「カトリック教会の歴史」の版間の差分

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{{独自研究|date=2010年9月}}
 
'''カトリック教会の歴史'''では、組織としての[[カトリック教会|ローマ・カトリック教会]]の[[歴史]]、そしてカトリック神学の歴史について扱う。
 
 
 
{{Main2|[[キリスト教]]全体の歴史については、[[キリスト教の歴史]]を}}
 
 
 
== 古代、教父の時代 ==
 
{{main|公会議|フィリオクェ問題|教父}}
 
[[ローマ帝国]]に於いてキリスト教が公認されると、首都ローマの[[司教]]は聖[[ペトロ]]の後継者であると自ら宣言し、神の国に入るための鍵を持っているとされた。
 
[[ニカイア・コンスタンティノポリス信条]]を[[ギリシア語]]から[[ラテン語]]に訳す際に[[西方教会]]は「子からも」と付け加えた。カトリック教会に言わせると我々は[[イエス・キリスト]]によってでしか救済されないのだから、これは改竄ではなく分かり易く意訳したのだという主張となる。これに対し[[東方教会]]は信条の改竄であり許されないという立場をとった。この時から両者の対立は始まっていた。
 
 
 
{{See also|東西教会の分裂}}
 
 
 
この頃、帝国は衰退の一途を辿っていた。その原因をキリスト教徒に求めようとする人々に対し、ヒッポの[[アウグスティヌス]]は『[[神の国 (アウグスティヌス)|神の国]]』を書き、反論した。
 
 
 
== 中世 ==
 
{{main|異端審問|スコラ学|十字軍}}
 
[[8世紀]]頃、[[フランク王国]]の国王[[ピピン3世]]から土地を寄進され、[[教皇領]]が成立した。
 
 
 
[[異端審問]]や[[十字軍]]派遣といった強攻策も採られたが、中世カトリック教会は文化的に充実した実績を残した。[[ドミニコ会]]や[[フランシスコ会]]といった[[修道会]]もこの時期に設立された。[[アンセルムス]]や[[トマス・アクィナス]]といった神学者や、[[ダンテ・アリギエーリ]]の『[[神曲]]』も書かれ、「[[煉獄]]」という考えかたが正式にカトリック教会の[[教義]]となっている。
 
 
 
[[1309年]]に[[フランス]]国王[[フィリップ4世 (フランス王)|フィリップ4世]]によってフランス南部の[[アヴィニョン]]に教皇庁が移され、教皇は実質的にフランス国王の従属下に置かれることとなり、[[教会大分裂]]をもたらした。
 
 
 
[[14世紀]]になると、[[イタリア]]を中心に[[ルネサンス]]運動が活発になり、[[ミケランジェロ・ブオナローティ]]や[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]、[[ラファエロ・サンティ]]といった芸術家が活躍した。教皇[[ユリウス2世 (ローマ教皇)|ユリウス2世]]はミケランジェロに依頼して[[システィーナ礼拝堂]]の[[システィーナ礼拝堂天井画|天井画]]を描かせた。
 
 
 
== 宗教改革に対して ==
 
{{main|対抗宗教改革|トリエント公会議}}
 
[[ジャン・カルヴァン]]や[[マルティン・ルター]]らによる宗教改革が始まると、カトリック教会は直ちにそれを阻止する為に手を打った。[[トリエント公会議]]の際に[[ヴルガータ]]が教会の正式な聖書として承認された。
 
 
 
[[ローマ教皇庁]]は[[ヨーロッパ]]各国に対しプロテスタントを採用しないように圧力を掛けた。国王[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]の離婚問題以来プロテスタントとなっていた[[イングランド王国]]は、一時的に[[メアリー1世 (イングランド女王)|メアリー1世]]の時にはカトリックだったが、その後に[[エリザベス1世]]が女王として即位すると[[イングランド国教会]]が国教として定められ、カトリックの再国教化には失敗した。
 
 
 
== 近代 ==
 
{{main|反教権主義|啓蒙思想|理神論}}
 
[[フランス革命]]の頃には啓蒙思想が台頭し、[[マクシミリアン・ロベスピエール]]は[[最高存在の祭典]]を開いた。カトリック教会は明確にこうした理性崇拝に反対し、フランス当局とは全面的に対立した。
 
 
 
[[18世紀]]になると[[アジア]]への布教活動も活発になった。[[パリ外国宣教会]]は[[東南アジア]]や[[中国]]、[[日本]]にも宣教師を派遣した。[[19世紀]]には[[テオドール=オギュスタン・フォルカード]]も来日した。
 
 
 
こうした活動の中心になったのは、[[イエズス会]]だった。彼らは中国宣教の際に[[皇帝]]に土下座したり[[儒教]]の習慣に従ったことで、[[典礼論争]]が起こった。[[スペイン継承戦争]]や[[オーストリア継承戦争]]の際にも教皇庁は影響力拡大と[[プロテスタント]]への抵抗のために積極的に関与した。それでも世俗国家の台頭を防ぐ事は出来ず、結果的に国家権力が教会の力を凌駕する形が実質的に固まり、教皇庁もそれを受け入れざるを得なかった。教皇庁は[[フランス]]に対して[[ガリカニスム]]の撤廃を要求したが、拒否された。
 
 
 
1869年12月8日に[[第1バチカン公会議]]が開催され、ここで[[教皇首位説]]や[[教皇不可謬説]]が承認された。これに反発した勢力が教会組織から脱退し、[[復古カトリック教会]]を設立した。この教会は現在でも[[オランダ]]や[[スイス]]に残っている。
 
 
 
また、19世紀には一般信徒による[[聖書]]朗読が認められるようになった。プロテスタント各派では既に認められていたが、カトリック教会ではそれまで専門教育を受けた聖職者しか聖書を読むことは許されていなかった。
 
 
 
== 20世紀 ==
 
{{main|教権的ファシズム|第2バチカン公会議|ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)}}
 
[[1929年]]に[[イタリア]]の[[ベニート・ムッソリーニ]]との間で[[ラテラノ条約]]が結ばれ、現在の[[バチカン]]市国が成立し、教皇領の歴史は終わりを告げた。
 
 
 
[[第二次世界大戦]]が始まると、[[バチカン]]は[[イタリア王国|イタリア]]、[[クロアチア独立国|クロアチア]]、[[フランコ体制下のスペイン|スペイン]]などに成立した[[ファシズム|ファシスト]]、若しくはそれに類似した政権を次々と承認した。[[オプス・デイ]]もこの時期に設立された。その理由は[[共産主義]]や[[プロテスタント]]よりはマシだったからといったものだが、この決定は後に厳しく批判され、[[ユダヤ人]]の一部からはバチカンに対して戦争責任を問う声も挙がっている。
 
 
 
[[1960年代]]に入ると[[第2バチカン公会議]]が開かれ、この頃には[[イヴ・コンガール]]、[[カール・ラーナー]]、[[アンリ・ドゥ・リュバック]]や[[ハンス・ウルス・フォン・バルタサル]]といった[[自由主義|リベラル派]]の神学者が活躍した。[[プロテスタント]]各派や[[東方正教会]]、[[マルクス主義]]との対話が続けられた。典礼や教理の変更に反発した[[マルセル・ルフェーブル]]神父が[[1970年]]に反動的な[[聖ピオ十世会]]を設立し、破門された。
 
 
 
[[1978年]][[10月16日]]、当時[[社会主義]]国だった[[ポーランド人民共和国|ポーランド]]出身のカロル・ユゼフ・ヴォワティワ枢機卿がヨハネ・パウロ2世として第264代ローマ教皇に就任した。カトリック教会は急に保守的閉鎖的な態度を取り始め、教皇の[[教皇不可謬説|不可謬性]]に異論を唱えた神学者[[ハンス・キュング]]も破門された。
 
 
 
ほぼ同じ頃、バチカンは[[中華人民共和国]]と国交正常化を模索し始めたが、現在でも実現していない。
 
 
 
== 21世紀 ==
 
{{See also|フランシスコ (ローマ教皇)}}
 
[[2005年]][[4月2日]]、教皇ヨハネ・パウロ2世は84年の生涯を閉じた。葬儀の際には各国の[[元首|国家元首]]や[[政府の長]]が参列した。直ちに[[コンクラーヴェ]]が行われ、[[ドイツ]]出身のヨーゼフ・ラッツィンガー枢機卿が第265代ローマ教皇として選出され、[[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]]と名乗った。
 
 
 
[[2006年]][[9月12日]]、教皇ベネディクト16世は[[東ローマ帝国の皇帝一覧|ビザンティン皇帝]][[マヌエル2世パレオロゴス]]の言葉を引用し、[[イスラム教]]は暴力的で危険な宗教であると断定した。ムスリム側の猛反発を受けベネディクト16世は直ちに謝罪したが、この一件により[[西洋]]諸国ではイスラム教に対する警戒感が高まった。
 
 
 
その後、2007年7月に[[中国天主教愛国会]]の副主席劉柏年がローマ教皇の中国訪問を要求したが、実現しなかった。[[2009年]][[12月3日]]にはベネディクト16世は[[ロシア]]の[[ドミートリー・メドヴェージェフ|メドヴェージェフ]][[ロシア連邦大統領|大統領]]と会談した他、同年12月11日に[[ベトナム]]の[[グエン・ミン・チェット]][[ベトナム社会主義共和国主席|国家主席]]とも会談し、それぞれの国家と国交正常化のために協議を重ねる事で合意した。
 
 
 
[[2013年]]2月28日、教皇ベネディクト16世は[[ベネディクト16世の退位|高齢を理由に生前退位]]し、後に[[名誉教皇]]となった。退位表明を受けてコンクラーヴェが行われ、3月13日に後継者として[[フランシスコ (ローマ教皇)|フランシスコ]]が選出され、3月19日に着座した。
 
 
 
[[Category:カトリック|*]]
 
[[Category:キリスト教の歴史]]
 
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