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[[File:Namamugi incident.jpg|thumb|350px|『生麦之発殺』([[早川松山]]画)<br>明治になって想像で描かれた[[錦絵]]で、名前が出ているのは[[島津久光]]と[[小松清廉|小松帯刀]]のみ。当時は久光の武勇伝として一般に親しまれていた。]]
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'''生麦事件'''(なまむぎじけん)
'''生麦事件'''(なまむぎじけん)は、[[江戸時代]]末期([[幕末]])の[[文久]]2年[[8月21日 (旧暦)|8月21日]]([[1862年]][[9月14日]])に、[[武蔵国]][[橘樹郡]]生麦村(現・[[神奈川県]][[横浜市]][[鶴見区 (横浜市)|鶴見区]][[生麦]])付近において、[[薩摩藩]]主[[島津茂久]](忠義)の父・[[島津久光]]の行列に乱入した騎馬のイギリス人たちを、供回りの[[藩士]]たちが殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件である。
 
  
[[尊王攘夷]]運動の高まりの中、この事件の処理は大きな政治問題となり、そのもつれから[[薩英戦争]](文久3年7月)が起こった。
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幕末の薩摩藩士によるイギリス人殺傷事件。文久2 (1862) 年8月 21日島津久光の行列は,神奈川の[[生麦]]村付近で,騎馬のイギリス人[[リチャードソン]]ら4名と行き会い,薩摩藩士は1名を斬殺,2名を負傷させた。当時は攘夷運動が最高潮に達していた事情もあり,イギリス側の要求に,幕府は応じたものの,薩摩藩は応じず,賠償問題は難航,[[薩英戦争]]の原因となった。
 
 
事件の石碑は、[[京急本線]][[生麦駅]]近くに残っており<ref group="注釈">同所にて平成22年12月より[[首都高速]][[横浜環状北線]]建設のため、一時東側近隣の旧東海道脇に仮移転した。</ref>、1988年(昭和63年)11月1日に市の[[横浜市登録地域文化財|地域史跡]]に登録されている<ref>[http://www.city.yokohama.lg.jp/kyoiku/bunkazai/pdf/shiiki-bunkazai20171102.pdf 「国・神奈川県および横浜市指定・登録文化財目録」]横浜市教育委員会 pp.21</ref>。
 
 
 
== 事件の概要 ==
 
=== 事件の勃発 ===
 
[[Image:NamamugiVillage.JPG|thumb|310px|事件当時の生麦村。東海道にそった集落の神奈川宿寄りのはずれ、リチャードソン遺体発見現場(落馬地点)近辺と見られている。]]
 
{{Double image aside|right|Namamugi jiken monument.JPG|200|Namamugi m16.jpg|110|リチャードソン落馬地点付近に建てられた生麦事件之碑。明治16年建立。碑文は[[中村正直]]による。}}
 
 
 
[[文久]]2年([[1862年]])、[[薩摩藩]]主[[島津茂久]](忠義)の父で藩政の最高指導者・[[島津久光]]は、幕政改革を志して700人にのぼる軍勢を引き連れて[[江戸]]へ出向いたのち([[文久の改革]]も参照)、勅使[[大原重徳]]とともに[[京都]]へ帰る運びとなった。久光は大原の一行より1日早く、8月21日に江戸を出発した。率いた軍勢は400人あまりであった<ref Name="sn"/>。
 
 
 
行列が生麦村に差しかかった折り、騎馬の[[イギリス人]]と行き会った。横浜でアメリカ人経営の商店に勤めていた[[ウッドソープ・クラーク|ウッドソープ・チャールズ・クラーク]]、横浜在住の[[生糸]]商人[[ウィリアム・マーシャル (貿易商)|ウィリアム・マーシャル]]、マーシャルの従姉妹で[[香港]]在住イギリス商人の妻であり、横浜へ観光に来ていた[[マーガレット・ボラディル|マーガレット・ボロデール]]夫人、そして、上海で長年商売をしていて、やはり見物のため来日していた[[チャールス・リチャードソン|チャールズ・レノックス・リチャードソン]]である。4人はこの日、[[東海道]]で乗馬を楽しんでいたとあるが、観光目的で[[平間寺|川崎大師]]に向かっていたともいわれる。
 
 
 
生麦村住人の届け出書{{refnest|『横浜どんたく』収録「生麦事件の始末」より<ref group="注釈">ちょうど事件が自宅前で起こったため一部始終を間近に見た勘左衛門が、事件当日に神奈川奉行所に出した報告書である。</ref>。}}と[[神奈川奉行]]所の役人の覚書<ref>神奈川奉行支配定役並・鶴田十郎覚書([[嘉永]][[文久]]年間見聞雑記)『薩藩海軍史』に収録</ref>、そして当時イギリス公使館の通訳見習だった[[アーネスト・サトウ]]の日記<ref name="satow">『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄』より</ref>を突き合せてみると、ほぼ以下のような経緯を辿った。
 
 
 
行列の先頭の方にいた薩摩藩士たちは、正面から行列に乗り入れてきた騎乗のイギリス人4人に対し、身振り手振りで下馬し道を譲るように説明したが、イギリス人たちは、「わきを通れ」と言われただけだと思いこんだ。しかし、行列はほぼ道幅いっぱいに広がっていたので、結局4人はどんどん行列の中を逆行して進んだ。鉄砲隊も突っ切り、ついに久光の乗る[[駕籠]]のすぐ近くまで馬を乗り入れたところで、供回りの声に、さすがにどうもまずいとは気づいたらしい。しかし、あくまでも下馬する発想はなく、今度は「引き返せ」と言われたと受け取り、馬首をめぐらそうとして、あたりかまわず無遠慮に動いた。その時、数人が斬りかかった。
 
 
 
4人は驚いて逃げようとしたが時すでに遅く、リチャードソンは深手を負い、桐屋という料理屋の前から200メートルほど先で落馬し、とどめを刺された。マーシャルとクラークも深手を負い、ボロデール夫人に「あなたを助けることができないから、ただ馬を飛ばして逃げなさい」と叫んだ。ボロデール夫人も一撃を受けていたが、帽子と髪の一部が飛ばされただけの無傷であり、真っ先に横浜の居留地へ駆け戻り救援を訴えた。マーシャルとクラークは血を流しながらも馬を飛ばし、[[神奈川宿|神奈川]]にある当時、アメリカ領事館として使われていた[[本覚寺 (横浜市)|本覚寺]]へ駆け込んで助けを求め、[[ジェームス・カーティス・ヘボン|ヘボン]]博士の手当を受けることになった。
 
 
 
『薩藩海軍史』によれば、リチャードソンに最初の一撃をあびせたのは[[奈良原喜左衛門]]<ref group="注釈">当時京都の薩摩藩邸にかくまわれていた[[那須信吾]]の実兄宛書簡は、喜左衛門の弟の[[奈良原喜八郎]]としている。ただし、行列の先を行っていた宮里孫八郎が事件の十数日後に鹿児島の家族に宛てた書簡は、当番供目付だった兄・喜左衛門の名を挙げており、久光の駕籠側にいた[[松方正義]]も証言を残しており、リチャードソンへの一太刀目が兄の喜左衛門であったことが今日において定説となっている。</ref>であり、さらに逃げる途中で鉄砲隊の[[久木村治休]]が抜き打ちに斬った(のち久木村は同事件の回顧談を鹿児島新報紙上に詳細に語っている)。落馬の後、「もはや助からないであろう」と[[介錯]]のつもりでとどめをさしたのは[[海江田信義]]であったという<ref group="注釈">主に[[海江田信義]]の著作と直話に基づく話のようである。</ref>。なお、当時近習番だった[[松方正義]]の直談によれば、駕籠の中の久光は「瞑目して神色自若」であったが、松方が「外国人が行列を犯し、今これを除きつつあります」と報告すると、おもむろに大小の柄袋を脱し、自らも刀が抜けるよう準備をしたという。
 
 
 
=== 横浜居留地の反応 ===
 
この事件は、[[東禅寺事件]]などそれまでに起こった[[攘夷]]殺傷事件とは違って個人的な行為ではなく、[[大名行列]]の供回りの多数が一斉に斬ったものであり、たとえ直接久光の命令がなくとも、暗黙の了解の下に行われていたことは歴然としていた。事件直後、各国公使、領事、各国海軍士官、横浜居留民が集まって開かれた対策会議でも、「島津久光、もしくはその高官を捕虜とする」という議題が挙がっていて<ref name="satow"/>、下手をすれば戦争に直結しかねないだけに、イギリス公使館も対処の仕方に苦慮を重ねることとなる。
 
 
 
事件直後、ボロデール夫人の要請に応えて最初に動いたのは、イギリス公使館付きの医官だった[[ウィリアム・ウィリス]]である。騎馬で、まだ続いていた薩摩藩士の行列のわきをすりぬけて生麦に向かううちに、横浜在住の加勢の男たち3人が追いついてきて、やがてイギリスの神奈川領事ヴァイス大尉率いる公使館付きの騎馬護衛隊も追いついた。一行は、地元住民の妨害を受けながらも、リチャードソンの遺体を発見し、横浜へ運んで帰った<ref name="willy">『ある英人医師の幕末維新 W・ウィリスの生涯』より</ref>。
 
 
 
イギリス代理公使[[ジョン・ニール]]中佐は、薩摩との戦闘が起こることを危惧して騎馬護衛隊の出動を禁じていたが、それを無視してヴァイス領事が出動したことで、2人の間には確執が生じた。事件当日の夜から翌朝にかけて、横浜居留民の多くが、遺体収容を果たしたヴァイス領事を支持し、武器をとっての報復を叫んだ。フランス公使[[ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクール|デュシェーヌ・ド・ベルクール]]がそれを応援するようなそぶりを見せていたことも、居留民たちの動きを加速した。しかしニール中佐は冷静であり、現実的な戦力不足と全面戦争に発展した場合の不利を説いて騒動を押さえ込み、幕府との外交交渉を重んじる姿勢を貫いた<ref name="satow"/>。
 
 
 
=== 久光一行の動向 ===
 
久光一行はその夜、横浜に近い[[神奈川宿]]に宿泊する予定を変更して[[程ヶ谷宿]]に宿泊した。一行の中にいた[[大久保利通]]の当日の日記によれば、横浜居留地の報復の動きを警戒して、藩士2人が探索に出ている。[[天領|公儀御料]]である生麦村の村役人はただちに事件を神奈川奉行に届け出、これを受けて調査を開始した奉行は久光一行に対して使者を派遣し、事件の報告を求めた。しかし久光一行は翌日付けで「浪人3〜4人が突然出てきて外国人1人を討ち果たしてどこかへ消えたもので、薩摩藩とは関係ない」という届出をすると、奉行が引き止めるのも意に介さずそのまま急いで京へ向かった。神奈川奉行からの報告を受けた老中[[板倉勝静]]は、薩摩藩江戸留守居役に対して事件の詳しい説明を求めたところ、数日後に「[[足軽]]の岡野新助が、行列に馬で乗り込んできた異人を斬って逃げた。探索に努めているが依然行方不明である」と説明した<ref Name="sn">『薩藩海軍史』</ref>。神奈川奉行からの詳細な報告を受けて事件の概要を把握していた幕府はこの事実とは異なる説明に憤り、江戸留守居役に出頭を求め糾弾したが、薩摩藩側はしらを切り通した。
 
 
 
大名行列に対する外国人の「不作法」については、久光らは江戸に到着して間もない6月23日、幕府に訴え書き<ref Name="sn"/>を提出していた。その文面によれば、往路ですでに久光の行列は騎馬の外国人に遭遇していたところ、狭い東海道において、大名一行の通行にかまわず横に並んで広く場所をとり、不作法が見受けられる、というものである。続けて「少々のことには目をつぶれ、と藩士たちに達してはいるが、先方に目にあまる無礼があった場合はそのままにするわけにもいかない。各国公使へ不作法は慎むように達して欲しい」と訴えている。それに対する幕府の返答は、「そういう達しはすでに出しているが、言葉も通じず、習慣も違うことから、我慢して穏便にすませて欲しい」というものだったが、実際には幕府はそのような通達を出してはいなかった。
 
 
 
== 事件後の状況と余波 ==
 
[[Image:Poetic monument of Namamugi Incident.jpg|thumb|200px|[[2009年]]、生麦事件参考館に建てられた碑。[[山階宮晃親王]]作の漢詩が刻まれている。]]
 
[[Image:Namamugi Incident Richardson's grave.jpg|thumb|200px|[[横浜外国人墓地]]にあるリチャードソンの墓。近年、有志によって、マーシャルとクラークの墓も左右に集められた。]]
 
=== 文久2年 ===
 
事件から2日後の[[8月23日 (旧暦)|8月23日]]([[1862年]][[9月16日]])、ニール代理公使は横浜において[[外国奉行]][[津田正路]]と会談した。この会談でニールは「勅使の通行は連絡があったのに、なぜ島津久光の通行は知らせてこなかったのか」と追及した。これに対して奉行は「勅使は高貴だが、大名は幕府の下に属するもので達する必要はない。これまでもそれで問題はなかった」と答え、「勅使より薩摩藩の通行の方が問題が起こる可能性が高いのはわかりきった話」として、ニールに反論されている<ref>『近世日本国民史 文久大勢一変 維新への胎動(中)生麦事件』引用の「幕府側の所記」</ref>。ニールは本国の外務大臣への報告書に、久光通行の知らせはなかったことを明記して、外交上自国に有利な幕府の過失を指摘している<ref name="satow"/>。
 
 
 
8月30日には、老中[[板倉勝静]]邸においてニールと老中板倉・[[水野忠精]]との折衝が行われ、ここでもイギリス側は犯人の差し出しを繰り返し要求した。一方、ニールは本事件の賠償金要求については、イギリス本国の訓令を待って交渉することとしていた。
 
 
 
当時の幕府においては、多数の軍勢を伴って幕府の最高人事に介入した久光に対して、敵意を持つ見方が一般であった。そのため、生麦事件の知らせに「薩摩は幕府を困らせるために、わざと外国人を怒らせる挙に出た」と受け止める幕臣が多数で、薩摩を憎みイギリスを怖れることに終始し、対策も方針もまったく立てることができないでいたという<ref>『近世日本国民史 文久大勢一変 維新への胎動(中)生麦事件』が引用する越前藩中根雪江の記録『再夢記事』</ref>。当の久光の幕政介入によって[[政事総裁職]]に就いた[[松平慶永]]は、本事件に関する処置案(久光の帰国差し止め等)を老中らに建言するも受け入れられず、一時登城を停止する事態となった。
 
 
 
一方、東海道筋の民衆は、「さすがは薩州さま」と歓呼して久光の行列を迎えたという{{refnest|『横浜どんたく』収録「生麦事件の始末」より<ref group="注釈">事件当時、戸塚の宿役人だった川島弁之助の後年の談話である。</ref>。}}。閏8月7日([[1862年]]9月30日)に久光は上洛、9日に参内するが、[[孝明天皇]]はわざわざ出御して久光の労を賞し、これは無位無冠の者に対しては異例の待遇であった。この事件を題材に[[山階宮晃親王]]が作った「薩州老将髪衝冠 天子百官免危難 英気凛々生麦役 海辺十里月光寒」という漢詩は、明治になって愛唱された<ref Name="sn"/>。しかし、生麦事件をきっかけとして朝廷が攘夷一色に染まってしまったことは、久光および薩摩藩の思惑を超えた結果だった。薩摩藩の幕政改革の意図は攘夷ではなく、彼らの不満はむしろ幕府が外国貿易を独占していたことにあったのである<ref group="注釈">生麦事件のわずか9日前、[[ジャーディン・マセソン]]商会横浜支店のS.J.ガウアーは、ヴァイス領事に出していた報告書に「独立心に富んだ大名は、心底から攘夷を望んでいるのではなく、外国との交易をこそ望んでいる」と記している。</ref>。尊攘派の支配する京都の情勢に耐えかねた久光は、23日に京都を発って鹿児島に戻った。
 
 
 
=== 文久3年 ===
 
[[文久]]3年([[1863年]])の年明け早々、生麦事件の処理に関する[[外務英連邦大臣|イギリス外務大臣]][[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯爵)|ラッセル伯爵]]の訓令がニール代理公使の元へ届いた。これに基づき、2月19日、ニールは幕府に対して謝罪と賠償金10万ポンドを要求した。さらに、薩摩藩には幕府の統制が及んでいないとして、艦隊を薩摩に派遣して直接同藩と交渉し、犯人の処罰及び賠償金2万5千ポンドを要求することを通告した。幕府に圧力を加えるため、[[イギリス]]・[[フランス]]・[[オランダ]]・[[アメリカ]]の四カ国艦隊が順次横浜に入港した。
 
 
 
折しも将軍[[徳川家茂]]は上洛中であり、滞京中の[[老中格]][[小笠原長行]]が急遽呼び戻され、諸外国との交渉にあたることとなった。賠償金の支払いを巡って幕議は紛糾するが、[[水野忠徳]]らの強硬な主張もあって一旦は支払い論に決する。しかし、攘夷の勅命を帯びて[[将軍後見職]]・[[徳川慶喜]]が京都から戻り、道中より賠償金支払い拒否を命じたため事態は流動化し、支払い期日の前日(5月2日)になって支払い延期が外国側に通告された。これにニールは激怒、彼は艦隊に戦闘の準備を命じ、横浜では緊張が高まった。
 
 
 
再び江戸で開かれた評議においては、[[水戸藩]]の介入{{refnest|group="注釈"|5月4日及び9日の江戸城中における評議には、異例にも水戸藩家老の[[武田耕雲斎]]と[[大場一真斎]]が参加していた<ref>『明治維新と世界認識体系』p.194</ref>。}}もあって逆に支払い拒否が決定されるが、5月8日、小笠原長行は海路横浜に赴き、独断で賠償金交付を命じた。翌9日、賠償金全額がイギリス公使館に輸送された{{refnest|group="注釈"|早朝から各二千ドル入りの箱を積んだ荷馬車がイギリス公使館に到着し、公使館が集めた中国人の貨幣鑑定人が貨幣の検査や勘定を行った上、艦隊の甲板に運ばれた。この作業には3日がかかったという<ref>『一外交官の見た明治維新(上)』</ref>。}}。一方、横浜に滞在していた慶喜は小笠原と入れ違いに江戸に戻っており、小笠原との間に賠償金支払いを巡って黙契が存在していたという説がある。小笠原は、賠償金支払いを済ませたのち再度上京の途に就くが、大坂において老中を罷免された。
 
 
 
幕府との交渉に続いて、イギリスは薩摩藩と直接交渉するため、6月27日に軍艦7隻を[[鹿児島湾]]に入港させた。しかし交渉は不調であり、7月2日、イギリス艦による薩摩藩船の[[拿捕]]をきっかけに薩摩藩がイギリス艦隊を砲撃、[[薩英戦争]]が勃発した。薩摩側は[[鹿児島市]]街が焼失するなど大きな被害を受けるが、イギリス艦隊側にも損傷が大きく、4日には艦隊は鹿児島湾を去り、戦闘は収束した。
 
 
 
10月5日、イギリスと薩摩藩は横浜のイギリス公使館にて講和に至った。薩摩藩は幕府から借りた2万5000ポンドに相当する6万300両をイギリス側に支払い、講和条件の一つである生麦事件の加害者の処罰は「逃亡中」とされたまま行われなかった。
 
 
 
== 事件発生の背景 ==
 
[[Image:Place of Namamugu Incident Display signboard.jpg|thumb|300px|生麦村本宮町(生麦4丁目)、事件発生現場の説明版。当時、ここに住んでいた豆腐屋勘左衛門は事件を目の当たりにした。]]
 
当時、宣教の機会をうかがって来日していたアメリカ人女性宣教師の[[ジェームス・ハミルトン・バラ|マーガレット・バラ]]は、アメリカの友人への手紙にこう記している。「その日は江戸から南の領国へ帰るある主君の行列が東海道を下って行くことになっていたので、幕府の役人から東海道での乗馬は控えるように言われていたのに、この人たちは当然守らなければならないことも幕府の勧告も無視して、この道路を進んで来たのでした。そしてその[[大名行列]]に出会ったとき、端によって道をゆずるどころか行列の真ん中に飛び込んでしまったのです」<ref>『古き日本の暼見』より</ref>。ただしこの光景はバラが直接観察したものではなく伝聞によるものであり、バラはその情報源を述べていない。
 
 
 
ただ、事件後の代理公使ニール中佐と幕府とのやりとりで見れば、イギリス公使館は勅使・大原重徳の東海道通行の知らせは受け取っていたものの、その日付は島津久光の通行より1日遅く、またイギリス公使館では翻訳に手間取ってもいて、リチャードソン一行はイギリス領事館からの正式な告知は受けていなかったものと思われる。しかし[[林董]]の回顧録に、リチャードソンたちが「今日は島津三郎通行の通知ありたり。危険多ければ見合すべし」と友人から忠告されていたという話{{sfn|林董|1970|p=112}}も見えて、アメリカ公使館は非公式の通知を受けていたか、あるいは情報を得て、独自の判断から自国民に警告を出していたのではないかとも考えられる。
 
 
 
事件が起こる前に島津の行列に遭遇したアメリカ人商人の[[ユージン・ヴァン・リード]]は、すぐさま下馬した上で馬を道端に寄せて行列を乱さないように道を譲り、脱帽して行列に礼を示した。薩摩藩士側も外国人が行列に対して敬意を示していると了解し、特に問題も起こらなかったという<ref group="注釈">よく誤解があるが、大名行列に遭遇して通行人が土下座を強いられたのは[[徳川御三家]]の場合のみであり、それ以外の大名行列の場合は通行人は脇に下がるだけでよかった。決して外国人に対して特別待遇で土下座を免除した訳ではない。</ref>。ヴァン・リードは日本の文化を熟知しており、大名行列を乱す行為がいかに無礼なことであるか、礼を失すればどういうことになるかを理解しており、「彼らは傲慢にふるまった。自らまねいた災難である」とイギリス人4名を非難する意見を述べている{{sfn|林董|1970|pp=112-113}}。
 
 
 
また当時の『[[ニューヨーク・タイムズ]]』は「この事件の非はリチャードソンにある。日本の最も主要な通りである東海道で日本の主要な貴族に対する無礼な行動をとることは、外国人どころか日本臣民でさえ許されていなかった。条約は彼に在居と貿易の自由を与えたが、日本の法や慣習を犯す権利を与えたわけではない。」と評している<ref>"The Anglo-Japanese War." November 15, 1863, New York Times. </ref>。
 
 
 
また、当時の清国北京駐在イギリス公使フレデリック・ブルース([[:en:Frederick Wright-Bruce|Frederick Wright-Bruce]]、[[エルギン伯爵]][[ジェイムズ・ブルース (第8代エルギン伯爵)|ジェイムズ・ブルース]]の弟)は、本国の外務大臣[[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯爵)|ラッセル伯爵]]への半公信(半ば公の通信)の中でこう書いている。「リチャードソン氏は慰みに遠乗りに出かけて、大名の行列に行きあった。大名というものは子供のときから周囲から敬意を表されて育つ。もしリチャードソン氏が敬意を表することに反対であったのならば、何故に彼よりも分別のある同行の人々から強く言われたようにして、引き返すか、道路のわきに避けるしなかったのであろうか。私はこの気の毒な男を知っていた。というのは、彼が自分の雇っていた罪のない[[苦力]]に対して何の理由もないのにきわめて残虐なる暴行を加えた科で、重い罰金刑を課した上海領事の措置を支持しなければならなかったことがあるからである。彼は[[ジョナサン・スウィフト|スウィフト]]の時代ならば[[モホーク族|モウホーク]]であったような連中の一人である。わが国のミドル・クラスの中にきわめてしばしばあるタイプで、[[騎士道]]的な本能によっていささかも抑制されることのない、プロ・ボクサーにみられるような蛮勇の持ち主である」<ref>板野正高「駐清英国公使ブルースの見た生麦事件のリチャードソン」(学士会報1974年、第723号)『遠い崖ーアーネスト・サトウ日記抄』より孫引き</ref>
 
 
 
以上に見るように、生麦事件はリチャードソン一行の礼儀を欠いた行動によって発生したという見方もイギリス側の一部には存在したものと推測できる。ただ、ブルース公使も書いているように、極東に進出していたイギリスのミドル・クラスの人々には、現地の習わしをふみにじる粗暴なタイプも多く<ref group="注釈">駐日イギリス公使[[ラザフォード・オールコック]]は横浜の居留民社会を「ヨーロッパの人間の屑」と表現していた。</ref>、上海の商人仲間におけるリチャードソンの評判は、かならずしも良くはなかったようである。イギリス外務省も、その指令を受ける在日イギリス公使館も、横浜居留商人などの強硬論や被害者家族の訴求を無視することはできなかった。
 
 
 
さらに肝心な点は、[[日英修好通商条約]]による[[治外法権]]の規定により、日本の側にはイギリス人を裁く権利は存在しなかったことである。つまりイギリス側から言うならば、イギリス人が日本の法律に従ういわれはなく、たとえ日本の国内法で[[無礼討ち]]が認められていようとも、当然のことながらそれはイギリス側からは認められるものではなかった。一方、薩摩藩側から見るならば、「国内法との整合性がつかない治外法権を含んだ条約は、朝廷の許しも得ず幕府が勝手に結んだもの」ということになるのである。したがってこの事件は、治外法権が日本国内にもたらす矛盾{{refnest|group="注釈"|この当時の日本では、安全のために、武士であっても狭い市中での乗馬は禁止されていた。日本には去勢馬がおらず、馬が暴れて死人が出ることもまれではなかったためである。ところが外国人は条約を盾に、かまわず馬を乗り回した。結果、事故が頻発し、治外法権は一般庶民の恨みも買っていた。顕著な例としては、同じ文久2年に[[函館|箱館]]において、ロシア人の馬に蹴られた町人があばら骨を折り、眼球破裂で危篤状態になった事件がある。しかしロシア人は賠償に応じず、幕府が治療費を払った<ref>谷口眞子著『武士道考―喧嘩・敵討・無礼討ち』角川学芸出版、2007発行</ref>。}}を大きく露呈させたものでもあり、以後薩摩藩が真剣に、朝廷を中心として条約を結び直すための条件整備について模索を始めるきっかけともなった。
 
 
 
事件直後に現場に駆けつけたウィリス医師は、リチャードソンの遺体の惨状に心を痛め、戦争をも辞すべきでないとする強硬論を持ちながらも、一方で兄への手紙にこう書いている。「誇り高い日本人にとって、最も凡俗な外国人から自分の面前で人を罵倒するような尊大な態度をとられることは、さぞ耐え難い屈辱であるに違いありません。先の痛ましい生麦事件によって、あのような外国人の振舞いが危険だということが判明しなかったならば、ブラウンとかジェームズとかロバートソンといった男が、先頭には[[征夷大将軍|大君]]が、しんがりには[[天皇]]がいるような行列の中でも平気で馬を走らせるのではないかと、私は強い疑念をいだいているのです」<ref name="willy"/>
 
 
 
こういった当時の横浜居留民の常態を考えれば、薩摩藩がすでに往路で事件が起こりかねなかった状況を訴えていたにもかかわらず、島津久光一行の東海道通行とそれにともなう外国人通行自粛の要請を、幕府が各国公使館に正式に通告していなかったことの問題は大きい。この不手際は、事件後のイギリスとの外交交渉においても幕府側の弱みとなり続けた。条約により、居留地を中心として10里四方の外国人の遊歩は自由とされていたことから、幕府の規制要請がない限りにおいては、リチャードソン一行の行動がいかに無礼なものであろうとも、通行の安全を保障すべき幕府の責任をイギリス側は強硬に追及することができたのである。
 
 
 
余談だが、当事件の数ヶ月前に同じ生麦を大名行列として通過した[[尾張藩]]の見物を[[ジェームス・カーティス・ヘボン]]が近所の丘の上からオペラグラスで行っているが、一行への礼を表したため不問に付されている。そもそも外国人のみならず当時の日本人にとっても、華美な大名行列の見物は娯楽のひとつであった。
 
 
 
== 関連図書 ==
 
;小説・伝記
 
* [[吉村昭]]『生麦事件』([[新潮社]]、初版1998年/新潮文庫(上下)、2002年 上巻 ISBN 410111742X 下巻 ISBN 4101117438)
 
**新版『吉村昭歴史小説集成〈1〉[[桜田門外ノ変]]/生麦事件』(岩波書店、2009年)
 
* 宮澤眞一『「幕末」に殺された男 生麦事件のリチャードソン』(新潮選書、1997年)
 
 
 
== 脚注 ==
 
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=== 注釈 ===
 
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=== 出典 ===
 
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== 参考文献 ==
 
* [[公爵]][[島津家]]編纂所編『薩藩海軍史 中巻』(明治百年史叢書:原書房、初版1968年7月)
 
* [[徳富蘇峰]]『[[近世日本国民史]] 文久大勢一変 中編 維新への胎動(中)生麦事件』([[平泉澄]]校訂、[[講談社学術文庫]]、1994年3月、元版・時事通信社)
 
*アーネスト・サトウ、坂田精一訳『一外交官の見た明治維新(上)』([[岩波文庫]]、初版1960年)
 
* [[萩原延壽]]『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄 1 旅立ち』(朝日新聞社、初版1998年10月、朝日文庫、2007年)
 
* イアン・C・ラクストン『[[アーネスト・サトウ]]の生涯-その日記と手紙より』(長岡祥三・関口英男訳、東西交流叢書10 雄松堂出版、2003年8月)
 
* [[ヒュー・コータッツィ]]、中須賀哲朗訳『ある英人医師の幕末維新 W・ウィリスの生涯』(中央公論社、1985年4月)
 
* マーガレット・バラ、川久保とくお訳『古き日本の暼見 Glimpeses of Old Japan 1861〜1866』(有隣堂〈有隣新書〉、1992年9月)
 
* {{cite book|和書|title=後は昔の記 林董回顧録|author=林董|other=[[由井正臣]]校注|publisher=[[平凡社]] <東洋文庫173>|date=1970|isbn=4-582-80173-0|ref=harv}}
 
* 石井光太郎、東海林静男編『横浜どんたく 上巻』(有隣堂、昭和48年10月)
 
* 横田達雄編『青山文庫所蔵資料集1 那須信吾書簡(一)』(青山文庫後援会、1977年12月)
 
* 奈良勝司『明治維新と世界認識体系』(有志舎、2010年)
 
* Copyright・Jonathan Guinness with Catherine Guinness 『The House Of Mitford』(Orion Books New Ed版, 1984年)
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commonscat|Namamugi Incident}}
 
* [[井土ヶ谷事件]]
 
* [[鎌倉事件]]
 
* [[薩英戦争]]
 
* [[神戸事件]]
 
* [[堺事件]]
 
* [[生麦]]
 
* [[根岸競馬場]] - 日本で最初の競馬場は、生麦事件の賠償要求の一つとして造られた
 
* [[幕末の外国人襲撃・殺害事件]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
*[http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&msa=0&msid=105898637306472256553.000464635c52c03074af6&t=h&z=16 Googleマップ 生麦事件と幕末の生麦村]
 
*[http://plaza.rakuten.co.jp/skylinezero/diary/201006280001/ 「新聞の父」浜田彦蔵と生麦事件 ]
 
*[http://hamarepo.com/story.php?story_id=3977 「はまれぽ.com」生麦の人は当然知ってる!? 日本の近代化の発端となった生麦事件について教えて! ]
 
*{{Kotobank|2=世界大百科事典 第2版}}
 
 
 
{{Normdaten}}
 
 
 
{{coord|35|29|40.1|N|139|40|18.3|E|display=title|region:JP_type:event}}<!-- 生麦事件現場の座標。民家の塀に標識がある。石碑がある場所とは異なる。 -->
 
  
 +
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[[Category:日英関係]]
 
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生麦事件(なまむぎじけん)

幕末の薩摩藩士によるイギリス人殺傷事件。文久2 (1862) 年8月 21日島津久光の行列は,神奈川の生麦村付近で,騎馬のイギリス人リチャードソンら4名と行き会い,薩摩藩士は1名を斬殺,2名を負傷させた。当時は攘夷運動が最高潮に達していた事情もあり,イギリス側の要求に,幕府は応じたものの,薩摩藩は応じず,賠償問題は難航,薩英戦争の原因となった。



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