ウィリアム・ヴァーノン・ハーコート

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サー・ウィリアム・ジョージ・グランヴィル・ヴェナブルズ・ヴァーノン・ハーコート: Sir William George Granville Venables Vernon Harcourt, PC, QC, DL1827年10月14日 - 1904年10月1日)は、イギリスの政治家。

ヴィクトリア朝後期の自由党政権で閣僚職を歴任した。「小英国主義」派であり、長らくグラッドストンの支持者だったが、第四次グラッドストン内閣ではグラッドストンから離反した。ローズベリー伯爵の後を受けて野党期の自由党の党首となったが、党を掌握できず、間もなく退任。サー・ヘンリー・キャンベル=バナマンが代わって自由党党首となった。

経歴

生い立ち

1827年10月14日ウィリアム・ヴァーノン・ハーコートEnglish版の次男としてオックスフォードナンハム・パークEnglish版に生まれる[1]。父は科学者で英国科学協会English版の事実上の創設者であり[2]ハーコート男爵ヴェナブルズ=ハーコート家English版の分流にあたる[3]

1851年ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジを卒業。1854年弁護士資格を取得し、1866年には勅選弁護士English版(QC)となった。1869年にはケンブリッジ大学の国際法の教授となる。1873年には法務次長English版に任じられるとともにナイトの称号を与えられた[1][4]

ファイル:William Vernon Harcourt, Vanity Fair, 1870-06-04.jpg
1870年6月4日の『バニティ・フェア』誌に描かれたハーコートの似顔絵。

庶民院議員に

1868年から1880年にかけてはオックスフォード選挙区English版から選出されて自由党庶民院議員を務めた。1880年から1895年にかけてはダービー選挙区English版、さらに1895年から死去まではウェスト・マンマスシャー選挙区English版から選出された[1][5]

第二次グラッドストン内閣

1880年に第2次グラッドストン内閣が発足するとその内務大臣に就任する。1880年の狩猟法English版、1881年のアイルランド武器法、1883年の爆発物法English版の制定などに活躍した[1]

彼は閣内においてグラッドストンに最も忠実な閣僚であり、1884年スーダンハルトゥームマフディー軍に包囲されたチャールズ・ゴードン将軍を救出する援軍を派遣すべきか否かの閣内論争では、ほとんどの閣僚が援軍派遣に賛成する中、小英国主義の立場から援軍派遣に反対するグラッドストンをインド担当大臣キンバリー伯爵とともに最後まで支持した(結局グラッドストンが折れて援軍派遣が決定したが)[6]

第三次グラッドストン内閣

1886年1月末に成立した第3次グラッドストン内閣の組閣に際しては、ハーコートは大法官として入閣することで貴族になることを希望していたが、グラッドストンからの要請により財務大臣として入閣することになった[7]

しかしこの内閣はアイルランド自治法案をめぐって失敗したため、7月には総辞職へ追い込まれた[8]

第四次グラッドストン内閣

ファイル:Babble and Bluster Vanity Fair 3 December 1892.jpg
1892年12月3日の『バニティ・フェア』誌に描かれたグラッドストンとハーコートの似顔絵。

1892年7月に成立した第4次グラッドストン内閣でも財務大臣として入閣したが、この頃にはハーコートはグラッドストンのアイルランド自治法案への偏愛ぶりを煙たがるようになっており、グラッドストンに口答えするようになっていた[9]

しかし「小英国主義派」という面ではハーコートはグラッドストンと同じ立場であり、1892年から1893年にかけて「自由帝国主義派」の外相ローズベリー伯爵が推し進めていたウガンダ植民地化には、グラッドストンとともに慎重姿勢をとった(結局最後にはグラッドストンが折れて1894年にウガンダはイギリスに併合された)[10]

また列強の植民地争奪戦の激化で1893年後半からイギリス国内では海軍増強の必要性が叫ばれるようになり、グラッドストン内閣でも閣僚のほとんどが海軍増強に賛成するようになった。グラッドストンとハーコートと他二閣僚はそれに反対し続けたが、1894年に入るとハーコートは海軍予算増額を認めなければ内閣が瓦解すると考え、海軍増強派に転じた[11]。これによって閣内で完全に孤立したグラッドストンは海軍増強の是非をめぐる解散総選挙を行おうとしたが、閣僚の全員一致で反対された。ハーコートも「利己的な狂人の行為」と評してグラッドストンを批判した。結局グラッドストンは辞職することになった[12]

グラッドストンの退任で自由党庶民院院内総務English版にはハーコートが就任することになった[1]

ローズベリー伯爵内閣

第四次グラッドストン内閣の辞職に際してヴィクトリア女王はグラッドストンに後任の首相について下問しなかった。世論はハーコートが後任の首相になるものと思っていたが、ハーコートは態度が傍若無人なため、閣内で嫌われており[注釈 1]、ハーコートを首相にすればただちに内閣が瓦解する危険があった。そのため女王はローズベリー伯爵に組閣の大命を与えた。だが世論はそうした事情を知らなかったのでハーコートが理不尽に女王に退けられたと考え、ハーコートに同情を寄せた[14]

ハーコートはローズベリー伯爵内閣でも財務大臣に留任し、海軍増強予算を捻出するため、累進性の相続税を制定した。これによりハーコートは貧しい庶民の人気を集め、一層世論面で優位に立った[14]。しかし自由党政権そのものが長く続かず、1895年6月にはローズベリー伯爵内閣は議会で敗北して総辞職に追い込まれ、第三次ソールズベリー侯爵内閣(保守党政権)が発足した[15]

自由党党首

下野後の自由党は、ローズベリー伯爵が名目上の党首を務めつつ、ハーコートが自由党庶民院院内総務、キンバリー卿が自由党貴族院院内総務としてそれぞれの院の自由党を指導した。ローズベリー伯爵とハーコートは折り合いが悪く、1896年10月にローズベリー伯爵はハーコートへのあてつけで党首職を辞した。この際にハーコートは「党首が去っても何も変わらんよ。自由党員が一人減っただけだ。お先まっくらなので帽子を取ってサヨナラしたのだろう」と嘲笑したという[16]

以降ハーコートは自由党党首も兼ねるようになった。しかしトランスヴァール共和国をめぐって南アフリカ情勢が緊迫する中、自由党はハーコートやサー・ヘンリー・キャンベル=バナマンら「小英国主義派」とローズベリー伯爵やハーバート・ヘンリー・アスキスら「自由帝国主義派」に分裂していった。もともと敵が多いハーコートは庶民院自由党を掌握できず、1898年春には辞職に追い込まれた。後任の党首にはキャンベル=バナマンが就任する[17]

1904年10月1日にナンハムで死去した[1]

栄典

家族

1859年にマリア・テレサ・リスターと最初の結婚をし、彼女との間に以下の2子を儲ける[18]

1876年に歴史家ジョン・ロスロップ・モトリーの娘エリザベスと再婚し、彼女との間に以下の1子を儲ける[18]

脚注

注釈

  1. たとえば内務大臣ハーバート・ヘンリー・アスキスはハーコートについて「この人は均衡の感覚が欠けているし、自制するということができない。意地悪で事を難しく苦しくすることを楽しみとする。仲良くやっていくことは非常に難しい。この人と一緒にいるだけで心身ともに疲れ果てる」と評している[13]

出典

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 Wikisource-logo.svg {{#invoke:citation/CS1|citation |CitationClass=encyclopaedia }}
  2. テンプレート:DNB
  3. Heraldic Media Limited. “Vernon, Baron (GB, 1762)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. . 2016閲覧.
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 テンプレート:Venn
  5. 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「hansard」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  6. 坂井(1994) p.110
  7. 神川(2011) p.389
  8. 神川(2011) p.393-403
  9. 神川(2011) p.423
  10. 坂井(1994) p.135
  11. 坂井(1994) p.139-140
  12. 神川(2011) p.427
  13. 中村(1978) p.25
  14. 14.0 14.1 神川(2011) p.429
  15. 神川(2011) p.430
  16. 中村(1978) p.28-29
  17. 中村(1978) p.28-29
  18. 18.0 18.1 18.2 18.3 Lundy, Darryl. “Rt. Hon. Sir William George Granville Harcourt” (英語). thepeerage.com. . 2013閲覧.

参考文献

  • 神川信彦(著)、君塚直隆(解題) 『グラッドストン 政治における使命感』 吉田書店、2011年。ISBN 978-4905497028。
  • 坂井秀夫 『政治指導の歴史的研究 近代イギリスを中心として』 創文社、1967年。
  • 中村祐吉 『イギリス政変記 アスキス内閣の悲劇』 集英社、1978年。
  • 『世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000』 秦郁彦編、東京大学出版会、2001年。ISBN 978-4130301220。

外部リンク

公職
先代:
サー・リチャード・クロス
内務大臣
1880年1885年
次代:
サー・リチャード・クロス
先代:
サー・マイケル・ヒックス・ビーチ准男爵
財務大臣
1886年
次代:
ランドルフ・チャーチル卿
先代:
ジョージ・ゴッシェン
財務大臣
1892年1895年
次代:
サー・マイケル・ヒックス・ビーチ准男爵
先代:
ウィリアム・グラッドストン
庶民院院内総務
1894年1895年
次代:
アーサー・バルフォア
党職
先代:
第5代ローズベリー伯爵
自由党党首
1896年1898年
次代:
サー・ヘンリー・キャンベル=バナマン
先代:
ウィリアム・グラッドストン
自由党庶民院院内総務English版
1894年1898年