「アドリアノープル条約」の版間の差分

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[[ファイル:Moscow Triumphal Gates.jpg|thumb|275px|ロシアの戦勝を記念する、1836年から1838年にかけて[[サンクトペテルブルク]]に建てられた{{仮リンク|モスクワ凱旋門 (サンクトペテルブルク)|en|Moscow Triumphal Gates|label=モスクワ凱旋門}}。]]
 
[[ファイル:Treaty of Andrinople 1829.png|thumb|300px|アドリアノープル条約と[[トルコマーンチャーイ条約]]による領土変更<ref>H.E.Stier (dir.): Grosser Atlas zur Weltgeschichte, Westermann 1984, p.134, {{ISBN2|3141009198}}.</ref>。]]
 
'''アドリアノープル条約'''(アドリアノープルじょうやく、{{lang-en|Treaty of Adrianople}})、または'''エディルネ条約'''(エディルネじょうやく、{{lang-en|Treaty of Edirne}})は、[[1828年]]から[[1829年]]にかけての[[露土戦争 (1828年-1829年)|露土戦争]]の講和条約。1829年[[9月14日]]、[[ロシア帝国]]代表{{仮リンク|アレクセイ・フョードロヴィチ・オルロフ|en|Alexey Fyodorovich Orlov}}伯爵と[[オスマン帝国]]代表{{仮リンク|アブデュルカディル・ベイ|tr|Abdülkâdir Bey}}の間で締結された<ref name= Acton>{{cite book | title = The Cambridge Modern History | author = John Emerich Edward Dalberg Acton | publisher = Macmillan & Co| year = 1907 |  page = 202 }}</ref>。
 
  
== 内容 ==
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'''アドリアノープル条約'''(アドリアノープルじょうやく、{{lang-en|Treaty of Adrianople}})、または'''エディルネ条約'''(エディルネじょうやく、{{lang-en|Treaty of Edirne}}
オスマン帝国はロシアに[[ドナウ川]]口と[[ジョージア (国)|グルジア]]の[[アハルツィヘ]]と[[アハルカラキ]]要塞への通行を許可した。オスマン帝国はロシアのグルジア([[イメレティ州|イメレティ]]、{{仮リンク|サメグレロ州|en|Samegrelo|label=サメグレロ}}、[[グリア州|グリア]]含む)、{{仮リンク|エレヴァン・ハン国|en|Erivan Khanate}}、{{仮リンク|ナヒチェヴァン・ハン国|en|Nakhichevan Khanate}}領有を承認した。これらの領土は1828年の[[トルコマーンチャーイ条約]]で[[ガージャール朝]]ペルシアからロシアに割譲された領土であった<ref>{{cite book|editor=Spencer Tucker|title=A Global Chronology of Conflict: From the Ancient World to the Modern Middle East|date=2010|publisher=ABC-CLIO|isbn=978-1851096725|chapter=Overview of 1800-1850: Chronology|quote="The Turks recognize Russian possession of Georgia and the khanates of Yerevan (Erivan) and Nakhichevan that had been ceded by Persia to Russia the year before."|page=1154|ref=harv}}</ref>。条約は[[ダーダネルス海峡]]を全ての商船に開放、穀物、家畜、木材貿易が自由化されることとなった。しかし、ロシア・オスマン間の海峡問題の解決は1833年の[[ウンキャル・スケレッシ条約]]に持ち越された。
 
  
アドリアノープルにより、オスマン帝国は[[セルビア公国 (近代)|セルビア公国]]の自治を再確認、[[ギリシャ王国|ギリシャ]]の自治を承認、莫大な賠償金をロシアに支払うまでロシアが[[モルダヴィア]]と[[ワラキア]]を占領することに同意した。しかし、後の[[ウンキャル・スケレッシ条約]]により、賠償金は大きく軽減された<ref>Note 285 contained in the ''Collected Works of Karl Marx and Frederick Engels: Volume 12'' (International Publishers: New York, 1979) p. 678.</ref>。条約はオスマン帝国とワラキアの国境を[[ドナウ川]]の{{仮リンク|谷線|en|Thalweg}}に定め、[[トゥルヌ・マグレレ|トゥルヌ]]、[[ジュルジュ]]、[[ブライラ]]の{{仮リンク|ラヤ (地方行政区画)|en|Raya (country subdivision)|label=ラヤ}}をワラキアに割譲した<ref>Constantin Giurescu. ''Istoria Românilor''. Bucureşti, 1938.</ref><ref>Nicolae Iorga. ''Istoria Românilor''. Bucureşti, 1934.</ref>。
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エディルネ条約とも呼ばれる。 1829年9月 14日,ロシアとトルコとの間に結ばれた講和条約。 28年ギリシア独立戦争に干渉したロシアは,翌 29年8月コンスタンチノープル (現イスタンブール) の北西,アドリアノープル (現エディルネ) を占領,プロシアの調停でこの条約を結んだ。ロシアは黒海東北岸とドナウ河口を領土とし,グルジアなど外コーカサス (カフカス) の土地も併合,さらにボスポラス,ダーダネルス (現チャナッカレ) 両海峡の自由な航行権を得るとともに,モルドバ,ワラキア,セルビアの自治とギリシアの独立とをトルコに認めさせた。
  
== 脚注 ==
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{{テンプレート:20180815sk}}
{{Reflist}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Wikisourcelang|ru|Андрианопольский мирный договор (1829)|アドリアノープル講和条約 (1829年)}}
 
*[[東方問題]]
 
*{{仮リンク|ドナウ川の国際化|en|Internationalization of the Danube River}}
 
*{{仮リンク|ロンドン条約 (1827年)|en|Treaty of London (1827)}}
 
  
 
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2019/4/28/ (日) 23:11時点における最新版

アドリアノープル条約(アドリアノープルじょうやく、英語: Treaty of Adrianople)、またはエディルネ条約(エディルネじょうやく、英語: Treaty of Edirne

エディルネ条約とも呼ばれる。 1829年9月 14日,ロシアとトルコとの間に結ばれた講和条約。 28年ギリシア独立戦争に干渉したロシアは,翌 29年8月コンスタンチノープル (現イスタンブール) の北西,アドリアノープル (現エディルネ) を占領,プロシアの調停でこの条約を結んだ。ロシアは黒海東北岸とドナウ河口を領土とし,グルジアなど外コーカサス (カフカス) の土地も併合,さらにボスポラス,ダーダネルス (現チャナッカレ) 両海峡の自由な航行権を得るとともに,モルドバ,ワラキア,セルビアの自治とギリシアの独立とをトルコに認めさせた。



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