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[[Image:Pontic_steppe_region_around_650_AD.png|300px|thumb|right|アヴァールの位置。西の赤色が'''アヴァール'''可汗国。中央の黄土色が[[大ブルガリア (中世)|大ブルガリア]]、南の紫色は[[東ローマ帝国]]、東の濃い青は[[ハザール]]汗国、その東の薄い青は[[西突厥]]。]]
 
'''アヴァール''' (Avars) は、 [[5世紀]]から[[9世紀]]に[[中央アジア]]および[[中央ヨーロッパ|中央]]・[[東ヨーロッパ]]で活動した[[遊牧民族]]。支配者は[[遊牧国家]]の君主号であるカガン(khagan:[[可汗]])を称したため、その国家は'''アヴァール可汗国'''とも呼ばれる。[[東ローマ]]の一部史料では'''ジェジェン'''(Geougen)、[[キエフ大公国|ルーシ]]の史料では'''オーブル人'''(Obrs)とも呼ばれる。
 
  
== 概要 ==
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'''アヴァール''' (Avars)
[[フン族|フン]]が姿を消してから約1世紀の後、フンと同じく現在の[[ハンガリー]]の地を本拠に一大遊牧国家を築いたのがアヴァールである。フンほどの強大さはなく、また[[アッティラ]]ほど傑出した指導者がいたわけでもなく、さらに周辺民族による記録が少なかったためにアヴァールの歴史はよく知られていない。しかし、アヴァールは[[東ローマ帝国]]および[[フランク王国]]と接触し、[[スラヴ]]諸民族の形成に大きな影響を与えた。<ref>護・岡田 1996,p139</ref>
 
  
== 起源 ==
+
中央アジアのモンゴル系遊牧民。中国でいう[[柔然]] (じゅうぜん) ,蠕蠕 (ぜんぜん) にあたるという説もある。5世紀頃西進を始め,6世紀にはドナウ川の中・下流に達し,ビザンチン帝国,フランク王国に侵入,568年にはパンノニア地方 (現ハンガリー) に侵入,定住し,エルベ川からバルト海にかけて勢力を張った。8世紀末に[[カルル1世 (大帝) ]]に敗れ,9世紀初めブルガリア人に敗れてから衰え,のちマジャール人と混血して歴史から消えた。
アヴァールの起源は謎に包まれており、いくつかの仮説が立てられた。
 
*[[突厥]]に敗れた[[柔然]]が西に逃れてアヴァールになったとする説(下記および[[柔然#柔然=アヴァール説|柔然=アヴァール説]]を参照)<ref>護・岡田 1996,p140</ref>。
 
*柔然と[[エフタル]]がアヴァールになったとする説<ref>護・岡田 1996,p140</ref>。
 
*彼等の自称は蛇を意味する語(中世モンゴル語ではAbarga、近隣の突厥語ではAbakan、女真語ではAbahai)であり、それを意訳した呼び名が蠕蠕、柔然、Sharii(サーサーン朝)、音訳した呼び名をApar([[突厥碑文]])、Avars(東ローマ)とする説<ref>『柔然帝国伝奇』、『勅勒与柔然』</ref>。
 
  
== 歴史 ==
 
=== 東ローマ帝国との同盟 ===
 
アヴァールが歴史上に現れるのは[[558年]]のことで、時に東ローマ帝国では[[ユスティニアヌス1世]](在位:[[518年]] - [[565年]])の治世であった。
 
 
アヴァールは[[突厥]]に追われて[[北カフカス]]に姿を現し、[[アラン人]]の仲介で東ローマ帝国と同盟関係を結んだ。
 
 
[[561年]]、アヴァールは[[ドナウ川]]下流域に達し、西進しつつ周辺のウティグル,クトリグル,サビルなどの諸族、および[[ベッサラビア]]<ref>旧[[ソ連]]の[[モルドバ|モルダヴィア共和国]]内</ref>のアントを服属させた。さらにアヴァールはドナウ川を渡り、[[ドブルジャ]]<ref>[[黒海]]沿岸の[[ルーマニア]]南部と[[ブルガリア]]北部、ドナウ川以南の地域。</ref>に定住したいと東ローマ帝国に要求したが、帝国に無視されてしまう。一方でアヴァールは[[フランク人]]の[[メロヴィング朝]]とも接触しており、[[562年]]の[[アウストラシア|アウストラシア王]]{{仮リンク|ジギベルト1世|en|Sigebert I}}との戦い([[テューリンゲンの会戦]])で敗北したが、中部ヨーロッパで着々と地盤を築いていった。
 
 
[[567年]]、アヴァールは[[ゲルマン系]]の[[ランゴバルド人]]と組み、[[ダキア]]と[[トランシルヴァニア]]、東[[パンノニア]]に割拠していたゲルマン系の[[ゲピド族]]を滅ぼし、その地を奪った({{仮リンク|アヴァール可汗国|en|Avar Khaganate}}<ref>[[13世紀]]初頭から[[コーカサス戦争]]まで[[ダゲスタン共和国|ダゲスタン]]に存在した[[アヴァール人 (カフカース)|アヴァール人]]の{{仮リンク|アヴァール・ハン国|en|Avar Khanate}}とは別の国であるが混同され易い。</ref>の建国)。翌年([[568年]])、ランゴバルドが[[イタリア半島]]に向かい[[ランゴバルド王国]]を建国すると、アヴァールはそれに代わって[[プスタ|ハンガリー平原]]全域を支配した。ここにおいてアヴァールの勢力範囲は、[[ティサ川]]流域を中心に[[ボヘミア]]からドナウ川流域を経て[[南ロシア]]におよぶ広大なものとなった。この年、[[突厥]]可汗国の[[室点蜜]](Stembis)の使者が[[コンスタンティノープル]]に現れ、東ローマ帝国と対[[サーサーン朝|ペルシア]]同盟を組み友好関係を結んだ。
 
 
東ローマ帝国ではユスティニアヌス1世が死去し、[[ユスティヌス2世]](在位:[[565年]] - [[578年]])が即位していた。ユスティヌス2世はアヴァールに対して強硬姿勢を執り、アヴァールの使節に対して貢納の支払いを拒否したが、アヴァールの指導者{{仮リンク|バヤン1世|en|Bayan I|label=バヤン・カガン}}の怒りを買い、[[バルカン半島]]の要衝であるサヴァ川沿いの要塞[[シルミウム]]を陥落寸前までに追い込まれた。これによって、ユスティヌス2世は[[574年]]にアヴァールへの貢納を再開することとなる。
 
 
東ローマ帝国と突厥可汗国は568年以来、使節を往来させていたが、ふたたび東ローマがアヴァールと同盟を組んだことで両者の関係が一気に崩れ、[[576年]]に突厥は東ローマの使節を非難するとともに(突厥はかつて自分たちが打ち破ったアヴァール人と同盟を結んだことに不信感を抱いた)[[クリミア半島]]の東ローマ領を征服した。
 
 
<ref>護・岡田 1996,p142-144</ref>
 
 
=== アヴァールとスラヴ ===
 
[[ファイル:Historical_map_of_the_Balkans_around_582-612_AD.jpg|300px|thumb|600年頃のアヴァール(Avars)と東ローマ(ROMAN EMPIRE)。]]
 
ユスティニアヌス1世の時代から多くの[[スラヴ人]]がドナウ川を渡って東ローマ帝国領に侵入していたため、[[ティベリウス2世]](在位:[[578年]] - [[582年]])はアヴァールを使ってスラヴの侵入を抑えようと考えた。しかし、アヴァールのバヤン・カガンは、スラヴとともに帝国領の[[トラキア]],[[イリュリア]],[[ギリシア]]に侵入し各地を略奪した。そして2年の攻囲の末に要塞シルミウムを陥落させる。
 
 
しかし、[[マウリキウス]](在位:[[582年]] - [[602年]])の時代になると([[591年]])、将軍{{仮リンク|プリスクス (将軍)|en|Priscus (general)|label=プリスクス}}を北方の守備にあたらせ、{{仮リンク|シンギドゥヌム|en|Singidunum}}をアヴァールの手から奪還し、[[600年]]の和議でドナウ川を両国の国境とすることが決められた。翌年([[601年]])、プリスクスはドナウ川を越えてアヴァールに打撃を与えることに成功し、ほどなくしてバヤン・カガンも亡くなった。
 
 
[[602年]]に[[フォカス]](在位:602年 - [[610年]])による帝位簒奪事件が起こると、北方の守備が手薄となり、ふたたびアヴァールとスラヴの侵入が激化。スラヴ人はバルカン半島南部(現在のギリシア)へ大量に移住した。
 
 
[[623年]]、アヴァールとスラヴ、サーサーン朝の軍勢がコンスタンティノープルを海と陸から攻撃。しかし、東ローマ帝国軍の防御は固く、陥落を免れた。
 
 
<ref>護・岡田 1996,p144-146</ref>
 
=== アヴァール対スラヴ ===
 
[[623年]]頃、最初のスラヴ国家である[[サモ王国]]([[623年]]-[[658年]])が旧[[チェコスロヴァキア]]の地に形成され、その地のスラヴ人がアヴァールの支配を脱した。[[626年]]、{{仮リンク|コンスタンティノポリス包囲戦 (626年)|en|Siege of Constantinople (626)}}で、アヴァールは[[サーサーン朝|サーサーン朝ペルシア]]との同盟軍で侵攻したが、[[東ローマ帝国]]との海戦で敗北すると、混乱状態となり撤退した。一方、[[ヘラクレイオス]](在位:[[610年]] - [[641年]])は[[626年]]以降からスラヴ系の[[クロアチア人|クロアト人]],[[セルビア人|セルブ人]]をイリュリアに呼び寄せてアヴァールに対抗させ、[[635年]]にはアヴァールと敵対していた北カフカスの[[大ブルガリア (中世)|オノグル・ブルガール]]とも同盟を組み、アヴァール包囲網を形成したため、アヴァールによる西への拡大はくいとめられた(東ローマは、[[サーサーン朝|サーサーン朝ペルシア]]との[[:en:Byzantine–Sassanid War of 602–628|戦争]]、イスラム軍([[正統カリフ]])との{{仮リンク|マストの戦い|en|Battle of the Masts}}、イスラム軍([[ウマイヤ朝]])との[[コンスタンティノープル包囲戦 (674年-678年)|コンスタンティノポリス包囲戦]]により、北方に兵力をさけない状態だった)。
 
 
サモ王国は[[7世紀]]後半にアヴァールによって滅ぼされるが、すでにアヴァールの方も衰退期に入っており、全体としてはスラヴ人が独立性を強めていった。
 
 
<ref>護・岡田 1996,p146</ref>
 
 
=== アヴァールの崩壊 ===
 
[[791年]]、フランクの[[カール大帝]]がアヴァールに遠征し、[[804年]]までにドナウ川中流域を征服。一方で南の[[ブルガール]]もアヴァールを追って[[パンノニア]]まで進出したため、アヴァールはフランク、ブルガール、スラヴの3者によって分割され滅亡した。
 
 
<ref>護・岡田 1996,p146-147</ref>
 
== 考古学的時代区分 ==
 
考古学遺物から判断すると、ヨーロッパに侵入したアヴァールの歴史は3つの時期に分けられる。
 
;第1期
 
アヴァールは[[6世紀]]前半から百数十年の間に、[[ハンガリー]]のティサ川の東、ハンガリー盆地に留まっており、卓越した技術力と武力により東部の[[ブルガール人]]を従属させ、ビザンツ帝国に貢納を強いた。
 
;第2期
 
7世紀の後半、ハンガリー盆地の全域、現在の[[ウィーン]]付近まで拡大した。これはサモ王国の崩壊にともなうもので、この時期には[[モンゴロイド]]の要素が前の時期より強いとされる。
 
;第3期
 
[[8世紀]]以降、アヴァールにはいくつかの新しい民族が加わる。
 
 
<ref>護・岡田 1996,p140</ref>
 
== 出土品 ==
 
ハンガリーではアヴァールの馬具や武器甲冑、装飾品などが発見されているが、鐙、湾刀、鉄鎧、馬甲や[[青銅]]製の[[バックル]]、装身具、などの様式は周辺に類例が無くずっと東方の北東アジアに在った[[柔然]]、[[突厥]]、[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]の中国の物とよく類似している。一方、[[墳墓]]も多数発見されており、その出土品は他の[[遊牧民]]の物と大きな違いが無い。装飾に用いられた動物文様も他のステップ遊牧民の物と共通だが、アヴァールの方が多少優美に感じられる。動物文様の他には幾何学文様も用いられた。<ref>護・岡田 1996,p140-142</ref>
 
 
== アヴァールの国家組織 ==
 
アヴァール可汗国は強力な軍事力と発達した政治機構を持つ[[遊牧国家]]であり、支配者は[[遊牧国家]]の君主号であるカガン(khagan:[[可汗]])を称した。カガンを中心として「イウグル」と「トゥドゥン」と呼ばれる二人の高官が補佐する体制であったとされる。また[[パンノニア]]で発見されたアヴァールが残したと考えられる鐙・火打ち金などの出土品は[[東アジア]]や[[北アジア]]に起源があり、アヴァールが鐙を西欧に伝えたことで西欧の戦闘法に大きな影響を与えた。一方で、アヴァール人の進出によってカルパチア盆地やドナウ川上流域に残っていたテウルニア、ウィルーヌムといった司教区は消滅した。
 
 
== 言語系統 ==
 
アヴァールの言語は「[[テュルク系]]」説、「柔然と同族なので[[モンゴル系]]」説、の2つがあるがどちらなのかは不明である。
 
なお[[ウィリアム・バクスター]]と[[ローラン・サガール]]による上古音再構では烏桓、烏丸は/*ʔˤa  ɦʷˤar/とされている。これが本当なら烏桓である。
 
== 柔然=アヴァール説 ==
 
{{main|柔然#柔然=アヴァール説}}
 
[[フランス]]の史家[[ジョゼフ・ド・ギーニュ]]は、[[7世紀]]の[[東ローマ帝国]]の歴史家{{仮リンク|テオフィラクト・シモカッタ|en|Theophylact Simocatta}}の記録と中国の史書を照らし合わせ、以下の3つの共通点を柔然=アヴァールの根拠とした。
 
;テオフィラクトの記録
 
*テュルク(Türk)に破られる前のアヴァールは全[[スキタイ]](東方遊牧民)中の最強者であった。
 
*アヴァールはテュルクに撃破されると、その一部がTaugasなる国とMukri(ムクリ)に逃亡した。
 
*アヴァールの君主号は「Gagan」または「Khaghan」という。
 
;中国の史書
 
*柔然が突厥(テュルク)に撃破される以前は、[[北狄]]第一の強者であった。
 
*柔然は突厥に破られると、その一部は西魏に逃亡した。
 
*柔然の君主号は「可汗」という。
 
 
テオフィラクト・シモカッタの著書『世界史』において、アヴァールを'''真アヴァール'''と'''偽アヴァール'''に分けているが、柔然=アヴァール説では真アヴァールを柔然に比定し、偽アヴァールをヨーロッパのアヴァールに比定することもある。
 
 
<ref>この項は内田 1975,p397-421を参照したもの。</ref>
 
 
== 中国史書の阿拔国 ==
 
中国の歴史書『[[隋書]]』に「'''阿拔国'''」という国名が記されている。この「阿拔」を柔然の一部で、西に移動したアヴァールと関係づけることが多いが、[[鉄勒]]の「阿跌」(エディズ Ädiz)部族の誤りだとする説もある<ref>佐口・山田・護,p51注9</ref>。
 
 
{{quotation|''未幾,沙鉢略為'''阿拔'''所侵,上疏請援。以徹為行軍總管,率精騎一萬赴之。'''阿拔'''聞而遁去。''
 
 
未だ幾ばくならずして、[[沙鉢略可汗]]は'''阿拔'''に侵されたため、[[隋]]の[[楊堅|文帝]]に上書して援軍を請うた。そこで文帝は[[李徹]]を行軍総管とし、精騎一万を率いさせてこれに赴かせた。'''阿拔'''はそれを聞くなり遁去した。|『隋書』列伝第十九 李徹}}
 
 
{{quotation|''沙鉢略因西擊阿波,破擒之。而'''阿拔國'''部落乘虛掠其妻子。官軍為擊'''阿拔''',敗之,所獲悉與沙鉢略。''
 
 
そこで沙鉢略可汗は西の[[阿波可汗]]を撃ち、これを捕えて破った。しかして'''阿拔国'''の部落が虚に乗じてその(阿波可汗の)妻子を掠めた。官軍は'''阿拔'''を撃ってこれを破り、ことごとく捕えて沙鉢略可汗に与えた。|『隋書』列伝第四十九 北狄・突厥}}
 
 
== 突厥碑文のアパル ==
 
[[8世紀]]に建てられた[[東突厥]]第二可汗国時代の碑文([[突厥碑文]])である[[ホショ・ツァイダム碑文|『キュル・テギン碑文』と『ビルゲ・カガン碑文』]]に刻まれている民族名「[[ファイル:Old turkic letter R1.png|12px]][[ファイル:Old turkic letter P.png|12px]](.R.P)<ref>[[突厥文字]]による表記。右から読む</ref> Apar」はアヴァールに比定されている。ここでのアパルは[[始畢可汗]]の葬儀に参列した民族のひとつとして描かれている。
 
 
{{quotation|彼(始畢可汗)はこのように天に飛び去りました。哀悼者として、東から来たBöküli Čölüg el([[高句麗]]人),Tabγač(中国人),Tüpüt([[吐蕃]]人),Apar(アヴァール人),Purum(ローマ人),Qïrqïz([[堅昆]]人),Üč Qurïqan([[骨利幹|三姓クリカン]]人),Otuz Tatar([[室韋|三十姓タタル]]人),Qïtaň([[契丹]]人),Tatabi([[奚]]人)、この多くの人々が来て悲嘆し悲しみました。とても有名な可汗とは彼でした。 そして、弟([[処羅可汗]])が可汗になりました。|『キュル・テギン碑文』第4行}}
 
 
{{quotation|Böküli(高句麗),Čölüg el,Tabγač(中国),Tüpüt(吐蕃),Apar Purum(アヴァール・ローマ),(Q)ïrqïz(堅昆),ÜčQurïqan(三姓クリカン),OtuzTatar(三十姓タタル),Qïtaň(契丹),Tatabï(奚)の使者が葬儀に来ました。多くの人々は偉大なカガンの上に来て悲嘆しました。彼は有名なカガンでした。その後、彼の弟がカガンになりました。その後、彼の息子。しかし、彼の弟は兄に似ていませんでした。|『ビルゲ・カガン碑文』第5行}}
 
 
<ref>[http://irq.kaznpu.kz/index.php?lang=e&mod=1&tid=1&oid=15&m=1 TURK BITIG]</ref>
 
 
== 脚注 ==
 
<references />
 
 
== 参考資料 ==
 
*佐口透、山田信夫、[[護雅夫]]『騎馬民族史2-正史北狄伝』([[平凡社]]、[[1972年]])
 
*内田吟風『北アジア史研究 鮮卑柔然突厥篇』([[同朋舎出版]]、[[1975年]]、ISBN 4810406261)
 
*[[護雅夫]]・[[岡田英弘]]『民族の世界史4 中央ユーラシアの世界』([[山川出版社]]、[[1996年]] ISBN 4634440407)
 
*林幹『突厥与回紇史』(内蒙古人民出版社、2007年、ISBN 9787204088904)
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[アラン人]]
 
*[[エフタル]]
 
*[[可汗]]
 
*[[サーサーン朝]]
 
*[[柔然]]
 
*[[大ブルガリア (中世)]]
 
*[[第一次ブルガリア帝国]]
 
*[[突厥]]
 
*[[ハザール]]
 
*[[東ローマ帝国]]
 
*[[フランク王国]]
 
*[[ブルガール人]]
 
*[[フン族]]
 
*[[マジャル]]
 
*[[遊牧民]]
 
 
== 外部リンク ==
 
* {{uk icon}} [http://history.franko.lviv.ua/Ia.htm {{lang|uk|''Довідник з історії України''. За ред. І. Підкови та Р. Шуста. — Київ: Генеза, 1993.}}]
 
  
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[[Category:中央アジアの民族]]
 
[[Category:中央アジアの民族]]

2018/12/31/ (月) 14:07時点における最新版

アヴァール (Avars)

中央アジアのモンゴル系遊牧民。中国でいう柔然 (じゅうぜん) ,蠕蠕 (ぜんぜん) にあたるという説もある。5世紀頃西進を始め,6世紀にはドナウ川の中・下流に達し,ビザンチン帝国,フランク王国に侵入,568年にはパンノニア地方 (現ハンガリー) に侵入,定住し,エルベ川からバルト海にかけて勢力を張った。8世紀末にカルル1世 (大帝) に敗れ,9世紀初めブルガリア人に敗れてから衰え,のちマジャール人と混血して歴史から消えた。




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