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== 1300年 - 1399年 ==
 
1300年代([[トレチェント]] Trecento)
 
*[[1300年]] - 教皇[[ボニファティウス8世 (ローマ教皇)|ボニファティウス8世]]がこの年を最初の「[[聖年]]」として祝福し、ローマを多くの巡礼者が訪れる。(それまで聖年というものはなかった)
 
*1300年 - 『[[神曲]]』では、この年の[[聖金曜日]]、[[ダンテ・アリギエーリ|ダンテ]]が人生の半ばで暗い森に迷い込み、[[地獄]]・[[煉獄]]・[[天国]]遍歴が始まる。
 
*1300年 - [[ダンテ・アリギエーリ|ダンテ]]に先行する[[清新体]]の詩人で友人でもあった[[グイド・カヴァルカンティ]]死去。
 
*1301年 - [[教皇派と皇帝派|教皇派(ゲルフ)]]支配の[[フィレンツェ]]で、白党(ビアンキ)政権が黒党(ネリ)に倒される。
 
*:白党に属していた[[ダンテ・アリギエーリ|ダンテ]]、フィレンツェ市から追放され、以後流浪生活を送る。
 
*1301年 - [[ハレー彗星]]の出現が観測される。
 
*:[[ジョヴァンニ・ヴィッラーニ]]はその年代記に記録し、[[ジョット・ディ・ボンドーネ|ジョット]]は[[パドヴァ]]の壁画「東方三博士の礼拝」にその様子を描く。
 
*1302年 - 教皇ボニファティウス8世の回勅「[[ウナム・サンクタム]](唯一聖なる)」。
 
*1302年 - カルタベロッタの和約が結ばれる。
 
*:[[シチリアの晩祷]]事件(1282年)以来の[[シチリア]]領有をめぐる[[バルセロナ家|アラゴン家]]と[[アンジュー=シチリア家|アンジュー家]]の抗争が終わる。
 
*1302年 - [[ジョット・ディ・ボンドーネ|ジョット]]の師であり、[[フィレンツェ派]]の遠祖でもある[[チマブーエ]]死去。
 
*1302年 - 【フランス】国王[[フィリップ4世 (フランス王)|フィリップ4世]]が[[三部会]]を召集。
 
*1302年 - 【フランドル】[[ブルッヘ|ブリュージュ]]の朝課事件で、フランドル市民がフランスの支配に抵抗して一斉蜂起。
 
*:続く同年の[[金拍車の戦い]](コルトレイクの戦い)でフランドルは最終的に独立を勝ち取る。
 
*1303年 - [[ローマ・ラ・サピエンツァ大学|ローマ大学]]創建。
 
*1303年 - [[アナーニ事件]]で、教皇ボニファティウス8世がフィリップ4世の配下[[ギヨーム・ド・ノガレ]]らに急襲される。
 
*:ボニファティウス8世は釈放されたが、屈辱を受けて病状が悪化し間もなく死去、後継は[[ベネディクトゥス11世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス11世]]。
 
*1304年 - 教皇[[ベネディクトゥス11世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス11世]]死去、後継教皇の選出は翌年にもつれこむ(→1305年)。
 
*1305年 - フランス人の[[ボルドー]]大司教ベルトラン・ド・ゴが選ばれ、教皇[[クレメンス5世 (ローマ教皇)|クレメンス5世]]として即位(→1308年) 。
 
*:フランスの[[リヨン]]で行われたこの教皇の[[戴冠式]]で初めて[[教皇冠]](三重冠)が用いられる。
 
*1306年 - [[フランシスコ会]]修道士で「讃歌(ラウデ)」などの宗教詩で知られるヤコポーネ・ダ・トーディ死去。
 
*1307年 - 教皇[[クレメンス5世 (ローマ教皇)|クレメンス5世]]の命で[[ノヴァーラ]]近郊の[[ドルチーノ派]]の拠点を教皇軍が急襲。
 
*:[[異端]]とされた修道士[[フラ・ドルチーノ]]と支持者は火刑に処される。
 
*1307年 - [[ダンテ・アリギエーリ|ダンテ]]『[[俗語論]]』。
 
*1308年 - 教皇庁の[[アヴィニョン捕囚]](-1377年)。
 
*1308年 - 【ドイツ】後期[[スコラ哲学]]を代表する[[実在論]]者[[ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス|ドゥンス・スコトゥス]]が[[ケルン]]にて死去。
 
*1308年 - [[ローマ]]派の[[ピエトロ・カヴァリーニ]]により[[ナポリ]]のサン・ドメニコ・マッジョーレ教会壁画完成。
 
*1308年 - [[ペルージャ大学]]創建。
 
*1309年 - [[聖ヨハネ騎士団]]が東ローマ帝国領[[ロドス島]]を占領。
 
*:これ以前の騎士団の根拠地は[[キプロス島]]、以後この騎士団はロドス騎士団とも呼ばれる(-1522年)。
 
*1310年 - [[神聖ローマ皇帝]][[ハインリヒ7世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ7世]]のイタリア遠征(→1312年)。
 
*1310年 - ヴェネツィアでバイアモンテ・ティエポロ(三代前の元首[[ロレンツォ・ティエポロ]]の孫)らによる[[クーデター]]が起こる。
 
*:元首[[ピエトロ・グラデニーゴ]]の改革(1297年)に反対するクーデタだったが、グラデニーゴが先手を打って鎮圧する。
 
*:以後ヴェネツィアの政治は寡頭体制に移行(議員世襲制(1323年)、十人委員会の常設(1335年))。
 
*1310年 - [[フィレンツェ派]]の祖である[[ジョット・ディ・ボンドーネ|ジョット]]、[[パドヴァ]]の「[[スクロヴェーニ礼拝堂|スクロヴェーニ礼拝堂壁画]]」完成。
 
*1310年 - [[ジョヴァンニ・ピサーノ]]、[[ピサ]]大聖堂説教壇の彫刻完成(1302年 - )。
 
*1310年 - [[ディーノ・コンパーニ]]がフィレンツェの『年代記』を執筆( - 1312年)。
 
*1311年 - [[ヴィスコンティ家]]のマッテオ1世が神聖ローマ皇帝代理として[[ミラノ]]の覇権を握る。
 
*:デッラ・トッレ家(トッリアーニ家)が没落し、以後ヴィスコンティ家が事実上のミラノの僭主を世襲する。
 
*1311年 - [[シエナ派]]の祖である[[ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ|ドゥッチョ]]、[[シエナ大聖堂]]「マエスタ(荘厳の聖母)」完成。
 
*1311年 - [[ヴィエンヌ公会議]]開催、翌1312年この会議で[[テンプル騎士団]]の解散を正式決定。
 
*1312年 - [[神聖ローマ皇帝]][[ハインリヒ7世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ7世]]が100年ぶりにローマで戴冠式を行う(→1313年)。
 
*1312年 - マラテスタ2世・マラテスタが最初の[[リミニ]]の[[僭主]]となり、[[マラテスタ家]]の支配始まる( - 1528年)。
 
*1312年 - [[ジェノヴァ]]出身のランチェロット・マロチェロが[[カナリア諸島]]に到達。
 
*1313年 - 神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世、[[シエーナ|シエナ]]にて急逝。
 
*:この皇帝に私淑していた[[ダンテ・アリギエーリ|ダンテ]]は『帝政論』を捧げる。またこの死去に伴い、ダンテのフィレンツェ帰還は絶望的になる。
 
*1314年 - 教皇[[クレメンス5世_(ローマ教皇)|クレメンス5世]]が死去、以後2年間教皇座は空位(→1316年)。
 
*1314年 - [[アルノルフォ・ディ・カンビオ]]の設計により、[[フィレンツェ]]の[[ヴェッキオ宮殿]](共和国政庁舎)完成(1299年 - )。
 
*1314年 - 【北アフリカ】哲学者[[ラモン・リュイ|ライムンドゥス・ルルス]]が[[アルジェリア]]の[[ベジャイア]]にてイスラム教徒の投石で負傷する。
 
*:この負傷によりジェノヴァ商人に救出されるも、翌1315年には落ち延びた故郷[[マヨルカ島]]のパルマで死去。
 
*1315年 - ティーノ・ディ・カマイーノにより[[ピサ]]に設置された[[神聖ローマ皇帝]][[ハインリヒ7世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ7世]]の墓碑完成。
 
*1315年 - 『エケリニス』を著したパドヴァのムッサート、[[桂冠詩人]]になる
 
*1315年 - 【スイス】モルガルテンの戦いで、[[スイス]]原初同盟([[ウーリ|ウリ]]・[[シュヴィーツ]]・[[ウンターヴァルデン]])が[[ハプスブルク家]]を撃退
 
*1315年頃 - [[パドヴァ大学]]医学教授[[アバノのピエトロ|ピエトロ・ダバノ]]が宗教裁判中に死去、死体は火刑に処される。
 
*1316年 - 2年間の空位の後、教皇[[ヨハネス22世 (ローマ教皇)|ヨハネス22世]]が即位。
 
*1317年 - [[シモーネ・マルティーニ]]「[[ロベルト (ナポリ王)|ロベルト1世]]に王冠を授けるトロサの聖ルドヴィコ(トゥールーズの聖ルイ)」。
 
*1318年 - ヤコポ・ダ・カッラーラがパドヴァ領主に選ばれ、以後1405年までカッラーラ家がパドヴァを掌握。
 
*1320年 - [[ダンテ・アリギエーリ|ダンテ]]『水陸論』。
 
*[[1321年]] - [[ダンテ・アリギエーリ|ダンテ]]、亡命先の[[ラヴェンナ]]にて死去(1265年 - )。
 
*:ダンテは亡くなるこの年までに代表作『[[神曲]]』を完成させる(1304年 - )。
 
*1321年 - [[フィレンツェ大学]]創建。
 
*1323年 - 教皇[[ヨハネス22世 (ローマ教皇)|ヨハネス22世]]の回勅「クム・インテル・ノンヌッロス」。
 
*:教皇は[[フランシスコ会]]の「清貧論争」に介入し、フランシスコ会厳格派(聖霊派)を断罪。
 
*1323年 - 教皇[[ヨハネス22世 (ローマ教皇)|ヨハネス22世]]が[[トマス・アクィナス]]を列聖する。
 
*1323年頃 - 【フランス】[[ベルナール・ギー]]『異端審問の実務』。
 
*1324年 - 旅行家[[マルコ・ポーロ]]死去。
 
*1325年 - [[アルトパーショ]]の戦いで、[[ルッカ]]の傭兵隊長カストルッチョ・カストラカーニがフィレンツェ軍に勝利。
 
*:この敗北で危機克服のためフィレンツェは、[[ナポリ王国|ナポリ王]][[ロベルト (ナポリ王)|ロベルト1世]]の息子[[カラブリア]]公[[カルロ (カラブリア公)|カルロ]]を、[[シニョーレ|僭主]]として迎え入れる。
 
*1325年 - [[パドヴァのマルシリウス]]『平和の擁護者』。
 
*1327年 - [[ルッカ公国]]成立。
 
*1327年 - フィレンツェで天文学者チェッコ・ダスコリが異端の罪で火刑に処せられる。
 
*1327年 - [[アヴィニョン]]の聖クララ教会で[[ペトラルカ]]とラウラの運命的な出会い、詩人は『カンツォニエーレ』を書き始める。
 
*1328年 - [[ローマ]]にて[[神聖ローマ皇帝]][[ルートヴィヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ルートヴィヒ4世]]の戴冠式。
 
*:皇帝はアヴィニョン教皇[[ヨハネス22世 (ローマ教皇)|ヨハネス22世]]を廃位するため、[[対立教皇]]ニコラウス5世を即位させる( - 1330年)。
 
*:戴冠式を取り仕切った[[パドヴァのマルシリウス]]はローマの教皇代理に任命される。
 
*:この皇帝の下に哲学者[[ウィリアム・オッカム]]、ジャンダンのヨハネス、[[フランシスコ会]]総長チェゼーナのミカエルらが結集。
 
*1328年 - [[マントヴァ]]のボナコルシ家が倒され、[[ゴンザーガ家]]が権力を掌握。
 
*1328年頃 - 【ドイツ】[[神学者]]・[[神秘主義]]者[[マイスター・エックハルト|エックハルト]]死去。
 
*1330年 - [[タッデオ・ガッディ]]によるサンタ・クローチェ聖堂壁画「羊飼いへの天使の知らせ」完成(1328年 - )。
 
*1330年頃 - [[ヤコポ・デル・カセンティーノ]]「カニョーラ三連祭壇」([[ウフィツィ美術館]]蔵)はこの頃のものか(1320年頃 - )。
 
*1331年 - [[ドミニコ会]]士の[[ポルデノーネ]]のオドリック死去。
 
*:[[インド]]や[[中国]]で宣教活動を行うとともに各地域の記録を残し、マンデヴィル『東方旅行記』(→1371年)にも影響を与える。
 
*1333年 - [[シモーネ・マルティーニ]]「[[受胎告知]]」([[ウフィツィ美術館]]蔵)。
 
*1333年 - [[フィレンツェ]]の[[アルノ川]]の氾濫で[[ヴェッキオ橋]]が流される(→1345年)。
 
*1334年 - 教皇[[ヨハネス22世 (ローマ教皇)|ヨハネス22世]]死去、教皇[[ベネディクトゥス12世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス12世]]即位。
 
*1334年 - [[ジョット・ディ・ボンドーネ|ジョット]]が[[サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂|フィレンツェ大聖堂]]の「ジョットの鐘楼」建設に着手( - 1387年)。
 
*1336年 - [[ペトラルカ]]が[[アヴィニョン]]近郊[[モン・ヴァントゥ|ヴァントゥ山]]の登山に挑み頂上まで登る(近代的登山の先駆け)。
 
*1337年 - [[ジョット・ディ・ボンドーネ|ジョット]]死去。
 
*1337年 - 【イングランド・フランス】[[百年戦争]]始まる( - 1453年)。
 
*1338年 - 教皇[[ベネディクトゥス12世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス12世]]が[[フランシスコ会]]修道士ジョヴァンニ・デ・マリニョリを[[モンゴル帝国]]に派遣する。
 
*1338年 - 【ドイツ】 レンゼ[[選帝侯]]会議で、神聖ローマ皇帝選挙に教皇の許可は不要であると宣言。
 
*1338年頃 - [[ペトラルカ]]『アフリカ』。
 
*1339年 - [[シモン・ボッカネグラ]]が初代[[ジェノヴァ]]元首に就任
 
*1339年 - [[アンブロージョ・ロレンツェッティ]]、[[シエーナ|シエナ]]市庁舎の平和の間壁画「善政と悪政の寓意と効果」完成。
 
*1339年 - [[カラブリア]]のバルラアムが、東ローマ帝国から東西教会合同のため[[アヴィニョン]][[教皇庁]]へ送られる。
 
*:バルラアムは南イタリア人で、[[グレゴリオス・パラマス]]の[[静寂主義]](ヘシュカスモス)を批判したことで名を挙げていた。
 
*:バルラアムはこの滞在中に[[ペトラルカ]]に[[ギリシア語]]を教授する。
 
*[[1340年]]頃 - イタリア初の多声音楽文化・[[トレチェント音楽]]の最盛期。
 
*:代表者は[[ゲラルデッロ・ダ・フィレンツェ]]、[[ロレンツォ・ダ・フィレンツェ]]、[[フランチェスコ・ランディーニ]]。
 
*[[1340年]]頃 - [[シモーネ・マルティーニ]]が[[アヴィニョン]]に招かれ[[アヴィニョン教皇庁|教皇宮殿]]の壁画を描く([[国際ゴシック]]様式)。
 
*[[1341年]] - [[ペトラルカ]]、[[桂冠詩人]]になる。
 
*1342年 - [[フィレンツェ]]のブオナッコルシ商会の経営破綻(「14世紀の経済危機」の始まり)。
 
*:この景気悪化で、その後1343年にペルッツィ商会とアッチャイオーリ商会、1346年に[[バルディ家|バルディ商会]]と連続して経営破綻。
 
*1342年 - 政治的混乱でフィレンツェが共和国体制を停止し、[[ナポリ王国|ナポリ王]][[ロベルト (ナポリ王)|ロベルト1世]]の庇護を求める。
 
*:その結果ナポリ王配下の[[アテネ公国|アテネ公]]ゴーティエ・ド・ブリエンヌに全権委任し、[[シニョーレ|僭主]]として迎え入れる( - 1343年)。
 
*1343年 - [[ティレニア海]]に面する[[ナポリ湾]]周辺で地震、この津波により[[アマルフィ]]の市街区のほとんどが壊滅する。
 
*1343年 - [[アテネ公国|アテネ公]]が専制の不満から追放され、[[フィレンツェ共和国|フィレンツェ]]は自治を回復。
 
*1343年 - [[ピサ大学]]創建。
 
*1343年 - [[ヴェネツィア]]の[[サン・マルコ寺院|サン・マルコ大聖堂]][[祭壇画|祭壇装飾]]「[[パラ・ドーロ]]」が補修される。
 
*:元首[[アンドレア・ダンドロ]]の命によるもので、パオロ・ヴェネツィアーノが祭壇装飾を担当している。
 
*1344年 - [[キプロス]][[十字軍]]。
 
*1345年 - [[タッデオ・ガッディ]]の設計で[[フィレンツェ]]の[[ヴェッキオ橋]]再建される(現在まで残存)。
 
*1345年 - 【フランス】[[パリ]]の[[ノートルダム大聖堂 (パリ)|ノートルダム大聖堂]]完成(1163年 - )。
 
*[[1347年]] - [[ニコラ・ディ・リエンツォ]]、[[ローマ]]で[[護民官]]となるが失脚(コーラ革命)。
 
*1347年 - [[ハンガリー王国|ハンガリー]]王[[ラヨシュ1世]]がナポリ女王[[ジョヴァンナ1世・ダンジョ|ジョヴァンナ1世]]を追放、[[ナポリ王国|ナポリ王]]位を要求し首都[[ナポリ]]を占領(→1382年)。
 
*1347年 - 【クリミア】モンゴル人と交戦中の[[ジェノヴァ]]領[[フェオドシヤ|カッファ]]でヨーロッパで最初の[[ペスト]]罹患者が記録される。
 
*:[[黒海]]から[[地中海]]へのジェノヴァ人の航路をたどり、[[シチリア]]島の[[メッシーナ]]で初めてイタリアにペストが上陸する。
 
*[[1348年]] - 南アルプスの[[フリウリ]]地方を震源とする大地震発生(1月25日)。
 
*:[[ケルンテン]]地方の[[フィラッハ]]で最大級の被害、[[ヴェネツィア]]から[[ナポリ]]までイタリア半島全域で被害が及ぶ。
 
*:[[ローマ]]の[[サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂]]の[[バシリカ]]建築はこの歴史的地震に伴う崩壊の危機を乗り越える。
 
*[[1348年]] - ナポリ女王[[ジョヴァンナ1世・ダンジョ|ジョヴァンナ1世]]から教皇[[クレメンス6世 (ローマ教皇)|クレメンス6世]]に[[アヴィニョン]]が売却される。
 
*:以後、フランス革命で没収されるまでアヴィニョンは教皇領となる。
 
*[[1348年]]頃 - ヨーロッパに[[ペスト]]([[黒死病]])大流行(→1347年)。
 
*:『カンツォニエーレ』にも歌われた[[ペトラルカ]]の恋人ラウラはこのペストで死去。
 
*:[[フィレンツェ]]の銀行家であり年代記作家でもあった[[ジョヴァンニ・ヴィッラーニ]]もこのペストで死去。
 
*:[[フィレンツェ派]]の芸術家では[[アンドレア・ピサーノ]]、[[ベルナルド・ダッディ]]、[[マーゾ・ディ・バンコ]]がこのペストで死去。
 
*:[[シエナ派]]の芸術家では[[ピエトロ・ロレンツェッティ|ピエトロ]]、[[アンブロージョ・ロレンツェッティ|アンブロージョ]]のロレンツェッティ兄弟がこのペストで死去。
 
*:疫病を避けた人々の閑談から生まれたのが[[ジョヴァンニ・ボッカッチョ|ボッカッチョ]]の『[[デカメロン]]』 (ペスト文学)。
 
*1348年 - 【ボヘミア】[[プラハ大学]]創建と[[プラハ]]市街の大改修始まる。神聖ローマ皇帝[[カール4世 (神聖ローマ皇帝)|カール4世]]による。
 
*:[[プラハ]]を根拠地としたカール4世は、すでにプラハに大司教座を設置し(1344年)て[[聖ヴィート大聖堂]]の改修に着手していた。
 
*:この改修のためフランス人アラスのマティアがアヴィニョン教皇宮殿から召喚され、プラハは[[国際ゴシック]]の中心地となる。
 
*1349年 - 教皇[[クレメンス6世 (ローマ教皇)|クレメンス6世]]が「[[鞭打ち苦行|鞭打ち苦行者]]」({{仮リンク|フラゲラント|en|Flagellant}})を非難し禁圧する回勅を布告。
 
*1349年 - 【ドイツ】後期[[スコラ哲学]]を代表する[[唯名論]]者[[ウィリアム・オッカム]]が[[ミュンヘン]]にて死去。
 
*1350年 - [[アヴィニョン]]の教皇[[インノケンティウス6世 (ローマ教皇)|インノケンティウス6世]]に委任され、枢機卿アルボルノスが教皇代理となる( - 1357年)。
 
*:元スペイン軍人だったアルボルノスは、教皇不在で[[シニョリーア|僭主]]たちが蚕食していた[[教皇領]]を平定する。
 
*1350年頃 - 女性神秘家の[[スウェーデンのビルギッタ]]がローマに定住、以後亡くなるまでローマで過ごす( - 1373年)。
 
*1350年頃 - 【フランス】「[[ジャン2世 (フランス王)|ジャン2世善良王]]の肖像」([[ルーブル美術館]]蔵、アルプス以北の最古期の個人肖像画)。
 
*1351年 - [[ペトラルカ]]『凱旋』に着手( - 1374年)。
 
*1352年 - ナポリ女王[[ジョヴァンナ1世・ダンジョ|ジョヴァンナ1世]]が亡命先のフランスからナポリに帰還(→1347年)。
 
*1353年 - [[サン・ジミニャーノ]]が[[フィレンツェ共和国|フィレンツェ]]に占領され、対シエナの前線基地になる。
 
*1353年頃- [[ジョヴァンニ・ボッカッチョ|ボッカッチョ]]が『[[デカメロン]]』を完成させる。
 
*1354年 - [[神聖ローマ皇帝]][[カール4世 (神聖ローマ皇帝)|カール4世]]のイタリア遠征、翌1355年にローマで戴冠式を行う。
 
*1354年 - [[ニコラ・ディ・リエンツォ]]が教皇[[インノケンティウス6世 (ローマ教皇)|インノケンティウス6世]]に許され、イタリアでアルボルノス枢機卿と合流。
 
*:やがてアルボルノスと別れ[[ローマ]]に帰還するも、ローマでの独裁を不満に思った市民の反乱で殺される。
 
*1355年 - [[ヴェネツィア]]で元首[[マリーノ・ファリエロ]]が[[クーデタ]]を起こすも失敗し、処刑される。
 
*1355年頃 - [[ブオナミーコ・ブファルマッコ]]による[[ピサ]]・カンポサント連作フレスコ画「死の勝利」。
 
*1356年 - 【ドイツ】[[ニュルンベルク]]と[[メッツ]]の帝国議会において神聖ローマ皇帝[[カール4世 (神聖ローマ皇帝)|カール4世]]が[[金印勅書]]を発布。
 
*1357年 - 枢機卿アルボルノスが一時教皇代理を解任される。
 
*:その直後、彼の指揮で[[ファーノ]]で議会が開かれ、教皇への服従・各領地の自治などが決められる(ファーノ憲章)。
 
*1358年 - 枢機卿アルボルノスが再び教皇代理となり教皇領の回復に着手( - 1364年)。
 
*1358年 - [[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]の支配を脱し、[[ドゥブロヴニク]]がラグーザ共和国として自立。
 
*1358年 - 【オーストリア】[[ルドルフ4世 (オーストリア公)|ルドルフ4世(建設公)]]が[[オーストリア大公]]を自称する( - 1365年)。
 
*:[[ハプスブルク家]]を大公に格上げし、[[シュテファン大聖堂]](1359年完成)、[[ウィーン大学]](1365年創設)の建設を推進。
 
*1358年 - 【フランス】[[パリ]]での[[エティエンヌ・マルセル]]の反乱、フランス東北部での[[ジャックリーの乱]]。
 
*1358年 - 【オーストリア】[[ウィーン]]にてスコラ哲学者であるリミニのグレゴリウス死去。
 
*1358年 - 【フランス】「[[ビュリダンのロバ]]」や「インペトゥス理論」で知られるスコラ哲学者[[ジャン・ビュリダン]]死去。
 
*1359年 - レオンツィオ・ピラートが[[ジョヴァンニ・ボッカッチョ|ボッカッチョ]]に招かれ、[[フィレンツェ大学]]でギリシア語講座を開設。
 
*1359年 - [[オルカーニャ]]によるオルサンミケーレ教会のタベルナクル(天蓋付き壁龕)。
 
*1359年 - 【ドイツ】[[フライブルク・イム・ブライスガウ|フライブルク]]の[[フランシスコ会]][[修道士]][[ベルトルト・シュヴァルツ]]が[[黒色火薬]]を発明か。
 
*1360年頃 - 【ドイツ】「レットゲンのピエタ(ボン・ライン州立美術館蔵)」が作られる。
 
*1361年 - 教皇不在のローマで[[ラテラノ宮殿]]が炎上、1307年の大火に続く不祥事で宮殿の荒廃が進む。
 
*1361年 - [[パヴィーア大学|パヴィア大学]]創建。
 
*1361年 - 盲目の音楽家[[フランチェスコ・ランディーニ]]が[[フィレンツェ]]のサンタ・トリニタ修道院のオルガニストとして雇われる。
 
*1361年頃 - 2度目のペスト大流行(ペスティス・セクンダあるいはペスティス・プエロルム(子供のペスト))(→1348年頃)。
 
*1362年 - 教皇[[インノケンティウス6世 (ローマ教皇)|インノケンティウス6世]]死去、教皇[[ウルバヌス5世 (ローマ教皇)|ウルバヌス5世]]即位
 
*1364年 - アルボルノスが教皇代理を解任され引退、引退後はオルヴィエートやナルニなどイタリア各地に要塞を建造。
 
*1364年 - [[カッシナの戦い]]で、[[フィレンツェ]]が[[ピサ]]に勝利。
 
*1365年 - [[サヴォイア伯]][[十字軍]]。
 
*1366年 - [[ペトラルカ]]が教皇[[ウルバヌス5世 (ローマ教皇)|ウルバヌス5世]]宛てにローマへの帰還を勧める書簡を送る(『老年書簡集』所収)。
 
*1367年 - 教皇[[ウルバヌス5世 (ローマ教皇)|ウルバヌス5世]]が[[アヴィニョン]]から[[ローマ]]へ帰還する。
 
*:しかしこの滞在は一時的なものであり、1370年には教皇は再びアヴィニョンに戻り、同年その地で死す。
 
*1367年 - 教皇のローマ入りを目前に[[ヴィテルボ]]にて枢機卿アルボルノス死去。
 
*:その死を悼んで音楽家[[ヨハンネス・チコーニア]](父)がバッラータ「涙を浮かべて」を捧げる 。
 
*1368年 - アンドレア・ダ・フィレンツェによるフィレンツェの[[サンタ・マリア・ノヴェッラ教会]]壁画「教会の伝道と勝利」完成(1366年 -  )
 
*1368年頃 - イングランドの詩人[[ジェフリー・チョーサー|チョーサー]]がイタリアに渡り、ペトラルカと交友関係を結ぶ。
 
*:チョーサーはペトラルカの影響からイタリア式十四行詩[[ソネット]]をイギリス文学に導入し「英詩の父」と呼ばれる。
 
*1369年 - 【ブルゴーニュ】[[ブルゴーニュ公]][[フィリップ2世 (ブルゴーニュ公)|フィリップ豪胆公]]と[[フランドル伯|フランドル女伯]][[マルグリット3世 (フランドル女伯)|マルグリット3世]]の結婚。
 
*:この結婚により1384年には夫妻はブルゴーニュとフランドルの支配権を獲得、ここが「[[北方ルネサンス]]」の舞台となる。
 
*1369年頃 - 3度目のペスト大流行(ペスティス・テルティア)(→1348年頃) 。
 
*1370年 - 教皇[[ウルバヌス5世 (ローマ教皇)|ウルバヌス5世]]死去(→1367年)、[[アヴィニョン]]にて教皇[[グレゴリウス11世 (ローマ教皇)|グレゴリウス11世]]即位。
 
*1370年 - [[東ローマ|東ローマ帝国]]皇帝[[ヨハネス5世パレオロゴス|ヨハネス5世]]がイタリア訪問中、負債の問題で[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]にて拘束される。
 
*:ヴェネツィア[[ドージェ|元首]][[アンドレア・コンタリーニ]]は多額の身代金を受け取ることで、翌1371年ヨハネス5世を釈放。
 
*1371年 - 【フランス】ジャン・ド・マンデヴィル『東方旅行記』の最古の写本。
 
*1372年 - [[ピサの斜塔]]完成(1173年 - )。
 
*1373年 - 女性神秘家の[[スウェーデンのビルギッタ]]がローマで死去(1391年列聖)。
 
*:ローマでビルギッタとともに暮らしていた娘のカタリナは遺骨を[[スウェーデン]]に持ち帰り、[[ヴァドステーナ修道院]]に埋葬する。
 
*1374年 - [[ペトラルカ]]死去。
 
*1375年 - 八聖人戦争で、フィレンツェとローマ教皇庁が戦う( - 1378年)。
 
*1375年 - [[ジョヴァンニ・ボッカッチョ|ボッカッチョ]]死去。
 
*1376年 - [[ドミニコ会]]修道女[[シエナのカタリナ]]が教皇[[グレゴリウス11世 (ローマ教皇)|グレゴリウス11世]]へローマへの帰還を促す(→1377年)。
 
*1376年 - 【イングランド】[[ジョン・ウィクリフ]]が『俗権論』を執筆し、ローマ教皇の権威と権力を否定。
 
*:以後その主張は[[ロラード派]]を生み出し、1381年の[[ワット・タイラーの乱]]の指導者[[ジョン・ボール]]にも影響する。
 
*1377年 - 教皇[[グレゴリウス11世 (ローマ教皇)|グレゴリウス11世]]の[[ローマ]]帰還、教皇庁の[[アヴィニョン捕囚]]終わる(1308年 - )。
 
*1377年 - [[チェゼーナ]]の大虐殺。
 
*:枢機卿ロベール・ド・ジュネーヴ(後の[[対立教皇]][[クレメンス7世 (対立教皇)|クレメンス7世]])の指示で[[ジョン・ホークウッド]]の部隊が実施。
 
*:この時期、イングランド人ホークウッドなど[[コンドッティエーレ|傭兵隊長(コンドッティエーレ)]]が外国人部隊を指揮しイタリア各地を蹂躙。
 
*1377年 - アルベリコ・ダ・バルビアーノがイタリア人だけの傭兵部隊「サン・ジョルジョ軍団」を結成。
 
*1377年 - 【フランス】[[アルス・ノーヴァ]]の代表者であり[[ノートルダム・ミサ曲]]を手がけた[[ギヨーム・ド・マショー]]死去。
 
*1377年頃 - 【イングランド】ウィリアム・ラングランド『農夫ピアズの夢』。
 
*1378年 - 教皇[[グレゴリウス11世 (ローマ教皇)|グレゴリウス11世]]死去、その後の教皇選挙([[コンクラーヴェ]])が紛糾。
 
*:[[教会大分裂]]が始まり( - 1417年)、ローマ派の教皇[[ウルバヌス6世 (ローマ教皇)|ウルバヌス6世]]と、アヴィニョン派の教皇[[クレメンス7世 (対立教皇)|クレメンス7世]]が対立。
 
*1378年 - [[フィレンツェ]]で[[チョンピの乱]]起こる( - 1382年)。
 
*:サルヴェストロ・デ・メディチが「正義の旗手」に選ばれ、一時的に毛織物業労働者など下層民衆の英雄に祭り上げられる。
 
*1378年 - [[ジェフリー・チョーサー|チョーサー]]が密命を帯びてイタリアに渡る、ミラノの[[ヴィスコンティ家]]と傭兵隊長[[ジョン・ホークウッド]]と接触したか。
 
*1379年 - [[アルティキエーロ]]による[[パドヴァ]]のサンタントニオ大聖堂のフレスコ壁画完成。
 
*1380年 - [[シエナのカタリナ]]死去(1461年列聖)、残された多くの書簡は初期[[トスカーナ]]文学を代表する。
 
*1381年 - [[キオッジャ]]の戦いで[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]が[[ジェノヴァ共和国|ジェノヴァ]]に勝利して海上覇権を握る(1379年 - )。
 
*1382年 - [[ナポリ王国|ナポリ]]女王[[ジョヴァンナ1世・ダンジョ|ジョヴァンナ1世]]が又従弟のカルロ・ディ・ドゥラッツォによって暗殺される
 
*:カルロに暗殺を命じたのは[[ハンガリー王]][[ラヨシュ1世]]、カルロは[[カルロ3世 (ナポリ王)|カルロ3世]]としてナポリ王位に就く。
 
*1382年 - 【フランス】数学者・天文学者であり、国王[[シャルル5世 (フランス王)|シャルル5世]]の貨幣改革の理論家として活躍した[[ニコル・オレーム]]死去。
 
*1385年 - チョンピの乱が鎮圧され、サルヴェストロ・デ・メディチやミケーレ・ディ・ランドがフィレンツェから追放される(→1378年)。
 
*1385年 - [[ミラノ]]の[[ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ|ジャン・ガレアッツォ]]が叔父のベルナボを失脚させ、ミラノの完全な支配権を手中に収める。
 
*:以後ミラノによる北イタリア統一が進む(1387年に[[ヴェローナ]]、1399年に[[ピサ]]と[[シエーナ|シエナ]]、1402年に[[ボローニャ]]と[[ペルージア]])。
 
*1385年 - [[ナポリ王国|ナポリ]]王[[カルロ3世 (ナポリ王)|カルロ3世]]が[[ラヨシュ1世]]亡き後の[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王に迎え入れられる(カーロイ2世)。
 
*:しかし翌1386年にカルロ3世は、反対派であるラヨシュ1世未亡人[[エリザベタ・コトロマニッチ]]に暗殺される。
 
*1386年 - [[ミラノのドゥオーモ|ミラノ大聖堂]]の建設開始( - 1813年)。
 
*1386年 - 【ポーランド】[[リトアニア大公国|リトアニア大公]][[ヴワディスワフ2世 (ポーランド王)|ヤギェウォ(ヨガイラ)]]と[[ポーランド王国|ポーランド]]女王[[ヤドヴィガ (ポーランド女王)|ヤドヴィガ]]の結婚による[[ヤギェウォ朝]]の成立。
 
*1386年 - 【ドイツ】[[ハイデルベルク大学]]創建。
 
*1387年頃 - 【イングランド】[[ジェフリー・チョーサー|チョーサー]]『[[カンタベリー物語]]』執筆開始( - 1400年、未完)。
 
*1388年 - アッチャイオーリ家のネリオ1世が[[アテネ公国|アテネ公]]となる。
 
*:アッチャイオーリ家は[[フィレンツェ]]の名家で、以後オスマン帝国に支配されるまで同家がアテネ公位を継承( - 1458年)。
 
*1389年 - ローマ派の教皇[[ウルバヌス6世 (ローマ教皇)|ウルバヌス6世]]死去、後継は[[ボニファティウス9世 (ローマ教皇)|ボニファティウス9世]]。
 
*:ボニファティウス9世は歴代教皇で唯一、二度の[[聖年]](1390年と1400年)を行う。またこの際に[[贖宥状]]を初めて発行した。
 
*1380年代 - [[アーニョロ・ガッディ]]が[[フィレンツェ]]・[[サンタ・クローチェ聖堂 (フィレンツェ)|サンタ・クローチェ聖堂]]の聖歌隊席のフレスコ画を完成させる。
 
*1390年 - [[コンドッティエーレ|傭兵隊長]]の[[ジョン・ホークウッド]]がフィレンツェの総司令官となる(→1377年)。
 
*:[[ミラノ]]の[[ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ|ジャン・ガレアッツォ]]の行軍を食い止め、フィレンツェは独立を死守(→1436年)。
 
*1391年 - [[フェラーラ大学]]創建。
 
*1391年 - 教皇庁付歌手でもあった[[アントニオ・ザッカーラ・ダ・テーラモ]]が、教皇[[ボニファティウス9世 (ローマ教皇)|ボニファティウス9世]]の秘書官となる。
 
*1391年頃 - コルッチョ・サルターティ『ヘラクレスの功業について』。
 
*1394年 - アヴィニョン派の教皇[[クレメンス7世 (対立教皇)|クレメンス7世]]死去、後継は[[ベネディクトゥス13世 (対立教皇)|ベネディクトゥス13世]]。
 
*1395年 - [[ヴィスコンティ家]]の[[ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ|ジャン・ガレアッツォ]]が[[ミラノ公]]になり[[ミラノ公国]]成立(→1385年)。
 
*1395年 - サケッティ『短編小説三百篇』。
 
*1395年頃 - 【イングランド】[[ウィルトンの二連祭壇画]]([[ロンドン・ナショナル・ギャラリー]]蔵)( - 1399年)。
 
*1396年 - 【ブルガリア】[[ニコポリスの戦い]]。
 
*:[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]・[[ジェノヴァ共和国|ジェノヴァ]]を含むキリスト教諸国軍が[[オスマン帝国]]軍に大敗、[[東ローマ帝国]]の危機(→1399年)。
 
*1396年 - [[ギリシア]]人マヌエル・クリュソロラスが[[フィレンツェ]]に招聘される。
 
*:招聘したのはコルッチョ・サルターティで、これによりフィレンツェに[[ギリシア語]]講座が開設される(1397年 - 1400年)。
 
*1397年 - [[ジョヴァンニ・ディ・ビッチ]]が「ローマ商会」本店を出身地のフィレンツェに移す(事実上のメディチ銀行の発足)。
 
*1397年 - 【デンマーク・ノルウェー・スウェーデン】北欧三国で[[カルマル同盟]]が結ばれる( - 1523年)。
 
*:この実質的な[[同君連合]]の中心は[[デンマーク]]王母[[マルグレーテ1世]]。
 
*1398年 - フランスが[[アヴィニョン]]教皇[[ベネディクトゥス13世 (対立教皇)|ベネディクトゥス13世]]の支持を撤回。
 
*:ジョーフレ・ブシコーの率いる軍が[[アヴィニョン教皇庁|アヴィニョンの教皇宮殿]]を包囲し、教皇の篭城は1403年まで5年間続く。
 
*1399年 - 東ローマ皇帝[[マヌエル2世パレオロゴス|マヌエル2世]]、[[オスマン帝国]]に対する救援依頼のためイタリアを含む西欧各地を歴訪( - 1402年)。
 
*:皇帝マヌエル2世は、[[パレオロゴス朝ルネサンス]]と呼ばれる最末期の[[ビザンティン文化]]を代表する文人でもある。
 
*1399年 - 【ブルゴーニュ】[[メルキオール・ブルーデルラム]]「[[ディジョン]]の祭壇画」(旧[[シャンモル修道院]]蔵)(1393年 - )。
 
 
 
== 1400年 - 1499年 ==
 
1400年代([[クアトロチェント]] Quattrocento):[[フィレンツェ]]の経済力を背景に文芸、美術など各分野に人材が輩出し、[[ルネサンス]]文化が栄える。[[東ローマ帝国]]の知識人がもたらした[[ギリシャ語]]文献や印刷術の発明から大きな刺激を受ける。
 
*1400年頃 - チェンニーノ・チェンニーニ『絵画術の書』。
 
*1401年 - [[サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂|フィレンツェ大聖堂]]洗礼堂の扉の設計競技、[[ロレンツォ・ギベルティ]]が当選。
 
*1401年 - ジョヴァンニ・ドミニチ『家政の指針』。
 
*1401年頃 - 【ボヘミア】ヨハネス・フォン・テープル『ボヘミアの農夫(農夫と死)』。
 
*1402年 - [[ミラノ公]][[ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ|ジャン・ガレアッツォ]]急逝、ミラノによる北イタリア統一は挫折。
 
*:ミラノ公位は息子[[ジョヴァンニ・マリーア・ヴィスコンティ|ジョヴァンニ・マリーア]]が継承するが、公国は求心力を失い弱体化。
 
*1402年頃 - ピエル・パオロ・ヴェルジェーリオ『若者の高貴な振る舞いと自由教育について』。
 
*1403年 - [[ヴェネツィア]]に世界初の[[検疫]]のための隔離施設「ラザレット・ヴェッキオ」が設置される。
 
*1403年 - 教皇ベネディクトゥス13世がアヴィニョンから逃亡し、[[ルイ2世・ダンジュー]]に庇護される(→1398年)。
 
*1404年 - 【フランス】ヴェネツィア出身の女流詩人[[クリスティーヌ・ド・ピザン]]による『薔薇のことば』。
 
*1404年 - 【ブルゴーニュ】[[クラウス・スリューテル]]「モーセの井戸」完成(1395年 - )。
 
*1405年 - [[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]が[[ヴェローナ]]と[[パドヴァ]]を占領し、[[ヴェネト]]地方の覇権を握る。
 
*1405年頃 - [[ロレンツォ・モナコ]]「エジプトへの逃避」。
 
*1405年頃 - 【フランス】[[百年戦争]]を記録した『年代記』の作者[[ジャン・フロワサール]]死去。
 
*1406年 - [[フィレンツェ共和国|フィレンツェ]]が[[ピサ]]を占領し、[[トスカーナ]]地方の覇権を握る。
 
*1407年 - [[ジェノヴァ]]に[[サン・ジョルジョ銀行]]設立。
 
*1408年 - [[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]が[[ハンガリー王国]]から[[ダルマチア]]を奪取する。
 
*1408年 - [[ナポリ王国|ナポリ王]][[ラディズラーオ1世 (ナポリ王)|ラディズラーオ1世]]が[[ローマ]]を占領(→1413年)。
 
*1409年 - [[ピサ教会会議]]開催、教会大分裂は終結せず、三教皇の鼎立状態となる。
 
*:ローマ派の教皇[[グレゴリウス12世 (ローマ教皇)|グレゴリウス12世]]、アヴィニョン派の教皇[[ベネディクトゥス13世 (対立教皇)|ベネディクトゥス13世]]、ピサ派の教皇[[アレクサンデル5世 (対立教皇)|アレクサンデル5世]]。
 
*1409年 - [[ドナテッロ]]「[[ダビデ]]像」([[バルジェロ美術館]]蔵・[[大理石]]製)完成(→1446年)。
 
*1409年 - 【ドイツ】[[ライプツィヒ大学]]創建。
 
*:[[プラハ大学]]学長[[ヤン・フス]]らによるチェコ人優遇策に抗議してプラハ大学を去ったドイツ人による設立。
 
*1409年 - 【フランドル】[[リンブルク兄弟|ランブール兄弟]]『[[ベリー公のいとも豪華なる時祷書]]』完成。
 
*1410年 - ピサ派の教皇[[アレクサンデル5世 (対立教皇)|アレクサンデル5世]]死去。
 
*:[[枢機卿]]バルダッサレ・コッサがピサ派の教皇[[ヨハネス23世 (対立教皇)|ヨハネス23世]]として選出される。
 
*:選出に尽力した[[メディチ家]]の[[ジョヴァンニ・ディ・ビッチ]]は[[ローマ教皇庁]]会計院の財務管理者となり、莫大な利益を得る。
 
*1410年 - ピサ派の教皇[[ヨハネス23世 (対立教皇)|ヨハネス23世]]がローマを制圧するため[[ルイ2世・ダンジュー]]を派遣する(→1411年)。
 
*:[[ナポリ王国|ナポリ王]][[ラディズラーオ1世 (ナポリ王)|ラディズラーオ1世]]と彼の支持していたローマ派の教皇[[グレゴリウス12世 (ローマ教皇)|グレゴリウス12世]]はローマから逃亡。
 
*1410年 - 枢機卿[[ピエール・ダイイ]]『世界の姿(イマゴ・ムンディ)』。
 
*1410年 - 「ダティーニ文書」と呼ばれる膨大な商業文書を残した[[プラート]]の商人[[フランチェスコ・ディ・マルコ・ダティーニ]]死去。
 
*1410年頃 - ゲラルド・スタルニーナにより「[[テーベ]]の[[隠者]]たち」([[ウフィツィ美術館]]蔵)が描かれたか。
 
*1410年頃 - 【ロシア】[[アンドレイ・ルブリョフ]]「聖[[三位一体]](至聖三者)」。
 
*1411年 - [[ロッカセッカ]]の戦いで、[[ナポリ王国|ナポリ王]][[ラディズラーオ1世 (ナポリ王)|ラディズラーオ1世]]が[[ルイ2世・ダンジュー]]を撃退(→1413年)。
 
*1411年 - ナポリ王ラディズラーオ1世がサンタンナ・ディ・ロンバルディ教会(サンタ・マリア・ディ・モンテオリヴェート教会)を建立。
 
*1412年 - [[ミラノ公]][[ジョヴァンニ・マリーア・ヴィスコンティ|ジョヴァンニ・マリーア]]が暗殺される。弟フィリッポ・マリーアは公位を継承し、旧領の回復に着手。
 
*1412年 -  【アラゴン】[[カスペの妥協]]により、[[トラスタマラ家]]の[[フェルナンド1世 (アラゴン王)|フェルナンド1世]]が[[アラゴン王国|アラゴン]]王になる。
 
*1413年 - [[ナポリ王国|ナポリ王]][[ラディズラーオ1世 (ナポリ王)|ラディズラーオ1世]]が再び[[ローマ]]を占領、ピサ派の教皇[[ヨハネス23世 (対立教皇)|ヨハネス23世]]がフィレンツェに逃亡。
 
*1414年 - [[コンスタンツ公会議]]開催( - 1418年)。
 
*:会議を主導したのは神聖ローマ皇帝[[ジギスムント (神聖ローマ皇帝)|ジギスムント]]、神学者では[[ピエール・ダイイ]]や[[ジャン・ジェルソン]]が活躍。
 
*1415年 - コンスタンツ公会議の決定により、[[プラハ大学]]元学長[[ヤン・フス]]が異端者として火刑に処される(→1419年)。
 
*1415年 - 【ポルトガル】国王[[ジョアン1世 (ポルトガル王)|ジョアン1世]]とその子[[エンリケ航海王子]]らが北アフリカの[[セウタ]]を攻略。
 
*1416年 - [[サヴォイア公国]]が成立し、[[サヴォイア家]]の[[フェリクス5世 (対立教皇)|アメデーオ8世]]の支配下に置かれる。
 
*1417年 - [[コンスタンツ公会議]]で、[[コロンナ家]]出身の[[マルティヌス5世 (ローマ教皇)|マルティヌス5世]]を教皇に選出、教会大分裂終わる。
 
*1417年 - [[人文主義|人文主義者]][[ポッジョ・ブラッチョリーニ]]により、ドイツで古代ローマの哲学者[[ルクレティウス]]『事物の本性について』の写本が発見される。
 
*1418年 - フィレンツェ大聖堂大ドームの設計競技、[[フィリッポ・ブルネレスキ]]が当選(→1436年)。
 
*1418年 - 枢機卿[[ピエール・ダイイ]]『教会改革論』。
 
*1418年 - 【フランス】[[パリ]]の出版業者で[[錬金術|錬金術師]]とも言われた[[ニコラ・フラメル]]死去。
 
*1419年 - フィレンツェにて廃位された対立教皇[[ヨハネス23世 (対立教皇)|ヨハネス23世]]死去。
 
*:後年、[[サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂|サン・ジョバンニ洗礼堂]]に「教皇ヨハネ23世墓碑」が[[ドナテッロ]]らによって作られる(1425年-1428年)。
 
*1419年 - [[ヤコポ・デッラ・クエルチャ]]による[[シエーナ|シエナ]]の[[カンポ広場]]「喜びの泉(フォンテ・ガイア)」完成(1414年 - )。
 
*1419年 - 【ボヘミア】[[プラハ窓外投擲事件|第一次プラハ窓外投擲事件]]。[[フス戦争]]始まる( - 1439年)。
 
*:この戦争で[[ヤン・ジシュカ]]率いるフス派は最新鋭の[[マスケット銃]]を使用。ヨーロッパ初の[[銃|手銃器]]を使った戦争と言われる。
 
*1420年 - 教皇[[マルティヌス5世 (ローマ教皇)|マルティヌス5世]]が初めてローマ市に入り、荒廃したローマ市の再建始まる(→1417年)。
 
*1420年頃 - ミケリーノ・ダ・ベソッツォ「[[アレクサンドリアのカタリナ|聖カタリナ]]の結婚」([[シエナ絵画館]]蔵)
 
*1421年 - [[フィレンツェ共和国|フィレンツェ]]が[[ジェノヴァ共和国|ジェノヴァ]]から海港[[リヴォルノ]]を購入。
 
*1423年 - [[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]][[ドージェ|元首]]として[[フランチェスコ・フォスカリ]]が選出され、以後35年近く国政を指導( - 1457年)。
 
*1423年 - [[ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ]]「東方三博士の礼拝」。
 
*1424年 - ザゴナラの戦いで、[[ミラノ公国|ミラノ]]が[[フィレンツェ共和国|フィレンツェ]]に大勝、フィレンツェは[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]に接近(→1427年)。
 
*1424年 - 【フランス】パリのイノサン墓地回廊のフレスコ壁画「[[死の舞踏 (美術) |死の舞踏]]」が描かれる。
 
*1425年 - [[フェラーラ侯]][[ニッコロ3世・デステ]]が、後妻[[パリシーナ・マラテスタ]]と前妻の息子[[ウーゴ・デステ]]の両者を姦通の罪で処刑。
 
*1427年 - マクロディオの戦いで、傭兵隊長カルマニョーラ率いる[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]が[[ミラノ公国|ミラノ]]に大勝。
 
*1427年 - [[マソリーノ]]と[[マサッチオ]]「ブランカッチ礼拝堂壁画」完成。
 
*1428年 - [[マサッチオ]]死去。
 
*1428年 - 【フランドル】[[ロベルト・カンピン]]「メロードの祭壇画」完成(1425年 - )。
 
*1429年 - メディチ家の[[ジョヴァンニ・ディ・ビッチ]]死去、後継者は息子の[[コジモ・デ・メディチ]]。
 
*1429年 - マッテオ・パルミエーリ『市民生活論』執筆(出版は没後の1528年)。
 
*1430年 - ヴェネツィア領[[テッサロニキ]](1423年 - )が[[オスマン帝国]]に降伏しその領土となる。
 
*1430年 - ヴェネツィアのコンタリーニ家の「[[カ・ドーロ]](黄金の館)」がボン父子によって完成する( - [[1428年]])。
 
*1431年 - 教皇[[マルティヌス5世 (ローマ教皇)|マルティヌス5世]]死去、教皇[[エウゲニウス4世 (ローマ教皇)|エウゲニウス4世]]が即位。
 
*1431年 - [[バーゼル公会議]]開催(→1438年)。
 
*1431年 - サン・ロマーノの戦いで、[[フィレンツェ共和国|フィレンツェ]]が[[シエーナ|シエナ]]に勝利する(→1456年)。
 
*1431年 - [[ロレンツォ・ヴァッラ]]『快楽論』([[エピクロス]]主義)。
 
*1431年 - 【フランス】[[ジャンヌ・ダルク]]、[[ルーアン]]にて火刑に処される(→1455年)。
 
*1432年 - [[ヴェネツィア共和国]]に対する背信の罪でカルマニョーラが処刑される(→1427年)。
 
*1432年 - 【フランドル】[[ヤン・ファン・エイク|ファン・エイク兄弟]]「[[ヘントの祭壇画]](神秘の子羊)」完成。
 
*1433年 - [[フェラーラ]]の和約により、[[ミラノ公国|ミラノ]]と[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]・[[フィレンツェ共和国|フィレンツェ]]が講和する(1423年 - )。
 
*:ミラノは[[ブレシア]]と[[ベルガモ]]をヴェネツィアに割譲。フィレンツェではこの和約に不満な反メディチ派が勢いを増す。
 
*1433年 - [[フィレンツェ共和国|フィレンツェ]]でアルビッツィ家を中心とする反メディチ派が政権を握り、[[コジモ・デ・メディチ]]らを追放(→1434年)。
 
*1433年 - [[マントヴァ]]が侯爵領に昇格、[[ジャンフランチェスコ・ゴンザーガ]]が[[僭主]]から[[マントヴァ侯]]になる。
 
*1433年 - [[ピサネロ]]「神聖ローマ皇帝[[ジギスムント (神聖ローマ皇帝)|ジギスムント]]の肖像」。
 
*1434年 - ミラノとの戦争で大敗北を喫しリナルド・デリ・アルビッツィの政権は崩壊、アルビッツィ一族は逮捕される。
 
*:ヴェネツィアに亡命していた[[コジモ・デ・メディチ]]が帰国し反対派を追放、メディチ家がフィレンツェ支配を確立( - 1737年)。
 
*1434年 - カルマニョーラの後継として[[ガッタメラータ]]がヴェネツィア軍の司令官に抜擢される(→1432年)。
 
*1434年 - 【フランドル】[[ヤン・ファン・エイク]]「[[アルノルフィーニ夫妻像|アルノルフィーニ夫妻の肖像]]」([[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ロンドン・ナショナル・ギャラリー]]蔵)。
 
*:モデルは[[フィリップ3世 (ブルゴーニュ公)|フィリップ善良公]]に仕えたイタリア出身の銀行家ジョヴァンニ・ディ・アリーゴ・アルノルフィーニとその婚約者ジョヴァンナ・チェナーミとされていたが、近年の研究でアリーゴ・アルノルフィーニの従兄弟ジョヴァンニ・ディ・ニコラ・アルノルフィーニとその内縁の2番目の妻、あるいは既に死去した最初の妻と考えられている。
 
*1435年 - [[ナポリ王国|ナポリ]]女王[[ジョヴァンナ2世 (ナポリ女王)|ジョヴァンナ2世]]死去。
 
*:[[ヴァロワ=アンジュー家]]の[[ルネ・ダンジュー]]と[[アラゴン王国|アラゴン王]][[アルフォンソ5世 (アラゴン王)|アルフォンソ5世]]がその後継をめぐって争う(→1442年)。
 
*1435年 - [[レオン・バッティスタ・アルベルティ|アルベルティ]]『絵画論』執筆。
 
*1436年 - 教皇[[エウゲニウス4世]]による[[サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂|フィレンツェ大聖堂]]の献堂式。
 
*:献堂式に合わせ[[フランドル楽派]]の音楽家[[ギヨーム・デュファイ]]が「薔薇の花が咲く頃」を作曲。
 
*1436年 - カマルドリ会のアンブロージョ・トラヴェルサーリが『[[偽ディオニシウス・アレオパギタ|ディオニシオス文書]]』を翻訳。
 
*1436年 - [[フラ・アンジェリコ]]が[[フィエーゾレ]]から[[フィレンツェ]]のサン・マルコ修道院に移る。
 
*:この修道院で「[[受胎告知]]」「ノリ・メ・タンゲレ(我に触れるな)」などの製作を行う。
 
*1436年 - [[パオロ・ウッチェロ|ウッチェロ]]「[[ジョン・ホークウッド]]像」([[サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂|フィレンツェ大聖堂]]内)(→1390年)。
 
*1436年 - [[サセッタ]]「[[東方三博士]]の旅」([[メトロポリタン美術館]])完成(1432年 - )。
 
*1436年 - 【フランス】[[フランボワイヤン様式]]の[[ルーアン]]の[[サン・マクルー教会]]着工( - 1521年)。
 
*1437年 - [[バーゼル公会議]]の開催地移動が決定(→1431年)。
 
*:参加者は公会議派と教皇派に分裂し、公会議派はバーゼルに留まり、1439年には[[対立教皇]][[フェリクス5世 (対立教皇)|フェリクス5世]]を選出。
 
*:[[ニコラウス・クザーヌス]]ら教皇派らはイタリアの[[フェラーラ]]に移転し、東西教会合同の準備を行う。
 
*:東ローマ皇帝[[ヨハネス8世パレオロゴス]]や[[コンスタンディヌーポリ総主教庁|コンスタンティノポリス総主教]]ヨセフス2世がイタリアに到着。
 
*:他に東方教会の代表者として[[ニカイア]][[府主教]][[ヨハンネス・ベッサリオン]]、[[ゲオルギオス・ゲミストス・プレトン]]らが出席。
 
*1438年 - [[フェラーラ]]で[[公会議]]を開催([[フィレンツェ公会議|フェラーラ・フィレンツェ公会議]])。
 
*:[[ヴェローナ]]の画家[[ピサネロ]]が東ローマ皇帝ヨハネス8世の来訪を記念して皇帝の肖像メダルを作成。
 
*:[[フェラーラ侯]][[ニッコロ3世・デステ]]が公会議開催を支援、やがて資金不足や疫病流行で行き詰まる(→1439年)。
 
*1438年 - [[ルカ・デッラ・ロッビア]]、[[サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂|フィレンツェ大聖堂]]の「カントリア(歌う見物人)」完成。
 
*1438年 - 【フランス】国王[[シャルル7世 (フランス王)|シャルル7世]]が[[ブールジュ]]の国本勅諚(国事詔書)を発令、[[ガリカニズム]]の始まり(→1516年)。
 
*1439年 - [[フェラーラ]]での[[公会議]]を[[フィレンツェ]]に移転([[フィレンツェ公会議|フェラーラ・フィレンツェ公会議]])( - 1445年)。
 
*:[[メディチ家]]が公会議移転を支援、東西教会代表による合同教令「レテントゥル・チェリ」採択。
 
*:[[ギリシア]]人[[ヨハンネス・ベッサリオン|ベッサリオン]]がイタリアに残留、[[カトリック教会|カトリック]]の[[枢機卿]]に任じられる。
 
*1440年 - [[アンギアーリの戦い]]で、[[フィレンツェ共和国|フィレンツェ]]が[[ミラノ公国|ミラノ]]に勝利(→1503年)。
 
*1440年 - [[ニコラウス・クザーヌス]]『学識ある無知について』。
 
*1440年 - [[ロレンツォ・ヴァッラ]]『[[コンスタンティヌスの寄進状|コンスタンティヌス寄進状]]の偽作論』。
 
*1440年頃 - [[ヤーコポ・ベリーニ|ヤコポ・ベリーニ]]「寄進者[[エステ家]]公子リオネッロのいる謙譲のマリア」。
 
*1441年 - [[ミラノ公]]女[[ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティ]]と傭兵隊長[[フランチェスコ・スフォルツァ]]の結婚(→1450年)。
 
*1441年 - 【ドイツ・ネーデルラント】[[トマス・ア・ケンピス]]『[[キリストに倣いて|キリストにならいて]]』。
 
*1442年 - アラゴン王[[アルフォンソ5世 (アラゴン王)|アルフォンソ5世]]が[[ルネ・ダンジュー]]を追放し、[[ナポリ王国|ナポリ王]]となる。
 
*:[[シチリアの晩鐘|シチリアの晩禱]]事件(1282年)以来分裂していた[[ナポリ王国]]と[[シチリア王国]]が一旦統一される。
 
*1442年 - アエネアス・シルウィウス・ピッコローミニが[[桂冠詩人]]となる。
 
*:ピッコローミニは[[人文主義]]者で後の教皇[[ピウス2世 (ローマ教皇)|ピウス2世]](→1458年)、この称号は神聖ローマ皇帝[[フリードリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ3世]]が進呈。
 
*1443年頃 - 【フランス】[[バーテルミー・デック]]「エクスの受胎告知」。
 
*1444年 - [[フィレンツェ]]市書記官長で人文主義者のレオナルド・ブルーニ死去(代表作『フィレンツェ人の歴史』)。
 
*1444年 - [[ロレンツォ・ヴァッラ]]『[[ラテン語]]の優雅さについて』。
 
*1444年 - [[コジモ・デ・メディチ]]により、[[ニッコロ・ニッコリ]]の蔵書を基礎とした図書館がサン・マルコ修道院に創設される。
 
*1444年 - [[ピエロ・ディ・コジモ・デ・メディチ]]と[[ルクレツィア・トルナブオーニ]]の結婚。
 
*1444年 - [[フランシスコ会]]修道士の[[シエーナ|シエナ]]のベルナルディーノ死去(1450年列聖)。
 
*1444年 - 【ブルガリア】[[ヴァルナの戦い]]で、キリスト教諸国軍が[[オスマン帝国]]軍に大敗(ヴァルナ十字軍)。
 
*:教皇[[エウゲニウス4世 (ローマ教皇)|エウゲニウス4世]]の特使で枢機卿ジュリアーノ・チェザリーニ、[[ハンガリー王国|ハンガリー]]と[[ポーランド王国|ポーランド]]の王[[ヴワディスワフ3世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ3世]]らが戦死。
 
*1444年 - 【スイス】[[コンラート・ヴィッツ]]「奇跡の漁り」。
 
*1445年 - [[ヴェネツィア]]元首[[フランチェスコ・フォスカリ]]の息子ヤコポが贈収賄と汚職で告発される(→1457年)。
 
*1445年 - [[ジョヴァンニ・ディ・パオロ]]「[[天地創造]]と楽園追放」。
 
*1445年頃 - ドメニコ・ヴェネツィアーノによるサンタ・ルチア・デ・マニョーリ祭壇画。
 
*1446年 - サン・マルコ修道院長アントニーノ・ピエロッツィが[[フィレンツェ]]大司教となる(フィレンツェの聖アントニヌス)。
 
*1446年 - [[ドナテッロ]]「[[ダビデ]]像」([[バルジェロ美術館]]蔵・[[ブロンズ]]製)完成(1444年 - )。
 
*1446年 - アントニオ・ヴィヴァリーニの[[トリプティック|三連祭壇画]]「玉座の聖母子と聖者たち」。
 
*1446年 - [[レオン・バッティスタ・アルベルティ|アルベルティ]]が[[リミニ]]のマラテスティアーノ教会の設計に携わる。
 
*:[[リミニ]]の領主シギスモンド・マラテスタによる依頼であったが、依頼主が死ぬ(1468年)と未完のまま放置される。
 
*1447年 - 教皇[[エウゲニウス4世 (ローマ教皇)|エウゲニウス4世]]死去、教皇[[ニコラウス5世 (ローマ教皇)|ニコラウス5世]]即位。
 
*1447年 - [[ミラノ]]の[[ヴィスコンティ家]]断絶、市民の蜂起でアンブロジアーナ共和国成立(→1450年)。
 
*1447年 - [[ナポリ]]の[[ベネディクト会]]修道院長アントーニオ・ダ・バールガ『人間の尊厳、および人間の生の優越について』。
 
*1447年 - アレッソ・バルドヴィネッティ「[[受胎告知]]」。
 
*1448年 - 教皇[[ニコラウス5世]]が[[バチカン図書館]]を開設
 
*1448年頃 - バルトロメオ・ファーチョ『人間の優越と卓越について』
 
*1449年 - 教皇[[ニコラウス5世 (ローマ教皇)|ニコラウス5世]]が[[バーゼル公会議]](1431年 - )の閉会を宣言。
 
*:同時に[[対立教皇]][[フェリクス5世 (対立教皇)|フェリクス5世]]が退位、以後現在まで対立教皇は存在しない。
 
*1450年 - [[フランチェスコ・スフォルツァ]]が共和国政府を倒し、[[ミラノ公]]位を簒奪(→1447年)。
 
*1450年頃 - 【フランス】[[ジャン・フーケ]]「フランス国王[[シャルル7世 (フランス王)|シャルル7世]]の肖像」。
 
*1450年頃 - 【フランス】アンドレ・ディープル「パリ高等法院のキリスト磔刑」。
 
*1450年頃 - 【フランドル】[[ロヒール・ファン・デル・ウェイデン]]「聖母子を描く聖ルカ」。
 
*1450年頃 - 【ドイツ】[[シュテファン・ロッホナー]]「薔薇垣の聖母」。
 
*1450年頃 - 【ドイツ】ライン地方で『往生術(アルス・モリエンディ)』が出版される。
 
*1451年 - [[ニコラウス・クザーヌス]]が[[近視]]治療のための[[レンズ|凹レンズ]][[眼鏡]]を発明。
 
*1452年 - [[ローマ]]にて神聖ローマ皇帝[[フリードリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ3世]]の戴冠式と結婚式。
 
*:なお次代の皇帝はローマで戴冠式を行なわずこの伝統は途絶、ローマで戴冠した皇帝はフリードリヒ3世が最後となる。
 
*1452年 - ジャンノッツォ・マネッティ『人間の尊厳と優越について』。
 
*1453年 - [[ドナテッロ]]「[[ガッタメラータ]]将軍騎馬像」完成(→1434年)。
 
*1453年 - 【東ローマ帝国】[[コンスタンティノープルの陥落]](東ローマ帝国滅亡)。
 
*:最後の東ローマ皇帝[[コンスタンティノス11世]]は戦死、[[オスマン帝国]][[スルタン]]・[[メフメト2世]]が新しい支配者となる。
 
*:[[ジェノヴァ]]人傭兵隊長ジョヴァンニ・ジュスティニアーニ・ロンゴや、[[ヴェネツィア]]人提督ガブリエレ・トレヴィザンが犠牲となる。
 
*1453年 - 【イングランド・フランス】[[百年戦争]]終結。
 
*1454年 - イタリア五大国が[[ローディの和]]を結ぶ。
 
*:[[スフォルツァ家]]が[[ミラノ公国|ミラノ]]の君主に認められ、[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]はその領地をアッダ川まで広げ、両国の講和が成立。
 
*:[[アラゴン王国|アラゴン]]王[[アルフォンソ5世 (アラゴン王)|アルフォンソ5世]]は[[ナポリ王国|ナポリ]]王として最終的に認められ、これらの条件にフィレンツェとローマも同調。
 
*:五大国は対オスマン帝国戦でのイタリア神聖同盟(1455年)を結成、イタリアは[[盛期ルネサンス]]時代を迎える( - 1494年)。
 
*1455年 - フランス国王シャルル7世の宮廷御用商人だった[[ジャック・クール]]が脱獄し、[[ローマ]]に亡命。
 
*:教皇[[ニコラウス5世 (ローマ教皇)|ニコラウス5世]]と、続く教皇[[カリストゥス3世 (ローマ教皇)|カリストゥス3世]]に庇護され、対オスマン朝十字軍の司令官となるが1456年に戦死。
 
*1455年 - 教皇[[カリストゥス3世 (ローマ教皇)|カリストゥス3世]]が[[ジャンヌ・ダルク]]裁判のやり直しを命じる(→1431年)。
 
*1455年 - 【イングランド】[[ばら戦争|薔薇戦争]]始まる( - 1485年)。
 
*1455年頃 - 【ドイツ】[[ヨハネス・グーテンベルク]]による[[活版印刷]]の聖書刊行。
 
*1455年頃 - 【フランス】アンゲラン・カルトン「ヴィルヌーブ・レ・ザヴィニョンのピエタ」。
 
*1456年 - [[ヴェネツィア]]司教であったロレンツォ・ジュスティニアーニ死去(1690年列聖)。
 
*1456年 - [[パオロ・ウッチェロ|ウッチェロ]]「サン・ロマーノの戦い」(→1431年)。
 
*1456年 - [[アンドレア・デル・カスターニョ]]「ニッコロ・ダ・トレンティーノ騎馬像」。
 
*1457年 - 息子の汚職事件にからみ[[フランチェスコ・フォスカリ]]が[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]][[ドージェ|元首]]を辞職させられ、この年に死去。
 
*1457年 - [[フィレンツェ]]の銀行家ルカ・ピッティが[[ピッティ宮殿]]の建設に着手(ルカの死とともに1472年工事中断)。
 
*1458年 - アエネアス・シルウィウス・ピッコローミニが教皇[[ピウス2世 (ローマ教皇)|ピウス2世]]として選出される( - 1464年)。
 
*1458年 - [[ニコラウス・クザーヌス]]と[[パオロ・ダル・ポッツォ・トスカネッリ|トスカネッリ]]が「[[円積問題]]」について対談する。
 
*1459年 - マントヴァ教会会議で、教皇[[ピウス2世 (ローマ教皇)|ピウス2世]]が[[オスマン帝国]]に対する[[十字軍]]遠征を提唱。
 
*1459年 - 義兄弟関係にある[[ジョヴァンニ・ベリーニ]]と[[アンドレア・マンテーニャ|マンテーニャ]]がそれぞれ個別に「[[ゲッセマネ]]の祈り」を描く。
 
*1460年 - 【ギリシャ】[[モレアス専制公領]]がオスマン帝国に占領される。
 
*:ここを支配していた[[東ローマ帝国|東ローマ]]皇族で、皇帝[[コンスタンティヌス11世]]の弟[[ソマス・パレオロゴス|トマス]]は逃亡し、1462年に[[イタリア]]・[[ローマ]]に亡命。
 
*1460年頃 - [[アントネロ・ダ・メッシーナ]]「書斎の聖[[ヒエロニムス]]」、[[フランドル]]式の[[油彩]]技法はこの画家が[[イタリア]]に招来したか。
 
*1460年頃 - [[フランチェスコ・スクァルチォーネ]]「[[聖母子]]」(ベルリン国立美術館)。
 
*1460年頃 - 【ポルトガル】[[ヌーノ・ゴンサルヴェス]]により「[[サン・ヴィセンテの祭壇画]]」が描かれたか。
 
*1461年 - [[フィリッポ・ブルネレスキ|ブルネレスキ]](1446年死去)設計による[[サンタ・クローチェ聖堂 (フィレンツェ)|サンタ・クローチェ聖堂]][[パッツィ家]]礼拝堂完成(1430年 - )。
 
*1461年 - [[ベノッツォ・ゴッツォリ]]、メディチ・リッカルディ宮のマギ礼拝堂「東方三博士のベツレヘムへの旅」完成(1459年 - )。
 
*1461年 - [[デジデーリオ・ダ・セッティニャーノ]]、フィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂サクラメント礼拝堂の祭壇完成。
 
*1461年 - 【トレビゾンド】最後の東ローマ系政権である[[トレビゾンド帝国]]滅亡。
 
*:コムネノス家の皇帝[[ダヴィド (トレビゾンド皇帝)|ダヴィド]]はオスマン帝国に敗れて捕縛され、1463年に処刑される。
 
*1461年 - 【フランス】[[フランソワ・ヴィヨン]]『遺言詩集』。
 
*1461年頃 - [[アントニオ・フィラレーテ]]『建築論』。
 
*1462年 - [[マルシリオ・フィチーノ|フィチーノ]]が[[コジモ・デ・メディチ]]よりフィレンツェ近郊のカレッジに別荘を与えられる。
 
*:この時期からいわゆる[[プラトン・アカデミー]]の人文主義的サークルが動き出すか(存在の否定説もあり)。
 
*1463年 - [[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]と[[オスマン帝国]]との全面戦争勃発( - 1479年)。
 
*:ヴェネツィアは[[アルゴス]]を奪取、ハンガリー王[[マーチャーシュ1世]]は[[ボスニア]]に進軍、[[スカンデルベク]]は[[アルバニア]]で奮戦。
 
*1463年 - [[マルシリオ・フィチーノ|フィチーノ]]『[[ヘルメス文書]]』を翻訳。
 
*1464年 - 教皇[[ピウス2世 (ローマ教皇)|ピウス2世]]が[[アンコーナ]]で死去、後継の教皇は[[パウルス2世 (ローマ教皇)|パウルス2世]]。
 
*1464年 - [[コジモ・デ・メディチ]]死去、「[[祖国の父]]」の称号を贈られる。
 
*:後継者は息子の[[ピエロ・ディ・コジモ・デ・メディチ]]、通称は「痛風病み(イル・ゴットーゾ)」。
 
*1464年 - [[レギオモンタヌス]]『[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]の[[アルマゲスト|天文学大全]]の抜粋』。
 
*1464年 - [[ミケロッツォ・ディ・バルトロメオ]]によりメディチ・リッカルディ宮殿完成(1444年 - )。
 
*1464年 - [[フィリッポ・リッピ]]により[[プラート]]大聖堂壁画完成(1452年 - )。
 
*1464年 - [[アントニオ・フィラレーテ]]『建築論』(1461年 - )。
 
*1465年 - [[ドメニコ・ディ・ミケリーノ]]による[[サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂|フィレンツェ大聖堂]]の絵画「ダンテ、『神曲』の詩人」。
 
*1465年 - 【フランス】[[ヨハンネス・オケゲム]]が国王宮廷聖歌隊長となる。
 
*1465年頃 - 【フランス】前ナポリ王[[ルネ・ダンジュー]]の文と[[バーテルミー・デック]]の挿絵による[[写本]]「囚われし愛の心の書」。
 
*1466年 - ピッティ家の陰謀事件、[[ピエロ・ディ・コジモ・デ・メディチ]]は暗殺を逃れ、反メディチ派を鎮圧。
 
*1466年 - [[ミラノ公]]の居城[[スフォルツェスコ城]]が完成する(1450年 - )。
 
*1466年 - [[ウルビーノ]][[フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ|伯]]の[[ドゥカーレ宮殿]]の建設に[[ルチアーノ・ラウラーナ]]が着手する( - 1472年)
 
*1467年頃 - [[レオン・バッティスタ・アルベルティ|アルベルティ]]が多アルファベット換字式暗号([[ヴィジュネル暗号]]の原型)を発明。
 
*1468年 - 教皇[[パウルス2世 (ローマ教皇)|パウルス2世]]暗殺未遂事件、暗殺に失敗したフィリプ・カリマクスは[[ポーランド王国|ポーランド]]に亡命。
 
*1468年 - カマルドリの討論会、[[マルシリオ・フィチーノ|フィチーノ]]や[[レオン・バッティスタ・アルベルティ|アルベルティ]]が「至高善」について討議。
 
*:[[クリストフォロ・ランディーノ|ランディーノ]]の『カマルドリ論談』はこの時の記録。
 
*1468年 - [[枢機卿]][[ベッサリオン]]がギリシア語写本を含む蔵書を[[ヴェネツィア]]の[[サン・マルコ寺院|サン・マルコ教会]]に寄贈。
 
*1469年 - [[ピエロ・ディ・コジモ・デ・メディチ]]死去。
 
*:後継者はその息子[[ロレンツォ・デ・メディチ]]、通称は「偉大なる(イル・マニフィコ)」。
 
*:なおこの年、[[ロレンツォ・デ・メディチ]]はローマの名門出身のクラリーチェ・オルシーニと結婚。
 
*1469年 - ミーノ・ダ・フィエーゾレ「大司教レオナルド・サルターティの胸像」完成(1464年 - )。
 
*1469年 - 【スペイン】[[アラゴン王国|アラゴン]]王子フェルナンドが[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]王女イサベルと結婚。
 
*:後にフェルナンドはアラゴン王[[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド2世]]、イサベルは[[イサベル1世 (カスティーリャ女王)|イサベル1世]]となり、連合王国[[スペイン]]を成立させる。
 
*1470年 - [[オスマン帝国]]が大激戦の末、[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]領[[エヴィア島|ネグロポンテ]]を占領(→1479年)。
 
*1470年 - [[フェラーラ]]のスキファノイア宮殿壁画完成( - 1469年)。
 
*:壁画を担当したのは[[フェラーラ派]]の[[コズメ・トゥーラ]]や[[フランチェスコ・デル・コッサ]]。
 
*1470年頃 - [[ピエロ・デル・ポッライオーロ]]「ある女性の肖像」(ミラノのボルディ・ペッツォーリ美術館蔵)。
 
*1470年頃 - 【イングランド】[[トマス・マロリー]]『[[アーサー王の死]]』完成か。
 
*1470年頃 - 【フランドル】[[ペトルス・クリストゥス]]「若い女の肖像」([[絵画館 (ベルリン)|ベルリン絵画館]]蔵)。
 
*1471年 - [[フェラーラ公国|フェラーラ]]が侯爵領から公爵領に昇格し、[[エステ家]]の[[ボルソ・デステ|ボルソ]]の支配下に置かれる。
 
*:同年、ボルソ死去により異母弟[[エルコレ1世・デステ|エルコレ1世]]がフェラーラ公となり、文化振興策として多数の[[フランドル楽派]]の音楽家を招聘。
 
*:[[アレクサンダー・アグリコラ]]、[[ヤーコプ・オブレヒト]]、[[ハインリヒ・イザーク]]、[[アドリアン・ヴィラールト]]、[[ジョスカン・デ・プレ]]など。
 
*1471年 - [[フィレンツェ]]に服属していた[[ヴォルテッラ]]から[[明礬]]の鉱床が発見される(→1472年)。
 
*1472年 - [[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]貴族の娘[[カタリーナ・コルナーロ]]が[[キプロス王国|キプロス国王]]ジャック2世と結婚。
 
*:ジャック2世が1473年に、その息子のジャック3世が1474年に死ぬと、残されたカタリーナがキプロス女王となる( - 1489年)。
 
*1472年 - 明礬採掘権をめぐり[[ヴォルテッラ]]市民が[[フィレンツェ]]の支配に抵抗し武装蜂起(→1471年)。
 
*:[[ロレンツォ・デ・メディチ]]は司令官[[フェデリコ・ダ・モンテフェルトロ]]を派遣し反乱を鎮圧する。
 
*1472年 - [[シエーナ|シエナ]]のモンテ・デイ・パスキ・ディ・シエナ銀行が創業(現在営業している銀行では世界最古)。
 
*1472年 - 【ロシア】[[モスクワ大公]][[イヴァン3世]]と[[東ローマ帝国|東ローマ]]皇女[[ゾイ・パレオロギナ|ソフィア(ゾエ)]]の結婚。
 
*:ソフィアは東ローマ最後の皇帝[[コンスタンティヌス11世]]の姪で、父は[[ソマス・パレオロゴス|トマス・パレオロゴス]](→1460年)。
 
*:この結婚はソフィアの後見人だった教皇[[シクストゥス4世 (ローマ教皇)|シクストゥス4世]]の東西教会合同の意図が込められていた。
 
*1473年 - 【ドイツ・フランス】マルティン・ショーンガウアー「薔薇垣の聖母子」。
 
*1474年 - [[ウルビーノ公国|ウルビーノ]]が伯爵領から公爵領に昇格し、[[フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ|モンテフェルトロ家のフェデリーコ]]の支配下に置かれる。
 
*:[[ピエロ・デラ・フランチェスカ]]の「ウルビーノ公夫妻の肖像」はこの時期のものか。
 
*:この時期[[ピエロ・デラ・フランチェスカ]]は『算術論』『[[遠近法]]論』『五正多面体論』の三著作をウルビーノ公に献呈。
 
*:フランドル人画家[[ヨース・ファン・ワッセンホフ]]の「12使徒の聖体拝領」もウルビーノ公の依頼でこの年に完成(1465年 - )
 
*:スペイン人画家ペドロ・ベッルゲーテの「ウルビーノ公とその子息[[グイドバルド・ダ・モンテフェルトロ|グイドバルド]]の肖像画」もこの時期のものか。
 
*1474年 - [[アンドレア・マンテーニャ|マンテーニャ]]、[[マントヴァ]]のドゥカーレ宮「夫婦の間」壁画完成させる。
 
*:この壁画には[[マントヴァ公国|マントヴァ候]][[ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ]]の一族が描かれている、家族の集団肖像画としては最初期のもの。
 
*1474年 -  [[マルシリオ・フィチーノ|フィチーノ]]『プラトン神学』の執筆を終える。
 
*1474年 - 地理学者[[パオロ・ダル・ポッツォ・トスカネッリ|トスカネリ]]が[[クリストファー・コロンブス|コロンブス]]と書簡のやりとりを行い、彼のアメリカ到達へ影響を与える。
 
*1475年 - [[トレント (イタリア)|トレント]]の[[血の中傷]]事件。
 
*:3歳の幼児であるトレントのシモニーノ(シモン)の失踪を[[ユダヤ人]]によるものとして、彼らを処刑・追放した。
 
*1475年 - [[アントニオ・デル・ポッライオーロ]]「ヘラクレスとヒュドラ」。
 
*1475年 - [[アンドレア・デル・ヴェロッキオ|ヴェロッキオ]]工房「[[イエスの洗礼]]」。
 
*:ヴェロッキオの弟子だった[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]が一部を担当している。
 
*1475年 - 教皇[[シクストゥス4世 (ローマ教皇)|シクストゥス4世]]の発願で[[システィーナ礼拝堂]]の建設始まる。
 
*1475年 -  [[マルシリオ・フィチーノ|フィチーノ]]『愛について』([[プラトン]]『[[饗宴]]』の注釈書)。
 
*1475年 - [[アンジェロ・ポリツィアーノ|ポリツィアーノ]]長編詩『(ジュリアーノ・デ・メディチの)騎馬試合のスタンツェ』を執筆。
 
*1475年 - 【フランドル】[[ディルク・ボウツ]]「[[オットー3世 (神聖ローマ皇帝)|皇帝オットー]]の裁判」([[ベルギー王立美術館]]蔵)。
 
*1475年頃 - 【ドイツ】[[イスラエル・ファン・メッケネム]]「モリスカダンス」。
 
*1476年 - [[ミラノ]]のサント・ステファノ教会にてミラノ公[[ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ|ガレアッツォ・マリーア]]が暗殺される。
 
*:長子[[ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァ|ジャン・ガレアッツォ]]が公位を継承、その叔父[[ルドヴィーコ・スフォルツァ|ルドヴィーコ・イル・モーロ]]が摂政となる。
 
*1476年 - [[ジュリアーノ・デ・メディチ]]の愛人[[シモネッタ・ヴェスプッチ]]死去。
 
*1476年 - [[フィレンツェ]]のサルタレッリ事件。
 
*:金工師ヤコポ・サルタレッリにからみ[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]が[[同性愛]]者として匿名で告発されるが、証拠不十分で保釈。
 
*1477年 - 【ブルゴーニュ】[[ブルゴーニュ公]][[シャルル (ブルゴーニュ公)|シャルル突進公]]が[[ナンシーの戦い|ナンシー]]で戦死。
 
*:フランス国王[[ルイ11世 (フランス王)|ルイ11世]]が[[ブルゴーニュ]]を併合し、「北方ルネサンス」を主導していた公国は崩壊。
 
*:後継者[[マリー・ド・ブルゴーニュ|マリー女公]]は[[ハプスブルク家]]の[[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]]と結婚することでフランスを牽制する。
 
*1477年 - 【ブルゴーニュ】アントワーヌ・ル・モワトゥリエ帰属とされる「フィリップ・ポーの墓」( - 1483年)。
 
*1478年 - [[パッツィ家の陰謀]]事件、弟[[ジュリアーノ・デ・メディチ]]が襲撃され殺害される。
 
*:一命を取りとめた兄[[ロレンツォ・デ・メディチ]]により、フィレンツェの反メディチ家派が処刑される。
 
*:陰謀失敗の後、反メディチ派の教皇[[シクストゥス4世 (ローマ教皇)|シクストゥス4世]]は、[[ナポリ王国]]と組んでフィレンツェを攻撃(パッツィ戦争)。
 
*1478年 - 教皇[[シクストゥス4世 (ローマ教皇)|シクストゥス4世]]が[[スペイン]]の[[カトリック両王]]に[[異端審問]]官任免権を与える。
 
*:「[[スペイン異端審問]]」はスペインの王権強化の手段として発展した、異端審問所長官となったのは[[トマス・デ・トルケマダ]]。
 
*1479年 - [[オスマン帝国]]との戦争(1463年 - )終結の講和。
 
*:[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]は[[エヴィア島|ネグロポンテ]]・[[アルゴス]]・[[レムノス]]・シュコドラなどを失う。
 
*1479年 - バルトロメオ・プラティナ『教皇伝』。
 
*1479年 - 【ロシア】イタリア人建築家フィオラヴァンティが[[モスクワ]]・[[クレムリン]]内の[[生神女就寝大聖堂 (モスクワ)|ウスペンスー大聖堂]]を建設。
 
*1480年 - ナポリに単身乗り込んだ[[ロレンツォ・デ・メディチ]]と、ナポリ王[[フェルディナンド1世 (ナポリ王)|フェルディナンド1世]]との和平交渉成立。
 
*1480年 - [[オトラントの戦い]]、[[オスマン帝国]]軍がイタリア南部に上陸( - 1481年)。
 
*1480年 - [[ヴェネツィア派]]の画家[[ジェンティーレ・ベリーニ]]が[[オスマン帝国]]の都[[イスタンブール]]に出向く。
 
*:この時に描かれたのが「[[スルタン]]・[[メフメト2世]]の肖像」
 
*1480年 - [[フーゴー・ファン・デル・グース|ヒューホー・ファン・デル・フース]]の「ポルティナーリの祭壇画」がフィレンツェに運ばれる(完成は1475年)。
 
*1480年 - [[フィレンツェ]]のヴェスパジアーノ・ダ・ビスティッチが書籍商から引退。
 
*:以後、没年(1498年)まで聖職者や政治家や文化人たちの想い出をまとめた『15世紀有名人列伝』の執筆にいそしむ。
 
*1480年頃 - [[メロッツォ・ダ・フォルリ]]によりローマのサンティ・アポストリ教会後陣の丸天井壁画「奏楽天使」完成。
 
*1481年 - [[バチカン図書館]]館長バルトロメオ・プラティナが図書目録を作成、この図書館の蔵書は3500点を数えた。
 
*1482年 -  フェラーラ戦争で、フェラーラ公[[エルコレ1世・デステ]]が教皇・ヴェネツィア連合軍と戦う( - 1484年)。
 
*1482年 -  [[オスマン帝国]]の[[スルタン]]・[[バヤズィト2世|バヤジット2世]]の弟[[ジェム・スルタン|ジェム]]がキリスト教側の[[ロドス島]]に亡命する。
 
*1482年 -  [[マルシリオ・フィチーノ|フィチーノ]]、「[[プラトン]]全集」翻訳完成、『プラトン神学』出版(1474年 - )。
 
*1482年 -  ミラノ公国摂政[[ルドヴィーコ・スフォルツァ|ルドヴィーコ・イル・モーロ]]が[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]を[[ミラノ]]に招く( - 1499年)。
 
*:レオナルドの長期滞在はこの地にミラノ派と呼ばれる追随者を生み出す、代表は[[ベルナルディーノ・ルイーニ]](→1531年)。
 
*1482年 -  [[ピエトロ・ペルジーノ|ペルジーノ]]による[[システィーナ礼拝堂]]壁画「聖ペテロへの天国の鍵の授与」完成(1480年 - )。
 
*1482年頃 -  [[サンドロ・ボッティチェッリ|ボッティチェッリ]]「春([[プリマヴェーラ]])」([[ウフィツィ美術館]]蔵)。
 
*1482年頃 -  フランチェスコ・マルティーニの『市民建築および軍事建築に関する理論書』。
 
*1483年 - ルイジ・プルチ『[[モルガンテ]]』最終版出版。
 
*1483年 - [[アンドレア・デル・ヴェロッキオ|ヴェロッキオ]]「[[バルトロメーオ・コッレオーニ]]像」完成(1479年 - )。
 
*1484年 - 教皇[[インノケンティウス8世 (ローマ教皇)|インノケンティウス8世]]の回勅「スンミス・デジデランテス(限りなき願いをもって)」。
 
*:[[魔女狩り]]の指南書となった『[[魔女に与える鉄槌]]』(1487年出版)はこの回勅を転用した。
 
*1484年 - 世界最古の[[タロット|タロットカード]]の「[[ヴィスコンティ・スフォルツァ版タロット|ヴィスコンティ・スフォルツァ版]]」はこの年のもの。
 
*1484年 - 【フランス】[[タペストリー]]「[[貴婦人と一角獣]]」連作(パリ中世美術館蔵)が製作されたか( - 1500年頃)。
 
*1485年 - 【イングランド】[[薔薇戦争]]が終結し、[[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー7世]]が国王に即位して[[テューダー朝]]成立。
 
*1485年頃 -  [[サンドロ・ボッティチェッリ|ボッティチェッリ]]「[[ヴィーナスの誕生]]」([[ウフィツィ美術館]]蔵)。
 
*1486年 -  [[ピコ・デラ・ミランドラ]]が自選の「900の命題」をもとにローマで哲学・神学討論会を企画する。
 
*:この討論会のために書いた原稿は『人間の尊厳について』としてまとめられ、[[魔術]]や[[ヘルメス主義]]や[[カバラ]]についても言及。
 
*:教皇庁はこうした命題の一部を異端だと見做し、討論を中止させ逃走したピコを捕縛。ピコはメディチ家の助力で釈放される。
 
*1486年 -  [[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]「[[岩窟の聖母]]」([[ルーヴル美術館]]蔵)完成(→1506年)。
 
*1486年 -  [[フィリッピーノ・リッピ]]「聖[[ベルナルドゥス]]の幻視」(バディア聖堂蔵)。
 
*1486年 -  [[カルロ・クリヴェッリ]]「聖エミディウスのいる[[受胎告知]]」([[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ロンドン・ナショナルギャラリー]]蔵)。
 
*1486年 -  [[ジョスカン・デ・プレ]]が[[ローマ教皇庁]]礼拝堂付属聖歌隊の一員となる。
 
*1487年 -  亡命ギリシア人であり、フィチーノのギリシア語の師であるヨハネス・アルギュロプロス死去。
 
*1487年頃 -  [[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]「[[ウィトルウィウス的人体図]]」。
 
*1488年 -  [[ドメニコ・ギルランダイオ|ギルランダイオ]]の工房へ[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]が入門する。
 
*1489年 -  [[キプロス王国]]の女王カタリーナが[[キプロス]]の支配権を[[ヴェネツィア]]に譲渡する(→1472年)。
 
*:カタリーナは女王の位を退いてヴェネツィアに帰国し、一市民に戻って1520年に死去。
 
*1489年 -  [[マルシリオ・フィチーノ|フィチーノ]]『[[三重の生について]]』。
 
*1489年 - パオロ・コルテージ『学識ある人々について』。
 
*1489年 - [[古代ローマ]]美術の秀作「ベルヴェデーレの[[アポロン]]」が発掘される。
 
*1489年 - 【フランドル】[[ハンス・メムリンク]]「聖ウルスラの聖遺物箱」([[ブリュージュ]]のメムリンク美術館)。
 
*1490年 -  [[マントヴァ公]][[フランチェスコ2世・ゴンザーガ]]と[[フェラーラ公]]女[[イザベラ・デステ]]の結婚。
 
*1490年 -  [[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]「[[白貂を抱く貴婦人]]」完成、モデルは[[チェチーリア・ガッレラーニ]]。
 
*1490年 -  [[ドメニコ・ギルランダイオ|ギルランダイオ]]による[[サンタ・マリア・ノヴェッラ教会]]壁画「聖母マリアの生涯」完成(1486年 - )。
 
*:この壁画の「神殿のザカリアス」に[[マルシリオ・フィチーノ|フィチーノ]]、[[クリストフォロ・ランディーノ|ランディーノ]]、[[アンジェロ・ポリツィアーノ|ポリツィアーノ]]、デメトリオス・カルココンデュレスの肖像画がある。
 
*1490年 - 【ハンガリー】ハンガリー国王[[マーチャーシュ1世]]死去。
 
*:アルプス以北で最大と言われた蔵書・[[コルヴィナ文庫]]を残す。
 
*1490年頃 - 【フランドル】[[ヘールトヘン・トット・シント・ヤンス]]「荒野の[[洗礼者ヨハネ]]」([[絵画館 (ベルリン)|ベルリン絵画館]]蔵)。
 
*1491年 - [[ミラノ公国]]の[[ルドヴィーコ・スフォルツァ|ルドヴィーコ・イル・モーロ]]([[バーリ]]公)と[[フェラーラ公]]女[[ベアトリーチェ・デステ]]の結婚。
 
*1491年 - ベルナルディーノ・カイミにより[[ピエモンテ]]最古の[[サクロ・モンテ]]である[[ヴァラッロのサクロ・モンテ]]が造営される。
 
*1492年 - フィレンツェの黄金時代を築いた[[ロレンツォ・デ・メディチ]]死去。
 
*:後継者はその息子[[ピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ]]、通称は「不運なるピエロ(ピエロ・ロ・スフォルトゥナート)」。
 
*1492年 - 教皇[[インノケンティウス8世 (ローマ教皇)|インノケンティウス8世]]死去、[[ボルジア家]]出身の教皇[[アレクサンデル6世 (ローマ教皇)|アレクサンデル6世]]が即位( - 1503年)。
 
*1492年 -  [[マルシリオ・フィチーノ|フィチーノ]]、[[新プラトン主義]]哲学者[[プロティノス]]の著作『エネアデス』の翻訳を出版。
 
*1492年 - 【スペイン】[[グラナダ]]が陥落し、最後のイスラム国家[[ナスル朝]]滅亡、[[レコンキスタ]]の終結。
 
*1492年 - 【スペイン】[[ジェノヴァ]]人[[クリストファー・コロンブス|コロンブス]]の[[アメリカ大陸]]発見。
 
*1492年 - 【スペイン】キリスト教への改宗を拒否した[[ユダヤ人]]がスペインから追放される。
 
*:多数のユダヤ人が地中海周辺諸都市に亡命(→1535年)、また[[コンベルソ|改宗して残留したユダヤ人]]は[[マラーノ]]と呼ばれ蔑視された。
 
*1493年 - 教皇[[アレクサンデル6世 (ローマ教皇)|アレクサンデル6世]]により[[教皇子午線]]が決定される。
 
*1493年 - 【ドイツ】ハルトマン・シェーデル『[[ニュルンベルク年代記]]』。
 
*1494年 - [[ナポリ王国|ナポリ王]][[フェルディナンド1世 (ナポリ王)|フェルディナンド1世]]死去、息子の[[アルフォンソ2世 (ナポリ王)|アルフォンソ2世]]が後継の国王となるが、王位継承にフランスが干渉。
 
*1494年 - フランス王[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]の[[ナポリ王国]]侵攻(→1495年)。
 
*:翌年までには首都[[ナポリ]]を占領。ローディの和約以後、安定していたイタリア五大国体制は崩壊(1454年 - )。
 
*1494年 - フィレンツェからメディチ家を追放、メディチ家の財産は没収され、メディチ銀行は破綻。
 
*1494年 - [[アンジェロ・ポリツィアーノ|ポリツィアーノ]]死去、[[ピコ・デラ・ミランドラ]]死去。
 
*1494年 - [[ジロラモ・サヴォナローラ|サヴォナローラ]]によるフィレンツェの神政政治( - 1498年)。
 
*1494年 - [[ミラノ公]][[ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァ|ジャン・ガレアッツォ]]死去(毒殺説あり)、叔父[[ルドヴィーコ・スフォルツァ|ルドヴィーコ・イル・モーロ]]が公位を継承。
 
*1494年 - [[ルカ・パチョーリ]]『算術、幾何、比および比例に関する全集』で[[複式簿記]]を学術的に説明。
 
*1494年 - [[アルドゥス・マヌティウス]]がアルド印刷所を設け、ヴェネツィアがヨーロッパの出版産業の中心地となる。
 
*1494年 - [[アルブレヒト・デューラー|デューラー]]の第1回イタリア旅行( - 1495年)。
 
*1494年 - 【ドイツ】セバスチャン・ブラント『[[阿呆船]]』。
 
*1495年 - フォルノーヴォの戦いで、フランス王シャルル8世はヴェネツィア・ミラノ連合軍に敗北。
 
*:シャルル8世は1年にも満たない支配でナポリを放棄、復活したアラゴン王家の[[フェルディナンド2世 (ナポリ王)|フェルディナンド2世]]がナポリ王に即位。
 
*1495年 - [[カプア]]にて[[オスマン帝国]]の帝位請求者[[ジェム・スルタン]]死去、[[ボルジア家]]による毒殺か(→1482年)。
 
*1495年 - [[マッテーオ・マリーア・ボイアルド|ボイアルド]]『[[恋するオルランド]]』出版。
 
*1495年 - [[ヴィットーレ・カルパッチョ]]連作「[[聖ウルスラ]]物語」完成(1490年 - )。
 
*1495年 - [[ヤコポ・デ・バルバリ]]「[[ルカ・パチョーリ]]の肖像」(カポディモンテ美術館蔵)。
 
*1495年頃 - [[サンドロ・ボッティチェッリ|ボッティチェッリ]]「[[アペレス]]の誹謗(ラ・カルンニア)」。
 
*1496年 - [[ジェンティーレ・ベリーニ]]「[[サン・マルコ広場]]での[[聖十字架]]の行列」。
 
*1497年 - [[ピエトロ・ペルジーノ|ペルジーノ]]の工房へ[[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]が入門する。
 
*1497年 - [[ジロラモ・サヴォナローラ|サヴォナローラ]]の「[[虚栄の焼却]]」、教皇[[アレクサンデル6世 (ローマ教皇)|アレクサンデル6世]]が[[ジロラモ・サヴォナローラ|サヴォナローラ]]を破門。
 
*1497年 - 【イングランド】[[ジェノヴァ]]人[[ジョン・カボット|カボット父]][[セバスチャン・カボット|子]]が[[カナダ]]に到達し、[[ニューファンドランド島]]や[[ラブラドル半島]]を発見。
 
*1498年 - [[ジロラモ・サヴォナローラ|サヴォナローラ]]が[[シニョリーア広場]]で火刑に処される(→1494年、→1497年)。
 
*1498年 - [[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]「[[最後の晩餐 (レオナルド)|最後の晩餐]]」([[レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院|ミラノ・ドミニコ会修道院]])。
 
*1498年 - [[ピントゥリッキオ]]、[[バチカン宮殿]]「[[ボルジアの間]]」壁画を完成させる(1493年 - )。
 
*1498年 - [[ヴィテルボのアンニウス]]『古代論諸説解説』出版(後に『古代雑篇』として再編集)。
 
*1498年 - 【ポルトガル】[[ヴァスコ・ダ・ガマ]]艦隊、[[インド]]のカリカット([[コーリコード]])に到着。
 
*:東回りインド航路の開通に伴い、[[香辛料]]などの東方貿易を独占していたイタリア諸都市は緩やかに没落し始める
 
*1499年 - フランス王[[ルイ12世 (フランス王)|ルイ12世]]の[[ミラノ公国]]侵攻、[[スフォルツァ家]]の[[ルドヴィーコ・スフォルツァ|ルドヴィーコ・イル・モーロ]]を幽閉しミラノ占領。
 
*1499年 - フランスの支援を受けヴァレンティーノ公となった[[チェーザレ・ボルジア]]が[[ロマーニャ]]の統一に乗り出す。
 
*1499年 - [[マルシリオ・フィチーノ|フィチーノ]]死去。
 
*1499年 - 匿名作家(フランチェスコ・コロンナ?)による『[[ヒュプネロトマキア・ポリフィリ]]』がヴェネツィアで出版される。
 
*:なおグーテンベルク活版印刷の発明から15世紀末までに出された初期印刷本[[インキュナブラ]]の代表作でもある。
 
*1499年 - 【スペイン】フェルナンド・デ・ロハス『[[ラ・セレスティーナ]]』出版。
 
*1499年頃 - 【ドイツ】[[ヨハンネス・トリテミウス]]『ステガノグラフィア』執筆。
 
 
 
== 1500年 - 1599年 ==
 
1500年代([[チンクエチェント]] Cinquecento):[[ローマ]]を中心にルネサンス文化が最盛期を迎えるが、間もなく宗教改革が起こり、1527年のローマ略奪により荒廃。文化の中心はフランスやヴェネツィアなどに移り、[[マニエリスム]]と呼ばれる傾向が表れる。宗教改革への反動と外国の侵略によりイタリアのルネサンス文化は衰退に向かう。
 
*1500年 - [[チェーザレ・ボルジア]]軍が[[フォルリ]]を制圧、女傑[[カテリーナ・スフォルツァ]]が軍門に下る。
 
*:[[ロレンツォ・ディ・クレディ]]による「カテリーナ・スフォルツァの肖像」は修道院に隠棲したこの時期から晩年のもの( - 1506年)。
 
*1500年 - [[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]による「[[ピエタ (ミケランジェロ)|サン・ピエトロのピエタ]]」完成(1498年 - )。
 
*1501年 - [[エステ家]]のアルフォンソ(後の[[フェラーラ公]][[アルフォンソ1世・デステ|アルフォンソ1世]])と[[ルクレツィア・ボルジア]]の結婚。
 
*1501年 - [[アルドゥス・マヌティウス]]の印刷工房で初めて[[イタリック体]]の活字が用いられる(→1494年)。
 
*1501年頃 - [[ジョヴァンニ・ベリーニ]]「ヴェネツィア元首[[レオナルド・ロレダン]]像」。
 
*1502年 - メディチ家不在の[[フィレンツェ]]で[[ピエロ・ソデリーニ]]が終身[[ゴンファロニエーレ|統領]]に選出される( - 1512年)。
 
*1502年 - フィレンツェ第二書記局長[[ニッコロ・マキャヴェッリ|マキャヴェッリ]]が使節として[[チェーザレ・ボルジア]]と和平交渉を行う。
 
*1502年 - [[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]が建築技術監督兼軍事顧問として[[チェーザレ・ボルジア]]に近侍する( - 1503年)
 
*1502年 - [[チェーザレ・ボルジア]]に対するマジョーネの乱が起こる。
 
*:チェーザレは窮地に立たされるが形勢を逆転し、首謀者[[ヴィテロッツォ・ヴィテッリ]]を処刑する。
 
*1502年 - [[パルマ大学]]創建。
 
*1503年 - 教皇[[アレクサンデル6世 (ローマ教皇)|アレクサンデル6世]]死去、その息子[[チェーザレ・ボルジア]]は捕縛される([[ボルジア家]]の没落)。
 
*:後継の[[ピウス3世 (ローマ教皇)|ピウス3世]]が短期間で亡くなると、[[デッラ・ローヴェレ家]]出身の教皇[[ユリウス2世 (ローマ教皇)|ユリウス2世]]が即位。
 
*1503年 - チェリニョーラの戦いで、スペインの[[ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバ|コルドバ]]将軍がナポリを征服(→1504年)。
 
*1503年 - [[ガリリャーノ川|ガリリャーノ]]の戦いで、スペイン軍とフランス軍が激突。
 
*:追放されていた[[ピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ]]が戦闘で逃走中にガリリャーノ川で溺死。
 
*:メディチ家当主は弟のジョヴァンニ[[枢機卿]](後のローマ教皇[[レオ10世_(ローマ教皇)|レオ10世]])に継承される。
 
*1503年 - [[アメリゴ・ヴェスプッチ]]『新大陸』出版、コロンブスが到達した大陸を[[インド]]ではなく「[[新大陸]]」と認定。
 
*1503年 - [[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]が[[ヴェッキオ宮殿|フィレンツェ政庁舎]]の大会議室壁画「[[アンギアーリの戦い (絵画)|アンギアーリの戦い]]」に着手(→1440年)。
 
*:レオナルドの壁画の向かいには競作として[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]の「カッシナの戦い」も依頼された(→1364年)。
 
*:両作とも1505年ころまでに完成に至らず途中放棄され、1555年頃から始まった[[ジョルジョ・ヴァザーリ|ヴァザーリ]]の改装によって失われる。
 
*1503年 - マリオット・アルベルティネッリ「聖母のエリザベト訪問」。
 
*1503年頃 - 【フランドル】[[ヒエロニムス・ボス]]「快楽の園」。
 
*1504年 - スペインが派遣した総督([[副王]])によるナポリ支配が始まる( - 1700年)。
 
*1504年 - [[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]、「[[ダビデ像 (ミケランジェロ)|ダビデ像]]」(フィレンツェ市庁舎ヴェッキオ宮殿前)。
 
*1504年 - ヤコポ・デ・バルバリ「鉄手袋と石弓の矢のある死んだ山鶫」([[アルテ・ピナコテーク]]蔵)。
 
*:この画は西ヨーロッパ最古の[[静物画]]であり、[[トロンプ・ルイユ]]の仕掛けがされている。
 
*1504年 - [[ピエトロ・クリニート]]『栄えある学識について』出版。
 
*1504年 - サンナザーロ『アルカディア』出版。
 
*1504年 - [[ポンポーニョ・ガウリコ]]『彫刻論』。
 
*1504年 - [[ボローニャ大学]]教授で[[コペルニクス]]の師でもあった[[ドメニコ・マリア・ノヴァーラ]]が死去。
 
*1504年頃 - [[フラ・バルトロメオ]]「聖[[ベルナルドゥス]]の幻視」([[ウフィツィ美術館]]蔵)。
 
*1504年頃 - [[ルカ・シニョレッリ]]、[[オルヴィエート]]大聖堂壁画「[[最後の審判]]」完成(1500年 - )。
 
*1505年 - 教皇[[ユリウス2世 (ローマ教皇)|ユリウス2世]]が[[サン・ピエトロ大聖堂]]の改築を決定、建築主任となったのは[[ドナト・ブラマンテ]]。
 
*1505年 - [[アルブレヒト・デューラー|デューラー]]の第2回イタリア旅行( - 1507年)。
 
*1505年 - 【ドイツ】[[ティルマン・リーメンシュナイダー|リーメンシュナイダー]]による[[ローテンブルク・オプ・デア・タウバー|ローテンブルク]]聖ヤコブ教会の「聖血の祭壇」完成(1499年 - )。
 
*1506年 - ベンティヴォーリョ家が失脚し、[[ボローニャ]]は[[教皇領]]に編入される。
 
*1506年 - 教皇[[ユリウス2世 (ローマ教皇)|ユリウス2世]]が近衛兵として初めて[[スイス傭兵]]を採用(依頼は1505年)。
 
*1506年 - [[ネロ]]帝の[[ドムス・アウレア|黄金宮殿跡]]([[トラヤヌス浴場]])付近の地中から[[ラオコーン像]]を発見。
 
*1506年 - レオナルド・ダ・ヴィンチ「[[岩窟の聖母]]」([[ナショナルギャラリー (ロンドン)|ロンドン・ナショナルギャラリー]]蔵)完成(→1486年)。
 
*1506年 - [[デジデリウス・エラスムス|エラスムス]]、[[トリノ大学]]にて[[神学]]博士号取得。
 
*1507年 - [[ジョルジョーネ]]「嵐(テンペスト)」完成(1505年頃 - )。
 
*1507年 - 【ナバラ】[[チェーザレ・ボルジア]]が、ヴィアナにて戦死(→1503年)。
 
*:イタリアを追われたチェーザレは義兄のナバラ王[[フアン3世 (ナバラ王)|ファン3世]]に庇護され、スペインとの戦争に参陣していた。
 
*1507年頃 - [[ミケランジェロ]]「[[聖家族 (ミケランジェロ)|ドーニ家の聖家族(トンド・ドーニ)]]」。
 
*1508年 - [[カンブレー同盟戦争]]( - 1516年)。
 
*1508年 - ウルビーノ公[[グイドバルド・ダ・モンテフェルトロ|グイドバルド]]が死去し、モンテフェルトロ家の正嫡は断絶。
 
*:後継はグイドバルドの姉ジョヴァンナの子で教皇[[ユリウス2世 (ローマ教皇)|ユリウス2世]]の甥である、[[デッラ・ローヴェレ家]]の[[フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ|フランチェスコ・マリーア]]。
 
*1508年 - 詩人エルコレ・ストロッツィが[[フェラーラ]]で刺殺される。
 
*1508年 - [[ヤン・ホッサールト]](マビューズ)が[[ユトレヒト]]司教フィリップ・ドゥ・ブルゴーニュに随行しイタリアを訪問(-1509年)。
 
*:ホッサールトはイタリア美術の影響を大きく受けたアルプス以北の画家たち「ロマニスト」の先駆けとなる。
 
*1509年 - [[アニャデッロ]]の戦いで、フランス・アラゴンと結んだ教皇軍がヴェネツィア軍を破る。
 
*:ヴェネツィアは[[ヴェローナ]]・[[ヴィチェンツァ]]・[[パドヴァ]]を奪われ、北東イタリアの覇権を失う。
 
*1509年 - [[ルカ・パチョーリ]]『神聖比例論』。
 
*1510年 - [[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]、「[[アテナイの学堂|アテネの学堂]]」を含む教皇宮殿の壁画を完成。
 
*1510年 - [[ボッティチェリ]]死去、最晩年の作品は[[ダンテ]]『[[神曲]]』写本の挿絵。
 
*1510年 - [[ジョルジョーネ]]死去、遺作に「[[眠れるヴィーナス]]」「田園の合奏」(以後[[ティツィアーノ]]が補筆)ほか。
 
*1510年 - ドイツ人の[[聖アウグスチノ修道会]]士[[マルティン・ルター]]がローマを訪問、ここで教会の世俗化に不満を持つ(→1517年)。
 
*1510年頃 - [[バルトロメオ・ヴェネト]]「[[フローラ]]」(一説に[[ルクレツィア・ボルジア]]の肖像画という)(1507年頃 - )。
 
*1511年 - 教皇[[ユリウス2世 (ローマ教皇)|ユリウス2世]]を中心に[[神聖同盟 (16世紀)|神聖同盟]]を結成、アラゴン・ヴェネツィア・イングランド・スイスが参加しフランスに対抗。
 
*1511年 - [[古代ローマ]]の建築家[[ウィトルウィウス]]『建築について』[[ラテン語]]版(フラ・ジョコンド版)がヴェネツィアで出版される。
 
*1511年 - 【ドイツ・フランス】[[デジデリウス・エラスムス|エラスムス]]の『[[痴愚神礼讃]]』が[[ストラスブール]]で出版される。
 
*1511年 - 【ドイツ】この頃までに民衆本『[[ティル・オイレンシュピーゲル]]の愉快ないたずら』出版か。
 
*1512年 - [[第5ラテラン公会議]]開催される( - 1517年)。
 
*:教皇[[ユリウス2世 (ローマ教皇)|ユリウス2世]]による開催であったが、公会議の終結を見ずにユリウス2世は翌1513年死去。
 
*1512年 - [[ラヴェンナの戦い]]。
 
*1512年 - スペイン軍の援助でメディチ家([[レオ10世 (ローマ教皇)|ジョヴァンニ枢機卿]])がフィレンツェに復帰、ソデリーニ政権崩壊する(1502年 - )。
 
*1512年 - ミケランジェロ、[[システィーナ礼拝堂]]の[[システィーナ礼拝堂天井画|天井画]]「天地創造」を完成
 
*1512年 - [[ラファエロ]]「教皇[[ユリウス2世 (ローマ教皇)|ユリウス2世]]の肖像」([[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ロンドン・ナショナル・ギャラリー]]蔵)完成(1511年-)
 
*1513年 - メディチ家出身の教皇[[レオ10世 (ローマ教皇)|レオ10世]](ジョヴァンニ枢機卿)が即位。
 
*:メディチ家はローマ(ロレンツォの二男・教皇レオ10世)とフィレンツェ(ロレンツォの三男[[ジュリアーノ・デ・メディチ (ヌムール公)|ジュリアーノ]])の双方を支配。
 
*1513年 - {{仮リンク|ノヴァーラの戦い (1513年)|fr|Bataille de Novare (1513)|de|Schlacht bei Novara (1513)|en|Battle of Novara (1513)|label=ノヴァーラの戦い}}。
 
*1513年 - [[ニッコロ・マキャヴェッリ|マキャヴェッリ]]『[[君主論]]』執筆(1517年には君主論と対になる『[[政略論|リウィウス論]]』を執筆)。
 
*1513年頃 - [[ピエロ・ディ・コジモ]]「[[アンドロメダ]]を救う[[ペルセウス]]」。
 
*1514年 - [[ドナト・ブラマンテ]]死去、後継の[[サン・ピエトロ大聖堂]]建築主任となったのは[[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]。
 
*1514年 - 【スペイン】枢機卿[[ヒメネス・デ・シスネロス]]らによる多言語対訳[[新約聖書]]の完成。
 
*1514年 - 【ドイツ】[[アルブレヒト・デューラー|デューラー]]銅版画「[[メランコリア I]]」。
 
*1514年 - 【フランドル】[[クエンティン・マサイス]]「両替商とその妻」。
 
*1515年 - マリニャーノの戦いで、ミラノはフランスに敗北。
 
*:ミラノ公[[マッシミリアーノ・スフォルツァ]]はフランス国王[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]に支配権を譲渡。
 
*1515年 - [[ジュリアーノ・デ・メディチ (ヌムール公)|ジュリアーノ・デ・メディチ]]と[[サヴォイア家]]の公女フィリベルタの結婚。
 
*:これによりジュリアーノはフランス王[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]からヌムール公の称号を授与される。
 
*1515年 - [[パヴィア大学]]で[[ハインリヒ・コルネリウス・アグリッパ|アグリッパ]]が神学を講義。
 
*1515年 - 【ポルトガル】国王[[マヌエル1世 (ポルトガル王)|マヌエル1世]]に[[インド]]総督[[アフォンソ・デ・アルブケルケ]]から[[犀]]が贈られる。
 
*:教皇[[レオ10世 (ローマ教皇)|レオ10世]]にも回される予定だったが船が座礁して頓挫、[[アルブレヒト・デューラー|デューラー]]の木版画「[[犀 (木版画)|犀]]」のモデルでもある。
 
*1515年 - 【ドイツ】[[マティアス・グリューネヴァルト|グリューネヴァルト]]「イーゼンハイム祭壇画」完成(1511年 - )。
 
*1516年 - [[ボローニャ]]の[[コンコルダート|政教条約]](→1438年)。
 
*1516年 - [[ジュリアーノ・デ・メディチ (ヌムール公)|ヌムール公ジュリアーノ]]が死去、[[メディチ家]]当主は甥の[[ロレンツォ2世・デ・メディチ|ロレンツォ2世]]が継承。
 
*1516年 - [[ウルビーノ戦争]]。
 
*:メディチ家当主ロレンツォ2世は教皇[[レオ10世 (ローマ教皇)|レオ10世]]からウルビーノ公に任命される。
 
*:[[デッラ・ローヴェレ家]]の[[フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ|フランチェスコ・マリーア1世]]がこれに反対して戦うも追放され、公位を失う。
 
*1516年 - [[ルドヴィーコ・アリオスト]]『狂えるオルランド』出版。
 
*1516年 - [[パドヴァ大学]]教授のピエトロ・ポンポナッツィ『霊魂不滅論』出版。
 
*:パドヴァ学派の[[アヴェロエス]]主義的[[アリストテレス]]解釈から霊魂の可死性について言及する。
 
*1516年 - [[ヴェネツィア]]に[[ゲットー]]が設置される([[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]『[[ヴェニスの商人]]』のモデル)。
 
*1516年 - [[ラファエロ]]がサンタ・マリア・デル・ポポロ教会のキージ家礼拝堂を完成させる(1513年 - )。
 
*:この礼拝堂は[[シエーナ|シエナ]]出身の銀行家アゴスティーノ・キージが依頼したもの。
 
*1516年 - 【イングランド】[[トマス・モア]]『[[ユートピア]]』出版。
 
*1517年 - テオーフィロ・フォレンゴ『バルドゥス』出版。
 
*1517年 - [[アンドレア・デル・サルト]]「アルピエの聖母」。
 
*1517年 - 【ドイツ】[[マルティン・ルター]]の[[宗教改革]]始まる。
 
*:ルターは[[ヴィッテンベルク大学]]教授で、同大学に[[贖宥状]]の是非について「[[95ヶ条の論題]]」を貼り出した。
 
*1517年 - 【ドイツ】[[ウルリヒ・フォン・フッテン]]、[[桂冠詩人]]になる。
 
*1517年 - 【ドイツ】ヨハネス・ロイヒリン『[[カバラ]]の術について』。
 
*1517年 - 【ドイツ】[[ハンス・バルドゥング|ハンス・バルドゥング・グリーン]]「死と乙女」。
 
*1518年 - [[ミラノ公国|ミラノ]]公女[[ボナ・スフォルツァ]]と[[ポーランド王国|ポーランド]]王[[ジグムント1世]]の結婚。
 
*1518年 - [[ニッコロ・マキャヴェッリ|マキャヴェッリ]]喜劇『[[マンドラゴラ]]』。
 
*1519年 - [[ロレンツォ2世・デ・メディチ|ウルビーノ公ロレンツォ2世]]が死去。
 
*:[[メディチ家]]当主はロレンツォ2世の父の従兄弟であるジューリオ枢機卿(後の教皇[[クレメンス7世 (ローマ教皇)|クレメンス7世]])となる。
 
*1519年 - [[ラファエロ]]「教皇[[レオ10世 (ローマ教皇)|レオ10世]]と枢機卿たちの肖像」([[ウフィッツィ美術館]]蔵)完成(1518年-)
 
*1519年 - [[フランチャビージオ]]によるサルツォ修道院フレスコ画「洗礼者ヨハネの砂漠への旅立ち」完成(1518年 - )。
 
*1519年 - 【ドイツ】[[アルブレヒト・デューラー|デューラー]]「神聖ローマ皇帝[[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]]の肖像」([[ウィーン]][[美術史美術館]]蔵)。
 
*1519年 - 【ドイツ】神聖ローマ皇帝[[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]]死去。
 
*:後継の[[神聖ローマ皇帝]]にマクシミリアン1世の孫・スペイン王[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カルロス1世]](カール5世)を選出。
 
*:[[フッガー家]]の資金によりカール5世は選挙に勝利、その一方フランス国王[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]との対立は激化(→1521年)。
 
*1519年 - 【スペイン】[[フェルディナンド・マゼラン|マゼラン]]の世界周航始まる。
 
*:マゼラン艦隊に同乗していたイタリア人[[アントニオ・ピガフェッタ]]はこの航海を全うし、詳細な記録を残す。
 
*1519年 - 【フランス】[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]死去、遺作は「[[モナ・リザ]]」「[[聖アンナと聖母子]]」「洗礼者聖ヨハネ」。
 
*:「モナリザ」はフランス国王[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]に買い上げられ、[[フォンテーヌブロー宮殿]]に飾られる。
 
*:物理学・力学・光学・建築学の分野にまたがる[[レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿]]も残され、以後各地に分蔵される。
 
*1520年 - 教皇[[レオ10世 (ローマ教皇)|レオ10世]]の回勅「エクスルゲ・ドミネ(主よ、お立ちください)」。
 
*:ルターはこの破門の威嚇を拒否(→1521年)。
 
*1520年 - [[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]死去、遺作は「[[キリストの変容]]」、未完成の部分は弟子[[ジュリオ・ロマーノ]]が補筆。
 
*:後継の[[サン・ピエトロ大聖堂]]建築主任となったのは[[アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョヴァネ|アントニオ・ダ・サンガッロ]]、[[バルダッサーレ・ペルッツィ]]がそれを補佐。
 
*:ラファエロの死とともに[[ヴェネツィア]]を除くイタリア美術は[[盛期ルネサンス]]様式から[[マニエリスム]]様式に漸次移行。
 
*1520年 - [[ガロファロ]]「キリストの昇天」(1510年 - )。
 
*1520年 - 【ドイツ】ルターが『ドイツ貴族に与える書』『[[教会のバビロニア捕囚|教会のバビロン捕囚]]』『[[キリスト者の自由]]』を執筆。
 
*1520年 - 【スウェーデン】[[ストックホルムの血浴]]事件。
 
*:これ以後[[グスタフ1世 (スウェーデン王)|グスタフ・ヴァーサ]]を首領とする対デンマーク独立戦争が始まる。
 
*1520年頃 - [[パルマ・イル・ヴェッキオ]]「ヴィオランテ」(ウィーン美術史美術館蔵)。
 
*1521年 - 教皇[[レオ10世 (ローマ教皇)|レオ10世]]の回勅「デチェト・ロマヌム・ポンティフィチェム(ローマ教皇として)」。
 
*:教皇側は正式にルターを破門に処す、西方教会の分裂が修復されないまま、レオ10世はこの年死去。
 
*1521年 - [[イタリア戦争]]始まる( - 1544年)。
 
*:[[ハプスブルク家]](オーストリア・スペイン)と[[ヴァロワ朝|ヴァロワ家]](フランス)とがイタリアを巡って争う。
 
*1521年 - [[ロッソ・フィオレンティーノ]]「十字架降架」(ヴォルテラ美術館蔵)。
 
*1521年 - 【ドイツ】ヤーコプ・フッガー出資による[[アウクスブルク]]の集合住宅[[フッガーライ]]が完成。
 
*1522年 - 教皇[[ハドリアヌス6世 (ローマ教皇)|ハドリアヌス6世]]が即位( - 1523年)。
 
*:この教皇は[[オランダ]]人で本名はアドリアン・フロリス、神聖ローマ皇帝[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]の家庭教師を務めていた。
 
*:この教皇によりフランドルからローマに招聘され教皇庁付き画家となり肖像画を描いたのが[[ヤン・ファン・スコーレル]]。
 
*1522年 - [[ロドス島]]攻防戦で、[[聖ヨハネ騎士団]]がオスマン帝国軍に敗北。
 
*:[[聖ヨハネ騎士団]]は[[シチリア島]]に退去し、1530年にはシチリアのスペイン総督が支配する[[マルタ島]]に移動([[マルタ騎士団]])。
 
*1523年 - [[メディチ家]]出身の教皇[[クレメンス7世 (ローマ教皇)|クレメンス7世]](ジューリオ枢機卿)が即位。
 
*:メディチ家当主は[[アレッサンドロ・デ・メディチ|アレッサンドロ]]([[ロレンツォ2世・デ・メディチ|ウルビーノ公ロレンツォ2世]]の庶子)と[[イッポーリト・デ・メディチ|イッポーリト]]([[ジュリアーノ・デ・メディチ (ヌムール公)|ヌムール公ジュリアーノ]]の庶子)。
 
*1523年 - [[ウルビーノ公国]]の都が[[ウルビーノ]]から[[ペーザロ]]へ遷る、以後ウルビーノは衰退する。
 
*1523年 - [[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ|ティツィアーノ]]「[[バッカスとアリアドネ]]」完成(1520年 - )。
 
*1523年 - 【スイス】[[フルドリッヒ・ツヴィングリ|ツヴィングリ]]の宗教改革が[[チューリッヒ]]で始まる。
 
*1523年 - 【フランス】[[ルフェーヴル・デタープル]]、[[新約聖書]]を[[フランス語]]に翻訳(1530年には[[旧約聖書]]も翻訳完成)。
 
*1523年 - 【ドイツ】[[ハンス・ザックス]]『ヴィッテンベルクの鶯(ナイチンゲール)』。
 
*1524年 - ジャンニ・カラファ(後の教皇[[パウルス4世 (ローマ教皇)|パウルス4世]])らによりテアティノ会(聖カエタノス修道会)が結成される。
 
*1524年 - [[パルミジャニーノ]]「[[凸面鏡]]の自画像」
 
*1524年 - マルカントニオ・ライモンディ版画「[[イ・モーディ]]」初版。
 
*1524年 - 【ドイツ】宗教改革急進派[[トマス・ミュンツァー]]を指導者に[[ドイツ農民戦争]]が起こる( - 1525年)。
 
*1524年 - 【スイス】[[バーゼル]]の[[エラスムス]]が[[マルティン・ルター|ルター]]に対抗し『[[自由意志論]]』を著す。
 
*:翌1525年にルターはこれに対抗し『[[奴隷意志論]]』を、翌々1526年にエラスムスが『反論』を発表して論争となる。
 
*1524年 - 【フランドル】[[ヨアヒム・パティニール]]「[[ステュクス川]]を渡る[[カローン|カロン]]」([[プラド美術館]]蔵)(1515年 - )。
 
*1524年頃 - [[ドッソ・ドッシ]]「ユピテルとメルクリウスと美徳(蝶を描く男)」(1522年 - )。
 
*1525年 - [[パヴィアの戦い]]でフランス王[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]が捕虜となり、[[マドリード]]に幽閉される。
 
*1525年 - ピエトロ・ベンボ『俗語論』出版、トスカーナ方言を標準語とすることを主張。
 
*1525年 - [[ソドマ]]「聖[[セバスティアヌス]]の殉教」。
 
*1525年頃 - 【フランス】ジャン・ド・グールモン「羊飼いの礼拝」。
 
*1526年 - [[マドリード条約 (1526年)|マドリード条約]]により、捕虜となっていたフランス王[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]が釈放される(→1525年)。
 
*:釈放されたフランソワ1世は条約を撤回し、教皇クレメンス7世・ミラノ・ヴェネツィア・イングランドとコニャック同盟を結ぶ。
 
*1526年 - 教皇[[クレメンス7世 (ローマ教皇)|クレメンス7世]]が皇帝[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]と同盟していた[[フェラーラ公]][[アルフォンソ1世・デステ|アルフォンソ1世]]を破門しローマに幽閉。
 
*1526年 - [[マントヴァ]]近郊での皇帝カール5世軍の攻撃により、教皇軍の[[ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ|黒隊長ジョバンニ]]が負傷して死去。
 
*1526年 - 【ドイツ】ドイツ農民戦争で農民側についた画家イェルク・ラートゲープが処刑される(→1524年)。
 
*1526年 - 【スペイン】フランシスコ・デ・ビトリアが[[サラマンカ大学]]の神学教授となる。
 
*:以後、ドミンゴ・デ・ソトやルイス・モリナや[[フランシスコ・スアレス]]に代表される近代[[スコラ学]]・サラマンカ学派の拠点となる。
 
*1526年頃 - [[セバスティアーノ・デル・ピオンボ]]「教皇[[クレメンス7世 (ローマ教皇)|クレメンス7世]]の肖像」。
 
*1527年 - 神聖ローマ帝国軍の攻撃でローマが壊滅([[ローマ略奪]])。
 
*:教皇[[クレメンス7世 (ローマ教皇)|クレメンス7世]]は[[サンタンジェロ城]]に逃げ込むが、皇帝[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]に屈服(→1530年)。
 
*:ローマ市街はドイツ人傭兵([[ランツクネヒト]])が蹂躙するところとなり、事実上ローマでの[[盛期ルネサンス]]は終了する。
 
*:この知らせを受けフィレンツェでも反メディチ派が蜂起し、メディチ家を再び追放、ニッコロ・カッポーニが統領となる。
 
*1527年 - [[ニッコロ・マキャヴェッリ|マキャヴェッリ]]死去。
 
*1527年 - 【フランドル】ヤン・ホッサールト(マビューズ)「[[ダナエー|ダナエ]]」([[アルテ・ピナコテーク]]蔵)。
 
*1527年頃 - [[ロレンツォ・ロット]]「[[受胎告知]]」(レカナーティ市立美術館蔵)。
 
*1528年 - [[アンドレア・ドーリア]]が神聖ローマ帝国の援助を受け、[[ジェノヴァ共和国]]を復興させる。
 
*1528年 - [[バルダサーレ・カスティリオーネ|カスティリオーネ]]『宮廷人』出版。
 
*1528年 - マテオ・ダ・バシオらが[[フランシスコ会]]から分派した[[カプチン・フランシスコ修道会|カプチン会]]が修道会として認可される。
 
*1528年 - [[ヤコポ・ダ・ポントルモ|ポントルモ]]、サンタ・フェリチタ聖堂「十字架降架」完成させる。
 
*1528年 - 【ドイツ】[[ルーカス・クラナッハ]]「マルティン・ルターの肖像」。
 
*1529年 - [[貴婦人の和約]]によりイタリア戦争休止。
 
*:神聖ローマ側はカール5世叔母[[マルグリット・ドートリッシュ|マルガレーテ・フォン・エスターライヒ]]、フランス側はフランソワ1世母[[ルイーズ・ド・サヴォワ]]。
 
*1529年 - 【オーストリア】[[第一次ウィーン包囲]]。
 
*1529年 - 【ドイツ】[[アルブレヒト・アルトドルファー]]「[[アレクサンドロス大王]]の戦い」。
 
*1530年 - [[ボローニャ]]で教皇[[クレメンス7世 (ローマ教皇)|クレメンス7世]]が皇帝[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]に[[戴冠式]]を行う。
 
*1530年 - フィレンツェ攻防戦にて、フィレンツェが神聖ローマ帝国軍に降伏。
 
*:ニッコロ・カッポーニ、フランチェスコ・カルドゥッチら指導者は処刑され、メディチ家復帰の道が開かれる(→1532年)。
 
*1530年 - [[マントヴァ公国|マントヴァ]]が侯爵領から公爵領に昇格し、[[フェデリーコ2世・ゴンザーガ|フェデリーコ2世]]がマントヴァ公となる。
 
*:[[コレッジョ]]が[[マントヴァ公]][[フェデリーコ2世・ゴンザーガ|フェデリーコ2世]]の依頼で「神々の愛」連作を描き始める。
 
*1530年 - [[ジローラモ・フラカストロ|フラカストロ]]『[[梅毒]]あるいはフランス病』出版。
 
*1530年 - 【ドイツ】[[フィリップ・メランヒトン|メランヒトン]]「[[アウクスブルク信仰告白]]」。
 
*1530年 - 【フランス】国王[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]の命で[[コレージュ・ド・フランス|コレージュ・ド・ロワイヤル(王立教授団、後のコレージュ・ド・フランス)]]を設置。
 
*1530年 - 【フランス】[[ロッソ・フィオレンティーノ]]が国王[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]に招かれる。
 
*:ロッソに続き[[フランチェスコ・プリマティッチオ]]が1532年に、[[ニコロ・デッラバーテ]]が1552年に宮廷に招かれる。
 
*:ロッソを筆頭とするこれらイタリア人芸術家の招聘により、宮廷を中心に[[フォンテーヌブロー派]]が形成される。
 
*1530年頃 - ルイージ・ダ・ボルト『二人の高貴な恋人に関する最近発見された話』出版。
 
*:この[[ヴェローナ]]を舞台とした筋書きはイングランドの劇作家[[シェークスピア]]の『[[ロミオとジュリエット]]』の原型となる。
 
*1531年 - 最初の[[エンブレム・ブック]]である[[アンドレーア・アルチャート]]の『[[エンブレマタ]]』(無許可版)出版。
 
*1531年 - [[ベルナルディーノ・ルイーニ]]「洗礼者聖ヨハネの首を持つサロメ」(1527年 - )。
 
*1532年 - メディチ家の[[アレッサンドロ・デ・メディチ|アレッサンドロ]]を君主とする[[フィレンツェ公国]]成立(フィレンツェ共和国の終焉)。
 
*1532年 - ミケランジェロが[[メディチ家礼拝堂]]を未完のまま放棄し(1520年 - )、フィレンツェからローマに移住する。
 
*1532年 - ポルデノーネ「聖ロレンツォ・ジュスティニアーニと諸聖人」。
 
*1532年頃 - [[ジローラモ・ダ・カルピ]]「[[イッポーリト・デ・メディチ]]枢機卿と[[モンシニョール]]・マリオ・ブラッチの肖像」。
 
*1532年頃 - 【フランス】[[フランソワ・ラブレー|ラブレー]]『[[ガルガンチュワとパンタグリュエル]]』出版開始( - 1564年)。
 
*1533年 - 教皇[[クレメンス7世 (ローマ教皇)|クレメンス7世]]による[[イングランド]]国王[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]の破門。
 
*:ヘンリー8世は翌1534年に[[国王至上法|国王至上法(首長令)]]を発布して、自ら[[イングランド国教会]]の長となる
 
*:[[カトリック教会]]からの離脱には[[トマス・モア]]や[[ジョン・フィッシャー]]らが最後まで反対し、両者は1535年に斬首刑となる
 
*1533年 - [[カトリーヌ・ド・メディシス|カテリーナ・デ・メディチ(カトリーヌ・ド・メディシス)]]とフランス王子アンリ(後の[[アンリ2世 (フランス王)|アンリ2世]])の結婚。
 
*:この婚礼により[[イタリア料理]]の新奇な食材・調理法や食事作法が伝えられ[[フランス料理]]の洗練と発展が促される。
 
*1533年 - [[モンフェッラート侯]]のパレオロギ家が断絶。
 
*:パレオロギ家出身の妻を持つ[[マントヴァ公]][[フェデリーコ2世・ゴンザーガ]]が1536年に侯位を継承する。
 
*1533年 - 【イングランド】[[ハンス・ホルバイン]]「大使たち」。
 
*1534年 - 教皇[[クレメンス7世 (ローマ教皇)|クレメンス7世]]死去、[[ファルネーゼ家]]出身の教皇[[パウルス3世 (ローマ教皇)|パウルス3世]]即位。
 
*1534年 - [[ジュリオ・ロマーノ]]により[[マントヴァ]]のテ宮殿が完成(1526年 - )。
 
*1534年 - バッチョ・バンディネッリ「[[ヘーラクレース|ヘラクレス]]と[[カークス|カクス]]」。
 
*1534年 - 【ドイツ】[[ミュンスター]]市が[[再洗礼派]]信者[[ヤン・ファン・ライデン]]らに占拠され、混乱状態に陥る([[ミュンスターの反乱]])。
 
*1534年 - 【フランス】[[イグナチオ・デ・ロヨラ]]らにより[[イエズス会]]が結成される:「モンマルトルの誓い」(正式認可は1540年)。
 
*1535年 - [[ミラノ公]]フランチェスコ・マリーア・スフォルツァ死去。
 
*:[[ミラノ公国]]は[[神聖ローマ帝国]]([[ハプスブルク家]])に接収され、[[スフォルツァ家]]の支配は完全に終了。
 
*1535年 - [[パウルス3世 (ローマ教皇)|パウルス3世]]がガスパロ・コンタリーニを[[枢機卿]]に任命。
 
*:コンタリーニは、[[レジナルド・ポール]]やジャコポ・サドレトらとともにカトリック改革派グループ「スピリトゥアリ」の一人。
 
*1535年 - 亡命[[ユダヤ人]][[レオーネ・エブレオ]]の遺稿から『愛の対話』出版(死去は1523年頃)。
 
*1535年 - [[ドメニコ・ベッカフーミ]]「キリストの黄泉下り」([[シエナ絵画館]]蔵) 。
 
*1535年 - [[ジョヴァンニ・バッティスタ・コンファロニエリ]]『ワインの性質、およびその滋養と薬効について』。
 
*1536年 - [[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ|ティツィアーノ]]「[[ウルビーノのヴィーナス]]」。
 
*1536年 - 【スイス】[[ジュネーヴ]]で[[ジャン・カルヴァン|カルヴァン]]の[[宗教改革]]始まる。
 
*:同じくこの年、カルヴァンは[[バーゼル]]で『[[キリスト教綱要]]』(初版ラテン語版)を出版(1559年に最終版)。
 
*1536年 - 【イングランド】[[聖書]]を[[ギリシャ語]]・[[ヘブライ語]]原典から初めて英訳した[[ウィリアム・ティンダル]]が焚刑に処される。
 
*1536年 - 【ドイツ】[[パラケルスス]]が『大外科学』出版。
 
*1537年 - [[フィレンツェ公]][[アレッサンドロ・デ・メディチ|アレッサンドロ]]が[[メディチ家]]傍系の[[ロレンツィーノ・デ・メディチ|ロレンツィーノ・デ・メディチ(ロレンザッチョ)]]に暗殺される。
 
*:メディチ家兄脈は断絶、メディチ家弟脈の流れで[[ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ|黒隊長ジョバンニ]]の息子が[[フィレンツェ公]][[コジモ1世]]として公位継承。
 
*:ロレンツィーノと親しかった音楽家[[ジャック・アルカデルト|ヤコブ・アルカデルト]]は楽譜を抱えフィレンツェからヴェネツィアに逃亡。
 
*1537年 - [[イエズス会]]士でロヨラの盟友でもある[[ピエール・ファーヴル]]が[[ローマ大学]]教授となる。
 
*1537年 - [[セバスティアーノ・セルリオ]]『建築書』第4巻(全7巻の構想の最初の巻)出版。
 
*:この評判によりフランス王[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]に招聘され、[[フォンテーヌブロー宮殿]]の建築設計を担当。
 
*1538年 - [[プレヴェザの海戦]]にて、教皇・スペイン・ヴェネツィアの連合海軍が[[オスマン帝国]]海軍に敗北。
 
*1539年 - [[フィレンツェ公]][[コジモ1世]]と[[エレオノーラ・ディ・トレド]]の結婚。
 
*1539年 - 人文主義者ピエトロ・ベンボが[[枢機卿]]になる。
 
*1539年 - [[ジャック・アルカデルト|ヤコブ・アルカデルト]]「4声のための[[マドリガーレ]]」。
 
*1539年 - [[ヴェネツィア]]で亡命[[スウェーデン]]人オラウス・マグヌスによる北欧の海図「[[カルタ・マリナ]]」出版(→1555年)。
 
*1540年 - [[フランチェスコ・グイチャルディーニ|グイチャルディーニ]]『イタリア史』。
 
*1540年 - [[ジュール・セザール・スカリジェ|スカリゲル]]『ラテン語の起源について』。
 
*1540年 - [[パルミジャニーノ]]死去、未完の遺作は「首の長い聖母」(1534年 - )。
 
*1541年 - 塩戦争(1540年 - )の敗北で、[[ペルージャ]]を中心とする[[ウンブリア]]地方が[[教皇領]]に編入される。
 
*1541年 - オキーノに影響を与えた教会改革派のスペイン人フアン・デ・バルデスが[[ナポリ]]で死去(→1542年)。
 
*1541年 - 古代[[ローマ美術]]の秀作「アレッツォのミネルヴァ」が発掘される。
 
*1542年 - ミケランジェロ、システィーナ礼拝堂の壁画「[[最後の審判 (ミケランジェロ)|最後の審判]]」を完成。
 
*1542年 - [[異端審問]]所の再編成が行われ、枢機卿ジャンニ・カラファ(後の教皇[[パウルス4世 (ローマ教皇)|パウルス4世]])が異端審問所長官に就任。
 
*1542年 - イタリア人説教師ベルナルディーノ・オキーノが宗教裁判を恐れ、[[スイス]]の[[ジュネーヴ]]に亡命。
 
*1542年 - [[コンメディア・デッラルテ]]に影響を与えた[[パドヴァ]]の演劇家アンジェロ・ベオルコ(イル・ルッツァンテ)死去。
 
*1542年 - 【スペイン】[[バルトロメ・デ・ラス・カサス]]『インディアスの破壊についての簡潔な報告』。
 
*1542年 - 【フランス】王姉[[マルグリット・ド・ナヴァル]]が『[[エプタメロン]]』の執筆を始める( - 1549年)。
 
*1543年 - [[パドヴァ大学]]教授[[アンドレアス・ヴェサリウス|ヴェサリウス]]、『ファブリカ(人体の構造)』出版。
 
*:『ファブリカ』の人体解剖図を描いたのは[[ティツィアーノ]]の弟子ジャン・ステファン・ヴァン・カルカル。
 
*1543年 - [[ニコロ・フォンタナ・タルタリア|タルタリア]]による[[エウクレイデス]]『[[ユークリッド原論|原論]]』のイタリア語訳出版。
 
*1543年 - [[ベンヴェヌート・チェッリーニ|チェッリーニ]]「サリエラ(黄金の塩容れ)」([[ウィーン]][[美術史美術館]]蔵)完成。
 
*1543年 - 【ポーランド】[[ニコラウス・コペルニクス|コペルニクス]]『[[天球の回転について]]』出版。
 
*1544年 - クレピーの和約により、イタリア戦争での[[ハプスブルク家]]と[[ヴァロワ朝|ヴァロワ家]]の勢力範囲はほぼ確定(→1559年)
 
*1544年 - [[オスマン帝国]]海軍(提督[[バルバロス・ハイレッディン]])が[[アマルフィ]]を襲撃するが撃退される。
 
*1544年 - ギョーム・ポステル『世界諧和論』出版。
 
*:ポステルはローマにいた[[イグナチオ・デ・ロヨラ]]の知遇を得て[[イエズス会]]に入会、しかし見解の相違からほどなく追放される。
 
*1545年 - 教皇[[パウルス3世 (ローマ教皇)|パウルス3世]]により[[トリエント公会議]]が開催される( - 1563年)。[[対抗宗教改革]]始まる。
 
*1545年 - [[パルマ公国]]が成立、教皇[[パウルス3世 (ローマ教皇)|パウルス3世]]の息子[[ピエール・ルイージ・ファルネーゼ]]が初代パルマ公になる。
 
*1545年 - [[アーニョロ・ブロンズィーノ|ブロンズィーノ]]「愛のアレゴリー」([[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ロンドン・ナショナル・ギャラリー]]蔵)。
 
*1545年 - [[バッキアッカ]]「[[マグダラのマリア]]」(1540年 - )。
 
*1545年 - [[ジェロラモ・カルダーノ|カルダーノ]]『偉大なる術(アルス・マグナ)』で[[三次方程式]]・[[四次方程式]]の解法を公表。
 
*1545年 - [[パドヴァの植物園|パドヴァ植物園]]が、植物学者フェデリコ・ボナフェーデの構想、建築家アンドレア・モロニの設計によって開園する。
 
*1545年頃 - 【フランドル】[[クレメンス・ノン・パパ]]が[[神聖ローマ皇帝]][[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]の宮廷礼拝堂楽長となる( - 1549年頃)。
 
*1546年 - [[イタリア戦争]]の記録を残した歴史家[[パオロ・ジョヴィオ]]による『著名人礼賛』。
 
*1546年 - [[ピエトロ・アレティーノ]]『オラツィア』。
 
*1546年 - [[サン・ピエトロ大聖堂]]主任建築家[[アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョヴァネ|アントニオ・ダ・サンガッロ]]死去。
 
*:[[ジュリオ・ロマーノ]]が主任建築家を継ぐが短期間で没し、翌1547年[[ミケランジェロ]]が主任建築家に選ばれる。
 
*1546年 - [[ティツィアーノ]]「教皇[[パウルス3世 (ローマ教皇)|パウルス3世]]と枢機卿[[アレッサンドロ・ファルネーゼ (枢機卿)|アレッサンドロ・ファルネーゼ ]]と[[オッターヴィオ・ファルネーゼ]]の肖像」
 
*1547年 - [[パルマ公国|パルマ公]][[ピエール・ルイージ・ファルネーゼ]](→1545年)が暗殺される。
 
*:一時パルマはミラノ総督フェランテ・ゴンザーガに占領されるが、[[オッターヴィオ・ファルネーゼ]]が奪還しパルマ公位を継承。
 
*1547年 - [[ミケランジェロ]]との友情で知られる女流詩人ヴィットーリア・[[コロンナ家|コロンナ]]死去。
 
*1547年 - 【イングランド】国王[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]死去、国王[[エドワード6世 (イングランド王)|エドワード6世]]即位。
 
*1547年 - 【フランス】国王[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]死去、国王[[アンリ2世 (フランス王)|アンリ2世]]即位。
 
*1547年 - 【ロシア】[[モスクワ大公]][[イヴァン4世]]が初めて正式に「[[ツァーリ]]」として[[戴冠式]]を行う。
 
*:[[モスクワ]]・[[生神女就寝大聖堂 (モスクワ)|ウスペンスキー大聖堂]]での戴冠式には[[東ローマ帝国]]伝来という「モノマフの帽子」が使われる。
 
*1548年 - [[ロレンツィーノ・デ・メディチ|ロレンツィーノ・デ・メディチ(ロレンザッチョ)]]が[[ヴェネツィア]]で暗殺される。
 
*:彼は[[フィレンツェ公]][[アレッサンドロ・デ・メディチ|アレッサンドロ]]暗殺(→1537年)の件で、後継の[[フィレンツェ公]][[コジモ1世]]の刺客に追われていた。
 
*1548年 - [[イグナチオ・デ・ロヨラ]]『[[霊操]]』決定版を出版。
 
*1548年 - [[イグナチオ・デ・ロヨラ]]が[[シチリア]]島[[メッシーナ]]で世界初のイエズス会神学校を設立(現在のメッシーナ大学)。
 
*1548年 - [[ティツィアーノ]]「[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]騎馬像(ミュールベルクのカール5世)」。
 
*1549年 - 教皇[[パウルス3世 (ローマ教皇)|パウルス3世]]の死去(→1550年)。
 
*1549年 - 【フランス】[[ジョアシャン・デュ・ベレー]]『[[フランス語の擁護と顕揚]]』。
 
*1550年 - 教皇[[ユリウス3世 (ローマ教皇)|ユリウス3世]]即位(→1549年)。
 
*:ユリウス3世の寵愛を一身に集めた[[インノチェンツォ・チョッキ・デル・モンテ]]も枢機卿に昇進する。
 
*1550年 - [[ジョルジョ・ヴァザーリ|ヴァザーリ]]『[[画家・彫刻家・建築家列伝]]』出版。
 
*1550年 - ジュリオ・カミッロ『劇場のイデア』出版。
 
*1550年 - ジョヴァン・フランチェスコ・ストラパローラ『楽しき夜ごと』第1巻出版。
 
*1550年 - 建築家[[バルトロメオ・アンマナーティ]]と女流詩人ラウラ・バッティフェルリの結婚。
 
*1550年 - [[レオ・アフリカヌス]]『海と陸の旅(アフリカ誌)』。
 
*1550年頃 - 【フランス】[[ジャン・クーザン]]「[[エヴァ]]・プリマ・[[パンドラ]]」([[ルーヴル美術館]]蔵)
 
*1551年 - [[イグナチオ・デ・ロヨラ]]により[[ローマ学院]](現[[グレゴリアン大学]])創設。
 
*1551年 - [[ティツィアーノ]]「軍服姿の[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ皇太子]]」。
 
*1552年 - [[ピッロ・リゴーリオ]]により「[[ボマルツォ]]の怪物公園(聖なる森)」が造営される。
 
*1552年 - フランドル人[[ピーテル・ブリューゲル|ピーテル・ブリューゲル(父)]]がイタリア各地を訪問( - 1555年頃)
 
*1552年 - [[ルーカ・ガウリコ]]『占星術論考』。
 
*1552年 - 【フランス】[[プレイヤード派]]の詩人[[ピエール・ド・ロンサール]]の『恋愛詩集』。
 
*1553年 - [[ヤーコポ・サンソヴィーノ]]により[[ヴェネツィア]]・[[国立マルチャーナ図書館]]完成(1536年 - )。
 
*1553年 - アスカニオ・コンディヴィ『[[ミケランジェロ]]伝』出版。
 
*1553年 - [[エトルリア]]美術の代表作「[[アレッツォのキメラ]]」が発掘される。
 
*1553年 - 【イングランド】[[メアリー1世 (イングランド女王)|メアリー1世]]がイングランド女王となり、カトリックが復活する。
 
*:[[枢機卿]][[レジナルド・ポール]]が教皇庁から派遣され、続く1556年には[[カンタベリー大司教]](最後のカトリック)に就任。
 
*1553年 - 【スイス】[[ミシェル・セルヴェ]]が[[ジュネーヴ]]にて[[ジャン・カルヴァン|カルヴァン]]の命令で火刑に処せられる。
 
*1554年 - 「ヴェネツィアの[[サッフォー]]」と呼ばれた女流詩人ガスパラ・スタンパ死去。
 
*1554年 - ジャコモ・パロッツィ・ダ・ヴィニョーラがサンタンドレア・ヴィア・フラミア聖堂を完成(1550年 - )。
 
*1554年 - [[ローマ]]で女流画家[[ソフォニスバ・アングイッソラ]]が[[ミケランジェロ]]と出会い、以後2年間にわたり指導を受ける。
 
*1554年 - フランチェスコ・サルヴィアーティ「[[ダヴィデ]]のもとへ行く[[バテシバ]]」。
 
*1554年 - 【スイス】バーゼル大学教授セバスティアン・カステリヨン『異端者を処罰すべからざるを論ず』出版。
 
*1554年 - 【スペイン】作者不詳の最古の[[ピカレスク小説]]『[[ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯]]』が出版される。
 
*1555年 - 教皇[[マルケルス2世 (ローマ教皇)|マルケルス2世]]が即位、この教皇にちなみ[[ジョヴァンニ・ダ・パレストリーナ|パレストリーナ]]が「[[教皇マルチェルスのミサ曲]]」を作曲。
 
*:[[マルケルス2世 (ローマ教皇)|マルケルス2世]]が短期間で亡くなると、対抗改革強硬派の教皇[[パウルス4世 (ローマ教皇)|パウルス4世]]が即位。
 
*1555年 - フィレンツェ公国の[[コジモ1世]]による[[シエーナ|シエナ]]占領。
 
*:追放されたシエナ人はピエトロ・ストロッツィを指導者に[[モンタルチーノ]]へ逃がれ、亡命政権を樹立(→1559年)。
 
*1555年 - [[ローマ]]にて[[スウェーデン人]]オラウス・マグヌスの[[ラテン語]]による『[[北方民族文化誌]]』が出版される(→1539年)。
 
*1555年 - 【ドイツ】[[アウクスブルクの和議]]。
 
*1555年 - 【オーストリア】[[イエズス会]]士で[[ウィーン]]司教でもあるペトルス・カニシウスによる『キリスト教教理大全』が出版される。
 
*1555年 - 【フランス】[[ノストラダムス]]『予言集』刊行。
 
*1556年 - [[ローマ]]にて[[イエズス会]]初代総長(1541年 - )[[イグナチオ・デ・ロヨラ]]死去。
 
*1556年 - [[ヴェネツィア]]の女流文学者カッサンドラ・フェデーレが102歳で死去。
 
*1556年 - ペッレグリーノ・ティバルディによる[[ボローニャ]]のポッジ宮殿「[[オデュッセウス]]の間」壁画完成(1554年 - )。
 
*1556年 - 【ドイツ・スペイン】[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]が神聖ローマ皇帝・スペイン王その他の公職から退位、[[ユステ修道院]]に隠棲。
 
*:カール5世の息子[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]は[[スペイン]]国王となり、[[シチリア王国|シチリア]]・[[ナポリ王国|ナポリ]]・[[ミラノ公国|ミラノ]]・[[ネーデルラント17州|ネーデルラント]]を獲得。
 
*:カール5世の弟[[フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント1世]]は神聖ローマ皇帝となり、[[オーストリア]]・[[ボヘミア]]・[[ハンガリー王国|ハンガリー]]を獲得。
 
*1557年 - 前[[ポーランド]]王妃[[ボナ・スフォルツァ]]が帰国していた南イタリアの[[バーリ]]にて暗殺される。
 
*:ボナの所領だったバーリはスペイン王支配下のナポリ王国に編入される。
 
*1557年 - 教皇[[パウルス4世 (ローマ教皇)|パウルス4世]]のもとローマで最初の[[禁書目録]]が出される。
 
*1557年 - ロドヴィーコ・ドルチェ『アレティーノまたは絵画問答』。
 
*1558年 - ディエゴ・ライネスが[[イエズス会]]第2代総長に就任( - 1565年)。
 
*1558年 - [[ジャンバッティスタ・デッラ・ポルタ|デッラ・ポルタ]]『自然魔術』出版。
 
*1558年 - [[ベンヴェヌート・チェッリーニ|チェッリーニ]]『チェッリーニ自伝』執筆に着手( - 1562年)。
 
*1558年 - ジョバンニ・デラ・カーサ『ガラテーオ』。
 
*1558年 - [[ジョゼッフォ・ツァルリーノ]]『和声論』。
 
*1558年 - 【イングランド】[[メアリー1世 (イングランド女王)|メアリー1世]]死去、異母妹[[エリザベス1世]]がイングランド女王に即位。
 
*1558年 - 【スイス】[[スコットランド人]][[ジョン・ノックス]]が『女たちの奇怪な統治に反対するラッパの最初の高鳴り』を出版。
 
*1559年 - [[カトー・カンブレジ条約]]で[[イタリア戦争]]完全に終結。
 
*:フランスがイタリアへの権利を放棄し、スペイン・ハプスブルク家の[[ナポリ王国|ナポリ]]統治が確定。
 
*:オーストリア・ハプスブルク家が[[ミラノ公国]]を領有することが認められる。
 
*:[[シエーナ|シエナ]]共和国は[[フィレンツェ公国]]の領土となり独立を喪失、[[モンタルチーノ]]亡命政権も降伏(→1555年)。
 
*1559年 - 教皇[[パウルス4世 (ローマ教皇)|パウルス4世]]の死去に伴い、教皇[[ピウス4世 (ローマ教皇)|ピウス4世]]即位。
 
*1559年 - [[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]設計のサン・ロレンツォ聖堂付属ラウレンツィアーナ図書館完成(1524年 - )。
 
*1559年 - [[タッデオ・ツッカリ]]による[[カプラローラ]]の[[パラッツォ・ファルネーゼ (カプラローラ)|パラッツォ・ファルネーゼ]]連作壁画。
 
*1559年 - [[ソフォニスバ・アングイッソラ]]が[[スペイン]]の[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]に招かれ宮廷画家となる。
 
*1559年 - 【フランス】[[ジャック・アミヨ]]による[[プルタルコス]]『[[対比列伝]]』のフランス語訳完成。
 
*:この著作の国王アンリ2世への献呈文に「文芸の復興」の章句が盛り込まれる。
 
*1559年 - 【フランス】国王[[アンリ2世 (フランス王)|アンリ2世]]が事故死。
 
*:[[フランソワ2世 (フランス王)|フランソワ2世]]が即位、王母[[カトリーヌ・ド・メディシス]]が摂政となる(→1533年)。
 
*1559年 - 【ドイツ】[[マティアス・フラキウス・イリリクス|マティアス・フラキウス]]『マグデブルクの諸世紀教会史』第1巻出版。
 
*1560年 - 教皇[[ピウス4世 (ローマ教皇)|ピウス4世]]が前任者パウルス4世の縁者の処分を発表(→1559年)。
 
*:パウルス4世の甥カルロ・カラファ枢機卿とパリアノ男爵を専横悪行の罪により捕縛させ、翌1561年に両名を処刑させる。
 
*1560年 - [[ジョルジョ・ヴァザーリ|ヴァザーリ]]らにより[[ウフィッツィ美術館|ウフィッツィ宮殿(現ウフィッツィ美術館)]]着工( - 1580年)。
 
*1561年 - ジョルジョ・ギージ「ラファエロの夢」。
 
*1561年 - 【スペイン】国王[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]が[[トレド]]から[[マドリード]]に宮廷を遷す。
 
*1562年 -  [[トルクァート・タッソ|タッソー]]叙事詩『リナルド』。
 
*1562年 -  ジャコモ・パロッツィ・ダ・ヴィニョーラ『建築の五つのオーダー』。
 
*1562年 - イタリア人[[ジュゼッペ・アルチンボルド|アルチンボルド]]が[[ウィーン]]に招かれ、[[神聖ローマ皇帝]][[フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント1世]]の宮廷画家となる(→1591年)。
 
*1562年 - 【フランス】[[ユグノー戦争]](-1598年) 。
 
*1563年 - 教皇[[ピウス4世 (ローマ教皇)|ピウス4世]]により[[トリエント公会議]]閉会(1545年 - )。
 
*:教皇の甥で[[枢機卿]][[カルロ・ボッロメーオ]]および枢機卿ジョバンニ・モローネの助力が閉会にこぎつけた。
 
*:翌1564年には公会議の議決および教令がピウス4世の名の下で布告される(トリエント信条)。
 
*1563年 - [[サヴォイア公国]]の首都が[[シャンベリー]]から[[ピエモンテ]]地方の[[トリノ]]に遷る。
 
*1563年 - [[アーニョロ・ブロンズィーノ|ブロンズィーノ]]や[[ジョルジョ・ヴァザーリ|ヴァザーリ]]らがフィレンツェ美術[[アカデミック絵画|アカデミー]]創設。
 
*:正式名称はアカデミア・デッレ・アルティ・デル・ディゼーニョ、現在の[[フィレンツェ美術学校]]
 
*1563年 - ヴァザーリらによりヴェッキオ宮殿五百人大広間のフレスコ壁画「マルチャーノ・デッラ・キアーナの戦い」が描かれる。
 
*1563年 - [[プロスペロー・フォンターナ]]「キリスト降架」。
 
*1563年 - [[ピッロ・リゴーリオ]]により[[ティヴォリのエステ家別荘]]の建設が始まる。
 
*1563年 - 【ドイツ】[[ヨーハン・ヴァイヤー]]『悪霊の幻惑、および呪法と蠱毒について』
 
*1563年 - 【フランドル】[[ピーテル・ブリューゲル|ピーテル・ブリューゲル(父)]]「[[バベルの塔]]」。
 
*1564年 - [[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]死去、遺作は「[[ピエタ (ミケランジェロ)|ロンダニーニのピエタ]]」。
 
*1564年 - フィリッポ・ネリらにより[[オラトリオ会]]が結成される(正式認可は1575年)。
 
*1564年 - 【イングランド】[[ジョン・ディー]]『象形文字の単子』。
 
*1565年 - [[マルタ包囲戦 (1565年)|マルタ包囲戦]]で、[[マルタ騎士団]]が激戦の末、[[オスマン帝国]]軍を撃退(→1522年)。
 
*1565年 - [[フランシスコ・ボルハ]]が第2代総長ディエゴ・ライネスを継いで[[イエズス会]]第3代総長となる。
 
*:ガンディア公フアン・ボルハの長男で、父方の曽祖父は[[ローマ教皇]][[アレクサンデル6世 (ローマ教皇)|アレクサンデル6世]]である。
 
*1565年 - [[ジョルジョ・ヴァザーリ|ヴァザーリ]]により「ヴァザーリの回廊」完成。
 
*:この回廊によりフィレンツェ公[[コジモ1世]]の自宅[[ピッティ宮殿]]と政庁の[[ウフィッツィ美術館|ウフィッツィ宮殿]]が結ばれた。
 
*1565年 - ガレアッツォ・アレッシによりジェノヴァのパラッツォ・カンビアーゾが完成。
 
*:この時期ジェノヴァが活況を取り戻し[[ジェノヴァのレ・ストラーデ・ヌオーヴェとパラッツィ・デイ・ロッリ制度|レ・ストラーデ・ヌオーヴェ地区]]の宮殿や邸宅が整備される。
 
*1565年 - [[ダニエレ・ダ・ヴォルテッラ]]が[[ミケランジェロ]]の「[[最後の審判]]」の裸像に腰布を描く作業を行う。
 
*1565年 - ジラルディ・チンツィオ『エカトンミティ』。
 
*1565年 - 【フランドル】[[ピーテル・ブリューゲル|ピーテル・ブリューゲル(父)]]「[[雪中の狩人]]」。
 
*1566年 - 【フランス】アントワーヌ・カロン「三頭政治下の虐殺」。
 
*1567年 - 人文主義者ピエトロ・カルネセッキが打ち首の上、火刑に処せられる。
 
*1567年 - このころ[[クレタ島]]出身の[[エル・グレコ]]が[[ヴェネツィア]]の[[ティツィアーノ]]工房に入門か
 
*1567年 - レオーネ・レオーニによる[[ミラノ]]の「オメノーニの家(レオーニの自宅)」完成(1565年 - )。
 
*1568年 - 【オランダ】[[八十年戦争]]始まる。
 
*1569年 - フィレンツェ公国を[[トスカーナ大公国]]に再編、メディチ家の[[コジモ1世]]が大公となる(→1537年)。
 
*1569年 - 建築家バルトロメオ・ アンマナーティにより[[フィレンツェ]]のサンタ・トリニータ橋が完成(1567年 - )。
 
*1569年 - [[ラファエル・ボンベリ]] が代数学における[[虚数]]を定義。
 
*1569年 - 【ドイツ】[[ゲラルドゥス・メルカトル]]が[[メルカトル図法]]に基づく世界地図を作成。
 
*1570年 - 教皇[[ピウス5世 (ローマ教皇)|ピウス5世]]による[[イングランド]]女王[[エリザベス1世]]の[[破門]]。
 
*:これが教皇による世俗王侯への最後の破門となる。
 
*1570年 - 教皇[[ピウス5世 (ローマ教皇)|ピウス5世]]による[[ミサ]]典書の規範版が発表される([[トリエント・ミサ]])。
 
*1570年 - [[トスカーナ大公]][[コジモ1世]]が愛妾であったカミッラ・マルテッリと再婚。
 
*1570年 - [[アンドレーア・パッラーディオ|パッラーディオ]]による[[ヴィチェンツァ]]の住宅建築ロトンダの完成。
 
*1570年頃 - 【スペイン】[[ルイス・デ・モラレス]]「授乳の聖母」。
 
*1571年 - [[オスマン帝国]]が[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]から[[キプロス島]]を奪う。
 
*1571年 - [[レパントの海戦]]にて、教皇・スペイン・ヴェネツィアの連合海軍が[[オスマン帝国]]海軍に勝利。
 
*1571年 - フランスに赴いた[[トルクァート・タッソ|タッソー]]とフランスの詩人[[ピエール・ド・ロンサール|ロンサール]]が交友関係を結ぶ。
 
*1571年 - 【フランス】[[イタリア]]人[[占星術|占星術師]]コジモ・ルッジェーリが宮廷に出現し、王太后[[カトリーヌ・ド・メディシス]]の寵を得る。
 
*1571年頃 - 【フランス】[[フランソワ・クルーエ]]「[[ディアーヌ・ド・ポワチエ]]の肖像」([[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)|ワシントン・ナショナル・ギャラリー]])。
 
*:ディアーヌはフランス国王アンリ2世の愛妾、この肖像は彼女が亡くなった1566年以降に描かれたものである。
 
*1572年 - アレッサンドロ・アローリ「真珠取り」(1570年 - )。
 
*1572年 - 【フランス】[[サン・バルテルミの虐殺]]。
 
*1572年 - 【ポルトガル】[[ルイス・デ・カモンイス|カモンイス]]『[[ウズ・ルジアダス]]』。
 
*1573年 - [[トルクァート・タッソ|タッソー]]牧歌劇『[[アミンタ]]』。
 
*1573年 - [[パオロ・ヴェロネーゼ|ヴェロネーゼ]]「レヴィ家の饗宴(最後の晩餐)」。
 
*1573年 - フィレンツェの音楽サークル「[[カメラータ]]」の記録に残る最も初期の会合。
 
*:参加者はバルディ伯爵、[[ジュリオ・カッチーニ]]、ピエトロ・ストロッツィ、(ガリレオ・ガリレイの父)[[ヴィンチェンツォ・ガリレイ]]。
 
*1573年 - イタリア人[[アレッサンドロ・ヴァリニャーノ|ヴァリニャーノ]]が[[イエズス会]]東インド管区の巡察師に抜擢される。
 
*1574年 - [[トスカーナ大公]][[コジモ1世]]死去、息子の[[フランチェスコ1世・デ・メディチ|フランチェスコ1世]]が大公位を継承。
 
*1575年 - [[フランチェスコ1世・デ・メディチ|トスカーナ大公フランチェスコ1世]]のストゥディオーロ(ヴェッキオ宮殿内の小書斎)完成(1570年 - )。
 
*:この部屋はルネサンス期からバロック期に流行した博物陳列室「[[驚異の部屋]](ヴンダーカンマー)」の典型である。
 
*1575年 - [[トルクァート・タッソ|タッソー]]『[[解放されたエルサレム]]』出版。
 
*1576年 - [[フランチェスコ1世・デ・メディチ|トスカーナ大公フランチェスコ1世]]の弟ピエトロ・デ・メディチが夫人のレオノーラ・ディ・トレドを殺害する。
 
*1576年 - トスカーナ大公フランチェスコ1世の妹[[イザベッラ・デ・メディチ]]が夫の[[パオロ・ジョルダーノ・オルシーニ]]に殺害される。
 
*1576年 - ペスト流行、[[ミラノ]]大司教で[[枢機卿]]の[[カルロ・ボッロメーオ]]が大規模な救済活動を行う(1610年列聖)。
 
*1576年 - [[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ|ティツィアーノ]]死去、遺作は「[[ピエタ]]」([[アカデミア美術館 (ヴェネツィア)|ヴェネツィア・アカデミア美術館]]蔵)。
 
*1576年 - [[フェルディナンド1世・デ・メディチ|フェルディナンド・ディ・メディチ]]枢機卿(後のトスカーナ大公)がローマの土地を買い取る。
 
*:翌年までにこの土地に、基本設計をアンマナーティ、室内装飾をヤコポ・ツッキが担当した[[ヴィラ・メディチ]]を完成させる。
 
*1576年 - [[ジェロラモ・カルダーノ|カルダーノ]]死去、この年までに『我が人生の書(カルダーノ自伝)』完成(1575年 - )。
 
*1576年 - 【フランス】[[ジャン・ボダン]]『国家論』。
 
*1576年 - 【フランス】イノサン・ジャンティエ『反マキャヴェッリ論』。
 
*1576年 - 【イングランド】[[ロンドン]]に最初の常設民衆劇場の[[シアター座]](1599年に再編して[[グローブ座]])が開かれる。
 
*:以後[[カーテン座]]・[[ローズ座]]・[[スワン座]]が設置され、[[エリザベス朝]]の[[イギリス・ルネサンス演劇]]が最盛期を迎える。
 
*:[[ジョン・ウェブスター]]、[[ベン・ジョンソン (詩人)|ベン・ジョンソン]]、[[クリストファー・マーロウ]]、[[ウィリアム・シェイクスピア]]らが代表。
 
*1577年 - 【スペイン】[[アビラのテレサ]]『完徳の道』。
 
*1577年頃 - ヤコポ・バッサーノ「聖ルキアの洗礼を施す聖ウァレンティヌス」。
 
*1578年 - [[パルマ公国|パルマ公子]][[アレッサンドロ・ファルネーゼ (パルマ公)|アレッサンドロ・ファルネーゼ]]が[[フェリペ2世 (スペイン王)|スペイン王フェリペ2世]]より[[ネーデルラント17州|ネーデルラント総督]]に任じられる( - 1586年)。
 
*1578年 - イタリア人[[イエズス会|イエズス会士]][[マテオ・リッチ]]の東方([[中国]])宣教旅行開始。
 
*1578年 - [[ローマ]]市のヴィラ・サラリア通りで初期キリスト教時代の[[カタコンベ]]が発見される。
 
*1578年 - [[サヴォイア家]]所有の「[[聖骸布]]」が[[トリノ]]に移される(トリノの聖骸布)。
 
*1579年 - イタリア人神学者ファウスト・ソッツィーニが[[ポーランド]]の[[クラクフ]]に定住する。
 
*:叔父レリオ・ソッツィーニの影響を受け、キリストの神性を否定した反三位一体説([[ソッツィーニ派|ソッツィーニ主義]])をこの地に広める。
 
*1580年 - スペイン人[[イエズス会|イエズス会士]]フランシスコ・スアレスが[[ローマ学院]]教授となる。
 
*1580年 - 【ポルトガル】アルカンタラの戦いで[[アントニオ・デ・ポルトゥガル|ドン・アントニオ]]がスペイン軍に敗れフランスに亡命。
 
*:ポルトガルはスペインに併合され( - 1640年)、スペイン王[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]がポルトガル王を兼ねる。
 
*1580年 - 【フランス】[[ミシェル・ド・モンテーニュ|モンテーニュ]]『[[エセー]](随想録)』初版出版。
 
*:モンテーニュはこの年から翌年にフランス・ドイツ・スイス・イタリアを歴訪し『旅日記』を記録する(出版は1774年)。
 
*1580年 - 【フランス】陶工[[ベルナール・パリッシー]]『水と泉の驚異の言説』。
 
*1581年 - [[フランチェスコ1世・デ・メディチ|トスカーナ大公フランチェスコ1世]]の命による[[ウフィッツィ美術館|ウフィッツィ宮殿]]天井の[[グロテスク]]模様装飾が完成する。
 
*1581年頃 - 【フランドル】アントワヌ・カロン原画の「ヴァロワ・タピストリー」([[ウフィツィ美術館]]蔵)が完成したか。
 
*1582年 - 教皇[[グレゴリウス13世 (ローマ教皇)|グレゴリウス13世]]の命により[[グレゴリオ暦]]が採用される。
 
*:この改暦に協力したのが天文学者アロイシウス・リリウスや数学者[[クリストファー・クラヴィウス]]。
 
*1582年 - ローマ近郊のモンテ・デル・グラノの古代の墓地でファブリツィオ・ラッザーロが「[[ポートランドの壺]]」を発見。
 
*1582年 - 【フランス】[[アンブロワーズ・パレ]]『大外科学全集』。
 
*1583年 - [[フィレンツェ]]に言語研究のための[[クルスカ学会]]が設立される。
 
*1583年 - 教皇[[グレゴリウス13世 (ローマ教皇)|グレゴリウス13世]]の夏の宮殿として[[クイリナーレ宮殿]](現[[共和国大統領 (イタリア)|イタリア共和国大統領]]官邸)が建設される。
 
*1583年 - ルカ・カンビアーゾがスペイン国王フェリペ2世に招かれ[[エル・エスコリアル修道院|エル・エスコリアル宮殿]]の壁画を担当する 。
 
*1583年 - ジョヴァンニ・ダ・ボローニャ([[ジャンボローニャ]])「[[サビニの女たちの略奪|サビニ女たちの略奪]]」。
 
*1583年 - [[フリウリ]]地方の粉挽屋ドメニコ・スカンデッラ(メノッキオ)が異端審問で告発される(『チーズとうじ虫』)。
 
*1583年 - 【ボヘミア】神聖ローマ皇帝[[ルドルフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ2世]]が[[ウィーン]]から[[プラハ]]に宮廷を遷す。
 
*1584年 - [[ジョルダーノ・ブルーノ]]『無限、宇宙および諸世界について』。
 
*1584年 - ジョヴァンニ・パオロ・ロマッツォ『絵画芸術論七書』出版。
 
*1584年 - [[ジャコモ・バロッツィ・ダ・ヴィニョーラ]]により[[ローマ]]の[[イエズス会]]本部ジェズ教会完成(1568年 - )。
 
*1584年 - ベルナルド・ブオンタレンティの設計により[[ウフィッツィ美術館|ウフィッツィ宮殿]]のトリブーナが完成。
 
*1584年 - 【スペイン】国王[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]の命による[[エル・エスコリアル修道院|エル・エスコリアル宮殿]]完成(1563年 - )。
 
*1585年 - 日本の[[天正遣欧少年使節]]一行、教皇[[グレゴリウス13世 (ローマ教皇)|グレゴリウス13世]]に謁見。
 
*:ヤコポ・ティントレットの息子ドメニコにより「[[伊東マンショ]]の肖像」(ミラノ・トリヴルツィオ財団蔵)が描かれる。
 
*1585年 - 教皇[[グレゴリウス13世 (ローマ教皇)|グレゴリウス13世]]死去、教皇[[シクストゥス5世 (ローマ教皇)|シクストゥス5世]]即位(‐1590年)。
 
*:このシクストゥス5世時代に、大規模な教会建築の補修、街路・水道・橋梁の設置がなされ、都市[[ローマ]]が大きく改造される。
 
*1585年 - 【ドイツ】民衆本『実伝ファウスト博士』出版(モデルは1538年に爆死した[[魔術師]][[ゲオルク・ファウスト]]か)。
 
*1585年頃 - [[アンニーバレ・カラッチ]]とその一族が[[ボローニャ]]に美術学校アカデミア・デリ・インカミナーティを設立。
 
*1586年 - 教皇[[シクストゥス5世 (ローマ教皇)|シクストゥス5世]]の命で、[[ドメニコ・フォンターナ]]が古代の[[オベリスク]]を[[サン・ピエトロ広場]]に移動させる。
 
*1586年 - [[ジャンバッティスタ・デッラ・ポルタ|デッラ・ポルタ]]『観相術』を出版。
 
*1586年 - 【オランダ】[[ヘンドリック・ホルツィウス]]版画シリーズ「ローマの英雄たち」。
 
*:この時期、ホルツィウスのいた[[ハールレム]]は[[マニエリスム]]芸術の北方での中心地となる。
 
*1587年 - [[フランチェスコ1世・デ・メディチ|トスカーナ大公フランチェスコ1世]]と大公妃[[ビアンカ・カッペッロ]]の連続怪死事件。
 
*1587年 - [[フェルディナンド1世・デ・メディチ|フェルディナンド1世]]がトスカーナ大公を継承( - 1609年)、トスカーナ大公国の最後の繁栄。
 
*1587年 - 教皇[[シクストゥス5世 (ローマ教皇)|シクストゥス5世]]の命で、初めてバチカンに印刷局を設置。
 
*1587年 - 【イングランド】前[[スコットランド]]女王[[メアリー (スコットランド女王)|メアリー・ステュアート]]、イングランド女王エリザベス1世の命で処刑される。
 
*1588年 - [[カエサル・バロニウス|チェザレ・バロニウス]]『教会年代記』第1巻出版。
 
*1588年 - ベルナルディーノ・テレジオ『事物の本性について(自然論)』。
 
*1588年 - [[パオロ・ヴェロネーゼ|ヴェロネーゼ]]死去、遺作は[[ヴェネツィア]]・聖パンテレイモン教会の「[[聖パンテレイモン]]の回心」。
 
*1588年 - 【スペイン・イングランド】[[アルマダ海戦]]でスペイン敗北。
 
*1588年 - 【スペイン】[[イエズス会]]士ルイス・デ・モリナ『[[自由意志]]と[[恩寵|恩恵]]の賜物の調和』([[モリナ主義]])。
 
*1588年 - 【スペイン】[[エル・グレコ]]「[[オルガス伯の埋葬]]」完成。
 
*1588年 - 【イングランド】[[ニコラス・ヒリアード]]「薔薇の中の青年」。
 
*1589年 - トスカーナ大公[[フェルディナンド1世・デ・メディチ|フェルディナンド1世]]とフランス国王[[アンリ2世 (フランス王)|アンリ2世]]の孫娘[[クリスティーナ・ディ・ロレーナ]]の結婚。
 
*1589年 - 『オペラ・ロギカ』(1578年)、『タブラ・ロギカエ』(1580年)で知られる哲学者ヤコポ・ザバレラ死去。
 
*1589年 - フランドルの画家[[ヤン・ブリューゲル (父)]] がこの年以降イタリアに長期滞在する( - 1596年)。
 
*1589年 - [[トマソ・カンパネッラ|カンパネッラ]]が[[ナポリ]]に赴き[[ジャンバッティスタ・デッラ・ポルタ|デッラ・ポルタ]]の弟子となる。
 
*1589年 - イエズス会士ジョヴァンニ・ピエトロ・マッフェイ『東インドの歴史』。
 
*1590年 - ヴェノーサ領主で音楽家の[[カルロ・ジェズアルド]]がその妻マリア・ダヴァロスと愛人ファブリツィオ・カラファを惨殺。
 
*1590年 - 【イングランド】[[エドマンド・スペンサー]]『[[妖精の女王]]』。
 
*1591年 - パトリッツィ『新普遍哲学』出版。
 
*1591年 - [[イエズス会|イエズス会士]][[アロイシウス・ゴンザーガ]]が疫病により23歳で死去(1726年列聖)。
 
*1591年 - [[ヴェネツィア]]の女流詩人で高級[[娼婦]]でもあった[[ヴェロニカ・フランコ]]死去。
 
*1591年 - 【ボヘミア】[[ジュゼッペ・アルチンボルド|アルチンボルド]]による「ウェルトゥムヌスに扮するルドルフ2世」完成(→1562年)。
 
*:神聖ローマ皇帝[[ルドルフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ2世]]の[[プラハ]]の宮廷を中心に国際[[マニエリスム]]様式が広がる(→1583年)
 
*:[[ルーラント・サーフェリー]]、[[バルトロメウス・スプランヘル]]、[[ハンス・フォン・アーヘン]]らもここで活躍
 
*1591年 - 【スペイン】[[十字架のヨハネ]]死去、主著『暗夜』を含めた著作は死後30年経過した1618年に出版される。
 
*1592年 - イエズス会士[[ロベルト・ベラルミーノ]]らにより改訂版[[ヴルガータ|ヴルガータ聖書]](シクストゥス・クレメンティーノ版)出版。
 
*1592年 - [[ティントレット]]、ヴェネツィア・[[ドゥカーレ宮殿]]の「天国」(世界最大の油彩壁画)完成。
 
*1593年 - [[トスカーナ大公]][[フェルディナンド1世・デ・メディチ|フェルディナンド1世]]が[[リヴォルノ]]港を自由貿易港とする(リヴォルノ憲章)。
 
*1593年 - [[ドメニコ・フォンターナ]]と[[ジャコモ・デッラ・ポルタ]]により[[サン・ピエトロ大聖堂]]のドーム部分が完成する。
 
*1593年 - [[ロベルト・ベラルミーノ]]『異端反駁信仰論争』完成(1581年 - )。
 
*1593年 - フェデリコ・ツッカリらにより[[ローマ]]で聖ルカ・アカデミーが設立される。
 
*1593年 - チェーザレ・リーパの図像学事典『イコノロジア』出版。
 
*1593年 - ベルナルド・ブオンタレンティによりフィレンツェのボーボリ庭園の洞窟(グロッタ)完成(1583年 - )。
 
*1594年 - 【ボヘミア】アドリアーン・デ・フリース「[[プシュケ]]を持ち上げる[[メルクリウス]]」([[ルーヴル美術館]]蔵)。
 
*1594年 - [[ティントレット]]死去、遺作は[[ヴェネツィア]]・[[サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会]]の「[[最後の晩餐]]」。
 
*1594年 - [[ドメニコ・フォンターナ]]がサルノ川支流にある運河の地下から[[ポンペイ]]遺跡を発掘。
 
*1594年 - [[ジェローラモ・ファブリツィオ]]によりパドヴァ大学に最初の[[解剖劇場]]が建てられる。
 
*1594年 - 【フランス】[[フォンテーヌブロー派]]「[[ガブリエル・デストレ]]とその妹」。
 
*1595年 - 【イングランド】[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]「[[ロミオとジュリエット]]」初演。
 
*1595年頃 - [[ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ|カラヴァッジオ]]が[[フランチェスコ・マリア・デル・モンテ]]枢機卿に見出され庇護を受ける
 
*1596年 - フェデリコ・バロッチによる[[ペルージア]]のサンタ・マリア・デリ・アンジェリコ教会祭壇画「受胎告知」完成(1592年 - )。
 
*1597年 - [[フェラーラ公国]]の[[エステ家]]本流断絶、[[フェラーラ]]は[[教皇領]]に編入される。
 
*:エステ家傍系の[[チェーザレ・デステ]]は[[モデナ]]および[[レッジョ]]公国([[モデナ公国]])だけを継承。
 
*1597年 - 宗教改革者フランチェスコ・プッチの処刑。
 
*1597年 - 【スペイン】フランシスコ・スアレス『形而上学討論集』。
 
*1597年 - 【スコットランド】[[ジェームズ1世 (イングランド王)|国王ジェームズ6世]]『デモノロジー(悪魔学)』(→1603年)。 
 
*1597年頃 - [[ヤコポ・ペーリ]]による『ダフネ』(最古の[[オペラ]])。
 
*1598年 - ジョヴァンニ・ダ・ボローニャ(ジャンボローニャ)「[[コジモ1世]]騎馬像」。
 
*1598年 - イギリス人[[ウイリアム・ハーベー|ウィリアム・ハーヴェイ]]が[[パドヴァ大学]]に入学し解剖学者ジローラモ・ファブリッチに師事する。
 
*1598年 - 【フランス】国王[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]による[[ナントの勅令]]。
 
*1598年 - 【イングランド】ジョン・フローリオ編纂による最初の『伊英辞典』が出版される。
 
*1599年 - スフォンドラーティ枢機卿の命により[[聖セシリア|聖チェチリア]]の墳墓を改葬するため聖女の遺体を検分する(→1600年)。
 
*1599年 - [[ベアトリーチェ・チェンチ]]処刑。
 
 
 
== 1600年以降 ==
 
1600年代(セイチェント Seicento):[[トリエント公会議]]以後、ローマはカトリックの首都として装いも新たに作り変えられ、[[イエズス会]]を中心に強化された[[対抗改革]]の美学が新しい時代の規範とされていく。前世紀までの晦渋で複雑な貴族趣味的なマニエリスム芸術は忌避されるようになり、一般信徒に向けたカトリック信仰の教化のため、写実主義と古典主義が復活する。写実主義を代表するのが[[ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ|カラヴァッジオ]]であり、古典主義を代表するのが[[アンニーバレ・カラッチ|カラッチ]]一族である。これらの傾向とともに、演劇的な表現が加味された[[バロック]]と呼ばれる新しい様式が生み出された。
 
*[[1600年]] - [[ジョルダーノ・ブルーノ]]火刑。
 
*[[1600年]] - [[ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ|カラヴァッジオ]]「[[聖マタイの召命]]」。
 
*[[1600年]] - ステファノ・マデルノ「[[聖セシリア|聖チェチリア]]像」。
 
*[[1600年]] - [[ピーテル・パウル・ルーベンス|ルーベンス]]が[[マントヴァ公]]の宮廷画家となる。
 
*[[1600年]] - ドイツ人画家[[アダム・エルスハイマー]]がローマに定住する( - 1610年)。
 
*[[1600年]] - エミリオ・カヴァリエリ「魂と肉体の劇」(最古の[[オラトリオ]])。
 
*[[1600年]] - [[マリー・ド・メディシス|マリア・デ・メディチ(マリー・ド・メディシス)]]とフランス国王[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]の結婚。
 
*[[1600年]]頃 - 【イングランド】アイザック・オリヴァー「女王エリザベス1世の虹の肖像画」。
 
*[[1601年]] - [[ジュリオ・カッチーニ]]『新しい音楽』で[[通奏低音]]を伴う[[モノディ]]形式を紹介。
 
*1602年 - [[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]が航海条例を出す。
 
*:自国の貿易振興を目指すが、外国船を追い出すこととなり、ヴェネツィアの没落は決定的、[[リヴォルノ]]が優位に立つ。
 
*1602年 - [[トマソ・カンパネッラ|カンパネッラ]]『太陽の都』執筆。
 
*1602年 - フォルチューニオ・リチェティ『人間霊魂の起源について』。
 
*1602年 - アントニ・コンティノによる[[ヴェネツィア]]の[[ため息橋|溜息橋(ポンテ・デイ・ソスピリ)]]完成。
 
*1602年 - [[アンニーバレ・カラッチ]]とその一族、[[パラッツォ・ファルネーゼ|ファルネーゼ宮殿]]壁画完成。
 
*1603年 - [[フェデリコ・チェージ]]らにより[[アッカデーミア・デイ・リンチェイ]](山猫学会)が設立される。
 
*1603年 - 【イングランド】女王[[エリザベス1世]]死去、[[スコットランド]]王ジェームズ6世がイングランド王[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]として即位。
 
*1603年 - 【オランダ】[[ヤーコブス・アルミニウス]]が[[ライデン大学]]教授に招かれる。
 
*:[[ジャン・カルヴァン|カルヴァン]]の予定説に対し、人間の[[自由意志]]を持ち上げる[[アルミニウス主義]]が起こり、改革派から異端とされる。
 
*1604年 - 【オランダ】[[カレル・ヴァン・マンデル]]『画家列伝(画家の書)』。
 
*:[[ヴァザーリ]]の『[[画家・彫刻家・建築家列伝]]』を模範に[[北方ルネサンス]]の画家の画業をまとめる。
 
*1605年 - 教皇[[クレメンス8世 (ローマ教皇)|クレメンス8世]]死去、[[メディチ家]]出身の教皇[[レオ11世 (ローマ教皇)|レオ11世]]即位。
 
*:レオ11世は即位後20余日で死去、続いてボルゲーゼ家出身の教皇[[パウルス5世 (ローマ教皇)|パウルス5世]]が即位。
 
*1605年 - 【スペイン】[[ミゲル・デ・セルバンテス|セルバンテス]]『[[ドン・キホーテ]]』前編出版(後編は1615年に出版)。
 
*1606年 - 教皇[[パウルス5世 (ローマ教皇)|パウルス5世]]、[[ヴェネツィア]]に聖務禁止令を通達。
 
*:法律顧問となった[[フラ・パオロ・サルピ]]がヴェネツィア擁護の論陣を張る(→1607年)。
 
*1607年 - 聖務禁止令解除で事実上のヴェネツィアの勝利、しかし同年フラ・パオロ・サルピ暗殺未遂事件も発生。
 
*1607年 - [[枢機卿]]フェデリコ・ボッローメオにより[[ミラノ]]に[[アンブロジアーナ図書館]]が設立される。
 
*1607年 - [[フェデリコ・ツッカリ]]『彫刻と絵画そして建築の理念』出版。
 
*1607年 - [[クラウディオ・モンテヴェルディ|モンテヴェルディ]]のオペラ「オルフェオ」。
 
*1608年 - [[ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ|カラヴァッジオ]]による[[マルタ島]][[バレッタ]]の聖ヨハネ大聖堂の「洗礼者聖ヨハネの斬首」。
 
*1609年 - [[トスカーナ大公]][[フェルディナンド1世・デ・メディチ|フェルディナンド1世]]死去、息子の[[コジモ2世]]が公位を継承。
 
*1609年 - [[アダム・エルスハイマー]]「エジプトへの逃避」。
 
*1609年 - 【スイス】[[ジュネーヴ]]司教[[フランシスコ・サレジオ]]『信心生活入門』。
 
*1610年 - [[ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ|カラヴァッジオ]]がポルト・エルコーレにて熱病で死去。
 
*1610年 - [[ガリレオ・ガリレイ]]が木星の4つの衛星([[ガリレオ衛星]])を発見し、「[[メディチ家]]の星々」と名付ける。
 
*:この発見は『星界の報告』にまとめられて出版、ガリレオはピサ大学教授兼トスカーナ大公付哲学者に任命される。
 
*1610年 - 【フランス】国王[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]暗殺される、[[ルイ13世 (フランス王)|ルイ13世]]が即位。
 
*:王母[[マリー・ド・メディシス]]が摂政(→1600年)、イタリア人のアンクル元帥[[コンチーノ・コンチーニ]]が補佐官となる。
 
*1610年頃 - [[オラツィオ・ジェンティレスキ]]「[[ゴリアテ]]の首を見つめる[[ダビデ|ダヴィデ]]」(ローマ・スパーダ絵画館)。
 
*1611年 - [[カルロ・ジェズアルド]]「聖務週間日課のためのレスポンソリウム集」(→1590年)。
 
*1611年 - 【イングランド】国王[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]の命による[[欽定訳聖書]]出版
 
*1612年 - [[クルスカ学会]]により最初の[[イタリア語]]辞書『クルスカ辞典』が出版される(→1583年)。
 
*1612年 - 女流画家[[アルテミジア・ジェンティレスキ]]への暴行事件の裁判が行われる。
 
*1612年 - [[ロレーヌ公国]](現フランス)出身の版画家[[ジャック・カロ]]がフィレンツェに定住する( - 1621年)。
 
*1612年 - [[パドヴァ大学]]教授[[サントーリオ・サントーリオ]]が[[体温計]]を発明。
 
*1612年 - [[サンタ・マリア・ノヴェッラ教会]][[サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局|付属薬局]](1221年創業)が公式認可され、[[トスカーナ大公]]御用達となる。
 
*1612年 - 【イングランド】[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]「[[テンペスト (シェイクスピア)|テンペスト]]」初演。
 
*1612年 - 【ドイツ】[[ヤコブ・ベーメ]]『[[アウローラ (ベーメ)|アウローラ]]』。
 
*1613年 - [[ラヴィニア・フォンターナ]]「服を着るミネルヴァ」。
 
*1613年 - バルトロメオ・スケドーニ「キリストの墓の前のマリアたち」。
 
*1613年 - [[アルテミジア・ジェンティレスキ]]「ホロフェルネスの首を斬るユーディット」。
 
*1613年 - 【スペイン】[[ルイス・デ・ゴンゴラ]]の長編詩『孤独』出版、その晦渋な作風を「ゴンゴラ主義(ゴンゴリスモ)」と呼ぶ
 
*:スペイン文壇は晦渋なカルテラニスモ(ゴンゴラが中心)と明瞭なコンセプティスモ(ケベードが中心)の両者が対立する。
 
*1614年 - ジャンバティスタ・マリーノ『リーラ』出版、「マリーノ主義」と呼ばれる誇張された過剰な表現形式を用いる。
 
*1614年 - [[グイド・レーニ]]によるパラヴィチーニ・ロスピリオージ宮殿壁画「アウローラ」完成。
 
*1614年 - 【スコットランド】[[ジョン・ネイピア]]による[[対数]]表の完成([[対数]]の概念の発見は1594年)。
 
*1615年 - 日本の[[慶長遣欧使節]]一行、教皇[[パウルス5世 (ローマ教皇)|パウルス5世]]に謁見。
 
*1616年 - [[枢機卿]]シピオーネ・ボルゲーゼの命による[[ボルゲーゼ美術館|ローマのボルゲーゼ宮殿]]完成(1611年 - )。
 
*1616年 - [[ガリレオ・ガリレイ]]の第1回宗教裁判(→1633年)。
 
*1616年 - 【スペイン】[[ミゲル・デ・セルバンテス|セルバンテス]]死去。
 
*1616年 - 【イングランド】[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]死去。
 
*1616年 - 【ドイツ】ヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエ『化学の結婚』出版。
 
*1617年 - 【イングランド】[[ロバート・フラッド]]『両宇宙誌』刊行始まる( - 1621年)。
 
*1618年 - 【ボヘミア】[[プラハ窓外投擲事件|第二次プラハ窓外投擲事件]]。[[三十年戦争]]始まる( - 1648年)。
 
*1619年 - [[フラ・パオロ・サルピ]]『トリエント公会議の歴史』。
 
*1619年 - ジャンバッティスタ・マリーノ『ガレリア』。
 
*1619年 - [[ヴィンチェンツォ・スカモッツィ]]『普遍的建築の理念』。
 
*1620年 - [[パルマ公国|パルマ公]][[ラヌッチョ1世・ファルネーゼ|ラヌッチョ1世]]の命による[[ファルネーゼ家]]の居城ピロッタ宮殿が完成。
 
*1620年 - [[ドメニキーノ]]「ヴェローナの聖ピエトロの受難」完成(1618年 - )。
 
*1620年 - 【イングランド】[[フランシス・ベーコン (哲学者)|フランシス・ベーコン]]『ノヴム・オルガヌム』出版。
 
*:この著作の中で「[[活版印刷]]」「[[羅針盤]]」「[[火薬]]」のいわゆる「(ルネサンスの)三大発明」が言及されている。
 
*1621年 - 教皇[[パウルス5世 (ローマ教皇)|パウルス5世]]死去、教皇[[グレゴリウス15世 (ローマ教皇)|グレゴリウス15世]]即位。
 
*1621年 - 【イングランド】ロバート・バートン『[[憂鬱]]の解剖学』。
 
*1622年 - 教皇[[グレゴリウス15世 (ローマ教皇)|グレゴリウス15世]]により[[イグナチオ・デ・ロヨラ]]、[[フランシスコ・ザビエル|ザビエル]]、[[アビラのテレサ]]、フィリッポ・ネリが列聖される。
 
*1622年 - [[グエルチーノ]]「われアルカディアにもありき」完成(1618年 - )。
 
*1623年 - 教皇[[グレゴリウス15世 (ローマ教皇)|グレゴリウス15世]]死去、バルベリーニ家出身の教皇[[ウルバヌス8世 (ローマ教皇)|ウルバヌス8世]]即位
 
*1623年 - [[ジェノヴァ]]にて[[ソフォニスバ・アングイッソラ]]が[[フランドル]]の画家[[アンソニー・ヴァン・ダイク]]の訪問を受ける。
 
*1623年 - [[ガリレオ・ガリレイ]]の『贋金鑑識官』、教皇[[ウルバヌス8世 (ローマ教皇)|ウルバヌス8世]]への献辞をつけて刊行される。
 
*1623年 - 【フランス】[[マラン・メルセンヌ]]神父の『[[創世記]]の諸問題』が出版され、ロバート・フラッドとの論争を引き起こす。
 
*1624年 - [[イングランド国教会]]からの転向者でローマの[[異端審問]]で有罪となった[[マルコ・ドミニス]]が獄死。
 
*1624年頃 - ナポリで活躍した奇想の風景画家[[モンス・デジデリオ]]の活躍が終わりを迎える。
 
*1625年 - 【フランス】枢機卿[[リシュリュー]]が主席国務大臣(事実上の宰相)となる(-1642年)。
 
*1624年 - フランス人画家[[ニコラ・プッサン]]がローマに定住、以後人生の大半をローマで過ごす( - 1665年)。
 
*1625年 - 【フランス】[[フーゴー・グロティウス]]『戦争と平和の法』を[[パリ]]にて出版。
 
*1625年 - 【フランス】[[ピーテル・パウル・ルーベンス|ルーベンス]]「マリー・ド・メディシス(マリア・デ・メディチ)の生涯」完成。
 
*1626年 - 教皇[[ウルバヌス8世 (ローマ教皇)|ウルバヌス8世]]による[[ローマ]]・[[サン・ピエトロ大聖堂]]献堂式。
 
*1626年 - [[ウルビーノ公国]]で後継者が不在となり、[[ウルビーノ]]は[[教皇領]]に編入される。
 
*1626年 - 【スペイン】[[フランシスコ・デ・ケベード]]の[[悪漢小説]]『ペテン師ドン・パブロスの生涯』。
 
*1626年 - 【ドイツ】[[ヨハネス・ケプラー|ケプラー]]「[[ルドルフ表]]」。
 
*1627年 - フランス人画家[[クロード・ロラン]]がローマに定住、以後人生の大半をローマで過ごす( - 1682年)。
 
*1628年 - {{仮リンク|マントヴァ継承戦争|it|Guerra di successione di Mantova e del Monferrato|en|War of the Mantuan Succession}}勃発。
 
*1629年 - スペイン人画家[[ディエゴ・ベラスケス|ベラスケス]]のイタリア訪問(-1630年)、途中の[[ナポリ]]で画家[[ホセ・デ・リベーラ]]と交流。
 
*1630年頃 - ボッロメーオ家のカルロ3世により[[マッジョーレ湖]]の[[ベッラ島|イゾラ・ベッラ]]の別荘が造営される。
 
*1631年 - ケラスコの和約が結ばれ、マントヴァ継承戦争終結。
 
*:この戦争の前後に[[マントヴァ公国]]の美術コレクションが散逸、多くは[[イングランド]]国王[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]に流れる。
 
*1631年 - [[サンマリノ]]が教皇[[ウルバヌス8世 (ローマ教皇)|ウルバヌス8世]]により独立を承認される。
 
*1631年 - 【イングランド】[[形而上詩人]][[ジョン・ダン]]死去。
 
*1631年 - 【モラヴィア】[[コメニウス]]『地上の迷宮と心の楽園』出版。
 
*1632年 - [[カルロ・ドルチ]]「アイノルフォ・デ・バルディの肖像」。
 
*1632年 - [[ローマ]]のバルベリーニ宮殿でオペラ「聖アレッシオ」が上演される。
 
*:作曲はステファノ・ランディ、台本はジュリオ・ロスピリオージ(後の教皇[[クレメンス9世 (ローマ教皇)|クレメンス9世]])。
 
*1632年 - [[ガリレオ・ガリレイ]] 『天文対話』をフィレンツェで出版(→1633年)。
 
*1632年 - 【オランダ】[[レンブラント・ファン・レイン|レンブラント]]「[[テュルプ博士の解剖学講義]]」。
 
*1632年 - 【ポーランド】[[カルヴァリア・ゼブジドフスカ]]の[[マニエリスム]]様式の礼拝所が整備される(1600年 - )。
 
*1633年 - [[ガリレオ・ガリレイ]]の第2回宗教裁判。
 
*1633年 - [[ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ|ベルニーニ]]による[[ローマ]]・[[サン・ピエトロ大聖堂]]の天蓋付き主祭壇(バルダッキーノ)完成(1624年 - )。
 
*1634年 - [[ジャンバティスタ・バジーレ]]の遺稿から説話集『[[ペンタメローネ]](五日物語)』出版(死去は1632年) 。
 
*1634年 - [[トマソ・カンパネッラ|カンパネッラ]]がフランスに亡命する。
 
*1635年 - [[ジローラモ・フレスコバルディ|フレスコバルディ]]「音楽の花束」。
 
*1635年 - 【フランス】[[マラン・メルセンヌ]]神父による学識者の研究会「メルセンヌ・アカデミー」が開かれる。
 
*1635年 - 【スペイン】[[ペドロ・カルデロン・デ・ラ・バルカ|カルデロン]]『人生は夢』。
 
*1635年 - 【スペイン】[[ディエゴ・ベラスケス|ベラスケス]]「[[ブレダの開城]]」完成。
 
*1636年 - イングランドの哲学者[[トマス・ホッブズ|ホッブズ]]が[[ガリレオ・ガリレイ]]を訪問。
 
*1637年 - 【オランダ】[[チューリップ・バブル]]の崩壊(世界初の[[バブル経済]])。
 
*1637年 - 【フランス】[[ルネ・デカルト|デカルト]]『[[方法序説]]』出版。
 
*1638年 - [[イエズス会|イエズス会士]][[アタナシウス・キルヒャー]]が[[グレゴリアン大学]]でオリエント諸語講義を始める。
 
*1638年 - バルベリーニ家出身の教皇[[ウルバヌス8世 (ローマ教皇)|ウルバヌス8世]]の命によりバルベリーニ宮殿完成。
 
*:[[バロック建築]]の代表とされる宮殿で、[[カルロ・マデルノ]]による設計で1625年に着工される
 
*:正面ファサードは主に[[ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ|ベルニーニ]]が、細部装飾については[[フランチェスコ・ボッロミーニ|ボッロミーニ]]が携わった。
 
*1638年 - イングランドの詩人[[ジョン・ミルトン]]が[[ガリレオ・ガリレイ]]を訪問。
 
*1638年 - 【フランス】ジャン・フランソワ・ニスロンが『奇妙な遠近法』で[[アナモルフォーシス]]の作図法をまとめる。
 
*1639年 - [[ピエトロ・ダ・コルトーナ]]によるバルベリーニ宮殿大広間天井画「神の摂理」完成(1633年 - )。
 
*1639年 - ナポリのスペイン人画家[[ホセ・デ・リベーラ]]による「聖バルトロマイ(聖フィリポ)の殉教」。
 
*1639年 - 【フランス】[[トマソ・カンパネッラ|カンパネッラ]]が[[パリ]]のドミニコ修道院で死去(→1634年)。
 
*1640年 - 【フランドル】イプル司教[[コルネリウス・ヤンセン]]の遺作『アウグスティヌス』が[[ルーヴァン]]で出版される。
 
*:翌1641年には[[パリ]]でも出版、カトリック教会を揺るがす[[ジャンセニスム]]論争が始まる。
 
*1640年 - 【スペイン】[[バルタサル・グラシアン]]『政治家カトリック王フェルナンド』。
 
*1640年頃 - 【フランス】[[ジョルジュ・ド・ラ・トゥール]]「大工の[[ナザレのヨセフ|聖ヨセフ]]」。
 
*1641年 - [[カストロ]]の領有権をめぐって[[パルマ公]][[オドアルド1世]]と教皇[[ウルバヌス8世 (ローマ教皇)|ウルバヌス8世]]が衝突(カストロ戦争、 - 1649年)。
 
*1642年 - [[クラウディオ・モンテヴェルディ|モンテヴェルディ]]のオペラ「[[ポッペーアの戴冠]]」。
 
*1642年 - アルチェトリにて[[ガリレオ・ガリレイ]]死去。
 
*1642年 - 【イングランド】[[イングランド内戦]]から[[清教徒革命]]勃発( - 1649年)。
 
*1643年 - [[クラウディオ・モンテヴェルディ|モンテヴェルディ]]死去。
 
*1657年 - メディチ家の援助により、ガリレオの弟子[[エヴァンジェリスタ・トリチェリ|トリチェリ]]らによって[[アカデミア・デル・チメント]]が設立される。
 
*1668年 - [[カトリック教会|カトリック]]に帰依した[[クリスティーナ (スウェーデン女王)|クリスティーナ]]元[[スウェーデン]]女王がローマに定住。
 
*:1674年にはアカデミー(Academia clementina)を設立。
 
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[14世紀]]
 
*[[15世紀]]
 
*[[16世紀]]
 
*[[17世紀]]
 
 
 
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