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{{大統領
 
| 人名 = ウラジーミル・プーチン
 
| 各国語表記 = {{lang|ru|Владимир Владимирович Путин}}<br />{{Lang|en|Vladimir Vladimirovich Putin}}
 
| 画像 = Vladimir Putin - 2006.jpg
 
| 画像サイズ = 200px
 
| 国名 = {{flagicon|RUS}} [[ロシア|ロシア連邦]]
 
| 代数 = 第4
 
| 職名 = [[ロシア連邦大統領|大統領]]
 
| 就任日 = [[2012年]][[5月7日]]
 
| 退任日 = [[2024年]](予定)
 
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<!-- ↓省略可↓ -->
 
| 国名3 = {{flagicon|RUS}} [[ロシア|ロシア連邦]]
 
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| 就任日3 = [[1999年]][[8月16日]]
 
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| 元首3 = [[ボリス・エリツィン]]大統領
 
| 国名4 = {{flagicon|RUS}} [[ロシア|ロシア連邦]]
 
| 代数4 = 第9
 
| 職名4 = 首相
 
| 就任日4 = [[2008年]][[5月8日]]
 
| 退任日4 = [[2012年]][[5月7日]]
 
| 副大統領4 =
 
| 元首4 = [[ドミトリー・メドヴェージェフ]]大統領
 
| 国名5 = {{URB}}
 
| 代数5 = 初
 
| 職名5 = 閣僚会議議長
 
| 就任日5 = [[2008年]][[5月27日]]
 
| 退任日5 =
 
| 副大統領5 =
 
| 元首5 = [[アレクサンドル・ルカシェンコ]][[最高国家会議議長 (ベラルーシ・ロシア連合国家)|議長]]
 
<!-- ↑省略可↑ -->
 
| 出生日 = {{生年月日と年齢|1952|10|7}}
 
| 生地 = {{SSR1923}}、レニングラード<br />(現:[[サンクトペテルブルク]])
 
| 死亡日 =
 
| 没地 =
 
| 配偶者 = [[リュドミラ・プーチナ]] (1983 - 2013)
 
| 政党 = [[ソビエト連邦共産党]](1975年 - [[1991年]]<ref>Владимир Путин. "От Первого Лица". [http://www.kremlin.ru/articles/bookchapter6.shtml Chapter 6]</ref>)<br />無所属 (1991年 - 1995年) <br />[[我が家ロシア]] (1995年 - 1996年) <br />無所属<ref>「[http://jp.rian.ru/analytics/politics/20080417/105268583.html やっと出来たプーチンの「統一ロシア」]」 ノーボスチ通信、2008年4月16日。</ref>(1996年 - 2008年)<br />[[統一ロシア]] (2008年 - )
 
| サイン = Putin_signature.svg
 
}}
 
'''ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチン'''({{Lang-ru|'''Владимир Владимирович Путин'''}}、[[ラテン文字化|ラテン文字表記例]]:'''{{Lang|en|Vladimir Vladimirovich Putin}}'''、[[1952年]][[10月7日]] - )は、[[ロシア|ロシア連邦]]の[[政治家]]。現在は第4代[[ロシア連邦大統領]]([[2012年]][[5月7日]] - )を務める。
 
  
第4代大統領就任以前には、第2代大統領(在任[[2000年]] - [[2008年]])、第5代および第9代[[ロシアの首相|政府議長(首相)]]([[1999年]] - [[2000年]]、2008年 - 2012年)、[[統一ロシア]]党首(2008年 - 2012年)、'''[[ベラルーシ・ロシア連合国家]]'''(正式名称は「'''連合国家'''」)の[[閣僚会議議長 (ベラルーシ・ロシア連合国家)|閣僚会議議長]](首相に相当、2008年 - )など政府・政党の要職を歴任している。このほか、[[サンクトペテルブルク]]の副市長を務めたこともある。
+
'''ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチン'''({{Lang-ru|'''Владимир Владимирович Путин'''}}、[[ラテン文字化|ラテン文字表記例]]'''{{Lang|en|Vladimir Vladimirovich Putin}}'''[[1952年]][[10月7日]] - )}}
  
元[[ソ連国家保安委員会|KGB]]の[[エージェント]]であり、現在のロシア連邦の政治家でもあり、その中でも特に大きな影響力を持っている政治家である。[[学歴|最終学歴]]は[[サンクトペテルブルク大学|レニングラード大学]](現・サンクトペテルブルク大学)[[法学部]]卒業。[[学位]]は[[学士|法学士]]([[サンクトペテルブルク大学]])、[[経済学博士候補]]<ref group="※">ロシアにおける「[[博士候補]]」は欧米諸国の「博士([[Ph.D.]])」に相当する</ref>([[1997年]])。[[軍隊における階級呼称一覧|階級]]は予備役[[大佐]]。
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ロシアの政治家。1975年にレニングラード国立大学法学部を卒業し、ソ連邦国家保安委員会(KGB)に勤務。レニングラード国立大学学長補佐官を経て、1991年のソ連崩壊後、サンクトペテルブルグ市副市長、ロシア連邦保安長官などを経て、1999年に首相に就任。エリツィンに大統領代行に指名され、翌年の大統領選挙に当選、第2代ロシア連邦大統領に就任。2008年、メドベージェフを後継者に指名し大統領に当選させ、みずからは首相となる。2012年に第4代大統領に再任。
  
[[1999年]][[12月31日]]の[[ボリス・エリツィン]]の大統領辞任により大統領代行を務めたのち、[[2000年ロシア大統領選挙]]に勝利して正式に大統領に就任した。[[2004年ロシア大統領選挙|2004年の大統領選挙]]では再選を果たし、2008年[[5月7日]]まで大統領を務めた。そして後任の大統領である[[ドミトリー・メドヴェージェフ]]の指名により同月8日に首相に就任した。
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{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
8年間のプーチン政権でロシア経済は危機を脱して大きく成長し、ロシア社会から高い支持と評価を受けている。[[国内総生産]](GDP)は6倍に増大([[購買力平価説]]では72%)<ref>"[http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2008/01/weodata/weorept.aspx?pr.x=52&pr.y=13&sy=1992&ey=2007&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=922&s=NGDPD%2CPPPGDP&grp=0&a= GDP of Russia from 1992 to 2007]", ''[[国際通貨基金|IMF]]''.</ref>し、貧困は半分以下に減り<ref>"[http://www.kommersant.com/page.asp?id=804651 Putin's Eight Years]", ''[[コメルサント|Kommersant]]'', September 18, 2007.</ref>、平均月給が80[[ドル]]から640ドルに増加し、実質GDPが150%になった<ref>"[http://news.xinhuanet.com/english/2008-02/09/content_7582876.htm Putin visions new development plans for Russia]", ''[[新華社|Xinhua]]'', February 9, 2008.</ref>。
 
 
 
その一方で、[[第二次チェチェン紛争]]での[[人権蹂躙|人権侵害]]などにより、ロシア国外の政府や[[人権団体]]からロシアの[[人権]]と[[自由]]について追及されている。また、非民主的(反民主的)で、非合法な(謀略的な)手法で支配力を行使し政治を行っていることも様々な調査で明らかになっている<ref>NHK BSドキュメンタリー「プーチンの野望 第2回 脅かされる民主主義」[http://www.nhk-g.co.jp/program/documentary/bs_worlddocumentary/029/index.html]</ref>。また統計上は良くなったともされるロシア経済についても、その実態としては[[ウラジーミル・ヤクーニン]]のような一部の[[:en:Political groups during Vladimir Putin's presidency|プーチンと親密な関係にある人物たち]]によって統制が行われてしまっていることがマスメディアの取材で明らかになっている<ref>Catherine Belton and Neil Buckley. "[http://www.ft.com/cms/s/0/ffb58e54-2216-11dd-a50a-000077b07658.html Friends in high places?]", ''[[フィナンシャル・タイムズ|Financial Times]]'', May 15, 2008.</ref><ref>Andrew Kramer. "[http://www.nytimes.com/2007/12/18/business/worldbusiness/18kgb.html?_r=1&partner=rssnyt&emc=rss&oref=slogin Former Russian Spies Are Now Prominent in Business]", ''[[ニューヨーク・タイムズ|New York Times]]'', December 18, 2007.</ref>。こうした統制は、[[ボリス・ネムツォフ]]らプーチン政権の反対派によって厳しく批判されている<ref>Boris Nemtsov and Vladimir Milov. "[http://www.nemtsov.ru/docs/putin-itogi.pdf Независимый экспертеый доклад «Путин. Итоги»]", February, 2008.</ref>。
 
 
 
なおKGBに入るためにはスポーツ(格闘技)を身につけるのが有利であったために[[柔道]]も身につけているという面もあり、[[段級位制|段位]]は柔道八段<ref group="※">来日時に柔道六段を[[講道館]]柔道において贈られるも辞退。詳細は後述</ref><ref>"プーチン大統領、柔道「8段」に[http://www.47news.jp/news/2012/10/post_20121011094600.html]"[[共同通信]]、2012年10月11日。</ref>。[[称号]]は、[[サンボ (格闘技)|サンボ]]と柔道のロシア連邦[[スポーツマスター]]。[[2005年]]12月より[[ヨーロッパ柔道連盟]]名誉会長を務める。また[[国際柔道連盟]](IJF)の名誉会長でもある。
 
 
 
== 経歴 ==
 
 
 
=== 年譜 ===
 
* [[1952年]] - レニングラード([[サンクトペテルブルク]])に生まれる。
 
* [[1975年]] - [[レニングラード大学]][[法学部]]を卒業し、[[ソ連国家保安委員会]](KGB)に勤務。KGBレニングラード局第1課(人事課)に配属。
 
* [[1984年]] - [[対外情報アカデミー|KGB赤旗大学]]に入校。
 
* [[1985年]] - [[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]に派遣。[[ドレスデン]]のソ独友好会館館長をカバーとして、ソ連人学生を監督。
 
* [[1990年]] - 故郷レニングラードに戻り、国際問題担当レニングラード大学学長補佐官。
 
* [[1991年]]12月 - サンクトペテルブルク市対外関係委員会議長。
 
* [[1992年]] - 中佐の階級で予備役編入。サンクトペテルブルク市副市長。
 
* [[1994年]]3月 - サンクトペテルブルク市第一副市長。
 
* [[1996年]]6月 - [[ロシア大統領府]]総務局次長に就任し、中央政界に転じる。
 
* [[1997年]]3月 - ロシア大統領府監督総局長。
 
* [[1998年]]5月 - ロシア大統領府第一副長官。
 
* 1998年7月 - [[ロシア連邦保安庁]](FSB)長官。
 
* [[1999年]]3月 - FSB長官と[[ロシア連邦安全保障会議]]書記を兼任。
 
* 1999年[[8月9日]] - エリツィン大統領により第一副首相に指名される(同日、ステパーシン首相が退陣したため、そのまま首相代行)。8月16日、[[ロシアの首相|首相]]。
 
* 1999年[[12月31日]] - 引退を宣言したエリツィンにより大統領代行に指名。
 
* [[2000年]][[3月26日]] - 過半数の得票を受け大統領に当選。
 
* [[2004年]][[2月24日]] - [[ミハイル・カシヤノフ]]内閣を総辞職させる。
 
* 2004年[[3月5日]] - [[ミハイル・フラトコフ]]を新首相に指名。
 
* 2004年[[3月14日]] - 大統領に再選。
 
* [[2005年]][[12月]] - ヨーロッパ柔道連盟名誉会長に就任。
 
* [[2007年]][[9月12日]] - 内閣を総辞職させ[[ヴィクトル・ズプコフ]]を新首相に指名。
 
* [[2008年]]4月 - [[ルードヴィ・ノーベル賞]]を受賞<ref>[http://jp.reuters.com/article/oddlyEnoughNews/idJPJAPAN-31437720080422 ロシアのプーチン大統領、「ノーベル賞」を受賞(ロイター通信)2008年4月22日,2011年8月23日閲覧]</ref>。
 
* [[2008年]][[5月7日]] - 大統領を退任。同日統一ロシア党首、翌日首相に就任。
 
* [[2012年]][[3月5日]] - 大統領選で二度目の再選。
 
 
 
=== 出自 ===
 
[[ファイル:Vladimir Putin as a child.jpg|thumb|right|140px|少年時代のプーチン]]
 
[[ファイル:Vladimir Putin with his mother.jpg|thumb|left|140px|母マリア・イワーノヴナとの写真(1958年7月)]]
 
[[ファイル:Vladimir Spiridonovich Putin.jpg|thumb|left|140px|父ウラジーミル・スピリドノヴィチ]]
 
[[ファイル:Spiridon Putin.jpg|thumb|left|140px|祖父スピリドン]]
 
[[1952年]][[10月7日]]、サンクトペテルブルグ(当時の市名はレニングラード)にて、父ウラジーミル・スピリドノヴィチ・プーチン([[1911年]] - 1999年)と母マリア・イワーノヴナ・シェロモーワ(1911年 - [[1998年]])とのあいだに生まれる。母は工場などで働いていた。父は活動に熱心な[[ソ連共産党]]党員の[[無神論]]者で母は信仰心が深い[[ロシア正教]]徒だった<ref>Sakwa, Richard (2008). Putin: Russia’s choice (2nd ed.). Abingdon, Oxfordshire: Routledge. ISBN 0-203-93193-9 p. 3</ref>。父は[[ロシア海軍|ソ連海軍]]に徴兵され、[[1930年代]]には潜水艦隊に配属となり、[[第二次世界大戦]]では[[内務人民委員部]](NKVD)の破壊工作部隊に所属し<ref>ナタリア・ゲヴォルクヤン、アンドレイ・コレスニコフ、ナタリア・チマコワ 『プーチン、自らを語る』 高橋則明訳、[[扶桑社]]、2000年、14-16頁。</ref>、[[独ソ戦]](大祖国戦争)で[[傷痍軍人]]となった。戦後は機械技師としてレニングラードの鉄道車両工場で働いた。2人の兄は、いずれもプーチンが生まれる前の1930年代に死亡(1人目は幼くして、2人目は[[レニングラード包囲戦]]のあいだに[[ジフテリア]]で死亡)していたため、プーチンは一人っ子として育つ。プーチンの父方の[[祖父]]であるスピリドン・イワノヴィチ・プーチン([[1879年]]{{ndash}}[[1965年]])はプロの[[コック (家事使用人)|料理人]]であり、[[ヨシフ・スターリン]]の[[ダーチャ]](別荘)の1つにて給仕しており、それ以前は[[ウラジーミル・レーニン]]に仕えていた<ref>同上、13頁。</ref>。
 
 
 
プーチンは自伝で少年時代を振り返り、家庭環境はあまり裕福でなく、少年時代はレニングラードの共同アパートで過ごしたと語っている。[[1960年]][[9月1日]]に共同アパートと同じ通りにある第193小学校に通い始める。小学生だったプーチンに[[ドイツ語]]を教えていた教師によると、プーチンは母親似であるが、頑固で勤勉な性格は父親から受け継いでいたという。また、記憶力は抜群で頭の回転も速かったが、問題児で悪ふざけを繰り返していたと証言している。プーチン自身も後に幼少時代は相当な悪童であったと告白している。しかし6年生になると変化し、成績も上がり、[[ピオネール]]入団も許可された。この頃にはサンボと柔道も始めている。小学校卒業後、プーチンは[[化学]]の中等専門学校に入学した。
 
 
 
=== KGB時代 ===
 
[[ファイル:Vladimir Putin in KGB uniform.jpg|120px|thumb|left|KGBの制服を着たプーチン]]
 
[[ファイル:Vladimir Putin with parents in 1985.jpg|200px|thumb|[[1985年]]、[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]に出発する前に。父ウラジーミル・スピリドノヴィチ、母マリア・イヴァーノヴナと]]
 
やがてプーチンは映画や小説から[[スパイ]]に憧れを抱き、[[ソ連国家保安委員会]](KGB)への就職を考えるようになる。14歳の9年生(日本でいう中学3年生)の時に彼はKGB支部を訪問し、応対した職員にどうすればKGBに就職できるのか質問した。職員は少年の質問にきわめて親切に対応し、KGBは自ら志願してきた者を絶対に採用しないため、今後は自分からKGBにコンタクトしてはならないこと、[[大学]]の専攻は[[法学部]]が有利であること、言動や思想的な問題点があってはならないこと、スポーツの実績は対象者の選考で有利に働くことなどの現実的な助言を与えた。プーチン少年は以後そのアドバイスを忠実に守り、柔道に打ち込み、[[サンクトペテルブルク大学|レニングラード大学]]では法学部を選択し、在学中も自分からはKGBに接触しなかった。そして大学4年生のときにKGBからのリクルートを受け、プーチンは[[1975年]]に同大学を卒業後<ref group="※">プーチンの卒業論文のテーマは[[国際法]]で、論文名は「貿易における[[最恵国待遇]]の諸原則」 «{{lang|ru|Принципы наиболее благоприятствуемой нации}}» であった
 
"[http://www.jurfak.spb.ru/student/graduate/default.asp?now=1975 Выпускники за 1975 год.]", ''[[サンクトペテルブルク大学|Saint Petersburg State University]]''.</ref>、KGBへ就職する<ref group="※">KGBでの任務は、[[諜報活動|諜報]]・[[防諜]]・国内治安対策・思想統制のほか、[[国境警備隊]]による国境警備と[[通関業務]]、旅券発行および外国人の旅券紛失証明に関する事務手続きといった、一般にイメージされる諜報機関よりも業務は幅広い。法学部の需要があるとはいえ、必ずしも法学部優先とは限らない。また、情報工作員に関してはリクルートの段階から秘密裏に行っており、細部は不明であるということを付け加える。</ref>。KGB職員であるためには[[ソビエト連邦共産党]]への入党が条件だったため、プーチンは共産党員になっている<ref>ゲヴォルクヤン、コレスニコフ、チマコワ、前掲、66頁。</ref>。
 
 
 
KGBでは、最初にレニングラード支部事務局、その後訓練を経て対諜報活動局に配属される<ref>同上、64-66頁。</ref>。それからさらなる研修を受けた後、第1総局(対外諜報部)レニングラード支部に勤務する<ref>同上、72頁。</ref>。そして外国で[[諜報活動]]を行うために[[対外情報アカデミー|KGB赤旗大学]]で学び、[[1985年]]に[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]の[[ドレスデン]]へと派遣される。東ドイツには[[1990年]]まで滞在し、政治関係の情報を集める諜報活動に従事したとプーチン自身は語っている<ref>同上、92頁。</ref>。しかし[[ドイツ再統一|東西ドイツ統一]]によりレニングラードに戻り、母校のレニングラード大学に学長補佐官として勤務することになった。このころに、大学生の頃に教わっていた[[アナトリー・サプチャーク]]と懇意になる。
 
 
 
=== 政界へ ===
 
1990年、プーチンはKGBに辞表を提出し<ref group="※">しかしこの時に書いた辞表は受理されなかった。[[ソ連8月クーデター]]が発生した直後の1991年[[8月20日]]にプーチンが再度辞表を提出すると、今度は受理されたという。</ref>、レニングラード市[[ソビエト]]議長だったサプチャークの国際関係担当顧問となった。1991年の共産党解体までは共産党を離党せず、本人曰く党員証は今も持っているという<ref>{{cite news|url=http://rbth.com/politics_and_society/2016/01/25/putin-says-he-likes-communist-ideas-echoing-bibles_562263|publisher=[:en:Russia Beyond the Headlines|Russia Beyond the Headlines]]|author=|title=Putin says he likes Communist ideas echoing Bible's|date=2016-01-25|accessdate=2016-02-02}}</ref>。[[1991年]][[6月]]にサプチャークがレニングラード(同年[[11月]]にサンクトペテルブルクに名称を変更)市長に当選すると、対外関係委員会議長に就任する<ref>[[サンクトペテルブルグ]]では同年に[[大映]]・[[電通]]制作の日本映画「[[おろしや国酔夢譚]]」のロケが行われた。</ref>。その後、[[1992年]]にサプチャークによりサンクトペテルブルク市副市長、[[1994年]][[3月]]にサンクトペテルブルク市第一副市長に任命された。サンクトペテルブルク市の職員としてプーチンは外国企業誘致を行い外国からの投資の促進に努めた。またサプチャークの下で陰の実力者として活躍したため、「灰色の[[枢機卿]]」と呼ばれた(ロシアでは、[[ゲンナジー・ブルブリス]]など陰の実力者に対し、このようなあだ名が付けられることがある)。
 
 
 
[[1996年]]にサプチャークがサンクトペテルブルク市長選挙で[[ウラジーミル・ヤコブレフ]]に敗れて退陣すると、プーチンはそれに伴い第一副市長を辞職する。ヤコブレフによる慰留もあったが、結局はそれを拒否した。その後、[[ロシア大統領府]]総務局長の[[パーヴェル・ボロジン]]による抜擢で([[アナトリー・チュバイス]]説もある)ロシア大統領府総務局次長として[[モスクワ]]に異動した。プーチンはこの職に就任して法務と旧共産党の資産移転と管理<ref>Pribylovsky, Vladimir (2010). "Valdimir Putin". Власть-2010 (60 биографий) (PDF) (in Russian). Moscow: Panorama. pp. 132–139. ISBN 978-5-94420-038-9.</ref>を担当した。[[1997年]]3月にはロシア大統領府副長官兼監督総局長に就任した。
 
 
 
1997年6月、プーチンは[[サンクトペテルブルク国立鉱山大学]]に「市場経済移行期における地域資源の戦略的計画」という論文を提出し、経済科学準博士の学位を得る。この論文の内容は、「豊富な資源を国家管理下におき、ロシアの内外政策に利用する」というものだった(この論文に関しては、[[2007年]]に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の学者が盗作説を主張するも、その後立ち消えとなる)。
 
 
 
1998年[[5月]]にプーチンはロシア大統領府第一副長官に就任した。ここでは地方行政を担当し、地方の[[知事]]との連絡役を務めたが、後にプーチンはこの職務を「一番面白い仕事だった」と振り返っている<ref>ゲヴォルクヤン、コレスニコフ、チマコワ、前掲、166頁。</ref>。同年[[7月]]にはKGBの後身である[[ロシア連邦保安庁]](FSB)の長官に就任。この時、ボリス・エリツィン大統領(当時)の[[資金洗浄|マネーロンダリング]]疑惑を捜査していた{{仮リンク|ユーリ・スクラトフ|ru|Скуратов, Юрий Ильич|en|Yury Skuratov}}検事総長を女性スキャンダルで失脚させ、[[ロシアの首相|首相]]だった[[エフゲニー・プリマコフ]]のエリツィン追い落とし[[クーデター]]を未然に防いだ。この功績によりプーチンはエリツィンの信頼を得るようになる。
 
 
 
=== 首相職(1999年) ===
 
[[ファイル:Vladimir Putin with Boris Yeltsin-2.jpg|thumb|200px|[[1999年]]、大統領代行就任に伴い[[ボリス・エリツィン]](左)からロシア連邦憲法の大統領専用の複写を渡されるプーチン]]
 
プーチンはエリツィンによって1999年[[8月9日]]に第一副首相に任命された(同日[[セルゲイ・ステパーシン]]が首相を解任されたためそのまま首相代行に任命)。この時、エリツィンはプーチンを自身の後継者とすることを表明していた<ref>"[http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/europe/415087.stm Yeltsin redraws political map]", ''[[BBCニュース|BBC News]]'', August 10, 1999.</ref>。さらに1週間後の[[8月16日]]には正式に首相に任命される。首相に就任すると[[ロシア高層アパート連続爆破事件]]をきっかけにして勃発した第二次チェチェン紛争の制圧に辣腕をふるい、「強いリーダー」というイメージを高め国民の支持を獲得した。当時、次期大統領選のプーチンの有力な対抗馬として元首相のプリマコフがいたが、同年[[12月19日]]に行われた[[1999年ロシア下院選挙|ロシア下院選挙]]で、プーチンを支持する[[与党]]・「統一」の獲得議席数がプリマコフらによって結党された「[[祖国・全ロシア]]」の議席数を超えて[[ロシア連邦共産党]]に次ぐ第二党となったことにより、プーチンは次期大統領の座にさらに近づいた(後にプリマコフは次期大統領選への出馬を断念した)。そして同年12月31日に健康上の理由で引退を宣言したエリツィンによって大統領代行に指名される。
 
 
 
=== 大統領職 ===
 
==== 1期目(2000年~2004年) ====
 
[[ファイル:Vladimir Putin taking the Presidential Oath, 7 May 2000.jpg|thumb|150px|[[2000年]]、大統領就任式典で就任宣誓を行うプーチン(左)。右は前大統領のエリツィン]]
 
大統領代行となったプーチンが最初に行ったのは、大統領経験者とその一族の生活を保障するという大統領令に署名することだった。これは、エリツィンに不[[逮捕]]・不[[起訴]]特権を与え、エリツィン一族による[[汚職]]やマネーロンダリングの追及をさせず、引退後のエリツィンの安全を確保するものであるとともに、
 
プーチン自身が大統領職を退いた後の、政敵からの「保身」を見据えたものと思われる。
 
 
 
プーチンは2000年の大統領選挙で過半数の得票を受け決選投票なしで当選した。正式に大統領となったプーチンは「強いロシア」の再建を目標とした。まず、地方政府が中央政府の法体系と矛盾した法律を乱発するなど地方政府への制御が利かなくなっていたため、プーチンは中央政府の権限を強化する政策を打ち出す。2000年5月、ロシア全土85の地域を7つに分けた[[連邦管区]]を設置し、各地域の知事を大統領全権代表に監督させた。ほかには知事の[[連邦会議 (ロシア)|上院]]議員兼務禁止、大統領への知事解任権付与などの政策を実行した。プーチンはこれらの政策により[[中央集権]]化を推進し、「垂直統治機構」と呼ばれるシステムを確立した。さらに、同年12月に[[ソビエト連邦の国歌]]の歌詞を変えて[[ロシアの国歌|新国歌]]に制定した。これはロシア国民に「強かった時代のロシア(ソ連)」を呼び起こすためだとする意見がある。このような強い指導力は反対派からは「強硬である」と批判されたが、ロシア国民の支持を受けた。
 
 
 
1998年の[[ロシア財政危機|ロシア金融危機]]で打撃を受けた[[経済]]が回復し成長を続けたことも、多くのロシア国民がプーチンを支持する一因となった。経済成長は[[原油価格]]の上昇によるところが大きいが、プーチン政権下でさまざまな経済改革が行われたことも理由として挙げられる。[[所得税]]率を3段階による課税から一律13%の[[フラット・タックス]]制に改革したり、[[法人税]]や[[消費税|付加価値税]](消費税)を引き下げたりするなどの税制改革は、税負担の軽減により、横行していた[[脱税]]を減少させ、国家財政再建に寄与した。また、これらの税制改革や土地売買の自由化など法制度の整備によって外国からの投資を呼び込み、ロシア経済が活性化した<ref>アジア&ワールド協会編著 『図解 BRICs経済がみるみるわかる本』 [[PHP研究所]]、2005年、108頁。</ref>。
 
 
 
===== 財閥との対決 =====
 
[[ファイル:Vladimir Putin 31 May 2001-2.jpg|thumb|200px|[[2001年]]、オリガルヒの代表格だった[[ミハイル・ホドルコフスキー]](右)と]]
 
エリツィン時代はエリツィンと側近および支持基盤の[[ロシアの新興財閥|新興財閥]]「オリガルヒ」の時代であった。[[エゴール・ガイダル]]、アナトリー・チュバイスの急進的[[資本主義]]化は、混乱を招いていた。このような状況の中で台頭したのは[[国有財産]]であった[[企業]]を資本主義化の過程において、国有企業経営陣が、タダ同然で私物化して発生したのが、新興財閥オリガルヒである。オリガルヒは、エリツィン政権と癒着して、出身企業以外の国有財産も買収またはタダ同然で払い下げを受けて私物化するようになり、エリツィン[[政権]]との癒着と、マスコミ支配によって政治的影響力を強めていった。こうした癒着は腐敗を生み、オリガルヒの納税回避により国家財政は危機に陥り[[ロシア連邦軍|軍]]の崩壊や金融危機の原因となった[[国債]]乱発を引き起こした。ガイダルの「中央銀行引き受け国債」乱発と急激な価格自由化はハイパー[[インフレーション|インフレ]]を招き、[[年金]]生活者を中心に民衆が大打撃を受けたり、金融危機を招くなどロシア経済の混乱と国民の[[経済格差]]拡大を招いた。また、中央が地方政府への補助を打ち切ったことと、ロシア軍の崩壊のために、中央集権の箍が緩んで、ロシアの各共和国は中央政府の威令を軽んじ 独立傾向を強め、ロシアは第二次国家分解寸前の状況になった。
 
 
 
しかしエリツィンに首相として引立てられたKGB出身のプーチンが大統領になると、プーチンは警察・軍出身者の[[シロヴィキ]]を登用し、財政再建のため新興財閥オリガルヒの脱税を取り締まり始め、財閥と対決した。オリガルヒは所有するメディアでプーチンを攻撃したが、プーチンは脱税・横領などの捜査で[[ウラジーミル・グシンスキー]]や[[ミハイル・ホドルコフスキー]]といったオリガルヒを逮捕して制圧。恭順を誓った企業と和解し、恭順企業にメディアを支配させた。プーチンは企業の政治介入を排除し、恭順を誓ったオリガルヒに納税させ国家財政と崩壊寸前だったロシア軍を再建した。そして[[右派連合 (ロシア)|右派連合]]等オリガルヒ系政党を少数派に追いやり、与党・[[統一ロシア]](前述の「統一」と「祖国・全ロシア」が合併して結成)に支持され[[権力]]を確立した。プーチン政権当初に首相を務めた[[ミハイル・カシヤノフ]]など、プーチン政権内のオリガルヒと密接な関係にあるとされた政治家も遠ざけ、代わってシロヴィキやプーチンと同郷のサンクトペテルブルク出身者(サンクト派)を重用した。しかし、[[アルカディ・ローテンベルク]]と[[ボリス・ローテンベルク]]のローテンベルク兄弟に代表されるようなプーチンと個人的に親しいオリガルヒは救済措置([[ローテンベルク法]])がとられるなど優遇された。
 
 
 
==== 2期目(2004年~2008年) ====
 
[[ファイル:Putin talk 05 09 2005 v2.jpg|thumb|200px|[[2005年]]、[[クレムリン]]にて[[ロシアの首相|首相]](当時)の[[ミハイル・フラトコフ]](左)、[[連邦会議 (ロシア)|上院]]議長の[[セルゲイ・ミロノフ]](右)と]]
 
[[ファイル:Vladimir Putin 9 January 2007-2.jpg|thumb|200px|[[2007年]]、クレムリンにて閣議を行うプーチン]]
 
[[ファイル:Vladimir Putin, Klaus Schwab - World Economic Forum Russia CEO Roundtable 2007.jpg|thumb|200px|2007年、[[世界経済フォーラム]]ロシア[[最高経営責任者|CEO]]円卓会議にて主宰の[[クラウス・シュワブ]](右)と]]
 
[[ファイル:Vladimir Putin 8 February 2008-4.jpg|thumb|200px|[[2008年]]、クレムリンで行われた国家会議にて「[[2020年]]までの発展戦略」を発表するプーチン]]
 
[[ファイル:Vladimir Putin 2 March 2008-2.jpg|thumb|left|200px|2008年、[[2008年ロシア大統領選挙|大統領選]]に勝利した[[ドミトリー・メドヴェージェフ]](右)とともにロックコンサート会場で支持者の声援を受けるプーチン]]
 
[[ファイル:Vladimir Putin 15 April 2008-2.jpg|thumb|200px|2008年、第9回統一ロシア党大会にて拍手の中で立つプーチン]]
 
プーチンは2期目となる2004年の大統領選挙に70[[%]]以上の圧倒的な得票率で再選した。再選後、同年[[9月]]に[[ベスラン学校占拠事件]]が発生したことから、ロシアの国家統一の必要性を理由として、地方の知事を直接選挙から大統領による任命制に改め、より一層の中央集権化を進め、大統領権限を強化した。
 
 
 
ロシア経済は原油価格の高騰に伴い2期目も実質GDP成長率で年6~8%台の成長([[2004年]]{{ndash}}2007年)を続けた<ref>「[http://www3.jetro.go.jp/jetro-file/downloadbinaryfile.do?filename=/home1/J_file/data/search/10/010024310401.xls ロシア:基礎的経済指標]」 [[日本貿易振興機構]]、2008年7月8日最終更新。</ref>。ただしその多くがエネルギー資源に依存していたため、その経済構造を是正し、より一層の経済発展を達成することを目的として、プーチンは2005年7月に製造業とハイテク産業の拠点とするための[[経済特区]]を設置する連邦法に署名した。それによって同年12月に6箇所の経済特区が設けられた<ref>エリツィン政権でも経済特区が設けられたが、脱税やマネーロンダリングといった犯罪の温床となったため、プーチン政権でそれらの特区はほとんどが廃止された。</ref>。
 
 
 
また、ロシア政府は2005年に[[国際通貨基金]](IMF)からの債務、[[2006年]]に[[パリクラブ]]からの債務を完済し、ロシア経済は安定して国際的な信用を取り戻した。この対外債務返済に大きく貢献したのが2004年に創設した[[ソブリン・ウエルス・ファンド|政府系ファンド]]の「[[ロシア連邦安定資金|安定化基金]]」である。この基金は原油価格下落のリスクに備えるのを目的とし、原油の輸出[[関税]]と採掘税の税収を原油価格の高いときに基金に繰り入れ、資金を積み立てる構造になっていたが、この基金を利用することにより対外債務が返済された<ref>「[http://www.murc.jp/report/research/2007/0731.pdf 「ポスト・プーチン」のロシア経済]」 [[三菱UFJリサーチ&コンサルティング]]調査部、2007年8月3日。</ref>。その後2008年に安定化基金は原資となる税収に天然ガスと石油製品の輸出関税と[[天然ガス]]の採掘税を追加した上で「準備基金」と「国民福祉基金」に分割された。前者は従来のように原油価格下落時の対応を目的とし、後者は年金支払いの補充など国民福祉向上のために使われることを目的としている<ref>金野雄五 「[http://c119lnk7.securesites.net/research/economics/pdf/euro-insight/EUI080610.pdf 最近のロシア経済情勢:ロシア政府系ファンドの新展開]」 『みずほ欧州インサイト』、[[みずほ総合研究所]]、2008年6月10日。</ref>。
 
 
 
それでも依然として多くのロシア国民(2009年の時点で6人にひとりとも)が最低生活水準を下回る生活をしていることや、[[死亡率]]の高さにより[[人口]]が減少傾向にあることを憂慮し、2005年[[10月]]に「優先的国家プロジェクト」を大統領令によって立ち上げた。これは保健・教育・住宅建設・農業の4分野で改革を行って社会基盤を整備し、生活水準向上を目指す計画である。具体的には、このプロジェクトに沿って、保健分野では子育て支援や医師と看護師の給料増額など、教育分野では新大学の設立や奨学金制度の確立など、住宅分野では[[住宅ローン]]の規模拡大や住宅建設への融資など、農業分野では若い農業専門家に対する住宅の保障などが計画された<ref>Katya Malofeeva and Tim Brenton. "[http://www.russiaprofile.org/page.php?pageid=Business&articleid=a1187177738 Putin's Economy – Eight Years On]", ''Russia Profile'', August 15, 2007.</ref><ref>井本沙織 「[http://www.esri.go.jp/jp/archive/e_dis/e_dis170/e_dis163c.pdf ロシアの構造改革]」 [[内閣府]]、2006年6月。</ref>。このプロジェクトを推進するため、大統領府長官の[[ドミトリー・メドヴェージェフ]]を同年11月に第一副首相に任命した。
 
 
 
しかしプーチン政権の2期目は、経済成長の達成の裏で、その政治手法が強権的・[[独裁]]的だとして欧米諸国から強い非難を浴びることになる。オリガルヒが逮捕・投獄された後にオリガルヒが所有していた天然資源会社を政府の強い影響下に置いたことは大きな波紋を呼んだ。前述のように、[[2003年]]に[[ユコス]]社の社長ミハイル・ホドルコフスキーが逮捕された後、ユコス社は脱税による追徴課税が祟って2006年[[8月1日]]に破産に追い込まれ、2007年[[5月3日]]に資産が競売により国営企業の[[ロスネフチ]]に落札された。だがこのような手法は、オリガルヒに膨大な富が集中したことに対して不満を持っていたロシア国民から支持を受けている<ref>「[http://www.enecho.meti.go.jp/topics/hakusho/2007energyhtml/html/1-2-3-4.html エネルギー政策をめぐる新たな潮流]」 『エネルギー白書2007年版』、[[経済産業省]][[資源エネルギー庁]]、2007年。</ref>。
 
 
 
また、プーチン政権を批判していた人物が次々と不審な死を遂げ、ロシア政府による暗殺説が浮上したことも、欧米諸国にマイナスイメージを持たれる一因になった。2006年10月、反プーチンのロシア人女性[[ジャーナリスト]]の[[アンナ・ポリトコフスカヤ]]が、自宅アパート内にてルスタム・マフムドフによって射殺された<ref>[http://www.asahi.com/international/jiji/JJT201105310167.html 殺害実行の容疑者拘束=ロシア著名女性記者事件]asahi.com 2011年8月11日閲覧。</ref>。この事件にはロシア政府による何らかの関与があったとする見方がある{{誰|date=2011年8月}}。一方、プーチンはこの事件を「恐ろしく残酷な犯罪」としたうえで、「犯人が罰せられないことがあってはならない」と述べた<ref>"[http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/6036241.stm Funeral for shot Russian reporter]", ''BBC News'', October 10, 2006.</ref>。なお、この事件は2008年6月に容疑者4人が起訴され、捜査の終了が発表された<ref>「[http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/crime/2407274/3052413 露ジャーナリスト殺害事件で4人を起訴、捜査終了に批判も]」 [[フランス通信社]]、2008年6月19日。</ref>。この事件のほか、プーチンを批判して[[イギリス]]に亡命し写真が公開されたKGB・FSBの元職員[[アレクサンドル・リトビネンコ]]が2006年11月に死亡している。死亡原因として、「多量の放射能物質[[ポロニウム]]を食事などに混合されて摂取したため」とイギリス警察が発表し、[[トニー・ブレア]]首相(当時)がロシア政府に対し協議したいと要望した。FSBによる暗殺だとする説{{要出典|date=2011年8月}}も浮上した。イギリス政府内では、ロシア政府による暗殺との見方が強い{{要出典|date=2011年8月}}。イギリス警察当局は、この事件で主犯とされる旧KGB元職員アンドレイ・ルゴボイ容疑者と実業家のドミトリー・コフトゥン容疑者の身柄引き渡しをロシア政府に求めた。ロシア側はこれに対し身柄引き渡しを拒否した。さらに、2007年[[6月21日]]にはイギリスに[[亡命]]したオリガルヒである[[ボリス・ベレゾフスキー]]への暗殺計画が発覚し、その容疑者がロシアに強制送還される事件が起こっている。
 
 
 
ロシアの大統領は連続3選が憲法により禁止されているため、大統領退任後の去就が注目されていたが、2007年10月に開かれた与党・統一ロシアの第8回党大会で、大統領退任後は首相に就任して政界にとどまることに意欲を示した。 同年[[12月2日]]に行われた[[2007年ロシア下院選挙|ロシア下院選挙]]では統一ロシアの[[比例代表]]名簿第1位に記載され、同党の選挙大勝につながった。[[12月10日]]には後継として第一副首相のメドヴェージェフを指名し、[[2008年ロシア大統領選挙|2008年の大統領選挙]]で支持することを表明。2008年[[2月8日]]には「[[2020年]]までの発展戦略」を発表し、大統領退任後も政界にとどまる姿勢を見せた。この中でプーチンはエネルギー資源依存型経済から[[イノベーション]]主導型経済への移行と、そのための人的資本蓄積を教育改革と福祉の充実によって達成する必要性を説いている<ref>「[http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/legis/23501/02350108.pdf 【ロシア】 2020年までの発展戦略]」 『外国の立法』No.235-1、[[国立国会図書館]]、2008年4月。</ref>。同年3月、大統領選挙でプーチンが支持したメドヴェージェフが70%以上の得票を集め大勝した。同年[[4月15日]]の第9回統一ロシア党大会でプーチンは同党の党首に就任することを受諾した。
 
 
 
=== 首相職(2008年~2012年) ===
 
[[ファイル:Vladimir Putin 8 May 2008-1.jpg|thumb|left|200px|2008年、首相承認に先立ち、[[ドゥーマ|連邦議会下院]]で演説を行うプーチン]]
 
[[ファイル:Dmitry Medvedev 12 May 2008-3.jpg|thumb|200px|2008年、メドヴェージェフ、[[第2次ウラジーミル・プーチン内閣|第2次プーチン内閣]]の閣僚たちと]]
 
2008年5月7日に大統領を退任したが、新しく大統領となったメドヴェージェフによって首相に指名され、翌日[[ドゥーマ|連邦議会下院]]で承認された。承認の前に下院で行った演説では、年金・最低賃金の引き上げや免税、インフレ率の抑制に努め、ロシアが世界有数の国際[[金融センター]]になることを目標にすると発言し、近い将来にロシアがイギリスを凌ぐ経済大国になると予測した。
 
 
 
首相就任によりメドヴェージェフとの[[タンデム体制]]となったが、プーチンは大統領を退いた後も事実上最高権力者として影響力を行使していると見なされることとなった。[[5月15日]]には、首相が議長となる「政府幹部会」を設置。この会は副首相だけでなく大統領が管轄する外相や国防相も参加する、事実上の最高意思決定機関である。また2000年に制定していた連邦管区大統領全権代表は代表権を失って首相のコンサルタント的な地位になり、さらに大統領による任命制に改められていた地方の知事を国家公務員にして首相の管轄下に置いた<ref>望月喜市 「[http://www.ne.jp/asahi/kyokutouken/sono2/080519aboutnewcabinet.pdf 2頭体制はプーチン色が濃厚+サハリンの07年エネルギー生産実績]」 日ロ北海道極東研究学会、2008年5月19日。</ref>。
 
 
 
2008年[[11月5日]]に大統領のメドヴェージェフが年次報告演説を行い、その中で大統領の任期を4年から6年に延長することを提案したため、プーチンの大統領復帰説が流れ始めた<ref>「[http://www.business-i.jp/news/bb-page/news/200811250013a.nwc 大統領復帰へのシナリオ プーチン氏、さらに12年間支配も]」 [[フジサンケイ ビジネスアイ]]、2008年11月25日。</ref>。同年[[11月20日]]の第10回統一ロシア党大会では[[世界金融危機 (2007年-)|世界金融危機]]の対応に積極的な姿勢を見せ、[[外貨]]準備や前述の「準備基金」と「国民福祉基金」を利用して景気対策を行うことを提言した。また、「準備基金」からIMFに10億[[ドル]](約950億円)を拠出する意向を示した<ref>"[http://premier.gov.ru/eng/events/1212.html Prime Minister Vladimir Putin, the leader of the United Russia party, delivered a speech at United Russia’s 10th congress]", ''Prime Minister of the Russia'', November 20, 2008.</ref>。このような積極的な姿勢も、プーチンの大統領復帰説を強くする一因となった。プーチンは自身の大統領復帰説に対し、同年[[12月4日]]に行われた市民との[[タウンミーティング]]において、「[[2012年]]になれば分かる」として明言はしなかった<ref>{{cite news |title=ロシア大統領選への立候補「2012年になれば分かる」=プーチン首相 |newspaper=ロイター |date=2008-12-05 |url=http://jp.reuters.com/article/worldNews/idJPJAPAN-35261920081204 |accessdate=2011-01-11}}</ref>。翌2009年には2012年の次期大統領選挙について出馬する最も強く示唆する発言を行い、経済危機にも関わらず、有権者の間ではプーチン首相の人気は絶大で政界に君臨し続けた<ref>{{cite news |title=プーチン露首相、次期大統領選出馬の可能性を示唆 |newspaper=ロイター |date=2009-09-14 |url=http://jp.reuters.com/article/worldNews/idJPJAPAN-11479920090914 |accessdate=2011-01-11}}</ref>。
 
 
 
2010年1月30日、[[カリーニングラード]]にて、9,000人から12,000人に及ぶ人々が抗議集会を行った。 彼らは、「プーチンと彼の政府は違法行為と虚偽で出来ている」と主張した<ref name="y20100130">[http://newsru.com/russia/30jan2010/kfj.html NEWSru 2010年1月30日付]</ref>。この抗議には様々な団体が参加しており(多くの団体の旗が掲げられた)、「[[連帯 (ロシア)|連帯]]」、「[[ヤブロコ]]」、「[[ロシア連邦共産党]]」、「[[ロシア自由民主党]]」などが抗議に参加した。
 
 
 
[[2010年]][[12月17日]]、プーチンは[[2015年]]までにロシア政府が使用するコンピュータのソフトウェア([[オペレーティングシステム|OS]]を含む)を、[[Linux]]をはじめとする[[フリーソフトウェア]]に置換するよう命じた。コンピュータのソフトウェアをアメリカの企業である[[マイクロソフト]]に依存している現状からの脱却を目指すものであるとされている<ref>{{Cite news|url=http://mashable.com/2010/12/27/vladimir-putin-free-software-by-2015/|title=Vladimir Putin Orders Russian Government to Switch to Free Software by 2015|publisher=Mashable|date=2010年12月27日|accessdate=2011年4月14日}}</ref>。
 
 
 
[[2011年]][[9月24日]]、モスクワで開催された統一ロシアの党大会で2012年大統領選挙に立候補を表明した<ref>{{cite news |title=プーチン氏大統領選出馬へ 4年ぶり復帰の公算 |newspaper=MSN産経ニュース |date=2011-09-24 |url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/110924/erp11092420100004-n1.htm |accessdate=2011-09-24}}</ref>。
 
 
 
[[2011年]][[12月4日]]投開票の[[2011年ロシア下院選挙|下院選挙]]において、プーチン率いる統一ロシアの不正を示す動画が[[ユーチューブ]]に投稿された。また、下院選挙に国際監視団を派遣した[[欧州安全保障協力機構]]は「水増しなどの不正操作が行われた」、[[欧州会議]]は「多くの不正が行われ、政府による監視活動妨害があった」と発表した。ロシアの民間団体「選挙監視団」も統一ロシアの得票率が中央選管発表の49.3%を大幅に下回る30%以下だったとする調査結果を発表した。政府高官も「選挙違反はあったが、大規模でない」と一部で不正があったことを認めた<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2011-12-10/2011121006_01_1.html ロシア下院選挙 不正選挙 告発相次ぐ 10日に5万人の抗議集会] [[しんぶん赤旗]] 2011年12月10日(土) 2011年12月27日閲覧</ref>。このため選挙直後から不正疑惑をめぐって[[2011年ロシア反政府運動|政権を批判するデモ]]が開かれた。12月24日のデモにおいては、主催者側は12万人(警察発表3万人)が参加したと発表した<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2011-12-26/2011122607_01_1.html “政治変えよう” 反プーチン集会12万人 モスクワ] [[しんぶん赤旗]] 2011年12月26日(月) 2011年12月27日閲覧</ref>。またこの頃に「全ロシア人民戦線」を結成し、党首を務める統一ロシアより距離をおき始めた<ref name="afpbb20120425">{{Cite news
 
|url=http://www.afpbb.com/article/politics/2873875/8843707
 
|title=プーチン首相、与党党首辞任の意向を表明
 
|work=AFPBB News
 
|publisher=[[フランス通信社]]
 
|date=2012-04-25
 
|accessdate=2012-05-11
 
}}</ref>。
 
 
 
[[2012年]][[3月4日]]に実施された大統領選挙で約63%の得票率で当選。4月には、大統領就任後に統一ロシア党首を辞任する意向を示した<ref name="afpbb20120425" />。
 
 
 
=== 大統領職再登板(2012年~現在) ===
 
{{節スタブ|date=2016年9月}}
 
[[2012年]][[5月7日]]、クレムリンで行われた就任式典を経て正式に大統領に就任した<ref name="MSNSankei-20120507">[http://sankei.jp.msn.com/world/news/120507/erp12050721490013-n1.htm 「プーチン氏が大統領就任」] {{en icon}} MSN産経ニュース([[産経新聞]])の記事。2012年5月7日配信・閲覧。</ref><ref>この日にプーチンは13本の大統領令に署名した。このうち10本は、現在の任期が切れる2018年前後までの期間を対象とした国家目標を定めた「戦略的大統領令」。
 
:国立国会図書館調査及び立法考査局 [http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_3507778_po_02520102.pdf?contentNo=1&alternativeNo= 【ロシア】 プーチン政権の優先政策課題] 参考文献(インターネット情報は2012年6月21日現在である。)
 
* [http://news.kremlin.ru/ Президент России](ロシア大統領府公式サイト)</ref>。2008年の憲法改正により、今任期から連邦大統領職の任期が6年となったため、任期満了は[[2018年]]となる。
 
 
 
2017年7月21日にロシア南部[[ソチ]]で開かれた青少年との対話集会で、今後について「(大統領選挙再出馬を決めるまでの)時間はまだある」「大統領職から去るかどうかはまだ決めていない」「大統領退任後も政治活動は可能だ。[[回顧録]]を書くだけにはならない」「希少生物の保護など環境保護に興味がある」などと語った<ref>{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20170723/k00/00m/030/049000c|title=露大統領プーチン氏、退任後を語る 対話集会で|work=|publisher=『[[毎日新聞]]』朝刊(国際面)|date=2017年7月23日}}</ref>。
 
 
 
2017年12月6日に、翌年実施予定の次期大統領選に出馬することを表明<ref>[https://www.theguardian.com/world/2017/dec/06/vladimir-putin-russian-president-running-re-election-march Vladimir Putin makes it official – he's running for re-election in 2018] The Guardian 2017年12月6日</ref>。
 
 
 
[[2018年]]3月18日の[[2018年ロシア大統領選挙|大統領選挙]]では得票率76%で圧勝<ref>{{Cite news|date=2018-3-19|title=ロシア大統領選、プーチン氏が圧勝|url=http://www.bbc.com/japanese/43453959|newspaper=BBCニュース}}</ref>し、任期満了は[[2024年]]となった。
 
 
 
== 政治姿勢 ==
 
=== 内政 ===
 
[[ファイル:Vladimir Putin with Alexei II-1.jpg|thumb|220px|2000年、[[救世主ハリストス大聖堂]]にて[[ロシア正教会]][[モスクワ総主教]]の[[アレクシイ2世]](右)と]]
 
[[ファイル:Vladimir Putin 21 February 2001-2.jpg|thumb|220px|ロシア国内の宗教指導者達と。左から[[仏教]]、[[イスラーム]]、[[正教]]([[アレクシイ2世]])。(2001年2月)]]
 
プーチンは[[ソビエト連邦]]時代の「強いロシア」の再建を標榜しており、ロシアの伝統的政治手法として、ソ連国歌のメロディ復活や[[レーニン廟]]の埋葬に反対<ref>{{Cite news|url=http://jp.rbth.com/articles/2012/12/17/40459 |title=レーニンは赤の広場にとどまるべき|publisher=[[ロシア新聞|ロシアNOW]] |date-2012年12月17日 |accessdate-2016年02月14日}}</ref>などに代表されるように国民の[[愛国心]]に訴え、政府に対する求心力を強化しようとする政治家として知られる。
 
 
 
他方、宗教を徹底的に弾圧したソ連時代とは一線を画し、[[ロシア正教会]]を保護してもいる。2007年のロシア正教会と[[在外ロシア正教会]]の和解を斡旋し、和解の[[聖体礼儀]]に出席もしてスピーチを行った。[[イスラーム]]に対してはロシア正教会ほどに結び付きはなく、ロシア国内での[[イスラーム主義]]勢力の監視・活動制限、[[コーカサス]]地方では武装イスラーム主義勢力との対決姿勢を鮮明にしてもいるが、[[タタールスタン共和国|タタールスタン]]の[[カザン・クレムリン]]において巨大な[[モスク]]も再建した[[ミンチメル・シャイミーエフ|シャイミーエフ]]のような穏健的な存在とは協力関係を築くなど、硬軟織り交ぜた対応がみられる。また、[[ユダヤ教]]も庇護しており、[[:en:Berel Lazar|ベレル・ラザル]]首席ラビとは友好関係を築いている。
 
 
 
プーチン政権は独裁色が強いとロシア国外のメディアで報じられることがある。[[ロシア情報公開擁護財団]]によると、ロシアでは1999年から2006年までに128人のジャーナリストが死亡・もしくは行方不明となっており、プーチン政権がこれらの事件に関わっているのではないかとの疑惑が浮上している(この点に関して[[ミハイル・ゴルバチョフ|ゴルバチョフ]]は、ロシアではジャーナリストが不審な死を遂げる事件がエリツィン政権時代から頻発しており、いずれも真相が明らかにされていないため、政権の関与が疑われてしまうと発言している<ref>小林和男 『狐と狸と大統領―ロシアを見る目』 [[日本放送出版協会]]、2008年、66頁。</ref>)。この件に関しては、国際社会でもチェチェン勢力への人権侵害と相まって非難されている。また、その圧倒的な支持を背景に自身の強いリーダーシップをもって中央集権化を推進するプーチンの姿勢は[[権威主義]]的であると言われ、「[[ツァーリ]]」と呼ばれることもある。しかし、[[タイム (雑誌)|TIME誌]]に「自由より先に秩序を選択した」とあるように<ref>Richard Stengel. "[http://www.time.com/time/specials/2007/personoftheyear/article/0,28804,1690753_1690757,00.html Choosing Order Before Freedom - Person of the Year 2007]", ''TIME'', 2007.</ref>、エリツィン政権で治安が悪化し経済も崩壊したロシア社会に強力な指導力で秩序と安定をもたらしたという見方もできる。プーチン自身は「法の独裁」という言葉を用いて、自らの立場をよく説明する。
 
 
 
=== 外交 ===
 
==== アメリカ合衆国・ヨーロッパ ====
 
[[ファイル:Victory Day Parade 2005-26.jpg|thumb|200px|2005年、戦勝60周年記念式典にて各国首脳と。左から[[日本]][[内閣総理大臣|首相]]の[[小泉純一郎]]、[[フランス]][[フランスの大統領|大統領]]の[[ジャック・シラク]]、[[ドイツ]][[連邦首相 (ドイツ)|首相]]の[[ゲアハルト・シュレーダー]]、プーチン、[[アメリカ合衆国|アメリカ]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]の[[ジョージ・W・ブッシュ]](役職はすべて当時のもの)]]
 
[[2001年]][[9月11日]]の[[アメリカ同時多発テロ事件]]以来、プーチンは[[テロリズム|テロ]]との戦いにおいてアメリカとの協調姿勢を見せた。同時多発テロ後に[[アメリカ軍]]が[[アフガニスタン]]に[[アフガニスタン紛争 (2001年-)|侵攻]]を行う際には、ロシア国内の保守派からの反発があったにもかかわらず、同年[[9月24日]]のテレビ演説でかつてソビエト連邦を構成していた中央アジア諸国に米軍の駐留を認めることやその他の具体的協力を掲げる「対米協力五項目」を謳ってアメリカへの支援を行った<ref>「[http://www2.jiia.or.jp/pdf/russia_centre/h16_putin-asia/04_koizumi.pdf プーチンの対中央アジア政策:イラク戦争の影響]」 『イラク戦争後のプーチン政権の対中央アジア政策』第2章、[[日本国際問題研究所]]、2003年。</ref>。アメリカとの協調路線を選んだのは、ロシアもチェチェン勢力によるテロに悩ませられていたため、アメリカと協調して国際的なテロ包囲網を構築することでチェチェン勢力のテロ攻撃を封じ込もうとしたからであった。
 
 
 
しかし次第にプーチンはアメリカの一極支配に抵抗する構えを見せるようになる。2003年に勃発した[[イラク戦争]]においてロシアは戦争に反対してアメリカと距離をおき、同じく戦争慎重派の[[フランス]]・[[ドイツ]]との連携を強化した。2007年2月にドイツの[[ミュンヘン]]で行われた「ミュンヘン国防政策国際会議」では、アメリカの一極支配体制は受け入れられないだけでなく、その行動は紛争の解決手段にならず、むしろ人道的な悲劇や新たな緊張が生じる原因となっているとして、アメリカの一極支配体制を批判した<ref>"[http://president.kremlin.ru/eng/speeches/2007/02/10/0138_type82912type82914type82917type84779_118123.shtml Speech and the Following Discussion at the Munich Conference on Security Policy]", ''[[ロシア大統領府|President of Russia]]'', February 10, 2007.</ref>。
 
 
 
アメリカが[[東ヨーロッパ]]諸国と接近して影響力を高めようとする行動には警戒感を示し、「アメリカにとっても東ヨーロッパ諸国にとっても良いことではない」と発言している<ref>「[http://www.afpbb.com/article/politics/2286420/2167276 ロシアのプーチン大統領、東欧で強まる米国の影響力に警戒感]」 フランス通信社、2007年9月21日。</ref>。特に、アメリカが「[[イラン]]と[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]への対抗」として[[チェコ]]と[[ポーランド]]に[[ミサイル防衛]](MD)システム配備を計画していることに対しては、このシステムが対ロシア用だという疑念を持ち、強い反発を示した<ref>「[http://www.afpbb.com/article/politics/2217436/1547106 米による東欧ミサイル防衛システム配備、プーチン大統領が「相互破壊につながる」と警告 - ロシア]」 フランス通信社、2007年4月27日。</ref>。プーチンはこの代替案として[[アゼルバイジャン]]にあるロシアのレーダー施設の共同使用や<ref>「[http://www.afpbb.com/article/politics/2236331/1667338 ロ大統領、米ミサイル防衛計画に「逆提案」]」 フランス通信社、2007年6月8日。</ref>、[[トルコ]]や[[イラク]]への配備<ref>「[http://www.afpbb.com/article/politics/2236906/1673561 プーチン大統領、「米迎撃ミサイルシステムのトルコ、イラク配備の検討すべき」]」 フランス通信社、2007年6月9日。</ref>を促したが、結局アメリカはチェコと2008年7月に、ポーランドと同年8月にMDシステム配備協定に調印した。
 
 
 
[[ファイル:Bush&Putin33rdG8.jpg|thumb|left|150px|2007年、[[第33回主要国首脳会議|ハイリゲンダムサミット]]にてアメリカ大統領(当時)のジョージ・W・ブッシュ(左)と]]
 
[[北大西洋条約機構]](NATO)の東方拡大(東欧諸国と旧ソ連諸国に加盟国を拡大)については強く反発している。そのためプーチンは2007年4月の年次教書演説で、ヨーロッパ各国による通常兵器の配備の上限を定めた[[ヨーロッパ通常戦力条約]]をNATO諸国が批准していないことを理由に、同条約の履行を停止することを表明した。そしてプーチンは同年7月に履行停止の大統領令に署名し、上下院で採択された履行停止法案に同年11月署名した。2008年4月のNATO首脳との会談では欧米諸国が妥協した場合は再び同条約を履行する意思を示したが、NATOの東方拡大に対しては「ロシアにとっての直接的な脅威」だとして反対の姿勢を崩さなかった<ref>「[http://www.afpbb.com/article/politics/2374030/2801692 ロシア大統領、NATO首脳と会談 「冷戦回帰」否定でも成果なし]」 フランス通信社、2008年4月5日。</ref>。
 
 
 
ロシアにとって[[欧州連合]](EU)諸国は最大級の貿易相手である。その中でプーチンは[[連邦首相 (ドイツ)|ドイツ首相]]だった[[ゲアハルト・シュレーダー]]との個人的な友好関係からドイツと緊密な関係を築いた。ドイツ首相が[[アンゲラ・メルケル]]と交代しても、ドイツとは「戦略的パートナーシップ」を維持している。しかしEU諸国とは[[コソボ]]の[[コソボ地位問題|地位問題]]等で意見の相違も見られる。アメリカとともにEU諸国が支持したコソボ独立には、[[セルビア]]に同調して独立に反対し、「コソボはセルビアの一部」だという立場を取っている。プーチンは、EU諸国やアメリカによるコソボ独立の承認について、長期間にわたって構築されてきた国際関係を崩壊に追い込む「恐ろしい前例」になると発言した<ref>"[http://www.presstv.ir/detail.aspx?id=44275&sectionid=351020602 Putin: Kosovo case terrible precedent]", ''Press TV'', February 22, 2008.</ref>。
 
 
 
==== 旧ソ連諸国 ====
 
[[ファイル:Vladimir_Putin_and_Yulia_Tymoshenko-2.jpg|thumb|200px|2008年、[[ウクライナ]][[ウクライナの首相|首相]]の[[ユーリヤ・ティモシェンコ]](左)と]]
 
旧ソビエト連邦の構成国だった[[グルジア]]で2003年に[[バラ革命]]、同じく構成国だった[[ウクライナ]]で2004年に[[オレンジ革命]]が発生し、以降両国がロシアよりもアメリカとの関係を重視するようになると、両国に対してプーチンは強硬な手段で臨むこともあった。ウクライナには、2006年[[1月]]に天然ガス価格を引上げを表明し、これを拒否したウクライナへの流量を減らすなどの強硬手段をとって[[ロシア・ウクライナガス紛争]]を引き起こした。グルジアには、プーチンが[[2008年北京オリンピック|北京オリンピック]]の開会式に出席してる最中に起きた2008年[[8月7日]]にグルジアが同国自治州の[[南オセチア]]に侵攻したことに対し、南オセチアの独立を支持する立場から「報復」を宣言し、翌[[8月8日]]、ロシア軍を派遣して南オセチアに軍事介入を行った。グルジアの侵攻の原因については同年[[8月28日]]に米テレビ局[[CNN]]とのインタビューで「[[2008年アメリカ合衆国大統領選挙|2008年の大統領選]]で共和党候補者の[[ジョン・マケイン]]を優位にするために[[ジョージ・W・ブッシュ|ブッシュ]]政権がわざと起こしたものだ」として、アメリカのブッシュ政権を厳しく非難している。[[2011年]]10月にはベラルーシ・カザフスタンとロシアがEU型の地域統合をおこなう[[ユーラシア連合]]を構想する寄稿を行ってる<ref>{{cite web |url=http://www.nikkei.com/news/category/article/g=96958A9C9381959FE2E7E2E6828DE2E7E3E2E0E2E3E39494E3E2E2E2;av=ALL |title=ロシア・プーチン氏、旧ソ連圏「EU型で地域統合」 |publisher = 日本経済新聞 |accessdate=2011-10-08}}</ref>。
 
 
 
==== アジア太平洋 ====
 
[[ファイル:Vladimir Putin at APEC Summit in Vietnam 18-19 November 2006-5.jpg|thumb|200px|2006年11月の[[アジア太平洋経済協力|APEC]]首脳会議にて、日本の首相(当時)の[[安倍晋三]](左)と]]
 
[[ファイル:Putin and Hu Jintao Joint Declaration 2007.jpg|200px|thumb|2007年、[[中華人民共和国|中国]][[中華人民共和国主席|国家主席]]の[[胡錦濤]](左)と]]
 
[[ファイル:Парад в честь 70-летия Великой Победы - 26.jpg|200px|thumb|2015年、中国国家主席の[[習近平]](左)と]]
 
大統領就任当初から、日本と[[平和条約]]を締結することに意欲的な姿勢を示しているものの、基本的に[[日ソ共同宣言]]を根拠にした[[二島返還論]]を推奨しており、いまだ解決には至っていない。2001年の日ロ首脳会談には、日本の首相(当時)の[[森喜朗]]とともに「イルクーツク声明」を声明し、同宣言が平和条約締結の交渉の出発点であることを確認した。ただし、同宣言にある[[二島譲渡論]]は主権返還ではないとしている<ref>{{cite news|url=http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/politics/politics/1-0349595.html|publisher=[[北海道新聞]]|author=|title=日ソ共同宣言でプーチン大統領 2島主権返還「書いてない」|date=2016-12-17|accessdate=2016-12-25}}</ref>。北方領土はソ連が領土回復させたとする歴史認識を述べており<ref>{{cite news|url=http://www.jiji.com/jc/article?k=2016121600933|publisher=毎日新聞|author=|title=北方領土はロシア固有=歴史認識でけん制-プーチン大統領|date=2016-12-16|accessdate=2017-02-11}}</ref>、プーチンが監督するロシア地理協会は北方領土の島に対日戦を指揮したソ連軍将校の名前を名づけた<ref>{{cite news|url=http://mainichi.jp/articles/20170214/k00/00e/030/161000c|publisher=毎日新聞|author=|title=北方領土小島に命名 対日戦将校名、日本抗議へ|date=2017-02-14|accessdate=2017-02-15}}</ref>。2005年の来日時前、ロシア国内向けテレビ番組に出演した際には「[[北方領土]]の[[主権]]が現在ロシアにあることは[[国際法]]で確立され、[[第二次世界大戦]]の結果であるので、この点については交渉するつもりはない」と発言し、2016年5月20日には会見で「北方領土は一つとして売らない」とも発言しており<ref>{{cite news|url=http://mainichi.jp/articles/20160521/k00/00e/030/180000c|publisher=毎日新聞|author=|title=プーチン大統領:北方領土「一つとして売らない」|date=2016-05-27|accessdate=2016-05-27}}</ref>、北方領土で軍事演習や対日戦勝記念パレードを行い<ref>{{cite news|url=http://www.nikkei.com/article/DGXLZO19919210R10C17A8000000/|publisher=[[日本経済新聞]]|author=|title=ロシア、北方領土で軍事演習開始|date=2017-08-11|accessdate=2017-08-19}}</ref><ref>{{cite news|url=http://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000058001.html|publisher=テレビ朝日|author=|title=択捉島で初の対日戦勝式典 返還求める日本を牽制|date=2015-09-03|accessdate=2015-11-26}}</ref>、北方領土の基地化<ref>{{cite news|url=http://www.news24.jp/articles/2015/02/28/10270141.html|publisher=日テレNEWS24|author=|title=ロシア、北方領土に新たな軍事拠点を建設へ|date=2015-02-28|accessdate=2015-12-04}}</ref><ref>{{cite news|url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151202/k10010327151000.html|publisher=NHK|author=|title=ロシア 択捉島と国後島に新たに軍事施設|date=2015-12-02|accessdate=2015-12-04}}</ref>も進めて日本政府の抗議を受けており<ref>{{cite news|url=http://www.sankei.com/politics/news/151023/plt1510230030-n1.html|publisher=産経新聞|author=|title=
 
ロシアの基地強化に抗議 菅氏「日本固有の領土」|date=2015-10-23|accessdate=2015-12-04}}</ref>、北方領土を経済特区に指定し<ref>{{cite news|url=http://www.sankei.com/world/news/170823/wor1708230029-n1.html|publisher=産経新聞|author=|title=北方領土の色丹島にロシアが経済特区を指定 共同経済活動に影響か|date=2017-08-23|accessdate=2017-08-25}}</ref>、北方領土に新型ミサイルも配備し<ref>{{cite news|url=http://www.nikkei.com/article/DGXLASFS22H5H_S6A121C1PP8000/|publisher=日本経済新聞|author=|title=ロシア、北方領土に新型ミサイル配備|date=2016-11-23|accessdate=2016-12-14}}</ref><ref>{{cite news|url=http://www.nikkei.com/article/DGXLASFS25H0T_V21C16A1EAF000/|publisher=日本経済新聞|author=|title=首相、ロシアの北方領土ミサイル配備「遺憾」|date=2016-11-25|accessdate=2016-12-14}}</ref>、北方領土の土地無償分与<ref>{{cite news|url=http://www.news24.jp/articles/2016/02/12/10322216.html|publisher=日テレNEWS24|author=|title=露 北方領土などの土地の無償分与開始へ|date=2016-02-12|accessdate=2016-5-20}}</ref>を始めるなど、日本の領土返還要求を牽制する態度も示している。中国の[[華為技術]]によってサハリンと北方領土を結ぶ光ファイバーの敷設に動いた際は中露は日本政府から抗議されている<ref>{{cite news|url=http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2018-06/12/content_52063830.htm|publisher=[[中国網]]|author=|title=北方四島に光ファイバーを敷設ロシア 日本が抗議|date=2018-06-12|accessdate=2018-06-18}}</ref>。なお、来日時には日ソ共同宣言に基づき、二島を「譲渡」することで日本側を説得しようとした。その後も北方領土問題の解決と平和条約締結に意欲を見せるものの、問題が解決に至らないのは日ソ共同宣言を履行しない日本側の責任であるとしている<ref>「[http://www.mofa.go.jp/MOFAJ/area/russia/kankei.html 最近の日露関係]」 [[外務省]]、2006年11月。</ref>。
 
 
 
戦略的には投資誘致や天然資源の輸出先として日本市場を重視し、2005年の来日時には100人以上の財界人を引き連れて日本側に投資の促進を訴えた。また[[自衛隊]]とロシア連邦軍の救難訓練も毎年行われるようになった。しかしアメリカへの対抗上同じ[[国際連合安全保障理事会常任理事国]]であり、EUに代わってロシア最大の貿易相手国<ref>{{cite news|url=http://jp.rbth.com/opinion/2015/06/10/53173|publisher=[:en:Russia Beyond the Headlines|Russia Beyond the Headlines]]|author=|title=主な貿易相手は欧州かアジアか|date=2015-06-10|accessdate=2017-05-02}}</ref>にもなった同じ[[中華人民共和国]]との提携をより重視しており、プーチンは度々「中国とは戦略的パートナー以上の関係にあり、日本とはその域に達していない」<ref>{{cite news|url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161028/k10010747401000.html|title=プーチン大統領 北方領土問題解決「今は答えられず」|publisher=[[日本放送協会|NHK]]|date=2016-10-27|accessdate=2016-10-28}}</ref><ref>{{cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/politics/20161214-OYT1T50008.html|title=プーチン露大統領インタビューの全文<3>|publisher=[[読売新聞]]|date=2016-12-14|accessdate=2016-12-14}}</ref><ref>{{cite news|url=http://sp.yomiuri.co.jp/politics/20161214-OYT1T50010.html|title=プーチン露大統領インタビューの全文<5>|publisher=[[読売新聞]]|date=2016-12-14|accessdate=2016-12-14}}</ref>と述べており、日本との領土問題で取引はしないとする一方で「中国と同じ程度の高度な信頼関係」を築ければ妥協できる可能性も示唆している<ref>{{cite news|url=http://en.kremlin.ru/events/president/news/52830|title=Interview to Bloomberg|publisher=[[ロシア大統領府]]|date=2016-09-05|accessdate=2016-10-17}}</ref><ref>{{cite news|url=https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2016-09-02/OCUKNS6KLVRL01|title=プーチン大統領:北方領土問題で妥協点見いだせる-インタビュー|publisher=[[ブルームバーグ]]|date=2016-09-02|accessdate=2016-10-17}}</ref>。[[中ソ国境紛争|中露国境問題]]も実効支配地域を割譲することで中華人民共和国に譲歩する形で解決し、平和条約である[[中露善隣友好協力条約]]を結んでいる。[[上海協力機構]](SCO)を結成して[[中国人民解放軍]]とは対テロ訓練や[[東シナ海]]<ref>{{cite news|url=http://www.sankei.com/world/news/150820/wor1508200034-n1.html|title=中国とロシアの海軍が日本海で演習、上陸訓練も 日米牽制か|publisher=産経新聞|date=2015-08-20}}</ref>、[[日本海]]<ref>{{cite news|url=http://www.sankei.com/world/news/150828/wor1508280040-n1.html|title=日本海での中露演習が終了、対テロ作戦も想定|publisher=産経新聞|date=2015-08-28}}</ref>、[[地中海]]<ref>{{cite news|url=http://www.nikkei.com/article/DGXLASGM11H73_R10C15A5FF8000/|title=中ロが地中海で軍事演習 米欧けん制、日本海でも8月実施 |publisher=[[日本経済新聞]]|date=2015-05-12|accessdate=2016-09-12}}</ref>、[[オホーツク海]]<ref>{{cite news|url=http://www.recordchina.co.jp/b190820-s0-c10.html|title=中国海軍が初めてオホーツク海・北方四島近くで軍事演習、満州事変勃発の9.18に開始―中国メディア|publisher=[[Record China]]|date=2017-09-16|accessdate=2017-09-22}}</ref>、[[南シナ海]]<ref>{{cite news|url=http://www.sankei.com/world/news/160912/wor1609120028-n1.html|publisher=[[産経新聞]]|author=|title=中露海軍が初の合同演習を開始 軍事大国ロシアを利用し実力で米を牽制、島嶼上陸作戦も|date=2016-09-12|accessdate=2016-09-12}}</ref>、[[バルト海]]<ref>{{cite news|url=http://www.sankei.com/world/news/170722/wor1707220036-n1.html|publisher=[[産経新聞]]|author=|title=中露海軍、バルト海で演習を開始|date=2017-07-22|accessdate=2017-07-24}}</ref>などで合同[[軍事演習]]を行っている。また[[東シベリア・太平洋石油パイプライン]]建設でも日本ルートと中華人民共和国ルートの駆け引きが続いていたが、この問題も結局、日本向けの[[パイプライン輸送|パイプライン]]の着工の目処が立たないまま、「中国支線」と呼ばれる[[スコボロジノ]]・[[大慶市|大慶]]間のパイプラインが先に建設されることが決定されて完成した。歴史問題でも対独・対日で協調しており<ref>{{cite news|url=http://www.sankei.com/world/news/150508/wor1505080041-n1.html|title=中露首脳、歴史観めぐり共同歩調 対独・対日の「共闘」確認|publisher=産経新聞|date=2015-05-08}}</ref><ref>{{cite news|url=http://mainichi.jp/select/news/20151117k0000m030105000c.html|title=中露首脳会談:歴史問題で共闘関係を継続 経済協力強化も|publisher=産経新聞|date=2015-11-16}}</ref>、2015年のモスクワの[[:en:2015 Moscow Victory Day Parade|対独戦勝70周年記念パレード]]と[[北京]]の[[中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年記念式典]]の何れも中国の[[習近平]]国家主席の隣に座って互いに[[赤の広場]]と[[天安門広場]]にロシア連邦軍と中国人民解放軍の儀仗隊を行進させた<ref>{{cite news|url=https://www.rt.com/news/314176-china-military-parade-wwii/|title=China marks 70th V-Day anniversary with spectacular parade (PHOTOS, VIDEO)|publisher=[[ロシア・トゥデイ]]|date=2015-09-03}}</ref><ref>{{cite news|url=http://thediplomat.com/2015/05/at-russias-military-parade-putin-and-xi-cement-ties/|title=At Russia's Military Parade, Putin and Xi Cement Ties|publisher=ザ・ディプロマット|date=2015-05-09}}</ref>。同年11月には日本とアメリカがアジア太平洋で推進している[[環太平洋戦略的経済連携協定]]を批判してロシアも参加する[[アジアインフラ投資銀行]]や[[BRICs]]の[[新開発銀行]]はアジア太平洋の発展に貢献し<ref>{{cite news|url=http://mainichi.jp/select/news/20151117k0000m030145000c.html|publisher=毎日新聞|author=|title=プーチン大統領:寄稿文全訳|date=2015-11-17|accessdate=2015-11-17}}</ref>、中国の[[一帯一路]]とロシアのユーラシア連合の連携がアジア太平洋の統合の刺激となるとした寄稿を世界のメディア各紙に行った<ref>{{cite news|url=http://mainichi.jp/shimen/news/20151117ddm001030117000c.html|publisher=毎日新聞|author=|title=プーチン露大統領:中露主導の連携重視 寄稿|date=2015-11-17|accessdate=2015-11-17}}</ref>。同年12月31日に発表した新国家安全保障戦略では「西側」という表現で[[新冷戦]]を匂わせて日米の[[ミサイル防衛]]を批判して中国との関係を重視するとし<ref>{{cite news|url=http://www.asahi.com/articles/ASJ121P4PJ12UHBI001.html|publisher=朝日新聞|author=|title=ロシアが新戦略 「色の革命」など警戒、中国関係を重視|date=2016-01-02|accessdate=2016-01-05}}</ref><ref>{{cite news|url=http://mainichi.jp/articles/20160103/k00/00m/030/063000c|publisher=毎日新聞|author=|title=日米ミサイル防衛を批判…新安保戦略|date=2016-01-02|accessdate=2016-01-05}}</ref>、[[2016年]]5月には初の中露合同ミサイル防衛演習を行った<ref>{{cite news|url=http://tass.ru/en/defense/878407|publisher=[[イタルタス通信]]|author=|title=Russia, China to launch first computer-enabled anti-missile exercises|date=2016-05-26|accessdate=2016-05-27}}</ref><ref>{{cite news|url=http://www.sankei.com/world/news/160429/wor1604290046-n1.html|publisher=TASS|author=|title=中露が初の合同ミサイル防衛演習へ 対米念頭に共同行動を|date=2016-04-29|accessdate=2016-05-27}}</ref>。2016年6月17日には中国・インド・パキスタン・イランなどのSCO加盟国と[[ユーラシア経済連合]](EEU)を軸に築く「大ユーラシア・パートナーシップ」と第一段階として中国との交渉協議を目指す計画を発表し<ref>{{cite news|url=http://www.forumspb.com/en/2016/sections/22/materials/196/news/550|publisher=[[:en:St. Petersburg International Economic Forum|SPIEF]]|author=|title=Plenary session of St Petersburg International Economic Forum - SPIEF|date=2016-06-23|accessdate=2016-06-26}}</ref><ref>{{cite news|url=http://eng.belta.by/politics/view/integration-of-sco-eeu-silk-road-viewed-as-prelude-to-large-eurasian-partnership-92504-2016/|publisher=[[:en:Belarusian Telegraph Agency|БЕЛТА]]|author=|title=Integration of SCO, EEU, Silk Road viewed as prelude to large Eurasian partnership|date=2016-06-17|accessdate=2016-06-26}}</ref><ref>{{cite news|url=http://mainichi.jp/articles/20160618/k00/00e/020/205000c|publisher=[[毎日新聞]]|author=|title=ロシア:プーチン大統領が「大ユーラシア経済」構想|date=2016-06-18|accessdate=2016-06-26}}</ref>、25日のプーチン訪中から同構想が中露共同声明に盛り込まれて共同研究の準備と[[経済連携協定]]の交渉協議が開始され<ref>{{cite news|url=http://greater-europe.org/archives/4098|publisher=Eurasian Studies|author=|title=Eurasian partnership: A new balance of power?|date=2018-01-04|accessdate=2018-03-11}}</ref><ref>{{cite news|url=http://news.xinhuanet.com/politics/2016-06/26/c_1119111908.htm|publisher=[[新華網]]|author=|title=中华人民共和国和俄罗斯联邦联合声明(全文)|date=2016-06-26|accessdate=2017-10-04}}</ref><ref>{{cite news|url=http://www.eurasiancommission.org/en/nae/news/Pages/28-06-2016-1.aspx|publisher=ユーラシア委員会|author=|title=EAEU and China Ready to Move to Negotiations on Agreement on Trade and Economic Cooperation|date=2016-06-27|accessdate=2017-10-04}}</ref>、[[2017年]]5月14日に北京での{{仮リンク|一帯一路国際協力サミットフォーラム|en|Belt and Road Forum}}の開幕式でプーチンは一帯一路、SCO、EEUなどは同構想の基礎となると演説<ref>{{Cite news|url=https://sputniknews.com/world/201705141053598245-eaeu-sco-eurasia-partnership/|publisher=[[スプートニク (通信社)|Sputnik]]|author=|title=Joint Potentials of EAEU, SCO Could Become Basis for Eurasia Partnership - Putin|date=2017-05-14|accessdate=2017-05-17}}</ref>して30日にはロシアの[[サンクトペテルブルク]]で「大ユーラシア・パートナーシップと一帯一路の連結」をテーマとした国際シンポジウムが行われ<ref>{{cite news|url=http://paper.people.com.cn/rmrb/html/2017-06/02/nw.D110000renmrb_20170602_4-21.htm|publisher=[[人民網]]|author=|title=大欧亚伙伴关系与一带一路倡议对接研讨会举行|date=2017-06-02|accessdate=2017-10-10}}</ref><ref>{{cite news|url=http://www.rcbcpark.com/4_72.html|publisher=俄中商务园|author=|title=全俄经济界泰斗谈大欧亚伙伴关系和“一带一路”倡议|date=2017-06-10|accessdate=2017-10-10}}</ref>、同年7月には同構想の共同研究が始まり<ref>{{cite news|url=http://english.mofcom.gov.cn/article/newsrelease/significantnews/201707/20170702605903.shtml|publisher=[[中華人民共和国商務部]]|author=|title=China and Russia Sign the Joint Declaration of Feasible Study on Eurasian Economic Partnership Agreement|date=2017-07-06|accessdate=2017-10-04}}</ref><ref>{{cite news|url=https://www.kyivpost.com/russia/russia-china-draft-study-eurasian-economic-partnership-agreement.html|publisher=KyivPost|author=|title=Russia, China to draft study for Eurasian economic partnership agreement|date=2017-07-04|accessdate=2017-10-04}}</ref>、同年10月に経済連携協定の交渉は妥結し<ref>{{cite news|url=http://www.china.org.cn/china/Off_the_Wire/2017-10/01/content_41676764.htm|publisher=[[新華社]]|author=|title=China, EEU complete negotiations on economic, trade cooperation agreement|date=2017-10-01|accessdate=2017-10-04}}</ref><ref>{{cite news|url=http://tass.com/economy/968315|publisher=[[イタルタス通信]]|author=|title=EAEU, China finalize talks on trade-economic agreement|date=2017-10-01|accessdate=2017-10-04}}</ref>、同年11月に[[アジア太平洋経済協力|APEC]]に向けてプーチン大統領が発表した論文でもユーラシア経済連合と中国の経済連携協定交渉の完了や大ユーラシア・パートナーシップは中国の一帯一路を基礎にすることが述べられた<ref>{{cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/world/20171108-OYT1T50162.html|publisher=[[読売新聞]]|author=|title=プーチン露大統領が寄稿した論文の全文|date=2017-11-09|accessdate=2017-11-13}}</ref><ref>{{cite news|url=http://tass.com/economy/974700|publisher=[[イタルタス通信]]|author=|title=Greater Eurasian Partnership project open to new participants — Putin|date=2017-11-08|accessdate=2017-12-13}}</ref>。同年7月にはプーチンは旧ソ連構成国ではない外国人では初のロシア最高位勲章の{{仮リンク|聖アンドレイ勲章|ru|Орден Святого апостола Андрея Первозванного}}を習国家主席に授与し<ref>{{Cite news|url=http://tass.com/politics/954627|publisher=[[TASS]]|author=|title=Putin presents Chinese president with Russia’s highest state award|date=2017-07-04|accessdate=2017-07-04}}</ref>、翌年5月にユーラシア経済連合と中国の経済連携協定は締結され<ref>{{Cite news|url=http://english.mofcom.gov.cn/article/newsrelease/significantnews/201805/20180502746079.shtml|publisher=[[中華人民共和国商務部]]|author=|title=China and Eurasian Economic Union Officially Sign Trade and Economic Cooperation Agreement|date=2018-05-18|accessdate=2018-05-23}}</ref>、6月の訪中では習国家主席から中国最高位勲章の「友誼勲章」を授与<ref>{{Cite news|url=http://japanese.cri.cn/20180608/57505a42-45f9-ee0d-e5cf-45c5f7947d01.html|publisher=[[中国国際放送]]|author=|title=習主席、プーチン大統領に「友誼勲章」を授与|date=2018-06-08|accessdate=2018-06-11}}</ref>して[[G7]]を人口や購買力などで上回る上海協力機構の枠組みを重視する意向を述べた<ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/world/news/180610/wor1806100029-n1.html|publisher=[[産経ニュース]]|author=|title=「人口や購買能力はG7上回る」 プーチン大統領、上海協力機構重視の考え トランプ氏は露復帰提唱したが|date=2018-06-10|accessdate=2018-06-11}}</ref>。
 
 
 
=== 安全保障 ===
 
[[ファイル:Akhmad Kadyrov and Vladimir Putin.jpg|thumb|200px|[[2002年]]、[[チェチェン共和国]]大統領(当時)の[[アフマド・カディロフ]](左)と]]
 
[[ファイル:Vladimir Putin Cockpit TU-160 Bomber.jpg|thumb|left|200px|2005年、長距離[[戦略爆撃機]]・[[Tu-160 (航空機)|tu-160]]に搭乗するプーチン]]
 
就任直後から[[チェチェン人]]の武装集団によってロシアの主要都市へテロが頻発すると、これを口実にチェチェンへの武力侵攻を強化した。ロシア軍はチェチェン各地で殺戮・[[強姦]]などの人権侵害を行い、これが更なるテロを誘発する原因となった。[[2002年]]の[[モスクワ劇場占拠事件]]では、立て籠もるテロリストを鎮圧するために[[KOLOKOL-1|有毒ガス]]の使用を許可した。その結果テロは鎮圧されたが、人質の市民も巻き添えとなり、100名を超える市民が死亡する惨事となってしまった。2006年に首謀者である[[シャミル・バサエフ]]をロシア特務機関が殺害してからチェチェン情勢は一応の安定を見せているものの、今でもチェチェン独立派の犯行と見られる小規模なテロが頻発している。
 
 
 
このように独立派に対しては武力を以って制する一方、第二次チェチェン紛争時には[[イスラム原理主義]]の浸透に反感を抱く[[アフマド・カディロフ]]等の帰順に成功し、彼らの[[民兵|非正規部隊]]をロシア連邦軍や[[ロシア内務省|内務省]]の指揮下にある[[ロシア国内軍]]などの正規軍に編入している<ref group="※">ロシア連邦軍の指揮下にある[[ヴォストーク大隊]]と[[ザーパド大隊]]、ロシア国内軍の指揮下にある[[セーヴェル大隊]]と[[ユーク大隊]]がある。</ref>。2007年[[1月]]まで投降者には刑事訴追の免除等の[[恩赦]]が約束されていた。また有力者には行政府の地位やロスネフチの子会社であるグロズネフチを通して利権が振舞われており、「[[飴と鞭|アメとムチ]]」を使い分けていると言える。
 
 
 
2007年[[8月]]に、[[1992年]]以来中断してきた長距離[[戦略爆撃機]]によるロシア国外への常時警戒飛行をロシアが再開していたことを初めてプーチン自身が公式に上海協力機構の軍事演習会場[[チェリャビンスク]](Chelyabinsk)で発言することにより明らかになった<ref>"[http://commentisfree.guardian.co.uk/dilip_hiro/2007/08/reordering_the_world_order.html Re-ordering the world order]", ''[[ガーディアン|Gurdian]]'', August 20, 2007.</ref>。
 
これは、同年[[8月17日]][[イギリス空軍]]所属の[[ユーロファイター タイフーン]]がロシアの長距離爆撃機を北大西洋上で捕捉したことと符合する<ref>"[http://www.foxnews.com/story/0,2933,294026,00.html British Jets Intercept Russian Bomber Over North Atlantic]", ''[[FOXニュース|FOX News]]'', August 22, 2007.</ref>。
 
 
 
== 人物 ==
 
その経歴から、「冷酷な性格」や「粗野」という批評を受けることが多いが、ロシア国内ではメディアを通じて非常に紳士的な姿勢をアピールしており、ロシア国民からの人気もきわめて高い。日本では「冷酷な紳士」で、なおかつ「有能な元工作員」と言う、スパイ映画などにおける定番のKGB職員のイメージで見られることが多い。
 
[[ファイル:Vladimir Putin 4 July 2007-5.jpg|thumb|150px|2007年、[[グアテマラ]]で行われた[[国際オリンピック委員会]]の総会にて[[英語]]でスピーチをし、[[ソチオリンピック]]誘致を訴えるプーチン]]
 
=== 人物像 ===
 
[[ファイル:Vladimir Putin 8 October 2001-1.jpg|thumb|left|150px|[[ミハイル・ゴルバチョフ]](左)と([[2001年]][[10月]])]]
 
サンクトペテルブルク市の職員時代にともに働いていたサプチャークや[[ドミトリー・コザク]]によれば、プーチンは礼儀正しく、遠慮深く、落ち着いた人物であったという。また、権力欲がなく、地位よりも仕事を重視し、仕事一筋に生きるタイプであると見られていた。
 
 
 
カメラの前では無表情を振舞っているが、実は取り留めないほどの冗談好きである。諜報員時代の上司から「お前は冷静すぎる」と言われたことがあるのだが、この逸話もプーチン自身にかかると「本当は『お前のようなおしゃべりはシュピオン(スパイ)には向かない』と言われたんです」になってしまう。
 
 
 
KGB時代、東ドイツに派遣されたためドイツ語に堪能であることはよく知られているが、大統領任期期間中に[[英語]]の勉強を本格的に始めており、現在では各国首脳とも英語で会話している光景が見られる。2007年の[[国際オリンピック委員会]]の総会でも、[[ソチオリンピック]]誘致のために英語でスピーチを披露した。
 
 
 
エリツィンに抜擢されたのでエリツィン派だったと思われているが、むしろ政治家としてはゴルバチョフに敬意を表している。しかし、ゴルバチョフに師事したことはなく、サプチャークからの間接的な影響だと思われる。サンクトペテルブルク時代に仕えた市長(当時)のサプチャークは、プーチンが学生時代に指導をうけた恩師でもあり、生涯の尊敬と忠誠を捧げている。
 
 
 
歴史上の人物で尊敬するのは[[ピョートル1世]]と[[エカチェリーナ2世|エカテリーナ2世]]<ref>「[http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=0128&f=politics_0128_003.shtml プーチン「何でも簡単に信じてしまうのが、私の欠点」]」 [[サーチナ]]、2009年1月28日。</ref>。また、外国の政治家で興味があるのは[[ナポレオン・ボナパルト]]、[[シャルル・ド・ゴール]]、[[ルートヴィヒ・エアハルト]]であるという<ref>ゲヴォルクヤン、コレスニコフ、チマコワ、前掲、239頁。</ref>。
 
 
 
幾度となく大切な会談に遅刻をする人物としてシンガポール華字紙・聯合早報によって報道されており、2003年にエリザベス2世英国女王との出会いに14分遅刻し、2012年にドイツのメルケル首相を40分待たせ、シリア問題の話し合いでケリー米国務長官を3時間待たせた例が出された。 一方2013年11月に韓国を訪問したプーチンは朴槿恵(パク・クネ)大統領との首脳会談に向かう途中ですでに時間に遅れているにもかかわらず武術愛好者と語らい、30分遅刻したという例や2012年のウクライナ訪問の際にバイクライダー団体との交流を優先してビクトル・ヤヌコビッチ大統領との会談に4時間遅れるという例など、故意に遅刻をする場合もある。プーチンの遅刻癖は「国際政治の場面で皇帝になりたい」という野心の表れだと専門家は指摘する。 <ref>[http://topics.jp.msn.com/wadai/recordchina/article.aspx?articleid=2460539 プーチン大統領は「遅刻魔」、その遅刻歴にあぜん=専門家「皇帝への野心の表れ」―SP華字紙] MSNトピックス 2013年12月3日 20:05</ref>
 
 
 
=== 家族 ===
 
[[ファイル:Lyudmila Putin favourite photo.jpg|130px|thumb|プーチンが「最も気に入っている」という妻リュドミラの写真<ref group="※">著書『プーチン、自らを語る』の中に収められている写真であり、「私がもっとも気に入っている」という文言がある。</ref>]]
 
元[[客室乗務員]]でレニングラード大学で[[文献学]]を専攻する学生だった[[リュドミラ・プーチナ|リュドミラ・シュクレブネワ]]と、[[1983年]][[7月28日]]に結婚し、[[1985年]]に長女マリーヤ、[[1986年]]には[[ドレスデン]]で次女カテリーナが生まれている。ロシア大衆紙『[[モスコフスキー・コムソモーレツ]]』(電子版2005年[[8月4日]])によると、2人は姉妹そろって父と母の母校であるサンクトペテルブルク大学(旧レニングラード大学)に合格し、マリーヤは[[生物土壌学]]、カテリーナは[[日本史]]を専攻することになると報じた。また、マリーヤは2005年3月[[ギリシャ]]で結婚式を挙げた。結婚相手は明らかにされていない。
 
 
 
2013年6月6日、プーチンは、リュドミラと離婚したことを国営放送で明らかにした<ref>{{cite news |title=プーチン大統領夫妻、離婚を発表 ロシア |newspaper=[[CNN]] |date=2013-6-7 |url=http://www.cnn.co.jp/world/35033092.html | accessdate=2013-6-7}}</ref>。
 
 
 
=== 私生活 ===
 
釣りを趣味とし、[[競馬]]のファンでもある<ref>"[http://www.thoroughbredtimes.com/international-news/2004/December/14/Russia-seeking-higher-quality-of-racing-through-international-participation.aspx Russia seeking higher quality of racing through international participation]" ''Thoroughbred Times'', December 14, 2004.</ref>。[[煙草]]は吸わず、[[酒]]もほとんど飲まない。また、[[犬]]好きで、自身も[[ラブラドール・レトリーバー]]を飼っている。その愛犬は「[[コニー (犬)|コニー]]」という名前であり、徹夜でお産の世話をしたこともある。愛犬家だということもあってか、2003年5月の日露首脳会談では、当時の首相であった[[小泉純一郎]]から犬語翻訳機「[[バウリンガル]]」を贈られている。2008年10月には副首相の[[セルゲイ・イワノフ]]からコニー用にロシアの[[衛星測位システム]]である[[GLONASS]](グロナス)の受信機がついた首輪を贈られ、コニーにその首輪が装着された。2012年7月には秋田県より雌の[[秋田犬]]1頭が贈られ、自ら「ゆめ(夢)」と名付けている<ref>{{Cite news
 
|url=http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120723-OYT1T01005.htm
 
|title=プーチンさんちの子になります…秋田犬「ゆめ」
 
|work=YOMIURI ONLINE
 
|newspaper=[[読売新聞]]
 
|date=2012-07-23
 
|accessdate=2012-08-08
 
}}</ref>。
 
 
 
=== 格闘技 ===
 
[[ファイル:Putin in judo uniform.jpg|thumb|left|150px|[[柔道#柔道と空手道の道衣|柔道着]]姿のプーチン]]
 
11歳の頃より柔道とサンボをたしなみ、大学在学中にサンボの全ロシア大学選手権に優勝、[[1976年]]には柔道のレニングラード市大会でも優勝した。政治家には珍しい逞しい肉体や戦闘技術を保有していることから、インターネット上では一部でカルト的な人気を博しており、自国ロシアのメディアも2008年[[8月31日]]に「研究者らによる野生の[[トラ]]の監視方法を視察するため国立公園を訪問していた際、カメラマンに向かって走ってきたトラにプーチンが麻酔銃を撃ってカメラマンを救出した」などと報じる<ref>「[http://jp.reuters.com/article/oddlyEnoughNews/idJPJAPAN-33531420080901 プーチン首相、トラの襲撃からカメラマン助ける=ロシアメディア]」 ロイター、2008年9月1日。</ref>ほど、ことさら超人的なイメージが前面に打ち出されている。なお、プーチンの身長は168cmとの事<ref>[[週刊文春]]2005年11月10日号[http://www.bunshun.co.jp/mag/shukanbunshun/shukanbunshun051110.htm 週刊文春_051110]</ref>。
 
 
 
柔道について「柔道は単なるスポーツではない。柔道は[[哲学]]だ」と語っている<ref group="※">『プーチン、自らを語る』の中に収められている柔道着姿のプーチンの写真の傍らに、この文言がある。</ref>。また、少年時代は喧嘩ばかりしている不良少年だったが、柔道と出会ってその生活態度が改まったと述懐している。大統領になってからも、大統領以前に書いた『{{lang|ru|Учимся дзюдо с Владимиром Путиным}} (プーチンと学ぶ柔道<!--、または、わが柔道-->)』という本を出版しており、その中で[[嘉納治五郎]]、[[山下泰裕]]、[[姿三四郎]]を柔道家として尊敬していると記している<ref group="※">[[イタリア]]の[[シルヴィオ・ベルルスコーニ]]は、2001年7月、イタリアでのサミットで、『柔道 わが人生』(『プーチンと学ぶ柔道』<!--、または、『わが柔道』-->のこと)をG8首脳にプレゼントした。ベルルスコーニがそのプレゼントで伝えたかったことは、嘉納が唱える「精力善用、自他共栄」の精神であるという。 ([http://www.yamashitayasuhiro.com/kouenroku/060308/ 山下泰裕公式ホームページ Japan/Pacific INTERVIEW 3月号](English: [http://www.yamashitayasuhiro.com/kouenroku/060308/english.html YAMASHITA Yasuhiro official HP Japan/Pacific INTERVIEW]) )</ref>。得意技は[[払腰]]。柔道の師は、2013年に亡くなったロシア柔道連盟副会長の{{仮リンク|アナトリー・ラフリン|ru|Robert Longor}}<ref>「[http://www.npo-jks.jp/activity/page/5771/ アナトリー・ラフリン先生が逝去されました。 | 柔道教育ソリダリティー]]</ref>。
 
 
 
[[ファイル:Vladimir Putin in Japan 3-5 September 2000-23.jpg|thumb|200px|2000年、日本を訪問した際に[[講道館]]で柔道の技の型を演武するプーチン]]
 
2000年7月の[[第26回主要国首脳会議|九州・沖縄サミット]]では[[沖縄県]][[具志川市]](現:[[うるま市]])を訪問し、柔道の練習にスーツの上着を脱いだYシャツ姿で飛び入り参加。掛かり稽古(お互いが交互に投げる練習形式)を行い、相手の中学生を投げたあとに、今度は同じ相手に投げられるというパフォーマンスを披露した。中学生は大統領相手にためらったが、プーチンに促されて投げたという。投げられるプーチンの姿は印象的で、その写真や映像は世界中に報道された。警備員や[[セキュリティポリス|SP]]は稽古とはいえ大統領が投げさせるとは考えられなかったようで、非常に驚いたという<ref>「[http://www.nikkei.co.jp/topic4/okinawa/topics/20000723eimi071323.html ロシア大統領を一本背負い・中学生初段と“腕試し”]」 [[日本経済新聞|NIKKEI NET]]、2000年7月23日。</ref>。
 
 
 
2000年9月の来日時には、講道館で技の型を首相の森喜朗(当時)に演武した。またこの際に講道館より柔道六段の名誉段位贈呈を提示されたが「私は柔道家ですから、六段の帯がもつ重みをよく知っています。ロシアに帰って研鑽を積み、1日も早くこの帯が締められるよう励みたいと思います」と述べて丁重に辞退した。
 
 
 
2012年8月2日、[[2012年ロンドンオリンピック|ロンドン五輪]]男子柔道をキャメロン英国首相と共にサプライズ観戦。自国の[[タギル・ハイブラエフ]]が決勝戦を一本勝ちで金メダルを確定させた瞬間には飛び上がって大歓喜。ハイブラエフ退場時に駆け寄り祝福した。
 
 
 
== 名前 ==
 
プーチンは元KGB情報部員であり、その過去についても不明な点が多く、首相就任時には影の薄かった彼が大統領に就任した時は、その謎に包まれた経歴から[[ロシア帝国|帝政ロシア]]末期の怪僧「[[グリゴリー・ラスプーチン|ラスプーチン]]」に引っかけられ、'''「ラス・プーチン」'''と揶揄されたことがある。ただし、プーチンという姓はロシア語で[[道路|道]]を意味するプーチ({{Lang|ru|Путь}}, Put')を思わせ、ラスプーチンのラス({{lang|ru|Рас}}, Ras)は(さまざまな意味があるがその1つとして)「逆」という意味があるため、ロシア人の間では、プーチンは「道」、ラスプーチンは「道がない」という逆の意味だと好意的に捉える者もいる。また、天然ガス輸出国の国際機構設立を主導する<ref>{{cite news|urlhttp://www.afpbb.com/articles/-/2552430|title=天然ガス輸出国、国際機構発足で合意 ガス版OPECとの懸念も|newspaper=AFPBB News|date=2008-12-14|accessdate=2015-08-10}}</ref>など[[資源ナショナリズム|資源外交]]を行うことから、同じくラスプーチンと引っ掛けて'''「ガスプーチン」'''と揶揄されたこともある。その他にも、[[アメリカ外交公電ウィキリークス流出事件]]ではアメリカの駐露大使がプーチンを[[バットマン]]と発言したこともある<ref name="mainichi01">{{cite news|url=http://mainichi.jp/select/world/europe/news/20101129k0000e030069000c.html|title=内部告発文書:肉のたるんだ老人 米大使館、各国首脳酷評|newspaper=毎日新聞|date=2010-11-29|accessdate=2010-11-29|archiveurl=http://web.archive.org/20101129213002/mainichi.jp/select/world/europe/news/20101129k0000e030069000c.html|archivedate=2010-11-29}}</ref>。
 
 
 
== 暗殺未遂 ==
 
プーチンに対しては、明らかになっているだけで過去5度[[暗殺]]が試みられたが、いずれも未然に阻止されている。
 
 
 
# 2000年[[2月24日]] - サンクトペテルブルクでのアナトリー・サプチャークの葬式時。[[ロシア連邦警護庁]](FSO)によれば、チェチェン独立派が背後に立つ某組織が計画した。「標準より際立った保安措置」により計画は阻止された。
 
# 2000年[[8月18日]]~[[8月19日|19日]] - [[ヤルタ]]での非公式の[[独立国家共同体|CIS]][[サミット]]時。国外より情報がもたらされ、チェチェン人4人とアラブ人数人が拘束された。
 
# 2002年[[1月9日]]~[[1月10日|10日]] - アゼルバイジャン、[[バクー]]の公式訪問時。[[アゼルバイジャン国家保安省]]により阻止。アフガニスタンで訓練を受け、チェチェン独立派と関係を有する[[イラク]]人、キャナン・ロスタムが逮捕され、懲役10年を言い渡された。
 
# 2008年[[3月2日]] - モスクワでのロシア大統領選当日。ロシア連邦保安庁(FSB)が察知し、直前に阻止した。現場からは[[小銃|ライフル銃]]や[[AK-47|カラシニコフ銃]]などが発見され、[[タジク人]]1名が逮捕された。
 
# 2012年[[2月27日]] - チェチェン共和国などの出身の男2人が[[イスラーム過激派|イスラム過激派]]の武装勢力の指導者の指示を受けてウクライナで爆弾の製造など暗殺計画を進めていたところ、ロシアとウクライナの捜査当局による別の爆発事件に関連した調査から発覚。(ただし[[2012年ロシア大統領選挙]]に先駆けた時期であることから政府による意図的なリークではないかという見方もある。)<ref>{{cite web|url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120228/k10013333601000.html|title=報道“プーチン首相暗殺の計画”|work=nhk.or.jp|publisher=[[日本放送協会|NHK]]|date=2012-02-28|accessdate=2012-03-01}}</ref>
 
 
 
== 著書 ==
 
* ウラジミール・プーチン、ワシーリー・シェスタコフ、アレクセイ・レヴィツキー(共著) 『{{lang|ru|[[:ru:Учимся дзюдо с Владимиром Путиным|Учимся дзюдо с Владимиром Путиным]]}} (プーチンと学ぶ柔道)』 {{lang|ru|[[:ru:ОЛМА-ПРЕСС|ОЛМА-ПРЕСС]]}}(オルマ・プレス)、2002年1月 ISBN 522403325X (ロシア語の著書。[[ラテン文字化|ラテン文字転写の例]];Uchimsia [[柔道|Dziudo]] S Vladimirom Putinym)<ref group="※">この著書をベースにした[[DVD]]教材『Учимся [[柔道|дзюдо]] с Владимиром Путиным (プーチンと学ぶ柔道)』(ロシア最大のインターネットショッピングサイト([[:ru:Ozon.ru|Ozon.ru]])参照。ロシア語外部リンク: [http://www.ozon.ru/context/detail/id/4180651/ Internet-Shop Ozon.ru])が、プーチン首相の誕生日の前日である2008年10月6日に発表された(「[http://sankei.jp.msn.com/world/europe/081007/erp0810071020005-n1.htm プーチン首相が柔道DVD 背負い投げも披露]」 [[産経新聞|MSN産経ニュース]] モスクワ(写真は[[共同通信社]])、2008年10月7日。"[http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/americas/7658574.stm Learn judo with Vladimir Putin]" [[BBC]], Octorber 8, 2008. ※ BBCでは柔道家としてのプーチンの映像が見られる)</ref>。
 
:※1. 英訳では『JUDO』というタイトルで出版されている([[:en:North Atlantic Books|North Atlantic Books]]、2003年2月 ISBN 1556434456)。
 
:※2. 邦訳では原著を編集、抜粋して『プーチンと柔道の心』という題名で出版されている([[朝日新聞出版]]、2009年5月 ISBN 4022505931)<ref group="※">イーゴリ・アレクサンドロフによる原著の翻訳を、山下泰裕と[[小林和男 (ジャーナリスト)|小林和男]]が合同で編集、抜粋。原著の説明や大統領当時(2003年)のプーチンへのインタビュー、プーチンの柔道の師であるアナトーリー・ラフリンへのインタビューを合わせて収録。</ref>。
 
 
 
== 関連文献 ==
 
* 中澤孝之 『エリツィンからプーチンへ』 東洋書店、2000年7月 ISBN 4885952972
 
* 西村拓也 『過去を消した男プーチンの正体』 [[小学館]]、2000年7月 ISBN 4094046119
 
* ナタリア・ゲヴォルクヤン、アンドレイ・コレスニコフ、ナタリア・チマコワ(共著) 『プーチン、自らを語る』 [[扶桑社]]、2000年8月 ISBN 4594029604
 
* ロイ・メドヴェージェフ 『プーチンの謎』 現代思潮新社、2000年8月 ISBN 4329004135
 
* 梅津和郎 『プーチンのロシア その産業と貿易』 [[晃洋書房]]、2000年9月 ISBN 4771011982
 
* [[袴田茂樹]] 『プーチンのロシア 法独裁への道』 [[エヌ・ティ・ティ出版|NTT出版]]、2000年10月 ISBN 4757120516
 
* [[木村汎]] 『プーチン主義とは何か』 [[角川書店]]、2000年12月 ISBN 404704010X
 
* 上野俊彦 『ポスト共産主義ロシアの政治 エリツィンからプーチンへ』 日本国際問題研究所、2001年7月 ISBN 4819303864
 
* 木村明生 『ロシア同時代史権力のドラマ ゴルバチョフからプーチンへ』 [[朝日新聞社]]、2002年2月 ISBN 402259795X
 
* 永綱憲悟 『大統領プーチンと現代ロシア政治』 東洋書店、2002年3月、ISBN 4885953804
 
* 徳永晴美 『ロシア・CIS南部の動乱 岐路に立つプーチン政権の試練』 清水弘文堂書房、2003年3月 ISBN 4879505617
 
* 木村汎、[[佐瀬昌盛]](共編) 『プーチンの変貌? 9・11以後のロシア』 [[勉誠出版]]、2003年5月 ISBN 458505085X
 
* 山内聡彦 『ドキュメント・プーチンのロシア』 日本放送出版協会、2003年8月 ISBN 4140808098
 
* 池田元博 『プーチン』 [[新潮社]]<[[新潮新書]]>、2004年2月 ISBN 4106100541
 
* [[小林和男 (ジャーナリスト)|小林和男]] 『白兎で知るロシア ゴルバチョフからプーチンまで』 かまくら春秋社、2004年3月 ISBN 4774002577
 
* 江頭寛 『プーチンの帝国 ロシアは何を狙っているのか』 [[草思社]]、2004年6月 ISBN 4794213166
 
* [[中村逸郎]] 『帝政民主主義国家ロシア プーチンの時代』 [[岩波書店]]、2005年4月 ISBN 4000240137
 
* [[アンナ・ポリトコフスカヤ]] 『プーチニズム 報道されないロシアの現実』 [[日本放送出版協会]]、2005年6月 ISBN 4140810548
 
* エレーヌ・ブラン 『KGB帝国 ロシア・プーチン政権の闇』 [[創元社]]、2006年2月 ISBN 4422202634
 
* 加藤志津子 『市場経済移行期のロシア企業 ゴルバチョフ、エリツィン、プーチンの時代』 文眞堂、2006年8月 ISBN 4830945532
 
* ロデリック・ライン、渡邊幸治、[[ストローブ・タルボット]](共著) 『プーチンのロシア 21世紀を左右する地政学リスク』 [[日本経済新聞社]]、2006年11月 ISBN 4532352290
 
* 寺谷ひろみ 『暗殺国家ロシア リトヴィネンコ毒殺とプーチンの野望』 [[学研ホールディングス|学習研究社]]、2007年6月 ISBN 4054034586
 
* [[アレクサンドル・リトビネンコ|アレクサンドル・リトヴィネンコ]]、ユーリー・フェリシチンスキー(共著) 『ロシア闇の戦争 プーチンと秘密警察の恐るべきテロ工作を暴く』 [[光文社]]、2007年6月 ISBN 4334961983
 
* 林克明 『プーチン政権の闇 チェチェン 戦争/独裁/要人暗殺』 [[高文研]]、2007年9月 ISBN 4874983901
 
* 木村汎 『プーチンのエネルギー戦略』 北星堂書店、2008年1月 ISBN 4590012359
 
 
 
== 関連番組 ==
 
* NHK、BS世界の[[ドキュメンタリー]]「プーチンの野望(1)新大統領 誕生」[http://pid.nhk.or.jp/pid04/ProgramIntro/Show.do?pkey=001-20111219-11-11480]、「第2回 脅かされる民主主義」[http://www.nhk-g.co.jp/program/documentary/bs_worlddocumentary/029/index.html]、「第3回 新たな冷戦の火種 グルジア」[http://www.nhk-g.co.jp/program/documentary/bs_worlddocumentary/030/index.html]
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[プーチン主義]]([[:en:Putinism]])
 
* [[ユーリ・アンドロポフ]]
 
* [[ナーシ]]
 
* [[2000年ロシア大統領選挙]]
 
* [[2004年ロシア大統領選挙]]
 
* [[2012年ロシア大統領選挙]]
 
* [[2018年ロシア大統領選挙]]
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
=== 注釈 ===
 
{{Reflist|group="※"}}
 
=== 出典 ===
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{Commons&cat|Владимир Владимирович Путин|Vladimir Putin}}
 
* [http://www.kremlin.ru/ ロシア大統領府公式ホームページ] {{ru icon}}
 
* [http://www.kremlin.ru/eng/ ロシア大統領府公式ホームページ] {{en icon}}
 
* {{facebook|Putin.President|Владимир Путин}}
 
* [http://roshianow.jp/politics/2014/01/20/46783.html プーチン大統領が得意なボディランゲージは?]ロシアNOW
 
* [http://jp.rbth.com/politics/2014/02/09/47043.html プーチン語を理解する]ロシアNOW
 
{{Wikiquote|ウラジーミル・プーチン}}
 
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| title = {{Flagicon|RUS}} [[ロシア連邦大統領]]
 
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2019/4/28/ (日) 21:46時点における最新版

ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチンロシア語: Владимир Владимирович Путинラテン文字表記例Vladimir Vladimirovich Putin1952年10月7日 - )}}

ロシアの政治家。1975年にレニングラード国立大学法学部を卒業し、ソ連邦国家保安委員会(KGB)に勤務。レニングラード国立大学学長補佐官を経て、1991年のソ連崩壊後、サンクトペテルブルグ市副市長、ロシア連邦保安長官などを経て、1999年に首相に就任。エリツィンに大統領代行に指名され、翌年の大統領選挙に当選、第2代ロシア連邦大統領に就任。2008年、メドベージェフを後継者に指名し大統領に当選させ、みずからは首相となる。2012年に第4代大統領に再任。



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