豊津町

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豊津町(とよつまち)

京都郡の東部に位置し、北は行橋市、東は築上ちくじよう築城ついき町、南から西は犀川さいがわ町に接する。東にはらい川、西にいま川が北流し、町域は両川によって開析された丘陵・段丘と沖積平野で構成されている。今川東岸を平成筑豊鉄道田川線が走り、新豊津駅がある。国道一〇号バイパスが北東部を、同四九六号が中央部を南北に通る。古代から近世まで豊前国仲津なかつ郡に属した。豊前国府所在地は現国作こくさく惣社そうしや地区に推定されている。国分寺は国府推定地の南西約四五〇メートルに建立された。大字上坂かみさかには地域有力者の私寺とみられる古代寺院跡(上坂廃寺)がある。天正一五年(一五八七)から仲津郡のほか豊前国五郡を与えられた黒田孝高領。慶長五年(一六〇〇)から旧黒田領のほか豊前国企救きく郡・田川郡、豊後国国東くにさき郡・速見はやみ郡を与えられた細川忠興が領した。寛永九年(一六三二)細川氏の転封後に譜代の小笠原一族が入り、当町域は豊前六郡を与えられた小倉藩(初代藩主小笠原忠政)領となり、以後幕末まで同藩領であった。天保期(一八三〇―四四)国分こくぶ村西方の原野の開発が始まり、在郷町の錦原にしきばるが形成された。錦原はいったん廃れたが、明治初年に香春藩(旧小倉藩)の藩庁が同地に移され、藩士・町人らが移住して、現在に続く町場が整備された。新藩名豊津藩の呼称が政府に許可されたのは明治二年(一八六九)一二月である。同二二年の町村制施行に伴い仲津郡祓郷はらいごう(一部は現行橋市)・豊津村・節丸せつまる村が成立。同二九年仲津郡は京都郡に統合される。昭和一八年(一九四三)節丸村が豊津村に合併。同三〇年豊津村と祓郷村の一部が合併して豊津町となる。現在は豊前国分寺跡公園をはじめとする多くの文化遺産を生かし、文化の香り高い町づくりを展開している。



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