オットー3世 (神聖ローマ皇帝)

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オットー3世Otto III., 980年7月 - 1002年1月23日)は中世ドイツ(在位:983年12月 - 1002年)及びイタリア王(在位:996年4月 - 1002年)、並びに西ヨーロッパのローマ皇帝(在位:996年5月 - 1002年)。ザクセン朝第4代の王、第3代の皇帝。第2代皇帝オットー2世ギリシャ皇女テオファヌの子、初代オットー1世大帝の孫。古代ローマ帝国の復興を図った[1]。ローマを首都とした帝国の再興を試みたが、現実に合わず果たせなかった。1002年に21歳で死去。

生涯

摂政時代

983年12月7日の父オットー2世の急死に伴い、3歳で王位を継承した。即位後間もなく、父の政敵であった従叔父バイエルン公ハインリヒ2世が王位を狙ったが、オットー3世の母テオファヌ:テオファノ、東ローマ帝国皇帝ヨハネス1世ツィミスケスの姪とされる)が摂政としてこの難局を乗り切り、王をよく補佐した[2]991年にテオファヌが亡くなった後には祖母アーデルハイトマインツ大司教ヴィリギスらとともに摂政を執り行った[3]

親政時代

994年より14歳で親政を開始[2]。オットー3世は古代ローマ帝国を復興して神政政治を行おうとする意志を抱いていた。

オットー3世も祖父や父と同様にイタリア遠征を敢行[2]。ローマ貴族クレッシェンティウス2世の反乱によりローマ教皇ヨハネス15世ローマから追放され救援を乞うたのが要因であった[4]。だが996年4月初旬にヨハネス15世は熱病で死去。オットー3世は同年4月12日復活祭までパヴィアに滞在したのち軍を進め、地元貴族を退けてローマに入城、祖父オットー1世の曾孫ブルーノをグレゴリウス5世として教皇に選出した(996年5月3日[5][6]996年5月21日にオットーはグレゴリウス5世から帝冠を受け、皇帝位に就いた[5][6]

帝国の文書局長にしてオットー3世の教師であるオーリヤックのジェルベール[7]プラハ司教アーダルベルトを助言者としつつ、オットー3世は西ローマ帝国(神聖ローマ帝国)と東ローマ帝国、そしてローマ教皇の権威を統合して新たに普遍的な帝国の建設を構想する。これは母テオファヌからローマ帝国の理念を教え込まれたからだとする説もある。そして東ローマ帝国の宮廷儀式の幾つかを取り入れもした。

オットー3世がローマを離れるとクレッシェンティウス2世は東ローマ皇帝バシレイオス2世の援助を受けて反乱を起こし、996年9月にグレゴリウス5世を追放し、翌997年5月に対立教皇ヨハネス16世を立てた。しかしオットー3世は同年冬に進軍を開始し、翌998年2月にはローマに凱旋する。ヨハネス16世は逃亡したが拿捕され、鼻と耳を削がれ、舌も切り取られ、手の指を折られ、眼を潰され、オットー3世とグレゴリウス5世の面前にて職位失効が宣言された。そののち現在のドイツ中部のフルダ修道院に移送された。またクレッシェンティウス2世はサンタンジェロ城に篭城したものの、オットー3世は998年復活祭に城を陥落させ、4月29日に斬首のうえ遺体を城壁に吊るした[6]

古代ローマを夢見て

ファイル:Otto III wird von Papst Gregor V. zum Kaiser gesalbt.jpg
グレゴリウス5世に聖油で聖別されるオットー3世

オットー3世は古代ローマ帝国の宮殿が建てられていたパラティーノの丘に古代ローマ様式の宮殿を新たに造営し[8]、東ローマ帝国宮廷様式の祭典を挙行。オットー3世は自らを「イエス・キリストの下僕」「使徒たちの下僕」「世界の皇帝」と称した。998年にはまたジェルベールにラヴェンナ大司教の座を与えた[7]

999年2月18日にグレゴリウス5世が謎の急死を遂げると、ジェルベールをシルウェステル2世として教皇座に就けた[9]。オットー3世は自らを初のキリスト者皇帝コンスタンティヌス1世に、そしてジェルベールをシルウェステル1世になぞらえての命名である。またオットー3世は、コンスタンティヌス1世とシルウェステル1世が交わしたとされていたコンスタンティヌスの寄進状を「いい加減で虚構のもの」として取り消すとともに、改めて所領の寄進をしている[10]

998年から1000年の期間、オットー3世は幾度か巡礼を行っている。南イタリアのガルガノ半島やガエータへ赴き、ガエータではロッサノの聖ニルスに会っている。また聖ロムアルドからは修道士になるよう勧められてもいる。ローマのティベリーナ島に聖堂を建設し、聖アダルベルトの聖遺物と聖バルトロメオの皮膚を納めた。現在の聖バルトロメオ教会である。そしてオットー3世は手本とするカール大帝が眠るアーヘンに紀元千年に訪れている[11]

1001年にローマ近郊のティヴォリで反乱が発生[12]。オットー3世は鎮圧するも住民の命は助けた。しかしティヴォリを敵手とするローマの住民らはティヴォリの破壊を要求。この不満によりローマ市民はトゥスクルム伯グレゴリウスに率いられて反乱を起こし、宮殿は包囲され、教皇ともどもローマから追放され、ラヴェンナに撤退した[13]。オットー3世は兵を招集し再征服を行おうとしたものの、パテルノ城(ファレーリア)にて1002年1月23日に21歳で死去した[13]。折りしも婚約相手の東ローマ皇女[13]バシレイオス2世の姪、コンスタンティノス8世の娘のゾエといわれているが詳細不明)がプッリャに上陸したときであった。独身で子がなかったため、又従弟のバイエルン公ハインリヒ4世(ハインリヒ2世の子)が即位した。

オットー3世の死因は、父と同じくマラリアによるものだと言われている[14]。これはラヴェンナの周囲が湿地であったからである。また一説にはクレッシェンティウス2世の寡婦ステファニアがオットー3世を誘惑しを盛ったとも言われている。

オットー3世の遺体は兵士によってカール大帝の眠るアーヘンに埋葬されたが[13]、現在では失われている。

脚注

  1. 成瀬他、p. 134
  2. 2.0 2.1 2.2 成瀬他、p. 131
  3. 瀬原、p. 107
  4. 瀬原、p. 108
  5. 5.0 5.1 成瀬他、p. 132
  6. 6.0 6.1 6.2 瀬原、p. 109
  7. 7.0 7.1 瀬原、p. 110
  8. 成瀬他、p. 133
  9. 瀬原、p. 112
  10. 瀬原、p. 113-114
  11. 瀬原、p. 113
  12. 瀬原、p. 114
  13. 13.0 13.1 13.2 13.3 瀬原、p. 115
  14. 成瀬他、p. 140

参考文献

  • 下津清太郎 『世界帝王系図集 増補版』 近藤出版社、1987年
  • 成瀬治 他 『世界歴史大系 ドイツ史1』 山川出版社、1997年
  • 瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年
  • 三佐川亮宏 『紀元千年の皇帝―オットー三世とその時代』刀水書房、2018年

関連項目

外部リンク