「エルトゥールル号遭難事件」の版間の差分

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[[File:Kushimoto-toruko-ireihi1.jpg|thumb|300px|エルトゥールル号殉難将士慰霊碑<br/>(和歌山県串本町)]]
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[[File:ErtugrulFirkateyn.png|thumb|300px|写真はオスマン帝国海軍「エルトゥールル」。]]
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'''エルトゥールル号遭難事件'''(エルトゥールルごうそうなんじけん)とは、[[1890年]]([[明治]]23年)[[9月16日]]夜半、[[オスマン帝国]](その一部は現在の[[トルコ]])の軍艦'''[[エルトゥールル (フリゲート)|エルトゥールル]]'''(Ertuğrul Fırkateyni)が、現在の[[和歌山県]][[東牟婁郡]][[串本町]]沖にある、[[紀伊大島]]の[[樫野埼灯台|樫野埼]]東方海上で遭難し500名以上の犠牲者を出した事件<ref>{{Cite book|和書 |author = [[井上たかひこ]] |year = 2015 |title = 水中考古学 クレオパトラ宮殿から元寇船、タイタニックまで |publisher = [[中央公論新社]] |page = 133 |isbn = 978-4-12-102344-5}}</ref>。
 
 
 
現在、和歌山県串本町とトルコの[[ヤカケント]]町、[[メルスィン]]市は姉妹都市である。樫野埼灯台そばには、エルトゥールル号殉難将士慰霊碑および[[トルコ記念館]]が建っており、町と在日本トルコ大使館の共催による慰霊祭が5年ごとに行われている。
 
 
 
== 事件の経過 ==
 
[[File:Abdul Hamid II in Balmoral Castle in 1867.jpg|200px|thumb|アブデュルハミト2世]]
 
 
 
=== 訪日 ===
 
木造[[フリゲート]]・エルトゥールル([[1864年]]建造、全長76m)は、[[1887年]]に行われた[[小松宮彰仁親王|小松宮]]夫妻の[[イスタンブール]]訪問に応えることを目的に、[[オスマン帝国海軍]]の航海訓練を兼ねて[[日本]]へ派遣されることとなった。
 
 
 
[[1889年]]7月14日、イスタンブールを出港。数々の困難に遭いながらも航海の途上に立ち寄った[[イスラム教国|イスラム諸国]]で歓迎を受けつつ、11か月をかけて翌[[1890年]]6月7日に、ようやく日本に到着した。[[横浜港]]に入港したエルトゥールルの司令官オスマン・パシャを特使とする一行は6月13日に[[アブデュルハミト2世]]からの皇帝親書を[[明治天皇]]に奉呈し、[[オスマン帝国]]最初の親善訪日使節団として歓迎を受けた。
 
 
 
=== 帰途に遭難 ===
 
[[File:Kii oshima turkey ship crash001.JPG|thumb|紀伊大島トルコ記念館の直下の海岸。画面奥中央の岩礁にエルトゥールル号が乗り上げ座礁した。]]
 
エルトゥールルは艦齢26年の老朽艦な上に、補給品の不足、乗員の経験不足などもあって、そもそも極東行きの航海自体も海軍内部に反対意見は強く、日本にたどり着いたこと自体が大変な幸運だとみられていた。そして出港以来、蓄積し続けた艦の消耗や乗員の消耗、資金不足に伴う物資不足が限界に達していた。また、多くの乗員が[[コレラ]]に見舞われたため、9月15日になってようやく横浜出港の目処をつけた。そのような状況から、遠洋航海に耐えないエルトゥールルの消耗ぶりをみた日本側が[[台風]]の時期をやり過ごすように勧告するも、オスマン帝国側は、その制止を振り切って帰路についた。
 
 
 
このように無理を押してエルトゥールルが派遣された裏には、[[インド]]・[[東南アジア]]の[[ムスリム]](イスラム教徒)に[[イスラム教]]の盟主・オスマン帝国の国力を誇示したい[[皇帝]]・[[アブデュルハミト2世]]の意志が働いており、出港を強行したのも、日本に留まりつづけることでオスマン帝国海軍の弱体化を流布されることを危惧したためと言われている。遭難事件はその帰途に起こった。
 
 
 
9月16日21時ごろに<ref name="taisikan">{{Cite book |和書 |author=駐日土耳其國大使館 |year=1937 |title=エルトグルル號}}</ref>、折からの台風による強風にあおられ紀伊大島の樫野埼に連なる岩礁に激突、座礁したエルトゥールルは、機関部に浸水して[[水蒸気爆発]]を起こし22時半ごろに沈没した<ref name="taisikan"/>。これにより、司令官{{仮リンク|オスマン・パシャ|de|Osman Pascha (Mirliva)}}をはじめとする600名以上が海へ投げ出された。
 
 
 
=== 救難活動 ===
 
[[ファイル:Kasinosaki-Lighthouse Feb2010.jpg|thumb|200px|樫野埼灯台]]
 
 
 
[[樫野埼灯台]]下に流れ着いた生存者の内、約10名が数十メートルの断崖を這い登って灯台にたどりついた。[[灯台守]]は[[応急手当]]を行なったが、お互いの言葉が通じず、[[国際信号旗]]を使用して、遭難したのが[[オスマン帝国海軍]]軍艦である事を知った<ref name="taisikan"/>。
 
 
 
通報を受けた[[紀伊大島|大島村]](現在の[[串本町]])樫野の住民たちは、総出で救助と生存者の介抱に当たった。この時、[[台風]]により出漁できず、食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、住民は浴衣などの衣類、卵や[[サツマイモ]]、それに非常用の[[ニワトリ]]すら供出するなど、生存者たちの救護に努めた。この結果、樫野の寺、学校、灯台に収容された69名が救出され、生還することが出来た。その一方で残る587名は、死亡または行方不明となり、大惨事となった。遭難の翌朝、事件は樫野の[[区長#その他の区長|区長]]から大島村長の沖周(おき しゅう)に伝えられた。
 
 
 
その後付近を航行中だった船に、大島港へ寄港してもらい、生存者2名が連絡のため[[神戸港]]に向かった。神戸港に停泊中だった[[ドイツ海軍]]の砲艦「ウォルフ」<!--資料通りの表記だがヴォルフかも-->が大島に急行し、生存者は神戸に搬送、病院に収容された<ref name="taisikan"/>。沖村長は[[和歌山県庁|県]]を通じて[[内務省 (日本)|日本政府]]に通報した。知らせを聞いた[[明治天皇]]は、政府に対し、可能な限りの援助を行うよう指示した。各新聞は衝撃的な[[ニュース]]として伝え、[[寄付|義捐金]]・弔慰金も寄せられた。
 
 
 
=== 送還 ===
 
[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[コルベット]]艦、「[[比叡 (コルベット)|比叡]]」と「[[金剛 (コルベット)|金剛]]」が、遭難事故の20日後の[[10月5日]]に、東京の[[品川湊|品川湾]]から出航、神戸港で生存乗員を分乗させ、翌年の[[1891年]]1月2日にオスマン帝国の首都・イスタンブールに送り届けた<ref name="taisikan"/>。なお2隻には、[[秋山真之]]ら[[海軍兵学校 (日本)|海兵]][[海軍兵学校卒業生一覧 (日本)#17期|17期生]]が[[少尉候補生]]として乗り組んだ。
 
 
 
<gallery widths="200px" heights="200px">
 
File:Hiei.jpg|比叡
 
File:Kongo(1878).jpg|金剛
 
</gallery>
 
 
 
=== 追悼と検証 ===
 
現在に至るまで[[串本町]]では5年に一度、追悼式典が行われており<ref>そうだったのか!池上彰の学べるニュース 2月9日放送</ref>、[[2008年]]([[平成]]20年)[[6月7日]]、訪日していた[[アブドゥラー・ギュル]][[トルコの大統領|大統領]]は、同国の大統領として初めてこの地を訪れ、遭難慰霊碑前で行われた追悼式典に出席し献花を行った<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/turkey/visit/0806_gh.html アブドゥッラー・ギュル・トルコ大統領の訪日]</ref><ref>[http://www.wsk.or.jp/report/tani/16.html エルトゥールル号事件にはじまるトルコと串本町の友好]</ref><ref>[http://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/000200/turkiye/120/index.html エルトゥールル号120年慰霊式典]</ref>。
 
 
 
エルトゥールルの残骸は、[[2007年]](平成19年)から、トルコを中心とする数カ国からなる水中考古学の調査団が調査を進めている<ref>「[http://www.agara.co.jp/modules/dailynews/article.php?storyid=118744 船甲羅周辺で遺品多数 トルコ軍艦調査団]」『紀伊民報』(2007年1月27日)<br/>「[http://www.agara.co.jp/modules/dailynews/article.php?storyid=118787 来年、遺品引き揚げ トルコ軍艦調査団]」『紀伊民報』(2007年1月27日)<br/>「[http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/pc/News200715_4286.html 串本町沖で沈没したエルトゥールル艦の引き上げプロジェクト、今月実施]」''Milliyet''(2007年1月5日)東京外国語大学による日本語訳</ref>。[[2008年]](平成20年)1月-2月には、[[アメリカ合衆国]]海洋考古学研究所のトルコ人スタッフらが発掘調査を行い、遺骨や弾丸など1000点以上の遺品を引き揚げた。錨は未だに見つかっておらず、[[2010年]](平成22年)1月8日に沈没地点近くの海底にて探索作業が行われている<ref>{{cite news
 
|url=http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100108-OYT1T00824.htm
 
|title=1890年に沈没トルコ軍艦、錨はどこに?
 
|work=YOMIURI ONLINE
 
|publisher=[[読売新聞]]
 
|date=2010-01-08
 
|accessdate=2010-01-08
 
}}</ref>。
 
 
 
== 遭難事件後の日土関係 ==
 
エルトゥールルの遭難はオスマン帝国内に大きな衝撃を呼んだが、アブデュルハミト2世のもとでは人災としての側面は覆い隠され、天災による殉難と位置付けられ、新聞で大きく報道されるとともに、遺族への弔慰金が集められた。またこのとき新聞を通じて大島村民による救助活動や、日本政府の尽力が伝えられ、当時オスマン帝国の人々は、遠い異国である日本と[[日本人]]に対して、好印象を抱いたといわれている。
 
 
 
=== 山田寅次郎 ===
 
茶道[[宗偏流|宗&#24487;流]]の跡取り、[[山田宗有|山田寅次郎]]もこの事件に衝撃を受けた日本人のひとりであった。彼は日本国内で民間から『エルトゥールル号事件の犠牲者の遺族に対する義捐金』を集めるキャンペーンを行い、事件の翌々年に、集まった義捐金を携えて自らオスマン帝国の首都・イスタンブールに渡った。
 
 
 
山田が民間人ながら義捐金を持ってやってきたことが知られるや、彼は熱烈な歓迎を受け、皇帝アブデュルハミト2世に拝謁する機会にすら恵まれた。このとき、皇帝の要請でトルコに留まることを決意した山田は、イスタンブールに貿易商店を開き、士官学校で少壮の士官に日本語や日本のことを教え、政府の高官のイスタンブール訪問を手引きするなど、日土国交が樹立されない中で官民の交流に尽力した。彼が士官学校で教鞭をとった際、その教えを受けた生徒の中には、後にトルコ共和国の初代大統領となった[[ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]]もいたとされる。
 
 
 
山田がイスタンブール滞在中に起こった[[日露戦争]]が日本の勝利に帰すと、長らく[[ロシア帝国]]から圧力を受け続け、同様にロシアの南下圧力にさらされる日本に対して、親近感を高めていたオスマン帝国の人々は、東の小国日本の快挙としてこれに熱狂した。[[日本海海戦]]時の連合艦隊司令長官であった[[東郷平八郎]]提督にちなんで、トーゴーという名を子供につけることが流行したという。<!--(参考:トルコの靴・鞄メーカー、[http://www.togo.com.tr/ TOGO])-->
 
 
 
=== 日土国交 ===
 
日本とオスマン帝国の外交当局による国交交渉は何度も行われたが、日本側が欧米列強と同等の待遇の条約を望み、[[治外法権]]を認めるよう要求したのに対し、オスマン帝国は不平等条約の拡大を嫌い、両者の交渉が暗礁に乗り上げたため、オスマン帝国の滅亡まで正式な国交が結ばれることはなかった。
 
 
 
[[1914年]]([[大正]]3年)、[[第一次世界大戦]]が勃発すると、[[ドイツ帝国]]ら同盟国側に引き入れられつつあったオスマン帝国の対外情勢は緊迫し、山田はイスタンブールの店を閉鎖して日本へと帰国した。この戦争で[[イギリス]]ら連合国の側についた日本は、オスマン帝国とは敵同士となり、戦後のオスマン帝国の解体とトルコ共和国の成立という目まぐるしい情勢の変化を経て、[[1924年]]([[大正]]13年)発効の[[ローザンヌ条約]]締結・[[1925年]]([[大正]]14年)の大使館開設により、日本政府とトルコ共和国政府は正式に国交を結んだ。
 
 
 
=== 公的記憶 ===
 
エルトゥールル号遭難事件は、日土友好関係の起点として記憶されることになった。トルコ人が公的な場で日土友好の歴史について語るとき、エルトゥールル号遭難事件が持ち出されることがあった。<!-- 現在でもトルコの人々はこのエルトゥールル号遭難事件を忘れておらず、今日のトルコの子どもたちが学ぶ歴史の教科書には長らくこの遭難事件の逸話が載せられている。(←トルコの歴史教科書の日本語訳が出版されているので参照しましたが、それには載せられていませんでした。またNHKの取材(後述)によれば、現在の教科書にも一切見当たらないとのこと)--><!--例えば[[1985年]]に[[イラン・イラク戦争]]下の[[イラン]]から在留日本人が脱出したとき、トルコ政府が[[トルコ航空]]機を派遣して日本人を救出した事件(詳細は[[トルコ航空#トルコ航空の関わった事件|トルコ航空]]を参照)の時にトルコ政府筋はその理由を「エルトゥールル号の事故に対して日本人が行った献身的な救助活動に対するお返しである」と語っている。(編集者(投稿時:IP220.216.109.4)がNHKのプロジェクトX担当者にメールで紹介したところ、NHKの取材ではこの救出事件に直接関わったトルコ航空機の機長をはじめとする関係者はエルトゥールル号遭難事件のことはまったく知らなかったとのことでした。したがって、この記述は邦人救出とエルトゥールル号遭難事件に関連性があるかのような誤解を招くおそれがあるためコメントアウトとします。本項目のノートも参照してください) -->日本においては、遭難現場近くの串本町以外ではあまり記憶されておらず、公的な場で語られることもまれであった。<!--先述の在イラン日本人救出の際もトルコ側の説明とは対照的に、エルトゥールル号事件に触れて日土友好の歴史を言及したコメントは政府・マスコミを含めてほとんどまったくあらわれなかった。それどころかトルコが日本の援助を期待して行ったものとする見解も論じられたほどである。(←とは言ってもいくらなんでも全く経済的、外交的な効果を期待していなかったわけではないでしょう。トルコの無私の友情として語るのはナイーブすぎると思いますが)-->近年は、まれに教科書や副読本で取り上げられることもある<ref>新しい歴史教科書(扶桑社)</ref><ref>[http://www.mitsumura-tosho.co.jp/kyokasho/s_dotoku/material/4nen.html きみが いちばん ひかるとき(光村図書出版 小学校4年の道徳副読本)]</ref>。
 
 
 
2012年2月から3月にかけて日本の外務省がトルコの民間会社に委託して行った調査によると、トルコでエルトゥールルの遭難事件を「知っている」と回答したのは29.9%だった。同じ調査で、近年の日本の経済協力案件である[[ファーティフ・スルタン・メフメト橋|第2ボスポラス大橋]]は44.9%、[[マルマライ計画]]は52.5%だった<ref>{{Cite web |date= |url=http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/24/5/0522_01.html |title=トルコにおける対日世論調査(結果概要) |publisher=外務省 |accessdate=2012-05-22}}</ref>。
 
 
 
事件から125年となった2015年、トルコ海軍の軍艦が下関・串本・東京の3港を訪れ、串本町で行われた追悼式典に参加した<ref>[https://thepage.jp/tokyo/detail/20150605-00000006-wordleaf トルコ海軍のフリゲート艦「ゲディズ」が晴海埠頭に入港 THE PAGE 2015年6月5日]</ref>。
 
 
 
=== イラン・イラク戦争 ===
 
[[File:McDonnell Douglas DC-10-10, Turkish Airlines AN1108419.jpg|thumb|240px|日本人を運んだトルコ航空の[[マクドネル・ダグラス DC-10|DC-10]]イズミル号([[機体記号]]TC-JAY)]]
 
[[1985年]]の[[イラン・イラク戦争]]で、[[イラク]]の[[サダム・フセイン]]は、[[イラン]]上空の[[航空機]]に対する期限を定めた無差別攻撃宣言を行った。各国は期限までにイラン在住の国民を[[メヘラーバード国際空港]]から軍用機や旅客機で救出したものの、[[日本国政府]]は[[自衛隊]]の海外派遣不可の原則のために、[[航空自衛隊]]機による救援ができなかった。さらに、当時日本で唯一国際線を運航していた[[日本航空]]は「イランとイラクによる航行安全の保証がされない限り臨時便は出さない」とし<ref>エルダル・ギュベン『テヘラン脱出』(トルコ商工会議所)※非売品</ref>、在イラン邦人はイランから脱出できない状況に陥った。
 
 
 
[[野村豊]]イラン駐在[[特命全権大使]]が、トルコのビルレル駐在特命全権大使に窮状を訴えたところ、ビルレルは「わかりました。ただちに本国に求め、救援機を派遣させましょう。[[トルコ人]]なら誰もが、[[エルトゥールル (フリゲート)|エルトゥールル]]の遭難の際に受けた恩義を知っています。ご恩返しをさせていただきましょうとも」と答えた<ref>[[#トルコの時代|トルコの時代(2003年 日本におけるトルコ年公式サイト)]]</ref>。ビルレルの要請を受けた[[トルコ航空]]は、自国民救援のための旅客機を2機に増やし、[[オルハン・スヨルジュ]]機長らがフライトを志願。215名の日本人はこれに分乗し、全員[[トルコ]]の[[アタテュルク国際空港]]経由で無事に日本へ帰国できた<ref>トルコ機は、陸路での脱出もできる自国民よりも日本人の救出を優先。この救援機に乗れなかったトルコ人約500名は、陸路自動車でイランを脱出することとなった。</ref><ref>その後[[1994年]]に[[自衛隊法]]が改正がされ、有事により在外邦人を国外に脱出させる必要が生じた時は、[[外務省]]が[[在外公館]]を通じて、相手国の許可を得た上で、[[防衛大臣]]の指揮により、自衛隊の[[日本国政府専用機]]や[[護衛艦]]によって在外邦人を輸送することになり、[[2013年]]の[[アルジェリア人質事件]]では[http://www.mod.go.jp/j/publication/wp/wp2014/pc/2014/html/n3119000.html 自衛隊による救出活動が行われた]。また自衛隊は在外邦人輸送訓練を毎年行っている。</ref>。
 
 
 
この逸話は、[[2002 FIFAワールドカップ]]での[[サッカートルコ代表]]チームの活躍を機に、テレビ番組や雑誌で取り上げられた。[[2004年]]には、これを紹介した児童書が小学生高学年向けの[[読書感想文]]コンクール課題図書になった<ref>木暮正夫/作、相澤るつ子/絵『救出 日本・トルコ友情のドラマ』(アリス館)ISBN 4-7520-0254-X ※第50回青少年読書感想文全国コンクール小学校高学年の部(5・6年生)課題図書</ref>。[[2006年]]、日本政府は、イランで救出に当たったトルコ人の[[パイロット]]や[[客室乗務員]]など13人に勲章を授与し、感謝の気持ちを送った<ref>そうだったのか!池上彰の学べるニュース 2月9日放送</ref>。[[2007年]]10月28日、同時期に開催されたエルトゥールル号回顧展に併せて、[[東京都]][[三鷹市]]の中近東文化センターでこの事件に関するシンポジウムが、当該トルコ航空機の元機長、元客室乗務員、野村元駐イラン日本国[[特命全権大使]]、森永元[[伊藤忠商事]]イスタンブール支店長、毛利悟元[[東京銀行]][[テヘラン]]駐在員ら当時の関係者出席の上で開催された。
 
 
 
[[2015年]]、映画『[[海難1890]]』の公開を記念して、[[ターキッシュ エアラインズ]]は日本乗り入れに使用されている同社の[[エアバスA330]]型機に、当時のデザインを復元した特別塗装を施した。
 
 
 
==エルトゥールル号遭難事件を扱った作品==
 
=== 小説 ===
 
*『海の翼』[[秋月達郎]](2010年3月 新人物往来社新人物文庫 / 2014年7月 PHP文芸文庫)
 
*『トルコ軍艦エルトゥールル号の海難』オメル・エルトゥール著、[[山本雅男]]・植月惠一郎・久保陽子訳(2015年11月 [[彩流社]])
 
*『ブルーアウト』[[鈴木光司]](2015年12月 小学館)
 
 
 
=== 絵本 ===
 
*『エルトゥールル号の遭難 トルコと日本を結ぶ心の物語』[[寮美千子]]文、[[磯良一]]絵(2013年6月 小学館発売<ref>[http://www.shogakukan-cr.co.jp/book/b109843.html エルトゥールル号の遭難]</ref>。厚生労働省「子どもたちに読んでほしい本」選定図書<ref>[http://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-11900000-Koyoukintoujidoukateikyoku/0000070842.pdf 平成25年度 社会保障審議会 児童福祉文化財 推薦作品一覧]</ref>)
 
*『[http://kcrjp.com/taiyo/ タイヨウのくにとツキのふね]』[[やまぐちさゆり]](2018年4月 [http://kcrjp.com/ 株式会社KCR])
 
 
 
=== 漫画 ===
 
*『Teşekkür ederim』[[石川雅之]]([[講談社]]『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]』2014年21・22合併号掲載読切作品)
 
=== 映画 ===
 
*『[[海難1890]]』[[田中光敏]]監督、[[小松江里子]]脚本(2015年12月公開 日本・トルコ合作)<ref>[http://ertugrul-movie.com/ 「海難1890」製作委員会] - オフィシャルサイト</ref>。
 
 
 
==脚注==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* 森修『トルコ軍艦エルトゥールル号の遭難:日本・トルコ友好の偉大な礎石』(日本トルコ協会 [[1990年]])
 
* 松谷浩尚『イスタンブールを愛した人々』([[中公新書]] [[1998年]])
 
* 小松香織『オスマン帝国の近代と海軍』([[山川出版社]] 世界史リブレット [[2004年]])
 
* 高橋忠久、長場紘、[[大村幸弘]]、松原茂樹他『エルトゥールル号回顧展:日本とトルコ友好のかけ橋』(中近東文化センター附属博物館 [[2007年]])
 
* 山田邦紀、坂本俊夫『東の太陽、西の新月-日本・トルコ友好秘話「エルトゥールル号」事件』([[現代書館]] 2007年)ISBN 978-4-7684-6958-3
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[エルトゥールル]] - [[オスマン帝国]]の始祖・[[オスマン1世]]の父。同艦の艦名の由来となった人物。
 
* [[桂秀馬]] - 明治天皇の命により、遭難者の救助・治療にあたった[[宮内省]][[侍医]]。[[1891年]](明治24年)トルコ皇帝より勲章が送られた。
 
* [[イルティッシュ号投降事件]] - 1905年、日本海海戦で損傷したロシア軍艦が島根県の海岸で投降。地元住民が献身的な救助活動を行った。
 
* [[海難事故の一覧]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.turkey.jp/jp/ertugrulfrigateJP.htm 軍艦エルトゥールル号(在日本トルコ大使館ホームページ)]{{ja icon}}
 
* [http://web.archive.org/web/20061007041005/http://www.dzkk.tsk.mil.tr/English/Tarihce/ErtugrulFirkateyni.asp The Ertuğrul frigate disaster(トルコ海軍ホームページ内、キャッシュ)]{{en icon}}
 
* [http://www.dzkk.tsk.tr/english/HOMEPAGE.php# トルコ海軍ホームページ]{{en icon}}
 
* [https://www.spf.org/opri-j/projects/information/newsletter/backnumber/2015/364_1.html トルコ海軍によるレポート]{{jp icon}}
 
* [http://www.town.kushimoto.wakayama.jp/intro/kokusai/turkey.html トルコとの交流 〜エルトゥールル号の遭難〜(串本町ホームページ)]{{ja icon}}
 
* [http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1890--ertugrulJIKEN/index.html 1890 エルトゥールル号事件 報告書(中央防災会議・災害教訓の継承に関する専門調査会)]{{ja icon}}
 
 
 
{{DEFAULTSORT:えるとうるるこうそうなんしけん}}
 
[[Category:串本町の歴史]]
 
[[Category:明治時代の事件]]
 
[[Category:明治時代の外交]]
 
[[Category:オスマン帝国の事件]]
 
[[Category:日本の海難事故]]
 
[[Category:日土関係]]
 
[[Category:訪日外国艦隊]]
 
[[Category:1890年の日本]]
 

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