「オーギュスト・ロダン」の版間の差分

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'''フランソワ=オーギュスト=ルネ・ロダン'''({{Lang-fr|François-Auguste-René Rodin}}、[[1840年]][[11月12日]] - [[1917年]][[11月17日]])は、[[フランス]]の[[彫刻家]]。[[19世紀]]を代表する彫刻家とされ、『'''近代彫刻の父'''』と称される。代表作に『[[地獄の門]]』、その一部を抜き出した『[[考える人 (ロダン)|考える人]]』など。
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'''フランソワ=オーギュスト=ルネ・ロダン'''({{Lang-fr|François-Auguste-René Rodin}}、[[1840年]][[11月12日]] - [[1917年]][[11月17日]])
 
 
== 生涯 ==
 
=== 生い立ちと長い職人時代 ===
 
[[パリ]]在住の[[労働者]]階級の子として生まれた。父ジョアン・バティスタは[[警察]]に雇われる[[事務員]]で、オーギュスト・ロダンは妻マリーとの間に生まれた二人目の子供だった。ロダンは[[エコール・デ・ボザール]]などの美術の専門教育([[アカデミズム]])を受けず、特に青年期以降はほとんど独学で彫刻を習得したことで知られている<ref>"(François) Auguste (René) Rodin." ''International Dictionary of Art and Artists''. St. James Press, 1990. Reproduced in Biography Resource Center. Farmington Hills, Mich.: Thomson Gale. 2006.</ref>。
 
 
 
本人の談によれば10歳の時に初めて絵を描いたことで美術に興味を持ち、14歳の時に地元のプティット・エコール(小さな学校)と呼ばれる工芸学校に入校した。子供達に絵画やデッサンを教えていた[[ルコック・ボードラン]]という教員はロダンを最初に評価した人物で、後年にロダンは感謝の言葉を残している<ref>Jianou & Goldscheider, 31.</ref>。17歳に工芸学校を退校するまで、[[ジュール・ダルー]]・[[アルフォンソ・ルグロ]]など同年代に活躍する画家や彫刻家とも知り合っている。
 
 
 
プティット・エコールを退学した直後、ロダンは学業継続を望んでエコール・ボザール(グラン・エコール)に入学を志願した。ロダンは同窓生をモデルにした[[塑像]]を提出したが、ボザールからの評価は不合格だった。諦めずに翌年と翌々年も塑像を提出し続けたが、ボザールからは全く相手にされなかった。当時のボザールは技術的な要求水準がさほど高くなかったとされ<ref>Hale, 40.</ref>、数度にわたって入学を拒否されたことは非常に大きな挫折といえた。ロダンが入学を拒絶された理由は、ボザールでの[[新古典主義]]に基いた彫刻教育と異なる嗜好で作品を作っていたことも一因かもしれない。入校を諦めたロダンは室内装飾の職人として働きながら、次の道を模索していた。
 
 
 
[[1863年]]、ボザール入学を果たせなかったロダンに追い討ちを掛けたのが姉マリアの死だった。ロダンを経済的に支えていた姉は、恋人との失恋劇で精神を病み、俗世を捨てて[[修道女]]になっていた。その姉が体調を崩して[[修道院]]で病没すると、姉の恋人を最初に紹介したロダンは激しい罪悪感に苦しんだという。姉の後を追うように修道院に入会したロダンは[[修道士]]見習いとして、美術から[[神学]]へと道を変えようとした。だがロダンの指導を任されたピエール・ジュリアン司教は彼が修道士に不向きだと判断して、美術の道を続けるように諭した。
 
 
 
修道会を離れたロダンは動物彫刻の大家であった{{仮リンク|アントワーヌ=ルイ・バリー|en|Antoine-Louis Barye}}に弟子入りして、深い影響を受けた<ref name="morey">{{cite journal|last=Morey|first=C. R.|title=The Art of Auguste Rodin|journal=The Bulletin of the College Art Association of America|volume=1|issue=4|year=1918|pages=145–154|doi=10.2307/3046338}}</ref>。また24歳の時には生涯の妻となる裁縫職人のローズと知り合い、長男オーギュスト・ブーレ・ロダンをもうけているほか<ref>Date of death from Elsen, 206.</ref>、装飾職人としての労働も再開した。[[普仏戦争]]が勃発すると彼も徴兵対象となったが、[[近視]]であったことから兵役を免れた<ref>Jianou & Goldscheider, 34.</ref>。それでも戦争の影響で仕事が減って生活が苦しくなり、30歳までロダンは家族を養うだけの稼ぎを持てなかった<ref name = "tabhhj">Jianou & Goldscheider, 35.</ref>。職を求めて新天地に向かうことを決めたロダンは家族と[[ベルギー]]へ移住して、そこで知り合いの紹介で[[ブリュッセル証券取引所]]の建設作業に参加した。
 
 
 
ロダンは当初は仕事が終われば早々に切り上げてフランスに戻るつもりだったが、様々な理由から6年間滞在を続けた。ベルギー時代は彼の創作活動において重要であったと考えられている<ref name = "tabhhj"/>。彼は装飾職人として独学で彫刻の技法を修練していたが、展覧会用の作品を作る余裕がなかったために、誰も彼が彫刻家としての夢を抱いていたことを知らなかった。[[1875年]]、職人の[[親方]]との関係が悪化したこともあり、ベルギー滞在中に生活費を節約して貯蓄を続けていたロダンはローズを連れて、念願の[[イタリア]]旅行へと出かけていった。そこで目の当たりにした[[ドナテッロ]]と[[ミケランジェロ]]の彫刻に衝撃を受けたロダンは、多大な影響を両者から受けることになった<ref>Hale, 49–50.</ref>。
 
 
 
彼は「[[アカデミズム]]の呪縛は、[[ミケランジェロ]]の作品を見た時に消え失せた」と語っている<ref>Taillandier, 91.</ref>。ベルギーに戻ったロダンは早速イタリア旅行で得た情熱を糧に『青銅時代』を製作、十数年ぶりに彫刻家として活動を開始した。
 
 
 
=== 彫刻家ロダン ===
 
[[ファイル:Auguste Rodin-Burghers of Calais (photo).jpg|thumb|220x220px|『[[カレーの市民]]』]]
 
[[ファイル:Tanyo Shinkin bank Hall02bs2700.jpg|thumb|『青銅時代』<small>([[但陽美術館]])</small>]]
 
この『青銅時代』はオーギュスト・ネイトという人物をモデルにした等身大の男性像で、極めて緻密でリアルな作品であった。ところがそのあまりのリアルさのために「実際の人間から型を取ったのではないか」との疑いをかけられ、憤慨したロダンは2年後に人間よりもかなり大き目のサイズの彫刻を新たに作った。型を取ったのではなかったと分かった審査員たちは、ロダンの彫刻に対して賞賛の言葉を送り、ロダンの名は一気にフランス中に広まった。
 
 
 
[[ファイル:National museum of western art02 1024.jpg|left|thumb|『地獄の門』<small>([[国立西洋美術館]])</small>]]
 
[[1880年]]、ロダンの元に、国立美術館を建てるので、そのモニュメントを作ってほしいとの依頼が来た。そのテーマとしてロダンが選んだのが[[ダンテ・アリギエーリ|ダンテ]]の『[[神曲]]』地獄篇に登場する『[[地獄の門]]』である。ロダンはこの大作品に取り組むに当たり、[[粘土]]や[[水彩画]]などでデッサンを重ねていったが、中々構想はまとまらなかった。
 
 
 
この悩める時期に教え子の[[カミーユ・クローデル]]と出会い、この若き才能と魅力に夢中になった。だが優柔不断なロダンは、カミーユと妻ローズの間で絶えず揺れた。数年後ローズが病に倒れ、カミーユがローズと自分との選択を突付けるまで決断できなかった。ロダンはローズの元に逃げ帰り、ショックを受けたカミーユは以後、徐々に精神のバランスを欠き、ついには[[精神病院]]に入院、死ぬまでそこで過ごすことになる。
 
 
 
[[1888年]]、美術館の建設計画は白紙に戻り(予定地だった所には現在は[[オルセー美術館]]が建っている)、ロダンに『地獄の門』の製作中止命令が届くが、ロダンはこれを断り、金を払って『地獄の門』を自らの物とし、制作を続けた。
 
 
 
ロダンにとって最早『地獄の門』とは単なる作品ではなく、『神曲』の中の物語でもなく、ほかならぬロダン自身のものとなっていたのである。
 
 
 
[[ファイル:Rodin Thinker Kyoto.jpg|220x220px|thumb|『考える人』<small>([[京都国立博物館]])</small>]]
 
[[File:静岡県立美術館-7.JPG|thumb|220px|『考える人』<small>([[静岡県立美術館]] ロダン館)</small>]]
 
そして[[1889年]]、『地獄の門』を覗き込む男を一つの彫刻として発表した。はじめこの彫刻には「詩想を練るダンテ」と名づけられていたが、発表するときは「詩人」と名づけられた。この像は誰を表しているのか、ダンテであるという説もあるが、ロダン自身であるという説もある。その姿は地獄の中を覗き込み、苦悩している姿であり、その地獄の中にはカミーユ、ローズとの間に出来た息子(この子のことをロダンは認知せず、世間にも隠していた)の姿がある。なお『考える人』という名はこの像を鋳造したリュディエが付けたものである。
 
 
 
[[1917年]]、ロダンは死期の迫ったローズと遂に結婚の手続きをした。ロダン77歳、ローズ73歳であった。その16日後にローズは死去し、更に9ヵ月後の[[11月17日]]にロダンも死去した。ロダンの末期の言葉は『パリに残した、若い方の妻に逢いたい。』だった。結局『地獄の門』は未完に終わった。
 
 
 
ロダンの作品群は世界的に人気があり、特に『考える人』は数多く鋳造され、世界中に存在する。体をひねり、頬杖をついて、地獄の門を覗き込む男。そこには人間の内面までも浮かび上がらせようとするロダンの情念が息づいていた。彼の弟子には、[[アントワーヌ・ブールデル]]、[[小倉右一郎]]、[[シャルル・デスピオ]]らがいる。
 
 
 
==作品を収蔵する主な美術館==
 
*[[ロダン美術館 (パリ)|ロダン美術館]] フランス・パリ
 
*[[ロダン美術館 (フィラデルフィア)|ロダン美術館]] アメリカ・フィラデルフィア
 
*[[国立西洋美術館]]『地獄の門』『カレーの市民』『考える人』
 
*[[静岡県立美術館]]『地獄の門』『考える人』(大・小) 『裸のバルザック』(ほか28点)
 
*[[新潟市美術館]]『死の顔・花子』『空想する女・花子』『バルザックの頭部』
 
*[[西山美術館]]『考える人』『パスティアン・ルパージュ』『永遠の青春』
 
*[[大原美術館]]『歩く人』
 
 
 
==白樺派とロダン==
 
明治43年に発行された同人雑誌[[白樺]]の第八号は、「ロダン号」と称され、ロダンの特集が組まれている。[[有島武郎]]、[[高村光太郎]]、[[永井荷風]]らがロダン作品の印象を寄稿した。
 
 
 
それをきっかけにロダンは生前に[[白樺派]]の人々と文通を行っていた。ロダンにデッサンを送ってもらえる機会を得た白樺派の人々は、フランス語の出来る有島生馬が手紙を書き、白樺派の人々が持っている浮世絵と、[[志賀直哉]]と[[武者小路実篤]]がお金を出し合って買った浮世絵を送った。ロダンからはデッサンではなく『ロダン夫人』『ゴロツキの首』『ある小さき影』の三点の彫刻が送られた。これが日本に初めて来たロダンの作品である。
 
  
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フランスの彫刻家。 1855~57年装飾美術学校に学び,さらにエコール・デ・ボザールに3度入学を試みて失敗。 62年姉の死を悲しみ美術を捨てて修道院に入ったが,院長にすすめられて翌年還俗。 64年『鼻のつぶれた男』をサロンに出品して落選。 71年ブリュッセルの彫刻家 [[A.カリエ=ベルーズ]]の助手となり,師とともに建築装飾に従事。 75年にはフィレンツェとローマに旅行し,ミケランジェロの作品から示唆を得て,77年ブリュッセルの美術展に『[[青銅時代]]』を発表した。しかし不評でパリのサロンでも落選し,3年後あらためてサロンに入選した。 80年より政府の委嘱でパリの装飾美術館の門扉『[[地獄の門]]』に着手したが,未完に終った。現存する同作品は 1917年の試作から 38年に鋳造されたもの。しかしその構想過程から『考える人』『接吻』などの傑作が生れた。その他の主要作品『カレーの市民』 (1884~88) ,『バルザック像』 (97) 。なお没地ムードンのほかパリ,フィラデルフィアにはロダン美術館があり,東京の国立西洋美術館にも大コレクションがあって代表作品を所蔵している。
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== 出典 ==
 
== 出典 ==
 
{{Reflist}}
 
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== 参考文献 ==
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{{テンプレート:20180815sk}}
*『ロダンと日本』静岡県立美術館ほか 2001年
 
*『ロダン事典』淡交社 2005年
 
*ロダン [[新庄嘉章]]訳『フランスの大聖堂』 [[東京創元社]]。
 
*『現代美術全集5 ロダン/ブルーデル』集英社 1971年
 
== 関連項目 ==
 
{{Commons&cat|Auguste Rodin|Auguste Rodin}}
 
*[[ウジェーヌ・カリエール]]
 
*[[アリスティド・マイヨール]]
 
*[[ライナ・マリア・リルケ]] 詩人、著書に『ロダン』
 
*[[カミーユ・クローデル]]
 
*[[アントワーヌ・ブールデル]]
 
*[[高田博厚]] 彫刻家
 
*[[高村光太郎]] 『ロダンの言葉』を訳した、初版は大正5年
 
*[[木村荘八]]訳 ポール・グセル編 『ロダンの芸術観』
 
:初版は大正3年 洛陽堂、他に[[内藤濯]]訳、古川達雄訳がある。
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/japanese/rodin/index.php 静岡県立美術館 ロダン館]
 
* [http://www.rodin-web.org/ Rodin-Web.org: independent academic platform on Rodin, with collections overview, biography, photos, books, events]
 
  
{{Normdaten}}
 
 
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[[Category:フランスの彫刻家]]
 
[[Category:フランスの彫刻家]]

2018/10/5/ (金) 20:25時点における最新版

オーギュスト・ロダン
François-Auguste-René Rodin
生誕 フランソワ=オーギュスト=ルネ・ロダン
1840年11月12日
フランスの旗 フランス王国パリ
死没 (1917-11-17) 1917年11月17日(77歳没)
フランスの旗 フランス共和国ムードン
国籍 フランスの旗 フランス
著名な実績 彫刻
代表作

フランソワ=オーギュスト=ルネ・ロダンフランス語: François-Auguste-René Rodin1840年11月12日 - 1917年11月17日

フランスの彫刻家。 1855~57年装飾美術学校に学び,さらにエコール・デ・ボザールに3度入学を試みて失敗。 62年姉の死を悲しみ美術を捨てて修道院に入ったが,院長にすすめられて翌年還俗。 64年『鼻のつぶれた男』をサロンに出品して落選。 71年ブリュッセルの彫刻家 A.カリエ=ベルーズの助手となり,師とともに建築装飾に従事。 75年にはフィレンツェとローマに旅行し,ミケランジェロの作品から示唆を得て,77年ブリュッセルの美術展に『青銅時代』を発表した。しかし不評でパリのサロンでも落選し,3年後あらためてサロンに入選した。 80年より政府の委嘱でパリの装飾美術館の門扉『地獄の門』に着手したが,未完に終った。現存する同作品は 1917年の試作から 38年に鋳造されたもの。しかしその構想過程から『考える人』『接吻』などの傑作が生れた。その他の主要作品『カレーの市民』 (1884~88) ,『バルザック像』 (97) 。なお没地ムードンのほかパリ,フィラデルフィアにはロダン美術館があり,東京の国立西洋美術館にも大コレクションがあって代表作品を所蔵している。

出典



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