ja>Gtorew |
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− | {{Otheruses|歴史上の地名|民族|イオニア人|ギリシャの海域|イオニア海|ギリシャの島々|イオニア諸島}}
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− | {{Infobox
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− | | bodyclass = geography
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− | | abovestyle = background:#DEB887;
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− | | subheader = 古代アナトリアの地域
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− | | above = イオニア(Ἰωνία)
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− | | image = [[File:Mount Mycale and Mycale Strait.jpg|300px|Mount Mycale]]
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− | | caption = [[:en:Panionium|Panionium]]の[[:en:Mycale|Mycale山]]
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− | | label1 = 場所
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− | | data1 = [[アナトリア]]西部[[イズミル県|イズミル地方]]
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− | | label2 = 時代
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− | | data2 = 紀元前7–6世紀([[イオニア同盟]]として)
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− | | label3 = 言語
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− | | data3 = [[ギリシア語イオニア方言]]
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− | | label4 = 最大の都市
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− | | data4 = [[デロス]]
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− | | label5 = [[ペルシア]]の[[サトラップ]]
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− | | data5 = [[:en:Ionia (satrapy)|Yauna]]
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− | | label6 = [[属州|ローマの属州]]
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− | | data6 = [[アシア属州]]
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− | | data8 = [[Image:Turkey ancient region map ionia.JPG|thumb|right|300px|黄色く塗られているところがイオニア地方。上方の海は[[黒海]]、それ以外の海は[[地中海]]、右方の陸地は[[アナトリア]]([[トルコ]])。イオニアの少し上のTROADは[[ギリシャ神話|神話]]で名高い[[イリオス|トロイア]]であり、トロイアを舞台にした[[イリアス]]は [[ギリシア語イオニア方言|イオニア方言]]で書かれている。]]
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| [[Image:15th century map of Turkey region.jpg|thumb|right|300px|イオニア地方を表した[[15世紀]]の地図]] | | [[Image:15th century map of Turkey region.jpg|thumb|right|300px|イオニア地方を表した[[15世紀]]の地図]] |
− | '''イオニア'''(古代[[ギリシャ語|ギリシア語]]:'''{{lang|grc|Ιωνία}}''')とは、[[エーゲ海]]に面した、[[アナトリア半島]](現・[[トルコ]])南西部に古代に存在した地方のことである。近くにスミルナ(現・[[イズミル]])があった。アナトリア半島には[[イオニア人]](古代[[ギリシャ人|ギリシア人]]を構成する1集団)が植民(でなければ、少なくとも支配)した様々な[[都市国家]]があり、それらで構成された[[イオニア同盟]]の、北の地域を指す。 | + | '''イオニア'''(古代[[ギリシャ語|ギリシア語]]:'''{{lang|grc|Ιωνία}}''') |
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− | ==歴史==
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− | イオニアという地名は、先祖であるイオニア人に由来する。それまでイオニア人は、ギリシア本土とアナトリア半島の間にあるエーゲ海の島々に住んでいたが、[[アッティカ]](最も重大なのは[[アテネ|アテナイ]])および現在のトルコ地方の両方に移住し、植民地を建設していた。
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− | イオニア地方は、北はヘルムス川(現・ゲディズ川)河口近くの[[ポカイア]](現[[フォチャ (トルコ)|フォチャ]])から、南は[[メアンデル|メアンデル川]](現・[[メンデレス川]])の河口近くの[[ミレトス]]までの狭い沿岸と、[[キオス|キオス島]]、[[サモス島]]から成り、北を[[アイオリス]](アイオロス)、東を[[リディア]]、南を[[カリア]]に囲まれていた。この地方の都市は、[[ペルシア帝国]]とギリシアとの衝突で重要な役割を持っていた。
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− | 古代ギリシア人の言い伝えによると、イオニア地方の諸都市はエーゲ海の反対側からやってきた植民者によって建設された。その植民はアッティカのイオニア人たちの伝説と深く関係していて、最後のアテナイ王[[コドロス]]の息子、ネイレウスおよびアンドロクロスが率いての植民だったという。
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− | 後世の年代学者たちはこれを「イオニア人の移動」と呼び、その時期は、[[トロイア戦争]]の140年後、あるいは[[ヘラクレス]]の息子たち[[ヘーラクレイダイ]]の[[ペロポネソス半島]]への帰還の60年後と見なしている。1910年、当時の研究者たちは、正確な時期はともかく、イオニア地方が比較的遅くギリシア化したという、ギリシア人たちに伝わる通説に賛成した。その時期は、ドーリア人の侵入と拡大以後、また、初期エーゲ時代以後にあたる。
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− | [[紀元前7世紀]]、遊牧騎馬民族の[[キンメリア|キンメリア人]]がリディアをはじめ小アジアの大部分を侵略した。キンメリア人はメアンデルのマグネシアは略奪できたものの、エフェソスの攻略には失敗した。
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− | 紀元前700年頃、今度はリディアのメルムナス朝の始祖[[ギュゲス]]王がスミルナとミレトス一帯を侵略した。その息子[[アルデュス]]がプリエネを落とした時には、既に[[コロフォン]]もリディアのものになっていたといわれている。長い服従の時代が続いた。[[紀元前547年]]、リディアは滅亡したが、それで終わったわけではなかった。リディア王[[クロイソス]]を打ち負かした[[大キュロス]]が引き続きイオニアを支配したのである。他のアジアのギリシア人都市とともに、イオニア地方はペルシア帝国の属領となってしまった。首都から遠いところにあったので、ある程度の自治は許されたが、統治する[[僭主]]は全員ペルシア王の手下だった。
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− | [[Image:Pergamon Museum Berlin 2007077.jpg|thumb|left|260px|200年頃のミレトスの市場とその周辺を再現した1/300のモデル。1968年、H. Schleif&K. Stephanowitz作。]]
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− | そうした僭主の一人、ミレトスの[[ヒスティアイオス]](とその婿[[アリスタゴラス]])の扇動で、[[紀元前500年]]頃、イオニア諸都市はペルシアに対して[[イオニアの反乱]]を起こした。まず、アテナイと[[エレトリア]]に応援を求め、[[サルディス]]に侵攻し、町を焼き払った。この事件が[[ペルシア戦争]]の引き金となった。しかし、[[ラデ沖の戦い]]でイオニア艦隊は敗北。ミレトスも長期の包囲攻撃の末、陥落し、イオニアは再びペルシアに征服されてしまった。
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− | しかし、ギリシア軍の相次ぐ勝利は、エーゲ海対岸の同胞たちに幸運をもたらした。[[ミュカレの戦い]]([[紀元前479年]])におけるペルシア軍の敗北で、ついにイオニアは自由を手に入れた。イオニアはアテナイの独立した同盟国となった([[デロス同盟]]を参照)。しばらく自治は続いたが、[[紀元前387年]]の[[アンタルキダスの和平]]により、他のアジアのギリシア人都市同様、イオニアは再びペルシアの支配下に置かれた。もっともそれは名目上で、実際にはかなりの自由を保持していた。しかし、それも[[アレクサンドロス3世|アレキサンダー大王]]の小アジア侵攻の時までだった。[[グラニコス川の戦い]]で、イオニアのほとんどの都市が征服されてしまった。ミレトスは単独で持ちこたえたが、長きにわたる包囲攻撃に、陥落してしまった([[紀元前334年]])。この時からイオニアは[[マケドニア王国]]の領土となった。しかし、ミレトスを除く都市は、[[アンティゴノス朝]]やその次の[[古代ローマ|ローマ]]の支配下でも、なお繁栄を続けたのだった。
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− | ==地理==
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− | [[Image:Aphrodisias5.jpg|thumb|right|300px|エフェソスの古代の劇場(撮影Traroth)]]
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− | イオニア地方は、南北162km、東西36〜54kmの小さな地方だった。しかし、その他にも、ミマス半島、キオス島・サモス島という大きな島が加わる。海岸線は非常に入り組んでいて、海岸に沿って航海すると実際の距離のほぼ4倍にもなった。この地方の大部分は、山で占められていた。
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− | 現在もそうであるが、気候はとても良く、古代人には、小アジアでも最も肥沃な土地として有名だった。
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− | 植民地は当然のように栄え、とりわけミレトスは古代ギリシアの重要な商業都市となり、ミレトスからさらに、[[黒海|ユークシン海]]および[[マルマラ海|プロポンティス海]]の沿岸具体的にアビドゥス、[[キュジコス]]から[[トラブゾン|トラペズス]]、[[パンティカパイオン]](現[[ケルチ]])
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− | までの植民が行われた。
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− | 一方、ポカイアは最初のギリシア人都市の1つで、その都市の水夫たちは西地中海沿岸の探検を行った。
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− | [[エフェソス]]は、重要な植民地は作らなかったものの、早い時期から繁栄し、現代のイズミルの役割と共通するものを持っていた。
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− | ==学芸==
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− | [[Image:Torso Miletus Louvre Ma2792.jpg|thumb|right|200px|ミレトスで見つかった男性のトルソー。パロス島産大理石製。紀元前480年-紀元前470年頃。]]
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− | イオニア地方は哲学・文学・美術に、多くの人材を輩出した。
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− | ===哲学===
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− | {{Main|イオニア学派}}
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− | ===文学===
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− | [[ホメロス]]の出身地はイオニア(たとえばキオス島)と言われている。
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− | ===美術===
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− | *サモスのテオドロス ''[[:en:Theodorus of Samos|Theodorus of Samos]]''(紀元前6世紀の彫刻家、建築家)
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− | *サモスのロイコス
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− | *マグネシアのバテュクレス ''[[:en:Bathycles of Magnesia|Bathycles of Magnesia]]''
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− | *キオスのグラウコス ''[[:en:Glaucus|Glaucus]]''
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− | *キオスのメラス
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− | *キオスのミッキアデス(メラスの子)
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− | *キオスのアルケルモス
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− | *キオスのブパロス(アルケルモスの子) ''[[:en:Bupalus|Bupalus]]''
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− | *キオスのアテニス(アルケルモスの子)
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− | 他にも、[[アペレス]]はコロフォンの出身と言われている。
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− | ==脚注==
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− | {{Reflist}}
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− | ==関連項目==
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− | *[[イオニア人]]
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− | *[[イオニア同盟]]
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− | *[[イオニアの反乱]]
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− | ==参考文献==
| + | [[アナトリア]](小アジア)西岸中央部とその周辺の諸島をさす古代ギリシアの地方名。前1200年以前から[[ヒッタイト]]王国と接触,ギリシア人からはアシアス(アジア)と呼ばれた。おそらくアカイア王国の崩壊で[[アッチカ]]方面からイオニア系ギリシア人が東遷,その名を地名として残した。前8世紀から[[エフェソス]],[[ミレトス]],キオス,サモスなど 12主要都市が興り,宗教的な汎イオニア連盟が成立し,オリエントとの交流で学芸が栄えた。前700年以降,黒海からスペイン沿海地方に植民し,そのため[[リュディア]]と争い制圧され,次いで[[アケメネス朝]]ペルシアの支配下に入った。前499年頃反乱して失敗したが,これが[[ペルシア戦争]]の原因となった。前5世紀にはアテネ,スパルタに服し,前387年ペルシアに提供された。[[アレクサンドロス3世]]治下では名目上独立を保ったが,前2世紀ローマの属州アシアとなり,[[ビザンチン帝国]]治下でも,エフェソス,ミレトス,[[スミルナ]],キオスなどは世界的都市として繁栄した。 |
− | {{1911}}
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− | {{DEFAULTSORT:いおにあ}}Ελληνική Χαλυβουργία | + | {{DEFAULTSORT:いおにあ}} |
| + | {{テンプレート:20180815sk}} |
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