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{{For|ヴォルガ川を航行するクルーズ客船|アレクサンドル・スヴォーロフ (客船)}}
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'''アレクサンドル・ヴァシリエヴィチ・スヴォーロフ'''('''{{lang|ru|Алекса́ндр Васи́льевич Суво́ров}}''', ラテン: Alexandr Vasiljevich Suvorov, [[1729年]][[11月24日]]([[ユリウス暦]]11月13日) - [[1800年]][[5月18日]](ユリウス暦5月6日))
{{Infobox 軍人
 
|name=アレクサンドル・スヴォーロフ
 
|lived=[[1729年]][[11月24日]] - [[1800年]][[5月18日]]
 
|placeofbirth=[[ノヴゴロド]]
 
|placeofdeath=[[サンクトペテルブルク]]
 
|画像=Suvorov Alex V.jpg
 
|allegiance=[[ロシア帝国]]陸軍
 
|serviceyears=1742 - 1800
 
|rank=[[大元帥]]
 
|commands=クリミア軍司令官<br />カフカス軍司令官<br />カザン軍司令官<br />カレリア要塞司令官<br />ウクライナ軍司令官
 
|battles=[[ロシア・スウェーデン戦争]]<br />[[七年戦争]]<br />ポーランド侵攻<br />第一次[[露土戦争]]<br />[[プガチョフの乱]]<br />第二次露土戦争<br />コシチュシコの蜂起<br />[[フランス革命戦争]]
 
|awards=聖アンドレイ勲章<br />ルムニク・スヴォーロフ伯爵<br />[[伯爵]](神聖ローマ帝国より)<br />[[プール・ル・メリット勲章]](プロイセン王国より)<br />[[サヴォイア大公]](サルディーニャ王国より)<br />地位・名誉剥奪、追放(死後、名誉回復)
 
}}
 
  
'''アレクサンドル・ヴァシリエヴィチ・スヴォーロフ'''('''{{lang|ru|Алекса́ндр Васи́льевич Суво́ров}}''', ラテン: Alexandr Vasiljevich Suvorov, [[1729年]][[11月24日]]([[ユリウス暦]]11月13日) - [[1800年]][[5月18日]](ユリウス暦5月6日))は、[[ロシア帝国]]の[[軍人]]。ルムニク・スヴォーロフ伯。イタリア大公。ロシア帝国歴代4人目にして最後の[[大元帥]]。[[軍事史]]上でも稀な不敗の指揮官として知られる。
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ロシアの軍人,将軍。スウェーデン系貴族の出身。七年戦争に従軍したのち,新しい戦略と戦術の開発に没頭,第1次露土戦争 (1768~74) で P.A.ルミヤンツェフを助けて用兵の妙を発揮して将官となった。エカテリーナ2世 (大帝) の信任が厚く,プガチョーフ農民戦争 (75) の際は首領 E.I.[[プガチョーフ]]を捕縛してモスクワに帰った。その後 15年間は昇進もせず,宮廷でも冷遇されたが,第2次露土戦争 (87~92) では再び軍事的才能を発揮し,リムニク河畔でトルコ軍を壊滅させ,その功でリムニクスキー伯を授けられた。 1794年ポーランドの独立運動を弾圧した功績で元帥に昇進。その後旧式戦法に固執する皇帝パーベル1世に反対して一時不興をこうむったが,対仏大同盟へのロシアの参加で再び起用され,ロシア軍を率いて進撃,独特の戦術をもってフランス軍をイタリアから放逐し,99年イタリスキー公に叙せられた。続いてアルプスを越えてスイスに転戦,弾薬と食糧がつき,孤立していたロシア軍を敵の包囲から脱出させ,4分の3の兵力を無事救出した。この戦いは世界戦史上まれにみるものとされている。
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1800年前例のない大元帥に任命されたが,その不行跡と周囲の冷遇により,宮廷から追放され,失意のうちに没した。しかしその天才的な指揮と輝かしい戦績によって,ロシア陸軍史上不朽の名声をとどめている。
  
== 生涯 ==
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{{テンプレート:20180815sk}}  
===生い立ち===
 
[[1729年]][[11月24日]]、[[モスクワ]]で貴族の家に生まれる(1730年出生説もある)。父のヴァシリ・イヴァノビチ・スヴォーロフは[[ピョートル1世]]に仕えた将軍であった。母のアヴドーチヤは、同じくピョートル1世に仕え、オリョール総督を務めた[[アルメニア]]系貴族フェドセイ・マヌコフの娘であった。
 
 
 
===初期の軍歴===
 
12歳頃、[[アブラム・ガンニバル]]が父ヴァシリに助言し、自由に進路を選べるようになった。[[1742年]]11月3日、軍に入隊したスヴォーロフは、[[ロシア・スウェーデン戦争 (1741年-1743年)|ロシア・スウェーデン戦争]](1741年-1743年)に従軍した。[[1748年]]1月12日、[[伍長]]となりサンクトペテルブルク連隊に配属となった。[[1749年]]、連隊の配置が[[モスクワ]]に転換され、この機会にスヴォーロフは[[陸軍士官学校|士官学校]]に入学した。[[1751年]]、士官学校を卒業し、ソコーニン少将の副官となった。この年の3月から10月にかけて、外国使節となった少将に従い、[[ドレスデン]]や[[ウィーン]]を訪問した。
 
 
 
[[1754年]]、[[中尉]]に昇進。[[1755年]]からスヴォーロフは部隊の[[指揮官]]となった。[[1756年]]、[[大尉]]に昇進。同年8月29日に勃発した[[七年戦争]]に従軍した。[[1759年]]8月12日の[[クーネルスドルフの戦い]]にも参加し、他にも数々の功績を立てた。終戦となった[[1762年]]までにスヴォーロフは[[大佐]]に昇進し、[[連隊]]を指揮していた。
 
 
 
===ポーランド侵攻===
 
[[画像:USSR stamp A.V.Suvorov 1980 4k.jpg|thumb|200px|[[ソビエト連邦]] [[切手]], アレクサンドル・スヴォーロフ, 1980年 (Michel 5009, Scott 4878)]]
 
[[1768年]]、[[ポーランド]]への干渉を強めるロシアに対して、[[シュラフタ]]を中心とする[[バール連盟]]が決起し、ロシアと[[ポーランド君主一覧|ポーランド王]][[スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ|スタニスワフ2世]]に対する闘争を開始した。スヴォーロフは3個連隊([[スモレンスク]]、[[スズダリ]]、[[ニジニ・ノヴゴロド]])を率いてポーランド侵攻に従軍した。
 
 
 
[[1769年]]夏、スヴォーロフはスズダリ連隊と騎兵2個中隊を率い、わずか12日で500キロを踏破して[[ワルシャワ]]を制圧。[[1771年]][[9月23日]]、直属の兵わずか822名で、3000から4000名の連盟軍を撃破。[[1772年]][[4月26日]]、[[クラクフ]]を占領し、連盟を降伏させた。結果、第一回目の[[ポーランド分割]]が行われた。スヴォーロフはこれらの功績により[[少将]]に昇進した。
 
 
 
===第一次露土戦争===
 
ポーランド侵攻と並行して、ロシアは[[オスマン帝国]]との間に[[露土戦争]]を行っていた([[露土戦争 (1768年)|第一次露土戦争]])。ポーランド制圧を終えたスヴォーロフはこの方面に派遣され、[[1773年]][[4月17日]]、アストラハン歩兵連隊と[[コサック]]騎兵連隊の指揮を引き継いだ。スヴォーロフの部隊はサルティコフ中将の第一軍の隷下に置かれ、全軍の右翼についた。
 
 
 
[[1773年]][[6月28日]]、スヴォーロフは[[ドナウ川]]近郊に築かれたオスマン軍野営地を奇襲して勝利した。オスマン軍はドナウ川を越えて撤退し、ロシアは[[ルーマニア]]を制してトルコ侵攻の橋頭堡を築いた。[[1774年]][[1月27日]]、スヴォーロフはワルワラ・イワノヴナ・プロソロスカと結婚した。
 
 
 
4月、スヴォーロフは[[バルカン半島]]に侵攻し、[[6月19日]]の{{仮リンク|コズルドジの戦い|ru|Сражение при Козлуджи}}では、8,000名の軍で40,000名のオスマン軍を撃破した。これはオスマン帝国にとって決定的な打撃となった。[[6月21日]]、[[キュチュク・カイナルジ条約]]が締結され、ロシアはオスマン帝国から多数の利益を引き出した。
 
 
 
===プガチョフの乱===
 
この頃、[[ヴォルガ]]では[[コサック]]の首長[[エメリヤン・プガチョフ]]による反乱([[プガチョフの乱]])が勃発していた。露土戦争終結後まもなく、スヴォーロフは鎮圧に派遣された。[[1774年]][[8月30日]]、現地軍の指揮を引き継いだスヴォーロフは、[[9月14日]]までに反乱軍を撃破し、首謀者のプガチョフを捕縛してモスクワへ送った。スヴォーロフは引き続き軍の指揮を任され、反乱軍残党の掃討にあたった。[[1775年]][[8月11日]]、留守中に[[サンクトペテルブルク]]で娘ナターリヤが生まれた。
 
 
 
[[1777年]]、スヴォーロフは[[クリミア]]軍司令官に任じられ、軍の再編にあたった。[[1779年]]、[[カフカス]]軍司令官に異動。[[1780年]]、[[中将]]に昇進した。[[1782年]]、[[カザン]]軍司令官に異動。[[1783年]]、[[大将]]に昇進した。[[1784年]]、息子アルカディーが生まれた。
 
 
 
===第二次露土戦争===
 
[[画像:Suvorov guarding the ramna river 2.jpg|thumb|right|200px|フォクシャニ近郊に建つスヴォーロフの彫像]]
 
[[1787年]]、ロシアのオスマン帝国への領土割譲要求をきっかけに再び露土戦争が勃発した([[露土戦争 (1787年-1791年)|第二次露土戦争]])。スヴォーロフは30,000名の軍を率いて[[ドニエプル]]河口にあった。[[10月17日]]、オスマン軍が{{仮リンク|キンブルン岬|en|Kinburn foreland}}のキンブルン要塞へ攻撃を仕掛けてきたが({{仮リンク|キンブルンの戦い (1787年)|en|Battle of Kinburn (1787)|label=キンブルンの戦い}})、これを撃退した。この攻防戦の最中にスヴォーロフは尻と腕を負傷している。傷が癒えたスヴォーロフは、[[1788年]][[8月7日]]から{{仮リンク|オチャーキウ|uk|Очаків|label=オチャーコフ}}要塞を包囲し([[オチャーコフ攻囲戦 (1788年)|オチャーコフ包囲戦]])、[[1789年]]2月、6ヵ月間にわたる攻防戦の末に陥落させた。また、この最中にもスヴォーロフは首を負傷している。
 
 
 
[[1789年]][[8月12日]]、スヴォーロフは[[フォクシャニ]]でオスマン軍を撃破し、[[エカチェリーナ2世]]から聖アンドレイ勲章を授与された。[[1789年]][[9月22日]]、ロシア軍は[[神聖ローマ帝国]]軍と連合し、[[ルムニク・サラト]]でオスマン軍を撃破した。この際、神聖ローマ帝国皇帝[[ヨーゼフ2世]]も戦場にいたが、指揮はスヴォーロフが執っている。エカチェリーナ2世は勝利を祝福して、スヴォーロフにルムニク伯の爵位を授け、さらに自身の名を爵位に添えることを許した。また、ヨーゼフ2世も神聖ローマ帝国における[[伯爵]]位を授けた。
 
 
 
[[1790年]]、スヴォーロフはオスマン帝国の重要拠点である[[イズマイール|イスマイル]]要塞を攻撃した。この攻防戦において、[[ミハイル・イラリオーノヴィチ・クトゥーゾフ|ミハイル・クトゥーゾフ]]は、要塞の[[稜堡]]へ5度にわたる果敢な攻撃を仕掛けた。[[12月21日]]、イスマイル要塞は陥落。スヴォーロフはエカチェリーナ2世への報告の中で、陥落はクトゥーゾフの功績であると述べた。このため、クトゥーゾフは脚光を浴びるようになった。
 
 
 
事実上、この時点でロシアの勝利は確定しており、スヴォーロフの力が必要とされる場面はなくなっていた。このため、戦争中は抑えられていた、総司令官[[グリゴリー・ポチョムキン|ポチョムキン]]との反目が表面化してきた。ポチョムキンはエカチェリーナの寵臣で、その縁を利用して総司令官に収まっていたが、軍事的には凡庸な人物であった。そのため、スヴォーロフとは戦略をめぐって幾度も対立した。また、ポチョムキンは、イズマイル要塞陥落の功を自分のもののように宣伝しており、スヴォーロフは公然とこれを非難していた。
 
 
 
このような軋轢があったため、[[1791年]]4月、スヴォーロフは突然[[スウェーデン]]との国境地帯を守備する軍の司令官に左遷された。さらに7月には[[カレリア]]要塞司令官に異動となった。一方、露土戦争は、[[1792年]][[1月9日]]に[[ヤシ条約]]が締結されて終結した。ロシアはオスマン帝国から[[黒海]]周辺の領土を獲得し、一挙に版図を拡大した。[[1792年]]12月、スヴォーロフは[[ウクライナ]]軍司令官に任じられ、再び最前線で軍の指揮を取ることとなった。これは前年にポチョムキンが死亡したためであった。
 
 
 
===コシチュシュコの蜂起===
 
{{main|{{仮リンク|コシチュシュコの蜂起|en|Kościuszko Uprising}}}}
 
 
 
[[1794年]][[3月24日]]、[[ポーランド・リトアニア共和国]]の軍人[[タデウシュ・コシチュシュコ]]が、ロシアの支配に対して蜂起した。ロシアはこれを鎮圧しようと軍を送ったが、ポーランド軍に敗れて後退していた。9月、急遽派遣されたスヴォーロフは、軍を建て直して攻勢に転じた。ロシア軍は勝利を続け、[[10月10日]]、{{仮リンク|マチェヨヴィツェの戦い|ru|Битва под Мацеёвицами}}でポーランド軍に大打撃を与え、さらに蜂起の首謀者コシチュシュコを捕縛した。
 
 
 
[[11月3日]]、ロシア軍は[[ワルシャワ]]への攻撃を開始、翌4日に陥落させた。ポーランド軍は{{仮リンク|プラガ|en|Praga}}地区で最後の抵抗を行った({{仮リンク|プラガの戦い|en|Battle of Praga}})。プラガ地区で4時間に渡って市街戦が行われ、ポーランド軍は全滅した。
 
 
 
ワルシャワ陥落によって蜂起は終結した。スヴォーロフはたった3語だけの簡潔な報告を皇帝へ送った。「万歳。ワルシャワ。スヴォーロフ(Huraah.Warsow.Suvorov.)」。あるいは「万歳。プラガ。スヴォーロフ(Huraah. Praga. Suvorov.)」ともいう。これに対し皇帝はこう返答した。「おめでとう。元帥。エカチェリーナ(Bravo. Fieldmarshal. Ekaterina.)」<!--fieldmarshal とかロシア人が英語で言ったというのか?-->。これでスヴォーロフは[[元帥]]に昇進したのである。ただし、正式に任命され、[[元帥杖]]を受け取ったのは、[[1795年]]に[[サンクトペテルブルク]]に戻ってからである。
 
 
 
[[1796年]]、エカチェリーナ2世が没し、[[パーヴェル1世]]が即位した。体制の刷新を狙っていたパーヴェル1世は、先帝に重用されていたスヴォーロフを軍務から解任した。スヴォーロフは[[ボロヴィチ]]近郊の[[:ru:Кончанское-Суворовское|Konchanskoye]]にある邸宅に引退したが、ことあるごとにパーヴェル1世の政策を非難したため、監視がつけられた。
 
 
 
===フランス革命戦争===
 
[[1798年]]12月、[[フランス革命戦争]]が進行する中、諸国は対フランスで結束し、[[第二次対仏大同盟]]が結成された。[[1799年]]2月、パーヴェル1世はスヴォーロフを呼び戻し、ロシア軍最高司令官に任命した。[[4月12日]]、スヴォーロフは30,000名(兵力は諸説あり。以下の数字も同様。)のロシア軍を率いてイタリアに到着し、50,000名のオーストリア軍(神聖ローマ帝国軍)と合流した。この時点での、イタリアにおけるフランス軍の戦力は150,000名。しかし、大半は各地に分散した守備隊で、即座に動かせる戦力は20,000から30,000名程度だった。
 
 
 
[[4月17日]]、オーストリアの{{仮リンク|パール・クライ|en|Pál Kray}}将軍に20,000名を委ねて翼側を防御させ、スヴォーロフ自身は残りの60,000名を率いて南下を開始した。[[4月20日]]、[[ピョートル・バグラチオン|バグラチオン]]と[[ミハイル・クトゥーゾフ|クトゥーゾフ]]の前衛が[[ブレシア]]を制圧。[[ジャン・ヴィクトール・マリー・モロー|モロー]]将軍率いるフランス軍は[[アッダ川]]沿いに戦線を張った。[[4月25日]]から[[4月27日|27日]]にかけて行われた{{仮リンク|カッサーノ・ダッダの戦い|en|Battle of Cassano (1799)}}で、連合軍はフランス軍を撃破した。[[4月29日]]、連合軍は[[ミラノ]]を制圧。スヴォーロフは西方へ軍を展開させ、[[5月27日]]、[[トリノ]]を制圧した。
 
 
 
6月、[[ジャック・マクドナル|マクドナル]]将軍率いる35,000名が北上してきたため、スヴォーロフは33,000名を率いて迎撃に向かった。[[6月17日]]から[[6月19日|19日]]にかけて行われた{{仮リンク|トレッビアの戦い (1799年)|ru|Битва при Треббии (1799)|label=トレッビアの戦い}}で、連合軍6,000名の損害に対し、フランス軍16,000名(10,000名とも)の損害を与えて勝利した。フランス軍は[[ジェノヴァ]]へ後退した。スヴォーロフは軍を[[ノーヴィ・リーグレ|ノーヴィ]]まで進め、側面の安全を確保するため、[[マントヴァ]]、[[アレッサンドリア]]の攻略を待った。
 
 
 
[[7月1日]]、アレッサンドリアが陥落。[[7月27日]]、マントヴァが陥落。後顧の憂いの消えたスヴォーロフは予備のクライ軍との合流を待ち、50,000名の軍を率いてジェノヴァへ向けて南下した。一方のフランス軍も、新任の司令官[[バーセルミー・カトリーヌ・ジュベール|ジュベール]]将軍が35,000名の軍を率いて北上していた。[[8月15日]]、{{仮リンク|ノーヴィの戦い (1799年)|ru|Битва при Нови (1799)|label=ノーヴィの戦い}}で、連合軍8,000名の損害に対し、フランス軍17,000名の損害を与え、さらに司令官ジュベールを戦死させて勝利した。フランス軍は再びジェノヴァに撤退した。これによって、ジェノヴァを除く北部イタリアは全て連合軍の手に落ちた。スヴォーロフは[[サルデーニャ王]][[カルロ・エマヌエーレ4世]]から、[[サヴォイア大公]]の爵位を授けられた。
 
 
 
===アルプス越え===
 
{{main|{{仮リンク|イタリア・スイス戦役 (1799-1800年)|en|Italian and Swiss expedition (1799–1800)|label=イタリア・スイス戦役}}|{{仮リンク|スヴォーロフのスイス戦役|ru|Швейцарский поход Суворова}}}}
 
[[画像:Suvorov crossing the alps.jpg|thumb|right|200px|[[グラールス]]から{{仮リンク|イランツ|en|Ilanz}}へアルプスを越えるスヴォーロフ]]
 
[[画像:Suworow-denkmal.jpg|thumb|right|200px|スイスに現存するアルプス越えの記念碑]]
 
 
 
この頃、[[スイス]]では[[アンドレ・マッセナ|マッセナ]]率いるフランス軍と[[カール・フォン・エスターライヒ=テシェン|カール大公]]率いる連合軍が交戦しており、[[6月4日]]の{{仮リンク|第一次チューリッヒの戦い|en|First Battle of Zurich}}から、膠着状態が続いていた。スヴォーロフの活躍によってイタリア方面の優位が確立したことによって、連合軍は戦略を切り替えることとした。スイスのカール大公の軍をライン方面へ転じ、その穴埋めに余裕の出来たスヴォーロフの軍をスイスへ振り向けようとしたのである。
 
 
 
9月、スヴォーロフは20,000名の軍を率いてスイスへ向かった。[[9月15日]]、[[タヴェルネ]]{{enlink|Torricella-Taverne}}に到着。しかし、ここで合流するはずのオーストリア軍の[[輜重]]隊が到着しておらず、それを待って時間を浪費することとなった。[[9月19日]]、[[ゴッタルド峠|サン・ゴタール峠]]に差し掛かったところで、ルクールブ率いるフランス軍が立ちはだかった。スヴォーロフはローゼンベルクに分遣隊を与えて翼側から回りこませ、[[9月24日]]に協同して攻撃し、フランス軍を後退させた。[[9月25日]]、ロシア軍は[[ルツェルン]]へ続く橋(通称、悪魔の橋)を超えた。
 
 
 
[[9月26日]]、[[アルトドルフ]]に到着したところで、スイスでマッセナと対峙していたコルサコフの軍が、{{仮リンク|第二次チューリッヒの戦い|fr|Deuxième bataille de Zurich}}で破れたという報告が届いた。フランス軍の攻撃を避けるため、スヴォーロフは軍を東へ転じた。[[10月4日]]、[[グラールス]]に到着。しかし、ここで合流するはずのオーストリア軍の輜重隊が、またもや到着していなかった。この時点でフランス軍はロシア軍の退路をふさぎつつあった。弾薬兵糧の欠乏した状態では、正面突破は困難である。スヴォーロフは、[[アルプス山脈]]を越えることを決意した。10月のアルプスはすでに冬といってよく、行軍は困難を極め、脱落者が相次いだ。[[10月8日]]、アルプス越えに成功したロシア軍は、{{仮リンク|イランツ|en|Ilanz}}で連合軍と合流した。兵員は3分の1程度まで減少していたが、フランス軍の追撃は完全に振り切った。
 
 
 
===不遇の死===
 
スヴォーロフの大胆なアルプス越えは、[[ハンニバル]]以来のことと賞賛された。ロシア[[大元帥]]の地位が授与され、さらに凱旋行進を執り行うことを許された。[[1800年]][[1月21日]]、スヴォーロフは[[サンクトペテルブルク]]に帰国した。しかし、[[パーヴェル1世]]は突如としてスヴォーロフから全ての地位と名誉を取り上げ、いわれのない罪を着せて軍から追放した。[[1800年]][[5月18日]]、スヴォーロフはサンクトペテルブルクで亡くなった。上のような経緯のため、葬儀の参列者は、イギリス大使のウィットワース公、詩人の[[ガヴリーラ・デルジャーヴィン|デルジャービン]]、他数人だけだった。遺体は[[アレクサンドル・ネフスキー大修道院]]に収められた。墓碑には「ここにスヴォーロフ眠る({{lang|ru|Здесь лежит Суворов}})」とだけ刻まれていた。
 
 
 
[[1801年]]3月に[[パーヴェル1世]]は暗殺され({{仮リンク|パーヴェル1世暗殺事件|ru|Убийство Павла I}})、後に[[アレクサンドル1世]]がスヴォーロフの名誉を回復し、軍神[[マールス|マルス]]を模したスヴォーロフの彫像を建造してサンクトペテルブルクのマルス広場に置いた。
 
 
 
スヴォーロフの息子アルカディー(1784年-1811年)は、ロシア帝国の将軍として、[[ナポレオン戦争]]やオスマン帝国との戦いで活躍したが、皮肉なことに父が名声を高めたルムニク川で溺れて亡くなった。孫のアレクサンドル・アルカディエビチ(1804年-1882年)もまた、ロシア帝国の将軍として活躍した。
 
 
 
== 著書 ==
 
[[Image:Suvorov USSR original stamp 1980.jpg|thumb|right|280px|1980年発行の記念葉書]]
 
* 「勝利の科学({{lang|ru|Наука побеждать}})」1796年
 
 
 
== 評価 ==
 
常勝不敗の指揮官としてその名声は確立している。スヴォーロフの戦略、戦術の基本は[[機動]]と[[速攻]]、[[奇襲]]にあった。ポーランド侵攻や露土戦争で見られるように、しばしば少数精鋭の部隊を率いて速攻を仕掛け、成功を収めている。スヴォーロフは著書の中で「戦争において金銭は尊い。人命はより尊い。それよりもなお時間は尊い」と述べている。これは敵に態勢を整える時間を与えぬことの必要性を説いたものである。そのためにスヴォーロフは機動を重視し、それを可能とする軍の質を維持するための猛訓練を奨励した。同じように著書の中では「厳しき訓練が、戦いを容易にする」と述べている。また、強襲に際しては射撃よりも[[銃剣]]突撃を活用するように命じた。これを述べた著名な言葉が「弾丸は嘘をつく。銃剣は正直だ」である。これは悪しき白兵主義のあらわれとして、[[ベイジル・リデル=ハート|リデル・ハート]]ら多くの軍事史家に批判されたが、当時の銃の命中率が極めて低かったことが影響していると思われる。
 
 
 
スヴォーロフは部下の力量を見抜き、引き立てるという点でも優れていた。イスマイル要塞攻略で活躍した[[ミハイル・クトゥーゾフ|クトゥーゾフ]]、コシチュシュコ蜂起の鎮圧で活躍した[[ピョートル・バグラチオン|バグラチオン]]らは、スヴォーロフに引き立てられ、その幕下で戦略、戦術を学んだ。彼らは後の[[ナポレオン戦争]]でロシア軍を率いて活躍した。
 
 
 
以上のように軍事的才能は冠絶していたが、一方で性格には極めて癖のある人物であった。誰であろうと容赦なく批判したため、[[グリゴリー・ポチョムキン|ポチョムキン]]や[[パーヴェル1世]]と反目し、左遷や解任の憂き目にあったことは述べたとおりである。また、スヴォーロフはさまざまな奇行の持ち主としても知られている。1796年に解任されて田舎に引っ込んだ頃には、教会の[[聖歌隊]]に入り、一日中歌ってばかりいたという。
 
 
 
== 顕彰 ==
 
* スヴォーロフ軍事博物館[http://www.enlight.ru/camera/104/index_e.html (外部リンク)] - [[1904年]]に建設された。
 
* [[スヴォーロフ勲章 (ソビエト連邦)|スヴォーロフ勲章]] - [[1942年]][[7月29日]]、[[ソビエト連邦最高会議]][[最高会議幹部会|幹部会]]が制定。果敢な攻撃によって敵軍に大打撃を与えた者に授与された。
 
* スヴォーロフ学校({{lang|ru|Суворовское училище}}) - [[ソビエト連邦|ソ連]]、[[ロシア連邦]]の軍幼年学校。
 
* サンクトペテルブルク以外にも、各地にスヴォーロフの記念碑が建造されている。オチャーコフ、セヴァストポリ、イスマイル、トゥルチン、コブリン、ラドガ、ケルソン、ティマノフカ、シムフェロポリ、カリーニングラード、コンチャンスコウ、ルムニク、スイスのアルプス等。
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commonscat|Alexander Suvorov}}
 
; スヴォーロフに因んで命名された物。
 
* [[スヴォーロフ (小惑星)]]
 
* [[クニャージ・スヴォーロフ]] - [[ボロジノ級戦艦]]4番艦。[[日本海海戦]]当時の[[バルチック艦隊]][[旗艦]]で、同海戦において撃沈。[[クニャージ]]は[[公|公爵]]の意味。スワロフ、スウォーロフとも表記される。
 
* [[スヴォロヴォ]] - ブルガリア北東部[[ヴァルナ州]]の町。
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.ganesha.org/hall/suvorov.html Alexander V. Suvorov: Russian Field Marshal, 1729-1800]
 
* [http://www.airpower.maxwell.af.mil/airchronicles/aureview/1986/nov-dec/menning.html Speed, Assessment, and Hitting Power: Suvorov's Art of Victory]
 
* [http://www.enlight.ru/camera/222/index_e.html Suvorov military musum in St Petersburg]
 
* [http://web2.airmail.net/napoleon/Russian_army.htm Russian Army during the Napoleonic Wars]
 
* [http://voyage.home.nov.ru/suvorovskoe.htm Suvorov's home and family]
 
* [http://www.napoleon-series.org/research/biographies/c_suvorov.html Suvorov - Russia's Eagle Over the Alps]
 
* [http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/suvorov.html 変人元帥(祖国は危機にあり)]
 
* [http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/zatsu/hitano.html#05 「ロシア領」スイス・悪魔橋の記念碑]
 
 
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2019/6/27/ (木) 15:42時点における版

アレクサンドル・ヴァシリエヴィチ・スヴォーロフАлекса́ндр Васи́льевич Суво́ров, ラテン: Alexandr Vasiljevich Suvorov, 1729年11月24日(ユリウス暦11月13日) - 1800年5月18日(ユリウス暦5月6日))

ロシアの軍人,将軍。スウェーデン系貴族の出身。七年戦争に従軍したのち,新しい戦略と戦術の開発に没頭,第1次露土戦争 (1768~74) で P.A.ルミヤンツェフを助けて用兵の妙を発揮して将官となった。エカテリーナ2世 (大帝) の信任が厚く,プガチョーフ農民戦争 (75) の際は首領 E.I.プガチョーフを捕縛してモスクワに帰った。その後 15年間は昇進もせず,宮廷でも冷遇されたが,第2次露土戦争 (87~92) では再び軍事的才能を発揮し,リムニク河畔でトルコ軍を壊滅させ,その功でリムニクスキー伯を授けられた。 1794年ポーランドの独立運動を弾圧した功績で元帥に昇進。その後旧式戦法に固執する皇帝パーベル1世に反対して一時不興をこうむったが,対仏大同盟へのロシアの参加で再び起用され,ロシア軍を率いて進撃,独特の戦術をもってフランス軍をイタリアから放逐し,99年イタリスキー公に叙せられた。続いてアルプスを越えてスイスに転戦,弾薬と食糧がつき,孤立していたロシア軍を敵の包囲から脱出させ,4分の3の兵力を無事救出した。この戦いは世界戦史上まれにみるものとされている。

1800年前例のない大元帥に任命されたが,その不行跡と周囲の冷遇により,宮廷から追放され,失意のうちに没した。しかしその天才的な指揮と輝かしい戦績によって,ロシア陸軍史上不朽の名声をとどめている。



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