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[[File:William_Penn.png|thumb|right|300px|ウィリアム・ペン(William Penn)]]
 
'''ウィリアム・ペン'''(William Penn、[[1644年]][[10月14日]] - [[1718年]][[7月30日]])は、[[イギリス]]の[[植民地]]だった現在の[[アメリカ合衆国]]に[[フィラデルフィア]]市を建設し[[ペンシルベニア州]]を整備した人物である。ペンが示した[[民主主義]]重視は、[[アメリカ合衆国憲法]]に影響を与えた。
 
  
== 信仰 ==
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'''ウィリアム・ペン'''(William Penn、[[1644年]][[10月14日]] - [[1718年]][[7月30日]]
ペンの父[[ウィリアム・ペン (イングランド海軍)|ウィリアム・ペン]]は、有力な海軍軍人で、裕福な[[イングランド国教会]]信徒であったが、同名の息子のペンは22歳でキリスト友会徒([[クエーカー]])になった。クエーカーは[[内なる光]]に従い、その光は神から直接来ると信じ、[[国王]]の権威を否定し、[[平和主義]]を掲げている。時は[[オリバー・クロムウェル]]が没して間もない騒乱の時期で、クエーカーは異端の考えと国王への忠誠を拒否したことで裁判にかけられていた。(クエーカーは宣誓をしない。)
 
  
ペンの宗教観は、海軍軍役を通じて[[アイルランド]]に土地を得て、その権威と知性で[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]の宮廷で追従を得ることを望んだ父を激しく苦しめた。[[1668年]]、ペンは[[三位一体]]の教えを攻撃する小冊子(「揺れる砂上の楼閣」)を書いて投獄された。
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イギリスのクェーカー教徒,ペンシルバニア植民地の建設者。同名の父は,[[清教徒革命]]に議会派として従軍し,イギリス=オランダ戦争にも活躍した海軍軍人。 1660年オックスフォード大学に入学。父の領地管理のためおもむいたアイルランドでクェーカーの信仰に触れ,入信。 81年父の債権の代償として北アメリカに植民地建設の特許状を国王チャールズ2世から獲得し,自己の姓をとってペンシルバニアと名づけ,82年渡航。フィラデルフィアを建設しインディアンとの友好関係の樹立に留意し,植民地の発展に尽力。
  
* 「汝が良く支配しないのなら、汝は神のために支配しなければならず、その為に神に支配される・・・。神に支配されないものは、暴君に支配されることになる。」ウィリアム・ペン
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84年[[チャールズ・カルバート (第3代ボルティモア男爵)]]との境界紛争解決のため帰国。 99年再び植民地に帰り,議会の選挙権を拡大して民主化に努め,1701年帰国。植民地経営を託した部下に裏切られるなど,晩年は不遇であった。
 
 
== 迫害 ==
 
[[File:William Penn at 22 1666.jpg|thumb|left|武具を身に着けた22歳のウィリアム・ペン]]
 
ペンは少年期に宗教教育を[[エセックス州|エセックス]]のチグウェル校で受けた。その後クエーカーの信仰に同調した宗教観の故に1660年に入学した[[オックスフォード大学]]の[[クライスト・チャーチ (オックスフォード大学)|クライスト・チャーチ]]から1662年に退学させられ、正式にクエーカーに入信後は、数回逮捕された。最も有名なのは、クエーカーの集会で説教してウィリアム・ミードと逮捕されて受けた裁判である。ペンは告発状と自身が犯したとされる法律の写しを見る権利を主張して弁明したが、[[判事]]である[[ロンドン]][[市長]]は、この権利が合法的であったにしても、拒否した。有罪にするよう強い圧力がロンドン市長から掛かったにもかかわらず、[[陪審員]]は「無罪」の評決をした。市長は今度は(法廷侮辱罪で)再度投獄しようとし、陪審員も同調した。陪審員は判事の支配を受けない権利を勝ち取ろうとした。
 
 
 
クエーカーに対する迫害が厳しくなり、ペンは北アメリカに新しい自由な新天地を求める気持ちが強くなった。既に北米に移住したクエーカーもいたが、特に[[ニューイングランド]]の[[ピューリタン]]は、クエーカーの移住に否定的で、帰国を要求し、[[カリブ海]]地域への立ち入りが禁止される者もいた。
 
 
 
== ペンシルベニア建設 ==
 
[[File:William Penn - The First Draft of the Frame of Government - c1681.jpg|thumb|「政府の枠組み」の最初の草稿、ペンによるペンシルベニア憲法(1681年)]]
 
[[1677年]]、ペンを含む著名なクエーカーの一団は西ニュージャージー地区(現在の[[ニュージャージー州]]西部)を受領する機会に恵まれた。同じ年、[[ハートフォードシャー州]]の[[チョーリーウッド]]と[[リックマンスワース]]と[[バッキンガムシャー州]]から200人の開拓者が到着し、[[バーリントン (ニュージャージー州)|バーリントン]]を建設した。ペンはこの計画に関わったもののイングランドに残り、開拓地のための自由憲章の草稿を書き上げた。自由で公平な裁判、信教の自由、不当に収監されない自由、自由選挙を保証した。
 
 
 
[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]はペンの父親に借金があり、[[1681年]][[3月4日]]にニュージャージーの広大な西部地区と南部地区を保証することで弁済に当てた。ペンはこの領地をシルバニア(Sylvania、ラテン語で「森の国」)と名付けたが、チャールズ2世は父ペンに敬意を表してこれを「ペンシルベニア(ペンの森の国)」と改めた。恐らく国王は宗教や政治上のよそ者が(クエーカーや[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ]]のように人民の参画を望む集団)、イングランドから遠く離れた土地に自分達の土地を持って、厄介払いができたと、喜んだのであろう。ペンシルベニア最初の郡のひとつは、ペンの家族の出身地であり、そこから初期の開拓者がやってきたイングランドの[[バッキンガムシャー州]]に因んで[[バックス郡 (ペンシルベニア州)|バックス郡]]と名付けられた。
 
[[Image:Treaty of Penn with Indians by Benjamin West.jpg|thumb|350px|植民地仲買人'''ウィリアム・ペン'''と[[レナペ|レナペ族]]の1682年の土地交渉の想像画(ベンジャミン・ウェスト画、1771年)]]
 
 
 
植民地におけるペンの権限は、公式には国王に従ってはいたが、「政府の枠組み」を通して信教の自由、公正な裁判、主権を持つ人民により選ばれた代表、[[権力分立|三権分立]](後にアメリカ合衆国憲法の基本になる考えである)と共に民主的な制度を実行した。ペンシルベニアの信教の自由(神を信じる者全てに対する完全な信教の自由)は、この地に来るイングランド・[[ウェールズ]]・[[ドイツ]]・[[オランダ]]のクエーカーだけでなく、カトリックのドイツ[[ルーテル教会|ルター派]]同様[[ユグノー]]にも与えられた。
 
ペンはペンシルベニアが自分と家族にとって利益を上げられる事業となることを望んでいた。ペンは[[ヨーロッパ]]中に様々な言語でペンシルベニアを売り込んだ結果、移民が大挙して押し寄せた。ペンシルベニアが急激に成長し多様化した割にはペンや家族が潤うことはなかった。実際、後にペンはイングランドで借金のために収監され、[[1718年]]の死亡時には無一文であった。
 
 
 
[[File:Wampum william penn greaty treaty.jpg|thumb|left|400px|1682年に「大協定」でウィリアム・ペンに贈られた貝殻玉のベルト]]
 
[[1682年]]から[[1684年]]まで、ペンはペンシルベニアにいた。「兄弟愛」を意味する[[フィラデルフィア]]の建設計画が完成し、ペンの政策面での案が実行に移されると、各地を巡視に出かけた。[[インディアン]]の[[レナペ|レニ・レナペ族]](別名デラウェア族)と友好関係を結び、土地への支払いは公正に行うことを確約した。ペンは通訳を用いずに交渉するために、インディアンの数種類の方言さえ学んだ。ペンはヨーロッパ人がインディアンに不法行為をした場合には、双方から同数の人が出て公平な審理を行うという法令を導入した。この方法は成功し、後の植民者はペンたち最初の植民者のように公平にインディアンを扱わなかったものの、インディアンと植民者は他のイングランド植民地より長くペンシルベニアで共存した。
 
 
 
[[File:Penn capitol frieze.jpg|thumb|150px|インディアンとのペンの協定、合衆国議会議事堂]]
 
ペンはシャカマクソン(フィラデルフィアのケンジントン近く)のインディアンとも楡の木の下で協定を結んだ。ペンは征服より事業を通じて植民地の土地を得ることを選択した。協定に基づき適正と思う金額1,200ポンドをインディアンに支払った。しかし、そもそもインディアンは「土地をお金で売る」という行為を理解していたかどうか疑わしい。
 
 
 
貨幣経済の未発達なインディアン民族を貨幣経済の中に強引に引き込む、「土地の権利を金銭と交換する」という発想は、のちのちまでインディアンとの軋轢を生み続け、やがては「強制移住」と引き換えにした「年金支給」というシステムを伴う「[[インディアン移住法]]」となり、インディアン部族を骨抜きにしていく。
 
 
 
[[ヴォルテール]]はこの「大協定」を「この人達(インディアンとヨーロッパ人)の間で唯一口約束でもなく破られもしなかった協定」と賞賛した。「大協定」は多くの人からペンにまつわる作り話だと考えられているが、この物語は長らく影響力を持ち続けた。この出来事は象徴的な地位を占め、[[アメリカ合衆国議会議事堂|合衆国議会議事堂]]の[[フリーズ (建築)|フリーズ]]に掲げられている。
 
 
 
ペンは[[1699年]]にアメリカをもう一度訪れた。この間、アメリカの全イングランド植民地を連邦化する計画を推し進めた。[[奴隷制]]と闘ったとも言われるが、自分が奴隷を所有し取引しているので、そのようなことはなかったようである。しかし、奴隷の処遇を向上させ、他にペンシルベニアのクエーカーが初期の奴隷制反対運動に加わった。
 
 
 
ペンはフィラデルフィアに定住したいと願ったが、金銭問題のために[[1701年]]に帰国を余儀なくされた。投資顧問であったフィリップ・フォードはペンから大金を詐取し、フォードの陰謀でペンはペンシルベニアを失いかけていた。次の10年間は、主としてフォードとの法廷闘争に明け暮れた。ペンはイングランドにペンシルベニアを売却しようとしたが、交渉が行われているうちに、[[1712年]]に発作に倒れ、以後は話すことも自分の面倒を見ることもできなくなった。
 
 
 
ペンは[[1718年]]に亡くなり、イングランド・[[バッキンガムシャー|バッキンガムシャー州]]チャルフォントのジョーダンズ村クエーカー集会所の墓地で、最初の妻の隣に葬られた。家族は[[アメリカ独立戦争]]までペンシルベニアの所有権を持ち続けた。
 
 
 
== 追叙 ==
 
[[File:Philadelphia_City_Hall-zoom.JPG|thumb|left|215px|市庁舎屋上のウィリアム・ペンの銅像]]
 
[[1984年]][[11月28日]]、[[ロナルド・レーガン]]は大統領布告第5284号により、<!-- 議会法に基づき-->ウィリアム・ペンと二番目の妻ハナ・カロウィル・ペンをそれぞれ[[アメリカ合衆国名誉市民]]にすると発表した。
 
 
 
巷間に伝えられている話に<!--(恐らく出所は怪しいが)-->、ある時[[ジョージ・フォックス]]とウィリアム・ペンが会ったという話がある。ここでウィリアム・ペンが剣を身に付けることに(ペンの身分では当たり前だった)懸念を示し、どうしたらクエーカーの信仰と両立できるかを尋ねた。ジョージ・フォックスは応えて、「できる限り着ければ良い」と言った。後日談があり、ペンはフォックスと再会したが、この時は剣を身に着けていなかった。その時ペンは言った。「仰せに従ってできる限り着用しましたよ。」
 
 
 
[[フィラデルフィア]]市庁舎(シティ・ホール)の屋上に、アレクサンダー・ミルン・コールダーが建てたウィリアム・ペンの銅像がある。一時「ウィリアム・ペンの銅像より高くに建造物を造ってはいけない」という紳士協定があった。初めて高く作られたのは、[[1980年代]]後半になってからである。この銅像は「ビリー・ペンの呪い」と言われている(「ビリー」は「ウィリアム」の[[人名の短縮形|短縮形]])。銅像はペンが上陸した方向を向いているという<ref>http://www.philadelphiafaithandfreedom.com/williampennstatue</ref>。
 
 
 
[[クエーカーオーツカンパニー|クエーカー・オーツ]]の箱にある笑みを浮かべたクエーカーはウィリアム・ペンだと広く誤解されている。クエーカー・オーツ社は[http://www.quakeroatmeal.com/FAQ/AH_index.cfm 違う]と言っている。
 
 
 
=="No pain no palm==
 
ペンはクエーカーとして以下のような言葉を残している。
 
:No pain no palm,
 
:No thorn no throne,
 
:No gall no glory,
 
:No cross no crown.
 
 
 
:痛みなくして、[[棕櫚の主日|聖枝の勝利]]なく
 
:荊なくして王座なく、
 
:苦難なくして栄光なく、
 
:十字架なくして王冠なし。
 
 
 
==参考文献==
 
*ウィリアム・ペン 民主主義の先駆者 [[ヴァイニング夫人]] [[高橋たね]]訳.1950.岩波新書
 
 
 
==脚注==
 
{{reflist}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[ペンシルベニア州]]
 
* [[フィラデルフィア|フィラデルフィア市]]
 
* [[クエーカー]]
 
* [[ジョージ・フォックス]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
*[http://www.antiquebooks.net/readpage.html#penn The LIFE of William Penn] by M.L. Weems, 1829. [[1829年]]にフィラデルフィアで初版されたウィリアム・ペンの伝記の無料テキスト版
 
*[http://xroads.virginia.edu/~CAP/PENN/pnhome.html William Penn, Visionary Proprietor] by Tuomi J. Forrest (ヴァージニア大学)
 
*[http://www.quaker.org/wmpenn.html William Penn, America's First Great Champion for Liberty and Peace] by Jim Powell
 
*[http://www.dep.state.pa.us/dep/PA_Env-Her/William_Penn.htm Penn In Pennsylvania]
 
*[http://www.quakerinfo.com/quakpenn.shtml William Penn] by Bill Samuel
 
*[http://www.pym.org/exhibit/p078.html Penn's Holy Experiment: The Seed of a Nation]
 
*[http://www.accessible.com/amcnty/DE/Delaware/delaware8.htm "William Penn and his Government"], '''デラウェア史'''([[1609年]] - [[1888年]])(1888年)Thomas J. Scharf著
 
*[http://www.gwyneddfriends.org/penntower.html Penn in the Tower of London]
 
*[http://www.offtolondon.com/hiddenlondoncopy/william_penn.html Hidden London] Penn in the Tower
 
*[http://www.reagan.utexas.edu/resource/speeches/1984/112884a.htm Proclamation of Honorary US Citizenship for William and Hannah Penn] [[ロナルド・レーガン]]大統領著([[1984年]])
 
*[http://www.quaker.org/ Quaker.org] クエーカーに関するリンク多数
 
*[http://www.win.tue.nl/~engels/discovery/penn.html original version of this article] (copied with permission)
 
 
 
=== ペンの業績 ===
 
*[http://www.tractassociation.org/TrueSpiriutalLiberty.htm True Spiritual Liberty]([[1681年]]) (Lewis Bensonによる要約版)
 
*[http://www.fordham.edu/halsall/mod/1682penn-solitude.html Some Fruits of Solitude In Reflections And Maxims] ([[1682年]])
 
*[http://www.constitution.org/bcp/frampenn.htm Frame Of Government Of Pennsylvania] (1682年) [Excerpts]
 
*[http://www.qhpress.org/quakerpages/qwhp/pp340.htm Letter to his wife, Gulielma] (1682年)
 
*[http://www.qhpress.org/quakerpages/qwhp/q1718b.htm Early Quaker writings] ペン夫妻による文書数点を含む。
 
*[http://www.tractassociation.org/AKey.html A Key] ([[1692年]])
 
*[http://www.strecorsoc.org/penn/pcr_intr.html Primitive Christianity Revived] ([[1696年]])
 
*[http://www.constitution.org/bcp/frampenn.htm Pennsylvania Charter of Privileges] ([[1701年]])
 
 
 
<!--英語版 [[:en:William Penn|William Penn]] 2006-03-27 21:43 UTCより翻訳。著者:Brholden ほか。-->
 
  
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[[Category:ペンシルベニア植民地総督]]
 
[[Category:ペンシルベニア植民地総督]]

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ウィリアム・ペン(William Penn、1644年10月14日 - 1718年7月30日

イギリスのクェーカー教徒,ペンシルバニア植民地の建設者。同名の父は,清教徒革命に議会派として従軍し,イギリス=オランダ戦争にも活躍した海軍軍人。 1660年オックスフォード大学に入学。父の領地管理のためおもむいたアイルランドでクェーカーの信仰に触れ,入信。 81年父の債権の代償として北アメリカに植民地建設の特許状を国王チャールズ2世から獲得し,自己の姓をとってペンシルバニアと名づけ,82年渡航。フィラデルフィアを建設しインディアンとの友好関係の樹立に留意し,植民地の発展に尽力。

84年チャールズ・カルバート (第3代ボルティモア男爵)との境界紛争解決のため帰国。 99年再び植民地に帰り,議会の選挙権を拡大して民主化に努め,1701年帰国。植民地経営を託した部下に裏切られるなど,晩年は不遇であった。



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