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{{政治家
 
|人名 = アントニオ 猪木<ref name="shimei">2013年(平成25年)7月31日『官報』第6099号8ページ「議員氏名」</ref>
 
|各国語表記 = アントニオ いのき
 
|画像 = Antonio Inoki IMG 0398-2 20121224.JPG
 
|画像説明 = 2012年12月24日、阪神競馬場にて
 
|国略称 = {{JPN}}
 
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1943|2|20}}<ref name="kokuji1">2013年(平成25年)7月10日参議院比例代表選出議員選挙選挙長告示第1号「平成二十五年七月二十一日執行の参議院比例代表選出議員の選挙において、政党その他の政治団体から参議院名簿の届出があった件」</ref>
 
|出生地 = [[神奈川県]][[横浜市]][[鶴見区 (横浜市)|鶴見区]]
 
|没年月日 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|XXXX|XX|XX|YYYY|YY|YY}} -->
 
|死没地 =
 
|出身校 = [[横浜市立寺尾中学校]]
 
|前職 = 会社役員<ref name="kokuji1" />
 
|現職 = [[外交防衛委員会]]<br />国際経済・外交に関する調査会
 
|所属政党 = ([[スポーツ平和党]]→)<br />([[日本維新の会 (2012-2014)|日本維新の会]]→)<br />([[次世代の党]]→)<br />([[日本を元気にする会]]→)<br />[[無所属]]([[無所属クラブ (日本 2014-)|無所属クラブ]])
 
|称号・勲章 =
 
|配偶者 =
 
|子女 =
 
|親族(政治家) =
 
|サイン =
 
|ウェブサイト =
 
|サイトタイトル =
 
|国旗 = JPN
 
|職名 = [[参議院議員]]
 
|選挙区 = [[参議院比例区]]
 
|当選回数 = 2回
 
|就任日 = [[1989年]]
 
|退任日 = [[1995年]]
 
|就任日2 = [[2013年]][[7月28日]]
 
|退任日2 =
 
}}
 
'''アントニオ 猪木'''(アントニオ いのき、{{Lang-en-short|Antonio Inoki}}, [[1943年]][[2月20日]] - )は、[[日本]]の元[[プロレスラー]]、[[実業家]]、[[政治家]]。[[無所属クラブ (日本 2014-)|無所属クラブ]]所属の[[参議院議員]](2期)。本名:'''猪木 寛至'''(いのき かんじ)。[[神奈川県]][[横浜市]][[鶴見区 (横浜市)|鶴見区]]出身。血液型AB型。[[新日本プロレス]]設立後の[[キャッチフレーズ]]は「'''燃える闘魂'''<ref>当時[[テレビ朝日]][[プロレス中継]]アナウンサーの[[舟橋慶一]]の命名である。</ref>」(当初は「燃'''ゆる'''闘魂」)。[[日本プロレス]]所属時代のキャッチフレーズは「'''若獅子'''」。愛称は「'''アントン'''」。複数の結婚歴と離婚歴があり、元妻の一人には[[俳優|女優]]の[[倍賞美津子]]がいる。倍賞との間に娘が一人いる。[[1991年]]に[[イラク]]の[[シーア派]]聖地[[カルバラー]]にて[[イスラム教]]に改宗しており、ムスリム名は「'''モハメッド・フセイン'''」<ref>[http://www.j-cast.com/2012/12/30160003.html?p=2 アントニオ猪木、イスラム教徒だった 入信のきっかけは「イラクの人質救出」] - [[J-CASTニュース]] 2012/12/30</ref>。
 
  
元WWF(現在の[[WWE]])ヘビー級王者、[[UWA]]世界ヘビー級王者、[[NWF]]ヘビー級王者。
+
'''アントニオ 猪木'''(アントニオ いのき、{{Lang-en-short|Antonio Inoki}}, [[1943年]][[2月20日]] - )
  
プロレスラー現役時代は新日本プロレスの創業や[[異種格闘技戦]]で活躍。
+
昭和後期-平成時代のプロレスラー
  
== プロフィール ==
+
昭和18年2月20日生まれ。35年移住先のブラジルで力道山にスカウトされる。47年新日本プロレスを設立して,ジャイアント馬場に対抗。ボクシングのモハメッド=アリらとの異種格闘技戦をおこなう。平成元年参議院議員(スポーツ平和党)。10年プロレスラーを引退。25年参議院議員に2度目の当選(日本維新の会)。神奈川県出身。本名は猪木寛至。
=== 生い立ち ===
 
[[神奈川県]][[横浜市]][[鶴見区 (横浜市)|鶴見区]]生麦町(現在の鶴見区岸谷)出身。父親は猪木佐次郎、母は文子(旧姓:相良)。父親は猪木が5歳の時に死去。前田日明は「猪木さんの弁によると父親は県会議員か何かだったって」と著書に書いている<ref>山本小鉄・前田日明『日本魂』講談社</ref>。実家は[[石炭]][[問屋]]を営んでいたが[[第二次世界大戦]]後、世界のエネルギー資源の中心が石炭から[[石油]]に変わっていったこともあり倒産。現在は[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]在住。
 
  
12歳で[[横浜市立寺尾中学校]]に入学するも、生活は厳しかった。13歳の時に貧困を抜け出せるかもしれないという希望から、母親、祖父、兄弟とともに[[ブラジル]]へ渡り<ref>長兄は同行せず。祖父は渡航中に船上で毒性のある未熟な[[バナナ]]を食べて死去。</ref>、[[サンパウロ]]市近郊の農場で少年時代を過ごす。ブラジル[[移民|移住]]後最初の1年半は、農場で早朝5時から夕方の5時まで[[コーヒー]]豆の収穫などを中心に過酷な労働を強いられた。
+
{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
幼少時代は[[運動神経]]が鈍く、友達からは「ドン寛(鈍感)」「[[運動音痴|運痴]]の寛ちゃん」などと呼ばれていたが、ブラジル移住後は[[陸上競技]]選手として現地の大会に出場し、[[砲丸投|砲丸投げ]]で優勝するなど、その身体能力を発揮する<ref>なお陸上部の前に[[バスケットボール]]部に入っていた。ただし「うまくないから」という理由で退部。</ref>。その際、ブラジル遠征中の[[力道山]]の目に留まる。
 
 
 
=== プロレスラーとして ===
 
{{Infobox プロレスラー
 
| 名前 = アントニオ猪木<br />Antonio Inoki
 
| 画像 = Antonio inoki - 2002.jpg
 
| リングネーム = '''アントニオ猪木'''<br />猪木 寛至<br />カンジ・イノキ<br />トーキョー・トム<br />リトル・トーキョー・トム<br />ミスター・カジモト
 
| 本名 = 猪木 寛至
 
| ニックネーム = 燃える闘魂
 
| 身長 = 190cm<ref name="wwe">{{cite web|url=http://www.wwe.com/superstars/antonioinoki|title=Antonio Inoki Bio|accessdate=2015-04-01|publisher=WWE.com}}</ref> - 191cm<ref name="best100">『THE WRESTLER BEST 100』P200(1981年、[[日本スポーツ出版社]])</ref>
 
| 体重 = 102kg<ref name="wwe" /> - 110kg<ref name="best100" />
 
| 誕生日 = {{生年月日と年齢|1943|2|20}}
 
| 死亡日 =
 
| 出身地 = {{Flagicon|神奈川県}} [[神奈川県]][[横浜市]][[鶴見区 (横浜市)|鶴見区]]
 
| 所属 = [[イノキ・ゲノム・フェデレーション|IGF]](代表取締役会長)
 
| スポーツ歴 = [[陸上競技]]
 
| 師匠 = [[力道山]]
 
| トレーナー = [[力道山]]<br />[[豊登道春|豊登]]<br />[[サニー・マイヤース]]<br />[[カール・ゴッチ]]
 
| デビュー = [[1960年]][[9月30日]]
 
| 引退 = [[1998年]][[4月4日]]
 
}}
 
==== プロレスデビュー ====
 
[[1960年]](昭和35年)4月11日、興行でサンパウロを訪れていた力道山から直接スカウトされて日本へ帰国し[[日本プロレス]]に入団。力道山から掛けられた最初の言葉は、「オイ、裸になれ」であった。上半身だけ脱がされて背中の筋肉を見て合格になったという。デビュー後は、猪木の素質に目をつけた[[サニー・マイヤース]]からもトレーニングのオファーを受けた<ref name="gs16-64">『Gスピリッツ Vol.16』P64「カンジ・イノキのアメリカ武者修行」(2010年、[[辰巳出版]]、ISBN 4777808017)</ref>。
 
 
 
ジャイアント馬場のデビューと同日の[[1960年]](昭和35年)9月30日、本名の'''猪木寛至'''として、東京都台東区の[[台東リバーサイドスポーツセンター|台東区体育館]]で[[大木金太郎]]を相手にデビュー(7分6秒、逆腕固めで敗退)<ref name="inoki">『アントニオ猪木 燃える闘魂50年 (上巻)』P28(2010年、[[ベースボール・マガジン社]]、ISBN 4583616775)</ref>。[[1962年]](昭和37年)11月9日、[[沖縄県]][[那覇市]]での長沢秀幸との試合において、[[リングネーム]]を'''アントニオ猪木'''に改名<ref name="inoki" />。このリングネームは、先輩レスラー[[豊登道春|豊登]]による命名である。当時の名レスラー、[[アントニオ・ロッカ]]にあやかって名付けられたという説が一般的であるが<ref>[[ジャイアント馬場]]一代記漫画「[[ジャイアント台風]]」(作:[[梶原一騎]]、画:[[辻なおき]])の作中で馬場が「後にアントニオ・ロッカにちなんで、猪木寛至くんに「アントニオ」というリングネームをつけた」と語る場面がある{{要出典|date=2014年8月}}。</ref>、「ブラジル帰りの[[日系ブラジル人]]」であることを強調するためなど諸説ある<ref name="inoki" />。なお、本名で活動中に出演した[[テレビ]][[ドラマ]]『[[チャンピオン太]]』での役名「'''死神酋長'''」を気に入った力道山は、その名を猪木のリングネームにしようとしたという<ref name="inoki" />。
 
 
 
[[南アメリカ|南米]]での興行を成功させるための布石として力道山は当初猪木を日系ブラジル人として売り出そうとしていた(猪木自身が「横浜生まれ」だということを公にしたのは力道山の没後であった)。デビューしてからまもなく、力道山の付き人となったものの、力道山は[[1963年]](昭和38年)12月15日に死去。
 
 
 
==== アメリカ武者修行 ====
 
[[1964年]](昭和39年)にアメリカ武者修行に出発するが当初は正式な就労ビザが取れず、本名で活動することを避けていたと後に述べている。この時のリングネームは、[[ロサンゼルス]]の[[日本人街]]である[[リトル・トーキョー]]をもじった「'''リトル・トーキョー・トム'''」等多数。[[アメリカ合衆国西海岸|西海岸]]、[[アメリカ合衆国中西部|中西部]]、[[アメリカ合衆国南部|南部]]をサーキットし、2年後に帰国。この遠征中には、[[デューク・ケオムカ]]と組んで[[ダラス|テキサス東部]]版のNWA世界タッグ王座<ref name="tx-nwa-t">{{cite web|url=http://www.wrestling-titles.com/us/tx/nwa-ss/tx-nwa-t.html|title=NWA World Tag Team Title [E. Texas]|accessdate=2015-04-01|publisher=Wrestling-Titles.com}}</ref>、および[[ヒロ・マツダ]]と組んで[[テネシー州|ミッドアメリカ]]版の同王座を奪取している<ref name="tn-nwa-t">{{cite web|url=http://www.wrestling-titles.com/us/tn/nwa/tn-nwa-t.html|title=NWA World Tag Team Title [Mid-America]|accessdate=2015-04-01|publisher=Wrestling-Titles.com}}</ref>(同期の馬場は[[マディソン・スクエア・ガーデン|MSG]]のトップイベンターには起用されたものの、アメリカ修行中のタイトル戴冠は果たしていない)。ミッドアメリカ版のNWA世界タッグ王座は[[エディ・グラハム]]&[[サム・スティムボート]]を破って獲得したものであり、[[東京プロレス]]と[[国際プロレス]]の合同興行においても、グラハム&[[ジョニー・バレンタイン]]を相手に防衛戦が行われた<ref name="inoki-30">『アントニオ猪木 燃える闘魂50年 (上巻)』P30(2010年、ベースボール・マガジン社、ISBN 4583616775)</ref>。なお、テキサスではジョー・ブランチャードを破りNWAテキサス・ヘビー級王座を獲得したともされるが、これは同じく同地区で「トーキョー・トム」を名乗っていたレイ・ウルバノとの混同である<ref name="tx-h">{{cite web|url=http://www.wrestling-titles.com/us/tx/tx-h.html|title=NWA Texas Heavyweight Title|accessdate=2015-04-01|publisher=Wrestling-Titles.com}}</ref><ref name="gs16-60-61">『Gスピリッツ Vol.16』P60-61「カンジ・イノキのアメリカ武者修行」(2010年、辰巳出版、ISBN 4777808017)</ref>。
 
 
 
==== 東京プロレス ====
 
[[1966年]](昭和41年)3月、アメリカ修行を終え、[[ジャイアント馬場]]や[[吉村道明]]らとの合同練習に参加するために立ち寄った[[ハワイ州|ハワイ]]において、前年末に[[日本プロレス]]を退社し、極秘裏にハワイ入りしていた[[豊登道春|豊登]]に「日本プロレスに帰っても一生馬場の上には行けん」と口説かれ、日本プロレスから離脱([[東京プロレス#太平洋上の略奪|太平洋上の略奪]])。帰国後の4月23日、自身をエースとする'''[[東京プロレス]]'''の設立を豊登とともに公式発表<ref name="inoki-30" />。10月12日の旗揚げ戦での[[ジョニー・バレンタイン]]との試合で名声を得る。
 
 
 
しかし、テレビ放送が付かなかったことや営業力の弱さ、豊登の横領などにより急速に業績が悪化。「客が少ない」という理由で興業を中止しようとしたところ、怒った観客にリングに火をつけられる「'''板橋事件'''」などが起き、東京プロレスは3ヶ月で破産、最終的に当時の自民党副総裁[[川島正次郎]]の仲介もあり古巣である日本プロレスに戻ることになる<ref>プロレススーパースター列伝 アントニオ猪木の項</ref>。
 
 
 
==== 日本プロレス復帰 ====
 
日本プロレス復帰後は馬場に次ぐ待遇を受け、ジャイアント馬場とのタッグチーム「'''[[BI砲]]'''」として[[インターナショナル・タッグ王座]]を獲得。NET(現:[[テレビ朝日]])が日本プロレス中継を開始した際、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]との取り決めで馬場の試合は日本テレビの独占とされた関係上、猪木はNETの日本プロレス中継のエースという形になり、[[ユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座|UNヘビー級王座]]を獲得した。また、[[ドリー・ファンク・ジュニア]]の[[NWA世界ヘビー級王座]]に挑戦した。
 
 
 
しかし、馬場との対戦要求が容れられなかった(力道山が日本マットを統一して以降、日本人対決は当時タブーになっていた)ことや日本プロレスの経理が不透明であったことなど、日本プロレスとの度重なる確執から[[1971年]](昭和46年)に追放処分を受ける(詳しくは[[上田馬之助 (プロレスラー)#密告事件|密告事件]]を参照)。同年11月、[[俳優|女優]]の[[倍賞美津子]]と[[結婚]]した。
 
 
 
==== 新日本プロレス設立 ====
 
日本プロレスを追放された後の[[1972年]](昭和47年)1月26日に'''[[新日本プロレス]]'''を旗揚げした。当初はテレビ放送もなく苦しい経営であった。また、[[ジャイアント馬場]]率いる[[全日本プロレス]]の圧力により有力な外国人プロレスラー招聘に難航したが、元[[国際プロレス]]のエース[[ストロング小林]]との大物日本人対決、日本プロレス時代の先輩である[[大木金太郎]]との遺恨試合、[[ビル・ロビンソン]]との実力世界一決定戦などで人気を博す。[[タイガー・ジェット・シン]]や[[スタン・ハンセン]]、[[ハルク・ホーガン]]などを外国人エースとして育成もした。[[WWE|WWWF]]と提携して以降は多数の外国人スターを呼べるようになり、力道山亡き後のプロレス黄金時代を築いた。
 
 
 
==== 異種格闘技戦 ====
 
新日本プロレスは、「'''プロレスこそ全ての格闘技の頂点である'''」という「[[ストロングスタイル]]」を標榜。その後のプロレスに大きな影響を与える。猪木は自身の最強を証明するため、パキスタンの英雄[[アクラム・ペールワン]]、「熊殺し」の異名をとる空手家[[ウィリー・ウィリアムス (格闘家)|ウィリー・ウィリアムス]]との対戦など、[[異種格闘技戦|異種格闘技路線]]への挑戦を続け、後年の[[総合格闘技]]の礎を築いた。
 
 
 
中でも[[ボクシング|プロボクシング]]統一世界[[ヘビー級]]チャンピオン、[[モハメド・アリ]]との一戦は世界各国に中継され話題を呼んだ。日本では、昼間の生中継と同日の[[ゴールデンタイム]]19時からのNETテレビでの録画中継という形で2度放送された(詳しくは[[アントニオ猪木対モハメド・アリ]]を参照)。[[1979年]](昭和54年)1月にはアフリカの元ボクシングヘビー級チャンピオンで[[ウガンダ]]の元大統領である[[イディ・アミン]]との異種格闘技戦の計画が浮上した<ref name="gs36">『Gスピリッツ Vol.36』P15-16「『格闘技世界一決定戦』の表と裏」(2015年、辰巳出版、ISBN 4777814998)</ref>。アミンは猪木戦を承諾したが、その後[[クーデター]]を受け[[サウジアラビア]]に[[亡命]]したため、結局対戦は実現しなかった<ref name="gs36" />。
 
 
 
==== 猪木監禁事件 ====
 
[[1982年]](昭和57年)2月27日、[[空手道#沖縄空手|沖縄松林流空手]]東海支部長[[水谷征夫]]とともにフルコンタクト空手の団体「[[寛水流]]空手(かんすいりゅうからて)」を設立した。
 
 
 
同年、[[漫画原作者]]の[[梶原一騎]]により猪木が監禁される事件が起こった。梶原は、[[暴力団]]関係者を使って猪木を[[大阪]]の[[リーガロイヤルホテル]]の一室に呼び出し、[[銃]]を持っていることなどを仄めかして猪木を脅迫したとされる。後に梶原が著書『わが懺悔録』で語ったところによると、この事件の発端は、当時[[タイガーマスク]]のキャラクター使用料が猪木側から梶原に支払われなくなっていたことにあるとされている。「猪木が梶原を避けていたため全く連絡がつかない状態にあった時、たまたまホテルで会ったので部屋に招いてその件を問い質しただけで、監禁恐喝は完全に冤罪である」という。ただし、恐喝に関して梶原の他に「同席者」がいたことは否定されていない。
 
 
 
==== IWGP立ち上げと世代交代 ====
 
[[1983年]](昭和58年)には世界統一タイトルを目指し[[IWGP]]を立ち上げる。しかし同年6月2日の第1回IWGP優勝戦において、当時新鋭の[[ハルク・ホーガン]]からロープ越しの[[アックスボンバー]]を受け、リングサイドに落ちた際に頭を打って[[脳震盪]]を起こし、失神KO負けを喫した(詳細については[[IWGPリーグ戦]]の項を参照)。
 
 
 
この頃、猪木が自身のビジネス(「[[#アントン・ハイセル|アントン・ハイセル]]」など)に新日本プロレスの資金を投資し、その多くが失敗に終わって新日本プロレスの経営を圧迫することになり、これに嫌気がさした所属レスラーによる「クーデター」と、その後の[[タイガーマスク]]や[[長州力]]の退団騒動につながって行く。
 
 
 
[[1986年]](昭和61年)6月にはプロボクシング団体[[日本IBF]]と業務提携開始。[[1987年]](昭和62年)、不倫騒動で倍賞と離婚。そしてアントン・ハイセルの負債、クーデターで最悪の状況の中、[[マサ斎藤]]と[[巌流島の戦い (プロレス)|観客なしのノーピープルマッチ]]を敢行。
 
 
 
[[1988年]](昭和63年)8月8日の藤波とのIWGP戦は、「猪木が負ければ引退か?」という憶測の中、IWGP挑戦者決定リーグ戦を何とか勝ち抜いてのものであった<ref>試合前に[[長州力]]の不意打ちの[[ラリアット]]をくらい[[ピンフォール]]負けするなど、非常に苦しいトーナメントであった。</ref>。猪木は「負けたら引退する」と宣言し、引退試合の実況を約束していた[[古舘伊知郎]]がテレビ朝日の演出により急遽この試合を実況するという設定の中、試合は60分時間切れの引き分け。これが猪木最後のIWGP挑戦となった。
 
 
 
==== 引退 ====
 
[[1994年]](平成6年)5月1日、[[福岡ドーム]]で[[武藤敬司|グレート・ムタ]]と対戦し、フォール勝ちを収める。この試合より引退への布石となる「イノキファイナルカウントダウンシリーズ」が始まった(なお「ファイナルカウントダウン」と銘打ったが、カウントがダウンせずに「1・2・3」とアップしている)。
 
 
 
[[1995年]](平成7年)4月[[平和のための平壌国際体育・文化祝典]]で猪木は当初、前年46歳の誕生日数か月前にWBA・IBF世界ヘビー級王座獲得した[[ジョージ・フォアマン]]との対戦を希望したがフォアマンは「とんでもない。北朝鮮になど行かない。俺は第一に愛国者、第二にボクサーだ。わが国が北朝鮮と外交関係を持っていない以上、俺がそこに行くなんてありえない」と拒否。1974年[[キンシャサの奇跡]]で最初に世界王座君臨していたフォアマンをKOして世界王座奪取し1976年猪木と対戦したアリが来賓として参加、猪木自身はシングルマッチ 20分1本勝負[[リック・フレアー]]に完勝。12月30日、[[大阪城ホール]]にて自主興行「INOKI FESTIVAL」を開催。
 
 
 
[[1996年]](平成8年)11月3日には以前自身が平壌での対戦を熱望したフォアマンが来日し、[[東京ベイNKホール]]で行われた[[WBU]]世界ヘビー級王座戦で判定勝ち。猪木は[[二宮清純]]と共にTBSテレビの解説を務めた。
 
 
 
[[1998年]](平成10年)、[[沖縄県]][[豊見城市|豊見城村(現・豊見城市)]]内の[[平仲明信|平仲信明]]のジムで現役生活最後のキャンプ、3月22日[[愛知県体育館]]で[[角田信朗]]と[[スパーリング|公開スパー]]、4月4日[[東京ドーム]]における引退記念イベント「ファイナルイノキトーナメント」で行われた[[引退試合]]で、小川直也らと対戦し勝ち上がってきた[[ドン・フライ]]と対戦、グラウンド・コブラツイストで勝利し[[引退]]した。引退の際には「この道を行けばどうなるものか」で始まる「道」の詩を諳んじるスピーチを行った<ref name="ikkyuu">猪木は[[一休宗純|一休]]の言葉として紹介したが、実際には、文言に多少の相違はあるものの、もとは[[清沢哲夫]]の「道」という詩であったと見られる。[http://crd.ndl.go.jp/GENERAL/servlet/detail.reference?id=1000028008]</ref>。この「道」のセリフは、後に盛んに[[春一番 (お笑い芸人)|春一番]]らがものまねの対象にしている。
 
 
 
==== 引退後 ====
 
引退後は[[UFO (プロレス)|UFO]]、[[PRIDE (格闘技イベント)|PRIDE]]、[[INOKI BOM-BA-YE]]など、多くの団体やイベントに盛り上げ役として登場したり、猪木完全プロデュースによる「ジャングルファイト(MMA/VT)」をブラジルで開催するなどしている。
 
 
 
[[2002年]](平成14年)8月28日に行われた「[[Dynamite!]]」では、上空4,000メートル(夜間規制があったため発表は3,000メートル)からの[[スカイダイビング]]に挑戦<ref>このスカイダイビングに猪木は10億円の保険を掛けていた。</ref>。[[国立霞ヶ丘陸上競技場]]への着地に成功したが、その後「PRIDE」と絶縁。
 
 
 
[[2003年]](平成15年)12月31日には日本テレビ協賛で「イノキボンバイエ」を開催したが大失敗に終わり、格闘技プロデュースからは退いた。
 
 
 
[[2005年]](平成17年)11月14日に自身の持つ新日本プロレスの株式(全株式の51.5%相当)を株式会社[[ユークス]]に売却し、事実上新日本プロレスの経営から身を引いた。以降は自身が提唱したバングラデシュ興行が中止になる等、同団体への影響力は全盛時ほどは無くなりつつある。
 
 
 
[[2006年]](平成18年)4月、アメリカの新興総合格闘技団体[[International Fight League|IFL]]の世界大使に就任。IFL参戦のため、同年9月に自身が監督を務める[[東京サーベルズ]]を結成。同時に、自ら企画した格闘技イベント「INOKI GENOME 〜格闘技世界一決定戦〜<ref>[[モハメド・アリ]]の娘や猪木の娘(サイモン猪木の妻)などが参戦を表明していた。</ref>」の開催延期を発表するなど試行錯誤を繰り返した。
 
 
 
[[2007年]](平成19年)3月、自身が社長(後に会長)を務める新団体「'''[[イノキ・ゲノム・フェデレーション]]'''('''IGF''')」を発足、6月に両国国技館にて旗揚げ戦を行った。娘婿である[[サイモン・ケリー猪木]]も[[新日本プロレス]]社長を辞職、IGFへ合流した。
 
 
 
[[2007年]](平成19年)7月11日、親交のある[[TRIPLE-P]]と“TRIPLE-P vs. アントニオ猪木”を組み、アントニオ猪木の名言「道」を曲にして発売した。道のCDジャケットの裏側はアントニオ猪木の手書きの「道」が書かれている。[[プロモーションビデオ]]にも出演し[[ディスクジョッキー|DJ]]プレイしたり[[サンプラー]]を叩いたりする。
 
 
 
[[2007年]](平成19年)12月20日、有明コロシアムで行われた[[小川直也]]対[[安田忠夫]]戦の試合終了後、レフェリーの制止を無視して暴れまわる小川を止めるため乱入し、裸絞めで小川を失神させた。
 
 
 
[[2010年]](平成22年)2月1日、[[WWE]]は猪木の[[WWE殿堂]](WWE ホール・オブ・フェイム)顕彰を発表した。WWE殿堂入りを果たした日本人は猪木が初めてである<ref>[[日系アメリカ人]]では過去に[[ハリー藤原|ミスター・フジ]]が殿堂入りしている。</ref>。理由は、世界のプロレス界発展に貢献したことを評価しての選出であった。インダクター(プレゼンター)は[[スタン・ハンセン]]。
 
 
 
猪木のWWE殿堂表彰セレモニーは3月27日、[[アリゾナ州]][[フェニックス (アリゾナ州)|フェニックス]]にて行われた。猪木は翌日にアリゾナ州[[グレンデール (アリゾナ州)|グレンデール]]の[[ユニバーシティ・オブ・フェニックス・スタジアム]]で開催された[[レッスルマニア#第26回大会(2010年)WrestleMania XXVI "Destruction In The Desert"|第26回レッスルマニア]]にも登場し、観衆からの祝福を受けた<ref>[http://www.daily.co.jp/ring/2010/03/30/0002823893.shtml ヨシ・タツVに猪木殿堂入り] デイリースポーツ 2010年3月30日閲覧</ref>。
 
 
 
2010年(平成22年)12月、「INOKI BOM-BA-YE」を復活させると共に、「[[Dynamite!! 〜勇気のチカラ2010〜]]」のプロデューサーとして大晦日興行に復帰する。
 
 
 
2011年(平成23年)12月31日、「[[元気ですか!! 大晦日!! 2011]]」を開催。
 
 
 
2012年(平成24年)7月10日、中国・上海で新団体「[[上海愛武]]」を旗揚げ。
 
 
 
[[2012年]](平成24年)11月20日、キューバ友好勲章を授与される<ref>http://www.sanspo.com/geino/news/20121120/sot12112020380001-n1.html</ref>。
 
 
 
[[2013年]][[2月20日]]、[[古希]]を祝うパーティーが[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]の[[ホテルオークラ東京]]で催され、[[坂口征二]]、[[小川直也]]、[[藤波辰爾]]、[[藤原喜明]]、[[木村健悟]]、[[佐山聡]]、[[ジョージ高野]]、[[前田日明]]、[[北沢幹之]]、[[蝶野正洋]]、[[棚橋弘至]]、[[橋本大地]]、[[スタン・ハンセン]]らかつての愛弟子・[[ライバル]]や、各界から[[千葉真一]]・[[谷隼人]]、[[デヴィ・スカルノ]]、[[船越英一郎]]、[[千代の富士貢|九重親方]]、[[南部虎弾]]、[[野村克也]]&[[野村沙知代]]夫妻など、660人が祝福に駆けつけた<ref>{{cite news |title=猪木古希パーティーに豪華メンバー集結 |url=http://www.tokyo-sports.co.jp/prores/110392/ |newspaper=[[東京スポーツ]] |date=2013-02-21 |accessdate=2013-03-14 |language=[[日本語]] <!--|archiveurl=http://web.archive.org/liveweb/http://www.tokyo-sports.co.jp/prores/110392/ |archivedate=2013-3-14 -->}}</ref>。
 
 
 
[[2017年]][[5月25日]]、自身がプロデュースする新イベント「ISM」の旗揚げを発表<ref>[https://www.daily.co.jp/ring/2017/05/25/0010222853.shtml “神様”カール・ゴッチの墓建てる!猪木氏が7・24記念興行] - デイリースポーツ・2017年5月25日</ref>。「ISM」の収益金については、自身の師匠の一人であるゴッチの墓を日本国内に建設するための費用とする。一方でIGFに対しては、既に運営から手を引いていることと「会社を整理する方向で考えている」との方針を明かした<ref>[http://www.hochi.co.jp/sports/etc/20170602-OHT1T50178.html 「整理される訳にはいきません」アントニオ猪木氏から見放されたNEWが開幕戦で存続求める署名活動] - スポーツ報知・2017年6月2日</ref>。これに対しIGF側は、猪木が役員は退いているものの依然同社の大株主の一人であるとして、団体存続を目指す方針を訴えている<ref>[http://www.tokyo-sports.co.jp/prores/mens_prores/694510/ 猪木氏の「整理発言」で大ピンチ IGFは再び存続を訴えたが…] - 東京スポーツ・2017年6月7日</ref>。同月にはIGF側が猪木の夫人に対する不当利得返還請求の訴訟を起こすなど<ref>[https://www.nikkansports.com/battle/news/1846624.html アントニオ猪木氏設立のIGF 猪木夫人に返金訴訟] - 日刊スポーツ・2017年6月28日</ref>、一部の問題は法廷に持ち込まれていたが、最終的に2018年3月に猪木とIGFとの間で和解が成立し、猪木は所有するIGFの全株式を第三者に売却してIGFとの関係を断った<ref>[http://www.igf.jp/2018/0322/34767/ 報告] - IGF公式サイト・2018年3月22日</ref>。
 
 
 
2017年[[10月21日]]、[[両国国技館]]での『INOKI ISM.2』において自身の[[生前葬]]を行う<ref>[https://www.tokyo-sports.co.jp/prores/mens_prores/766534/ 【INOKI ISM】10・21両国で「猪木生前葬」] - 東京スポーツ・2017年9月15日</ref>。
 
 
 
=== 政治家として ===
 
 
 
==== 政界進出、参議院議員 ====
 
{{see|スポーツ平和党}}[[1989年]]([[平成]]元年)、「スポーツを通じて国際平和」を合言葉に'''スポーツ平和党'''を結成。[[第15回参議院議員通常選挙]]に比例区から99万3989票を集めて初当選し、[[参議院議員]]となる<ref name="kokuji14">1989年(平成元年)7月29日[[中央選挙管理会]][[告示]]第14号「平成元年七月二十三日執行の参議院比例代表選出議員選挙における名簿届出政党等に係る得票数、当選人の数並びに当選人の住所及び氏名に関する件」</ref>(キャッチコピーは「[[国会]]に卍固め、[[消費税]]に延髄斬り」)。史上初のレスラー出身の[[国会議員]]となった。
 
 
 
なお、当時[[参議院比例区]]は[[政党]]名の投票であったのに対し、自身の知名度の高さから猪木の個人名を書いた[[無効票]]が大量に出た(当時の参議院比例代表選挙は[[厳正拘束名簿式]])。政治活動を続けながらもプロレス界からは引退せず、[[政治]]とプロレスの「二足のわらじ」を履いて活動した。
 
 
 
[[1989年]]([[平成]]元年)10月14日、[[福島県]][[会津若松市]]の体育館で講演中に暴漢に[[刃物]]で襲われ、左の頸部などを負傷。会場が一時騒然となる中、傷口を[[タオル]]で押さえたまま講演を最後まで行い、終了後に[[東京]]の[[病院]]に入院した。この時の猪木は[[マスコミュニケーション|マスコミ]]の[[インタビュー]]で「アトラクションにしては痛てーな」とコメントしていた。後日、警察やマスコミなどが猪木に対して何故、警戒しなかったのかと尋ねたら猪木は過去に講演会やトークショー、様々なイベントでファンの人が突然、壇上に上がって握手やサインを求めてきたりプレゼントを差し出してきたり弟子入りや新日本プロレスの入団を、お願いしてきた事が何度かあり今回も近づいてきた男性が暴漢ではなく自分のファンだと勘違いして何も警戒していなかったと答えた。10月25日、[[統一会派]]を組んだ[[民社党]]の配慮により質問に立った。
 
 
 
==== 湾岸戦争で日本人人質解放 ====
 
[[1990年]](平成2年)8月2日、当時[[サッダーム・フセイン]][[政権]]下の[[イラク]]が突如[[クウェート]]に侵攻([[湾岸戦争]])。イラクは[[日本]]を含む[[国際連合]]からの非難や制裁措置を受け、当時クウェートにいた[[日本人]]41人などを事実上の人質としてイラクに連行・国外移動禁止処分にする。
 
 
 
政府間の人質解放交渉は難航したが、猪木が12月1日にイラクで「[[スポーツと平和の祭典|平和の祭典]]」を行うことを発表。[[外務省]]はこれに難色を示したが、猪木は個人で費用を負担して[[トルコ航空|トルコ航空機]]をチャーター、関係者や人質被害者41人の家族46人と共にトルコ経由で[[バグダード]]へ入った。このイベントの開催後に、在留日本人と全人質が解放された。
 
 
 
これを追い風に、その後[[1992年]](平成4年)7月の[[第16回参議院議員通常選挙]]でも1議席を獲得<ref>1992年(平成4年)8月3日中央選挙管理会告示第11号「平成四年七月二十六日執行の参議院比例代表選出議員の選挙における名簿届出政党等に係る得票数、当選人の数並びに当選人の住所及び氏名に関する件」</ref>(参議院会派で2議席目)した。
 
 
 
==== 落選 ====
 
[[1994年]](平成6年)、公設第1秘書(当時)であった佐藤久美子<ref>当初は公設第2秘書であったが、第1秘書の[[猪木快守]]が借金問題で秘書を[[解雇]]され昇格。</ref>およびスポーツ平和党前幹事長の[[新間寿]]らが、「[[政治資金規正法]]違反」、「収賄」、「[[右翼]]([[日本皇民党]])との癒着」、「[[佐川急便]]会長の依頼で東京都知事降板」、「税金未納」、「女性問題」などの問題を[[告発]]するいわゆる「猪木スキャンダル」をぶち上げた。
 
 
 
このうちのいくつか(少女買春など)は完全な捏造であり、特に[[政治資金規正法]]違反については[[東京地方検察庁|東京地検]][[捜査]]中に[[公訴時効|時効]]となり、処分はまぬがれた。税金未納問題については、世田谷区役所および国税から差し押さえ処分を受けた(官報{{要出典|date=2014年8月}}に記載)。
 
 
 
これと前後して、もう1人のスポーツ平和党所属議員[[江本孟紀]]と党の運営を巡って対立。特に金銭疑惑にまつわる江本の猪木に対する不信により大きな亀裂が生じた。また、釈明記者会見の際、激高した猪木が机を叩き記者を怒鳴るなどの高圧的な態度をとったことも強い批判を浴びた。
 
 
 
一連の「猪木スキャンダル」もあり、[[1995年]](平成7年)の参議院選挙で落選。なお、同じ参院選挙では[[高田延彦]]が副党首を務めた「[[さわやか新党]]」も立候補したが<ref>1995年(平成7年)7月12日参議院比例代表選出議員選挙選挙長告示第1号「平成七年七月二十三日執行の参議院比例代表選出議員の選挙において、政党その他の政治団体から参議院名簿の届出があった件」</ref>、「スポーツ平和党」同様に議席を獲得出来なかった。選挙後、江本は離党した。
 
 
 
なお、スポーツ平和党は2004年(平成16年)4月を以て解散した。
 
 
 
==== 参議院選挙への再出馬、国政復帰 ====
 
2013年6月5日、[[日本維新の会 (2012-2014)|日本維新の会]]より、[[第23回参議院議員通常選挙]]比例代表での出馬を表明。日本維新の会共同代表の[[石原慎太郎]]立ち会いの下で開催した記者会見で『猪木の元気を日本のために活かしたい』と国政再挑戦への意欲を漲らせた<ref>[http://www.sponichi.co.jp/battle/news/2013/06/05/kiji/K20130605005951410.html アントニオ猪木氏、参院選出馬表明「元気を日本のために」] スポーツニッポン 2013年6月5日閲覧</ref>。
 
 
 
同年7月21日の投開票において、獲得票数35万6606票(同会内最多得票)で当選し<ref>(平成25年)7月26日中央選挙管理会告示第25号「平成二十五年七月二十一日執行の参議院比例代表選出議員の選挙における参議院名簿届出政党等に係る得票数、当選人の数並びに当選人の住所及び氏名に関する件」</ref>、18年ぶりの国政復帰を果たした。
 
 
 
2013年7月29日より議員氏名として「アントニオ 猪木」を使用することが、参議院で許可された<ref name="shimei" />。
 
 
 
==== 訪朝 ====
 
2013年7月25日から[[北朝鮮]]の[[朝鮮戦争]]休戦60年の記念行事に出席<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/election/sangiin/news/20130725-OYT1T00974.htm 比例当選のアントニオ猪木氏、北朝鮮訪問へ] 読売新聞 2013年7月27日閲覧</ref><ref>[http://www.asahi.com/politics/update/0725/TKY201307240650.html アントニオ猪木氏25日訪朝へ 維新幹部「まだ民間人」] 朝日新聞 2013年7月27日閲覧</ref>。平壌で[[金永南]]最高人民会議常任委員長と会談した<ref>[http://www.asahi.com/politics/update/0729/TKY201307290027.html 訪朝の猪木氏、金永南氏と会談 朝鮮中央通信伝える] 朝日新聞 2013年7月29日</ref>。参議院規則では議員が登院できない場合には議院の許可を得ることとされているが、参議院選挙の比例区で当選した後ではあったものの前任の参議院議員の任期満了が7月28日であり未だ民間人なので問題はないと説明されていた<ref>[http://www.asahi.com/politics/update/0725/TKY201307240650.html アントニオ猪木氏25日訪朝へ 維新幹部「まだ民間人」] 朝日新聞 2013年7月25日</ref>。
 
 
 
その後、北朝鮮のスポーツ教化委員長であった[[張成沢]]の打診を受け、10月下旬に再度訪朝の意向を示した。10月31日の[[参議院]][[議院運営委員会]]理事会は「必要性がない」として渡航不許可を決定<ref>[http://sankei.jp.msn.com/politics/news/131101/stt13110108500002-n1.htm アントニオ猪木氏、訪朝強行の構え 参院議運は許可せず] msn産経ニュース 2013年11月1日</ref>。しかし、不許可は不合理と反発して11月に入って実際に訪朝が実行されたため、参議院議院運営委員会理事会は処分を含めた対応を検討<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20131101-OYT1T01064.htm 猪木氏、北朝鮮へ出発…参院の許可なしで強行] 読売新聞 2013年11月1日</ref>。11月13日の参議院[[本会議]]で[[懲罰事犯|懲罰動議]]が可決され[[懲罰委員会]]に付託して処分の是非や内容を審査することとなった<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXNASFS13009_T11C13A1EB1000/ 猪木氏懲罰動議を可決、参院 山本氏は厳重注意] 日本経済新聞 2013年11月13日</ref>。懲罰委員会からは弁明の機会が与えられていたもののこれを拒否し、11月20日の懲罰委員会理事懇談会の協議で登院停止30日の処分内容が決定され、11月21日の懲罰委員会でこれを全会一致で可決、11月22日の参議院本会議で登院停止30日とすることに維新を除く賛成多数で可決された<ref>[http://mainichi.jp/select/news/20131121k0000m010117000c.html アントニオ猪木参院議員:登院停止処分に…無許可訪朝で] 毎日新聞 2013年11月21日</ref><ref>[http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2013112200059 猪木氏、登院停止30日=63年ぶり懲罰決定-参院] 時事通信 2013年11月22日</ref>。また、維新から党としての処分として、党員資格と党副幹事長職それぞれ50日間停止を言い渡された。
 
 
 
さらに猪木を招待した張成沢が[[12月8日]]に[[粛清]]され、[[公職追放]]された。そして[[12月12日]]に[[死刑]][[判決]]を受け、即日処刑された。猪木は張の処刑について聞かれ、「よく分からない。北朝鮮も神経質になっているときなので余計なことを話さず、言葉を控えたい」と答えた。しかし、訪朝時に打診した国会議員団訪問の受け入れは、北朝鮮側から「約束はまったく変わらない」と返答があったという。猪木は、理事長を務めるNPO法人「スポーツ平和交流協会」が平壌に設立した事務所を通じた交流活動についても「変化しない」と述べた<ref>[http://sankei.jp.msn.com/world/news/131213/kor13121322110011-n1.htm アントニオ猪木氏「言葉控える」 張氏と11月に会談 2013.12.13 22:08] 『[[産経新聞]]』 2013年12月13日 12月14日閲覧</ref>。
 
 
 
2014年1月13日 - 16日にかけ、北朝鮮に訪問した<ref>{{ja icon}} {{cite web|date=2014-01-13
 
  | title = 猪木氏が平壌入り 16日まで滞在、北朝鮮要人と会談へ
 
  | publisher = MSN産経ニュース
 
  | url = http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140113/plc14011320160008-n1.htm
 
  | accessdate = 2014-01-14 }}</ref><ref>{{ja icon}} {{cite web|date=2014-01-22
 
  | title = 「バカヤローと怒鳴ってやる」訪朝終えたアントニオ猪木氏が吠える (更新 2014/1/22 11:30)
 
  | publisher = 週刊朝日(1月31日号)
 
  | url = http://dot.asahi.com/news/politics/2014012100057.html
 
  | accessdate = 2014-03-27 }}</ref>。猪木の訪朝はこれで27回目となる<ref>{{ja icon}} {{cite web|date=2014-03-24
 
  | title = アントニオ猪木が独白「誰も知らない訪朝の理由」 PRESIDENT 2014年2月3日号
 
  | publisher = PRESIDENT Online
 
  | url = http://president.jp/articles/-/11960
 
  | accessdate = 2014-03-27 }}</ref>。
 
 
 
2014年4月には同じ維新の会の[[松浪健太]]、[[石関貴史]]、[[阪口直人]]([[衆議院議員|衆]])、[[清水貴之]]([[参議院議員|参]])の4議員とともに[[ゴールデンウィーク]]中の再度の訪朝を計画した。維新の会は党として許可した<ref>{{cite news
 
| publisher = MSN産経ニュース
 
| title = 猪木氏ら維新5議員 連休中の訪朝計画
 
| url = http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140415/stt14041519480003-n1.htm
 
| date = 2014-04-15
 
| accessdate = 2014-08-08 }}</ref>ものの、政府として北朝鮮に対して渡航自粛勧告を通達するなど制裁発動中であることを理由に自民党からの自粛要請に逢い<ref>{{cite news | publisher = MSN産経ニュース
 
| title = 猪木氏訪朝の自粛要請 逢沢議運委員長
 
| url = http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140424/stt14042411250006-n1.htm
 
| date = 2014-04-24
 
| accessdate = 2014-08-08}}</ref>、渡航に必要な衆参両院の許可が得られる見込みがなくなったとして最終的に断念した<ref>{{cite news | publisher = MSN産経ニュース
 
| title = 猪木氏ら正式に訪朝断念、許可出ず
 
| url = http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140425/stt14042522370011-n1.htm
 
| date = 2014-04-25
 
| accessdate = 2014-08-08}}</ref><ref>{{cite news | publisher = MSN産経ニュース
 
| title = “幻”となる維新訪朝団 渡航自粛の壁、遺恨の火種にも
 
| url = http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140423/stt14042320130009-n1.htm
 
| date = 2014-04-23
 
| accessdate = 2014-08-08}}</ref>。同年6月、[[第186回国会]]の閉会を待って再度の訪朝計画を発表(国会会期中以外の海外渡航は議員が所属する各院の許可が不要であるため)、これに対して[[菅義偉]][[内閣官房長官|官房長官]]は7月7日の定例[[記者会見]]で、政府が北朝鮮への[[経済制裁]]を一部解除したことを踏まえ「渡航で特段の措置を取ることはない」として反対しない方針を表明<ref>{{cite news | publisher = MSN産経ニュース
 
| title = 猪木氏の北朝鮮渡航、問題なし 官房長官
 
| url = http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140707/plc14070722470011-n1.htm
 
| date = 2014-07-07
 
| accessdate = 2014-08-08}}</ref>、7月9日、猪木と上記の4議員に[[みんなの党]]の[[山田太郎 (参議院議員)|山田太郎]]参議院議員を加えた6名の議員団を組織して北朝鮮へ出発、[[平壌市]]内の各施設や[[開城市]]などを訪問したほか、朝・日友好親善協会顧問である[[朝鮮労働党]]の[[姜錫柱]]書記や労働党国際部副部長を務める朝日友好親善協会の[[朴根光]]会長と会談を行い、拉致問題解決に向けた取り組みや人的交流を確認し合った<ref>{{cite news | publisher = MSN産経ニュース
 
| title = 猪木氏が北朝鮮に出発 「スポーツ交流」…拉致問題も意見交換
 
| url = http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140709/stt14070913410002-n1.htm
 
| date = 2014-07-09
 
| accessdate = 2014-08-08}}</ref><ref>{{cite news | publisher = [[朝鮮新報]]
 
| title = アントニオ猪木氏ら国会議員6人が訪朝 朝・日関係について幅広く意見交換
 
| url = http://chosonsinbo.com/jp/2014/07/0714sm/
 
| date = 2014-07-14
 
| accessdate = 2014-08-08}}</ref><ref>{{cite news | publisher = [[東京スポーツ]]
 
| title = “闘魂外交”への風向き変わった!猪木氏に自民党議員もエール
 
| url = http://www.tokyo-sports.co.jp/nonsec/social/290186/
 
| date = 2014-07-16
 
| accessdate = 2014-08-08}}</ref>。
 
 
 
==== 次世代の党への参加と離党 ====
 
2014年8月1日の日本維新の会分党に際しては[[石原慎太郎]]共同代表を支持するグループ「[[次世代の党]]」に参加<ref>2014年(平成26年)10月3日総務省告示第358号「政党助成法第二十三条第四項の規定による未交付金の交付を受けようとする分割政党の届出があったので公表する件」</ref>。党国民運動局長および参議院政策調査会長に就任した。しかし、2014年12月12日に離党届を提出した<ref>[http://mainichi.jp/select/news/20141218k0000m010130000c.html 次世代の党:アントニオ猪木氏が離党届 執行部預かりに] 毎日新聞 2014年12月18日閲覧</ref>。
 
 
 
==== 日本を元気にする会への参加と解散 ====
 
2015年1月8日に政党「[[日本を元気にする会]]」の設立と同時に参加、同党最高顧問に就任。
 
 
 
2015年1月21日に[[ノーベル平和賞]]受賞者の[[マララ・ユスフザイ]]とイギリスで面会し同氏の日本訪問を要請、同氏はこれを受諾した<ref>[http://www.huffingtonpost.jp/2015/01/22/malala-yousafzai-inoki_n_6521080.html マララさん「日本にぜひ行きたい」 アントニオ猪氏が訪日要請]</ref><ref>[http://www.daily.co.jp/newsflash/ring/2015/01/21/0007677651.shtml マララさん父は猪木ファンだった]デイリースポーツ 2014年1月23日閲覧</ref>。2015年9月17日の[[安全保障関連法案]]の採決では所属する[[日本を元気にする会]]が直前で賛成に転じたため。自らも賛成票を投じたが、数日前に反対派団体に「慎重な審議を要求したい」という書簡を出していたために、物議をかもした。
 
 
 
2016年6月2日、日本を元気にする会代表の[[松田公太]]の辞任と共に、猪木の代表就任が報じられた。2016年7月27日に会派「日本を元気にする会・無所属会」は解散し、猪木は会派「[[無所属クラブ (日本 2014-)|無所属クラブ]]」に異動した<ref>{{cite news|title=参院新勢力が確定=舟山氏民進入り、元気解散|agency=時事通信|date=2016-07-28|url=http://www.jiji.com/jc/article?k=2016072700748&g=pol}}</ref>。
 
 
 
== プロレス ==
 
=== 主な戦績 ===
 
* [[1960年]](昭和35年)9月30日、デビュー戦で[[大木金太郎]](金一=キム・イル)に逆腕固めで敗退。
 
* [[1961年]](昭和36年)5月25日、[[ジャイアント馬場|馬場正平]]と初対決、[[羽交い締め]]で敗退<ref name="inoki" />。
 
* [[1964年]](昭和39年)3月12日、海外武者修行の初戦において、[[ハワイ州|ハワイ]]にて[[キング・イヤウケア|プリンス・イヤウケア]]と対戦(猪木のセコンドに付いていた[[豊登道春|豊登]]の乱入で反則負け)<ref name="gs16-60-61" />。以降、2年後の[[東京プロレス]]旗揚げに伴う帰国まで、[[ウィリアム・アフィルス|ディック・ザ・ブルーザー]]、[[フレッド・ブラッシー]]、[[ザ・デストロイヤー]]、[[ジン・キニスキー]]、[[フリッツ・フォン・エリック]]、[[カウボーイ・ボブ・エリス]]、[[マーク・ルーイン]]、[[キラー・カール・コックス]]などと対戦<ref>{{cite web|url=http://wrestlingdata.com/index.php?befehl=bios&wrestler=1400&bild=1&details=7&liga=297&jahr=1964|title=The NWAHW matches fought by Antonio Inoki in 1964|accessdate=2015-09-02|publisher=Wrestlingdata.com}}</ref><ref>{{cite web|url=http://wrestlingdata.com/index.php?befehl=bios&wrestler=1400&bild=1&details=7&liga=261&jahr=1965|title=The GAC matches fought by Antonio Inoki in 1965|accessdate=2015-09-02|publisher=Wrestlingdata.com}}</ref>。
 
* [[1966年]](昭和41年)
 
** 10月12日、[[東京プロレス]]の旗揚げ戦において[[ジョニー・バレンタイン]]に勝利。
 
** 11月19日、ジョニー・バレンタインを破り、USヘビー級王座を獲得。初のシングル王座戴冠を果たす<ref name="inoki-30" />。以降、バレンタイン、[[スタン・スタージャック]]、[[エディ・グラハム]]らを相手に防衛戦を行ったが、東京プロレスの崩壊に伴い王座は消滅<ref name="inoki-30" />。
 
* [[1967年]](昭和42年)
 
** 5月5日、日本プロレスへの復帰戦で[[吉村道明]]と組み、[[マイク・デビアス]]&[[ダン・ミラー (プロレスラー)|ダン・ミラー]]に勝利。
 
** 5月26日、吉村道明と組んでアイク・アーキンス&[[ワルドー・フォン・エリック]]を破り、[[アジアタッグ王座]]を獲得<ref name="asia-t">{{cite web|url=http://www.wrestling-titles.com/japan/alljapan/asia-t.html|title=All Asia Tag Team Title|accessdate=2015-09-08|publisher=Wrestling-Titles.com}}</ref>。
 
** 10月31日、[[ジャイアント馬場]]と組み、[[ビル・ワット]]&[[ターザン・タイラー]]から[[インターナショナル・タッグ王座]]を奪取。以降、馬場との[[BI砲]]で活躍。
 
* [[1969年]](昭和44年)
 
** 5月16日、[[クリス・マルコフ]]を破り、[[ワールドリーグ戦]]初優勝。
 
** 12月2日、[[NWA世界ヘビー級王座|NWA世界ヘビー級王者]]の[[ドリー・ファンク・ジュニア]]に挑戦、60分時間切れ引き分け。
 
* [[1970年]](昭和45年)11月5日、[[星野勘太郎]]と組んで[[ニック・ボックウィンクル]]&[[ビッグ・ジョン・クイン|ジョニー・クイン]]を破り、[[NWAタッグ・リーグ戦]]に優勝<ref name="nwa-tl">{{cite web|url=http://www.puroresu.com/jwa/results/jwa197009nwatag.html|title=JWA 1970 The 1st Annual NWA Tag Team League|accessdate=2015-09-08|publisher=Puroresu.com}}</ref>。
 
* [[1971年]](昭和46年)3月2日、[[ジョン・トロス]]を破り、[[ユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座|UNヘビー級王座]]を獲得。以降、フレッド・ブラッシー、[[ジャック・ブリスコ]]、フリッツ・フォン・エリック、[[ディック・マードック]]を相手に防衛戦を行ったが、日本プロレスからの除名に伴い同年12月13日にタイトルを返上<ref name="un">{{cite web|url=http://www.wrestling-titles.com/japan/alljapan/un.html|title=NWA United National Heavyweight Title|accessdate=2015-09-08|publisher=Wrestling-Titles.com}}</ref>。
 
* [[1972年]](昭和47年)
 
** 3月6日、[[新日本プロレス]]の旗揚げ戦において[[カール・ゴッチ]]に敗退<ref>{{cite web|url=http://www.puroresu.com/newjapan/results/nj197203opening.html|title=NJPW 1972 Opening Series|accessdate=2015-09-02|publisher=Puroresu.com}}</ref>。
 
** 10月4日、カール・ゴッチを破り、世界ヘビー級王座を獲得。
 
* [[1973年]](昭和48年)
 
** 10月13日、[[坂口征二]]と組み、[[ルー・テーズ]]&カール・ゴッチと90分3本勝負で対戦、2-1で勝利。
 
** 12月10日、[[ジョニー・パワーズ]]を破り、[[NWF]]世界ヘビー級王座獲得。
 
* [[1974年]](昭和49年)
 
** 3月19日、NWF世界ヘビー級選手権試合で[[ストロング小林]]と対戦、大物日本人同士の対決が話題となった。[[ジャーマン・スープレックス|ジャーマン・スープレックス・ホールド]]で勝利。
 
** 4月26日、坂口征二と初対戦。30分1本勝負で時間切れ引き分け。
 
** 5月8日、[[キラー・カール・クラップ]]を破り、[[ワールドリーグ戦#新日本プロレスのワールドリーグ戦|新日本プロレス版ワールドリーグ戦]]初優勝。
 
** 6月26日、[[タイガー・ジェット・シン]]と対戦し、腕を折る。
 
** 8月16日、坂口征二と組み、[[クルト・フォン・ヘス]]&[[カール・フォン・ショッツ]]から[[北米タッグ王座]]を奪取。
 
** 10月10日、NWF世界ヘビー級選手権試合で[[大木金太郎]]と対戦、13分13秒で[[バックドロップ]]からフォール勝ち。
 
* [[1975年]](昭和50年)12月11日、NWF世界ヘビー級選手権試合で[[ビル・ロビンソン]]と対戦、60分時間切れ引き分け。
 
* [[1976年]](昭和51年)
 
** 2月6日、[[ミュンヘンオリンピック]]柔道無差別級金メダリストの[[ウィレム・ルスカ]]と初の異種格闘技戦。バックドロップ3連発で勝利。
 
** 6月26日、プロボクシング世界ヘビー級チャンピオンの[[モハメド・アリ]]と対戦、15R引き分けに終わる([[アントニオ猪木対モハメド・アリ]]参照)。
 
** 10月7日、[[アンドレ・ザ・ジャイアント]]と格闘技世界一決定戦で対戦、レフェリーストップで勝利。
 
* [[1977年]](昭和52年)8月2日、[[空手道|空手]]のWKA世界スーパーヘビー級王者[[ザ・モンスターマン]](エベレット・エディ)と対戦、KO勝ち。
 
* [[1978年]](昭和53年)
 
** 5月30日、アンドレ・ザ・ジャイアントを破り、[[MSGシリーズ]]初優勝。
 
** 11月25日、[[ドイツ]]の[[シュトゥットガルト]]にて[[ローラン・ボック]]と対戦、判定負け。
 
* [[1979年]](昭和54年)
 
** 8月26日、[[プロレス夢のオールスター戦]]でジャイアント馬場と組み、[[アブドーラ・ザ・ブッチャー]]&タイガー・ジェット・シンと対戦、シンを逆さ押さえ込みに仕留めて勝利。
 
** 11月30日、[[ボブ・バックランド]]に勝利。日本人初、[[WWE世界ヘビー級王座|WWFヘビー級王座]]獲得(王座はのちに返上)。
 
* [[1980年]](昭和55年)
 
** 2月27日、熊殺し[[極真会館]]の[[ウィリー・ウィリアムス (格闘家)|ウィリー・ウィリアムス]]と対戦、ドクターストップの無効試合となった。
 
** 9月25日、[[スタン・ハンセン]]と対戦、逆[[ラリアット]]でフォール勝ち。
 
* [[1981年]](昭和56年)8月6日、[[ビル・イーディー|マスクド・スーパースター]]と賞金3万ドル&覆面剥ぎマッチで対戦、ジャーマン・スープレックス・ホールドで勝利。
 
* [[1982年]](昭和57年)11月4日、[[国際軍団]]([[ラッシャー木村]]、[[アニマル浜口]]、[[寺西勇]])と1対3変則マッチで対戦、寺西、浜口からフォールを奪うも木村にリングアウト負け。
 
* [[1983年]](昭和58年)
 
** 5月27日、第1回IWGP決勝リーグ戦で[[前田日明|前田明]]と唯一のシングル対戦、フォール勝ち。
 
** 6月2日、第1回IWGP決勝戦で[[ハルク・ホーガン]]と対戦、アックスボンバーによりリング外に転落し頭を打ちKO負け。
 
** 11月3日、維新軍との4対4綱引きマッチで[[谷津嘉章]]と対戦、フォール勝ち。
 
* [[1984年]](昭和59年)6月14日、第2回IWGP決勝戦で前年優勝したハルク・ホーガンに挑戦、2度の延長戦や長州が乱入するもののリングアウト勝ち。
 
* [[1985年]](昭和60年)
 
** 4月18日、[[ブルーザー・ブロディ]]と初対戦、両者リングアウト。
 
** 12月12日、[[IWGPタッグ王座|'85IWGPタッグリーグ戦決勝戦]]で坂口征二と組み、[[藤波辰爾|藤波辰巳]]&[[木村健悟|木村健吾]]と対戦、藤波の[[ドラゴン・スープレックス]]で敗退。
 
* [[1986年]](昭和61年)
 
** 2月6日、[[UWF]]代表の[[藤原喜明]]と対戦、勝利。
 
** 6月17日、アンドレ・ザ・ジャイアントから世界初のギブアップ勝ちを収める。
 
* [[1987年]](昭和62年)
 
** 3月27日、[[大阪城ホール]]での「INOKI闘魂LIVE Part2」の[[マサ斎藤]]戦に[[海賊男]]が乱入。観客が暴動を起こす。
 
** 10月4日、マサ斎藤と「[[巌流島の戦い (プロレス)|巌流島の戦い]]」を行う。2時間5分14秒の死闘の末勝利。
 
** 12月27日、[[たけしプロレス軍団]]の刺客、[[ビッグバン・ベイダー]]と対戦し、2分49秒で敗れる。再三のカード変更と猪木の敗北に観客が、大阪城ホールに続き暴動を起こす。
 
* [[1988年]](昭和63年)7月22日、[[長州力]]と対戦、フォール負け。
 
* [[1989年]]([[平成]]元年)
 
** 4月24日、「格闘衛星闘強導夢」と釘打ち、プロレス初の[[東京ドーム]]大会で柔道ミュンヘン五輪金メダリスト[[ショータ・チョチョシビリ]]と異種格闘技戦。裏投げを食らい、左肩を脱臼し(異種格闘技戦初の)敗北。
 
** 5月25日、[[ショータ・チョチョシビリ]]と大阪城ホールで再戦し、ギブアップ勝ちを収めている。
 
* [[1990年]](平成2年)2月10日、坂口征二と組み、[[蝶野正洋]]&[[橋本真也]]の挑戦を受ける形で対戦、蝶野からフォール勝ち。この試合で初めて「1、2、3、ダー!」を披露。
 
* [[1992年]](平成4年)1月4日、[[馳浩]]と対戦、卍固めで勝利。
 
* [[1994年]](平成6年)
 
** 1月4日、[[天龍源一郎]]と対戦、[[パワーボム]]で敗れる。
 
** 5月1日、[[福岡ドーム]]で[[武藤敬司#グレート・ムタ|グレート・ムタ]]と対戦、フォール勝ち。この試合より引退への布石となる「イノキファイナルカウントダウンシリーズ」が始まる。
 
* [[1998年]](平成10年)4月4日、「ファイナルイノキトーナメント」を勝ち上がった[[ドン・フライ]]と引退試合で対戦、グラウンド・コブラツイストで勝利。
 
 
 
=== 通算成績 ===
 
* シングル戦 - 612勝41敗50分
 
* タッグ戦 - 1466勝104敗130分
 
 
 
=== 獲得タイトル ===
 
; NWAビッグタイム・レスリング
 
* [[NWA世界タッグチーム王座|NWA世界タッグ王座]](テキサス東部版):1回(w / [[デューク・ケオムカ]])<ref name="tx-nwa-t" />
 
; [[コンチネンタル・レスリング・アソシエーション|NWAミッドアメリカ]]
 
* [[NWA世界タッグチーム王座|NWA世界タッグ王座]](ミッドアメリカ版):1回(w / [[ヒロ・マツダ]])<ref name="tn-nwa-t" />
 
; [[NWF|ナショナル・レスリング・フェデレーション]]
 
* [[NWF#NWF世界ヘビー級王座 / NWFヘビー級王座 歴代王者|NWF世界ヘビー級王座 / NWFヘビー級王座]]:4回
 
; [[WWE|ワールド・レスリング・フェデレーション]]
 
* [[WWE王座 (世界ヘビー級)|WWFヘビー級王座]] : 1回 (新日本プロレスは公式に認めているが、管理権を持つ[[WWE]]は現在認めていない)
 
* WWF世界マーシャルアーツ王座:2回
 
; [[ユニバーサル・レスリング・アソシエーション]]
 
* [[UWA世界ヘビー級王座]]:1回
 
; [[東京プロレス]]
 
* USヘビー級王座:1回([[ジョニー・バレンタイン]]を破り獲得したタイトル)
 
; [[日本プロレス]]
 
* [[ユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座|UNヘビー級王座]]:1回
 
* [[インターナショナル・タッグ王座]]:4回(w / [[ジャイアント馬場]])
 
* [[アジアタッグ王座]]:4回(w / [[吉村道明]]×3、[[大木金太郎]])
 
* [[ワールドリーグ戦]]優勝:1回
 
* [[NWAタッグ・リーグ戦]]優勝:2回(w / [[星野勘太郎]]、[[坂口征二]])
 
; [[新日本プロレス]]
 
* 世界ヘビー級王座:1回([[カール・ゴッチ]]が所有していたタイトル。前身は[[オハイオ州|オハイオ]]版の[[AWA世界ヘビー級王座]])
 
* [[IWGPヘビー級王座]]:1回
 
* [[北米タッグ王座|NWA北米タッグ王座]](新日本プロレス版):2回(w / 坂口征二)
 
* [[ワールドリーグ戦]](新日本プロレス版)優勝:2回
 
* [[プレ日本選手権]]優勝:1回
 
* [[IWGPリーグ戦]]優勝:4回
 
* [[MSGシリーズ]]優勝:4回
 
* MSGタッグ・リーグ戦優勝:4回(w / [[ボブ・バックランド]]、[[ハルク・ホーガン]]×2、[[藤波辰爾|藤波辰巳]])
 
* ジャパンカップ争奪タッグ・リーグ戦優勝:1回(w / [[藤原喜明]])
 
* ジャパンカップ・イリミネーション・リーグ戦優勝:1回(w / [[長州力]]&星野勘太郎)
 
; その他
 
* WCW殿堂
 
* [[WWE殿堂]]
 
* [[新日本プロレス#NJPWグレーテストレスラーズ|NJPWグレーテスト・レスラーズ]]
 
 
 
=== 得意技 ===
 
==== フィニッシュ・ホールド(必殺技) ====
 
; [[コブラツイスト]](アバラ折り:アブドミナル・ストレッチ)
 
: 日本プロレス時代に頻繁に使用した技。[[ジャイアント馬場]]など他の使い手が増えたことから必殺技としての説得力が薄れ、卍固めをフィニッシュとして使うようになる。猪木のコブラツイストは他人を滅多に褒めることの無かった[[ブルーザー・ブロディ]]も絶賛していた。
 
; [[卍固め]](オクトパス・ホールド)
 
: アントニオ猪木の代名詞的な技。コブラツイストに代わる新しい必殺技として使い始め、卍固めという名前は一般公募により名づけられた。別名アントニオ・スペシャル。
 
; [[延髄斬り]]
 
: 運動中枢であり、人体の急所である延髄をジャンプして蹴る技。これも猪木の代名詞的な技である。
 
; [[バックドロップ]](岩石落とし)
 
: 「ヘソで投げる」と表現される[[ルー・テーズ]]式バックドロップ。
 
; [[ジャーマン・スープレックス|ジャーマン・スープレックス・ホールド]](原爆固め)
 
: 日本プロレス時代に[[カール・ゴッチ]]から体得した技。[[ストロング小林]]戦で放ったときは勢いがつきすぎて[[ブリッジ]]の際に足が一瞬浮き上がり、首だけで身体を支える形になった(この時のジャーマンは[[オールスタープロレスリング]]で必殺技として収録されている)。
 
; [[スープレックス#相手を横抱きにする|ブロック・バスター・ホールド]]
 
: ルー・テーズとの[[NWF#NWF世界ヘビー級王座 / NWFヘビー級王座 歴代王者|NWF世界ヘビー級王座]]戦でフィニッシュとして使用していた。
 
 
 
==== 主に晩年に使用された技 ====
 
; [[コブラツイスト#派生技|グラウンド・コブラツイスト]]
 
: コブラツイストをかけたまま相手とともにマットに倒れ、フォールを取るか関節を極めてギブアップを奪う技。引退試合のフィニッシュ・ホールドとなった。
 
; [[裸絞|スリーパー・ホールド]](裸絞め)
 
: [[UWF]]との対抗戦で、[[藤原喜明]]を締め落としてから使い出した。猪木が使用していたいわゆる「魔性のスリーパー」はチョークスリーパーに近いものであった。
 
: 一部では“チョークスリーパー”と呼ばれているが、プロレスではチョーク攻撃は禁止されており、これは実況アナウンサー[[辻よしなり]]の誤認であると、当時の解説者[[マサ斎藤]]も語っている。
 
 
 
==== その他 ====
 
; アーム・ブリーカー(腕折り)
 
: 相手の手首を自分の肩越しにつかみ、二の腕から腕の付け根にかけて自分の肩に強打する、テコの原理を利用した技。[[1974年]](昭和49年)6月26日[[大阪府立体育会館]]、[[NWFヘビー級選手権]]試合で、相手の[[タイガー・ジェット・シン]]に多用し腕を折った。「なんで逃げないの?」への答えは、「掌を押え、肘の関節を外に開く方向で力を加えているから、逃げようとするともっと痛い」。
 
; [[フロント・ネックチャンスリー#フロント・ネックチャンスリー・ドロップ|アントニオ・ドライバー(フロント・ネックチャンスリー・ドロップ)]]
 
: 東京プロレス時代にのみフィニッシュとして使用していた投げ技。
 
; [[アリキック]]
 
: [[モハメド・アリ]]との異種格闘技戦で使用したためアリの名がつけられた蹴り技。自ら仰向けになり相手の脚の側面や裏側を蹴るこの技は、ボクシングとの異種格闘技戦におけるルールの盲点をついた効果的な攻撃であった(立ったまま、あるいは「スライディングキック」で相手の脚を蹴るバージョンもあり)。アリの脚は試合後、紫色に腫れあがり、ホテルのエレベーターでがっくりと膝をついた、との挿話あり。以降は相手の足を狙ったローキックは、猪木が繰り出すとアリキックと呼ばれるようになる。
 
; [[リバース・インディアン・デスロック]]
 
: うつ伏せにした相手の交差させた足を極める技。自分の片足を相手の交差した両足に入れながら、そのまま後ろへ受身を取りダメージを与える。両手を叩きながら観客を煽り、派手に後ろへ倒れこむ様は、[[歌舞伎]]でいうところの大見得であり、アントニオ猪木が逆襲に転じる際の大きな見せ場の一つとなっている。倒れこんだ状態で相手のアゴを手で捉えブリッジする「[[鎌固め]]」に移行することも多い。また、足を絡めた状態から「[[変形弓矢固め]]」に移行するパターンもある。
 
; [[パンチング|ナックル・パート]]
 
: 勢いよく振りかぶった拳を相手の顔面(主に額)に叩き込む技。技を出すときは、片手で相手の髪の毛を掴みつつ何度も繰り出すため、相手の額が割れることもある。拳骨はプロレスにおいて反則技だが、アントニオ猪木が激高した際に繰り出す定番の技である。拳を固め、中指のみ突出させて相手の額に打ち付けることもある。別名「鉄拳制裁」、「弓を引くストレート」。[[弓矢|弓]]を引くように思い切り振りかぶる様子から、「ナックルアロー」と呼ばれることもある<ref>[[古舘伊知郎]]は'''『弓を引くナックルパート』'''と表現したこともある。</ref>。
 
; [[ドロップキック]]
 
: 助走無しで至近距離から蹴るのを得意としていた。全盛期には3回連続で使うこともあったが、試合中盤から反撃の口火を切る際に用いることが多かった。日本プロレス時代は背面とびが多かったが、新日本プロレス時代ではスクリュー式を多用した。
 
; [[ニー・ドロップ]]
 
: 通常は寝ている相手に対して膝から落ち、ダメージを与える技だが、猪木の場合はトップロープから飛び降り、寝ている相手の顔、または反対方向を向いている相手の後頭部に膝蹴りを繰り出す。
 
 
 
==== 骨法技 ====
 
; 浴びせ蹴り
 
: 「竜巻蹴り」とも称される。[[骨法 (格闘技)|骨法]]の技の一つとされており、[[レオン・スピンクス]]戦前の骨法特訓にて習得。[[マッハ文朱]]や[[前田日明]]が得意とした縦回転ニールキックと混同されることが多いが、軸足を残してバランスを取るニールキックとは、両足を離して宙に浮く点が大きく異なる。のちにシングルマッチでこの技を食らった天龍源一郎が、我流のアレンジを加えてこの技を継承している。
 
 
 
=== イノキボンバイエ ===
 
「'''イノキボンバイエ'''」のフレーズを持つ入場曲『'''炎のファイター 〜INOKI BOM-BA-YE〜'''』は、元々[[モハメド・アリ]]の伝記映画『アリ・ザ・グレイテスト』([[w:The Greatest (1977 film)|en]])の挿入曲(作曲は[[マイケル・マッサー]])であったが、猪木と対戦したアリから猪木に贈られ、それをアレンジしたもの。
 
 
 
ちなみに「ボンバイエ」とは、「Boma ye(ボマ・イェ)」([[リンガラ語]]:“彼を殺せ!”。“やっちまえ”程度の意味。[[中邑真輔]]の必殺技名でもある)が訛ったもの。アリがコンゴの首都[[キンシャサ]]で[[ジョージ・フォアマン]]と戦った際の声援が由来とされる<ref>猪木の弟子で、「猪木最後の闘魂継承者」と呼ばれる[[藤田和之]]は、オーケストレーション・バージョンを入場曲とする。</ref>。また[[高校野球]]の応援などでも使用されることが多い。
 
 
 
[[1977年]](昭和52年)にシングルレコード「アントニオ猪木のテーマ 炎のファイター/炎のファイター(パート2)」(演奏:[[w:Mandrill (band)|マンドリル]])が発売(東芝EMI IER-20307)。
 
 
 
同年、「炎のファイター〜アントニオ猪木のテーマ」(演奏、歌 : アントニオ猪木とザ・ファイターズ)も発売された。B面には歌詞(作詞:[[なかにし礼]])をつけた「いつも一緒に」(歌:[[倍賞美津子]])がカップリングされていた(東芝EMI TP-10341)。
 
 
 
[[2002年]](平成14年)さまざまなバージョンを収録したアルバム「21世紀ヴァージョン 炎のファイター 〜INOKI BOM-BA-YE〜」(WBSS-20123)が発売。
 
 
 
[[2006年]](平成18年)韓国のヒップホップ・グループSide-B(サイドビー)が「SB BOMBA YE」としてラップ風にカバー、[[2007年]](平成19年)に[[DJ OZMA]]が同曲を「疾風迅雷 〜命BOM-BA-YE〜」として再カバーした。
 
 
 
=== 猪木の弟子たち ===
 
* 猪木の最初の弟子は[[藤波辰爾]]であり、日本プロレス時代の付き人であった。
 
* 猪木を慕って来た者の中にはその後袂を分かったケースも少なくない。[[前田日明]](猪木の関係する旧UWFへエースとして参加→崩壊)、[[佐山聡]](旧UWF→シューティング→UFO→決裂→和解→IGF参戦)、[[高田延彦]](「PRIDE」で共闘するも後に絶縁)、いわゆる[[闘魂三銃士]](武藤敬司=全日本プロレスへ移籍、蝶野正洋=IGF GM→退任、橋本真也=ZERO ONE設立)などである。
 
* 現役時代に最後の付き人を務めたのは[[藤田和之]]。
 
* 猪木最後の愛弟子は第10代UFC世界ライトヘビー級王者である[[リョート・マチダ|LYOTO]]である。
 
 
 
== 寛水流空手 ==
 
[[寛水流]]空手(かんすいりゅうからて)は、[[1982年]](昭和57年)2月27日に空手家・水谷征夫とアントニオ猪木が創設したフルコンタクト空手の団体。その名称はアントニオ猪木の本名である猪木寛至の「寛」と水谷の「水」を取って命名された。現在は正式名称を「[[特定非営利活動法人]] 世界寛水流空手道(せかいかんすいりゅうからてどう)」として東海地方を中心に活動している。
 
 
 
=== 寛水流空手発足の経緯 ===
 
『いつ何時誰の挑戦でも受ける』と表明したアントニオ猪木に対して、[[安藤昇]]の小説『東海の殺人拳』のモデルとして知られる空手家・水谷征夫が「ルールの無い命をかけた戦い」を申し入れた。
 
 
 
その申し出を猪木は承諾し、具体的な話が進められた。なお、「ルールの無い命をかけた戦い」とはプロレスと空手のいかなる技も自由とし、急所攻撃さえ禁止しない、勝負は生死をもって決するというものである。水谷が鎌、サイ、トンファーなど琉球古武術の達人でもあったことから、猪木の素手に対して鎖鎌で戦いを挑んだといわれているが、これは誤りである。
 
 
 
この試合は両者で一旦は合意され、当時マスコミに「昭和の巌流島」として取り上げられた。猪木有利の予想の中、[[新間寿]]は水谷の実力を冷静な目で判断していた。そして、テレビ放映のスポンサーがつかなかったことと、水谷の[[貫手]]による目への攻撃や蹴りによる急所攻撃によって猪木に万一のことがあることを恐れた新間の必死の仲裁により、直前で中止された。
 
 
 
交渉の過程で水谷は猪木に対して、プロレス界のスターでありながら、一空手家の挑戦をリスク覚悟で承諾した姿勢に尊敬の念を抱く。また猪木は、自らの命をかけて戦いを挑んでくる日本人がいることに驚嘆する。戦いを前に鋭く対立した二人であったが、その後交流を深め[[寛水流]]空手を創設した。水谷は[[1990年]](平成2年)に死去したが、訃報を知った猪木は盟友の早すぎる死に涙したという。
 
 
 
寛水流出身のプロレスラーには[[後藤達俊]]、[[松永光弘]]、奥田啓介などがいる。
 
 
 
== 政治 ==
 
=== 略歴 ===
 
* [[1989年]]([[平成]]元年)、「スポーツを通じて国際平和」の合言葉で、スポーツ平和党を結成。同年に行われた第15回参議院選挙に比例区から出馬し初当選し、史上初のレスラー出身の[[国会議員]](=参議院議員)となり、「猪木チャリティーテレホン」(ダイヤルQ2)など様々な政治活動を行った。
 
* [[東京スポーツ]]は "レスラー・猪木" と "参議院議員・猪木" で扱いを分けていた。「猪木」と呼び捨ての記事にした場合はレスラー・アントニオ猪木、「猪木さん」「猪木氏」と書いた場合は参議院議員・猪木寛至についての記事。
 
* [[ソビエト連邦]]から[[勇利アルバチャコフ]]・[[オルズベック・ナザロフ]]をはじめとするアマチュアボクシングのトップ選手を親交の深い[[金平正紀]]率いる[[協栄ボクシングジム]]に預け「映画『[[ロッキー4/炎の友情|ロッキー4]]』の世界を現実化させる」と謳い、日本でプロデビューする道を拓いた。現在は薬師寺ボクシングジム後援会名誉会長として[[薬師寺保栄]]を支援している。同時にソ連のアマチュアレスリングのトップ選手[[サルマン・ハシミコフ]]・[[ビクトル・ザンギエフ]]なども新日本プロレスでプロデビューさせた。
 
* [[湾岸戦争]]前夜に[[スポーツと平和の祭典|イラクにおいて行ったイベント]]により、[[人質]]状態にあった在留日本人と全人質の解放に貢献。なお、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]でもイベント「[[平和のための平壌国際体育・文化祝典|平和の祭典]]([[リック・フレアー]]と対戦し勝利を収めている)」を開催した。翌[[1996年]](平成8年)春、自身は落選し前議員ながら[[崔鉄洙]]を協栄ジムからプロデビューさせる道を拓いた。
 
* [[1992年]](平成4年)7月に実施された[[第16回参議院議員通常選挙]]には、比例代表候補として元[[阪神タイガース]]のプロ野球解説者[[江本孟紀]]を擁立。当選し参議院会派で2議席目を獲得。
 
* 猪木は第8代[[自由民主党総裁|自民党総裁]]・[[清和政策研究会]]初代会長の[[福田赳夫]]に可愛がられ、福田の実弟の[[福田宏一]]が猪木の格闘家としての後援会会長を務め、また福田の愛弟子で第19代自民党総裁・清和会第4代会長[[森喜朗]]とも親交が深い。
 
* [[二階堂進]]は日本プロレスリングコミッション(新日本プロレス・国際プロレス)のコミッショナーも務めていた。[[1985年]](昭和60年)、新国技館([[両国国技館]])の新日本プロレス使用を、前年の蔵前国技館でのファンの暴動騒ぎ([[IWGPリーグ戦]]第二回大会決勝戦の項を参照)から相撲協会が貸し出しを渋った際には、仲介の労をとった。
 
* いわゆる「猪木スキャンダル」によって、[[1995年]](平成7年)の参議院選挙で落選する。
 
* 同年に突如江本副代表から党の運営を巡って対立する。特に党運営に関わる金銭疑惑による猪木への不信感は2人の関係に大きな亀裂を生じてしまう。江本孟紀副代表は離党し無所属になってしまい、元公設第1秘書(借金問題で一度は解雇された)だった、実兄である[[猪木快守]]([[テノール]][[歌手]]・パブロ猪木)が党首(代表)に就任。
 
* その後スポーツ平和党は主立った政治活動を行わなくなり、[[2007年]](平成19年)3月には公式サイトを閉鎖。既に政治団体解散届を総務大臣に提出している。
 
* [[2013年]](平成25年)に[[第23回参議院議員通常選挙]]で[[日本維新の会 (2012-2014)|日本維新の会]]から比例代表で出馬し当選。国政復帰した。翌年の日本維新の会分党時には[[石原慎太郎]]グループ([[次世代の党]])に参加したが、[[2015年]](平成27年)に離党し[[日本を元気にする会]]の結党に参画した。[[2016年]](平成28年)の会派「日本を元気にする会・無所属会」解散後は会派「[[無所属クラブ (日本 2014-)|無所属クラブ]]」に異動した。
 
 
 
=== イラク在留邦人人質解放までの真相 ===
 
[[1990年]](平成2年)[[湾岸戦争]]が危惧される中、[[イラク]]の[[サッダーム・フセイン]]大統領は、在留外国人を国外出国禁止(事実上の人質)とした。その中に多くの日本人が含まれており、安否が気遣われていたが、外務省主導による、人質解放交渉は遅々として進まなかった。
 
 
 
解決の糸口さえ見えない外務省の人質交渉に痺れを切らした猪木があることを決断する。それは被害者家族等を率いてあえて緊張高まるイラクでのイベント"'''[[スポーツと平和の祭典]]'''"を行うため、バグダードに向かうというものだった。
 
 
 
猪木に対して外務省はイラク行きを止めるよう説得するもこれを拒否、すると今度は人質被害者家族に対し圧力を掛け「いつ戦争が起こるか分からないし、日本政府としては責任を持てない。そんな所に行くことはまかりならん、もしどうしても猪木議員とイラクに行く場合は、……それはあなた方も含めて命の保証が無いという意味です」と猛烈に反対した。イラク邦人人質被害者家族(あやめの会)は悩んだ末に、外務省が動かないために、猪木に全てを託すことにしたのである。
 
 
 
[[1990年]](平成2年)11月、猪木は日本の各[[航空会社]]にイラクへの出航を要請したが、外務省の強い圧力もあり、他のいずれの航空会社も拒否してきたことでイラクへの直行便の計画は暗礁に乗り上げた。やむなく猪木は、[[園遊会]]の会場で当時の駐日トルコ[[特命全権大使]]に懇願したところ'''チャーター機の費用を猪木個人が負担することが条件で、トルコ大使の仲介により[[トルコ航空]]の協力でバグダード入りが可能となった。
 
 
 
[[1990年]](平成2年)12月1日、平和の祭典関係者や人質被害者41家族46人と共にトルコ経由でバグダード入りを果たした。この時サッダーム・フセイン大統領は、一国会議員でしかない猪木を国賓級の扱いで迎えたという。
 
 
 
イラクでのスポーツと平和の祭典は邦人人質を中心に人質被害者家族とイラク人観衆が会場を中心に向き合う中で始まり、12月2日、3日の両日に渡り、ロックコンサートと、日本の大太鼓を初めとする伝統芸能や空手トーナメント、そして最後にプロレスが行われ無事終了し平和の祭典は成功を収める一方、イベント開催中に家族の面談は許されたものの解放までには至らなかった。
 
 
 
焦りと落胆の中、帰路に着くべく機中に着いた時、フライト直前の猪木にイラク政府から「'''大統領からお話があります'''」と告げられ急遽猪木だけ飛行機を降り、この結果まず12月5日在留邦人の解放が決まり、7日には人質全員の解放が決定する。
 
 
 
猪木はかつて新日本プロレスのパキスタン遠征において、格闘技の英雄'''[[アクラム・ペールワン]]'''[http://www4.point.ne.jp/~kirisame/battle/kiji/akuramu.html]と対戦し腕を折るなどして勝利を収めると一躍国民的一大事になり、同行した妻の倍賞美津子と共に猪木が国王と並んで国民に挨拶をする姿が当地のマスメディアで大きく紹介された。その後パキスタン人ジャーナリスト、[[フマユン・A・ムガール]]の計らいにより4度パキスタン遠征を行い、パキスタンでは毎年[[12月8日]]は猪木の日として登録されている。
 
 
 
=== 東京都知事出馬と撤退 ===
 
[[1991年東京都知事選挙]]に、かつて[[日本放送協会|NHK]]のニュースキャスターだった[[磯村尚徳]]が出馬を表明した後に出馬を表明したが、マスコミから「なぜ出馬したのか?」と聞かれ猪木が「彼(磯村)には、かつて『[[ニュースセンター9時]]』でアリとの試合を茶番扱いされたので」と答えた。
 
 
 
その後スポンサー[[佐川急便]]の[[佐川清]]会長、[[総理大臣]]及び[[自民党総裁]]経験者で[[清和研]]創始者[[福田赳夫]]やその愛弟子[[森喜朗]]及び[[三塚博]]に説得され、出馬を断念し磯村と政策協定を結んだ。出馬断念に至る裏には、数千万円の現金が動いたとの証言があり、[[東京スポーツ]]の激闘の永田町にスクープを書いた菊池久を名誉毀損と約300万円の損害賠償を求めて民事提訴し、マスコミを賑わせたが、判決は領収書の所在が不明との判断で金銭授受を否定して菊池側の敗訴となった。
 
 
 
地裁判決には、猪木と新間寿も出廷していたが、判決後には猪木が菊池久に対して『もう少しうまく話し合いが出来ればねえ』と余裕の表情で語っていた。
 
 
 
なお、猪木の出馬撤回に触発され[[内田裕也]]が出馬している。
 
 
 
=== 参議院落選まで ===
 
[[1995年]](平成7年)参議院出馬するが、[[1993年]](平成5年)に[[佐藤久美子 (曖昧さ回避)|佐藤久美子]]元公設第1秘書とスポーツ平和党前幹事長[[新間寿]]に告発された「政治資金規正法違反の問題」「賄賂の問題」「右翼(日本皇民党)との癒着問題」「佐川急便会長の依頼で東京都知事降板問題」「税金未納問題」、「女性問題」、「拳銃密輸及び拳銃所持疑惑」などのスキャンダルが発覚。政治資金規正法違反については時効となり、処分はまぬがれたがこの影響により落選。
 
 
 
数多くのスキャンダルに対して猪木本人は完全に否定した。
 
 
 
=== 朝鮮半島問題との関わり ===
 
師匠の力道山が韓国を訪問していたことを知った猪木は、参議院議員時代の[[1994年]](平成6年)9月に金容淳の招きで初めて北朝鮮を訪問し、何人かの要人と力道山の娘に会った。その後、30回以上北朝鮮を訪問している。猪木は[[世界 (雑誌)]]のインタビュー記事で、日本の政治家たちは北朝鮮問題に先入観を持っており拉致と制裁以外に何も言わない。戦前、戦後の知識を持たないため相手を理解せず日本の基準で判断して主張する。それでは相手と衝突するだけで何も進まないと批判している。拉致担当大臣が直接北朝鮮に行って対話と交渉をすべきで、国力の優位を利用して落ち着いた寛大な外交をするべきと主張し、「スポーツ交流を通じて世界平和を」を理念に国家間の話し合いのきっかけになっていきたいと語っている<ref>{{Cite journal ja-jp |author = アントニオ猪木 |year = 2011 |title = 北朝鮮とは対話で勝負しよう!-北朝鮮訪問22回の経験から |journal = 世界 |serial = 2011年12月号 No.824 |publisher = 岩波書店 |issn = 0582-4532 |pages = pp.234-240 }}</ref>。
 
 
 
2013年7月に26回目の訪朝をして北朝鮮政府の要人と会談をした猪木は、帰国後に日本外国特派員協会で記者会見を開き、[[北朝鮮による日本人拉致問題|拉致]]被害者名簿の信頼性や拉致問題を国際社会に訴えて解決することについて疑問を抱いていること、「拉致が解決したら、我々は幸せになれますかね?」と発言して独自の見解を示した<ref>{{Cite web |date=2013-08-05 |url=http://www.j-cast.com/2013/08/05180846.html |title=「拉致解決したら幸せになれるのか」 アントニオ猪木氏が特派員協会で独自見解 |publisher=ジェイ・キャスト |accessdate=2013-11-22}}</ref>。ただし、[[北朝鮮による日本人拉致問題|拉致問題]]の解決に否定的なわけではなく、[[SAPIO]]2015年2月号のインタビューでは「拉致問題担当大臣が10人以上も代わっているようでは、北朝鮮側もまともな交渉をすることはできない」「必要があるのなら、朝鮮労働党幹部と信頼関係を築いてきた私をいつでも使えば良い。選挙で拉致問題のパフォーマンスをしている議員とは違い、自分は命がけでやる」とし<ref>[http://www.news-postseven.com/archives/20150110_296203.html A.猪木氏「俺なら命がけで拉致問題を解決してみせる」と宣言]NEWSポストセブン</ref>、2016年9月の31回目の訪朝中には現地の日本人女性3人と接触し「八十何歳とお年を召されている。そういう方々の『故郷に帰りたい』という夢を実現させたい。帰国できるように呼びかけていきたい」とも述べている<ref name="kitakita">[http://news.livedoor.com/article/detail/12018377/ 猪木氏 北朝鮮幹部の“本音”明かす「核実験は米国に向けてのもの」]ライブドアニュース</ref>。
 
 
 
2016年5月に行われた[[朝鮮労働党第7次大会]]にて[[金正恩]]が党委員長に推戴されたことを受け、祝福の花かごを贈っている<ref>{{Cite news|url=http://www.naenara.com.kp/ja/news/news_view.php?0+95464|title=金正恩元帥に日本国会参院議員から花かご|newspaper=[[ネナラ]]|date=2016-05-12|accessdate=2016-06-04}}</ref>。
 
 
 
なお、猪木の姿勢は時に国会議員からも賛否両論が飛び交うこともある<ref name="kitakita" />。
 
 
 
== 事業 ==
 
猪木の旺盛な野心はリング内に収まらず、多くの事業に挑戦している。ただし成功を収めたものはほとんど無い。数多くの事業の大半はブラジルに関係することが多く、アントン・ハイセルに私財を投げ打ってまで事業を進めることに対して美津子夫人(当時)は新間寿に「なぜそこまでしてブラジルに拘るのか」と聞いた程である。下記のように、猪木はプロレスだけに止まらず、様々な事業に手を広げているが、本人は「(事業欲が旺盛であった)力道山と祖父の影響が大きい」と述べている。かつて「[[さんまのまんま]]」に出演した際、[[明石家さんま]]に対して「さんまさん預金いくらあるの?うまい儲け話があるけど投資してみない?」と誘っていたが、さんまはやんわりと拒否している。
 
 
 
=== アントン・トレーディング ===
 
「アントン・トレーディング」という貿易会社を設立。この会社は一時日本国内での[[タバスコ]](マキルヘニー・カンパニー)の販売権を持っていたことがあるが、別件で借金を抱えたため手放している。当時はまだタバスコは一般的ではなく、その後激辛ブームや宅配ピザが広まり需要が大幅に伸びた。また、「タバスコを最初に日本に持ち込んだのは猪木」と言われることもあるが、事実ではない([[タバスコ]]の項参照)。また、新日本プロレスの興行を多数開催していた。
 
 
 
=== アントン・フーズ ===
 
[[スペアリブ]]の[[レストラン]]チェーン「アントンリブ」を展開する他に、健康食品などを販売していた。そのほかにも「[[マテ茶|アントンマテ茶]]」やスナック菓子「アントンナッツ([[ヒマワリ|ひまわりナッツ]])」を販売。ワールドプロレスリングの番組内で古舘伊知郎アナウンサーが宣伝したが、販売実績は振るわなかった。
 
 
 
=== アントン・ハイセル ===
 
ブラジル政府を巻き込んだ国際的なプロジェクト「アントン・ハイセル」([[1980年]](昭和55年)に設立)は、猪木自身にとって生涯最大の事業であった。これは、ブラジル国内で豊富に収穫できる[[サトウキビ]]の絞りかすを有効活用法として考案された事業で、当時からブラジル政府は、石油の代わりにサトウキビから精製したアルコールを[[バイオ燃料]]として使用する計画を進めており、[[バイオテクノロジー]][[ベンチャービジネス]]の先駆けであった。このアントン・ハイセルを開始するにあたって、猪木は[[自民党]]の大物議員に「アントン・ハイセルによって世界中のエネルギー問題や食糧問題が全て解決する」と言って協力を呼びかけたが断られ逆にブラジル情勢を危惧し辞めるよう説得されるが、猪木はこの事業に傾倒して行く。
 
 
 
この一大プロジェクトとも言える計画に、解決しなければならない大きな問題が発生する。サトウキビからアルコールを絞り出した後にできるアルコール廃液と絞りかす([[バガス]])の弊害、公害問題である。そこで家畜に飼料として食べさせるが、直ぐに下痢を起こしてしまう。また、土中にバガスをそのまま廃棄すると、土質を悪化させるため、その土地では農作物が取れなくなるなどの弊害が生じる結果になってしまう。
 
 
 
それでも猪木は世界の食料危機問題に対応すべく、バガスの再生飼料を食べた家畜の糞を[[有機質肥料|有機肥料]]として、農業生産の向上と家畜の増産を目指すも、結局は日本とブラジルの気候の違いから発酵処理に失敗する。さらに追い討ちをかけるように、ブラジル国内のインフレが原因で生産コストはさらに悪化の一途を辿る。
 
 
 
これらの原因により、経営は数年で破綻する。マスコミ報道によれば、アントン・ハイセルのおよその負債額は数十億円とも言われ、[[テレビ朝日]]に放送権を担保に12億円の肩代わり(後に、株券と引き換えに[[佐川清]]佐川急便会長に債権を移動)してもらうがそれだけでは補えず、遂には新日本プロレスの収入の大半を補てんしてしまう。しかしこれが仇となり新日本プロレスでは初代タイガーマスク(佐山聡)や長州力などスター選手をはじめ13名もの選手が大量離脱するなど当時クーデターと言われた騒動が起き、やがて猪木の社長解任劇に発展する。山本小鉄などの動議により猪木代表取締役社長と坂口副社長は解任されテレビ朝日の社員が役員に就任したが、両者とも混乱の終結と共に数か月後に復帰した。
 
 
 
なお、ブラジルではサトウキビから[[エタノール]]を抽出するバイオ燃料事業は環境対策や[[2005年]](平成17年)以降の[[原油価格]]高騰などから、内容が見直され積極的に行われている。
 
 
 
=== 永久機関 ===
 
INP技術研究所の名誉会長となっている。同社は「[[永久機関|永久電気]]」用発電機を開発していたが、途中から「高効率モーター」に変化している。研究開発には莫大な資金を投じ、新日本プロレスの経営にも悪影響を及ぼした。
 
 
 
2002年にマスコミ関係者(スポーツ新聞やプロレス雑誌の編集者)を集めて永久電気の発表会を開いたことがあったが、実験は失敗に終わった。猪木の弁明は「ネジを一本締め忘れた」というものであった。
 
 
 
2005年には、エネルギー効率97%の新型発電機「闘魂パワー」を発表している。
 
 
 
=== アントニオ猪木酒場 ===
 
[[東京]]・[[池袋]]に[[2006年]](平成18年)、居酒屋「アントニオ猪木酒場」を開店した。「[[ワールドプロレスリング#ゴールデンタイムでの放送|午後八時のプロレス]]を見ながら食べたメニューを再現する」がうたい文句の居酒屋で、店内は古きよき昭和の時代をイメージし、常時プロレスが放送されており、プロレスにあやかった名がついた料理がメニューに並ぶ。なお実際の店舗運営は、IGFのスポンサーでもあり、[[焼肉屋さかい]]などを傘下に収める外食産業大手の[[ジー・コミュニケーション]]が行っており、猪木は経営には関与していない。ジー社は同ブランドのフランチャイズ展開を進め、沖縄・仙台・千葉・福岡・広島にも進出していたこともあるが、いずれも閉店。[[2016年]](平成28年)6月現在、新宿店(2008年開店)が営業を続けている。同店ではトークショーや[[西口プロレス]]の公演が行われており、猪木本人もときおりイベントで来店している。
 
 
 
=== その他 ===
 
* 「サンダリッパ」や「とうふパン」のプロデュースも手掛けた。
 
* [[ジャパンフリトレー]] 闘魂スナック監修(2010年)
 
* [[1982年]]頃、[[インターナショナルスクール]]を運営していた。<ref>http://ch.nicovideo.jp/nekketsu/blomaga/ar1104147 サイモン猪木インタビュー</ref>
 
 
 
== エピソード ==
 
=== プロレス ===
 
* 日プロ入門当初、[[ジャイアント馬場]]は[[付き人]]を経験せずにすぐにアメリカ遠征に出され、デビュー前から給料も出ていたという完全に特別扱いだったが、猪木はその全く正反対で、力道山からはまるで目の仇のように厳しく育てられた。例えば、力道山にリングシューズを履かせる際、紐の掛け違いでも殴られたり蹴飛ばされたりしたほどであった。しばしば公衆の面前で殴られて恥をかかされた経験や日常的に「あご」「こじき野郎」と罵られた事実も後年に伝わっている<ref>日刊スポーツ 2006年9月13日</ref>。それでも力道山が死去する前日に参加していた宴席に呼び出された際、元横綱・[[前田山英五郎|前田山]](当時既に引退して年寄・高砂となっていた)が猪木の飲みっぷりを見て器の大きさを評したその横で力道山が嬉しそうな顔で頷いた姿を見て「自分への期待が初めて分かった。あの顔を思い出すと、それまでの恨みがすべて晴れた」と感じたといい、「オレは勝手に、あの時の師匠の顔は『今後のプロレス界を頼んだぞ』という遺言というか、メッセージだったと受け止めている」とまで受け止めるようになった<ref>日刊スポーツ2006年9月17日</ref>。
 
* 自身が力道山から理不尽な扱いを受けていたことから、東京プロレスを旗揚げした時にはレスラーが目下の人間をいじめるようなことは絶対にさせないと誓った。東京プロレス時代、給料の少なさを人のせいにして新間寿をリング上で袋叩きにしてやろうと企てた若手一派を諌めたこともある<ref>『日本プロレス史の目撃者が語る真相! 新間寿の我、未だ戦場に在り!<獅子の巻>』(ダイアプレス、2016年)p32-33</ref>。
 
* 過去にテレビ番組「[[とんねるずのハンマープライス]]」内で素人と対戦したり、力道山メモリアル内で[[滝沢秀明]]と対戦している。なお「ハンマープライス」で猪木との試合権を購入したのは[[諸富祥彦]][[明治大学]]文学部教授である(リングネームは「ゾンビー諸富」)。
 
* 「延髄斬り」は海外マットでも''enzuigiri''と呼称され、名詞として定着している。
 
* 猪木は1961年5月から1963年10月まで馬場と16回対戦したが、16戦全敗で一度も勝てなかった。
 
* 袂を分かってからジャイアント馬場を執拗に敵視し挑発してきたが、私生活ではホテル([[東急ホテルズ#東急ホテル|キャピトル東急]]など)で馬場に会った際、「どーもどーも」と笑顔で握手に行き食事に勝手に同席した上、会計を馬場にまかせて去っていったなどの逸話が残されており、公私は別にしていた。[[渕正信]]は、1979年の「夢のオールスター戦」の控室で、両者が[[ゴルフ]]の話題で談笑していたことを証言している<ref>{{Cite news|title=猪木さんが馬場さんに漏らした一言…渕正信<4>|newspaper=YOMIURI ONLINE |date=2016-01-28|url=http://www.yomiuri.co.jp/life/special/prowres/20160127-OYT8T50058.html?page_no=2 |accessdate=2016-11-27}}</ref>。プライベートでは「馬場さん」「寛ちゃん」と呼び合う仲であった。馬場も挑発には乗らなかったが(そもそも馬場は「猪木をライバルと思ったことはない」と生涯語っていた)、新日本の[[NWA (プロレス)|NWA]]加盟に対して妨害工作を行うなど、内心ではかなり猪木を意識していたと考えられる。また、猪木が自らの[[タニマチ]]であった[[佐川清]]を馬場に紹介し、佐川宅を二人で訪れて統一コミッション設立に向けた計画を話し合うなど、利害が一致する場合は両者は積極的なビジネス関係を結んでいた<ref>「戦いのロマンと企業戦争」(『G SPIRITS vol.30』[[辰巳出版]]、2013年、ISBN 9784777812660)P18の坂口征二による証言 </ref>。
 
* 猪木のトレードマークは、「ストロングスタイル」を表す黒のショートタイツであったが、日本プロレス時代にはオレンジ、黄色、赤、グリーンのショートタイツを着用していたこともある。新日本プロレス時代にも茶色、1975年にはウイルス性関節炎で休場していた後の復帰戦で師:力道山と同じ黒のロングタイツを着用して試合を行ったことが1度だけあり、この時のロングタイツは[[ドン荒川]]のものを借りたという。
 
* 猪木のもう一つのトレードマークに「赤いタオル」がある。これは現役時代、リングガウンを着る際に赤いタオルを首に巻いていたことによるもの<ref>但し、日本プロレス時代や新日本プロレス旗揚げ当初は緑色や紺色のタオルを首に巻いてリングに上がっていたこともあり、Youtubeなどで視聴出来る猪木の古い映像ではそれが確認出来る。</ref>。その名残か、プロレスを引退した後の猪木は首に赤いマフラー(ストール)を巻いて行動することが多く、すっかりおなじみのスタイルになっている<ref>{{Cite news|title=猪木氏「闘魂」応援演説ダ~!!|newspaper=デイリースポーツ|date=2015-04-21|url=http://www.daily.co.jp/gossip/2015/04/21/0007940893.shtml|accessdate=2016-03-21}}</ref>。
 
* [[成田国際空港|成田空港]]で渡航前後に記者会見を行い、今後の自分の動向や、プロレス・格闘技界に意見を言う「成田会見」が定番である。
 
* 力道山は、角界と関係修復を計る際、『猪木を一度[[大相撲]]に入門させ、[[十両]]になったらプロレスに復帰させる』という計画を持っていたが、猪木自身はこのことを知らなかった。 
 
 
 
=== アゴ ===
 
その特徴的な尖ったアゴは猪木を猪木たらしめており、コンプレックスでしかなかったそのアゴをやがては武器にまで昇華させた。[[藤原喜明]]は「スリーパーをされると尖ったアゴが肩に食い込み非常に痛かった」と語っている。モハメド・アリとの対戦前の記者会見で、アリから「[[ペリカン]]野郎」とそのアゴをバカにされるが、猪木は「'''オレのアゴは尖っているからそれだけ強い'''」と、自分のアゴをアピールした。金的と並び鍛えようのない急所である喉元をガードしている、という意味でも武器であることは、本人も認めている。
 
 
 
また、アメリカでタッグを組んだことがある[[ヒロ・マツダ]]は、「猪木のアゴはジャーマン・スープレックスの際に相手の背中に引っ掛かって邪魔になるから、綺麗なジャーマン・スープレックスにはならない」と語ったことがある。
 
 
 
かつて前妻の倍賞美津子が[[テレビ朝日]]「[[徹子の部屋]]」に出演した際に、猪木の顎の深さを図ろうと、寝ている間に口を開けて、中指と薬指の2本を入れてみたら全部入ってしまった、と語っている。
 
 
 
=== 猪木信者 ===
 
* 力道山も馬場も、その支持者は「ファン」であるが猪木のファンは「猪木'''信者'''」である。猪木信者の代表的な人物は[[春一番 (お笑い芸人)|春一番]]、[[桑田佳祐]]、[[桜井和寿]]、[[和田竜二]]、[[石橋貴明]]、[[岡野雅行 (サッカー選手)|岡野雅行]]など多数に上る。信者は猪木のことを「会長」または「先生」と呼ぶのが特徴。[[森岡隆三]]は、サッカーアジア杯で優勝した際に「1! 2! 3! ダァ〜!」を行っていたが、その姿を見た彼の妻に「今度猪木のマネをしたら、離婚する」とまで言われたという。和田は[[テイエムオペラオー]]で[[宝塚記念]]を勝った時には「ダァ〜!」(1! 2! 3!は無し)を、同年の[[有馬記念]]では「1! 2! 3! ダァ〜!」を行った。桑田佳祐は著書で「プロレスラーで一番イイ男はアントニオ猪木。プロ野球で一番イイ男は[[長嶋茂雄]]。怪獣ならやっぱり[[ゴジラ (架空の怪獣)|ゴジラ]]」といった発言をしており<ref>桑田佳祐「ただの歌詩じゃねえか、こんなもん」(1984年、新潮社、p215)</ref>、[[サザンオールスターズ]]のライブの際、ライブ終了後に「1! 2! 3!ダァ〜!」をやるのがかつてのお約束であった。また、ダァ〜!ばかりか桑田はライブが佳境を迎え盛り上がると、何度となくアゴを突き出しファイティングポーズを取っていた。
 
* [[全日本プロレス中継]]の担当だった[[倉持隆夫]][[アナウンサー]]も、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]退社後に、実は猪木信者であることを[[カミングアウト]]した。
 
* [[竹内睦泰]]は『これだけは知っておきたい 世界の宗教 知識と謎 80』において、「'''イノキイズム'''」を「わが国において、宗教を超え、もっとも信仰を集めている思想」と評価している。
 
 
 
=== 闘魂ビンタ ===
 
* 国会議員当時の[[1990年]](平成2年)5月16日、[[早稲田予備校]]での講演(題目「[[五月病]]に卍固め」)で、予備校生の[[パンチ]]を腹部に受ける余興を行った。その中の予備校生一人は、実は[[少林寺拳法]]の有段者であり、力を込めて殴った。この不意打ちに準備できなかった猪木は反射的に予備校生に[[平手打ち|ビンタ]]を打ってしまった。予備校生は猪木ファンであり、ビンタを受けた直後に「ありがとうございました」と一礼した。この様子は、テレビカメラにより録画されており、全国に流れた。その後、縁起が良いと東大受験生が受験前に猪木にビンタをお願いし、全員合格を果たした。このことから、縁起ものの『闘魂ビンタ』が生まれた。その後も有名になり、女性の有名人までもテレビ番組中に闘魂ビンタ(近年は'''「闘魂注入」'''と表されるケースが多い)をねだるまでになっているが、[[2006年]](平成18年)のテレビ番組で語ったところによると、最近は闘魂ビンタをあまりやりたくないとのこと。また、国際線のスチュワーデスから「闘魂注入ビンタしてください」と頼まれ、飛行機の中でしたと猪木自身もインタビューで語っていた<ref>{{Cite journal | 和書 | year=2012 | month=03 | title=アントニオ猪木 Wikipedia「CAに機内で闘魂ビンタ」真相を直撃 | journal=[[FLASH (写真週刊誌)|週刊FLASH]] | issue=2012年3月20日号 | publisher=[[光文社]] | url=http://jisin.jp/serial/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%84/flash/4628 | accessdate=2012-09-17}}</ref>。一時期若い女性ファンからビンタでは無くキスして欲しいとせがまれ、その後他の女性達も次々と並びだて、キスをせがむ現象が起き、それを'''「闘魂注入キス」'''と呼ばれていた。
 
* なお試合以外で一般人に初めてビンタを見舞った相手は当時テレビ朝日アナウンサーの[[佐々木正洋 (1954年生)|佐々木正洋]]である。1990年2月10日東京ドーム大会において、アントニオ猪木&坂口征二vs橋本真也&蝶野正洋戦の試合前の控室で、『ワールドプロレスリング』のリポーター担当として「もし負けるということがあると、これは『勝負は時の運』という言葉で済まないことになりますが」と質問した佐々木に対して激怒し、「出る前に負けること考えるバカいるかよ!」と言った後にビンタを見舞ったのが最初であると言われている。
 
 
 
=== その他 ===
 
* 猪木は1967年に日本プロレスに復帰した直後に、[[東京都]][[世田谷区]]に在った歌手の[[畠山みどり]]の邸宅を購入、1972年に新日本プロレスを旗揚げした際にはこの世田谷の猪木邸を新日本プロレスの道場兼合宿所に大改造した<ref>『東スポお宝写真館』-1967年11月 東京スポーツ 2013年6月21日付7面</ref>。
 
* 20年ほど前、テレビ番組にて司会者から身長を聞かれ、「昔は189位あったんですけど、今はちょっと縮んで186位」と答えている。公称身長は191cm。なお、中学校に入学した時点で身長は既に180cmあったという。
 
* 2013年6月に[[時事ドットコム]]のインタビューにて、「身長、体重は変わりましたか?」と質問され、「縮みましたね―。(現役当時は)189cm位だったんですよ。今はどうでしょうか?182がぎりぎりじゃないですかね。骨と骨の間のクッションが全部縮んでますからね。膝も全部……」と答えている。
 
* [[1986年]](昭和61年)にアントニオ猪木と[[倍賞美津子]]の娘である猪木寛子がミュージカル『[[アニー]]』のアニー役で主演を務めており、ダブル主役の片割れは[[山尾志桜里]]。現在、猪木寛子は、猪木が運営していたインターナショナルスクールの生徒だった[[新日本プロレス]]前社長の[[サイモン・ケリー猪木]]の妻である。
 
* よく大量の氷を入れた水風呂に入る。のちに猪木自身が語ったところによるとこれは「[[糖尿病]]で血糖値が上がった際、氷風呂に入り全身の筋肉をガチガチと痙攣させ血糖を消費させるため」だったらしい。医師は「とんでもないことだ」と驚愕し、「普通の人間は真似してはいけない」と語っている。
 
* 「愛読書は[[朝日新聞]]」と語っている。
 
* ある日、[[古舘伊知郎]]から1万円を借りたがそのことを忘れてしまった。当時若手だった古舘にとって1万円は高額であったが、相手は大スターであり、なかなか言うに言えず困っていた。ところがある日、猪木は急にそのことを思い出し、「いや〜、ごめんごめん」と30倍にして返した。
 
* 「1! 2! 3! ダー!」は[[商標]]登録されている(登録商標としての表記は「'''1・2・3・ダァーッ'''」)。この登録商標を使ったラーメンが「'''1・2・3・ダァーッ麺'''」という名で発売されている。ちなみに猪木の「1! 2! 3! ダー!」が商標登録されていることは[[2004年]](平成16年)3月3日のフジテレビの『トリビアの泉』で紹介された。なお、「ボンバイエ」、「猪木イズム」、「闘魂」も商標登録されている。
 
* [[キューバ]]と[[パラオ]]にアントニオ猪木の名前がつけられた「猪木アイランド」と呼ばれる無人島を所有している。島の名前はイザベル島であったがイソラ、アミーゴ デ イノキ(友人猪木島)であり、2島ともキューバの[[フィデル・カストロ]]から贈られたものであり、猪木は休暇の際に利用しているという。キューバ本島からかなり離れたカリブ海にその島は浮かんでおり、まわりを珊瑚礁に囲まれた平坦な島で、海水が上昇すれば海に沈んでしまいそうな島である。島の周りは白砂のビーチで海水は透きとおり美しく、背の低い木、草がはえている中にイグアナがいる。
 
* 渡米時代アメリカ人の女性リンダと結婚し1児をもうけるが死亡している。その後、女優の[[倍賞美津子]]と1億円の結婚式を挙げて当時の話題になった。離婚後、22歳程離れた妻と3度目の結婚、離婚。その後、16歳年下の妻と4度目の結婚をした<ref>「[http://zoot.blue/news20170623-1/ 【アントニオ猪木の結婚歴】4度目の結婚!離婚と再婚の原因に不倫や浮気あり「元気があればなんでもできる?」]]</ref>。
 
* [[1984年]](昭和59年)発表([[1983年]](昭和58年)度)のいわゆる長者番付でプロスポーツ部門で1位(納税額8,268万円)になる
 
* [[圓鍔勝三]]が熱心なプロレスファンだったことが縁で空襲で焼失した[[池上本門寺]]([[東京都]][[大田区]]、力道山の墓所が在る寺である)の仁王像再建の際、モデルを依頼され快諾。数十枚の写真撮影を行いこれをもとに仁王像が作られた。仁王像は近年修復され、本殿に安置されている。
 
* ホームレスの人たちに食べ物を配るなどしてボランティア活動も積極的に行っている。自身も「俺はアメリカにしか家がないから日本ではホテル住まいだ。実質、日本ではホームレスだな」と語っている。年末になると炊き出しを自ら行い、9回目となる[[2009年]](平成21年)では新宿の[[都庁]]前で行い2000人が集合、猪木のモノマネをする[[アントニオ小猪木]]らも参加し手伝っている。
 
* 好物は[[納豆]]。オランダの柔道家[[ウィレム・ルスカ]]との異種格闘技戦の際、「私はチーズを食べているから強い」とするルスカに対し「俺は納豆を食べて強くなった」と発言したところ、納豆協会から表彰された。最低でも100回以上はコネ回し(アミノ酸やコラーゲンが出るから)、醤油ではなくフレックスオイルをかけて食べるという哲学がある(『闘魂レシピ』より)。他には[[函館港|函館漁港]]に水揚げされた[[イカ]]を好む。
 
* 「最後の晩餐」は、ふぐとブラジリアン・コーヒーを用意して欲しいと言う(『闘魂レシピ』より)
 
* 39歳の時、血糖値596の糖尿病にかかり、自然治癒で血糖値180まで下げ44日後にはカムバック戦を行った。インスリン注射の力で治すのは自分の哲学に反すると言っていた。その間の主食は主にキャベツであった(どんぶりにキャベツの千切りを平らげていた)。
 
* 1970年12月20日(現地時間)、猪木は渡航先のブラジルの密林で[[蛇]]に噛まれるというアクシデントに遭っている。この時期、猪木はトレーニングと『アントニオ猪木、ブラジルの秘境を行く』と銘打たれた映画撮影のために渡航していた。猪木らはブラジル空軍や陸軍などの協力<ref>猪木の実兄でブラジル在住の相良寿一が、ブラジル空手道協会の最高師範で、軍の中にも多くの弟子を抱えていたことから、相良を通じて軍隊の協力を得ることができたという。</ref>を得て、[[ボリビア]]国境に近い密林に入っていたが、猪木は猛毒を持つ[[ハララカ]](ジャララカ)に左足の[[踝]]付近を噛みつかれた。幸いにも、軍隊が[[血清]]を携行していたことや、ヘリコプターなどでサンパウロ市内の病院に迅速に搬送されたことで、猪木は九死に一生を得た。その後、驚異的な回復力で同月23日には退院し、同月30日には日本へ帰国。翌1971年1月4日のシリーズ開幕戦から予定通り、出場している<ref>『プロレスリング醜聞100連発!!』P90-91 [[竹内宏介]]著(1998年、[[日本スポーツ出版社]]、ISBN 4930943108)</ref>。
 
 
 
== 猪木語録 ==
 
{{See|q:アントニオ猪木}}
 
 
 
=== ポエム ===
 
* [[詩]](ポエム)を作るのが趣味で詩集も出版した。
 
* 「この道を行けば…」という詩<ref name="ikkyuu" />を自らの引退試合で引退メッセージとしてファンに贈った。これは以後新日本プロレスの道場訓となった。このセリフは後の[[Mr.Children]]の楽曲、『[[IT'S A WONDERFUL WORLD|one two three]]』の最後の部分に引退の際のメッセージが音声そのままで収録されている。これはボーカルの[[桜井和寿]]が是非引用したいと、本人に許可を得て実現したもの。
 
 
 
== その他 ==
 
* [[DREAM競馬]] - [[2008年]](平成20年)の[[菊花賞]]、オープニングに登場。[[京都競馬場]]で観客と「1・2・3ダー」をした。
 
* [[日刊スポーツ]]東海・関西版(東海地方・北陸地方・近畿地方・山口県以外の中国地方・四国地方向けの新聞)コラム・「猪木のコトバ」(水曜日テレビ面)
 
* [[大井競馬場]] - [[2009年]](平成21年)の[[帝王賞]]、プレゼンターゲストとして登場。観客や勝利馬・[[ヴァーミリアン]]関係者と「1・2・3ダー」をした。
 
* [[明治神宮野球場]] - [[2010年]](平成22年)6月26日の[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]対[[阪神タイガース|阪神]]戦において、「同じ場所で一斉に乾杯した人数」ギネス記録に挑戦した際、乾杯の音頭を務める。その結果、ギネス記録を更新(27,126人)。
 
 
 
=== 著書 ===
 
* {{Cite book|和書|others=アントニオ猪木 監修、[[菊地勝也]] 絵|title=プロレス百科|year=1971|publisher=集英社|series=まんが版入門百科|ref=アントニオ猪木&菊地1971}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[猪木寛至]]|title=燃えよ闘魂 アントニオ・猪木自伝|year=1975|publisher=東京スポーツ新聞社|series=Tsupo books|ref=猪木1975}}
 
* {{Cite book|和書|title=格闘技世界一|year=1978|publisher=ベストセラーズ|series=ワニの豆本|ref=アントニオ猪木1978}}
 
* {{Cite book|和書|title=勇気 炎のメッセージ!|year=1981|month=3|publisher=スポーツライフ社(出版) 批評社(発売)|ref=アントニオ猪木1981}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[猪木寛至]]|title=新 燃えよ闘魂 アントニオ猪木自伝|year=1981|month=7|publisher=東京スポーツ新聞社|isbn=4-8084-0046-4|ref=猪木1981}}
 
* {{Cite book|和書|title=苦しみの中から立ちあがれ|year=1983|month=2|publisher=シャピオ(出版) みき書房(発売)|ref=アントニオ猪木1983}}
 
* {{Cite book|和書|others=[[新間寿]] 監修|title=男の帝王学 闘魂革命|year=1990|month=6|publisher=ワニブックス|isbn=4-8470-1111-2|ref=アントニオ猪木1990a}}
 
* {{Cite book|和書|title=最後に勝つ負け方を知っておけ 思ったことを面白く実現してしまう|year=1990|month=9|publisher=青春出版社|series=プレイブックス|isbn=4-413-01531-2|ref=アントニオ猪木1990b}}
 
* {{Cite book|和書|title=闘魂記|year=1990|month=9|publisher=集英社|isbn=4-08-780130-6|ref=アントニオ猪木1990c}}
 
* {{Cite book|和書|title=たったひとりの闘争|year=1990|month=12|publisher=集英社|isbn=4-08-780138-1|ref=アントニオ猪木1990d}}
 
* {{Cite book|和書|title=心の叫び|year=1991|month=8|publisher=世界文化社|isbn=4-418-91513-3|ref=アントニオ猪木1991}}
 
* {{Cite book|和書|title=アントニオ猪木議員の闘魂ハイスクール|year=1992|month=1|publisher=未来出版|isbn=4-943901-71-9|ref=アントニオ猪木1992}} - 奥付・表紙の書名:『アントニオ猪木の闘魂ハイスクール』。
 
* {{Cite book|和書|others=アントニオ猪木・[[ターザン山本]] 述|title=アントニオ猪木vsターザン山本 命懸けの対談|year=1994|month=4|publisher=紙のプロレス特別編集委員会|ref=アントニオ猪木&ターザン山本1994}}
 
* {{Cite book|和書|editor=アントニオ猪木 責任編集|title=闘魂伝説の完全記録 プロレスラー・アントニオ猪木|year=1996|month=10|publisher=パラス(出版) 有朋堂(発売)|volume=vol.2(1972〜1975)|ref=アントニオ猪木1996}}
 
* {{Cite book|和書|title=猪木イズム|year=1998|month=4|publisher=サンクチュアリ出版(出版) 星雲社(発売)|isbn=4-7952-4129-5|ref=アントニオ猪木1998a}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[猪木寛至]]|title=猪木寛至自伝|year=1998|month=5|publisher=新潮社|isbn=4-10-423901-1|ref=猪木1998}}
 
** {{Cite book|和書|author=[[猪木寛至]]|title=アントニオ猪木自伝|year=2000|month=3|publisher=新潮社|series=新潮文庫|isbn=4-10-129721-5|ref=猪木2000}} - [[#猪木1998|猪木(1998)]]の増補版。
 
* {{Cite book|和書|title=不滅の闘魂|year=1998|month=11|publisher=海鳥社|isbn=4-87415-257-0|ref=アントニオ猪木1998b}}
 
* {{Cite book|和書|others=アントニオ猪木 述、"Show"[[大谷泰顕]] 監修|title=猪木語録 闘魂伝書世紀末篇|year=2000|month=10|publisher=メディアワークス(出版) 角川書店(発売)|series=オルタブックス|isbn=4-8402-1656-8|ref=アントニオ猪木&"Show"大谷泰顕2000}}
 
* {{Cite book|和書|title=猪木詩集「馬鹿になれ」|year=2000|month=10|publisher=角川書店|isbn=4-04-871893-2|ref=アントニオ猪木2000a}}
 
** {{Cite book|和書|title=猪木詩集「馬鹿になれ」|year=2010|month=9|publisher=角川書店(出版) 角川グループパブリッシング(発売)|series=角川文庫 16466|isbn=978-4-04-394389-0|ref=アントニオ猪木2010b}} - [[#アントニオ猪木2000a|アントニオ猪木(2000a)]]の増補版。
 
* {{Cite book|和書|editor=アントニオ猪木 責任編集|title=格闘魂|year=2000|month=11|publisher=角川書店|series=Kadokawa mook|isbn=4-04-721339-X|ref=アントニオ猪木2000b}}
 
* {{Cite book|和書|title=俺の魂|year=2001|month=9|publisher=あ・うん|isbn=4-901318-06-3|ref=アントニオ猪木2001}}
 
* {{Cite book|和書|title=もう一つの闘い 血糖値596からの糖尿病克服記|year=2002|month=1|publisher=三笠書房|isbn=4-8379-1939-1|ref=アントニオ猪木2002a}}
 
* {{Cite book|和書|title=非常識|year=2002|month=6|publisher=河出書房新社|isbn=4-309-26564-2|ref=アントニオ猪木2002b}}
 
* {{Cite book|和書|title=闘魂レシピ|year=2002|month=12|publisher=飛鳥新社|isbn=4-87031-533-5|ref=アントニオ猪木2002c}}
 
* {{Cite book|和書|title=風車の如く アントニオ猪木の人生相談|year=2003|month=2|publisher=集英社|isbn=4-08-780372-4|ref=アントニオ猪木2003}}
 
* {{Cite book|和書|coauthors=[[舘一男]]|title=あなたの体も危ない! 糖尿病1600万人を救う魔法の杖|year=2005|month=9|publisher=PHP研究所|isbn=4-569-64476-7|ref=アントニオ猪木&舘2005}}
 
* {{Cite book|和書|title=元気があれば何でもできる!|year=2007|month=6|publisher=ロングセラーズ|series=男のVシリーズ|isbn=978-4-8454-2107-7|ref=アントニオ猪木2007a}}
 
* {{Cite book|和書|title=猪木語録 元気ですか一日一叫び|year=2007|month=12|publisher=扶桑社|isbn=978-4-594-05542-4|ref=アントニオ猪木2007b}}
 
* {{Cite book|和書|title=「父親の背中」の見せ方 猪木式教育論|year=2008|month=4|publisher=講談社|isbn=978-4-06-214684-5|ref=アントニオ猪木2008a}}
 
* {{Cite book|和書|title=花が咲こうと咲くまいと生きていることが花なんだ|year=2008|month=10|publisher=経済界|isbn=978-4-7667-8436-7|ref=アントニオ猪木2008b}}
 
* {{Cite book|和書|title=真実 伝説の戦いを軸に綴る魂のメッセージ|year=2009|month=5|publisher=ゴマブックス|isbn=978-4-7771-1314-9|ref=アントニオ猪木2009}}
 
* {{Cite book|和書|title=踏出力。 人間「アントニオ猪木」から何を学ぶのか|year=2010|month=1|publisher=創英社|isbn=978-4-88142-190-1|ref=アントニオ猪木2010c}} - 共同刊行:三省堂書店。
 
*{{Cite book|和書|title=元気ですか!?ニッポン!! 日本を元気にする猪木の言葉|year=2010|month=5|publisher=ポプラ社|isbn=978-4-591-11541-1|ref=アントニオ猪木2010a}}
 
 
 
=== 映画 ===
 
* [[がんばれ!ベアーズ大旋風 -日本遠征-]] - 本人役(1978年)
 
* 激突!格闘技 四角いジャングル - ドキュメンタリー映画(1979年)
 
* 格闘技オリンピック 四角いジャングル - ドキュメンタリー映画(1980年)
 
* [[ACACIA (映画)|ACACIA]]
 
: 2010年6月12日公開。[[辻仁成]]監督、元プロレスラー・大魔神役(主演)。俳優として初主演作。
 
* 燃える闘魂アントニオ猪木50年の軌跡
 
: 2010年11月13日公開。『アントニオ猪木デビュー50周年DVD-BOX』発売記念としてDVD収録映像を劇場用に特別編集し1週間限定上映。
 
 
 
=== テレビ ===
 
* [[水曜スペシャル]]([[テレビ朝日]])
 
** 『恐怖の無人島に挑む7人の少年ターザン・隊長アントニオ猪木とパラオ島大探検』(1981年11月25日)
 
** 『挑戦!アントニオ猪木と少年シルクロード冒険隊!!』(1984年9月5日)
 
(後にこの番組で放送された映像の一部は[[スポコン!]]で繰り返し放送された)
 
* [[プラチナチケット]](2003年、[[テレビ東京]])
 
* そこまでやるかマン 世界最強の勇者たち(2010年、日本テレビ)
 
* [[火曜曲!]](2012年、[[TBSテレビ|TBS]]) - OPで実写やアニメ映像で登場。
 
* 開運!なんでも鑑定団(2018年1月9日、テレビ東京)
 
 
 
=== ドラマ ===
 
* [[チャンピオン太]] - 死神酋長役、ストライプ・スネイク役(1962年、第1話、第4話)
 
* [[プロレスの星 アステカイザー]] - 本人役(1976年、第1話ゲスト出演)
 
* [[佐々木夫妻の仁義なき戦い]] 第1話(2008年、[[TBSテレビ|TBS]])
 
* [[月曜名作劇場]] [[温泉殺人事件シリーズ]] 有馬温泉殺人事件 - 本人役(2016年5月30日、TBS)<ref>{{cite web|url=http://news.walkerplus.com/article/78311/|title=アントニオ猪木、有馬温泉で殺人事件に巻き|publisher=ニュースウォーカー|date=2016-05-19|accessdate=2016-05-25}}</ref>
 
 
 
=== ラジオ ===
 
* [[日曜夜は馬鹿になれ、847ダー!!]](2010年4月 - 、[[横浜エフエム放送|FMヨコハマ]])
 
 
 
=== アニメ ===
 
テレビアニメ『[[タイガーマスク]]』では出演はしていないが実在の人物としてのアニメキャラが登場している、声は[[中曽根雅夫]]。
 
* [[タイガーマスク二世]] - (1981年、プロレス指導としてクレジット)
 
* [[スキージャンプ・ペア#スキージャンプ・ペア Road to TORINO 2006|スキージャンプ・ペア Road to TORINO 2006]] (2006年)
 
 
 
=== 音楽 ===
 
* 道(2007年7月11日、[[TRIPLE-P]] vs アントニオ猪木)
 
 
 
=== CM ===
 
* 陶陶酒本舗 [[陶陶酒]](日本プロレス時代に出演)
 
* [[エース (鞄)|エースバッグ]] 企業イメージCM
 
* マキルヘニー・カンパニー タバスコ([[佐山聡|初代タイガーマスク]]と共演)
 
* [[大塚製薬]] ハイネックスV
 
* [[日本ハム]] ジャンボフランク
 
* [[OSGコーポレーション]] 低周波治療器「リズムタッチ」
 
* [[サントリー]] 缶コーヒー「[[BOSSコーヒー|BOSS]]」
 
* [[久光製薬]] エアーサロンパスEX
 
* [[ロッテ]] モナ王
 
* [[ポッカサッポロフード&ビバレッジ|ポッカコーポレーション]] ポッカコーヒー顔缶 (声のみの出演)
 
* [[日健総本社]] プロポナンゴールド
 
* [[平和 (パチンコ)|平和]] 企業イメージCM
 
* [[ABCマート]] 企業イメージCM
 
* [[富士通]] パソコン[[FMV]]シリーズ ([[木村拓哉]]と共演、声のみの出演)
 
* [[マルハン]] 企業イメージCM ([[和田アキ子]]との共演バージョンも存在した)
 
* [[ACジャパン]] 震災臨時キャンペーン
 
* [[サッポロビール]] MLBメジャTキャンペーン
 
* [[カルビー]] 堅あげポテト(ナレーション)
 
* サントリー [[黒烏龍茶]](アニメーションでの出演)
 
* [[グリー (企業)|グリー]] 「[[GREE]]探検ドリランド」(2012年)
 
* [[ソニー・コンピュータエンタテインメント]] [[PlayStation Vita]]「ツイてるパック篇」(過去映像を使用、声のみ新録)
 
* [[ダイハツ工業]] 初売りフェアCM「意気込む店長」篇
 
* [[Cygames]] [[グランブルーファンタジー]] TVCM「グラブってますかー!!!編」(2016年)
 
 
 
=== パチンコ、パチスロ ===
 
* パチンコ
 
** [[CR機|CR]]アントニオ猪木という名のパチンコ機(2004年・[[平和 (パチンコ)|平和]])
 
** CR燃える闘魂 アントニオ猪木(2006年・平和)
 
** CRアントニオ猪木という名のパチンコ機 道(2010年・平和)
 
**CRアントニオ猪木という名のパチンコ機〜やれるのか、本当にお前〜(2012年・平和)
 
* パチスロ
 
** [[アントニオ猪木という名のパチスロ機]](2002年・平和)
 
** [[アントニオ猪木自身がパチスロ機]](2003年・平和)
 
** [[アントニオ猪木も燃えるパチスロ機]](2007年・平和)
 
** アントニオ猪木が元気にするパチスロ機(2010年・[[オリンピア (パチスロ)|オリンピア]])
 
**アントニオ猪木が伝説にするパチスロ機(2013年・オリンピア)
 
[[2006年]](平成18年)秋に[[フィールズ (企業)|フィールズ]]が猪木に関するパチンコ・パチスロの商品化権独占使用許諾契約を結んだため、「CR燃える闘魂〜」、「アントニオ猪木も燃える〜」の2機種はフィールズから販売されている。
 
 
 
== 猪木のものまねをする人物 ==
 
* [[有田哲平]]([[くりぃむしちゅー]])
 
* [[有吉弘行]]
 
* [[アントキの猪木]]
 
* [[アントニオ小猪木]]
 
* [[石橋貴明]]([[とんねるず]])
 
* [[井手らっきょ]]
 
* [[伊藤千晃]]([[AAA (音楽グループ)|AAA]])
 
* [[キンタロー。]]
 
* [[グラップラーたかし]]
 
* [[桑田佳祐]]
 
* [[コロッケ (タレント)|コロッケ]]
 
* [[鈴木末吉]](元[[ザ・ハンダース]])
 
* [[春一番 (お笑い芸人)|春一番]]
 
* [[安田顕]]
 
* [[山本彩]]([[NMB48]])
 
* [[ゆーとぴあ#メンバー|ゆーとぴあ・ピース]]
 
* [[スギタヒロシ|ジャイアント小馬場]] - [[西口プロレス]]の興行で時々披露。猪木芸人である[[アントニオ小猪木]]の目の前で小猪木よりも上手い物真似を披露し、小猪木の立場を奪うのが定番となっている。
 
* [[EXILE]] [[AKIRA (ダンサー)|AKIRA]]
 
 
 
== 猪木をモデルとした架空の人物、キャラクター ==
 
; マンガ・小説
 
* 国会議員([[浦安鉄筋家族]])
 
* グレート巽([[餓狼伝]])
 
* [[バキシリーズの登場人物#猪狩完至|猪狩完至]]([[グラップラー刃牙]])
 
* アイアン木場([[高校鉄拳伝タフ]])
 
* 金小路鉄男([[The・かぼちゃワイン]])
 
* グレートニオ猪地([[マーダーライセンス牙]])
 
* 生野勘助([[喧嘩商売]])
 
* アドニオン諸本([[頑丈人間スパルタカス]])
 
* マーベラス・ロッカ(神拳李酔竜)
 
* マーベラス・虎嶋([[アグネス仮面]])
 
* イノギ漢字([[わ〜お!ケンちゃん]])
 
* アーマンド猪熊([[憂国のラスプーチン]])
 
* アンタノワ猪金(やっぱ!アホーガンよ)
 
([[コミックボンボン]]連載当初は「アンターワ猪金」であったが、単行本化の際に変更された)
 
; ゲーム
 
* ビクトリー武蔵([[ファイヤープロレスリング]]シリーズ)
 
* ファイター隼([[プロレス (任天堂)|プロレス]])
 
* イノキング/闘魂戦士イノキ/闘魂王者イノキ([[GREE]]「探検ドリランド」)
 
* ダッシャー猪場([[エアガイツ]])
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commonscat|Antonio_Inoki}}
 
{{Wikiquote}}
 
{{ウィキプロジェクトリンク|プロレスラー|[[File:Logo Projet Catch (2).png|39px]]}}
 
* [[ストロングスタイル]]
 
* [[異種格闘技戦]]
 
* [[アントニオ猪木対モハメド・アリ]]
 
* [[猪木アリ状態]]
 
* [[INOKI BOM-BA-YE]]
 
* [[イノキ・ゲノム・フェデレーション|IGF]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* {{facebook|antonioinoki123}}
 
* {{Twitter|Inoki_Kanji}}
 
* [http://www.onlineworldofwrestling.com/profiles/a/antonio-inoki.html Wrestler Profiles] - ''Online World of Wrestling''
 
* [http://us.wwe.com/superstars/halloffame/inductees/antonioinoki/ WWE Hall of Fame]([http://wwe.co.jp/legend/antonio_inoki/index.html 日本語]) - ''WWE.com''
 
* [http://www.thesun.co.uk/sol/homepage/sport/wrestling/2846141/Antonio-Inoki-to-be-inducted-into-WWE-Hall-Of-Fame.html Inoki gets Hall of Fame nod] - ''[[ザ・サン|The Sun]]''
 
* [http://sportsnews.blog.ocn.ne.jp/column/fight100521_1_1.html プロレス最強王者列伝 第1回 アントニオ猪木]
 
* [http://www.ustream.tv/recorded/20659456 アントニオ猪木×九州スポーツ・独占インタビュー(2012年2月24日)]
 
* {{Kotobank|アントニオ猪木|2=タレントデータバンク}}
 
 
 
{{新日本プロレスリング社長}}
 
{{IWGPヘビー級王座}}
 
{{プロレス大賞MVP歴代受賞者}}
 
{{WWE世界ヘビー級王座}}
 
{{NJPWグレーテストレスラーズ}}
 
{{WWE殿堂}}
 
{{めちゃ×2イケてるッ!}}
 
{{Normdaten}}
 
{{Portal bar|アジア|日本|神奈川県|横浜市|南アメリカ|スポーツ|政治学|イスラーム|人物伝}}
 
{{start box}}
 
{{s-ppo}}
 
{{Succession box
 
| title  = [[日本を元気にする会]][[党首|代表]]
 
| years  = 第2代:2016年
 
| before = [[松田公太]]
 
| after  = [[田中匠身]]
 
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2018/10/14/ (日) 01:18時点における最新版

アントニオ 猪木(アントニオ いのき、: Antonio Inoki, 1943年2月20日 - )

昭和後期-平成時代のプロレスラー

昭和18年2月20日生まれ。35年移住先のブラジルで力道山にスカウトされる。47年新日本プロレスを設立して,ジャイアント馬場に対抗。ボクシングのモハメッド=アリらとの異種格闘技戦をおこなう。平成元年参議院議員(スポーツ平和党)。10年プロレスラーを引退。25年参議院議員に2度目の当選(日本維新の会)。神奈川県出身。本名は猪木寛至。



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