安閑天皇

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安閑天皇(あんかんてんのう、雄略天皇10年?(466年?) - 安閑天皇2年12月17日536年1月25日?))は、第27代天皇(在位:継体天皇25年2月7日531年3月10日?) - 安閑天皇2年12月17日(536年1月25日?))。

諱・諡号

日本書紀』では、勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)としている(「まがりのおいねのみこ」とも読む)。

和風諡号は、『古事記』に広国押建金日命(ひろくにおしたけかなひのみこと)、『日本書紀』に広国押武金日天皇とある。

系譜

継体天皇の長子。母は尾張目子媛(おわりのめのこひめ)。

記紀に皇子女の記述はない。『本朝皇胤紹運録』によれば子に豊彦王(とよひこのみこ、秦河勝[1])がいるという。河勝は通常は始皇帝の子孫とされるが、この記載に従えば安閑天皇の落胤となる。しかしこの豊彦王については他に史料が見当たっておらず所拠不明である。

系図

テンプレート:皇室飛鳥時代

皇居

都は勾金橋宮(まがりのかなはしのみや。現在の奈良県橿原市曲川町か)。

なお、1889年から1956年まで存続した「金橋村高市郡)」(現、橿原市)は、この宮号による近代の復古地名であった。金橋村がなくなった今でも駅名(JR金橋駅)や小学校名、郵便局名等々にその名を留めている。

事績

継体天皇の後を受けて、66歳にして即位したが、わずか4年で崩御した。

安閑天皇の治世の出来事として『安閑記』に、関東から九州までの屯倉の大量設置と、41箇所の屯倉の名が列挙され、これに伴う犬養部の設置が記されている。

なお、『日本書紀』に引く「百済本記」(「百濟本記爲文 其文云 大歳辛亥三月 軍進至于安羅 營乞乇城 是月 高麗弑其王安 又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣」)によれば、531年頃に天皇と太子・皇子が共に薨去したという所伝があるという。このことから、継体天皇の死後、安閑天皇・宣化天皇の朝廷と欽明天皇の朝廷が並立し、二朝間で内乱があったのではないかとする説もある(「辛亥の変」説)。

後世、神仏習合の教説で蔵王権現と同一視されたため、明治時代の神仏分離以降に、従来蔵王権現を祭神としていた神社で安閑天皇を祭神とし直したところが多い。

陵・霊廟

(みささぎ)は、宮内庁により大阪府羽曳野市古市5丁目にある古市高屋丘陵(ふるちのたかやのおかのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「高屋築山古墳」で、墳丘長122メートルの前方後円墳である。

また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

在位年と西暦との対照表

脚注

出典

  1. 「現神播磨国大僻大明神是也。秦氏祖云々」とあり、大僻大明神とは大避神社祭神の河勝のことと考えられる。
  2. 『日本書紀』継体天皇段 「廿五年二月。(中略)丁未。天皇崩磐余玉穂宮。時年八十二。」 安閑天皇段「廿五年春二月辛丑丁未。男大迹天皇立大兄天皇。即日、男大迹天皇崩。(中略)元年(中略)是年也太歳甲寅。二年(中略)十二月癸酉己丑。天皇崩勾金橋宮。時年七十。」 「男大迹天皇」は継体天皇のこと。「大兄」は勾大兄皇子(安閑天皇)のこと。
  3. 『日本書紀』継体天皇段 割注の形式で「或本云、天皇廿八年歳次甲寅崩。」

関連項目

外部リンク