皇)|インノケンティウス4世]]から、[[神聖ローマ皇帝]][[コンラート4世 (神聖ローマ皇帝)|コンラート4世]]に代わってシチリア王となることを提示されるが、ヨーロッパの平和・安定を願うルイ9世はこれを許さず、話は立ち消えになった。
 
 
 
しかし、[[1258年]]に[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]の庶子でコンラート4世の異母弟[[マンフレーディ]]がシチリア王になりローマを脅かすようになると、ローマ教皇はさらに熱心にシチリア王位を持ちかけてきた(実は[[イングランド王国|イングランド]]王[[ヘンリー3世 (イングランド王)|ヘンリー3世]]の次男[[エドマンド・クラウチバック|エドマンド]]と話がついていたが、これに不安を感じたイングランド諸侯が反乱を起こしたため立ち消えになった)。今度はルイ9世も、庶子でありながら王位を簒奪したマンフレーディに不満を抱いていたため、これを承認した。
 
 
 
[[1266年]]、ローマ教皇[[クレメンス4世 (ローマ教皇)|クレメンス4世]]からシチリア王カルロ1世として戴冠され、教皇の承認を得て十字軍を称し、アンジュー、プロヴァンスの兵に加えてフランス中から兵を集め、イタリアに進撃した。
 
 
 
同年、[[ベネヴェントの戦い]]でマンフレーディを討ち死にさせ、シチリアを占領した。さらに、[[1268年]]にシチリア王位を求めて北イタリアに侵攻してきたコンラート4世の子[[コッラディーノ]]も{{仮リンク|タリアコッツォの戦い|en|Battle of Tagliacozzo}}で捕らえ処刑することにより、ホーエンシュタウフェン家を完全に滅亡させ、南イタリアの支配に成功した。
 
 
 
=== 地中海帝国 ===
 
しかしシャルルの野望はとどまるところを知らず、今度はシチリア王伝統の政策である[[東ローマ帝国]]征服の野望を抱くようになる。そのために、彼は綿密な政治工作を次々と繰り出した。
 
 
 
[[1267年]]には男子後継者の見込みがない[[アカイア公国]]の[[ギヨーム2世・ド・ヴィルアルドゥアン]]と[[ヴィテルボ]]協定を結び、ギヨームを従臣とした上で自分の次男フィリップとギヨームの娘イザベルを結婚させて両者を後継者とし、彼らに男子が産まれない場合にはシャルル自らがアカイア公となるべきことも決定した。その後、東ローマ皇帝[[ミカエル8世パレオロゴス]]によって国を追われた[[ラテン帝国]]皇帝[[ボードゥアン2世ド・クルトネー]]を保護し、さらに彼の息子フィリップと自分の娘ベアトリス([[1275年]]没)を結婚させてその保護者に収まり、[[1273年]]にはラテン皇帝の地位を相続した。[[1277年]]には、さらに[[エルサレム王国]]の継承権を手に入れ、エルサレム王を称した。
 
 
 
1277年に次男フィリップ、[[1278年]]にアカイア公ギヨームが共に男子後継者なく死去し、シャルルはアカイア公も兼ねることとなった。こうした背景の上に、さらにいくつかの領土をアドリア海岸に獲得して東ローマ帝国に侵攻しようとしたが、ミカエル8世の東西教会統一政策などで侵攻を一時、中断せざるを得なくなった。
 
 
 
=== シチリアの晩祷 ===
 
しかしシャルル1世は諦めず、[[1282年]]に再度の侵攻を目論んだが、これに脅威を感じていたミカエル8世は、[[アラゴン連合王国|アラゴン]]、[[ジェノヴァ共和国|ジェノヴァ]]と結び、遠征のために重税を課せられていたシチリア住民の反フランス感情を煽る工作を行った。
 
 
 
同年春に発生した[[シチリアの晩祷]]事件自体は偶発的だった。当初、シャルルはこの反乱を軽く見ていたため対応が遅れ、シチリア全土を失った。シチリアの住民はローマ教皇に保護を願い出たが、シャルルを支持する教皇は、かえって住民を[[破門]]した。このためシチリア住民は、マンフレーディの娘婿であるアラゴン王[[ペドロ3世 (アラゴン王)|ペドロ3世]]に援助を求めた。これを受けたペドロ3世はシチリアに上陸し、シチリア王を宣言した。
 
 
 
=== ナポリ王国 ===
 
以降、ナポリを拠点とするシャルルとペドロ3世の間の戦争が続いた('''[[シチリア晩祷戦争]]''')。シャルルは、ローマ教皇[[マルティヌス4世 (ローマ教皇)|マルティヌス4世]]にペドロ3世を破門し、甥のフランス王[[フィリップ3世 (フランス王)|フィリップ3世]]にアラゴン王位を与えるよう工作し、シャルルの意を受けたフィリップ3世がアラゴンを攻めたが、成果は上がらず、逆に敗北した。[[1284年]]のナポリとアラゴンの海戦もシャルル側に利は無く、長男の[[カルロ2世 (ナポリ王)|シャルル2世]]も捕虜になり、[[1285年]]に失意のうちに病死した。同年、フィリップ3世、ペドロ3世、マルティヌス4世も没している。
 
 
 
シャルルの死後は[[1288年]]に捕虜から解放されたシャルル2世が後継者となり、以後もシチリア王を称したがシチリアを支配をすることはなく、通常はナポリ王と称される。後にシャルルの曾孫[[カーロイ1世|カルロ・ロベルト]]は[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王となった。この王朝は[[ハンガリー・アンジュー朝]]と呼ばれる。
 
 
 
== シャルルの夢 ==
 
{{出典の明記|date=2016年9月|section=1}}
 
シャルルの夢は、[[カール大帝|シャルルマーニュ]]の後継者を自負するフランス王国、[[ロベルト・イル・グイスカルド]]以来東ローマ帝国を狙うシチリア王国、聖地回復を望むローマ教皇の夢に基づいたもので、甥のフィリップ3世を[[神聖ローマ皇帝]]につけ、[[コンスタンティノープル]]を征服して地中海帝国を築き、[[エルサレム]]を奪回するというものだった。
 
 
 
== 家族 ==
 
最初の妻[[ベアトリス・ド・プロヴァンス]](1234年 - 1267年)との間に4男3女をもうけた。
 
* ルイ(ルイージ、1248年)
 
* ブランシュ(ビアンカ、1250年 - 1269年) - [[フランドル伯]][[ロベール3世 (フランドル伯)|ロベール3世]]と結婚
 
* ベアトリス(ベアトリーチェ、1252年 - 1275年) - 最後のラテン皇帝[[ボードゥアン2世ド・クルトネー]]の息子[[フィリップ・ド・クルトネー]]と結婚
 
* [[カルロ2世 (ナポリ王)|シャルル2世]](カルロ2世、1254年 - 1309年) - ナポリ王
 
* フィリップ(フィリッポ、1256年 - 1277年) - アカイア公、[[イザベル・ド・ヴィルアルドゥアン]]と結婚
 
* ロベール(ロベルト、1258年 - 1265年)
 
* エリザベートまたはイザベル(イザベッラ、1261年 - 1300年頃) - [[ハンガリー王国|ハンガリー王]][[ラースロー4世]]と結婚
 
 
 
ベアトリスと死別後、1268年に[[ブルゴーニュ公一覧|ブルゴーニュ公]][[ユーグ4世 (ブルゴーニュ公)|ユーグ4世]]の孫娘[[マルゲリータ・ディ・ボルゴーニャ|マルグリット・ド・ブルゴーニュ]]と再婚した。2人は1女マルグリット(マルゲリータ)をもうけたが夭逝した。
 
 
 
==脚注==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{commonscat|Charles I of Anjou}}
 
* [[アンジュー=シチリア家]]
 
* [[ナポリ・アンジュー朝]]
 
* [[シチリア晩祷戦争]]
 
 
 
{{先代次代|[[アカイア公国|アカイア公]]|1278年 - 1285年|[[ギヨーム2世・ド・ヴィルアルドゥアン]]|[[カルロ2世 (ナポリ王)|カルロ2世]]}}
 
{{先代次代|[[アンジューの領主一覧|アンジュー伯]]|1247年 - 1285年|―|[[カルロ2世 (ナポリ王)|シャルル(カルロ)2世]]}}
 
{{先代次代|[[プロヴァンス伯]]|1246年 - 1285年<br><small>1267年まで[[ベアトリス・ド・プロヴァンス|ベアトリス]]と共同統治</small>|[[レーモン・ベランジェ4世]]|[[カルロ2世 (ナポリ王)|シャルル2世]]}}
 
{{シチリア王||1266年 - 1282年}}
 
{{ナポリ王||1282年 - 1285年}}
 
 
 
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[[Category:シチリア王]]
 
[[Category:シチリア王]]

2019/4/27/ (土) 23:11時点における最新版

シャルル1世(装飾写本,挿絵,1278~79,パリ,フランス国立図書館).jpg

カルロ1世イタリア語: Carlo I d'Angiò, 1227年3月21日 - 1285年1月7日

シチリア王 (在位 1265~82) ,ナポリ王 (在位 65~85) 。フランス王ルイ8世の子。アンジュー伯。イタリア名カルロ1世。皇帝派 (ギベリーニ) への対抗者として教皇クレメンス4世によって選ばれ,1265年ローマでシチリア王とナポリ王に即位。 66年ベネベントの戦いで神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の庶子マンフレートを討ってシチリアとナポリの支配権を確立。 82年「シチリアの夕べの祈り」と呼ばれるパレルモの蜂起にあってシチリア王の座から追放され,新たにシチリア王となったアラゴン王ペドロ3世 (大王) との抗争中に南イタリアで死亡。



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