カミーユ・クローデル

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カミーユ・クローデル(1884年)

カミーユ・クローデルクロデルとも、Camille Claudel発音例1864年12月8日 - 1943年10月19日)は、フランス彫刻家劇作家外交官ポール・クローデルは弟。

生涯

1864年、エーヌ県フェール=アン=タルドノワEnglish版にて、父ルイ=プロスペル・クローデルと母ルイーズの間に3人兄弟の長女として生まれる。妹には母と同じルイーズの名前が与えられた。子供の頃から彫刻に親しみ、卓越した技術と才能を発揮していく。そしてまた類まれなる美貌をも持っていた。19歳の時に彫刻家オーギュスト・ロダンの弟子となる。時にロダン42歳。2人は次第に愛し合うようになるが、ロダンには内妻ローズがいたため三角関係となる。その関係はその後15年にわたって続いていく。

ローズは大きな心の安らぎの存在であり、カミーユは若さと美貌と才能に満ち溢れた刺激的な存在であったため、ロダンは2人のどちらかを選ぶことはできなかった。その中でカミーユは20代後半にロダンの子を妊娠するも中絶し、多大なショックを受ける。やがて2人の関係は破綻を迎え、ロダンは妻ローズのもとへ帰っていく。徐々にカミーユは心を病み、40代後半に統合失調症を発症する。

1913年3月10日、48歳の時に家族によってパリ郊外のヌイイ=シュル=マルヌにあるヴィル・エヴラール精神病院に入れられた。その後第一次世界大戦の影響で南仏のモントヴェルク精神病院に移動させられ、生涯をそこで過ごした。母ルイーズはカミーユの芸術に理解を示さなかったため、2人の間には生涯確執が消えることはなかった。そのためルイーズと妹が病院へ見舞いに行くことは一度もなく、ポールが数年に1度見舞うのみであった。しかし弟も結婚し、外交官として任地の上海へ向かった後は姉と会う回数が激減した。

後年は毎朝決まって病院構内の礼拝堂に向かい祈った。カミーユは誰とも口を聞こうとせず、一人自己の世界に閉じこもった。また、ロダンへの憎しみと周囲の患者を見下すことでかろうじて自己の精神の孤高を保った。晩年のみすぼらしい身なりで痩せこけ、精彩を欠いた姿に面会したポールは愕然としたという。

第二次世界大戦中の1943年、家族に看取られることなく亡くなった。78歳没。故郷に帰ることを終生願ったが叶うことはなかった。

精神を病んだ後カミーユは多くの作品を破壊したが、そのうち約90の彫像、スケッチ、絵画が現存した。死後の1951年、ポールはロダン美術館で彼女の作品の展示を行った。

作品

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カミーユの頭像(ロダン作、1886年)
  • 『分別盛り』
  • 『ワルツ』「シャクンタラー」
  • 『幼い女城主』
  • 『心からの信頼』
  • 『骨をしゃぶる犬』
  • 『物思い』
  • 『嘆願する女』
  • 『おしゃべりな女たち』
  • 『ポール・クローデル42歳の胸像』
  • 『オーギュスト・ロダンの胸像』
  • 『ペルセウスとゴルゴン』
  • 『泡』
  • 『クロト』
  • 『束を背負った若い娘』
  • 『波』:葛飾北斎の「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」にインスピレーションを受けて彫刻[1]

日本語文献

日本での映画『カミーユ・クローデル』公開に合わせて多くの文献が刊行され、紹介が本格化した。また1987年と2006年に「展覧会」が開催された。

カミーユ・クローデルを扱った作品

脚注

  1. [1]世界の北斎と西洋の名作が夢の共演

関連項目