「イタリア王国(中世)」の版間の差分

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{{Otheruseslist|[[1861年]]から[[1946年]]まで存在した、現在の[[イタリア|イタリア共和国]]のほぼ全土を領域とした王国|中世に存在したイタリア[[王権]]|イタリア王国 (中世)|[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]を王として建国されたフランスの[[衛星国]]|イタリア王国 (1805年-1814年)}}
 
{{出典の明記|date=2016年3月12日 (土) 13:10 (UTC)}}
 
{{基礎情報 過去の国
 
|略名          =イタリア
 
|日本語国名    =イタリア王国
 
|公式国名      ='''{{Lang|it|Regno d'Italia}}'''
 
|建国時期      =[[1861年]]
 
|亡国時期      =[[1946年]]
 
|先代1          = サルデーニャ王国{{!}}サルデーニャ・ピエモンテ王国
 
|先旗1          = Flag of the Kingdom of Sardinia.svg
 
|先代2          = ロンバルド=ヴェネト王国
 
|先旗2    = Flag of Kingdom of Lombardy-Venetia.svg
 
|先代3          = パルマ公国
 
|先旗3    = Flag of the Duchy of Parma (1851-1859).svg
 
|先代4          = モデナ公国
 
|先旗4    = Flag of the Duchy of Modena.svg
 
|先代5          = トスカーナ大公国
 
|先旗5    = Flag of the Grand Duchy of Tuscany (1840).svg
 
|先代6          = 教皇領
 
|先旗6    = Flag of the Papal States (1825-1870).svg
 
|先代7          = 両シチリア王国
 
|先旗7    = Flag of the Kingdom of the Two Sicilies (1860).svg
 
|次代1          = イタリア共和国
 
|次旗1    = Flag of Italy.svg
 
|次代2          = イタリア社会共和国
 
|次旗2    = Flag of RSI.svg
 
|次代3          = バチカン市国
 
|次旗3    = Flag of the Vatican City.svg
 
|次代4          = トリエステ自由地域
 
|次旗4    = Free Territory Trieste Flag.svg
 
|次代5          = ユーゴスラビア連邦人民共和国
 
|次旗5    = Flag of SFR Yugoslavia.svg
 
|次代6          = エチオピア帝国
 
|次旗6    = Flag of Ethiopia (1897).svg
 
|次代7          = フランス第四共和政
 
|次旗7    = Flag of France.svg
 
|次代8          = ギリシャ王国
 
|次旗8    = Flag of Greece (1828-1978).svg
 
|国旗画像      =Flag of Italy (1861-1946).svg
 
|国旗説明 = イタリア独立旗(三色旗)にサヴォイアの十字紋章が入っている
 
|国章画像      =Coat of arms of the Kingdom of Italy (1890).svg
 
|標語          =我等、法と神によって守られん<br/>([[ラテン語]]:'''[[Foedere Et Religione Tenemur]]''')
 
|国歌名        =王室行進曲
 
|国歌追記      =([[イタリア語]]:Marcia Reale)
 
|sound      =Marcia Reale.ogg
 
|位置画像      =Italian Colonial Empire (orthographic projection).svg
 
|位置画像説明  =第二次世界大戦中にイタリア支配下となった全領土
 
{{plainlist | style = padding-center: 0.6em; text-align: center; |
 
* {{Legend|#346733|イタリア王国}}
 
* {{Legend|#C9FF6B|[[w:Italian Empire|イタリアの植民地及び占有地]]}}
 
* {{Legend|#666666|イタリアの占領地及び保護領}}
 
}}
 
|公用語        =[[イタリア語]]
 
|首都          =[[トリノ]]<br/>(1861年 - 1865年)<br/>[[フィレンツェ]]<br/>(1865年 - 1871年)<br/>[[ローマ]]<br/>(1871年 - 1943年、1944年 - 1946年)<br/>[[ブリンディジ]]<br/>(1943年 - 1944年)<br/>[[サレルノ]]<br/>(1944年)
 
|元首等肩書    =[[イタリア君主一覧|国王]]
 
|元首等年代始1 =[[1861年]]
 
|元首等年代終1 =[[1878年]]
 
|元首等氏名1  =[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世]]
 
|元首等年代始2 =[[1878年]]
 
|元首等年代終2 =[[1900年]]
 
|元首等氏名2  =[[ウンベルト1世]]
 
|元首等年代始3 =[[1900年]]
 
|元首等年代終3 =[[1946年]]
 
|元首等氏名3  =[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世]]
 
|元首等年代始4 =[[1946年]][[5月9日]]
 
|元首等年代終4 =[[1946年]][[6月2日]]
 
|元首等氏名4  =[[ウンベルト2世]]
 
|首相等肩書    =[[イタリアの首相|首相]]
 
|首相等年代始1 =[[1861年]]
 
|首相等年代終1 =1861年
 
|首相等氏名1  =[[カミッロ・カヴール]]<br/>(初代)
 
|首相等年代始2 =[[1922年]]
 
|首相等年代終2 =[[1943年]]
 
|首相等氏名2  =[[ベニート・ムッソリーニ]]<br/>(ファシスト政権)
 
|首相等年代始3 =[[1943年]]
 
|首相等年代終3 =[[1944年]]
 
|首相等氏名3  =[[ピエトロ・バドリオ]]
 
|首相等年代始5 =[[1945年]]
 
|首相等年代終5 =[[1946年]]
 
|首相等氏名5  =[[アルチデ・デ・ガスペリ]]<br/>(最後)
 
|面積測定時期1 =[[1936年]]
 
|面積値1      =310,120
 
|面積測定時期2 =
 
|面積値2      =
 
|面積測定時期3 =
 
|面積値3      =
 
|面積測定時期4 =
 
|面積値4      =
 
|面積測定時期5 =
 
|面積値5      =
 
|人口測定時期1 =[[1861年]]
 
|人口値1      =26,328,000
 
|人口測定時期2 =[[1911年]]
 
|人口値2      =36,921,000
 
|人口測定時期3 =[[1936年]]
 
|人口値3      =42,399,000
 
|人口測定時期4 =
 
|人口値4      =
 
|人口測定時期5 =
 
|人口値5      =
 
|変遷1        =[[イタリア統一運動|建国]]
 
|変遷年月日1  =[[1861年]][[3月17日]]
 
|変遷2        =[[プラハ条約]]
 
|変遷年月日2  =[[1866年]][[8月23日]]
 
|変遷3        =[[ローマ]]併合
 
|変遷年月日3  =[[1870年]][[10月6日]]
 
|変遷4        =[[ローザンヌ条約]]
 
|変遷年月日4  =[[1912年]][[10月18日]]
 
|変遷5        =[[トリアノン条約]]
 
|変遷年月日5  =[[1920年]][[6月4日]]
 
|変遷6        =[[ファシスト政権]]成立
 
|変遷年月日6  =[[1922年]][[10月22日]]
 
|変遷7        =[[第二次世界大戦]]参戦
 
|変遷年月日7  =[[1940年]][[6月10日]]
 
|変遷8        =無条件降伏
 
|変遷年月日8  =[[1943年]][[9月]]
 
|変遷9        =国民投票により王政廃止、[[共和制]]移行
 
|変遷年月日9  =[[1946年]][[6月2日]]
 
|通貨          =[[イタリア・リラ]]
 
|時間帯        =
 
|夏時間        =
 
|時間帯追記    =
 
|ccTLD        =
 
|ccTLD追記    =
 
|国際電話番号  =
 
|国際電話番号追記 =
 
|注記          =
 
}}
 
'''イタリア王国'''(イタリアおうこく、[[イタリア語|伊]]:{{Lang|it|Regno d'Italia}})は、現在の[[イタリア|イタリア共和国]]の前身となる[[王国]]。[[1861年]]に成立し、[[1946年]]に[[共和制]]へ移行した。
 
  
== 概要 ==
+
'''イタリア王国'''(Regno italico)
イタリア北西部と[[サルデーニャ島]]を領有していた[[サルデーニャ王国]]は、[[フランス第二帝政|フランス帝国]]と結んで[[オーストリア帝国]]を破り、ヴェネト地方を除く[[北イタリア]]を統一した。続いてサルデーニャ王であった[[サヴォイア家]]の[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世]]は、ローマ以外の[[教皇領]]を併合して中部イタリアに領域を広げた。そして最後に両シチリア王国を滅ぼした英雄[[ジュゼッペ・ガリバルディ]]が[[南イタリア]]を献上したことでイタリアの大部分を統合、かつてのナポレオンのように[[ヴェストファーレン条約]]によって廃止されていた[[イタリア王]]の称号を復活させ即位した。
 
 
 
民族統一思想(イリデンティズム)による大イタリア主義によって、統一後も[[未回収のイタリア]]と呼ばれる地域の併合が望まれ続けた。[[プラハ条約]]による[[ヴェネト州|ヴェネト]]回収を皮切りに、[[第一次世界大戦]]で[[チロル]]・[[イストリア]]などを領有下に収めていった。また「遅れた先進国」として植民地の領有も盛んに推進され、[[伊土戦争]]の戦勝で[[リビア]]を初めての植民地として獲得、また、[[ドデカネス諸島]]を併合している。
 
 
 
領土拡大の野心は[[第二次世界大戦]]前後にピークに達し、[[コルシカ島|コルシカ]]・[[フィウーメ]]を回収した他、植民地として[[エリトリア]]・[[エチオピア帝国|エチオピア]]・[[イタリア領ソマリランド|ソマリランド]]を領有して、更に[[アルバニア]]([[コソボ]]含む)・[[クロアチア]]・[[モンテネグロ]]・[[ギリシャ王国|ギリシャ]]を占領下ないし[[同君連合]]として支配した。だがこうした領域は第二次大戦での敗戦によって消失し、植民地を失った上で第一次大戦時点の領土に戻された。
 
 
 
イタリア王国の憲法は最も長く改正されなかった憲法である(2017年現在)<ref name=asahi2017>[http://www.asahi.com/articles/ASK515SJQK51UEHF007.html 日本国憲法、実は世界最年長 長寿支える「権利」の多さ:朝日新聞デジタル] - [[朝日新聞]]</ref>。
 
 
 
== 領域 ==
 
{{節スタブ}}
 
* 領土
 
** イタリア本土
 
** [[アルバニア]]([[アルバニア併合]]から[[第二次世界大戦]]終結まで)
 
** [[フィウーメ]]([[カルナーロ=イタリア執政府]])
 
** [[ロドス島]]
 
** [[ドデカネス諸島]]
 
 
 
* [[植民地]]
 
** [[リビア]]([[トリポリ]]、[[フェザーン]]、[[キレナイカ]])
 
** [[ソマリランド]]([[イタリア領ソマリランド]])
 
** [[エリトリア]]
 
** [[エチオピア]](エリトリア及びソマリランドと合わせて[[イタリア領東アフリカ]])
 
** [[清国]][[天津]][[租界地]]([[:zh:天津意租界]])
 
 
 
※イタリア王国建国以前には、[[トスカーナ大公国]]の[[ガイアナ]]([[イタリアによるアメリカ大陸の植民地化]])等もあった。
 
 
 
== 歴史 ==
 
=== 建国期 ===
 
{{Main|イタリア統一運動}}
 
 
 
[[1861年]]、[[サルデーニャ王国]]によるイタリア統一([[リソルジメント]])により成立し、サルデーニャ国王[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世]]がイタリア国王となった。イタリア統一後、軍隊が解体され、多くの者が職を失ったことに加え、統一国家に理想を描いていた者や罪の減免を約束されて戦争に参加した者の希望が容れられなかったことで、国内は安定しなかった。彼らは[[カルミネ・クロッコ|クロッコ]]に代表される{{仮リンク|匪賊 (イタリア)|it|Brigantaggio|label=匪賊}}となって、王国に反旗を翻した。匪賊は1861年のクロッコによる[[メルフィ]]侵攻から本格化するが、地主からの略奪を主とする活動は民衆から歓呼の声をもって迎えられた。[[ローマ問題]]に端を発する[[1862年]]の[[ジュゼッペ・ガリバルディ|ガリバルディ]]による{{仮リンク|アスプロモンテの戦い|it|Giornata dell'Aspromonte|en|Battle of Aspromonte|label=アスプロモンテの変}}を機とした[[戒厳令]]や、それに続く[[1863年]]の{{仮リンク|ピカ法|it|Legge Pica}}の制定により、匪賊に対する圧力が高まる。苦しさから民衆を襲うようになった匪賊は次第に支持を失っていき、[[1864年]]に内通者が出て情報を漏らしたことから、一気に収束へ向かっていく。[[1865年]]、[[トリノ]]から[[フィレンツェ]]に遷都する。翌年、デンマーク戦争後のプロイセンとオーストリア間での領有権を巡って始まった[[普墺戦争]]に介入した{{仮リンク|第3次イタリア独立戦争|it|Terza guerra di indipendenza italiana|fr|Troisième guerre d'Indépendance italienne|en|Third Italian War of Independence}}では[[プロイセン王国|プロイセン]]側として参戦した。その結果、[[オーストリア帝国|オーストリア]]領土のうち[[トレンティーノ=アルト・アディジェ州|トレンティーノ]]と[[トリエステ]]を残して[[ヴェネト州|ヴェネト]]を併合する。
 
 
 
=== 普仏戦争とローマ遷都 ===
 
[[1870年]]に起こった[[普仏戦争]]により[[教皇領|ローマ教皇領]]を守護していたフランス軍が撤退すると、教皇領を占領し({{仮リンク|ローマ占領|it|Presa di Roma|en|Capture of Rome}})、翌年[[ローマ]]へ遷都する。また同年[[5月13日]]に{{仮リンク|教皇保障法|it|Legge delle Guarentigie}}を制定してその地位を保障しようとするが、教皇側が拒否、国政への不参加を呼びかけるなど、イタリア王国とローマ教皇の対立構図が形成された。なお、この対立は[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]政権時に[[ラテラノ条約]]([[1929年]])が結ばれるまで続いた。
 
 
 
=== チュニジア問題と三国同盟 ===
 
[[1881年]]のフランスによる[[チュニジア侵攻]]をきっかけに、フランス首相[[ジュール・フェリー]]が主導する領土拡張論と対立し、[[1882年]]に[[三国同盟]]を締結した。しかし、その後は他の欧米列強と同様に植民地獲得を模索し、[[帝国主義]]政策を展開した。[[1889年]]にはソマリランドの植民地化を開始している。1893年には、アフリカ大陸で唯一の独立国であった[[エチオピア帝国|エチオピア]]に侵攻したが、フランスの支援のもとに高度な近代化に成功していたエチオピア軍を侮り、寡兵にて挑んだことから[[アドワの戦い]]で敗北を喫した([[第一次エチオピア戦争]])。しかし、1902年には清国で義和団の乱を鎮圧した結果、天津租界を獲得し、1911年には[[リビア]]の領有権を巡って[[オスマン帝国]]と争った末に勝利を収め([[伊土戦争]])、1912年に同地を併合した。
 
 
 
=== 第一次世界大戦 ===
 
{{Main|第一次世界大戦|イタリア戦線 (第一次世界大戦)}}
 
 
 
[[第一次世界大戦]]では、領土問題([[未回収のイタリア]])で[[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア]]と対立していたために、[[三国同盟 (1882年)|三国同盟]]([[1882年]])は防衛のための条約であるとし、[[仏伊協商]]([[1902年]])を理由に局外中立宣言を出した。しばらくは戦況を静観していたが、[[1915年]]に[[ロンドン秘密条約]]を結び、未回収のイタリア及び[[イストリア]]、[[ダルマチア]]の割譲を条件に[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]側として参戦した。天然の要害たる[[アルプス山脈]]に立てこもるオーストリア軍に対し、イタリア王国は地形的不利を補うため多くの新規兵を徴兵して戦いを挑んだ。無数にわたる正面突撃によってイタリア王国軍はおびただしい数の戦死者を出すが、少しずつ戦線を切り開いて[[ゴリツィア]]などの重要拠点を制圧する。オーストリア軍の救援に訪れたドイツ軍の新戦術([[浸透戦術]])によって苦戦を強いられつつも、最終的には押し返して連合国の勝利に貢献した。
 
 
 
戦勝国となったことで、前近代の[[イタリア戦争]]から数百年もの間にわたって仮想敵であり続けた[[ハプスブルク家]]の勢力を壊滅に追い込み、[[第一次世界大戦]]においてイタリアは[[国際連盟]]の[[常任理事国]]になるなど、国際社会での地位を高めた。しかし、イギリス、フランス、[[日本]]、アメリカと共に主導した[[パリ講和会議]]では、[[トリエステ]]、[[南チロル]]とイストリアの併合は認められたものの、戦後の民族自決の機運の高まりによってダルマチアを断念せざるを得なくなった。[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド|オルランド]]首相は抗議して一時会議から帰国したものの、結局これを承認せざるを得なくなった。このためイタリア国民の間では「傷つけられた勝利」「講和会議の敗戦国」といった不満が広がった。領有を果たせなかった[[リエカ|フィウーメ]]を占領するという実力行使([[カルナーロ=イタリア執政府]])に出たのが愛国派詩人の[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ|ダンヌンツィオ]]だったが、講和会議の決定を覆すことは出来ず、イタリア政府はダンヌンツィオ政府を追放、その後フィウーメは[[自由都市]]とされた({{仮リンク|フィウーメ自由国|en|Free State of Fiume}})。
 
 
 
第一次世界大戦を戦い抜くことは、イタリア経済に重すぎる負担となっていた。戦後訪れた[[インフレーション]]は貧民層の不満を引き起こし、北部の[[トリノ]]、[[ミラノ]]といった工業都市で[[労働者]]の工場占拠などが起こった。南部でも農村労働者、小作人などの暴動が相次いだ。こうした動きは、有産階級の危機感を強めさせた。
 
 
 
=== ファシズムの台頭 ===
 
{{main|{{仮リンク|ファシズム時代のイタリア|en|Italian Fascism}}}}
 
 
 
こうした不穏な情勢下で、[[ベニート・ムッソリーニ]]は[[ファシスト党]]の前身、[[イタリア戦闘者ファッシ]]を組織した。その主張は、社会政策の充実を掲げつつナショナリズムを擁護し、既存政党を批判するものであった。しかし、ミラノで選挙に出馬するものの完敗し、ムッソリーニが一時逮捕されるなど、その活動は当初行き詰まりを見せていた。
 
 
 
都市部、農村部の双方で、[[資本家]]、地主と労働者、小作人の間の対立構図が続いた。貧民よりの姿勢をとる社会党政府に不満を抱いた地主層は、ファシスト勢力と結託して農村部の社会党、[[労働組合]]の拠点などをあいついで襲撃した。これを「懲罰遠征」とも称する。当初は、農村部の各地で[[ラス]]と呼ばれる地域ごとの指導者が権力を握っていたが、ムッソリーニは徐々に地方勢力を束ねて中央集権化を推進した。こうした議会活動に拠らない直接行動を通じて「イタリア戦闘者ファッシ」は保守層の支持をつかみ、1921年までには党員を10万人程度まで拡大させ、同年に全国ファシスト党として改組した。
 
 
 
[[1922年]]、ムッソリーニは直接的な実力行使による政権掌握を目論み、[[ローマ進軍]]を起こした。[[ルイージ・ファクタ|ファクタ]]首相は戒厳令を発して対処しようとしたが、[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世]]は署名を拒否し、ムッソリーニに組閣を命じたため、ムッソリーニ内閣が成立した。[[1924年]]には{{仮リンク|ローマ条約 (1924年)|en|Treaty of Rome (1924)|label=ローマ条約}}によってフィウーメの併合を果たし、[[1926年]]には[[アルバニア]]を保護国化した。同年、議会でファシスト党以外の全党を解散させることで一党独裁制を築き、[[1928年]]にはファシスト党の最高議決機関であった[[ファシズム大評議会]]を正式な国家の最高機関と定めた。ここに一党独裁制は完成した。
 
 
 
=== 世界恐慌 ===
 
{{Main|世界恐慌}}
 
[[1935年]]には[[第二次エチオピア戦争]]を起こし、翌年にエチオピアを併合、イタリア国王はエチオピア皇帝に即位するが、国際社会の反発にあい、[[1937年]][[12月11日]]に[[国際連盟]]を脱退した。国際的に孤立したイタリアは、同じく国際社会で孤立していた[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]と[[大日本帝国|日本]]に接近し、[[日独防共協定]]に参加する。[[1939年]]、ムッソリーニは[[アルバニア]]に侵攻、アルバニア王[[ゾグー1世]]から王冠を奪い、ヴィットーリオ・エマヌエーレに戴冠させる([[イタリアのアルバニア侵攻]])。
 
 
 
=== 第二次世界大戦 ===
 
<!--->[[ファイル:UmbertoIIsavoia1946.jpg|right|220px|thumb|ウンベルト2世とその一家]]</!--->
 
{{main|{{仮リンク|第二次世界大戦下におけるイタリアの軍事史|en|Military history of Italy during World War II}}|イタリア戦線 (第二次世界大戦)}}
 
[[第二次世界大戦]]には[[日独伊三国同盟]]([[1940年]])を結んだことによって[[枢軸国]]側として参戦する。参戦後は[[ギリシャ王国|ギリシャ]]や、ドイツの要請に応じて[[エジプト]]に侵攻するも、装備の陳腐化や物資不足が進んでいた王国軍は思うように戦いを進められず、ムッソリーニの威信は大きく低下した。[[1943年]]の[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]によるシチリア上陸作戦([[ハスキー作戦]])を機に、国王やファシスト党内の和平派が政変を起こし、ムッソリーニは解任・逮捕された。後継の[[ピエトロ・バドリオ|バドリオ]]政権は連合国に無条件降伏した([[イタリアの降伏]])。しかし、同盟国であるドイツ軍はイタリア北部に展開しておりし、ムッソリーニはドイツ軍に救出され、国民の間でもムッソリーニを支持する声も強かったため、ムッソリーニを首班とする[[イタリア社会共和国]]が建国された。一方イタリア王国の勢力下にあった地域は連合国の占領下に置かれた上、連合国ではない{{仮リンク|共同参戦国|en|Co-belligerence}}として、ドイツ軍および社会共和国と戦うことになった。1945年4月、ムッソリーニは[[パルチザン (イタリア)|パルチザン]]によって処刑され、イタリア半島における戦いも5月には終結したと同時に[[イタリア社会共和国]]を併合した。
 
 
 
しかし、王位惜しさにムッソリーニの独裁を後押ししたかたちのサヴォイア王家は国民の信頼を失いつつあった。伝統的に王国時代が長い[[南イタリア]]では王室への強固な支持があったものの、都市国家の伝統ある北部は王家を信任せず、また王室の強い支持基盤であったカトリック教会が国民投票で中立を宣言したこともあり、1946年6月の[[1946年王政廃止に関するイタリアの国民投票|王制の是非を問う国民投票]]では賛成54%の僅差で王政廃止が決定され[[ウンベルト2世]]は廃位、[[共和制]]を採択して'''イタリア共和国'''となった。
 
 
 
== 歴代国王 ==
 
* [[ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世]](在位:[[1861年]] - [[1878年]])
 
* [[ウンベルト1世]](在位:[[1878年]] - [[1900年]])
 
* [[ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世]](在位:[[1900年]] - [[1946年]])
 
* [[ウンベルト2世]](在位:[[1946年]])
 
  
 +
中世イタリアの王国 (888~962) 。カロリング朝カルル3世の死で男系相続が絶え,女系の諸侯がイタリア王位を争い始めた 888年から,[[オットー1世 (大帝) ]]が神聖ローマ皇帝に即位してイタリアをドイツの支配下におく 962年までの期間に存在した王国。この期間に[[ベレンガーリョ1世]],スポレト侯グイード,プロバンス侯ウーゴ,[[ベレンガーリョ2世]]らが互いに争いながら王位についた。
 +
 
== 脚注 ==
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{reflist}}
 
{{reflist}}
 
+
{{テンプレート:20180815sk}}
== 参考文献 ==
 
<!--この節には、記事本文の編集時に実際に参考にした書籍等のみを記載して下さい-->
 
{{節スタブ|date=2016年3月12日 (土) 13:10 (UTC)}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[イタリアの歴史]]
 
 
 
{{イタリア}}
 
{{イタリアに存在した国}}
 
{{Normdaten}}
 
 
{{デフォルトソート:いたりあおうこく}}
 
{{デフォルトソート:いたりあおうこく}}
 
[[Category:イタリア王国|*]]
 
[[Category:イタリア王国|*]]
 
[[Category:イタリアに存在した国]]
 
[[Category:イタリアに存在した国]]
[[Category:イタリアの近代史]]
 

2018/9/28/ (金) 14:27時点における最新版

イタリア王国(Regno italico)

中世イタリアの王国 (888~962) 。カロリング朝カルル3世の死で男系相続が絶え,女系の諸侯がイタリア王位を争い始めた 888年から,オットー1世 (大帝) が神聖ローマ皇帝に即位してイタリアをドイツの支配下におく 962年までの期間に存在した王国。この期間にベレンガーリョ1世,スポレト侯グイード,プロバンス侯ウーゴ,ベレンガーリョ2世らが互いに争いながら王位についた。

脚注



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