「アンドレ・ザ・ジャイアント」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
(1版 をインポートしました)
(内容を「'''アンドレ・ザ・ジャイアント'''('''André the Giant'''、本名:'''André René Roussimoff'''、1946年5月19日 - 1993年1月27日) [...」で置換)
(タグ: Replaced)
 
1行目: 1行目:
{{Infobox プロレスラー
+
'''アンドレ・ザ・ジャイアント'''('''André the Giant'''、本名:'''André René Roussimoff'''[[1946年]][[5月19日]] - [[1993年]][[1月27日]]
| 名前 = アンドレ・ザ・ジャイアント
 
| 画像 = André the Giant in the late '80s.jpg
 
| 画像説明 = [[1980年代]]後半の[[ヒール (プロレス)#ヒールターン|ヒールターン]]期
 
| リングネーム = '''アンドレ・ザ・ジャイアント'''<br />'''モンスター・ロシモフ'''<br />アンドレ・ロシモフ<br />ジャン・フェレ<br />ジェアン・フェレ<br />モンスター・エッフェルタワー<br />ジャイアント・マシーン
 
| 本名 = アンドレ・レネ・ロシモフ
 
| ニックネーム = 大巨人<br />世界8番目の不思議<br />人間山脈<br />一人民族大移動
 
| 身長 = 223cm
 
| 体重 = 236kg(全盛時)
 
| 誕生日 = [[1946年]][[5月19日]]
 
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1946|5|19|1993|1|27}}
 
| 出身地 = {{FRA}}<br >[[イゼール県]] [[グルノーブル]]
 
| 所属 =
 
| トレーナー = フランク・バロア<br />[[エドワード・カーペンティア]]<br />[[バーン・ガニア]]<br />[[ビル・ロビンソン]]<br />[[吉原功]]
 
| デビュー = [[1964年]]
 
| 引退 = [[1993年]]
 
}}
 
  
'''アンドレ・ザ・ジャイアント'''('''André the Giant'''、本名:'''André René Roussimoff'''、[[1946年]][[5月19日]] - [[1993年]][[1月27日]])は、[[フランス]]・[[グルノーブル]]出身の[[プロレスラー]]。
+
[[フランス]]・[[グルノーブル]]出身の[[プロレスラー]]。
  
 
公式プロフィールでは身長が7フィート4インチ(約223cm)、体重が520ポンド(約236kg)とされ、北米では "'''The 8th Wonder of the World'''"(世界8番目の不思議)、日本では「'''大巨人'''」などの異名で呼ばれた。
 
公式プロフィールでは身長が7フィート4インチ(約223cm)、体重が520ポンド(約236kg)とされ、北米では "'''The 8th Wonder of the World'''"(世界8番目の不思議)、日本では「'''大巨人'''」などの異名で呼ばれた。
23行目: 7行目:
 
圧倒的な体格もさることながら、[[アームロック]]などのレスリングテクニックでも観客を惹きつけることができる巨人レスラーとして、世界各地で活躍した。
 
圧倒的な体格もさることながら、[[アームロック]]などのレスリングテクニックでも観客を惹きつけることができる巨人レスラーとして、世界各地で活躍した。
  
== 来歴 ==
 
[[フランス]]の[[グルノーブル]]にて、[[ブルガリア]]=[[ポーランド]]系の家庭に生まれる。少年時代から[[サッカー]]、[[ボクシング]]、[[アマチュアレスリング|レスリング]]などに打ち込む。[[1964年]]、18歳の時に[[パリ]]で'''アンドレ "ザ・ブッチャー" ロシモフ'''(''Andre "The Butcher" Rousimoff'')としてデビュー。『[[プロレススーパースター列伝]]』などで日本に流布していた「プロレスラーになる前には[[きこり]]をしていて、山中にいるところを[[エドワード・カーペンティア]]に "発見" された」という逸話は事実ではなく、デビュー前はパリの家具運送会社に勤務しており<ref name="best 1000">『THE WRESTLER BEST 1000』P118(1996年、[[日本スポーツ出版社]])</ref>、無名時代にカーペンティアに見出されたというのが真相である。もっとも、[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]でのデビュー説もあるなどフランス時代の経歴については不明瞭な部分も多く、様々な説がある。フランス時代は'''ジェアン・フェレ'''(''Géant Ferré'' / ''Giant Ferré'')、'''モンスター・エッフェルタワー'''(''Monster Eiffel Tower'')などの名義で活動していた<ref name="wd">{{cite web|url=http://wrestlingdata.com/index.php?befehl=bios&wrestler=227|title=André the Giant|accessdate=2015-11-02|publisher=Wrestlingdata.com}}</ref>。
 
  
[[1970年]]2月に[[国際プロレス]]に初来日した際、同時来日していた[[アメリカン・レスリング・アソシエーション|AWA]]の[[バーン・ガニア]]に見込まれ、[[1971年]]9月より北米へ進出<ref name="gs32">『Gスピリッツ Vol.32』P8(2014年、[[辰巳出版]]、ISBN ISBN 4777813304)</ref>。フランス語圏である[[カナダ]]の[[モントリオール]]を拠点に、'''ジャン・フェレ'''(''Jean Ferré'' / 日本では英語風に「'''ジーン・フェレ'''」と読まれた)の名で活動する。ここで[[映画]]『[[キング・コング]]』をモチーフにした'''世界八番目の不思議'''(''The 8th Wonder of the World'')というニックネームが付けられた。巨人選手対決として、[[キラー・コワルスキー]]や[[ドン・レオ・ジョナサン]]など超大物選手とも対戦した。
+
{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
[[1973年]]に'''アンドレ・ザ・ジャイアント'''(''André the Giant'')と改名し、WWWF(現:[[WWE]])のプロモーターの[[ビンス・マクマホン・シニア]]と契約。しかしWWWFとは専属契約をしたわけではなく、マクマホン・シニアのブッキングで古巣のAWAや[[NWA (プロレス)|NWA]]はもとより、世界中の様々な団体を定期的に短期参戦して回るようになる。これは「滅多に出会えない怪物」として希少価値を高めるという[[マーケティング]]上の戦術からの判断である。実際、それまでにプロレス界に登場した[[スカイ・ハイ・リー]]や[[グレート・アントニオ]]などの怪物レスラーは、アンドレとは異なりアスリートとしての実力的な問題もあって、短期間で一般層のファンから飽きられて人気が衰えていった。
 
 
 
この世界サーキットを行っていた10年間が彼の全盛期であり、アンドレは[[ベビーフェイス (プロレス)|ベビーフェイス]]のスペシャル・ゲストの立場で各地のビッグイベントに出場。[[バトルロイヤル]]やハンディキャップ・マッチなどで圧倒的体格による強さを見せつけつつ、[[テリー・ファンク]]、[[ハーリー・レイス]]、[[ニック・ボックウィンクル]]、[[スーパースター・ビリー・グラハム]]ら当時のNWA・AWA・WWWFの[[ヒール (プロレス)|ヒール]]系世界王者を始め、[[ザ・シーク]]、[[ワルドー・フォン・エリック]]、[[ブラックジャック・マリガン]]、[[ブラックジャック・ランザ]]、[[レイ・スティーブンス]]、[[パット・パターソン]]、[[キラー・カール・コックス]]、[[アーニー・ラッド]]、[[イワン・コロフ]]、[[バロン・フォン・ラシク]]、[[スタン・ハンセン]]、[[ビル・イーディー|マスクド・スーパースター]]、[[ブルーザー・ブロディ]]、[[リック・フレアー]]、[[ケン・パテラ]]、[[ボビー・ダンカン]]、[[バリアント・ブラザーズ]]、[[ミネソタ・レッキング・クルー]]、[[ロディ・パイパー]]、[[ジェリー・ブラックウェル|クラッシャー・ブラックウェル]]、[[アンジェロ・モスカ]]、[[モンゴリアン・ストンパー]]、[[バグジー・マグロー]]、[[ニコライ・ボルコフ]]、[[ドン・ジャーディン|ザ・スポイラー]]、[[オックス・ベーカー]]、[[マーク・ルーイン]]、[[アブドーラ・ザ・ブッチャー]]、[[タンク・パットン]]、[[スコット・アーウィン|スーパー・デストロイヤー]]、[[サージェント・スローター]]、[[アレックス・スミルノフ]]など全米のトップ・ヒールと対戦した<ref name="History of Andre">{{cite web|url=http://forums.thesmartmarks.com/lofiversion/index.php?t68889.html|title=The History of Andre the Giant|accessdate=2010-05-15|publisher=The Smart Marks.com}}</ref>([[ヨーロッパ|欧州]]では[[1979年]]12月に[[ローラン・ボック]]とのシングルマッチも実現している<ref name="best 1000"/> )。[[1974年]]の[[ギネス・ワールド・レコーズ|ギネスブック]]には「年俸世界一(40万ドル)のプロレスラー」として彼が掲載されている。当時の[[為替]]レートは1ドル=約300円。
 
 
 
[[1984年]]、[[ビンス・マクマホン|ビンス・マクマホン・ジュニア]]のWWF全米進出計画が始まるとベビーフェイス陣営の主要メンバーとしてサーキットに参加、以降は退団する[[1990年]]までWWF専属選手となった。スーパースター軍団となったWWFでは同じ巨人型の[[ビッグ・ジョン・スタッド]]がライバルとなり、[[レッスルマニア]]の[[レッスルマニア (1985)|第1回大会]]ではスタッドと『15000ドル争奪ボディスラム・マッチ』で対戦した。
 
 
 
アンドレはアメリカでは絶対のベビーフェイスであったが、[[1987年]]、WWFでは長らく盟友だった[[ハルク・ホーガン]]を裏切り[[ヒール (プロレス)|ヒール]]に転向、[[ボビー・ヒーナン]]を[[マネージャー (プロレス)|マネージャー]]に従え、コスチュームも黒のワンショルダーに変更した。同年の[[レッスルマニアIII]]では[[WWE世界ヘビー級王座|WWF世界ヘビー級王座]]を賭けホーガンと「世紀の対決」が行われたが敗れる。この試合でホーガンがアンドレを[[ボディスラム]]で投げたシーンはアメリカプロレス史上屈指の名シーンとなった。翌[[1988年]]2月5日の "[[:en:WWF The Main Event|The Main Event]]" にて再戦が行われ、WWF王座を奪取したものの、直後に[[テッド・デビアス]]に[[アングル (プロレス)|アングル]]としてベルトを売却<ref name="wwe-h">{{cite web|url=http://www.wrestling-titles.com/wwe/wwe-h.html|title=WWWF/WWF/WWE World Heavyweight Title|accessdate=2015-04-05|publisher=Wrestling-Titles.com}}</ref>。翌週にデビアスは王座を剥奪されたが、以後デビアスと「メガ・バックス」なるタッグチームを結成し<ref>{{cite web|url=http://www.cagematch.net/?id=28&nr=599|title=Mega Bucks|accessdate=2015-04-05|publisher=Cagematch.net}}</ref>、ホーガン&[[ランディ・サベージ]]の「メガ・パワーズ」と抗争を展開した<ref>{{cite web|url=http://www.thehistoryofwwe.com/88.htm|title=WWE Yearly Results 1988|accessdate=2015-04-05|publisher=The History of WWE}}</ref>。
 
 
 
[[File:Jake Roberts and Andre.jpg|thumb|[[ジェイク・ロバーツ|ジェイク "ザ・スネーク" ロバーツ]] (195cm) をコーナーに追い詰めるアンドレ・ザ・ジャイアント。]]
 
[[1980年代]]中期頃から急増した体重を起因とする膝や腰の痛みに悩まされ始め、全盛期の動きの切れは徐々に失われて行った。その後、当時WWFがホーガンに代わる主役として期待していた[[アルティメット・ウォリアー]]の売り出しに使われ、連敗を重ねる。また「ヘビ嫌い」との設定が加わり[[ジェイク・ロバーツ|ジェイク "ザ・スネーク" ロバーツ]]とも抗争。その後、マネージャーのヒーナンと仲間割れしてベビーフェイスに戻るが、体調不良のため[[1990年]]にWWFを退団。その後、さらに増した身体の痛みにより試合を行う機会は減少したが、最後の主戦場とした[[全日本プロレス]]においては、主に[[ジャイアント馬場]]とのタッグ「[[大巨人コンビ]]」で活躍した。
 
 
 
父親の葬儀へ出席するためフランスに帰国していた[[1993年]][[1月27日]]、[[パリ]]のホテル内で死去。死因は[[心不全#急性心不全|急性心不全]]であった<ref name=wpro1790-4 />。長年に渡る過度の飲酒(全盛期は[[ビール]]、レスラー後期から晩年は[[ワイン]]を愛飲していた)が原因と言われている。飲酒量が桁違いだったため、酒にまつわるアンドレの逸話は数知れない。[[ミスター高橋]]によると試合前でも何本も酒を飲み、しかも後年はほとんどトレーニングをしなかったため、余計心臓に負担がかかっていたことは明らかだったという。
 
 
 
WWFは生前の活躍に敬意を表するために、WWF殿堂(後の[[WWE殿堂]])を設立し、殿堂入りの第一号を彼に与えた<ref>「週刊プロレス アルバムシリーズ55 アンドレ・ザ・ジャイアント 大巨人ヒストリーIV」、『[[週刊プロレス]]』No.1790、[[ベースボール・マガジン社]]、平成27年5月13日/5月20日合併号(4月28日発行)、72-73頁、2015年。</ref>。
 
 
 
[[2008年]]には彼の功績をまとめたDVDも[[WWE]]より発売された。
 
 
 
=== 日本での活躍 ===
 
初来日は[[1970年]]1月。まだアメリカで注目を浴びる前の無名時代、[[吉原功]]にスカウトされ'''モンスター・ロシモフ'''(''Monster Roussimoff'')のリングネーム(吉原命名)で[[国際プロレス]]へ参戦した<ref name=wpro1790>「週刊プロレス アルバムシリーズ55 アンドレ・ザ・ジャイアント 大巨人ヒストリーI」、『[[週刊プロレス]]』No.1790、[[ベースボール・マガジン社]]、平成27年5月13日/5月20日合併号(4月28日発行)、62-63頁、2015年。</ref>。この前年5月18日にパリで行われた初代[[IWA世界タッグ王座]]決定戦で[[イワン・ストロゴフ]]と組み、[[豊登道春|豊登]]&[[ストロング小林]]と戦うも1-2で敗れている<ref name="IWA Tag"/>が、日本でも報道されて評判は伝わっていた<ref name=wpro1790 />。1月18日に[[福岡市九電記念体育館]]で行われたIWA世界タッグ王座決定戦では、マイケル・ネイダーとのコンビで[[サンダー杉山]]&[[グレート草津]]を破り王座を獲得するが、2月3日の[[広島県立体育館]]にて杉山&草津に敗れ、短命王者となった(2月11日にもネイダーと組んで杉山&草津に再挑戦したが敗退)<ref name="iwe-mook102">『忘れじの国際プロレス』P102(2014年、[[ベースボール・マガジン社]]、ISBN 4583620802)</ref>。この初来日時、[[アメリカン・レスリング・アソシエーション|AWA]]の総帥[[バーン・ガニア]]と邂逅、北米進出のきっかけを掴む<ref name="gs15">『Gスピリッツ Vol.15』P73(2010年、辰巳出版、ISBN 477780772X)</ref>。[[1971年]]の再来日では[[カール・ゴッチ]]や[[ビル・ロビンソン]]を抑え、第3回[[IWAワールド・シリーズ]]で優勝を果たした<ref name=wpro1790 />。また、[[1972年]]の第4回IWAワールド・シリーズでも決勝に進出するが、小林に敗れて準優勝に終わった<ref name=wpro1790-2>「週刊プロレス アルバムシリーズ55 アンドレ・ザ・ジャイアント 略歴」、『[[週刊プロレス]]』No.1790、[[ベースボール・マガジン社]]、平成27年5月13日/5月20日合併号(4月28日発行)、56-57頁、2015年。</ref>。またこの来日時、5月4日に[[新潟市体育館]]において、イワン・バイテンをパートナーに杉山&[[ラッシャー木村]]が保持していたIWA世界タッグ王座に再挑戦している<ref name="iwe-mook102" />。
 
 
 
その後、ブッキング権がガニアから[[WWE|WWF]]の[[ビンス・マクマホン・シニア]]に移行したことに伴い、[[1974年]]2月より日本でのリングをWWFと提携していた[[新日本プロレス]]へ移し、[[アントニオ猪木]]との抗争を開始<ref name="andoresinma"/> 。1974年3月15日に[[岡山武道館]]で行われた猪木との初のシングルマッチでは、当時のマネージャーだったフランク・バロアがロープに飛んだ猪木の足を取ってダウンさせ、[[ボディ・プレス#ジャンピング・ボディ・プレス|ジャイアント・プレス]]でフォール勝ちを収めた<ref name=wpro1790-3>「週刊プロレス アルバムシリーズ55 アンドレ・ザ・ジャイアント 大巨人ヒストリーII」、『[[週刊プロレス]]』No.1790、[[ベースボール・マガジン社]]、平成27年5月13日/5月20日合併号(4月28日発行)、64-65頁、2015年。</ref>。以降の対戦では、猪木が掛けた[[キーロック]]をアンドレが軽々と持ち上げる、アンドレが掛けた[[カナディアン・バックブリーカー]]を猪木がロープを蹴って返しリバース・スープレックスで投げる、というムーブが見せ場として定着した。
 
 
 
猪木が[[ウィレム・ルスカ]]や[[モハメド・アリ]]との対戦で[[異種格闘技戦]]をスタートさせた[[1976年]]の10月7日には、[[蔵前国技館]]にて「格闘技世界一決定戦」と銘打たれた両者のシングルマッチが行われた<ref name="njpw">『新日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P8(2002年、日本スポーツ出版社)</ref>。猪木の保持していた[[NWF]]ヘビー級王座には、1974年12月15日に[[ブラジル]]・[[サンパウロ]]のコリンチャンス・スタジアム、[[1977年]]6月1日に[[名古屋市|名古屋]]の[[愛知県体育館]]にて、2度にわたって挑戦<ref name="njpw"/>。猪木が[[坂口征二]]とのコンビで戴冠していた[[北米タッグ王座|NWA北米タッグ王座]]にも、[[ロベルト・ソト]]、[[トニー・チャールズ]]、ザ・プロフェッショナル(ダグ・ギルバート)など、いずれも弱体ながらパートナーを代えて3回挑戦している<ref name="40th">『1945-1985 激動のスポーツ40年史 (6) プロレス 秘蔵写真で綴る激動史』P161(1986年、ベースボール・マガジン社)</ref>。
 
 
 
新日本プロレスでは[[スタン・ハンセン]]とも外国人同士によるスーパーヘビー級の抗争を繰り広げ、[[1981年]]9月23日、[[田園コロシアム]]で行われたハンセンとの[[一騎討ち]]は、日本のプロレス史に残る伝説の名勝負とされる<ref name="andoresinma"/> <ref name="njpw"/><ref name="gs27">『Gスピリッツ Vol.27』P34(2013年、辰巳出版、ISBN 4777811476)</ref>。同年12月10日には、[[レネ・グレイ]]をパートナーに[[大阪府立体育会館|大阪府立体育館]]にて猪木&[[藤波辰爾|藤波辰巳]]を破り、第2回MSGタッグ・リーグ戦に優勝<ref name=wpro1790-3 /><ref name="andoresinma"/> 。[[1982年]]4月1日には蔵前国技館にて[[キラー・カーン]]を下し第5回[[MSGシリーズ]]も制覇している(新日本のシングルのリーグ戦における外国人選手の優勝はこれが初めて)<ref name=wpro1790-3 />。
 
 
 
新日本プロレス参戦時は、実況アナウンサーである[[古舘伊知郎]]が、'''大巨人'''、'''巨大なる人間山脈'''、'''一人民族大移動'''などの表現を使ったことから、これらがアンドレのニックネームとなった(古舘はこの他にも「一人というには大きすぎる。二人といったら世界人口の辻褄が合わない」「人間というより化け物といった方がいいような」「都市型破壊怪獣[[ゴジラ]]」「怪物コンプレックス」「一人大恐竜」「[[ガリバー]][[シンドローム]]」といった形容詞も使用している)。[[1985年]]には[[若松市政|将軍KYワカマツ]]を[[マネージャー (プロレス)|マネージャー]]に従え、'''ジャイアント・マシーン'''(''Giant Machine'')なる[[覆面レスラー]]にも変身した<ref name=wpro1790-3 />。[[若松市政#マシーン軍団|マシーン軍団]]はWWFでもコピーされたため、アメリカにも同様の[[ギミック (プロレス)|ギミック]]で登場したことがある。キャリア晩年に使用していた黒のワンショルダー・タイツは、この頃の名残である。なお、ジャイアント・マシーンの正体は公然の秘密だったが、相棒であったスーパー・マシーン(正体は[[ビル・イーディー|マスクド・スーパースター]])については、WWFオフィシャル発表では「[[北海道]]生まれの日本人」ということにされていた。アンドレもそれに合わせ、プロモーション用のインタビューで珍妙な日本語を話したり、お辞儀をしたりなどしていた。
 
 
 
WWFと新日本プロレスの提携解消後も、[[1986年]]まで新日本プロレスに参戦し、4月29日には[[UWF]]の[[前田日明]]との不穏試合も行われている<ref>『新日本プロレス伝説 完全解明』P150-160(2009年、[[宝島社]]、ISBN 4796670491)</ref>。5月開幕の[[IWGPリーグ戦#第四回大会|IWGPチャンピオン・シリーズ]]では、6月17日の愛知県体育館における公式戦にて、猪木に腕固めで初のギブアップ負けを喫した<ref>『新日本プロレス伝説 完全解明』P112-117(2009年、宝島社、ISBN 4796670491)</ref><ref name=wpro1790-3 />。それ以降、しばらく来日が途絶えていたが、[[1990年]]4月13日に[[東京ドーム]]で開催された[[日米レスリングサミット]]にて久々に日本マットに登場し、[[ジャイアント馬場]]と[[大巨人コンビ]]を結成<ref name=wpro1790-4>「週刊プロレス アルバムシリーズ55 アンドレ・ザ・ジャイアント 大巨人ヒストリーIII」、『[[週刊プロレス]]』No.1790、[[ベースボール・マガジン社]]、平成27年5月13日/5月20日合併号(4月28日発行)、68-69頁、2015年。</ref>。同年9月30日、馬場のデビュー30周年記念試合でタッグながら初対決してからは[[全日本プロレス]]へ主戦場を移し、1990年、1991年と[[世界最強タッグ決定リーグ戦]]には馬場との大巨人コンビで出場し、1991年には準優勝している<ref name=wpro1790-4 />。しかしコンディションはどんどん悪化したため、1992年からは馬場や木村の[[ファミリー軍団]]に加わり、[[悪役商会 (プロレス)|悪役商会]]との明るく楽しいプロレスが中心となった<ref name=wpro1790-4 />。しかし、10月21日に[[日本武道館]]で行われた全日本プロレス創立20周年記念試合(馬場&amp;ハンセン&amp;[[ドリー・ファンク・ジュニア]]vs[[ジャンボ鶴田]]&amp;アンドレ&amp;[[テリー・ゴディ]]戦)では、アンドレvsハンセンの対決が再び実現<ref name=wpro1790-4 />。アンドレの動きは全盛期とは程遠かったものの、ハンセンの[[ラリアット|ウエスタン・ラリアット]]を喰らっても倒れず、ロープにもたれる程度に踏み留まってみせるなど、最後の最後まで怪物ぶりを見せつけた。
 
 
 
なお、アメリカでは[[ベビーフェイス (プロレス)|ベビーフェイス]]の人気選手として活躍していたが、新日本プロレスでは[[ヒール (プロレス)|ヒール]]のポジションに回った。もっとも日本でも、[[ザ・シーク]]や[[フレッド・ブラッシー]]のようなスタイルのヒールを演じていたわけではなく、馬場をも凌ぐ圧倒的な巨体と強さのためにヒール扱いされてしまったものである。しかし、アンドレは日本におけるヒールとしての役割を受け入れ、「日本人嫌い」というイメージが損なわれないようサインなどのファンサービスはほとんど行わず、マスコミの取材に応じることも少なかった<ref name="pa28">『プロレスアルバム28 世界最強の男 アンドレ・ザ・ジャイアント』P12-13(1983年、[[ベースボール・マガジン社#恒文社|恒文社]])</ref>。
 
 
 
一転して全日本プロレスへ参戦していた当時のアンドレは、馬場とコンビを組んでいたこともあって、新日本時代とは異なり完全なベビーフェイスとなった。全日本登場第1戦から出番のたびに大アンドレ・コールで迎えられ、笑顔でファンの声援に応じたり、入場時の花束贈呈の際には、花束を受け取ると[[ブーケ・トス]]のように後方の客席に投げてプレゼントしたり、コールの時には二本指を立てて腕を上げるアピールも見せていた。
 
 
 
また、初来日を果たし、北米進出の契機にもなった国際プロレスに対するアンドレの思い入れは非常に深く<ref name="iwe-mook">『忘れじの国際プロレス』P12(2014年、ベースボール・マガジン社、ISBN 4583620802)</ref>、1974年の新日本移籍後も、同年6月と[[1979年]]7月に国際プロレスに特別参加したことがある(1979年の参戦時には、7月20日に[[秋田県]][[大館市]]にて木村の[[IWA世界ヘビー級王座]]に挑戦した<ref>『忘れじの国際プロレス』P101(2014年、ベースボール・マガジン社、ISBN 4583620802)</ref>)。日本での親友でもあった[[マイティ井上]]の談では、ギャラについても「いくらでもいい」などと語っていたという(後述)<ref name="iwe-mook"/>。
 
 
 
== 得意技 ==
 
[[File:Andre the Giant.jpg|thumb|[[キングコング・バンディ]]に[[十六文キック#十八文キック|ビッグブーツ]]を放つアンドレ・ザ・ジャイアント(1986年頃のWWF)]]
 
; [[ボディ・プレス#ジャンピング・ボディ・プレス|ジャイアント・プレス]]
 
: 一般的にいうところの[[ボディ・プレス]]なのだが、アンドレの巨体が全体重をかけて相手を押し潰す様は圧巻の一言。ここぞという時の決め技として使用され、実質アンドレ最大のフィニッシュ・ホールドといえる。ジャンプして見舞うときと、両ひざをついて相手に倒れこむときの2通りがある<ref name=wpro1790-6 />。自身への負担が大きく、1982年ごろから使う頻度が大きく減った<ref name=wpro1790-6 />。
 
; [[ヒップドロップ]]
 
: ヒップドロップといえば繋ぎ技として扱われることが多いが、プロレス界においても突出した巨躯を誇ったアンドレが放つそれは、充分にフィニッシュ・ホールドとして通用する破壊力を持っていた<ref name=wpro1790-6>「週刊プロレス アルバムシリーズ55 アンドレ・ザ・ジャイアント ジャイアント技図鑑」、『[[週刊プロレス]]』No.1790、[[ベースボール・マガジン社]]、平成27年5月13日/5月20日合併号(4月28日発行)、76頁、2015年。</ref>。この体勢からフォールを狙う場合も多い。相手がタフかどうかで飛ぶ高さを決めており、高く飛んだ相手はタフさを認めたものだとアンドレは語っている<ref name=wpro1790-6 />。
 
; ヒッププッシュ
 
: 相手をコーナーに追い詰めたのち、相手やコーナーに背中を向ける形で覆い被さり、勢いを付けて相手に尻を突き当てる。コーナーとアンドレの巨体に挟まれるため、相手は逃げ場がなく、また受けるダメージも大きい。タッグマッチの際は、相手を2〜3人まとめてコーナーに追い詰め、この技を繰り出すこともある。
 
; [[フロント・ネックチャンスリー#フロント・ネックチャンスリー・ドロップ|フロント・ネックチャンスリー・ドロップ]]
 
: 相手の首を正面からロックし、後方へ反り投げる技。決して簡単な技ではなく、アンドレのレスリングセンスの高さが垣間見える。なお、第5回の[[MSGシリーズ]]優勝決定戦では、この技をフィニッシュに繰り出して[[キラー・カーン]]からフォールを奪っている。
 
; [[ボディスラム#ハイアングル・ボディスラム|ハイアングル・ボディスラム]]
 
: 相手を高々と担ぎ上げ、勢いをつけてマットへ叩きつける技。ずば抜けた長身から繰り出すため、ボディスラムとしては破格ともいえる威力を誇っていたが、体重が増加した頃から使う頻度は減少していった。
 
; [[エルボー・ドロップ]]
 
: 寝た状態の相手に向かって倒れこむように肘を落とす。体重が増加してからは使用頻度が減ったが、晩年の[[全日本プロレス]]登場時には馬場の[[十六文キック]]で倒れた相手に倒れ掛かるようにこの技を繰り出し、そのままフォールするのが大巨人コンビ定番のフィニッシュムーブだった。
 
; [[十六文キック#十八文キック|カウンターキック]]
 
: ジャイアント馬場の[[十六文キック]]に対抗して「'''十八文キック'''」と呼ばれていた<ref name=wpro1790-6 />。通称「人間[[エグゾセ]]ミサイル」(仏製対艦ミサイルのイメージから[[古舘伊知郎]]が命名)。
 
; [[ネックハンギングツリー]]
 
: 相手の首を両手で捕らえ、その体勢から腕力で持ち上げることで首を絞め上げる。その長身を生かしたリフトは驚異的な高さに達し、抜群の説得力を持つ技であった。
 
; [[パイルドライバー#ツームストーン・パイルドライバー|ツームストーン・パイルドライバー]]
 
: 来日前からの得意技であり、初期のフィニッシュ・ホールド。[[1972年]]に[[ターザン・タイラー]]との試合で使用した際、相手の首の骨を折ってしまってからは封印している。しかし[[パイルドライバー|ドリル・ア・ホール・パイルドライバー]]は、エキサイトした余り猪木に見舞ったことがある。
 
; [[頭突き|ヘッドバット]]
 
: 「ジャイアント・ヘッドバット」とも呼ばれる頭突き。アンドレが放つ頭突きは、長身を生かして相手の脳天付近を狙うものであり、しばしば「二階からのヘッドバット」と称された<ref name=wpro1790-6 />。また、ジャンプすることでさらに落差を付けるバージョン、倒れている相手に対して頭から倒れ掛かるバージョンもあり、その場合は「ジャイアント・スクワッシュ」という技名で呼ばれた。
 
; [[ベアハッグ]]
 
: 長い両腕を利用して、相手の胴を強烈に絞め上げる。お気に入りの技だったらしく、試合でたびたび使用していた。またその巨体ゆえ膝を付いた体勢で繰り出すこともあった<ref name=wpro1790-6 />。
 
; [[体当たり#プロレスリング|ショルダー・ブロック]]
 
: ショルダー・タックル。相手をコーナーに追い詰め、勢いよくダッシュして繰り出すか、またはヒッププッシュ同様、両手でセカンドロープを持って相手の逃げ場を封鎖して、肩口を相手のボディに突き当てる技。後者は体重が増加してから使用し始めた(タッグマッチの際には[[寺院]]の[[梵鐘]]を撞木で突き鳴らす感じで相方に腰を持ってもらい、引いて反動を付けて繰り出すこともあった)。ちなみに[[古舘伊知郎]]はこの技を別名で「人間圧殺刑」と呼んだことがある。
 
; [[ラリアット|ジャイアント・ボンバー]]
 
: ラリアット。ジャイアント・マシーン変身時、フィニッシュとして繰り出していた。[[坂口征二]]からフォールを奪い、若手のレスラーを失神させたこともある。
 
; [[アイアンクロー#その他のクロー系|クロー]]
 
: ショルダークローやストマッククローなど、巨大な手で体の一部を鷲掴みにしていた<ref name=wpro1790-6 />。
 
; [[アトミック・ドロップ]]
 
: [[スタン・ハンセン]]や[[バグジー・マグロー]]などの巨漢を軽々とリフトアップしたこともある。落差があることから一撃必殺の技ともなった<ref>『プロレスアルバム28 世界最強の男 アンドレ・ザ・ジャイアント』P57(1983年、恒文社)</ref>。
 
;[[ペディグリー|ダブルアーム・フェイスバスター]]
 
:[[アントニオ猪木]]戦で披露した技で現在でいうペディグリーに近い技。屈んだ相手の両手首を掴んで背中方向へ引っ張り上げ、体重を乗せて顔面から叩きつける。
 
 
 
技ではないが、トップロープとセカンドロープの間に両腕を絡める独自のムーブを持っている。明らかにアンドレ自身が故意に腕を絡めているのだが「アンドレの巨体によってロープがたわむハプニングで腕が絡まってしまった」と見るのが礼儀。両腕が塞がれているためアンドレは身動きが取れず、対戦相手がアンドレに向かっていくが逆にカウンターキックを見舞われてしまうのが一連の流れ。ちなみに、相手にカウンターキックを放った後、いとも簡単に両腕をロープから外す。タッグマッチではこれで身動きが取れない間にパートナーがフォールを奪われる、という流れになる。
 
 
 
現在では、生前のアンドレに匹敵する体格を持つWWEの大型選手[[ダリップ・シン|グレート・カリ]]、[[ビッグ・ショー (プロレスラー)|ビッグ・ショー]]も、試合でこのロープに絡まるムーブを度々披露している。ちなみに元[[新日本プロレス]]のレフェリーであった[[ミスター高橋]]は試しにそれを実践してみたことがあるが、ロープが固く腕に巻きついて腕が折れそうになり、とてもではないが出来なかったという。このムーブはアンドレ並の巨体を持った者のみに可能なものだった。
 
 
 
== 獲得タイトル ==
 
; [[国際プロレス|インターナショナル・レスリング・エンタープライズ]]
 
* [[IWA世界タッグ王座]]:1回(w / マイケル・ネイダー a.k.a. ミシェル・ナドール)<ref name="IWA Tag">{{cite web|url=http://www.wrestling-titles.com/japan/iwe/iwe-t.html|title=IWA World Tag Team Title|accessdate=2010-05-15|publisher=Wrestling-Titles.com}}</ref>
 
** [[1970年]]1月18日、王座決定戦で[[サンダー杉山]]&[[グレート草津]]を破り獲得。
 
; ワールド・チャンピオンシップ・レスリング(オーストラリア)
 
* [[NWA (プロレス)|NWA]]豪亜タッグ王座:1回(w / ロン・ミラー)<ref name="AA Tag">{{cite web|url=http://www.wrestling-titles.com/australia/wcw/aa-t.html|title=NWA Austra-Asian Tag Team Title|accessdate=2010-05-15|publisher=Wrestling-Titles.com}}</ref>
 
** [[1978年]]12月8日、[[オックス・ベーカー]]&[[ブッチャー・ブラニガン]]から奪取。
 
; NWAトライステート
 
* NWA USタッグ王座([[オクラホマ州|トライステート]]版):1回(w / [[ダスティ・ローデス]])<ref name="US Tag">{{cite web|url=http://www.wrestling-titles.com/us/midsouth/nwa/tri-us-t.html|title=NWA United States Tag Team Title|accessdate=2010-05-15|publisher=Wrestling-Titles.com}}</ref>
 
** 1978年12月25日、トーナメント決勝で[[スタン・ハンセン]]&[[アーニー・ラッド]]を破り獲得。
 
; [[チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ]]
 
* NWAフロリダ・タッグ王座:1回(w / ダスティ・ローデス)<ref name="FCW Tag">{{cite web|url=http://www.wrestling-titles.com/us/fl/fl-t.html|title=NWA Florida Tag Team Title|accessdate=2010-05-15|publisher=Wrestling-Titles.com}}</ref>
 
** [[1981年]]2月12日、[[ボビー・ジャガーズ]]&[[ランディ・タイラー]]から奪取。
 
; [[WWE|ワールド・レスリング・フェデレーション]]
 
* [[WWE世界ヘビー級王座|WWF世界ヘビー級王座]]:1回<ref name="WWE">{{cite web|url=http://us.wwe.com/inside/titlehistory/wwechampionship/|title=WWE World Heavyweight Title|accessdate=2010-05-15|publisher=WWE.com}}</ref>
 
** [[1988年]]2月5日、[[ハルク・ホーガン]]から奪取。
 
* [[WWE・世界タッグチーム王座|WWF世界タッグ王座]]:1回(w / [[キング・ハク]])<ref name="WWE Tag">{{cite web|url=http://us.wwe.com/inside/titlehistory/worldtagteam/|title=WWE World Tag Team Title|accessdate=2010-05-15|publisher=WWE.com}}</ref>
 
** [[1989年]]12月13日、[[デモリッション]]([[ビル・イーディー|アックス]]&[[バリー・ダーソウ|スマッシュ]])から奪取。
 
* [[WWE殿堂|WWF Hall of Fame]] ([[WWE殿堂#1993年|1993年度]])
 
** [[1993年]]6月3日に発表。殿堂入り第1号。
 
 
 
== マネージャー ==
 
* フランク・バロア(モントリオール時代からのマネージャー)
 
* [[アーノルド・スコーラン]]([[新日本プロレス]]において、[[MSGシリーズ]]や[[田園コロシアム]]での[[スタン・ハンセン]]戦などで担当)
 
* [[若松市政|将軍KYワカマツ]](新日本プロレスにおいて、ジャイアント・マシーン変身時に担当)<ref name="iwe-bb">『忘れじの国際プロレス』P69(2014年、ベースボール・マガジン社、ISBN 4583620802)</ref>
 
* [[ルー・アルバーノ|キャプテン・ルー・アルバーノ]]([[WWE|WWF]]において、ジャイアント・マシーン変身時に担当)
 
* [[ボビー・ヒーナン]](WWFにおいて、ヒール転向後に担当)
 
 
 
== 入場テーマ曲 ==
 
新日本プロレス時代に日本で制作されたオリジナルの入場テーマ曲『'''ジャイアント・プレス'''』は、没後も日本マットに登場した巨人プロレスラーや格闘家に用いられた。WWFにおいても、マシーンズの入場テーマ曲として使用されていた。ヒール転向後のWWF時代は、1980年代後半当時では珍しい「テーマ曲なし」で入場していた。
 
 
 
== 俳優としての活動 ==
 
アメリカではその巨体から怪物的なキャラクターとして映画、ドラマにたびたび出演していた。
 
* テレビドラマ「[[600万ドルの男]]」([[ビッグフット]]役)1976年
 
* テレビドラマ「[[アメリカン・ヒーロー]]」(ザ・モンスター役)1982年
 
* 映画「[[プリンセス・ブライド・ストーリー]]」(フェジック役)監督:[[ロブ・ライナー]]、1987年
 
 
 
== エピソード、その他 ==
 
* その巨体ゆえに投げ技をかけられることはほとんど無かったが、[[ハルク・ホーガン]]や[[スタン・ハンセン]]、[[ハーリー・レイス]]、[[ローラン・ボック]]、[[カネック]]、[[ブラックジャック・マリガン]]などのレスラーによってボディスラムで投げられている(マリガンは日本では報じられることはなかったが、[[1982年]]9月18日、WWFの[[フィラデルフィア]]大会における6人タッグマッチでアンドレを投げている<ref name="Mulligan">{{cite web|url=http://www.thehistoryofwwe.com/82.htm|title=WWE Yearly Results 1982|accessdate=2010-05-15|publisher=The History of WWE}}</ref>)。日本人で成功したのは[[アントニオ猪木]]、[[長州力]]、[[ストロング小林]]の3人のみである。アンドレを[[ボディスラム]]で投げることがレスラーのステイタスだった時期もあった。[[ブルーザー・ブロディ]]も[[オーストラリア]]で投げたというが、これは非公式記録となっている。[[カール・ゴッチ]]はモンスター・ロシモフ時代のアンドレを[[ジャーマン・スープレックス]]で投げ切っており、これがスープレックスでアンドレを投げた唯一の記録とされている。なお、アンドレ自身は「俺は気心の知れた奴にしかボディスラムを許さなかった」とハンセンへ語っていたといい、ハーリー・レイスは投げる時にアンドレが自分に「早くしろ」と囁いたと[[坂口憲二]]に語っていた。新間寿の回想によると、猪木に投げられた時は「私はそこにはアンドレの思いやりがあったと思っている」とのこと<ref name="andoresinma"/> 。これらの証言から踏ん張った状態のアンドレを本当に投げることのできたレスラーがどれだけ居たのかは不明。
 
* [[ベースボール・マガジン社]]発行の『プロレス異人伝 来日外国人レスラー・グラフィティ』の「外国人係は見ていた」の項にてインタビューを受けた[[タイガー服部]]によると、アンドレはヒッププッシュを繰り出す際によく[[屁]]を放っていたそうで、その臭いはリング内の選手やレフェリーはおろか、リング外にいるカメラマンや若手選手、リング最前列から10番目くらいの観客にまで届いたという。
 
* キラー・カーンによれば、引退したのちにスタン・ハンセンやハルク・ホーガンと話した際、双方がアンドレは彼らをうまく持ち上げてくれたと証言し、アンドレには感謝しており、「あれほどのレスラーはもう出てこないだろう」と発言していた、とされる。キラー・カーン自身は「相手のいいところを出させてあげて試合を盛り上げる。一流中の一流」とコメントしている。
 
* マネージャーを務めた[[アーノルド・スコーラン]]によるとかなりのアイデアマンで、日本で大巨人伝説がマンネリ化し始めて来た頃、レスラー以外の人間を襲撃するというアイデアを自ら猪木に提案した。その際に襲撃されたのは気心の知れたレフェリーの[[ミスター高橋]]やリングアナウンサーの[[田中ケロ|田中秀和]]ら新日プロのスタッフであり、決してファンや一般人には手を出さなかった。ただし、花道以外の通路から不意を突く形で入場し、観客を驚かせるといった少々悪戯めいたムーブはしばしば見られた。
 
* [[マイティ井上]]とは若手時代から親友の間柄であった。アンドレは生涯独身を貫いたと言われているが、井上はアンドレに内縁の妻がいたこと、娘も一人いたことを明言している。本名については、井上が見たアンドレのパスポートには「アンドレ・レネ・ロシモフ」と書かれていたというが「アンドレの本名はジャン・フェレだ」と雑誌インタビューでは答えている。井上はフランス語が分からなかったが、アンドレの言うことは理解していた。アンドレが新日本と提携していたWWFに転戦した後も親交は続き、国際へ特別参加した際も、井上は「WWFは大丈夫なのか? 怒られるだろ? ギャラも高いだろ?」と問い正したが、アンドレは「マクマホン・シニアの許可はもらった。ギャラはいくらでもいい」と答え、国際への特別参戦が実現した。井上と国際の[[吉原功]]社長がモントリオールを訪れた際には、日本での恩返しとして、アンドレが井上と吉原の食事代を負担したという<ref name="iwe-mook"/>。
 
* 国際プロレス時代の縁から若松市政がジャイアント・マシーンのマネージャーに起用された。アンドレは若松に恩義感じており、若松がニューヨークを訪問した際、高級レストランに招待し、さらにWWFでマネージャーとして登場するつもりはないか、と勧誘した。
 
* 現役時代からカーリーヘアのカツラを着用し、リングに上がっていた。これはより一層巨大感を表現させるために着用していたという。ただし後年はカーリーヘアーのカツラを外し、地毛のパーマヘアーで闘っている<ref>[http://npn.co.jp/article/detail/39141288/ 俺達のプロレスTHEレジェンド 第5R 現代に蘇る1人ガリバー旅行記〈アンドレ・ザ・ジャイアント〉] リアルライブ 2014年01月13日 11時01分</ref>。
 
* アンドレは弁護士に渡してあった遺書の中で「死後48時間以内の火葬」を希望していたが、パリには彼の巨体に対応できるだけの施設がなく、結局そのままアメリカへ移送された。
 
* レスラー、プロレス記者、団体バス運転手など、アンドレには日本人の友人知人が多くいたが、[[黒人]]に対しては嫌悪感を隠さなかったと言われる。[[アレン・コージ|バッドニュース・アレン]]がアンドレの[[差別]]発言に激怒し、ホテルの屋上にアンドレを呼び出し「謝らなければここから突き落としてやる」と言って謝罪させたという逸話がある。しかし、黒人レスラーの[[アーニー・ラッド]]とは親友同士で、両者は北米各地で抗争を展開できる気心の知れた仲だった。同じく[[ビル・ワット#MSWA|MSWA]]、WCCW、WWFなど各団体で抗争を繰り広げた[[カマラ (プロレスラー)|カマラ]]もアンドレのことを称えている(カマラのWWF入りはアンドレの仲介によるものだったという)<ref name="Slam! Jim Harris">{{cite web|url=http://www.canoe.ca/SlamWrestlingBiosK/kamala_jul01-can.html|title=Breaking Kayfabe with Kamala Jim Harris: The man behind the Ugandan Giant|accessdate=2010-05-15|publisher=SLAM! Sports: July 7, 2001}}</ref>。また、[[キング・パーソンズ|アイスマン・キング・パーソンズ]]、[[スペシャル・デリバリー・ジョーンズ|S・D・ジョーンズ]]、[[ジャンクヤード・ドッグ]]、[[トニー・アトラス]]など、WWFや[[アメリカ合衆国南部|南部]]エリアでアンドレのタッグ・パートナーを務めた黒人選手は数多い。[[ロッキー・ジョンソン]]の息子の[[ドウェイン・ジョンソン|ザ・ロック]]も、子供の頃にアンドレに可愛がってもらっていたという(ロックの自著『The Rock Says』には、アンドレに抱き上げられた少年時代のロックの写真が掲載されている)。
 
* [[1984年]]12月19日、[[ハワイ州|ハワイ]]NBCアリーナにおける興行の第8試合で、[[レフェリー (プロレス)|レフェリー]]を務めたことがある。[[シバ・アフィ]]、[[ラーズ・アンダーソン]]組vs[[マーク・ルーイン]]、[[ケビン・サリバン]]組の試合を裁くも、敗れたルーイン組が判定への不服からアンドレに食って掛かり、乱闘寸前になったという<ref>[[週刊プロレス]]NO.76</ref>。それ以前の[[1978年]]にも、[[ジム・クロケット・プロモーションズ|NWA]]の[[リッキー・スティムボート]]vs[[リック・フレアー]]、[[WWE|WWWF]]の[[ダスティ・ローデス]]vs[[スーパースター・ビリー・グラハム]]などの試合でスペシャル・レフェリーを担当した<ref>{{cite web|url=http://ernmansoddsandsods.blogspot.jp/2012/02/ric-flair-vs-ricky-steamboat-with-andre.html|title=Ric Flair vs. Ricky Steamboat with Andre The Giant as referee|accessdate=2013-07-12|publisher=Ernman's Odds And Sods}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.cagematch.net/?id=1&nr=26378|title=WWWF Events Database|accessdate=2013-07-12|publisher=Cagematch.net}}</ref>。
 
* 当時外国人レスラーの相談役も務めていた新日本プロレスのレフェリー、ミスター高橋がアンドレが宿泊していたホテルへ出向き「実は覆面を被ってほしいんだ」とおそるおそる切り出した。その際、差し出したのがジャイアント・マシーンのマスクである。そのマスクを見たアンドレは大喜びし、早速その場で着けてみせ「どうかな、(高橋のニックネーム)ピーター。似合うかい?」と満足気にポーズをとったという。高橋はプライドが高いアンドレは絶対に断るだろうと思っていたため、この反応は全く意外だったと後に述懐している。なお、この時のマスクは当然、アンドレ自身から採寸したものではなく([[オートバイ|バイク]]用のフルフェイスの[[ヘルメット]]に合わせて作成したと言われる)、そのためジャイアント・マシーン登場当時はマスクがアンドレの頭にはフィットしていなかった。後期には改めて新しいマスクが制作されている。
 
* [[スタン・ハンセン]]はアンドレを先輩として尊敬し続け、両者は[[新日本プロレス]]を去った後、[[全日本プロレス]]でほぼ10年ぶりの同行を喜び、試合後はよく二人で飲食に出かけた。その際、よく話題になったのが既述の田園コロシアムの一戦で、互いに相手を称え飽きることなく語り合ったという。
 
* [[WWE|WWF]]に参戦した[[キラー・カーン]]とアンドレが対戦した際、アンドレが自身の過失で試合中に自分の足を痛めてしまい、それに気付いたカーンは機転をきかせトップロープから[[ニー・ドロップ]]を見舞った<ref>WWFにおいては、アンドレがベビーフェイスかつメインイベンターであり、カーンはヒールであった。試合中アンドレの足が異常であることに気が付いたカーンは、そのことを観客へ見抜かれる前に、アンドレの過失ではなく憎まれ役の自分(カーン)がアンドレの足を痛めつけたことにする方がベターと考え、とっさにトップロープへ上り、致命傷を与えない範囲でアンドレにニー・ドロップを放った。</ref>。後日カーンは通訳を連れてアンドレの入院先へ見舞いに出向き、前述した試合の件について謝罪。しかしそれを聞いたアンドレは大声で笑いのけ、「気にするな、あれはアクシデント。君の機転が無かったら試合が台無しになっていたところだった」と逆に励ましの言葉をかけたという。さらにアンドレは「それよりも、あの試合は『キラー・カーンがアンドレ・ザ・ジャイアントの足をニー・ドロップで骨折させた』ということにしよう。俺が退院したら、君との試合は盛り上がること間違いなしだ」と言い、格好のストーリーラインまで提案している。この[[アングル (プロレス)|アングル]]は[[新日本プロレス]]に凱旋帰国したカーンの株を急上昇させ、彼を瞬く間にメインイベンターへ昇格させた原動力となった。この頃の新日本プロレスは[[全日本プロレス]]との外国人選手引き抜き合戦の挙句、スター選手を失ったのと同時に[[アントニオ猪木|猪木]]と[[佐山聡|タイガーマスク]]が怪我で休場と痛手を被った時期でもあるが、代わってメインに上った「あのアンドレの足を骨折させた大型日本人レスラー」とアンドレとの対戦は興行を大いに盛り上げた。
 
* 巨体ながら運動神経にも優れており、[[クロール]]で泳ぐこともできる<ref>{{cite journal|和書|title=[[週刊プロレス]]|volume=77|pages=47|year=1985|publisher=[[ベースボール・マガジン社]]}}</ref>。
 
* 2017年にプロレスデビューした[[アンドレザ・ジャイアントパンダ]]は、アンドレにちなんで名付けられた。
 
 
 
=== 酒豪伝説 ===
 
後述するようにアンドレは酒豪として知られ、特にビールやワインの消費量については様々な伝説が残されている。
 
 
 
* [[ミスター・ヒト]]の著書『クマと闘ったヒト』では、車で800km移動する間に缶ビールを118本飲み、到着後更に5[[ガロン]](約19リットル)のワインを飲み干したと記載されている。
 
* マイティ井上は、札幌遠征時に「二人で一度に瓶ビールを136本空けたことがある」と証言している<ref>[[東京中日スポーツ]]・2010年6月9日付 8面「コンフィデンシャル」</ref>。その際は「汗とアルコールとオーデコロンが一緒になったようなにおいになった」という。
 
* [[アニマル浜口]]によれば、アンドレ(ロシモフ)が来日した際は、移動のために利用する列車や選手バスに大量のビールを積み込んでいたという。アンドレ(ロシモフ)がビールを飲む際も[[リポビタンD]]を飲む感覚で飲んでいたという<ref>[https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/othersports/fight/2018/04/15/_split_100/index.php 【国際プロレス伝】大巨人アンドレは機内でビール100本を飲み干した]Sportiva web 2018年4月15日</ref>。
 
* キラー・カーンと[[坂口征二]]によれば、1975年に新日本プロレスがブラジル遠征を行った際、ロサンゼルス経由サンパウロ行きの飛行機の機内にあったビールを全部アンドレが飲み干してしまい、他の乗客からクレームがついたという<ref name=tospo>[[東京スポーツ]]・2010年6月9日付 6面「[[小佐野景浩]]のプロレススーパースター実伝」</ref><ref>「週刊プロレス アルバムシリーズ55 アンドレ・ザ・ジャイアント 証言者1藤波辰爾の大巨人冒険記」、『[[週刊プロレス]]』No.1790、[[ベースボール・マガジン社]]、平成27年5月13日/5月20日合併号(4月28日発行)、66-67頁、2015年。</ref>。新間寿の証言によると、この時ビールは200~300本用意されてあったという<ref name="andoresinma"> 『日本プロレス史の目撃者が語る真相! 新間寿の我、未だ戦場に在り!<獅子の巻>』(ダイアプレス、2016年)p75</ref>。
 
* ラッシャー木村の息子である木村宏は、国際参戦時のアンドレ(ロシモフ)が、ラッシャーと2人でビールを50ケース(大瓶・中瓶で換算すると約100本)空けたと証言している<ref name="GSPIRITS"> 『秘話 - 「ラッシャー木村」と「木村政雄」』(『G SPIRITS VOL.46』2018年 辰巳出版 ISBN 9784777820047 p7)</ref>。
 
* この他、1980年4月の札幌巡業で[[サッポロビール園]]で大ジョッキ89杯を空けた、「[[タンパ]]の空港で50分でビール108本を空けた」([[ハルク・ホーガン]]による証言)、「ペンシルベニア州リーディングのホテルのバーでビール327本を空け、さすがのアンドレも気絶した」([[ファビュラス・ムーラ]]による証言)など、消費量に関する伝説は枚挙に遑がない<ref name=tospo />。ただこれらの伝説がどこまで本当なのかは不明。
 
* 馬場とは巨人同士でウマが合ったと言い、選手バスでは隣同士に座り二人で冗談を言い合いながらワインを飲んでいたという。そのため、全日本の選手バスにはアンドレ用のワイン冷蔵庫が用意されていた。
 
* ワインは白ワインが好みだったというが、結局は赤・白の別や銘柄に関係なく「水のように飲み干してしまう」状態だったらしく、ハルク・ホーガンによれば「アンドレの誕生日の際に、移動バスにワイン1ダースをプレゼントとして用意したら、出発から2時間半で全部空けてしまった」という<ref name=tospo />。また木村宏によれば、熟成されたものよりも、若いワインを好んでいた<ref name="GSPIRITS"/> 。
 
* 元々多かった酒量は晩年さらに増え、ワインを手放せない状態だったと言われる。晩年は歩行すらままならない状態だったようで、移動に[[バギーバイク]]を使用していた。
 
 
 
== 参考文献 ==
 
*『クマと闘ったヒト』[[メディアファクトリー]]、2000年([[中島らも]]による[[ミスター・ヒト]]へのインタビュー本)。
 
*『プロレス異人伝 来日外国人レスラー・グラフィティ』[[ベースボール・マガジン社]]、2003年。
 
*『忘れじの国際プロレス』ベースボール・マガジン社、2014年。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.wwe.com/superstars/andrethegiant WWE Hall of Fame]
 
* [http://www.onlineworldofwrestling.com/bios/a/andre-the-giant/ Profile at Online World of Wrestling]
 
* [http://www.cagematch.net/?id=2&nr=926&name=Andre+The+Giant Profile at Cagematch]
 
 
 
{{WWE世界ヘビー級王座}}
 
{{WWE殿堂}}
 
{{リダイレクトの所属カテゴリ
 
|redirect1 = モンスター・ロシモフ
 
|1-1 = 国際プロレスに参戦した外国人プロレスラー
 
}}
 
 
{{DEFAULTSORT:あんとれ さ しやいあんと}}
 
{{DEFAULTSORT:あんとれ さ しやいあんと}}
 
[[Category:フランスのプロレスラー]]
 
[[Category:フランスのプロレスラー]]

2018/10/29/ (月) 23:29時点における最新版

アンドレ・ザ・ジャイアントAndré the Giant、本名:André René Roussimoff1946年5月19日 - 1993年1月27日

フランスグルノーブル出身のプロレスラー

公式プロフィールでは身長が7フィート4インチ(約223cm)、体重が520ポンド(約236kg)とされ、北米では "The 8th Wonder of the World"(世界8番目の不思議)、日本では「大巨人」などの異名で呼ばれた。

圧倒的な体格もさることながら、アームロックなどのレスリングテクニックでも観客を惹きつけることができる巨人レスラーとして、世界各地で活躍した。




楽天市場検索: