アイルトン・セナ

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アイルトン・セナ
基本情報
フルネーム アイルトン・セナ・ダ・シルバ
国籍 ブラジルの旗 ブラジル
出身地 サンパウロ州サンパウロ
生年月日 (1960-03-21) 1960年3月21日
死没地 イタリアの旗 イタリア
同・ボローニャ
没年月日 (1994-05-01) 1994年5月1日(34歳没)
F1での経歴
活動時期 1984-1994
所属チーム '84 トールマン
'85-'87 ロータス
'88-'93 マクラーレン
'94 ウィリアムズ
出走回数 162 (161スタート)
タイトル 3 (1988,1990,1991)
優勝回数 41
表彰台(3位以内)回数 80
通算獲得ポイント 610 (614)
ポールポジション 65
ファステストラップ 19
初戦 1984年ブラジルGP
初勝利 1985年ポルトガルGP
最終勝利 1993年オーストラリアGP
最終戦 1994年サンマリノGP
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アイルトン・セナ・ダ・シルバAyrton Senna da Silva, 1960年3月21日 - 1994年5月1日)は、ブラジル人の元レーシング・ドライバーF1世界選手権において、1988年1990年1991年と、計3度ワールドチャンピオンを獲得した。

人物

時代を代表するドライバーの1人とされ、特に計65度のPP獲得数は、2006年にミハエル・シューマッハに更新されるまで歴代1位だった。アラン・プロストネルソン・ピケナイジェル・マンセルとは、1980年代から1990年代前半のF1を象徴する存在として、「四強」「ビッグ4」「F1四天王」などと纏めて呼ばれることもある。特にプロストとのライバル関係が知られ、日本では2人の争いが「セナ・プロ決戦」「セナ・プロ対決」などと呼ばれた。

異名には「Genius(天才)」「マジック・セナ」などがあり、若手時代には「ハリー」の愛称でも呼ばれた。日本では、古舘伊知郎が実況中継で使用した「音速の貴公子」がよく知られている。イギリスF1 Racing」誌においては、「史上最速のF1ドライバー」「史上最高のF1ドライバー」に共に1位で選出された。

F1以前

出生・幼少期

ブラジル最大の都市であるサンパウロ市の地主で、農場や牧場、小規模商店、自動車修理工場などブラジル国内でも有数の多角経営者であるミルトン・ダ・シルバの長男として誕生。4歳の誕生日の際、父からレーシングカートを与えられると、たちまちそれに夢中となり、ドライビングに熱中。その才能を磨き、父の豊富な資金と環境がドライビング技術の向上を支えた。また、8歳のころに工場のスクラップ寸前のジープクラッチを使わずに走らせたという珍話もある。

ただし、学業の成績に悪影響があれば、カートを辞めることが常に条件として課されていたという。

カートレース

13歳になるとレースを始め、1977年には南アメリカのカート選手権を制した。また、1978年にはイタリアのカートメーカー「DAP(ダップ)」と契約し、CIK/FIAヨーロッパ選手権に出場。CIK/FIA世界カート選手権で2位で表彰台を獲得。当時の日本国内カートレースの最高峰「ジャパンカートレース(ジャパンカートグランプリ)」に参戦するために来日し、4位入賞[1][注釈 1]。団体戦では増田二三四・平野晴男とともに5位入賞。カートレースのキャリアは1982年まで続いた。

1980年のシーズンオフには、幼馴染のリリアンと結婚。この頃から各メディアへのPR活動を始め、自ら資金調達を行うようになる。

ジュニア・フォーミュラ

1981年ヨーロッパに渡り、イギリスの名門レーシングスクールであるジム・ラッセル・レーシングスクールを受講し、イギリスのフォーミュラ・フォード1600に参戦して優勝するが、父親との約束があったことに加えて、レース活動資金が不足したために引退を発表しブラジルに帰国した。

しかしレースへの情熱は冷めがたく、ブラジルでの生活を強く主張した妻リリアンと離婚。1982年には再びイギリスに渡り、フォーミュラ・フォード2000に転向し、チャンピオンとなる。

F3

1983年にはイギリスF3に参戦し、開幕戦から9連勝を記録。後半戦以降マーティン・ブランドルの巻き返しを受け、一時は逆転を許すが、最終戦で再びひっくり返しチャンピオンを獲得した。最終成績は、20戦中12勝という当時の最多勝記録だった。

また、初めてF3規格で開催されたマカオGPセオドールから参戦し、2ヒートを連取し優勝した。この年のマカオGP予選でセナが記録したタイムは、1990年にミカ・ハッキネンミハエル・シューマッハが更新するまで、7年間にわたりコースレコードであった。

なおセナがイギリスF3王者・マカオGP優勝者となったときのマシンはいずれも、トヨタ・2T-Gエンジンを搭載していた[2]

この頃から、父方の姓「ダ・シルバ」ではなく母方の姓「セナ」を表向き名乗るようになる。

F1

トールマン時代

ファイル:Ayrton Senna 1984 cropped.jpg
トールマンTG184・ハート
1984年

当初、F1へステップアップする際にブラバムと交渉したが、当時在籍していたネルソン・ピケが反対したため実現しなかった[3]。その後、トールマンからF1デビュー。初戦ブラジルGPターボトラブルでリタイアに終わったものの、第2戦南アフリカGPで6位に入り、初の入賞を記録。大雨でハーフレースとなった第6戦モナコGPでは、予選13位から追い上げ2位でフィニッシュ。自身とトールマンに初の表彰台をもたらすと同時に、自身初のファステストラップを記録した。

第10戦イギリスGP・最終戦ポルトガルGPでも3位に入り、計3度の表彰台を経験。またティレル勢の記録抹消に伴い、7位で完走していた第3戦ベルギーGPが6位に繰り上がったため、入賞は参戦した15戦中5レースとなった。予選最高位は、ポルトガルGPでの3位グリッドである。

トラブルや若手ゆえの粗さから安定した結果は残せなかったが、第8戦デトロイトGPでの予選7位、第9戦ダラスGPでの予選6位から一時4位走行等、ドイツGPでの一時5位走行など、市街地コースを中心に速さを垣間見せることとなった。リタイヤは8回を数え、第4戦サンマリノGPでF1キャリア唯一の予選落ちを喫したが、それでもランキングではロータスナイジェル・マンセルと並び9位に入った。

シーズンの途中で翌シーズンからのロータス移籍を発表するが、トールマンとの3年契約を結んでいたため二重契約として問題になった。結局はロータスとセナがトールマンに違約金を支払い、セナ自身に1レースの出走禁止の処分を課すことを条件にロータスへの移籍は実現した。この影響でセナは第14戦イタリアGPピエルルイジ・マルティニにシートを明け渡した。実質上の代役はステファン・ヨハンソンであるが、イタリアGP後怪我で出走出来ないジョニー・チェコットの代役の座に移った。そのためイタリアGPのみカーナンバー19のセナのマシンに乗っている。

また、この年はF1以外にポルシェ・956で耐久レースにも参戦した。

ロータス時代

1985年

当時名門に数えられていたロータスに移籍し、通算16戦目となる第2戦ポルトガルGPで自身初のPPを獲得した。豪雨の決勝でもスタートから終始トップを走行、2位のミケーレ・アルボレートに1分以上の差、3位以下は全て周回遅れにする独走劇で、念願のF1初優勝を果たす。シーズン前半は安定感に欠け、入賞レースがポルトガルGPのみという状況だったが、FLや連続PPを記録するなど、速さは見せていた。

シーズン後半には安定して結果を残し、第10戦オーストリアGPから5戦連続で表彰台を記録。特に、雨模様となった第13戦ベルギーGPでは、予選2位からスタートでトップを奪取、以後ゴールまで独走という、ポルトガルGPと類似した展開で自身2勝目を挙げた。マシントラブルやガス欠などにより、予選でのPP7回に対し優勝は上記の2回と少ないものとなったが、シーズン後半に安定してポイントを積み重ねたことで、チームのエースだったエリオ・デ・アンジェリスを上回るランキング4位となった。

「予選」と「雨」に強さを見せた一方で、車体下面・後方から立ち上がる火花などからマシンのレギュレーション違反が疑われて[注釈 2]検査がなされたり(違反項目は見つからず)、ダーティーな走りが問題にされる一面もあった。特に第4戦モナコGP予選では、他者のタイムアタックを妨害したとしてアルボレート、ニキ・ラウダらに非難され、後にセナが謝罪する事態となった。

アンジェリスがシーズン後にブラバムへ移籍し、ロータスのチームマネージャーであるピーター・ウォーは後継のドライバーにデレック・ワーウィックを推そうとしたが、セナは強硬に反対し「チームの資金を補うために1カー体制にすべき」と希望していた。当時のワーウィックは実力者と評価されており、イギリスのチームであるロータスに同国籍のワーウィックが加入した場合に、チーム内での自分の立場が危うくなると感じての行動であったという説もあった。結局後継のドライバーは新人のジョニー・ダンフリーズとなった。

1986年

前年は名目上セカンド・ドライバーであったが、この年よりチームのエース・ドライバーとなる。シーズン前半は8戦中入賞6回と手堅くポイントを獲得し、第2戦スペインGP・第7戦デトロイトGPで勝利を記録。特にスペインGPでの勝利は、背後に迫るマンセルを0.014秒という僅差で抑えきったもので、完全ドライのレースでのF1初勝利でもあった。

しかし、シーズン後半はトラブル続きでリタイヤが多くなり、ポイントは停滞していった。マンセル、プロスト、ピケとのチャンピオン争いが佳境に入る中、第12戦オーストリアGPでは、エンジン・トラブルでレース前半にリタイヤ。第13戦イタリアGPにおいては、クラッチ・トラブルでスタート直後にリタイヤ。第14戦ポルトガルGPでは、終盤まで2位を走行していたが、ファイナルラップでガス欠に見舞われ4位に終わり、この時点で2戦を残しタイトルの可能性を逸した。最終的なランキングは4位。

予選では前年を上回るシーズン16戦中8度のPPを獲得するも、優勝は前年同様2勝に留まった。またウィリアムズホンダ勢との争いの中、その強さを身をもって体感したことで、ホンダエンジンを手にしたいとの思いを抱くようになった。

1987年

ロータスとセナは念願のホンダエンジンを獲得、これに伴いホンダと縁の深いF1ルーキーの中嶋悟がチームメイトとなった。しかし実戦に投入した開発途上のアクティブサスペンション[注釈 3]に不具合が多発し、苦戦を強いられる結果となった。それまでの2年間多数獲得していたPPも、この年は第2戦サンマリノGPのみに留まっている。それでも市街地で行われた第4戦モナコGP・第5戦デトロイトGPでは、タイヤの磨耗が少ないというアクティブサスペンションの利点を生かし、タイヤ無交換で走り切り2連勝を果たすが、以後はシーズンが進むに従って成績が下降していった。

第7戦イギリスGPでは3位となり、4位に入った中嶋とともにホンダエンジン勢1 - 4位独占の一角を占めるものの、1 - 2位フィニッシュを決めたウィリアムズ・ホンダ勢には周回遅れとされる。第11戦イタリアGPではレース終盤までトップを走行、久々に優勝のチャンスが巡って来たが、残り8周というところで、最終コーナーにてコースアウト。ピケの先行を許し2位に終わり、この時点で5戦を残しチャンピオン争いから脱落した。

ウィリアムズホンダによって支配されたシーズンとなったが、16戦中11戦入賞と勝利レース以外でも堅実に結果を残し、ランキングは3位に上昇した[注釈 4]。また、初めて鈴鹿サーキットで開催された第15戦日本GPでは、予選7位から2位でフィニッシュし、ホンダエンジンに母国での初表彰台をもたらしている。

このシーズンはルーキーの中嶋が7ポイントに対してセナは2勝で57ポイントとチームメイトに圧勝した。

マクラーレン時代

1988年

チャンピオンになるため、マクラーレンに移籍し、当時すでに2度のタイトルを獲得していたアラン・プロストとコンビを組むこととなる。セナの移籍に伴い、この年よりマクラーレンにもホンダエンジンが搭載されることとなった(一説ではホンダからマクラーレンにエンジンを供給する条件がセナの雇用だったとも言われている)。こうしてセナ、プロスト、ホンダエンジンの組み合わせでマクラーレンチームは開幕から連勝を重ねた。またチームはジョイントNo.1体制[注釈 5]を取ったために、第5戦カナダGP、第7戦フランスGP、第10戦ハンガリーGPなど、2台のマクラーレンによる激しいバトルが再三行われた。

2人のポイントが分散したため、コンストラクターズタイトルが第11戦ベルギーGPで決定したのに対し、ドライバーズタイトル争いはシーズン終盤までもつれ込んだ。セナはベルギーGP以降一時不調に陥るも、第15戦日本GPでスタート失敗による14番手転落から追い上げて優勝、有効ポイント制もあって自身初のタイトルを獲得した[注釈 6]。この年の16戦中8勝・13PPという数字は、いずれも当時の史上最多記録を更新するものであった。

「ホンダRA168E」を搭載した「MP4/4」と2人のドライバーにより、チームは15勝を上げ、10度の1-2フィニッシュを記録。特に第2戦サンマリノGP・第6戦デトロイトGPでは、3位以下を周回遅れにしての1-2フィニッシュを達成するなど、マクラーレン勢が他を圧倒した記録的なシーズンとなった。

しかし、第13戦ポルトガルGPでの幅寄せ行為[注釈 7]以降、2人の関係には溝が出来始めていた。

1989年

初めてカーナンバー1を付けてシーズンに挑み、予選では前年同様13度のPPを獲得。特に第5戦アメリカGPでの通算34度目のPPは、それまでジム・クラークが保持していた当時の最多記録を、21年ぶりに更新するものであった。

決勝では第2戦サンマリノGPでシーズン初勝利となったが、このレースで「先に第1コーナーに進入した者がレースの主導権を得る」というプロストとの間での紳士協定(案を出したのはプロスト)に反し、赤旗中断を経た再スタート直後、2コーナーでプロストを抜いてしまう事件が発生(紳士協定事件[注釈 8])。これ以後、前年に兆候があった2人の溝が決定的なものとなり表面化、チームは大きな問題を抱えることとなった。

その後セナは第4戦メキシコGPまで3連勝を記録しランキングトップに立つが、第5戦アメリカGPからは逆に4戦連続リタイヤ(終盤にストップした第6戦カナダGPは完走扱い)となり、セナの勝利時にも確実にポイントを積み重ねたプロストに、大きくリードを許すことになった。

それでも争いはシーズン終盤まで縺れたが、第15戦日本GPにおいて、トップ争いの中で両者はカシオシケインで接触。先にシケインに入ったプロストの右インにセナがつっこみ、両者は接触したままシケイン入り口で直進したまま止まった。プロストは車を降りたが、セナは再スタートしシケインの近道を通過したがレース後に失格処分となり、タイトルは一旦プロストの手に渡った。セナとマクラーレンは失格処分に抗議して民事裁判に持ち込み、最後の可能性を掛け最終戦オーストラリアGPに挑んだが、トップ独走中に周回遅れのマーティン・ブランドルに追突しリタイヤ、裁定を待たずしてタイトルの可能性を失った(日本GPの結果も、結局覆らなかった)。

プロストが4勝ながら13度の入賞(うち2位7回)を記録したのに対し、セナはプロストを上回る6勝であるものの、他の入賞が第10戦ハンガリーGPのみという成績であり、安定度の差が獲得ポイントに現れる結果となった[注釈 9]。チームメイト同士の接触という後味の悪いものとなったことに加え、セナは当時、FIAの会長であったジャン=マリー・バレストルから一方的に「危険なドライバー」と見なされ、スーパーライセンス不発行の危機に陥る。ライセンスが発行されたのは、年が明けた2月のことだった。

1990年

前述のライセンスの問題から引退危機に晒され、本人も後に「もう走らないつもりだった」と語る状態だったが、最終的にセナが謝罪という形により、開幕直前にライセンスが発行。この年の参戦が決定した。

開幕戦アメリカGPでは、予選での電気系トラブルにより5番グリッドとなるも、決勝では優勝。セナのF1キャリアにおいては、最も後方のグリッドからの優勝であり、前年にデビューしたティレルジャン・アレジと繰り広げたバトルは、「歴史に残る名バトル」の1つとして後々まで語られることとなった。

この年もタイトル争いは、セナとフェラーリに移籍したプロストとで争われ、3年連続両者の争いとなった。セナは予選で10度のPPを獲得しており、特に第14戦スペインGPでは、自身が目標としていた通算50回目のPPを獲得。決勝でも6勝を挙げ、また前年とは対照的な手堅いレース運びも見せるようになった(入賞計11回)。第8戦イギリスGP以外はポイントリーダーの座を守り、最終的に5勝のプロストを押さえ2度目のチャンピオンに輝いた。

ただし、その決定劇は第15戦日本GPにおいて、スタート直後に先行するプロストのインにセナがつっこみ、両者ともそのままコースアウトしリタイアとなった。両者が2年連続で接触するという後味の悪いものとなった。翌1991年の日本GP後に、セナはこの接触が故意によるものだったと認めている。セナは前年の同GPでの接触をプロストの故意によるものと捉えており、報復の意図があったことを示したが、大きな批判を受けた。

1991年

当時の新記録となる開幕4連勝を記録。特に第2戦ブラジルGPでは、ギアボックストラブルにより、終盤に6速のみでの走行を余儀なくされた中で、念願の母国初優勝を達成。

しかし、第5戦カナダGP以降はウィリアムズ勢が序盤はセミオートマチックトランスミッションのトラブルに苦しんだウィリアムズ・FW14の戦闘力で巻き返し、マンセルとのチャンピオン争いを繰り広げることとなる。

第10戦ハンガリーGPでは、直前に本田宗一郎が死去。弔い合戦となり喪章を付けて挑んだこのレースで、セナはポールトゥーウィンを達成、6戦ぶりに表彰台の頂点に立った。続く第11戦ベルギーGPでも優勝するが、その後はウィリアムズが3連勝を記録し、再び苦しいレースを強いられた。だが第15戦日本GPは、それまでとは打って変わりマクラーレン勢が優勢となり、チームメイトのゲルハルト・ベルガーがPPから先行し、セナはタイトルを争うマンセルを抑えて2位を走行。10周目、セナに急接近したマンセルは1コーナーでコースアウトしてリタイア。この時点で、セナの3度目のチャンピオンが決定した(レースは2位)。その後、豪雨で大幅短縮となった最終戦オーストラリアGPも制し、7勝でシーズンを終えた。

この年も安定して結果を残し、全戦ポイント制復活初年度において全16戦中完走15回・入賞14回を記録。中盤以降は苦戦を強いられていたが、結局一度もランキングトップの座は譲らなかった。セナはこの年限りでマクラーレンを離れ、ウィリアムズへ移籍する考えを抱いていたが、ホンダ側からの熱心な説得により、翌1992年も残留することとなった。しかしセナ自身は後に「僕はあの時ウィリアムズに行くべきだった。僕のミスだ」と語っている[4]

1992年

マンセルが開幕から5連勝するなど、ウィリアムズがアクティブサスペンションを実用化させるなどハイテク機器を搭載したFW14Bの圧倒的な戦闘力の前に、マクラーレンは完全に劣勢を強いられた。そんな中でも、第6戦モナコGPでは、6連勝目前だったマンセルのタイヤ交換の際にトップに立つと、そのまま押さえ切り同GP4連覇を記録。第10戦ドイツGPでも、終盤にリカルド・パトレーゼの追走を抑え、2位を得るなど、時折存在をアピールした。

しかし、優勝3回・PP1回に留まり、リタイヤは7回を記録(F1参戦中、デビューした1984年に次ぐ2度目の多さ)。得意とする雨のレースでも結果を残せず、第5戦スペインGPでは、2位走行中の終盤にスピンでストップ。第12戦ベルギーGPでは、雨が強くなる中スリックタイヤで走行を続けるギャンブルに出たが、裏目に出て5位に終わっている。結局、ランキングはウィリアムズの2人に加え、ミハエル・シューマッハにも敗れて4位に終わった。シーズン中1度もランキングトップに立てなかったのは、1985年シーズン以来のことだった。

さらに、セナに6年間エンジンを提供し続けてきたホンダが、この年をもってF1活動を一時休止を表明。休止発表の直後に行われた第13戦イタリアGPでは、ウィリアムズ勢に揃ってトラブルが出たこともあり、ホンダエンジンでの自身最後となる優勝を飾った。しかしホンダの母国ラストレースとなった第15戦日本GPでは、ヘルメットに日の丸をペイントした他、コクピット内に日の丸の小旗を仕込み、チェッカー後に地元の日本人ファンとホンダへの感謝を示すべく振ろうと挑んだものの、僅か3周目にそのホンダエンジンにトラブルが発生、皮肉にもリタイア第1号となってしまう。最終戦オーストラリアGPでは、予選から好調を維持しながら、首位争いの中でマンセルに追突して両者リタイア。ホンダでのラスト2戦をリタイアで終えた。

1993年

ホンダ撤退に伴い、この年のマクラーレンは、カスタマー仕様のフォードHBV8エンジンを搭載。マクラーレンはフォード・コスワースに対しワークス仕様の供給を求めたが、ワークス仕様の供給を受けるベネトンが当然これを拒絶したため認められなかった。このため、マクラーレンは1年間の休養から復帰したプロストを擁するウィリアムズ・ルノー陣営に対して1992年以上に不利な状況と見られており、セナにとっては「勝ち目なきシーズン」になる事が開幕前から濃厚と目されていた。

そんな状況を悲観したセナは1993年の休養もほのめかすようになり、前年チャンピオンとなったマンセルがCARTに転向したことから、セナもまたCART転向も考えるようになり、シーズン前には同胞の先輩であるエマーソン・フィッティパルディペンスキーをテストドライブしていた。しかし最終的には開幕直前にマクラーレンに残留する。第7戦カナダGPまでは1戦ごとの契約で走った後、第8戦フランスGPにて正式にシーズン契約を結び、最終的には全戦に出走した。

開幕戦南アフリカGPではPPのプロストから僅差の予選2位から、一時はトップを走行しての2位。第2戦ブラジルGPではペナルティにより一旦は4位まで転落するが、レース途中の豪雨によるプロストのリタイア、セーフティーカー導入などを味方につけて、マシンバランスに苦しみながらも奇跡的な母国2勝目を挙げた。第3戦ヨーロッパGP(ドニントンパーク)でも、大雨の中オープニングラップで4台抜きを見せてトップに立ち、目まぐるしく変わるコンディションに振り回され気味のライバルをよそに連勝を果たす。第6戦モナコGPでは、PPのプロストがフライングスタートによるペナルティストップ時にエンジンストール、更に代わってトップに躍り出たミハエル・シューマッハがマシントラブルでリタイアしたことからグラハム・ヒルを上回るモナコ6勝目を達成し、1989年からのモナコGP連勝記録を5に伸ばした。

しかし、これ以後ウィリアムズが復調、雨のレースが無くなったこともあって、セナは表彰台すら届かないレースが続く。プロストにポイント差を広げられ、更にはシューマッハやプロストのチームメイトである実質ルーキーのデイモン・ヒルが存在感をアピールし、セナの置かれた状況は厳しくなる一方であった。序盤の好成績から、第9戦イギリスGPよりベネトンと同じ最新スペックのエンジンを手に入れることに成功したが、ベネトンも序盤には未搭載だったアクティブサスペンションやTCSを装備することで、より戦闘力が向上しており、セナの成績向上には至らなかった。第13戦イタリアGPでのリタイアによりセナはタイトル獲得の可能性が消滅、続く第14戦ポルトガルGPでプロストのタイトルが決定した。このポルトガルGPでは、予選ではマイケル・アンドレッティに代わり同レースからチームメイトとなったミカ・ハッキネンに敗れ[5]、決勝ではリタイヤにより、表彰台未登壇の自身ワースト記録を更新(8戦連続)してしまう出来事もあった。

プロストの引退表明により因縁のライバルとの直接対決が残り2戦となった第15戦日本GPおよび最終戦オーストラリアGP(後者はこの年初にしてウィリアムズ以外のチームでは唯一となるPPを獲得)では久しぶりに輝きを取り戻して連勝を飾った。結果的にオーストラリアGPでの勝利が生前最後の勝利となった(通算41勝)。

同年シーズンオフにはプロスト、翌年からチームメイトとなる事が決まっていたデイモン・ヒル、そのほかアンドレア・デ・チェザリスフィリップ・アリオージョニー・ハーバートらと共にカート大会に参加、これが名実共に最後の「セナプロ対決」となった[6]

ウィリアムズ時代

1994年

長年慣れ親しんだマクラーレンを離れ、かねてから望んでいたウィリアムズ・ルノーへ念願の移籍を果たす。マスコミなどはセナがシーズンを圧倒するのではないかと予想する者までいた。

しかし、前年までのウィリアムズの武器であったアクティブサスペンショントラクションコントロールなどのハイテク技術がこの年のルール変更により禁止され、新車FW16は開幕直前まで完成を待たなければならず、当時のデザイナーであるエイドリアン・ニューウェイの指揮の元、空力を重視したマシンは非常に神経質なマシンに仕上がっていた。

特にアクティブサスペンションはニューウェイの作りだすマシンの空力的に神経質な部分を補っていたため、その禁止はウィリアムズにとって大きな打撃となった。1994年第3戦サンマリノGP前にはセナはベルガーに対して「ゲルハルト、マシンをドライブするなんてことはできないよ。マシンには空力的にドライブが難しい部分があったようだ。パフォーマンスは最悪で、まだ乗りこなせていない」と漏らしている[7]

開幕戦ブラジルGPではPPからスタートするも、ピット作業でシューマッハに逆転され、追走中にらしからぬスピンを喫しリタイア。第2戦パシフィックGPでも2戦連続のPPを獲得するも、スタートで出遅れた上にハッキネンとニコラ・ラリーニに追突されてリタイア。開幕2戦を消化した時点でのノーポイントは、デビュー以来初のことだった。

事故死

ファイル:San Marino 1994 Tamburello.svg
イモラ・サーキットのレイアウトとタンブレロコーナーの位置

迎えた第3戦サンマリノGPは、開幕戦、第2戦共にノーポイントでの結果で終わったセナは「ここが自らの開幕戦」と誓い、レースに臨んでいった。しかし予選からそんなセナの気合に冷水をかける重大事故が多発する。まず予選1日目、親密な間柄であった同胞のルーベンス・バリチェロが大クラッシュを起こし病院に搬送された。結果的には鼻骨を骨折という軽傷であったものの、一時は安否を心配されるほどの大きな事故であった。そして翌4月30日の予選2日目には、ヴィルヌーヴ・コーナーでクラッシュしたローランド・ラッツェンバーガーが死亡。グランプリ中の死亡事故は、F1では12年ぶりのことだった。

これら一連のアクシデントの中でセナは心理的に不安定な状態となり、電話で恋人アドリアーナに「走りたくない」と話していたことが後に語られている。ただし、夜には落ち着きを取り戻し、「心配しなくていい、僕はとっても強いんだ」と語っていたという。

セナは開幕から3戦連続のポールポジションから決勝をスタートし、1コーナーでも首位をキープしたが、後方での事故によりセーフティーカーが導入される。そして再スタートが切られた後の7周目(現地時間午後2時17分)、直後にミハエル・シューマッハを従えて超高速・左コーナー「タンブレロ」において時速312kmでイン側を走行中に、3つ目の舗装の継ぎ目で突然不安定となりグリップを失ったままアウト側に向かい、そのまま直進してコースアウト、コース右脇のコンクリートウォールに激突(激突寸前、時速210km-220kmまで急減速していた)、FW16はボディー右側が大破した。

セナは意識不明のままヘリコプターでボローニャのマジョーレ病院に緊急搬送されたが、現地時間午後6時3分には脳死状態に陥り、事故発生から約4時間後の午後6時40分、34歳で帰らぬ人となった(以後、ジュール・ビアンキ2014年日本グランプリでの事故で翌年死亡するまでドライバーの死亡事故は起きなかった)。

事故直前の車載映像には、セナがシフトダウンしステアリングを左に切るものの、路面の舗装が変わる部分で突然マシンの後輪がブレークするのにカウンターをあてるも車両はグリップを失い、そのままコンクリートウォールに激突する映像が残っている。事故原因として当初疑われたパワーステアリング故障は否定された(コントロール喪失後もテレメトリーによる操舵トルクおよびパワーステアリング圧が持続していることから)。現在ではわずかな路面の不整から車両が不安定となりコントロールを失ったと考えられているが、事故原因の確定的な結論には至っていない。

死因は「大破したマシンのサスペンション部品が、ヘルメットを貫通した」と結論付けられた[8]

死後

ファイル:AyrtonSennaMormbi.jpg
セナが眠るモルンビー墓地

ブラジル国内の反応

セナが事故死した1994年5月1日にはサンパウロにてサッカーサンパウロFCパルメイラスの試合が開催されていたが、開催者はこの試合開始直後に試合を止め、セナの死去をアナウンス、黙祷を行った。当日のレースのテレビ中継を担当していたブラジルのテレビ局は事故後、一日以上セナ関連の番組を放送し続け、事故を掲載した新聞、雑誌は即日完売、葬儀を放送したテレビ番組の視聴率は60%を超えた。またブラジルにとっては英雄の死であったため、国葬が行われた。

セナの亡骸がイタリアから母国ブラジルに搬送されるに際しては、ヴァリグ・ブラジル航空の定期便のマクドネル・ダグラス MD-11ファーストクラスの客席が用いられ、空からはブラジル空軍機が出迎えた。地上では100万人以上のブラジル国民が沿道に会して、その亡骸を迎えたといわれる。

ファイル:AyrtonSennaMormbiName.jpg
墓碑銘は「高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。(『新約聖書』ローマ信徒への手紙8章39節)」による

ブラジル政府はセナの死に対して国葬の礼をもってあたり、アラン・プロストゲルハルト・ベルガーミケーレ・アルボレートティエリー・ブーツェンエマーソン・フィッティパルディジャッキー・スチュワートデイモン・ヒルロン・デニスフランク・ウィリアムズらが式に参列して、サンパウロ市にあるモルンビー墓地に葬られた。また、Deutsche Presse-Agenturによると、ミハエル・シューマッハは葬儀には参列しなかった。墓碑銘の「NADA PODE ME SEPARAR DO AMOR DE DEUS(神の愛より我を分かつものなし)」は「高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである(ローマ人への手紙8:39)」に因む。

ブラジル政府は、セナの命日に当たる5月1日を交通安全の日と制定。サンパウロ州政府は、サンパウロ市内からグアルーリョス国際空港を経てリオデジャネイロ方面へ伸びる道路のひとつで、かつて「トラバリャドーレス」と呼ばれた州道70号線を、「アイルトン・セナ高速道路」 (Rodovia Ayrton Senna) に名称変更し、故人を記念した。その他、リオデジャネイロ市がネルソン・ピケ・サーキットにアクセスする道路の一つをセナの名に改称するなど、他のブラジル国内の偉人に並んで、セナの名を冠した道路やサーキットなどが各地で生まれ偲ばれている。

日本国内の反応

ホンダ
死亡当時、セナが3度のF1ワールドチャンピオンを獲得した際にエンジンを供給していたホンダ(本田技研工業株式会社)は、既にF1から撤退しており、セナとは何の正式な契約・関係もなかった。しかし、セナとの「お別れ」をする日本のファンのために、セナが1992年にドライブしていたマクラーレンMP4/7A・ホンダとヘルメット(ロータス時代)を青山の本社1階に展示した。
その際、1991年に死去していた創業者の本田宗一郎の「自動車メーカーの経営者が車の渋滞を起こすような社葬などしてはいけない」との生前からの言葉に合わせるように、[9]通常は一般に開放していない本社地下の駐車場を、車で訪れたファンに対して無料で開放するなど、最大限の配慮を持ってセナの死を悼んだ。記帳した人にはその後、ホンダからセナのポストカードが3枚入った封筒が郵送された。
フジテレビ
セナのクラッシュは、フジテレビではF1グランプリ中継の前番組である「スポーツWAVE」で報じられ、続いてF1グランプリ中継がイモラサーキットからの生中継で開始された。放送は、その後一旦決勝レースの録画放送になったが、それから約20数分後にセナの訃報が「ニュース速報」として字幕スーパーで伝えられてから、レースシーンの放映を中断。再び生中継に変わり、既にレースが終わって夕刻を迎えていたイモラサーキットから、このレースの実況担当の三宅正治と解説の今宮純、ピットリポートの川井一仁が、視聴者にセナの死を涙を堪えながら伝えた。[9]
その後は即席のセナ追悼放送に切り替わり、その場にフェラーリの後藤治が通りかかり、ホンダ時代のセナとの思い出を語るとともに、「苦しまずに逝ったことが救い」と沈痛な面持ちで答えていた。後日に深夜放送枠で、司会古舘伊知郎森脇基恭中嶋悟をゲストに迎え、前出の3人もイモラから衛星放送で参加する形で追悼放送が行われた。その後に、本放送時にほとんど放送されなかった決勝レースの全編が改めて放送された。これは民放の地上波でありながら、CF無しのノーカットでの放送だった。[9]
フジテレビ以外のテレビ局
セナの事故死はNHKをはじめとした各局でもニュースで速報で報じられた。またワイドショーでもセナ追悼の特集が組まれた。

その他

1994年の第4戦モナコGPでは、前戦で事故死したセナとラッツェンバーガーのために、レースに際してグリッドの最前列をあけ、PPのグリッドにセナの母国ブラジル国旗が、セカンドグリッドにはラッツェンバーガーの母国オーストリア国旗がペイントされた。

セナを偲んでニキ・ラウダは「去年、セナがドニントン(1993年第3戦ヨーロッパGP)で勝った時、すぐに彼に電話したんだ。私は『これまで見た中で、君の最高のレースだ。F1史上最高のレースかもしれない』と言ったんだ。セナは本当にマジックだよ。私が一番印象深いのは、彼のモチベーションだ。常に自分の能力の限界を求め続けた。そして過去に誰も成しえなかった技術と完璧さを持った、最高のドライバーだった。それを我々は失った。今後、彼のようなドライバーが出てくるかどうかは分からない」と語った[10]

特筆されるレース

名レース

1984年第6戦モナコGP
予選を13位で通過。大雨となった決勝レースでは、ファステストラップを更新しながら猛烈な勢いで追い上げ、この年チャンピオンとなるマクラーレンのニキ・ラウダを、雨の中でオーバーテイクするなどの活躍を見せた。首位のプロストとの差を縮めつつあったものの、大雨により31周終了時点でレース中断の赤旗が振られた。ラップタイム差だけを見ればプロストをオーバーテイクして初優勝の可能性もあったため、セナは新人にして僅か6戦目で初の表彰台を獲得したにもかかわらず、表彰台で笑顔は見られなかった。
1985年第2戦ポルトガルGP
予選で初のPPを獲得すると、大雨となった決勝レースでは一度も首位を譲ることなく独走。2位以下に1分以上の差(3位以下は周回遅れ)をつけ、デビュー16戦目にして初優勝を飾った。ファステストラップも記録する完全勝利で、「雨のセナ」の片鱗も見せた。
1986年第2戦スペインGP
予選でPPを獲得しスタートからトップを走行するが、後続に肉薄される厳しい展開となり、40周目にはマンセルの先行を許し差を広げられた。しかし、徐々にマンセルはタイヤトラブルによりペースダウン、再度肉薄した後、63周目に抜き返しトップに返り咲いた。その後、ピットインによりタイヤを交換したマンセルが猛追、ファイナルラップの最終コーナーでセナを抜きにかかるが、先行したのはコントロール・ラインを通過した後であった。2人の差は0.014秒で、当時2番目となる僅差だった。
1988年第15戦日本GP
優勝すれば初のタイトル獲得という状況で、予選でPPを獲得。しかし決勝ではスタートに失敗、エンジンをストールしかけ、大幅に順位を落とし1コーナーは14位で通過した。その後、オープニングラップで8位まで挽回、以後も次々にオーバーテイクを繰り返しながら、首位プロストを猛追。小雨がぱらつく天候にも助けられレース中盤には追いつき、27周目のシケイン出口でプロストのスリップストリームに入ると、次の1コーナーでオーバーテイク。そのまま首位でチェッカーフラッグを受け、初のドライバーズタイトルを獲得した。
1990年第1戦アメリカGP
新チームメイトのベルガーがPPを獲得する一方で、電気系トラブルなどもありセナは5番グリッドからのスタート。決勝では、デビュー9戦目のアレジが4番グリッドから好スタートを切り、1周目からトップを走行する展開となった。セナは、順位を上げながら徐々に差を詰めてゆき、中盤には背後まで迫った。34周目、セナはついにアレジを抜きトップに立つが、アレジも譲らず続くコーナーで抜き返した。翌35周目、セナは同じコーナーで再びトライし、オーバーテイク。そのまま背後に張り付き、2度・3度と仕掛けたアレジだが、今度は抜き返すまでには至らず。以後は差も開いてゆき、そのままセナが優勝、表彰台で2人は健闘を称え合った。
1991年第2戦ブラジルGP
母国でいまだ優勝の優勝がない状況の中、この年で8度目の挑戦を迎えた。予選ではPPを獲得、決勝でもスタートからトップを走るが、マンセルが肉薄し、序盤は2人のみが大きく抜け出す展開となる。その後、マンセルはタイヤ交換時のタイムロスで大きく遅れ、最後はギアボックストラブルでリタイヤ。代わって2位となったパトレーゼとは大差が付いており、母国初優勝が大きく近づいたように思えた。
しかしマンセルのリタイヤの少し前から、セナもギアボックスにトラブルを抱えていた。まず4速が入らなくなり、その後は立て続けに3速・5速が使えなくなった。ラストの数周では、ついに6速ギアしか使えない状態となったが、雨も落ち濡れ始めた路面を6速だけで走りきり、トップのままでチェッカーを受けた。シートベルトが体を締め付けるなどのトラブルもあり、レース終了後には車から降りられないほど疲労していた。
この際にウイニングラップ時のセナ本人の感動の嗚咽を、国際中継担当の地元のテレビ局が無線傍受し放送電波に乗せて全世界に配信した(当時はチーム無線は非公開が原則であった)。マクラーレンが傍受されにくいケンウッド製無線システムを前倒し導入したのは、この一件が原因である。
1991年第10戦ハンガリーGP
ウィリアムズ勢の猛追に苦戦し勝利から遠ざかっていた中、本田宗一郎が死去。直後の開催となったこのGPでは、セナを含めチーム全員が喪章をつけて挑んだ。予選では、超軽量カウルや予選用ガソリンの投入もあり5戦ぶりにPPを獲得すると、決勝でも1度もトップを譲らずに優勝。レース終了後、セナは久々の勝利を本田宗一郎に捧げた。
1992年第6戦モナコGP
リタイヤ続きなうえ、完走してもウィリアムズ勢にはまったく2台に付いて行けないレースが続く中、得意とするモナコGPを迎えた。しかし状況は変わらず、開幕から5戦連続ポール・トゥーウィンを記録していたマンセルがここでもPPを獲得、セナは予選中にクラッシュするなど精彩を欠き、3番グリッドに留まった。決勝レースでは、スタートでパトレーゼをかわして2位に浮上するが、マンセルのペースには付いて行けず。残り8周の時点では、28秒後方の単独2位を走行していた。しかしここでマンセルがリアタイヤに異常を感じて(実際はホイールのナットが緩んだのが原因)緊急ピットイン。タイヤ交換を終え、ピットアウトした時には、セナが首位に立っていた。逃げるセナだが、フレッシュタイヤを装着したマンセルの猛追は凄まじく、74周目には予選6位に匹敵するほどのファステストラップを叩き出した。
残り3周でついにテール・トゥー・ノーズの状態となり、マンセルは狭いコース幅を一杯に使い、あらゆるコーナーでインからアウトからオーバーテイクを狙うも、セナは僅かにレコードラインをはずしながら抑え込む。途中でブルーフラッグも提示されるほど(飽くまでも後ろから速いマシンが来ている事を伝える静止状態なので、譲る必要は無い)のペース差があったが、結局マンセルはセナを抜くことが出来ず、0.215秒差でセナがトップチェッカーを受けた。その直後にセナのマシンのエンジンから白煙が上がるほど、極限状態でのシーズン初勝利であった。
マンセルの6連勝を阻むと同時に、自身モナコGP4連勝を達成。通算では5勝となり、モナコマイスターと呼ばれたグラハム・ヒルの記録に並んだ。また、モナコGP50回目の記念レースでもあった。
1992年第10戦ドイツGP
モナコGPで勝利したものの、その後は3戦連続リタイア、このGPの予選も3位グリッドと、苦しい状況は変わっていなかった。正攻法では太刀打ち出来ないと踏んだセナは、タイヤ無交換作戦で決勝に挑み、14周目にはタイヤ交換を行ったマンセルの前に出る。マンセルはすぐに追いつき抜きにかかるが、セナがライン取りで抑え込むという、モナコGPを思い起こさせるバトルが演じられた。マンセルは攻めの走りの中で、19周目に第2シケインを直進し不通過となるが、そのまま加速してセナをパスした[11]が、直後の20周目に今度はパトレーゼがタイヤ交換を行い、2位のままでレースが進んだ。ファステストラップを更新しながら猛追するパトレーゼに対し、セナもペースを上げて逃げを図るが、残り4周の時点でついに2台はテール・トゥー・ノーズとなった。ペースでは明らかにパトレーゼが上だが、セナはここでもライン取りで抑え込み、再三の仕掛けに対しても先行を許さなかった。そのままの順位で迎えた最終周、高速区間の最後であるアジップ・カーブでパトレーゼが最後の勝負に出るが、セナはここでも抑えきり、一方のパトレーゼはスピンを喫しストップした(8位完走扱い)。2位を守り抜いたセナは、そのままトップのマンセルから4秒の差でチェッカーを受けた。
1993年第2戦ブラジルGP
PPのプロストに1.8秒以上の大差をつけられ、予選3位。スタート直後に予選2位のヒルのインを突いて2番手に浮上するも抜き返され、さらに黄旗無視でピットでの10秒ペナルティーストップを命じられ、4位に後退。誰もがセナの勝機が完全に潰えたと見た中、曇り気味だったサーキット周辺に雨が降り出す。これを見たセナは真っ先にレインタイヤへの交換を決断。暫くして雨は一気に激しくなり、クラッシュするドライバーが続出、チームとの無線連絡が混乱状態にあってピットインが遅れたプロストもその餌食となる。プロストがリタイアする直前にセーフティカーが出動、セナはプロストに代わって首位に出たヒルとの差を一気に縮める。
レース再開後、雨が上がったのを見てすぐさまスリックタイヤに交換、1周遅れで交換して首位のまま復帰したヒルのタイヤが温まり切っていないのを見逃さずに一気にオーバテイク、このまま首位の座を明け渡す事なくチェッカーフラッグを受ける。下馬評では限りなく困難とされた奇跡的な勝利に興奮した地元の観衆が、コースに乱入してセナのマシンを取り囲んだことでウィニングランを続行出来なくなり、セーフティーカーに乗り換えて続けることになった。
1993年第3戦ヨーロッパGP
PPのプロストに1.6秒以上の大差をつけられ、予選4位。決勝はウェットコンディションでスタート。セナはスタートで出遅れ、1コーナー通過時には5位に後退するも、ここから一気にペースを上げる。次の2コーナーでシューマッハをパスすると、3コーナーではアウトに大きくはらみながら加速し、4コーナー手前でベンドリンガーをパス。そのままの勢いでヒルの後ろに付くと、7コーナーで一気にヒルのインを突きオーバーテイク。セナの勢いは止まらず、10コーナーのメルボルンヘアピン進入でプロストのインに並ぶとそのまま抜き去り、オープニングラップだけで4台を抜き首位に立った。その後、タイヤ交換のトラブルで一時後退する場面もあったが、最終的に2位以下に大差を付けてシーズン2勝目を挙げ、「雨のセナ」をあらためて印象付けた。
追い抜かれたドライバーの1人であるカール・ベンドリンガーは「これは下手に付いて行かないほうがいいと直感した」とその瞬間の心情を語っている。「F1史上最も記憶に残るレース」「オープニングラップですべてのドライバーの戦意を喪失させた」などなど、歴代のチャンピオンドライバーや当時のドライバーたちも、称賛する数々の発言を残している。通称「雨のドニントン(・パーク)」。
1993年第6戦モナコGP
予選はプロスト、シューマッハに続く3番手。スタートでトップ3に順位の変動はなかったものの、プロストにフライングの裁定が下り、10秒間のストップ&ゴーペナルティーが科せられる。12周終了時点でプロストはペナルティーを受けるためにピットイン。10秒間の停止の後スタートを切るがクラッチが繋がらずにエンジンストール。大きくタイムをロスして周回遅れとなり完全に優勝争いから脱落する。
これで2位に上がったセナだが、プロストに代わり首位に立ったシューマッハとも、20秒近くの差があった。その差を少しずつ詰めるものの、追いつくほどには至らない中、33周目にシューマッハのマシンがアクティブサスペンションのオイル漏れにより、ローズヘアピンで出火してリタイア。これで首位に立つと、そのままトップでチェッカーを受けモナコGP5連勝、通算6勝目を飾りグラハム・ヒルの記録を塗り替えた。勝利数だけでなく、1992年とこの年に続けて奇跡的な勝利をあげたことが「モナコ・マイスター」としての印象を強くしている。
1993年第15戦日本GP
前戦ポルトガルGPでタイトル獲得、そして引退発表を行ったプロストに対し、セナのモチベーションは残す2戦のみとなったプロストとの直接対決を制する事にあった。予選は初戦以来となる僅差での2位。決勝当日は苦手としていた鈴鹿でのスタートダッシュを決める事を重視し、フリー走行でそれを想定したライン取りで走り込んだ。その甲斐あり、スタートではPPのプロストを第1コーナーで制する。セナは目まぐるしく変わるコンディションにも動じる事なく首位を堅持してチェッカーフラッグを受ける。結果的にこれがセナ最後の鈴鹿での出走ならびに勝利となった。
なお、このレースでデビューしたエディー・アーバインを周回遅れにする際に一悶着あった事から、レース後、セナがアーバインの元に詰め寄り、殴り合い寸前となる(関係者の制止で未遂になった)一幕もあった。
1993年第16戦オーストラリアGP
プロストとの最後の直接対決となったこのレースで、この年初となるPPを獲得。決勝レースでも、セナはタイヤ交換時以外は首位を明け渡す事無く完勝。2年ぶりのポール・トゥー・ウィンを記録し、結果的にこれがセナ生前最後の勝利ともなった。ロン・デニスの仲介で表彰台で長年の確執を洗い流すかのように2位で現役最後のチェッカーを受けたプロストを労う光景は、多くの者に「1つの時代の終焉」を見せた。

転換とされるもしくは物議を醸したレース

1985年第4戦モナコGP
予選で速さを見せた一方、自身のアタック後もコース上に留まったり、レース用タイヤを履き再度出ていくなどの行動を取る。結果的に自身3度目のPPを獲得するも、他者のアタックを妨害したとして、ニキ・ラウダやミケーレ・アルボレートから激しく非難を受けた。決勝ではエンジントラブルが発生し、序盤のうちにリタイヤとなった。
1987年第3戦ベルギーGP
予選では3位グリッドを獲得し、決勝では赤旗中断を経た後、好スタートでトップに立つが、その周のうちに2位のマンセルと絡みリタイヤとなった。一旦は復帰したマンセルも、結局は接触の際のダメージによりリタイヤとなった。
マンセルはリタイヤ後、ロータスのピットに殴り込みをかけ乱闘となるが、セナはメカニックにマンセルを抑えさせている間に殴打し、返り討ちにした。ピットにマンセルが現れた際、セナは高級な腕時計を付けた状態であったが、乱闘になりそうなことを察知、時計が壊れないよう外してから迎え撃ったという。
1988年第3戦モナコGP
予選で2位のチームメイトのプロストに1.427秒、3位フェラーリのベルガーに2.687秒の大差を付けPPを獲得。この予選についてセナは「意識的な理解を大きく越えていると実感したので突然怖くなり、ゆっくりピットに戻って、それ以上は走らなかった」と語っている[12]
決勝レースでも圧倒的な速さを見せトップを独走、プロストは終盤に2位に浮上するも、1分近い差が開いていた。直後より、プロストはセナを上回るペースで少しずつ差を詰めると、セナはこれに応酬し、互いにファステストラップを出し合う状況が続いた。チームは無用の争いを避けるべく双方にペースダウンを指示したが、これでセナは集中力が切れるかたちとなり、67周目にトンネル手前のポルティエコーナーでガードレールにクラッシュしリタイヤとなった。残りの周回数を考えれば、追いつかれる可能性はほぼ無い状況にもかかわらず、プロストの挑発に乗った末の不用意なミスであった。以降のセナのレーススタイルに大きく影響したレースと言われている。
1988年第13戦ポルトガルGP
予選ではプロストがPPを獲得し、セナは2番グリッド。決勝ではスタートで多重事故が発生、赤旗中断を経て再スタートとなった。再スタートでは、プロストがセナをアウト側に牽制、グリーンにはみ出しそうになったセナだが、プロストを抜き1コーナーでトップに立った。2周目のメインストレートで、プロストはセナに仕掛けるが、今度はセナがプロストをイン側の壁に大きく幅寄せし、接触寸前となった。結局、プロストはセナを抜きそのまま優勝、セナはセッティングの失敗もあり、ずるずると順位を下げ最終的に6位で終わった。
レース後、プロストはセナを批判、これまで表面上は友好関係にあった2人に、確執が生まれるきっかけとなった。幅寄せは双方が行ったが、プロストはスピードの乗り切らないスタート直後であるのに対し、セナは完全にレーシングスピードで走行する2周目であった為、後年にはセナの行為だけが取り上げられるケースが多い。
1989年第2戦サンマリノGP
予選ではセナがPP、プロストが2番グリッドを獲得し、マクラーレン勢がフロントローを独占。レース前に2人の間では、序盤に無用な争いで共倒れになることを避ける為、「スタートで先に第1コーナーに進入したほうが、レースの主導権を握る権利を得る」という紳士協定が取り交わされていた。そんな中決勝が開始となり、一旦はセナが好スタートを切ったが、ベルガーの事故により中断となる。再スタートではプロストが好スタートを切り、第1コーナー(タンブレロ)をトップで通過したが、セナは続く第2コーナー(トサ・コーナー)でプロストのインを突き、あっさりと抜いてしまう。
レースは、そのままセナが優勝、プロストが2位となりマクラーレンの1-2フィニッシュで終わったが、レース後にプロストは「協定を反故にした」としてセナを批判。ロン・デニスも交えた3名で話し合いも行われたが、これ以後2人の確執は、外部にも知られる決定的なものとなった。
1989年第15戦日本GP
タイトルの可能性は残るものの、セナがタイトルを獲得するためには、最低でもこのレース及び最終戦での優勝が必須条件。ノーポイントであれば、ここでプロストのタイトル獲得が決まる状況の中、予選で2位プロストに1.730秒の大差をつけてPPを獲得。しかし決勝では、スタートからプロストに先行され、プロストが決勝レースでのセッティングに重点を置いていたこともあり、抜くことが出来ないまま終盤を迎えた。
数周に渡り同様の狙いを見せた後、47周目のシケインでついにセナがプロストのインに飛び込んだ結果、セナに対して意図的に切り込んだプロストと激突[13]。2台のマシンは並んで停止。プロストは即座にマシンを降りたが、逆転王座に賭けるセナはマーシャルに押し掛けを指示、シケインをショートカットする形でレースに復帰した。ノーズ交換のためにピットインをする間にナニーニが先行するが、セナはこれをパスし、ひとまずトップでチェッカーを受けた。
しかしレース終了後、シケインのショートカット後に押し掛けに変更されるという不可解な裁定ではあったが、失格処分を受ける。この結果プロストのタイトル獲得が決定した。セナは控訴していたが後に棄却された。
1990年第10戦ハンガリーGP
予選ではタイムが伸びずに4番グリッド、決勝でもスタートに失敗し6位まで転落する。更にはパンクにより想定外のタイヤ交換を余儀なくされ、22周目にピットアウトした際には、11位まで順位を下げていた。ここから追い上げを見せ、最終的には優勝したブーツェンと0.288秒差の2位でフィニッシュした。しかし追い上げの過程の中で、64周目のシケインで2位のナニーニを弾き飛ばし、リタイヤに追い込んでいた。レース後、ナニーニは批判こそしなかったものの「今日のことは忘れない」と語った。
このGPでは、チームメイトのベルガーも、同じシケインでマンセルを弾き飛ばす場面があり、マクラーレン勢の行為が揃って物議を醸すこととなった。
1990年第15戦日本GP
プロストがノーポイントであれば、セナのタイトル獲得が決まるという、前年とは逆の立場でこのレースを迎えた。セナは予選でPPを獲得しプロストが2位と、同じドライバーが同じ順で、、3年連続フロントローに並んだ。過去2年、スタートを失敗しているセナは、このレースでもスタートで出遅れプロストが先行、1コーナー進入時にはプロストのフェラーリがアウト、セナがインの状態だった。プロストがレコードラインを守りインに切れ込む中、セナもインを譲らず2台のマシンは接触してグラベルに弾き出され、双方共にリタイア。レース開始から9秒で、セナのタイトル獲得が決定した。
セナの行為は、当時は故意か否かで判断が分かれたが、翌年自ら故意であったことを告白。前年のプロストとの接触を、故意によるものと判断したセナの報復行為に、非難が浴びせられた。
1991年第9戦ドイツGP
予選では2位グリッドを獲得するも、スタートで順位を落としたこともあり、レースの大半をプロストとの4位争いに費やす。終始セナが先行し、プロストが肉薄する展開であったが、プロストは38周目に第2シケインでセナに仕掛けた。セナはそのまま譲らず、プロストは押し出されるかたちで直進、パイロンを倒しながらエスケープゾーンに入り、そのままマシンを止めた。セナはその後も4位を走るが、最終周にガス欠でストップし、ノーポイントに終わった。
プロストはセナの行為を危険だと激しく非難したが、続くハンガリーGPで2人の話し合いが行われ、一時的に和解することとなった。
1991年第15戦日本GP
予選から、僚友のゲルハルト・ベルガーと共に当時のレコードラップを更新しあう走りを見せ、2番手グリッドを獲得。決勝前にベルガーと「最初に1コーナーに入った者が優勝する」という紳士協定を密かに結びレースに挑む。決勝はベルガーが先行し、セナは、優勝しかチャンピオンへの道がない3番手のマンセルを抑え、ベルガーを逃がす作戦に出る。
しかし、マンセルが10周目の2コーナーでコースアウトしてリタイアした瞬間にセナのチャンピオンが確定したことで、作戦を変更しベルガーを追撃する。ベルガーは序盤でエキゾーストパイプが破損、エンジン出力が低下したことでラップタイムが落ち、追撃してきたセナにあっさり抜かれてしまう。紳士協定違反に当惑するベルガーを尻目に、セナは磐石の走りでトップを快走。このまま終わると誰もが思った最終ラップの最終コーナー、セナはベルガーに合図を送りながらイン側を明け渡し、ベルガーがセナを抜き優勝した。
この行為は、チャンピオン獲得に協力してくれたベルガーへのセナからのプレゼント、と好意的な行動に評価する声と、セナが自身の速さを充分見せつけて真の勝者を印象付けた後で紳士協定に基づき仕方なく優勝を譲った、とする恣意的な行動に評価する声に二分され、レース後、ことのいきさつについて当事者とロン・デニスの3人が激論を交わし、特にベルガーはその露骨な譲り方に怒りを抱いていたことが明らかになっている。[14][15]後にベルガーはフジテレビのインタビューに対して、「スローダウンしたからエンジンがトラブりやがったな、ざまあみろ、と思って前に出たら違った。もし意図がわかっていたら抜かなかった」との旨を語っている。
1992年第3戦ブラジルGP
ニューマシン・MP4/7投入も焼け石に水で、予選ではウィリアムズ勢に大きく後れを取り3位。決勝でも全くペースが上がらず、ウィリアムズ勢には大きく引き離されるばかりか、後方には4位のシューマッハ以下が数珠繋ぎに続く状態であった。シューマッハが何度も仕掛けようと試みる中、セナは加減速を繰り返すという手段で抑え込んだ。しかし17周目、1コーナーでついにシューマッハの先行を許すと、アレジやブランドルにも次々と抜かれた末、屈辱の中電気系トラブルによりリタイアとなった。
セナを憧れとしていたシューマッハだが、この件で「チャンピオンの器ではない」と手厳しく批判、以後両者の間で何度もトラブルが起こる発端となった。
1992年第7戦カナダGP
前戦モナコGPでの優勝の勢いもあり、予選でシーズン初(結果的に唯一)のPPを獲得し、決勝でもスタートからトップを走るが、ペースがあがらず、セナを先頭に5秒以内に8台が犇めき合う状態となった。15周目、2位のマンセルが最終コーナーで仕掛けるが、曲がり切れずにクラッシュし、そのままリタイヤとなった。一方のセナは、マンセルのリタイヤ後もトップを守っていたが、ギアボックストラブルにより中盤にリタイヤ、連勝はならなかった。
マンセルは自身のクラッシュをセナの危険走行が原因と判断、リタイヤ後も1周後に戻ってきたセナに拳を上げ抗議するまで、マシンから降りようとしなかった。それでも怒りは収まらず、マクラーレンピットへ向かい、今度はロン・デニスに抗議を行った。レーシングスーツから着替えた後は、ウィリアムズのメカニックを引き連れてコントロール・タワーへ向かい、「セナの危険な行為ではじき出された」と主張、前戦モナコGPで健闘を称え合ったのとは対照的な場面となった。一方のセナはレース後に、クラッシュの原因は「曲がり切れないようなスピードでコーナーに入っていった」マンセル自身にあると冷静に主張した。
1992年第16戦オーストラリアGP
セナはホンダエンジンと戦う最後のレース、マンセルはF1からの引退レースと、互いに想いを抱える状況の中、予選ではマンセルがシーズン14回目のPPを獲得、セナも2番グリッドに入りフロントローを獲得した。決勝ではセナが1周目に一旦トップに立つが、すぐにマンセルに抜き返され、そのまま膠着状態でレースが進んだ。このシーズンで初めて、マンセルを追い詰める展開となったセナだが、19周目に両者は接触しそのままリタイヤとなった。
接触直後、セナはマンセルの元へ向かい握手の為に手を差し出したが、マンセルは拒否。更にはコントロールタワーへ向かい「セナがオーバースピードで突っ込んだ」と主張するも、認められなかった。一方、セナは「マンセルが突然減速し避けきれなかった」と語り、両者共に後味の悪い形で節目のレースを終えた。
1993年開幕戦南アフリカGP
予選2位からスタートを決め、トップでレースを進めるが、序盤から油圧系トラブルに見舞われてペースが上がらず、後方にはプロストとシューマッハが肉薄する。22周目のS字でプロストに抜かれると、続けざまにシューマッハにもかわされ、セナは一気に3位まで転落する。しかしその周のうちにシューマッハと同じタイミングでタイヤ交換に入り、メカニックの迅速な作業により、再度シューマッハには先行した。その後もシューマッハに攻め立てられるが、40周目のコンチネンタル・カーブで両者は軽く接触、セナが何事もなく走行を続けたのに対し、シューマッハはスピンを喫しリタイアとなった。
シューマッハは、接触の原因をセナの過度な締め付けによるものとと捉え激怒。しかしFIAの裁定は「不可抗力」とされ、セナには一切のペナルティが下ることは無く、そのまま2位でフィニッシュした。

ドライビングスタイル・技術

予選
ファイル:Senna Imola89 Incar.jpeg
1988年サンマリノGP

1986年以前のセナは、予選では決勝レースに備えたセッティングには重点を置かず予選向きのセッティングを作り上げ、予選セッションに集中し、グリッド上位を狙って注目を集めていた。トールマンからロータス・ルノーで出場した1986年まではエンジンの信頼性が著しく悪く、強豪チームにアピールするため、また上位が崩れたときに確実に入賞するためこのような予選スタイルとなったとされる。

しかし1987年にロータスにホンダエンジンが供給されることになり、その信頼性が充分であったため、前年までの決勝レースを無視するほどの予選アタックは影をひそめた。優勝した1987年第4戦モナコGP予選では、残り時間があるにもかかわらず「ここは2位でいい」と言いタイムアタックを中止。予選中から決勝レース用セッティングを始めるようになり、スタイルの変化が現れている。

しかし以後も予選では速さを見せており、1988年と1989年には、2年連続して16戦中13回のPPを記録し、これはそれまでの9回の記録を大幅に更新する、当時の年間最多獲得記録であった。また、1988年第14戦スペインGPから1989年第5戦アメリカGPにかけて、8戦連続でPPを獲得しており、これを破ったドライバーは未だいない。またPP65回は、2006年にシューマッハが破るまで最多記録だった。獲得率は40.1%で歴代4位の記録である。これはレースの年間開催数が増え、個人の参戦数が増え始めた1970年代以降のドライバーの中では群を抜いており、最多記録を更新したシューマッハでさえ25.3%に留まっている。

予選でのセナは、最後の最後に最速ラップを出すケースが多かった。最後の最後にポールを奪うことから、メカニックなどピットクルーからは、セナが「ポケットの中のコンマ1秒を出した」とジョーク交じりに言われていた。

決勝レースではPPから首位を保持し、レース序盤で2位以下に大差をつけ、その差を維持するというスタイルで勝利を掴むことが多かった。このようなスタイルは、PPからスタートするドライバーの戦略として有効で、序盤で敵の戦意を削ぐことを意図しており、レース後半の展開を楽にできる(セナ以前に最多PPを保持していたジム・クラークもこのスタイルであった)。セナの現役時代の大半は再給油が禁止されており、ファステストラップはマシンが軽くなるレース終盤に記録されることが多かった。この時代背景と、先述の戦略スタイルから、ファステストラップ獲得数19回(2011年シーズン終了時・歴代11位タイ)は、勝利数41回(歴代3位)、PP数65回(歴代2位)と比較すると際立って少ない。

セナ足

セナのテクニックでよく知られるものに、コーナーでアクセルを小刻みに煽るドライビングがある。日本では『セナ足』と言われるそのテクニックは、進入時の安定性を向上させるとともに、コーナー脱出時の早いエンジンの吹け上がりをもたらしていた。小刻みで独特な回転数コントロールは、元々ターボのタービンの回転を高く保ち、いわゆるターボラグの発生を抑えるためとされる。しかし、セナ足はカート時代に編み出されたテクニックであり、それ以降の下位フォーミュラ、F1でのターボ、NA関係なく見られた。それらのことから、上記の説には異論もある。セナは、「セナ足」をターボに限らず、コーナーの立ち上がりで可能な限り早く加速するための技術として完成させた。

セナ以前にもケケ・ロズベルグが「ケケ足」として類似したテクニックを使っていたが、ロズベルグのそれは、まさにアクセルを「小刻みに煽る」のであり、セナのそれは一秒の間に6回ともいうアクセルコントロールによる開閉の繰り返しであり、煽るというより痙攣に近い頻度のものであることが、テレメトリーデータから分かる。それらから、ロズベルグなどの「ケケ足」とは全く異なるテクニックであるとされる[16]。ホンダのエンジニアがエンジンの動弁系にドライブ・バイ・ワイヤ[注釈 10]を採用する際、信号のノイズを除去するためのフィルターを設けていた。しかし、セナ足によるアクセルワークが、ノイズとして識別されるほど微細で敏速であったため、アクセルワーク自体が無視されてしまうという、セナだけにしかあり得ないトラブルが発生していた。この問題の解決には四苦八苦したとのこと。

セナ足については、その理論的・実践的根拠を求めて日本国内のF3000級(当時)のプロドライバーたちが検証したことがあり、その結論は「分からない」。中谷明彦は「常人の理解を超えた領域でのテクニックだろう」と語っている。これらから、限界点の抽出、荷重のコントロール、人間トラクションコントロールなど、一般に思いつく単純な理屈だけでは説明が付かないとも言われる。チームメイトだったプロスト、ベルガーもセナ足を試みたが、いずれも再現は不可能との結論に達している[17]

このテクニックにより、多少燃費は悪くなるものの、その後のストレートのスピードで大きく差がつく。1988年には、同僚のプロストにテレメトリーのデータでは常に100 - 300回転ほどの差を付けており、プロストが「ホンダはセナにいいエンジンを与えている」と疑っていた。後藤治によると、ホンダの調査ではプロストはシフトアップをセナより早いタイミングで行うため、高回転域を使い切れていないことが原因としている[18]。1989年第12戦イタリアGP・モンツァ・サーキットでは、予選時に高速レズモ・コーナーにおいて、ホンダV10エンジンをプロストより1000回転も高い領域で使用していたという。

後にRacing Onでセナ没後10年企画が行われた際、「セナ足による細かいスライドを打ち消しつつ旋回するため、車をアンダー気味にセッティングしておくことで、ニュートラルに近い挙動を生み出していたのではないか」と解説されていた。

日本のサックス奏者本田雅人がセナを追悼するために1994年に制作(発表は1998年)した楽曲「Condolence」にはセナ足を連想させるフレーズが存在している。

「レインマスター」「雨のセナ」と呼ばれるなど、雨のレースを非常に得意としていた。しかし当初から得意だったわけではなく、「カートを始めたばかりの頃、ウェットレースで他のドライバーたちからあらゆる箇所で簡単に抜かれ、その悔しさからの鍛錬による」と本人が語っている。セナは、上記の出来事の後、サーキットに練習に行ってはコース上に水をまいて水浸しにし、ウェットで速く走れる術を研究したという。

得意とすることとは裏腹に、本人はあまり雨のレースが好きではないことを告白している。危険が増すコンディションを嫌うことはレーシングドライバーとしては普通の反応であり、雨のレースが得意なことから「雨のナカジマ」と呼ばれた中嶋悟も同様である。

サーキット別
ファイル:Ayrton Senna 1991 USA 3.jpg
得意とした市街地コース

雨と同時に、ストリート(市街地)コースを得意とすることでも知られ、F1での全41勝中18勝をストリートコースで挙げた[注釈 11]。走行した6ストリートコース[注釈 12]のうち、デビュー年のみの開催だったダラスは未勝利に終わったが、他の5コースではいずれも2勝以上を記録している。モンテカルロでは5連勝を含む6勝(1987, 1989 - 1993年)、スパ(2/3が公道)では4連勝を含む5勝(1985, 1988 - 1991年)、デトロイトでは3連勝(1986 - 1988年)をマークしている。特に1991年シーズンは、ストリートコースで開催された4GP(フェニックス、モンテカルロ、スパ、アデレード)の勝者がいずれもセナであった。

パーマネントコースにおいても、埃が多く滑りやすいなど、ドライバーの技術を問われる悪条件を得意とした。ハンガロリンクでは、3勝(1988, 1990, 1991年)・2位4回を記録している。F1唯一の予選落ちかつ最期の地という負の面のあるイモラも、3勝(1988, 1989, 1991年)・8PPとキャリアを通しては得意コースとなり、特にPPの獲得回数は自身最多となる。

逆に鬼門とされていたのはモンツァエストリル、地元ブラジルGPの舞台となったジャカレパグアインテルラゴスなどである。モンツァでは最終的に2勝を挙げたものの、1987年から1989年まで3年連続目前で勝利を逃し、1990年の初勝利までに6年を要した。初のポールポジションを獲得したエストリルでは一勝しか挙げられなかった。ジャカレパグアは6年間で未勝利となり、表彰台すら1986年の2位1度のみとなった。インテルラゴスも5年間で2勝を挙げたものの、1990年の中嶋悟との接触、1994年のシューマッハ追走中のスピンなどが発生している。

また、ライバル・プロストの母国であるフランスGPにおいては、10年間[注釈 13]でついに1勝も挙げることは出来なかった(最高位は1988年の2位1回)。プロストは地元GPにおいても、セナの母国ブラジルGPにおいても高い勝利率を記録しており[注釈 14]、この面では対照的な結果が残ることとなった。

危険な走行

その速さや技術の高さは評価されている一方で、危険な走行に対する批判もある。3度の世界チャンピオンで自他共に認める良識派だったジャッキー・スチュワートはその点を憂慮し、セナへのインタビューで苦言を呈したことがある。これに対しセナは「(ジャッキーに対し)あなたのような経験豊かなチャンピオンドライバーの発言内容として驚きだ」「我々F1ドライバーは2位や3位になるためにレースをしているのではない」「優勝をするために全力でレースを闘っている」「レーシングドライバーならば、僅かな隙を突くべきだ」「僕には僕の思ったことしかできない」と反論した。同じく3度の世界チャンピオンであるジャック・ブラバムは、1990年日本GPの1コーナーでプロストと接触した件について、自分たちの時代には集団の先頭であのような事故は起きなかったと述べ、マシンの安全性向上によってドライバーのモラルが低下したと嘆いた[19]。後述するトップ・ギアのセナ特集でマーティン・ブランドルは「セナは道を譲るか、リタイヤするかの二択を迫ってくるんだ」と語っている。

人間関係

セナは神経質で内向的な性格と言われていた。ただ、マクラーレンでコンビを組んだゲルハルト・ベルガー、ウィリアムズでチームメイトだったデイモン・ヒル[20]、トレーニング・ジムで知り合ったティエリー・ブーツェン、ブラジルの公用語であるポルトガル語を話せるペドロ・ラミー、同胞で後輩のマウリシオ・グージェルミンルーベンス・バリチェロらとは良好な関係を築いていた。バリチェロが94年のイモラにおいて事故を起こした際には、その入院先に家族よりも先に訪れ、意識を取り戻すまで付き添っていた。バリチェロは目覚めた時にセナが傍らに居て驚いたというエピソードを後に語っている。

ロータス時代チームメイトだった中嶋悟は、「彼は、レースの闘い方やコースのこと、(マシン)セッティングのこと、そして、政治的なことまで全てをつつみ隠さずアドバイスしてくれた」「彼ほど性格が真面目なドライバーを見たことがない」と語っており、またF1で心から話が出来たチームメイトはセナだけだったと語っている。

2度の選手権王者となった1990年頃には、若手ドライバーへのアドバイスをしたり、レース中に無線で冗談まで言うようになっていた。1993年日本GPではセナが周回遅れにしようとしていたエディ・アーバインがセナに進路を譲らなかった一件で、レース後にアーバインに殴りかかる事件も起こった。アーバインは殴られたと公言しているが、これは1987年第3戦ベルギーGPでマンセルと殴りあったのとは違い、周囲の制止で思いとどまっている(詳細はエディ・アーバインを参照)。この一件では6か月の執行猶予付きで2戦出場停止処分を受けた[21]

ドライバーではないが、セナの現役時代にFIA会長を務めていたジャン=マリー・バレストルは、同じフランス人のプロストに露骨に肩入れした一方で、89年鈴鹿のシケインでの事件による失格裁定や、1990年のPPの位置を巡る争いなど、セナとは犬猿の仲で知られた。これらの構図は、慢性的にF1界を取り巻いてきた欧州封建の側面と対峙するかのようなセナの姿勢を印象付け、特に欧州圏外での熱狂的なファン獲得に繋がった要因とも言われている。

ライバル関係の一例

ネルソン・ピケ
3度のF1ワールドチャンピオンに輝いたネルソン・ピケとは、母国の先輩・後輩でありながら犬猿の仲だったことが知られ、生涯友好的な関係ではなかった。ピケからの発言として、「奴の乗ったマシンに乗るときは念入りに消毒する必要がある」「サンパウロのタクシードライバー」「女に興味のないラジコン狂」など、マスメディアによって伝えられた悪口も数多い。しかし、1992年にピケがインディ500予選時に両足複雑骨折の重傷を負った際には、見舞い電報を送っており、ピケ本人は「読んで涙が流れた」と語っている。ピケはセナの葬儀に出席していないが、セナ死去時の追悼コメントでは、「暫くは出てこない存在」などセナを評価する言葉を残している。
ナイジェル・マンセル
ファイル:Mansell and Senna at Silverstone ultra cropped.jpg
1991年イギリスGPでマンセルのマシンに乗るセナ
マンセルとは、殴り合いの喧嘩なども含めていざこざが多数あるものの、遺恨を残すまでには至らなかった。1991年にセナがチャンピオンを獲得した際には、タイトル争いの相手であったマンセルは、ピットで迎え祝福。逆に1992年にマンセルが初タイトルを獲得した際には、セナがピットまで赴き祝福の言葉を述べている。また、1992年のモナコGPではお互いを讃えあうなど、よきライバル関係を築いていた。セナが他界した後、日本のテレビ番組に出演した際にも「お互いに凄い奴だと認め合っていた」と、その関係について語っている。当時のF1の救急医療班の代表であり、セナとは家族ぐるみの交流があったシド・ワトキンスも、マンセルとセナは友好的な関係だった、と語っている[20]
アラン・プロスト
ファイル:Senna Prost and Boutsen Montreal 1988.jpg
1988年カナダGPにて優勝したセナ(中央)と2位のプロスト(左)
プロストとは、前述のように様々な因縁があった。しかし、後述のプロストのコメントにもあるとおり、プロストがF1を休養していた1992年には2人は個人的に連絡を取り合っていたという。今宮純と川井一仁もその共著の中で「2人はカメラが回っていないところでは、話もよくしている」と記述している。また、後にプロスト自身はセナとの関係について「問題を抱えていた時期もあったことは確かだが、マスコミによって多くの人物にライバル以上の敵対関係として捉えられることとなった」と語っている。2人が険悪だったとされる1989年でも、ピケとマンセルの様に情報を交換しないということはなく、ミーティングなどではプロフェッショナルな関係を保っていたという。1994年のサンマリノGPの最中である4月29日、フリー走行中のセナは地元のテレビ局による中継の解説を務めていたプロストに対し、無線で「親愛なるアラン元気かい? 君がいなくなって淋しいよ」と伝えている。セナの事故死はその2日後だった。これらのことから、2人の関係が悪かったと一概には言えない。プロストはセナの死後、セナのファンクラブのフランス支部名誉会長も務めている。
また、フジテレビ主催のセナ追悼イベントのインタビューの中では次のように語っている。
 事故から3か月たった今でも、ほとんど毎日セナのことを考えています。彼がいなくなったことで、僕のF1での大切な思い出が消えてしまいました。セナはレースでやる気を起こすためにはライバルが必要だという事に気付きました。セナには僕が必要だったのです。“僕”を倒すために彼は燃えたのです。でも、我々の間にはお互い尊敬の気持ちがありました。一年間レースをやめていた時でも、セナとはよく電話で話をしました。セナは、僕がいないとやる気が起きないと言っていました。「今年のセナはもうレースへの情熱を持っていない」と感じました。

 彼は、いつまでも挑戦者でいたかった。しかし、守る立場に立たされてしまったのです。若いレーサーを相手にトップの座を守らなければならない……それは非常に難しいことだったでしょう。
 セナが僕を一番魅了させたのは ”レースで100%集中していたこと" 。簡単に100%と言うけれど、実際に100%集中するのはとんでもないことです。僕には家庭もあるし、休暇もある。ゴルフや自転車、スキーにも夢中になります。ですから、僕の場合、95%……いや98%くらいレースに捧げていると思っています。しかし、セナの場合、大切なものはレースだけなのです。また僕の乗るマシンに何らかのトラブルが生じた時、僕ならすぐにピットに入ると思います。でも、セナは違いました。彼は本能で走ろうとするのです。今となっては、セナと共に走ったこと、それが僕にとって一番大切な思い出です。

— 第1部 アイルトン・セナ Forever 内 プロストへのインタビューVTRより
ミハエル・シューマッハ
デビュー当時のシューマッハはベテラン相手に物怖じせず、セナとの間に何度かトラブルが生じた。1992年第3戦ブラジルGPではセナに対して、シューマッハが「チャンピオンのする行為ではない」と批判。第8戦フランスGPでは、スタート直後に追突してきたシューマッハを、再スタート前のグリッド上でセナが厳しく諭す一幕があった。両者はその後ドイツホッケンハイムリンクにおいて、テスト走行中のトラブルで乱闘寸前になった。また、1993年開幕戦南アフリカGPではセナがコーナーでインをついたシューマッハにマシンを被せて妨害しスピンさせる行為もあった[22]。しかし1994年には互いに認め合い、安全面について話し合うこともあった。
サンマリノGPの悲劇を眼前で目撃したシューマッハは、レース後モーターホームに閉じこもり、婚約者のコリーナと泣き続けたと後に語っている。2000年イタリアGPではセナに並ぶ通算41勝目を挙げた際、表彰台後の記者会見で「勝ち星(41勝)がセナと並びましたね。今日の勝利はあなたにとって大きな意味を持つものですか」と尋ねられると「そうだね。この勝利は僕にとってすごく大きな意味を持つものなんだ。ごめん…」と語った後、突然号泣して口を閉ざした。その後再び同じ質問が出されると「そんなの言わなくたってわかるだろ」と答えた[23]

ホンダとの関係

1987年、ホンダがロータスにエンジンを供給し、セナとホンダとの蜜月関係が始まる。これは、1988年にセナがマクラーレンに移籍した後も続き、結局1992年まで6年間ホンダエンジンをドライブし続けることになる。本田宗一郎と会った際に「お前のために最高のエンジンを作ってやるよ」と言われ、「本田さんは日本での父」と感涙した。

また、1987年までホンダF1総監督だった桜井淑敏とは、桜井がホンダを退社した後もセナが何かと相談を持ちかけるほどの深い友人関係にあった。

開幕戦ブラジルGPでは、エンジンに異常を感じてリタイアしたが、実際にはエンジンは壊れてはいなかった。しかし、ホンダのエンジニアがエンジンを分解してみたところ、パーツが壊れてエンジンブローする寸前だったという。この一件で、ホンダのエンジニアのセナへの評価や信頼が上昇することとなった。

1988年の鈴鹿でのレース後に、セナはアラン・プロストと共に、本田から食事に招待され、本田から「うちのクルマで勝ってくれてありがとう」と言われた。セナは、礼を言われるとは思ってもいなかったので、感激し、ほとんど料理を食べることができず、ただ涙を流していたという[24]

レース以外でもホンダとは関係を持ち、1989年にホンダのフラグシップ・スポーツカー、NSXの開発テストに参加。これはセナが生涯の中で唯一手掛けた市販乗用車であった。同車のテストにおいて、剛性不足を指摘されたホンダが、剛性を確保するために取り付けたバーは、通称『セナバー』とも呼ばれる。また、「セナさんの休日」のキャッチコピーで、同社のVT250スパーダ(2輪)の紙面広告に出演。その後、同社のプレリュード(4代目)のCMにも出演した。キャッチコピーは「Just move it」。

また、マクラーレンで担当エンジニアだった木内健雄と最後に会った時に、「俺は若いから、まだ何年でも待っていられるから、もう一回ホンダに乗るから」と、F1の舞台での再会を誓っていた。

2013年、ホンダは1989年日本GPにおけるセナの予選最速ラップを最新技術で再現する「Ayrton Senna 1989プロジェクト」を発表。エンジン音や走行ラインを3DCGで再現するウェブコンテンツ「3D-View」などを公開した[25][26]

ホンダエンジン搭載車でのセナの記録

1987年はロータス、1988 - 1992年はマクラーレンで通算6年間ホンダエンジン搭載車でドライブした。なおここでは記録のパーセンテージのうち小数点以下は四捨五入して掲載している。

  • ドライバーズタイトル3回 1988、1990、1991年と全てマクラーレン・ホンダ時代に獲得。
  • 優勝通算41回中32回 自身の全優勝の78%がホンダエンジンでの優勝である。
  • PP通算65回中46回 自身の全PPの70%がホンダエンジンでの記録である。
  • FL通算19回中14回 自身の全FLの74%がホンダエンジンでの記録である。
  • 通算ポイント614点中435点 自身の通算ポイントの71%がホンダエンジンでの記録である。

ドライバーズタイトル、優勝、PP、FL、通算ポイントといずれもホンダエンジンのドライバー別通算記録の中で最多記録となる。

F1における主な記録

  • ワールドチャンピオン獲得3回(歴代5位タイ 当時歴代2位タイ)
    • 1988年、1990年、1991年
  • 優勝41回(歴代5位 当時歴代2位)
    • 1991年第2戦ブラジルGPでジャッキー・スチュワートの27勝を更新。
  • ポールポジション65回(歴代3位 当時歴代1位)
    • 1989年第5戦アメリカGPでジム・クラークの33回を更新。2006年第4戦サンマリノGPでミハエル・シューマッハが更新。
  • 年間ポールポジション13回(歴代3位タイ 当時歴代1位)
    • 1988年、89年に連続して記録。1973年のロニー・ピーターソン、1974年、1975年のニキ・ラウダ、1984年のネルソン・ピケの9回を更新。1992年にナイジェル・マンセルが更新。
  • 年間ポール・トゥ・ウィン7回(歴代5位 当時歴代1位)
    • 1988年、91年に記録。それまでの5回を更新。1992年にナイジェル・マンセルが更新。
  • 連続ポールポジション8回(歴代1位)
    • 1988年第14戦スペインGP - 1989年第5戦アメリカGPにかけて記録。
  • 連続フロントロー獲得24回(歴代1位)
    • 1988年第9戦ドイツGP - 1989年第16戦オーストラリアGPにかけて記録。
  • 同一GPでの連続PP7回(歴代1位)
    • サンマリノGPにおいて、1985年 - 1991年にかけて記録。
  • 同一GPでの連続優勝5回(歴代1位)
    • モナコGPにおいて、1989年 - 1993年にかけて記録。
  • 開幕からの連続優勝4回(歴代3位タイ 当時歴代1位)
    • 1991年に記録。それまでの記録2勝を更新。1992年にナイジェル・マンセルが更新。
  • 開幕からの連続PP6回(歴代2位タイ 当時歴代1位)
    • 1988年に記録。1977年のジェームス・ハントの3回を更新。1993年にアラン・プロストが更新。
  • モナコGP6勝(歴代1位)
    • 1993年に更新。1987年、1989年 - 1993年に記録し、1969年にグラハム・ヒルが記録した5勝を更新。

エピソード

パーソナルデータ
  • 利き手は左。
  • 血液型はRh+B型[27]
  • 趣味のひとつに、ラジコン飛行機ヘリコプターがある。市販のものを購入し、独自に改造も行うほど。日本の友人から日本製の製品も多く受け取り熱中していた。
  • コーヒーが苦手と語っている。「ブラジル人ながらコーヒーが苦手なのは僕くらいかも知れない」とも語っている。
  • オフには故郷のプライベートアイランドで水上オートバイを楽しんだ。1991年のシーズン中に水上オートバイの事故に遭い、後頭部を縫う怪我を負った。
家族・恋人
ファイル:Bruno senna 2009.jpg
甥のブルーノ・セナ
  • 両親は父ミルトン、母ネイジ、兄弟は姉ビビアーニ、弟レオナルド。「セナ」は母方のファミリーネーム。
  • 姉のビビアーニ・セナ・ラッニは弟の死後「アイルトン・セナ財団」の代表に就任し、1994年日本GPにゲストとして来日し、日本のファンへ感謝のスピーチを述べた。ビビアーニの息子(アイルトンの甥)ブルーノ・セナは後にレーサーとなり、2010年にF1デビューを果たした。
    • その後ブルーノがフォーミュラEに参戦するとかつてのライバル・プロストとピケの息子(ニコラ・プロストネルソン・ピケJr.)と戦うこととなり、日本のメディアでは「セナ・プロ対決再び」「4強の子が集う」などと話題になった[28]。2016年に開催されたロンドンePではニコラがポールポジション、ブルーノがフロントローに着けて「セナ・プロ対決」が実現した。
  • 一時期、当時ブラジルの国民的アイドルシューシャと交際していた。その出演番組にセナがゲスト出演したこともある。1988年のクリスマス番組で彼女がセナに「欲しい物は何?」と聞くと「ここでは言えない」と言って彼女にだけ耳打ちした。その後シューシャはワールドチャンピオンのお祝いと称し「新年の分」「1990年の分」「1991年の分」「1992年の分」「1993年の分」として何度も彼の顔にキスをしている。能天気なまでのキスシーンとは裏腹に「1993年の分」で終わることが1994年の事故を暗示していると後に評判となる。また、1990年ブラジルGPでは、シューシャがセナの応援に来ており、後にセナの葬儀にも参列した。
信仰心
  • 敬虔なカトリックの家庭で育ち、自身も聖書を携帯し、インタビューなどでたびたび神の存在について語っている。
  • 1988年日本GPで自身初のチャンピオンを獲得した際には、レース後の会見で「スプーンカーブを走っている時、宙に浮いたような神を見た。光に包まれて、天高く上がっていってるんだ。」と発言した[29]
慈善活動
  • セナ自身の意向により常に完全に匿名で行われていたため存命当時に公にされることはなかったが、チャリティに非常に熱心で、数百万ドルの私財を恵まれない子供たちに寄付していたという[12][30]
ビジネス
  • F1ドライバーとしての収入とは別に、自身で発足した会社を持ち事業を展開していた。通称「セナビル」と言われる自宅兼社屋をサンパウロ市内に私有、「セニーニャ」という自身をモチーフにしたキャラクター商品などの販売で収益を得、またその一部は寄付などにも充てていた。
交渉術
ファイル:AyrtonSenna's Racingsuit.jpg
ナシオナル銀行のロゴの入ったマクラーレン時代のレーシングスーツ
  • チームとの交渉事ではタフな一面を見せた。マクラーレンではドライバーの個人スポンサーのPRを認めていなかったが、特例としてナシオナル銀行 (NACIONAL) のキャップやロゴの露出を認めさせた。契約金が合意しなかった時は、ロン・デニス代表とコイントスで決めたこともあった。
  • 1993年はフォードのワークスエンジン獲得を訴え、サンマリノGPでは金曜日のフリー走行開始直前までサーキット入りせずチームにプレッシャーをかけた。
  • 一方、ベルガーと共にワニの棲む池にロン・デニスを叩き落とし、「契約金を上げると約束すれば、助けてやる」という交渉をしたこともあった。なお、この際は、ロン・デニスが契約金上昇を約束し、2人に助けられている。
投票結果
  • イギリスのF1 Racing誌(2007年2月号)は、史上最速のF1ドライバーとしてアイルトン・セナを選出した。同誌は、FIAマックス・モズレー会長、当時のフェラーリチーム代表のジャン・トッド、元チャンピオンのケケ・ロズベルグ、元チームオーナーのエディ・ジョーダンなどのF1界を代表する有識者(28人)に投票を依頼し、最速ドライバー歴代50傑を決定した。セナはミハエル・シューマッハを抑えてランキング1位になった。3位はジム・クラーク
  • イギリスのF1 Racing誌(2008年6月号)において「史上最高のドライバートップ100ランキング」が掲載され、1位にアイルトン・セナを選出した。これは同誌のリーダーパネル会員の数千におよぶ投票で決定されたもので、2位はミハエル・シューマッハ、3位にファン・マヌエル・ファンジオ
  • 英誌オートスポーツは、F1ドライバー経験者217人の投票により「F1で最も偉大なドライバー」にセナを選出した。2位はミハエル・シューマッハ。3位はファン・マヌエル・ファンジオ。現役ではフェラーリのフェルナンド・アロンソの9位が最高だった。(2009年12月)[31]
日本のメディア関連
  • フジテレビによるF1中継では、セナの印象的なレースとして語られることの多いGPは、三宅正治が実況を担当していたケースが多かった。優勝レースの担当回数は古舘伊知郎大川和彦に及ばない[32]が、名レースとして語られることの多いGP[33]や節目の勝利[34]の割合が高かった他、優勝レース以外でも、パトレーゼの猛攻を凌ぎ2位を死守した1992年ドイツGP、最期となった1994年サンマリノGP等が三宅の実況であった。
  • 一方で、単純にセナと相性の悪いアナウンサーとしてよく話題に挙がるのは当時関西テレビアナウンサーの馬場鉄志であった。ホンダ陣営も馬場との相性に関するエピソードを知っており、1990年にはFAXを見たホンダスタッフが「悪ふざけが過ぎる!」と本気で怒ったこともあった。[35]
  • 1991年には週刊少年ジャンプ集英社)がマクラーレンのスポンサーとなっていたことから、35号から51号にかけてセナを主人公として同年のシリーズを描く『Fの閃光-アイルトン・セナの挑戦!!-』(原作: 西村幸祐 画: 長沢克泰・鬼窪浩久)が連載された。
  • 1992年、日本GP直前にフジテレビのバラエティ番組やニュース番組に生出演。「笑っていいとも」の収録後、セナの出待ちをする人込みで新宿アルタ前が一時騒然となった。
  • 1993年、日本GPの来日時に「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」内の「生ダラCART GP」にゲスト出演し、石橋貴明(アイルトン・タカ)・定岡正二とカート対決を行った。撮影ではコースを逆走したり、石橋を真似て「シェー」のポーズをとるなど終始リラックスしていた。レース後、石橋から「鈴鹿で優勝した際のヘルメット」のプレゼントを頼まれ快諾したが、約束通りヘルメットが届けられたのはセナが事故死した直後となった。
  • 2013年に発売されたPlayStation 3用ゲーム『グランツーリスモ6』で、アイルトン・セナ財団がグランツーリスモ6と長期的なパートナーシップを締結。5月に追加コンテンツ「アイルトン・セナ・トリビュート」が登場し、セナが運転したマシンを運転、セナの人生をたどることができる。収録されたフォーミュラカーはロータス・97T。また、オープニングムービーにセナ財団がサポートしている学校も実写で登場する。なお、1993年のF1を題材とするゲームでは開幕前に休養も取りざたされていた一連の影響のためか、セナが初期設定では登録されていないというゲームが多かった(多くの場合はエディット機能による登録は可能だった)。
伝記映画
  • 死後16年以上が経過した2010年日本GPに合わせ、ドキュメンタリー映画アイルトン・セナ 〜音速の彼方へ』が公開された。この映画は全世界での公開になるが、世界に先駆けて日本は先行上映された。映像や声の出演は生前のセナ本人だけでなく、善きライバルであったプロスト、所属チームのオーナーだったフランク・ウィリアムズやロン・デニス、親族では実姉のヴィヴィアーニ・セナから実父、実母などセナの生涯に携わった人物が多数登場する[36]
  • この映画のプロデューサーのジェイムズ・ゲイ・リースによると、セナが死の1か月ほど前にイモラサーキットでテストを行った際に、タンブレロに立ち、イモラサーキットの関係者に路面に凹凸があり危険だと指摘し、「ここで今年誰かが死ぬ。」と話している映像があるが、映画にはうまく組み込ませることができなかったという[37]
  • また、その現場を個人カメラマンが別角度から撮影した映像もあり、セナの死から数日後のフジテレビのニュース番組で放送された。

レース戦績

F1以前の戦績

カテゴリー 所属チーム シャシー エンジン 優勝数
/ 参戦数
PP FL 年間ランキング
1981年 フォーミュラ・フォード1600 - バン・ディーメン RF80
バン・ディーメン RF81
フォード 12 / 20 6 9 1位
1982年 ヨーロッパ・フォーミュラ・フォード2000 RushenGreen Racing バン・ディーメン RF82 フォード 6 / 9 8 5 1位
イギリス・フォーミュラ・フォード2000 RushenGreen Racing バン・ディーメン RF82 フォード 16 / 19 8 16 1位
イギリスF3 (スポット参戦) - ラルト RT3 トヨタ 1 / 1 1 1 -
1983年 イギリスF3 ウェスト サリー レーシング ラルト RT3 トヨタ 12 / 20 15 12 1位
F3 マカオグランプリ ウェスト サリー レーシング ラルト RT3 トヨタ - PP FL 総合優勝

F1

所属チーム シャシー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 WDC ポイント
1984年 トールマン TG183B BRA
Ret
RSA
6
BEL
6
SMR
DNQ
9位 13
TG184 FRA
Ret
MON
2
CAN
7
DET
Ret
DAL
Ret
GBR
3
GER
Ret
AUT
Ret
NED
Ret
ITA EUR
Ret
POR
3
1985年 ロータス 97T BRA
Ret
POR
1
SMR
7
MON
Ret
CAN
16
DET
Ret
FRA
Ret
GBR
10
GER
Ret
AUT
2
NED
3
ITA
3
BEL
1
EUR
2
RSA
Ret
AUS
Ret
4位 38
1986年 98T BRA
2
ESP
1
SMR
Ret
MON
3
BEL
2
CAN
5
DET
1
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
2
HUN
2
AUT
Ret
ITA
Ret
POR
4
MEX
3
AUS
Ret
4位 55
1987年 99T BRA
Ret
SMR
2
BEL
Ret
MON
1
DET
1
FRA
4
GBR
3
GER
3
HUN
2
AUT
5
ITA
2
POR
7
ESP
5
MEX
Ret
JPN
2
AUS
DSQ
3位 57
1988年 マクラーレン MP4/4 BRA
DSQ
SMR
1
MON
Ret
MEX
2
CAN
1
DET
1
FRA
2
GBR
1
GER
1
HUN
1
BEL
1
ITA
10
POR
6
ESP
4
JPN
1
AUS
2
1位 90 (94)
1989年 MP4/5 BRA
11
SMR
1
MON
1
MEX
1
USA
Ret
CAN
7
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
1
HUN
2
BEL
1
ITA
Ret
POR
Ret
ESP
1
JPN
DSQ
AUS
Ret
2位 60
1990年 MP4/5B USA
1
BRA
3
SMR
Ret
MON
1
CAN
1
MEX
20
FRA
3
GBR
3
GER
1
HUN
2
BEL
1
ITA
1
POR
2
ESP
Ret
JPN
Ret
AUS
Ret
1位 78
1991年 MP4/6 USA
1
BRA
1
SMR
1
MON
1
CAN
Ret
MEX
3
FRA
3
GBR
4
GER
7
HUN
1
BEL
1
ITA
2
POR
2
ESP
5
JPN
2
AUS
1
1位 96
1992年 MP4/6B RSA
3
MEX
Ret
4位 50
MP4/7A BRA
Ret
ESP
9
SMR
3
MON
1
CAN
Ret
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
2
HUN
1
BEL
5
ITA
1
POR
3
JPN
Ret
AUS
Ret
1993年 MP4/8 RSA
2
BRA
1
EUR
1
SMR
Ret
ESP
2
MON
1
CAN
18
FRA
4
GBR
5
GER
4
HUN
Ret
BEL
4
ITA
Ret
POR
Ret
JPN
1
AUS
1
2位 73
1994年 ウィリアムズ FW16 BRA
Ret
PAC
Ret
SMR
Ret
MON ESP CAN FRA GBR GER HUN BEL ITA POR EUR JPN AUS NC
(38位)
0
  • 太字ポールポジション斜字ファステストラップ。(key)
  •  : ハーフポイント。レース周回数が75%未満で終了したため、得点が半分となる。
  •  : リタイアだが、90%以上の距離を走行したため規定により完走扱い。

脚注

注釈

  1. 当該レースの公式プログラムにおける日本語表記は「センナ・ダ・シルバ」
  2. 車体下面が歪み、グラウンド・エフェクトを発生しているのではないかなど。セナは「とにかくライドハイドが低い」と、火花の理由を語っていた。
  3. 当時は特にコンピュータの技術が未熟であり、翌1988年には姿を消した。本格採用は1992年。
  4. 最終戦オーストラリアGPでの2位が失格とならなければ、負傷欠場したマンセルを上回りランク2位となっていた。
  5. 2人のドライバーに優劣をつけないこと
  6. 全16戦での総獲得ポイントはプロストが上回っていた。
  7. この件では、2周目におけるセナの幅寄せ行為が強調される傾向があるが、スタート直後にはプロストもセナに幅寄せを行っている。
  8. これには、「第1コーナー」を巡る両者の解釈の違いもあった。
  9. ただし、リタイヤ原因の多くがマシントラブルであり、第13戦ポルトガルGPでは既に失格処分を受けていたマンセルと接触してリタイヤするなど、不運な面もあった。
  10. 当時はフライ・バイ・ワイヤと呼ばれていた。
  11. F1では、市街地で開催されたGPには37戦参加しており、半数以上を制したことになる。
  12. モンテカルロデトロイトダラススパ(2/3が公道)、アデレードフェニックス
  13. ポール・リカール6回、マニ・クール3回、ディジョン1回
  14. ポール・リカールで9度中5勝、マニクールで2度中1勝、ディジョンで3度中1勝、ジャガレパグアで9度中5勝、インテルラゴスで3度中1勝。

出典

  1. http://www.jaf.or.jp/CGI/msports/results/kart/result.cgi?race_id=1978010015
  2. アイルトン・セナとトヨタエンジン
  3. 「セナを殺した男たち」(ジョー・ホンダ、ベストセラーズ、1994年)pp.117 - 119
  4. 独占インタビュー! ジャコビが語るセナ パート1
  5. 決勝では1周目に先行した後、リタイヤするまでハッキネンの前を走っていた。
  6. セナプロ最終対決、1/2ヘルメットが発売中 AUTO SPORT web 2015年1月3日、2016年8月18日閲覧。
  7. 独占インタビュー! ベルガーが語るセナ
  8. Thomsen, Ian (1995年2月11日). “Williams Says Italy May Cite Steering In Senna's Death”. International Herald Tribune. http://www.iht.com/articles/1995/02/11/prix_0.php . 2006閲覧. 
  9. 9.0 9.1 9.2 1994年5月3日サンケイスポーツ 社会面・芸能面
  10. 『1994年 GPXモナコGP号』、山海堂、P.13
  11. この件ではマンセルにはペナルティが出されず、最終的に2人が数秒差でゴールしたこともあって、解説者として現場にいたプロストは裁定に疑問を唱えていた。ナイジェルの勝利が素晴らしいとは書けない
  12. 12.0 12.1 The Official Formula 1 Website - Hall of Fame Ayrton Senna
  13. The Official Formula 1 Website - Hall of Fame Alain Prost
  14. フジテレビF1グランプリ 1991年総集編のナレーションより
  15. オグたん式「F1の読み方」2010年7月30日の記事。当時小倉茂徳はマクラーレンチームの日本語広報担当だった。
  16. F1解剖講座-データで見るF1グランプリ(二玄社)
  17. 『F1パーフェクトブック アイルトン・セナの時代』(別冊宝島)、『実録F1ドライバー列伝 Hondaを疾らせた男達』(竹書房)参照。
  18. 柴田久仁夫「究極のドライバー比較論-元ホンダF1プロジェクトリーダー後藤治が10年たった今、語る」『AUTO SPORT-アイルトンセナ没後10年特別企画』三栄書房、50頁-55頁、2004年。
  19. 小倉茂徳 (2010年8月27日). “F1の品格”. オグたん式「F1の読み方」. Car Watch. . 2012閲覧.
  20. 20.0 20.1 独占インタビュー! ワトキンス博士が語るセナ
  21. 『F1速報 1994 総集編』 ニューズ出版、1995年、74頁。
  22. この一件ではセナには特にペナルティが出ず、この出来事が1994年最終戦オーストラリアGPでシューマッハがコーナーでインをついたヒルに対して同様の行為をした遠因であるとも言われている
  23. 『GPX』 Round 14 Italian GP、山海堂、2000年、3頁。
  24. 産経新聞』「from Editor」〈F1をめぐる「男の涙」〉2009年(平成21年)11月16日 月曜日 12版 6面。
  25. "アイルトン・セナの鈴鹿最速ラップをCGで再現した体験型Webコンテンツ「3D-View」を公開". 本田技研工業.(2013年9月27日)2014年3月3日閲覧。
  26. "Ayrton Senna 1989". dots by internavi.
  27. planetf1.com
  28. 厳密に言えばマンセルの子供は参戦しておらず、またブルーノはアイルトンの甥なので「4強」ではない。
  29. "今日の名言". Number Web.(2009年11月19日)2014年3月3日閲覧。
  30. 独占インタビュー! ジャコビが語るセナ パート2
  31. 偉大なF1ドライバー1位はセナ 日刊スポーツ2009年12月12日付。
  32. 三宅の8回に対し、古舘は12回、大川は11回担当している。
  33. 1991年ブラジルGP・1992年モナコGP・1993年ヨーロッパGPなど。
  34. ホンダエンジンでの最後の優勝となった1992年イタリアGP、自身最後の優勝である1993年オーストラリアGP等。
  35. 別冊宝島 F1マクラーレン・ホンダ 栄光の1988年 16戦15勝の舞台裏 ISBN 4800214815 内インタビュー
  36. “アイルトン・セナ初のドキュメンタリー映画、世界最速、日本先行公開決定”. オリコン. (2010年7月28日). http://www.oricon.co.jp/news/movie/78561/full/ . 2011閲覧. 
  37. The Making of Senna part 5: The lost scenes

関連項目

関連人物

CM出演

外部リンク

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非公式ウェブサイト

タイトル
先代:
ネルソン・ピケ
F1ドライバーズチャンピオン
1988年
次代:
アラン・プロスト
先代:
アラン・プロスト
F1ドライバーズチャンピオン
1990年-1991年
次代:
ナイジェル・マンセル


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