イタリア史

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476年西ローマ帝国の滅亡後,568~569年にランゴバルド族が北イタリアへ侵入,王国を建設した。

この事件をもって中世の始まりとされているが,ランゴバルド王国そのものは 774年にフランク王国のカルル1世 (大帝) に倒された。11世紀以後イタリアは神聖ローマ皇帝と教皇の争いの場になるが,この間に北部と中部の諸都市は都市自治権を得て経済的繁栄をもたらした。これに対してシチリア島を含んだ南部では,ノルマン朝とホーエンシュタウフェン朝のもとで集権的国家体制がつくられ,のちの南北の社会構造の違いを生み出した。ルネサンス文化の開花の時期を経て,イタリアはヨーロッパ諸王朝の争奪の場とされ,スペインとオーストリアの影響が強まった。18世紀末にはフランス革命の刺激を受けて統一と共和制の樹立を目指すジャコビーノ革命が各地で生じた。しかしナポレオン1世の登場によってシチリアを除く全土がナポレオン体制のもとに組み込まれた。1815年以降,再び分裂諸国家の状態に復するが,独立と統一を求めるリソルジメント運動が強まり,1859~60年の対オーストリア独立戦争やジュゼッペ・ガリバルディのシチリア遠征などを通じて国家統一が達成され,1861年にイタリア王国の成立をみた。

しかし統一国家の基盤は弱体であった。その後,オーストリアからベネトを奪回し,1870年の普仏戦争で,フランス軍がローマを引き揚げたのに乗じてローマを教皇より奪って首都とし,ここにイタリア統一を完成。1882年三国同盟を結び,列強とともに植民地争奪戦に加わったが,第1次世界大戦に際しては,未回復の地 (イタリア・イレデンタ) を獲得するために三国同盟を破棄し,同盟国側に対して宣戦。しかし大戦後の戦果に対する不満,経済不安,労働問題,政党間の対立により社会状況が悪化,1922年「ローマ進軍」を組織したベニート・ムッソリーニのファシスト党が政権を奪取した。ムッソリーニはドイツにくみして第2次世界大戦に参戦したが,1943年連合軍のシチリア上陸に直面して敗色濃厚となり解任された。代わったピエトロ・バドリオ将軍がイタリアの無条件降伏と対ドイツへの宣戦布告を行なった。1945年4月イタリアは解放され,1947年共和国憲法が制定された(1948施行)。

共和国成立後キリスト教民主党の主導のもとに高度成長期を迎えたが,政情は不安定な様相を呈し,1960年代には中道左派政権の成立をみた。1970年代にはイタリア共産党(のちに左翼民主党)が躍進したが,1980年代には社会党が進出,中道左派連立内閣が続いた。しかし,政財界の大物を巻き込んだ汚職,マフィアとの癒着が 1992年に発覚し,既存政党への国民の不信が高まり,新選挙法による 1994年の総選挙では右派連合が勝利した。その後 1990年代後半から 21世紀初頭にかけては,右派,左派連合による内閣が比較的短期間で交代する状態が続いた。