イタリア王国 (中世)

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イタリア王国ラテン語:Regnum Italiae または Regnum Italicum)は、ドイツブルグントと共に中近世の西欧におけるローマ帝国、すなわち神聖ローマ帝国を構成した王国である。名目上はローマ帝国の中核となる国であるが、実際にはフランク王国東フランク王国ドイツ)の従属国だった。8世紀後半に成立して以来1000年以上の歴史を持つが、政治的に独立していたのは9世紀から10世紀にかけての100年足らずだった。歴史的経緯から領域は北部および中部イタリアに留まり、ヴェネツィア共和国南イタリアシチリア王国)を含まない。11世紀まで首都はパヴィアとされた。13世紀には政体としての実態が失われ、16世紀後期にはイタリア王の称号もローマ皇帝位に統合されて消えた。一方でローマ皇帝を頂点とする封建的ネットワークは18世紀末まで維持され、「帝国イタリア」と呼ばれた中北部イタリアはヴェネツィア共和国、教皇領シチリア王国とは明確に異なる領域であった。

概要

773年、カロリング朝フランク王国カルロ・マーニョはイタリアの大部分を領土とするランゴバルド王国に侵攻した。774年6月にランゴバルド王国の首都パヴィアが陥落し、カルロ・マーニョはランゴバルド王=イタリア王を兼ねることを宣言した。中近世イタリア王国の成立である。カルロ・マーニョは800年ローマ皇帝としても戴冠された。カロリング朝のイタリア統治は皇帝カルロ3世が廃位される887年まで続いた。その後はイタリア王国内外の諸侯がローマ皇帝位の前提でもあるイタリア王位を求めて争い続けた。

951年、東フランク王オットー1世がイタリア王国に攻め込み、首都パヴィアでイタリア王オットーネ1世を名乗った。962年にオットーネ1世は924年以来絶えていた皇帝位に登った。以後、東フランク(後のドイツ)とイタリアはローマ皇帝という共通の君主を持つことになった。ローマ皇帝はその前提としてイタリア王であるものの実際には殆どイタリアにいなかったため、イタリアの中央政府は中世盛期に早くも消失した。しかしイタリアがローマ帝国の中の王国であるという認識は残った。ローマ王を名乗るドイツ君主はイタリア王及びローマ皇帝に即位するため度々イタリアに進駐し、発展著しい都市国家群に対してイタリア王としての権力を行使した。12世紀から14世紀にかけてローマ皇帝に反するゲルフ(教皇派、反皇帝派)と支持するギベリン(皇帝派)の間でたびたび戦争が起こった。ゲルフのロンバルディア同盟が著名である。ロンバルディア同盟はローマ帝国からの分離独立を求めたわけではないが、皇帝の権力に対しては公然と挑戦した。

13世紀から14世紀にかけてローマ皇帝権が大きく弱体化したことで都市国家群の独立性は高まった。ルネサンスが花開き、イタリアは文化的にも経済的にも先進国となった。しかし15世紀都市国家群の勢いは衰えた。1423年から1454年にかけてロンバルディアで起こった戦争によりイタリアに割拠していた領邦の数は減少した。さらに1494年からイタリア王国はフランス王国に侵略され、1559年まで続く大イタリア戦争が勃発した。ローマ皇帝、ローマ教皇、イタリア諸侯、フランス王国、スペイン王国の利害が複雑に絡み合った戦争の結果、イタリアにはスペイン・ハプスブルク家の覇権が確立された。スペインはローマ皇帝位を世襲するオーストリア・ハプスブルク家と連携してイタリアを統治した。スペイン・ハプスブルク家が1700年に断絶すると1701年スペイン継承戦争が起こり、1714年ラシュタット条約によってイタリアの覇権はオーストリアのローマ皇帝に引き継がれた。

大イタリア戦争中の1495年から1512年にかけて、神聖ローマ帝国ではイタリア戦争と並行して帝国改造が実施されていた。帝国改造では帝国を10のクライスに分けて治安維持にあたることが決められたが、イタリア王国はアルプス以南の帝国クライス外の領域と位置づけられた。以後、皇帝は司法面でのみイタリア王としての面目を保った。近世イタリア王国の「政府」とは皇帝代理とハプスブルク家領代官の人的ネットワークだった。イタリアにおけるローマ皇帝の統治は1792年から1797年のフランス革命軍によって終わり、フランス革命政府の衛星国家(姉妹共和国)が次々と建国された。1806年、アウステルリッツの戦いナポレオンに敗北した最後のローマ皇帝フランチェスコ2世によって帝国も解体された。

前史:ランゴバルド王国

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8世紀初頭のイタリア。オレンジ色はランゴバルド王国、黄色及びピンク色はローマ帝国領。ただしピンク色は係争地

西方正帝の消滅後にイタリアを統治したのはローマ帝国よりイタリアの統治を委任された東ゴート王などのイタリア領主だった。イタリアとローマを失ったローマ皇帝であったが、コンスタンティノープルを首都とする帝国東方は未だ健在だった。530年代に東ゴート王国はイタリアとローマの奪還を狙う東ローマ帝国に攻撃された。数年の戦いの後、タギナエの戦い東ゴート王トーティラは殺された。東ローマ帝国の将軍ナルセスはローマを占領し、クムエを包囲した。新しい東ゴート王テーイアは残る東ゴート軍を集め、包囲を解くために進軍した。552年10月、ナルセスはカンパニアのモン・ラクタリウスでテーイアを不意打ちした。戦いは2日間に及び、テーイアは戦死した。ナルセスはわずかな生き残りが帝国領内にある東ゴートの故地へ戻ることを許し、イタリアにおける東ゴート王国の勢力は駆逐された。東ローマ帝国軍はフランク王国のイタリア侵攻も撃退した。

しかしイタリア半島がローマ皇帝領に復帰したのはごくわずかだった。567年から568年にかけてイタリアはランゴバルド王国に征服された。国王アルボイーノはイタリア王の称号を用い、ランゴバルド族はイタリアに定住した。イタリア征服前後のランゴバルド王国についての一次資料は、7世紀に書かれた作者不明の Origo Gentis Langobardorum と8世紀に助祭パオロが書いた Historia Langobardorum がある。Origo に列挙された最初期の王はほとんど伝説的なものである。彼らは民族移動期にランゴバルド族を率いたとされ、存在が確実な最初の王はタートである。

イタリアを征服したランゴバルド王国は2つの地域から成り立っていた。大ランゴバルドはイタリア北部から中部にかけて存在し、その西側をネウストリア、東側をアウストリアと言った。小ランゴバルドはローマ周辺のローマ帝国領(ラヴェンナ総督領) を挟んでイタリア中部から南部にかけて存在していた。アルボイーノ以降、ランゴバルド王はイタリア王(ラテン語: rex totius Italie)と名乗ることが度々あった。しかし諸侯が持つ自治性は建国当初から強く、2世紀にわたるランゴバルド王国の歴史の中では王がいない時期もあった。王権が強大で十分な自治が得られない時期でも、諸侯は勢力を蓄えることを怠らなかった。それでもランゴバルド王国は東ゴート王国と比べると安定した国家であったことがわかっている。

カロリング朝イタリア

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ロンバルディアの鉄王冠

774年カロリング朝のフランク王カルロ・マーニョがローマ教皇の保護を名目としてランゴバルド王国に攻め込んだ。ランゴバルド族は774年に首都パヴィアを包囲されて敗北した。カルロ・マーニョはランゴバルド族の王冠であるロンバルディアの鉄王冠(コーローナ・フェッレア)を戴きランゴバルド王=イタリア王となった。中近世イタリア王国の始まりである。以後、鉄王冠は数世紀にわたってイタリア王の戴冠式に使用された。イタリアの統治者となったカルロ・マーニョは西暦800年ローマ教皇の手で約300年ぶりの「ローマ皇帝」として戴冠された。コンスタンティノープルの宮廷はカルロをローマ皇帝とは認めなかったが、イタリアを統治してローマ教皇に認められた者が正統なローマ皇帝になるという概念は西欧に定着した。なおカルロ・マーニョの征服は領土面では大陸部の大ランゴバルドに留まり、半島部南方の小ランゴバルドには及ばなかった。小ランゴバルドではランゴバルド族の統治が9世紀から10世紀にかけて続き、その後もイタリア王国に合流せずノルマン人の征服によりシチリア王国となった。

大ランゴバルドに成立したイタリア王国は形式上フランク王国と別の国家だったが、カロリング朝の支配下にあった。カルロ・マーニョの皇帝戴冠に先立つ781年、カルロの息子ピピンは共同イタリア王としてイタリア王国の統治を任された。810年にピピンが死ぬと息子ベルナルドがイタリア王位を継いだ。818年にベルナルドが伯父の皇帝ロドヴィコ1世に殺されると、イタリアは皇帝の長男ロターリオ1世が統治した。843年ヴェルダン条約で帝国は3つに分裂し、イタリア王国は皇帝となったロターリオ1世中フランク王国に含まれた。855年にロターリオ1世が死ぬと中フランク王国はさらに3人の息子たちに分割された。長男のロドヴィコ2世はイタリア王国とローマ皇帝位を相続し、カロリング朝として初めてイタリア王国のみを統治する君主となった。王国の南限はローマ(教皇領)やスポレートまでであり、そのさらに南にはランゴバルド王国の残党であるベネヴェント公国、そして東ローマ帝国領があった。875年に皇帝ロドヴィコ2世が継嗣なく死去すると、その後は混乱の数十年となった。西フランク王国(フランス)のシャルル禿頭王(カルロ2世)はこの機を逃さず教皇ヨハネス8世に接近し、イタリア王国の支配と皇帝の地位を手中に収めた。しかしロドヴィコ2世から皇位継承者に指名されていた東フランク王国(ドイツ)のカールマン(カルロマンノ)がイタリア王国を奪還した。カルロマンノが死去すると弟のカール肥満王(カルロ3世)が後を継ぎ、イタリア王位と皇帝の地位を手にした。幸運に恵まれたカルロ3世は相続で帝国を再統一するが、能力が伴わず887年に廃位され、翌年には死去した。帝国は再び四分五裂の状態となった。

イタリアでは女系でカロリング家と血縁関係を持つフリウーリ辺境伯ベレンガーリオ1世が諸侯の一部の支持を得てトリエントでイタリア王に選出された。ベレンガーリオ1世の王位就任以降をイタリア史では「独立イタリア王国」の時代と呼ぶ。これはカルロ3世の死によってフランク王国からイタリアが独立した888年を始まりとし、オットーネ世によって東フランク主導の帝国に取り込まれる962年までを言う。しかしそれは統治されているとはとても言えない無秩序な状態だった。国内外の諸侯が皇帝位の前提となるイタリア王位を巡って争った。女系でカロリング家と血縁を持ったベレンガーリオ1世に対し、同じく女系でこの王家と繋がりを持つスポレート公グイードが挑戦を挑み、勝利を収めた。グイードはパヴィアでイタリア王に即位し、891年にはローマで皇帝戴冠を行った。グイードの皇帝位はその息子ランベルトに継承され、ベレンガーリオ1世とランベルト双方から圧力を受けたローマ教皇フォルモススは東フランク王アルヌルフに救援を求めた。この結果896年にアルヌルフはベレンガーリオ1世とランベルトの抵抗を排してローマを占領し、そこで皇帝に戴冠された。これは東フランク王によるイタリア政局介入の端緒となった。アルヌルフとランベルトが相次いで死去すると、ベレンガーリオ1世は899年に改めてイタリア王となった。しかし、ベレンガーリオ1世に反対するイタリアの諸侯の一部は、やはり女系でカロリング家の血を引くプロヴァンス王ルイ3世を担ぎ出して900年にイタリア国王ロドヴィコ3世として即位させ、901年には皇帝戴冠が行われた。ベレンガーリオ1世は905年にロドヴィコを打ち破り、915年には教皇による皇帝戴冠を行った。イタリア諸侯はなお高地ブルグントの王ルドルフ2世を担ぎ出してベレンガーリオ1世に対抗した。ベレンガーリオ1世は923年に敗れ去り、翌年家臣によって暗殺された。これによってイタリアでは962年まで皇帝の称号を持つ人物がいなくなった。混乱するイタリア王国はマジャール人やイスラム帝国(アッバース朝)の襲撃にも苦しめられていた。

925年、ルドルフ2世に反対するイタリア諸侯の一部はプロヴァンス王国の摂政ユーグ・ダルル(ウーゴ)を担ぎ出して対抗した。翌年にロドルフォはブルグントへ撤退してウーゴがイタリア王に即位した。931年には息子ロターリオ2世を後継者として共同王位につけたウーゴは933年にルドルフ2世と講和し、ルドルフ2世にプロヴァンスを譲る代わりにイタリア王国を諦めさせた。941年にウーゴは敵対するイヴレーア辺境伯ベレンガーリオ(ベレンガーリオ1世の孫)から辺境伯位を取り上げてイタリア王国から追放したが、945年に反撃されて逆にプロヴァンスに隠棲させられた。947年、イタリア王国に残されたロターリオ2世は、ルドルフ2世の娘アデライーデ結婚した。しかし950年にロターリオ2世は死去し、ベレンガーリオによる毒殺が噂された。ベレンガーリオはイタリア王ベレンガーリオ2世として息子のアダルベルトとともにイタリア王として戴冠したが、前王を毒殺した容疑により親子の政治的地位は弱体化していた。ベレンガーリオ2世は王位の正当性を得るため前王の未亡人アデライーデをアダルベルトと結婚させようとした。拒否したアデライーデは監禁され、東フランク王オットー1世に救援を求めた。

帝国イタリア

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1000年のイタリア王国。黒枠内がローマ帝国の領域

951年、東フランク(ドイツ)王オットー1世はイタリア王ロターリオ2世の未亡人アデライーデ救助を名目にイタリア王国へ侵攻した。アデライーデを監禁してイタリア王を名乗っていたベレンガーリオ2世親子は撃退された。救出されたアデライーデはオットーと結婚し、パヴィアロンバルディアの鉄王冠を戴いてイタリア王オットーネ1世を名乗った。ベレンガーリオ2世親子は一旦許されてイタリア王国の統治を任されたが、やがてローマ教皇と対立して960年教皇領を攻撃した。教皇ヨハネス12世はオットーネ1世に救援を求めた。再びイタリアへ侵攻してベレンガーリオ2世親子を下したオットーネ1世は962年2月2日に教皇から帝冠を受けて皇帝となった。このときから東フランク王(ドイツ王)がローマ皇帝とイタリア王を兼ね、カール大帝以来のローマ帝国がイタリアとドイツの同君連合として再興した。アーヘンで戴冠した東フランク王(ドイツ王)は、北イタリアのパヴィアでミラノ大司教からロンバルディアの鉄王冠を受けてイタリア王としても戴冠し、それからローマに赴いて教皇の手によりローマ皇帝として戴冠されるのが習わしとなった。しかし1002年に皇帝オットーネ3世が死んだ時は例外であった。イタリア王国は新たな東フランク王ハインリヒ2世を受け入れず、ベレンガーリオ2世の後継者であるイヴレーア辺境伯アルドゥイーノをイタリア王に選んだ。ハインリヒ2世はケルンテン公オットー1世を派遣したが、アルドゥイーノはこれを撃退した。しかし1004年ハインリヒ2世は自らイタリア王国へ進攻し、アルドゥイーノを下してイタリア王エンリーコ1世として戴冠した。アルドゥイーノは1861年ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が即位する以前としては最後の独立イタリア王となった。11世紀ごろから東フランク王は帝位継承権者として「ローマ王」を名乗った。

1032年にエンリーコの後を継いだサーリカ朝(ザーリアー朝)の皇帝コッラード1世は、ブルグント王国をローマ帝国に併合した。また反抗的なミラノ大司教とその他イタリア貴族たちにイタリア王権を示すため、1037年にミラノを包囲した。続いてコッラードは封土の法典を定めて小貴族たちの領土の世襲を保証して支持を獲得した。イタリア王権を安定させることができたコッラードだったが、イタリア人でないローマ皇帝に対する反感はくすぶり続けた。

ローマ皇帝はイタリア王を兼ねていたもののイタリア王国にはほとんど不在であり、大部分の時間をドイツ語圏で過ごした。国王のいないイタリア王国には中央政府の権威がほとんど存在しなかった。それは広い領土を持った権力者がいないということだった。トスカーナ辺境伯のみはトスカーナ、ロンバルディア、エミリアにまたがる広大な領土を持っていて唯一注目に値したが、1115年叙任権闘争で活躍したマティルデ・ディ・カノッサが後継者無く死んで断絶した。この権力の空白を埋めたのはローマ教皇と都市だった。叙任権闘争に勝利したローマ教皇はローマ皇帝を凌ぐ権威を獲得し、徐々に豊かになってきたイタリア王国の諸都市は周囲の農村を支配領域に組み込んでいった。

スタウフェン朝

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アモス・カッシオーリ「レニャーノの戦い」(19世紀)

ホーエンスタウフェン朝(ホーエンシュタウフェン朝)の皇帝フェデリーコ1世バルバロッサはイタリア半島におけるローマ帝国の権威を復活させようとした。バルバロッサはローマ帝国が教皇ではなく神に直接聖別されているとして「神聖帝国」の国号を掲げた。教皇の権威を否定したバルバロッサはさらにイタリア王国の都市を直接支配して重税を課そうした。そこで北イタリアの都市国家群はローマ教皇の後援を受けてロンバルディア同盟を結成した。1176年5月29日、ロンバルディア同盟はレニャーノの戦いでバルバロッサを破った。1183年のコンスタンツ条約でイタリアの諸都市は自治権を勝ち取ったが、一方で皇帝の権威もある程度認めて上納金を払った。なおイタリア王国全ての都市が皇帝に抵抗したわけではなく、皇帝を支持する勢力もあった。教皇派と皇帝派の争いは数世紀にわたって続いた。貴族は皇帝派が多く都市市民は教皇派が多かったといわれるが、単に対立勢力が皇帝派になったから教皇派になるといった例も多かった。

フェデリーコ1世の息子エンリーコ5世はイタリアにおけるホーエンスタウフェン朝の権威を拡大しようとした。エンリーコ5世はシチリアのノルマン王国を攻め、シチリア島と南イタリアの全てを征服することに成功した。エンリーコの息子フェデリーコ2世は本拠地をシチリアに置いた。オットー1世以来、イタリアに本拠地を置いた初めてのローマ皇帝だった。フェデリーコ2世もまた北イタリアの都市に支配を行き渡らせることを試みた。これにはロンバルディア同盟だけでなくローマ教皇も激しく抵抗した。教皇はイタリア中央の世俗的な領土(理念的には帝国の一部)に執着しており、ホーエンスタウフェン朝の皇帝による主導権を恐れていた。フェデリーコ2世は全イタリアを支配下に置くために奮闘したが、決定的な勝利を得ることができず祖父バルバロッサと同じ結果になった。1250年にフェデリーコ2世が死去すると、実効的な政体としてのイタリア王国は事実上滅びた。都市間で教皇派と皇帝派の争いは続けられたが、争いは徐々に本来の意義からかけ離れていった。

衰退

ローマ帝国は大空位時代を経て神聖ローマ帝国と名が変わり弱体化したが、イタリア王国は全く意味を失ったわけではなかった。1310年にイタリア王及びローマ皇帝としての戴冠を目的としたローマ王の遠征が行われ、これはフェデリーコ2世から実に約100年ぶりのことだった。ルクセンブルク家のローマ王(ドイツ王)ハインリヒ7世は5000人の騎士を連れてアルプスを越え、イタリア王としての戴冠式が行われるミラノへ向かった。ミラノはゲルフ(反皇帝派)のグイード・デッラ・トッレが治めていたがこれを撃破し、ヴィスコンティ家のマッテーオ1世を復権させた。ローマ王ハインリヒ7世はミラノにてロンバルディアの鉄王冠を受けてイタリア王エンリーコ6世となった。その後エンリーコ6世はローマへ向かい、教皇クレメンス5世の代理である3人の枢機卿によってローマ皇帝として戴冠した。エンリーコはさらに帝権復活のためにナポリ王国への侵攻も計画したが翌年に急死し、遠征は中止となった。

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ヴェローナのシニョーリ広場にある、ダンテ像

14世紀から15世紀にかけてドイツではルクセンブルク家、ハプスブルク家ヴィッテルスバッハ家によってローマ王位が争われた。エンリーコ6世死後の1314年、二重選挙によってヴィッテルスバッハ家のルートヴィヒ4世とハプスブルク家のフリードリヒ美王の両方がローマ王として選出された。1322年9月に「ドイツにおける最後の大騎士戦争」とも呼ばれたミュールドルフの戦いで勝利したルートヴィヒ4世は、1328年にローマで皇帝ロドヴィコ4世として戴冠しフリードリヒより上位であることを示した。ロドヴィコ4世の次にローマ王となったカルロ4世もまたローマに赴き、1355年にローマ皇帝として戴冠した。ローマ帝国の統治者はイタリア王を兼ねるという理念を忘れたローマ王は一人もいなかった。イタリア人自身もまた、ローマ皇帝がカトリック世界に対する普遍的支配権を持つという概念を忘れていなかった。ダンテパドヴァのマルシリウスといったルネサンス期の人物も、普遍的帝国という概念によって秩序をもたらんさんとするエンリーコ6世やロドヴィコ4世に期待していた。一方でカルロ4世の興味はもっぱら自領ボヘミアの経営にあり、イタリア王国を素通りして帝権を切り売りしていったためローマ市民を失望させた。カルロ4世は1378年ブルグント王国をフランスに割譲してもいる。

この時代、かつて共和国であった都市国家を専制的に支配する僭主シニョリーア)が現れ始め、ローマ皇帝やローマ王に公や侯といった称号を与えられていった。ドイツの神聖ローマ帝国君主はイタリア王国の実力者に称号と正当性を与えることで、イタリア王国が神聖ローマ帝国の一部であることを示そうとした。最も注目すべきはルクセンブルク家がミラノのヴィスコンティ家を支援したことで、1395年にはローマ王ヴェンツェルジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティミラノ公の称号を与えている。他の家系も新しい称号を与えられており、マントヴァゴンザーガ家モデナフェラーラエステ家などが該当する。ルクセンブルク家は僭主を公に叙爵して得た上納金を、ボヘミアの発展に注ぎ込んだ。

近世イタリア

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1494年のイタリア

近世初期、イタリア王国はいまだ存在していた。しかしもはや影のようなものにすぎなかった。イタリア王国の領土は著しく削られていった。北東イタリアの諸邦が帝国外のヴェネツィア共和国に併合されていったためである。ヴェネツィア共和国は東ローマ帝国の飛び地として始まり、近世になるとその領域は北東イタリアのほとんどを占めていた。また、ローマ教皇も中央イタリアの教皇領における完全な主権と独立を宣言していた。16世紀初頭にはローマ王、すなわちドイツ君主がイタリアに進出する実力を失ったことが明確となったため、ローマ教皇はローマ王への配慮として「選ばれしローマ皇帝」を名乗ってもよいと認めた。イタリア王としての即位及び教皇による戴冠を経なくてもドイツ君主であればローマ皇帝だということになり、ローマ皇帝位とイタリア王位はドイツ君主に吸収された。イタリア王位はローマ皇帝位の前提ではなくなり、逆にローマ皇帝=ドイツ君主であればイタリア王でもあるということになった。さらに「ドイツ人の神聖ローマ帝国」の国号が採用されるに至り、イタリア王国はローマ帝国という概念から切り離されていった。それでもローマ皇帝は大小250から300ある封土の正式な封主であり、イタリア王国は諸邦が封建的ネットワークで結ばれる「帝国イタリア」だった。

1519年スペイン王ナポリ王を相続していたハプスブルク家カルロ5世がローマ皇帝となったことで、イタリアにおける皇帝の影響力はにわかに強まった。イタリアに支配権を確立しうるローマ皇帝の登場はフェデリーコ2世以来のことであった。カルロ5世はまず1494年から始まっていたイタリア戦争の一環としてミラノ公国からフランスの勢力を追い出した。皇帝の影響力が必要以上に強まることを恐れたローマ教皇、及びフランスの援助を受けていた諸侯たちはフランスとコニャック同盟を結んだ。コニャック同盟を破壊するため、カルロ5世はローマ略奪を行ってメディチ家の教皇クレメンス7世を屈服させた。1530年、カルロ5世はロンバルディアの鉄王冠を用いたイタリア王としての戴冠、及びローマ皇帝としての正式な戴冠を行い、ローマ教皇から帝冠を受け取った。皇帝はさらにフィレンツェを征服し、メディチ家をフィレンツェ公として復帰させた。このフィレンツェのメディチ家はのちにトスカーナ大公となる。さらにミラノのスフォルツァ家が断絶すると、カルロ5世はミラノが帝国の封土であると宣言し、息子のフィリッポを新たな公に据えた。イタリア戦争は1559年に終結した。

しかしこの新たな覇権は神聖ローマ帝国に残らなかった。カルロ5世の後にローマ皇帝となったのはオーストリア大公である弟のフェルディナンドであるが、ハプスブルク家のイタリアにおける勢力はスペイン王となった息子のフェリペ2世(ミラノ公フィリッポ)が継承した。ローマ皇帝がイタリア王を表だって名乗ることもなくなった。それでもやはりローマ皇帝は帝国イタリアの君主であった。帝国イタリアには競合し部分的に重なり合うローマ教会、神聖ローマ帝国、スペイン王国の封建的ネットワークが併存することになった。1627年マントヴァ公が空位となった際、ローマ皇帝フェルディナンド2世はイタリア王権を実際に行使し、フランスのヌヴェール公シャルルによるマントヴァ公位継承を阻止しようとした。これによりマントヴァ継承戦争が引き起こされた。マントヴァ継承戦争は三十年戦争の一部ともされる。スペイン継承戦争中の18世紀初頭にもローマ皇帝は再び王権を行使し、1708年にマントヴァを差し押さえてハプスブルク家のミラノ公国へ編入した。オーストリア(ハプスブルク君主国)を本拠地とするローマ皇帝はミラノとマントヴァを治め続けたほか、断続的にではあるが他の地域も支配した(1737年以降のトスカーナなど)。

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末期の帝国イタリア。1789年。

マントヴァに対する一連の処置は、イタリア王国において王権が行使された最後の注目すべき事例であった。ローマ皇帝の封建君主としての権利はほとんど意味が無くなっていたとはいえ、ハプスブルク家は家門の力を増大させる便利な手段として帝国イタリアと神聖ローマ帝国の結びつきを利用した。特にローマ皇帝直属の帝国宮内法院は封建的な繋がりを根拠に援助を求められ、帝国イタリアに対して裁判権を持つ国家機関として機能していた。17世紀前半にスペインの封建的ネットワークが取り除かれると、オーストリアのウィーン宮廷と強く結びついたミラノ公国の法曹貴族が皇帝代理として帝国イタリアでの紛争解決にあたり、軍税の徴収なども行った。ドイツのケルン大司教が持つ選帝侯としての宮中官位である「イタリア大書記官長」もまた、帝国イタリアと神聖ローマ帝国の繋がりを示していた。ローマ皇帝と帝国議会は帝国イタリアに関して神聖ローマ帝国が引き継ぐべきとした多くの条約を公的には維持しようとした。ローマ皇帝は帝国イタリアにおける伝統的な皇帝の責任を真剣に考えていたし、多くのイタリア人も神聖ローマ帝国との結びつきを高く評価していた。帝国イタリアの貴族たちはドイツ人貴族と同じ国際的な文化的関係の中に属し、有力な君侯家間の婚姻がこのような結びつきをさらに支えていた。

フランス革命戦争が起きるとローマ皇帝はナポレオンによってイタリアから追い出された。ナポレオンは北イタリアに衛星国家を建国し、1797年カンポ・フォルミオ条約によってローマ皇帝フランツ2世(イタリア王フランチェスコ2世)は帝国イタリアに関する権利を放棄させられた。イタリア王国は名実ともに消滅してチザルピーナ共和国が建国され、1802年にはイタリア共和国と改名した。神聖ローマ帝国では1799年から1803年にかけて帝国再構成が実施されたが、既にローマ帝国に含まれないイタリアは対象外であった。ケルン大司教領が他のライン川流域の聖界領と同じくナポレオンによって解体されていたため、名目上の「イタリア大書記官長」すら消滅していた。1804年には神聖ローマ帝国の国号がローマ=ドイツ帝国に変更された。さらにナポレオンがローマ教皇から帝冠を受け取って皇帝ナポレオン1世として即位するに至り、フランツ2世もローマ皇帝位とは別にオーストリア皇帝として即位した。そして1805年3月26日、ナポレオンはロンバルディアの鉄王冠を使った伝統的な戴冠式でイタリア王ナポレオーネとしても即位し、皇帝がイタリア王でもある状況を再現した。イタリア共和国はイタリア王国となった。翌1806年、ローマ皇帝フランツ2世はドイツ帝国の解散を宣言した。ナポレオーネは1814年に失脚してイタリア王国が消滅し、翌1815年ウィーン会議によってローマ皇帝フランツ2世改めオーストリア皇帝フランツ1世はミラノ、トスカーナなどのイタリアにおける失地を回復した。しかしローマ帝国及び帝国イタリアの復活は無く、皇帝と諸邦の結びつきはもはや修復されなかった。

歴代君主

962年からイタリア王国は神聖ローマ帝国の一部となり、神聖ローマ皇帝はイタリア王を兼ねた。

オットーネ3世の死後、諸侯の支持を得て再び独自のイタリア王が立てられる。

アルドゥイーノがエンリーコ2世に破れた後、独自のイタリア王が立てられることはなかった。

以後、神聖ローマ皇帝一覧を参照

脚注


参考文献

  • Liutprand of Cremona|Liutprand, Antapodoseos sive rerum per Europam gestarum libri VI.
  • Liutprand, Liber de rebus gestis Ottonis imperatoris.
  • Anonymous, Panegyricus Berengarii imperatoris (10th century) [Mon.Germ.Hist., Script., V, p. 196].
  • Anonymous, Widonis regis electio [Mon.Germ.Hist., Script., III, p. 554].
  • Anonymous, Gesta Berengarii imperatoris [ed. Dumueler, Halle 1871].
  • ピーター・H. ウィルスン 『神聖ローマ帝国 1495‐1806』 山本文彦訳、岩波書店〈ヨーロッパ史入門〉、2005年。ISBN 978-4000270977。

関連項目

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