大久保忠教

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大久保忠教
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄3年(1560年
死没 寛永16年2月29日1639年4月2日
幕府 江戸幕府
主君 徳川家康徳川秀忠徳川家光
氏族 藤原北家道兼流武茂氏庶流大久保氏

大久保 忠教(おおくぼ ただたか)は、戦国時代から江戸時代前期の武将江戸幕府旗本大久保忠員の八男。通称彦左衛門で有名。一時、忠雄とも名乗った。子に大久保忠名大久保包教大久保政雄らがいる。妻は馬場信成の娘。『三河物語』の著者としても知られる。

生涯

ファイル:Tadataka's grave at Ryūgyōji.jpg
「大久保忠教墓」の史跡記念碑
東京白金智光山立行寺

永禄3年(1560年)、徳川氏の家臣・大久保忠員の八男として三河国上和田(愛知県岡崎市上和田町)にて誕生。幼名は平助。

三河国の戦国大名徳川家康に仕え、天正4年(1576年)、兄・忠世と共に遠江平定戦に参加。犬居城での合戦が初陣という。以後、兄たちの旗下で各地を転戦し、高天神城攻めで岡部元信を討ち、天正13年(1585年)の第一次上田城の戦いでは全軍が真田昌幸の采配に翻弄される中、兄らと奮戦した。また、兄・忠世は家康の命令で真田氏の隣国で幼くして家督を継いでいた依田康国の後見を務めていたが、天正13年11月に石川数正出奔を受けて浜松城にいた忠世の代理として忠教が康国の小諸城に入って真田氏に備えている[1]

天正18年(1590年)、小田原征伐の後、主君・家康が江戸に移封され、兄・忠世およびその子で甥・忠隣相模国小田原城主に任じられると3000石を与えられる。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは徳川秀忠の軍に同行し第二次上田合戦に加わった。

このころ、次兄の忠佐駿河国沼津城主となって2万石を領していたが、忠佐の嫡子・忠兼が早世したため、弟の忠教を養子として迎えて跡を継がせようとしていた。これに対し忠教は、「自分の勲功ではない」と申し出を固辞したため、忠佐の死後沼津藩は無嗣改易とされた。続けて本家の忠隣が江戸幕府内の政争に敗れ失脚、改易となると、それに連座して忠教も一時改易された。しかし家康直臣の旗本として召し出され、三河国額田(愛知県額田郡幸田町坂崎)に1000石を拝領し復帰した。

慶長19年(1614年)、大坂の陣にも槍奉行として従軍。家康死後も2代将軍・徳川秀忠の上洛に従い、3代将軍・徳川家光の代になって旗奉行となった。このころ更に1000石を加増されている。寛永12年(1635年)ごろから常陸国鹿嶋茨城県鹿嶋市)に300石ほどの地を移し、余生を送りながら『三河物語』の執筆に没頭したようである。

寛永16年(1639年)、死去。死の間際に家光から5000石の加増を打診されたが、「余命幾ばくもない自分には有り難いが不要」と固辞したと伝えられている。法名:了真院殿日清。墓所:愛知県岡崎市竜泉寺町の海雲山弘誓院長福寺。京都市上京区上之辺町の光了山本禅寺および東京都港区白金の智光山立行寺(忠教によって建立されたため、通称を「大久保寺」という)。

講談・講釈の中の忠教

ファイル:Ōkubo Hikozaemon in a tub.jpg
たらいに乗って登城する大久保彦左衛門(月岡芳年画)
  • 俗に「天下のご意見番」として名高い忠教であるが、旗本以下の輿が禁止された際に「大だらい」に乗って登城したという逸話や将軍・家光にことあるごとに諫言したなどの逸話は後世の講談や講釈の中での創作である。これは太平の世に著書『三河物語』が当時の体制に不満を持っていた武功派の武士たちに支持され、いわばヒーローとして祭り上げられた結果ともいえる。
  • 忠教自身、自分の出世を顧みず常に多くの浪人たちを養ってその就職活動に奔走していたといわれており、様々な人々から義侠の士と慕われていたのは事実ではあるらしい。
  • いわゆる講談や講釈で知られるようになった「大久保彦左衛門と一心太助の物語」は鶴屋南北の弟子・河竹黙阿弥が書いた歌舞伎芝居に脚色してからである。
  • なお、鳶ヶ巣砦の攻撃を忠教の初陣としているのも講談での脚色の可能性が高い。

登場作品

大久保彦左衛門を題材とした作品
その他の作品

脚注

  1. 鈴木将典「依田松平氏の信濃佐久郡支配」戦国史研究会 編『戦国期政治史論集 東国編』(岩田書院、2017年) ISBN 978-4-86602-012-9

関連項目

外部リンク