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(2018 FIFAワールドカップ: スポーツ)
 
 
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'''カリーニングラード'''([[ロシア語]]:'''{{lang|ru|Калининград}}'''〔<small>カリニングラート</small>〕、ラテン文字転写の例:Kaliningrad )は、[[ロシア|ロシア連邦]]西部にある[[カリーニングラード州]]の[[州都]]である。[[バルト海]]に接する港湾都市で、人口は約42万人。カリーニングラード州は[[ポーランド]]と[[リトアニア]]に挟まれたロシアの[[飛地]]領で人口はおよそ95万人、世界有数の[[琥珀]]の産地である。
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'''カリーニングラード'''([[ロシア語]]:'''{{lang|ru|Калининград}}'''〔<small>カリニングラート</small>〕、ラテン文字転写の例:Kaliningrad )
 
 
カリーニングラードはもともと[[1255年]]に[[ドイツ人]]の[[東方植民]]によって建設された都市で、[[1946年]]まで使われていた旧名は'''[[ケーニヒスベルク (プロイセン)|ケーニヒスベルク]]'''('''{{lang|de|Königsberg}}''';ドイツ語で「王の山」の意)。[[20世紀]]前半までは[[ドイツ]]の東北辺境の重要都市であった。
 
 
 
== 気候 ==
 
* 年間平均気温7.6℃
 
** 真夏の気温:16~30℃
 
** 真冬の気温:4~-14℃
 
** 1月・2月の平均気温:-4℃
 
** 7月・8月の平均気温:17℃
 
*年間降水量804㎜
 
 
 
多くのロシアの都市に比べ、[[海洋性気候|海洋性]]に近い気候で、夏はそれほど暑くなく、冬も極端に寒くはならない。降水量は年間を通して、ほぼ均等。
 
 
 
30℃(86.0F)を超えることはそれほど多くないが、最高気温は1992年8月10日に36.5℃(97.7F)を記録している。7月としての最高気温は1994年7月30日に記録された36.3℃(97.3F)。
 
 
 
最低気温は1956年2月に-33.3℃(-27.9F)、1月としては同年に-32.5℃(-26.5F)を記録している。
 
 
 
== 歴史 ==
 
[[ファイル:Deutsches Reich (1871-1918)-de.svg|none|thumb|300px|[[ドイツ帝国]]の地図。最東端がケーニヒスベルクを州都とする[[東プロイセン]]。]]
 
 
 
=== ケーニヒスベルクとしての歴史 ===
 
{{main|ケーニヒスベルク (プロイセン)}}
 
現在カリーニングラードと呼ばれているケーニヒスベルクは、[[1255年]]に'''[[ドイツ騎士団]]'''によって建設され、[[ハンザ同盟]]に所属するバルト海の貿易都市となった。街はポーランドとリトアニアを流れる'''[[プレゴリャ川|プレーゲル川]]'''(現・プレゴリャ川)の河口部に位置し、中州であるクナイプホーフを中心に広がり、プレーゲル川流域の物産を集めてバルト海沿岸の諸都市と交易し繁栄した。ところが住民はポーランド王国を支持してドイツ騎士団と対立、[[1410年]]の[[タンネンベルクの戦い (1410年)|タンネンベルクの戦い]]の結果[[第一次トルンの和約]]が交わされ、ケーニヒスベルクをはじめとした[[ドイツ騎士団領]]はすべてポーランド王国の[[従属国]]となる。その後ドイツ騎士団による専制に反発したケーニヒスベルク等の商業都市が[[プロイセン連合]]を結成して騎士団と対立してポーランド王国の庇護を求め、[[1466年]]の[[第二次トルンの和約]]によりケーニヒスベルクはポーランド王の直接の所有物となり、住民による自治権を与えられた。
 
 
 
[[ファイル:Königsberg Castle.jpg|200px|left|thumb|19世紀末頃の[[ケーニヒスベルク城]]]]
 
[[1525年]]にドイツ騎士団の総長だった[[ホーエンツォレルン家]]の[[アルブレヒト (プロイセン公)|アルブレヒト]]が修道会国家を世俗化させて[[プロシア公領]]を東プロイセンに成立させケーニヒスベルクはその首都となった。公国の血が絶えると[[1618年]]より同族である[[ブランデンブルク辺境伯|ブランデンブルク選帝侯]]のホーエンツォレルン家が飛び地となる公国を同時に治めることになった。[[1660年]]の[[オリヴァ協定]]でポーランド王国がプロシア公領に対する宗主権を放棄して公領はポーランドから独立、プロイセン公国となり、[[1466年]]より194年の間ポーランド王が保障した自治権によって大いに繁栄していたケーニヒスベルクはその自治権を失ってプロイセン公国に隷属することになった。
 
 
 
[[1701年]]、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世は[[神聖ローマ帝国]]の外にあたるケーニヒスベルクで王に即位、[[フリードリヒ1世 (プロイセン王)|フリードリヒ1世]]となりプロイセン王国がこの街で誕生した。この時期、[[ケーニヒスベルク大学]]などを擁する教育と研究の中心地でもあり、[[イマヌエル・カント]]ら多くの学者を輩出した。[[19世紀]]にプロイセン王国を中心に[[ドイツ帝国]]が形成されると、その一部となった。[[1848年]]には[[1848年革命|ヨーロッパ市民革命]]のプロイセンにおける中心地となり、王侯貴族の支配に対して商工業者を中心とした市民が立ち上がり、大規模な抵抗運動を行った。
 
 
 
[[ファイル:ID004026 B456 AmPregel.jpg|250px|left|thumb|プレーゲル川沿いの河岸]]
 
[[第一次世界大戦]]後、旧ドイツ帝国の東部領土が割譲され、ドイツや[[オーストリア・ハンガリー帝国|オーストリア]]によって分割されていた[[ポーランド]]が独立を果たした。その際、ポーランド北部のバルト海に面した地域にあたる旧プロイセン公国の領域のうち、自由都市として残された[[グダンスク|ダンツィヒ]](グダンスク)を除いた「[[西プロイセン]]」は、ポーランドの海への出口([[ポーランド回廊]])としてポーランドに割譲された。ケーニヒスベルクを中心とする「[[東プロイセン]]」はドイツ領として残されたが、ドイツ本国との陸上路が閉ざされ、孤立した飛び地となった。
 
 
 
のちにドイツで政権を握った[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス党]]の[[アドルフ・ヒトラー]]は、ポーランド侵攻直前に飛び地解消を名目にポーランド回廊の領土返還を要求したが、[[権威主義]]的な[[ユゼフ・ピウスツキ|ピウスツキ]]政権下のポーランド側は[[ミュンヘン会談]]の取り決め(ドイツは英・仏・伊に対し[[チェコスロバキア]]から併合した[[ズデーテン|ズデーテン地方]]以外に領土要求はしないと約束した)を盾にドイツの領土要求を拒否したため、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、それに怒った英仏がドイツに宣戦布告して、[[第二次世界大戦]]が始まった。これにより東プロイセンは再びドイツ本土と陸路で結ばれた。
 
 
 
=== ソビエト領カリーニングラードへ ===
 
[[ファイル:ID003306 A211 VordVorstadtg.jpg|250px|left|thumb|第二次大戦前の市街風景]]
 
[[独ソ戦]]中盤までケーニヒスベルクは比較的平和が保たれたが、戦争末期には東部戦線の激しい戦場となった。[[1944年]][[8月26日]]から27日の夜にかけて[[イギリス軍]]の爆撃機174機による長距離爆撃が行われたが、この空襲は郊外に爆弾のほとんどが落ちほぼ失敗に終わった。しかし続く[[8月29日]]から30日にかけてのイギリス軍機189機による空襲では市街地中心部が打撃を受けた。住居と工場の多くが破壊されたほか、クナイプホーフはじめ旧市街の大半、大聖堂はじめ古い教会のほとんど、[[ケーニヒスベルク城]]、大学などは完全に破壊された。
 
 
 
[[赤軍|ソ連赤軍]]が[[東プロイセン攻勢|東プロイセンに進撃を始めた]]1944年10月頃からは約37万人にのぼる市民の西部ドイツへの脱出が始まった。[[1945年]][[1月13日]]にはソ連軍がついにケーニヒスベルクに達し1月末には市は完全に包囲されたが、市民や避難民はドイツ軍の確保した鉄道と港湾を使ってバルト海経由でケーニヒスベルクからの脱出を続けた。要塞化された市街の周辺には[[地雷]]や[[鉄条網]]などで三重の防衛線が築かれ、2月から3月の間ドイツ軍は抵抗をつづけた。しかし1945年[[4月6日]]から[[4月9日]]まで、ソ連軍は4日間にわたり南北から最後の突撃を行い、残されたドイツ軍は降伏しケーニヒスベルクは陥落した([[ケーニヒスベルクの戦い]])。
 
 
 
[[ファイル:Koeningsburg-817.jpg|250px|right|thumb|T-34戦車、第二次大戦の戦勝記念碑の1つ]]
 
ドイツの戦後処理が話し合われたポツダム会談において、ケーニヒスベルクはソ連邦への帰属が決定された。すなわち、東プロイセンは南北に分割され、南部はポーランド領に、ケーニヒスベルクを含む北部はソ連の[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]]に編入された。戦後もドイツ系市民約2万人(1945年7月の同市の総人口は約7万人)が同市内に残留していたが、[[1947年]][[10月11日]]スターリンは市内に残留していたドイツ系市民の追放を決定し、翌年にかけてドイツ系残留市民は全員鉄路で[[ソビエト占領区域]](後の[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]地域に相当)へと移送された。前後して大量のソ連市民が市内へ移住した。[[1946年]][[7月4日]]、ソ連領となったケーニヒスベルクは1ヶ月前に死去した先の[[ソビエト連邦最高会議幹部会議長]][[ミハイル・カリーニン|ミハイル・イワノヴィッチ・カリーニン]]にちなんでカリーニングラード市、区域全体は[[カリーニングラード州]]とロシア語名に改称された。その後、ドイツ時代の遺物としてケーニヒスベルク城、[[ケーニヒスベルク大聖堂]]などの歴史的建造物がほとんど破壊され、城の跡地には[[ソビエトの家]]が建設された。
 
 
 
カリーニングラードは[[冷戦]]時代は軍事都市として、州全体が外国人の立ち入りが規制される[[閉鎖都市]]だった。ソ連でも重要な[[不凍港]]としてバルト艦隊の拠点となり、造船業が発達、また古くからの[[琥珀]]の世界的産出地としても地位を確かなものとした。
 
 
 
=== 冷戦後 ===
 
{{出典の明記|date=2016年9月|section=1}}
 
{{更新|date=2016年9月|section=1}}
 
ところが冷戦崩壊後に[[リトアニア]]がソ連から独立した結果、カリーニングラード州は今度はソ連・ロシア連邦の飛び地となってしまった。さらに冷戦後の造船需要の悪化で造船業が衰退して失業率が増加し、市民の4割が貧困層といわれるほど経済状況が悪化、琥珀も密売者の間で高騰する事態となった。ソ連崩壊後の一時期は東欧各国の中心にある地理的特性を活かして「バルト海の[[香港]]」としようという夢が語られたが、それとは程遠い状態になりつつある。ソ連崩壊直後にロシアはここをポーランド領とする案を用意(代わりにドイツは[[シュチェチン]]を得るという話であった)したものの頓挫、結局そのまま放置された。
 
 
 
カリーニングラードの経済は崩壊し、この町が東ヨーロッパの中心に位置するということもあって、[[麻薬]]取引、[[人身売買]]、盗難車の取引中継地など、東欧・旧ソ連全域を舞台にしたさまざまな犯罪の拠点に使われるほど治安が悪化、[[後天性免疫不全症候群|エイズ]]などの感染症も蔓延し始めた。さらに、軍事都市時代の有害な廃棄物が放置されており、住めない土地が各地に広がっていた。もはやこの都市の存在が、ロシアにとってもポーランド・リトアニアなど周辺諸国にとっても頭痛の種となった。
 
 
 
[[ファイル:Kaliningrad cathedral.JPG|250px|right|thumb|ソ連崩壊後に再建されたクナイプホーフの[[ケーニヒスベルク大聖堂]]]]
 
[[ファイル:TramKaliningrad4.JPG|250px|right|thumb|カリーニングラード市電 (2001年)]]
 
[[ファイル:TramKaliningrad.jpg|250px|right|thumb|カリーニングラード市街と市電]]
 
独立後10年を経て、ロシア政府は[[ウラジーミル・プーチン]]大統領のリュドミラ夫人(当時。2013年離婚)がカリーニングラード出身ということもあってカリーニングラードの復興をてこ入れすることにし、経済対策として経済特区を設け、輸入関税を免除するなど外貨獲得を目指した。しかし、当初はロシア国内向けの家電組立工場が多数成立した他は特区の効果はあまり出ず、さらに[[2004年]]に周囲を取り囲むリトアニアとポーランドが共に[[欧州連合|EU]]に加盟したため、カリーニングラードとロシア本土との通行にリトアニアがビザを科すようになったなど、周囲との通行に障害が生じ、先の見通しが立たないとまで言われた。
 
 
 
ところがその後、ロシア本土との通行にリトアニアのビザ取得が簡素化され、物流も整備された結果、カリーニングラードの経済は驚異的な成長を遂げている。2006年10月16日付の、[[英国放送協会|BBC]]の『カリーニングラード、過去の汚名をそそぐ』と題された記事では次のようなことが述べられている<ref>[http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/6048708.stm "Kaliningrad erases stains of past"], By Laura Sheeter, BBC News, Kaliningrad, Russia :Monday, 16 October 2006, 14:03 GMT</ref>。
 
{{quotation|…過去数年の経済成長率は毎年10%を超えており、[[モスクワ]]を含めたロシアのどの地域よりも発展している。域内は建設ラッシュであり、モダンなデザインの新しいビルが建設され、街にはデザイナーズショップが建ち並ぶ。 …また、住民一人当たりの自家用車保有台数はモスクワを上回っている。ロシアで販売される[[テレビ]]の3台に1台はカリーニングラード製であり、州内では[[ハマー (自動車)|ハマー]]や[[BMW]]といった高級車の工場がフル稼働している。 …人口95万人のカリーニングラード州の[[失業率]]はほぼ0%であり、労働力の不足が深刻である。そのため、カリーニングラード州政府は、ロシア本土などの旧ソ連地域から早急に30万人のロシア人をカリーニングラードに移住させる計画を進めている。とくに辺境の[[カザフスタン]]や[[コーカサス|カフカス]]地方に住むロシア人は地位が不安定で定職に就くことも難しいため、カリーニングラード州としては彼らを呼び寄せたいと考えている。州政府は、彼らのための住宅建設は順調に進んでおりすぐにでも呼び寄せることは可能である、と述べている。…
 
 
 
…ただし「ロシアの工場」カリーニングラード経済の問題は、原材料や中間製品がすべてロシア本土からやってきて、州内で作られる最終製品の販売先がロシア本土しかないことである。州政府としては、周辺のEU諸国と経済関係を築きたいところであるが、EUと様々な政治的問題を抱えるロシア中央政府がそれに反対している。…しかしカリーニングラード住民の意識は年々変化し、ロシア離れが加速しており、子供たちまで「我々カリーニングラード住民は大ロシア(ロシア本土)とは違って、もっとヨーロッパ的である」と発言するまでになっている。}}
 
 
 
{{要出典範囲|カリーニングラードの今後のさらなる発展は、東方拡大を進めてきたEUとロシアの関係の重要な課題となっている。現在では、ソ連時代に破壊された大聖堂などの歴史的建造物の再建が進められている。|date=2016年9月}}
 
 
 
== ギャラリー ==
 
{{Gallery
 
|ファイル:ID003144 A051 Passage.jpg|ケーニヒスベルクのパサージュ
 
|ファイル:ID004013 B443 AltstaedtMarkt.jpg|アルトシュタットの市場
 
|ファイル:Schlossteich Königsberg.jpg|ケーニヒスベルク城の背後の池
 
|ファイル:Alte_Universität_Königsberg_4.jpg|アルベルティナ大学([[ケーニヒスベルク大学]]
 
|ファイル:AfterwarKaliningrad .jpg|戦後のケーニヒスベルク城の廃墟
 
|ファイル:Istoriko-hudozhestvennyMuzey.JPG|カリーニングラード歴史美術博物館、戦前の建物の再利用
 
|ファイル:Kingsgate2.JPG|城門、Königstor
 
|ファイル:Koenigsburg-047.jpg|城門、Friedrichsburger Tor
 
|ファイル:Christcathedral.png|[[救世主ハリストス大聖堂 (カリーニングラード)|カリーニングラード救世主ハリストス大聖堂]]
 
|ファイル:Kant Kaliningrad.jpg|[[イマヌエル・カント]]像
 
|ファイル:Birzha2.jpg|ケーニヒスベルク証券取引場の残骸
 
|ファイル:IMG 6448.jpg|再建された[[ケーニヒスベルク大聖堂]]
 
}}
 
 
 
== ケーニヒスベルク・カリーニングラードゆかりの人物 ==
 
[[ファイル:ID003590 B024 Stadtplan.jpg|thumb|right|250px|戦前のケーニヒスベルクの地図]]
 
[[ファイル:Albertina.jpg|thumb|right|250px|[[ケーニヒスベルク大学]](アルベルティナ大学、19世紀後半)。後のカリーニングラード大学、現在の{{仮リンク|イマニュエル・カント国立大学|en|Immanuel Kant Baltic Federal University}}]]
 
[[ファイル:Baltic fleet headquarters.jpg|thumb|right|250px|[[バルト海艦隊]]司令部]]
 
* [[ヨハン・ゲオルク・ハーマン]]:哲学者・文学者
 
* [[ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー]]:哲学者・文学者、詩人、神学者
 
* [[イマヌエル・カント]]:哲学者
 
* [[レオンハルト・オイラー]](下記「ケーニヒスベルクの橋」参照):数学者・物理学者
 
* [[ケーテ・コルヴィッツ]]:版画家、彫刻家
 
* [[ハンナ・アーレント]]:哲学者
 
* [[ブルーノ・タウト]]:建築家、都市計画家
 
* [[E.T.A.ホフマン|エルンスト・テオドーア・アマデーウス・ホフマン]]:小説家、詩人、作曲家、音楽評論家、画家、裁判官
 
* [[オットー・ヴァラッハ]]:化学者
 
* [[フリッツ・アルベルト・リップマン]]:生化学者(1953年度[[ノーベル生理学・医学賞]]受賞)
 
* [[ダーヴィト・ヒルベルト]]:数学者
 
* [[レア・ラビン]]:[[イツハク・ラビン]]の妻
 
* [[クリスティアン・ゴールドバッハ]]:数学者
 
* [[杉原千畝]]:赴任した外交官
 
  
== 交通 ==
+
[[1946年]]まで[[ケーニヒスベルク]]。ロシア西端部,[[カリーニングラード州]]の州都。[[バルト海]]に通じるウィスワ潟湖の北東部,カリーニングラード湾に面する港湾都市で,プレゴリャ川の河口に位置する。
[[File:Southern stationl.jpg|thumb|[[カリーニングラード駅]]]]
 
[[File:TramKaliningrad.jpg|thumb|カリーニングラード市電]]
 
  
{{仮リンク|フラブロヴォ空港|en|Khrabrovo Airport}}からはロシア本土の各都市や他のヨーロッパ都市への便が運行されている。[[バルチースク]]からは[[サンクトペテルブルク]][[ストックホルム]][[コペンハーゲン]][[リガ]]、[[キール (ドイツ)|キール]]への航路がある。[[カリーニングラード駅]]からは[[モスクワ]]、[[サンクトペテルブルク]]、[[ソチ]]、[[チェリャビンスク]]方面への列車が運行されている。[[カリーニングラード鉄道|カリーニングラードの鉄道]]の特徴としては、[[ポーランド]]・[[東ドイツ]]方面の路線は [[標準軌]]を広軌と併設([[三線軌条]])している点である。これは[[冷戦]]期には軍事目的で整備されたものであるが、現在でも役立っている。カリーニングラード駅の6番ホームは[[エルブロンク]]方面からの標準軌の列車が発着可能である。近郊列車はカリーニングラード北駅からも発着しており、[[ゼレノグラーツク]]、[[スヴェトロゴルスク]]、[[ソヴィェツク (カリーニングラード州)|ソヴィェツク]]方面に向かうものがある。
+
[[1255年]][[ドイツ騎士団]]により建設され,1340年[[ハンザ同盟]]加入後,商業都市として繁栄。 16世紀初頭プロシア公国の首都となり,1701年からプロシア王国領,のちドイツ領。 1945年4月ソ連軍が占領し,ドイツに対する戦後処理を決定した[[ポツダム協定]]でソ連領となった。市街は[[第2次世界大戦]]により大きな被害を受けた。
  
路面電車は1881年に開業し、現在も運行が続けられている。[[1975年]]にはトロリーバスの運行も開始された。
+
現在,機械 (鉄道車両,クレーン) ,造船,木材加工,製紙,食肉加工,水産加工,綿織物などの工業がある。港は冬季結氷することもあるが,船の出入が可能で,不凍港とされ,バルト海におけるロシアの主要な軍港であるとともに,商港,漁港としても重要。
  
== 姉妹都市 ==
+
湾内の水深が浅いため,西のバルト砂嘴に位置する外港バルチースクまで水路が浚渫されている。
*{{Flagicon|POL}} [[ウッチ]]、[[ポーランド]]
 
*{{Flagicon|POL}} [[エルブロンク]]、[[ポーランド]]
 
*{{Flagicon|POL}} [[オルシュティン]]、[[ポーランド]]
 
*{{Flagicon|POL}} [[グダニスク]]、[[ポーランド]]
 
*{{Flagicon|POL}} [[グディニャ]]、[[ポーランド]]
 
*{{Flagicon|POL}} [[ザブジェ]]、[[ポーランド]]
 
*{{Flagicon|POL}} [[トルン]]、[[ポーランド]]
 
*{{Flagicon|LTU}} [[カウナス]]、[[リトアニア]]
 
*{{Flagicon|LTU}} [[クライペダ]]、[[リトアニア]]
 
*{{Flagicon|GER}} [[キール (都市)|キール]]、[[ドイツ]]
 
*{{Flagicon|GER}} [[ブレーマーハーフェン]]、[[ドイツ]]
 
*{{Flagicon|NED}} [[フローニンゲン]], [[オランダ]]
 
*{{Flagicon|USA}} [[ノーフォーク (バージニア州)|ノーフォーク]]、[[アメリカ合衆国]]
 
  
== 文化 ==
+
カリーニングラード大学 (1967) ,水産大学,高等商船学校などがある。鉄道により[[ラトビア]][[リガ]][[リトアニア]][[カウナス]],[[ポーランド]]の[[エルブロンク]]などと結ばれ,[[コペンハーゲン]],[[グダニスク]],[[サンクトペテルブルグ]]と定期船で連絡。
===スポーツ===
 
[[2018 FIFAワールドカップ]]の開催都市のひとつとなり、新築の[[カリーニングラード・スタジアム]]が会場として使用された。大会後は[[ロシア・ナショナル・フットボールリーグ]]に所属する[[FCバルチカ・カリーニングラード]]の本拠地として使用される。
 
  
==関連項目==
+
人口 43万1491(2010)
*[[北方領土問題]]
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 文献 ==
 
{{脚注の不足|date=2016年9月|section=1}}
 
*Eberhard Beckherrn, Aleksej Dubatov: Die Königsberg-Papiere. Neue Dokumente aus russischen Archiven. Schicksal einer deutschen Stadt. Langen Müller, München 1994.
 
*Bert Hoppe: Auf den Trümmern von Königsberg. Kaliningrad 1946−1970, Schriftenreihe der Vierteljahrshefte für Zeitgeschichte, Bd. 80, München 2000.
 
*Per Brodersen: Die Stadt im Westen. Wie Königsberg Kaliningrad wurde (mit einem Vorwort von Haug von Kuenheim), Vandenhoeck & Ruprecht, Göttingen 2008, ISBN 978-3-525-36301-0.
 
*Eckhard Matthes (Herausgeber): Als Russe in Ostpreussen. Sowjetische Umsiedler über ihren Neubeginn in Königsberg/Kaliningrad nach 1945, Ostfildern 1999.
 
*Eckhard Matthes: Verbotene Erinnerung. Die Wiederentdeckung der ostpreußischen Geschichte im Gebiet Kaliningrad (1945−2001). In: Osteuropa 51 (2001), H. 11−12, S. 1350−1390.
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{commons|Kaliningrad}}
 
* [[一筆書き#ケーニヒスベルクの問題|ケーニヒスベルクの橋の問題]]
 
  
 
== 外部リンク ==
 
== 外部リンク ==
* [http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/ussr/eastprussia.html 東プロイセン&カリーニングラード]
 
 
* [http://www.klgd.ru/en/ Official site of Kaliningrad City Hall]
 
* [http://www.klgd.ru/en/ Official site of Kaliningrad City Hall]
 
{{Normdaten}}
 
  
 
{{DEFAULTSORT:かりいにんくらあと}}
 
{{DEFAULTSORT:かりいにんくらあと}}

2018/8/10/ (金) 20:50時点における最新版


カリーニングラード
Калининград
位置
カリーニングラード の位置図
座標 : 東経20度31分北緯54.717度 東経20.517度54.717; 20.517
歴史
建設 1255年
旧名 ケーニヒスベルク
創設者 ドイツ騎士団
行政
ロシアの旗 ロシア
 連邦管区 北西連邦管区
 行政区画 カリーニングラード州
 市 カリーニングラード
地理
面積  
  市域 215.7 km2
標高 4.8 m
人口
人口 (2008年現在)
  市域 421,678人
公式ウェブサイト : http://www.klgd.ru/

カリーニングラードロシア語Калининградカリニングラート〕、ラテン文字転写の例:Kaliningrad )

1946年までケーニヒスベルク。ロシア西端部,カリーニングラード州の州都。バルト海に通じるウィスワ潟湖の北東部,カリーニングラード湾に面する港湾都市で,プレゴリャ川の河口に位置する。

1255年ドイツ騎士団により建設され,1340年ハンザ同盟加入後,商業都市として繁栄。 16世紀初頭プロシア公国の首都となり,1701年からプロシア王国領,のちドイツ領。 1945年4月ソ連軍が占領し,ドイツに対する戦後処理を決定したポツダム協定でソ連領となった。市街は第2次世界大戦により大きな被害を受けた。

現在,機械 (鉄道車両,クレーン) ,造船,木材加工,製紙,食肉加工,水産加工,綿織物などの工業がある。港は冬季結氷することもあるが,船の出入が可能で,不凍港とされ,バルト海におけるロシアの主要な軍港であるとともに,商港,漁港としても重要。

湾内の水深が浅いため,西のバルト砂嘴に位置する外港バルチースクまで水路が浚渫されている。

カリーニングラード大学 (1967) ,水産大学,高等商船学校などがある。鉄道によりラトビアリガリトアニアカウナスポーランドエルブロンクなどと結ばれ,コペンハーゲングダニスクサンクトペテルブルグと定期船で連絡。

人口 43万1491(2010)

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