ミケーネ文明

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アガメムノンの黄金の仮面。 ミケーネ文明の代表的な遺物で、1876年にシュリーマンによって発見された。

ミケーネ文明(ミケーネぶんめい)またはミュケナイ文明(ミュケナイぶんめい)は、エーゲ文明のうち、ペロポネソス半島ミケーネ(ミュケナイ)を中心に栄えた青銅器文明である[1]

概要

イギリスの考古学者アーサー・エヴァンズは、自身の考察から、1900年クレタ島クノッソスを発掘し、そこで発見した線文字Bミノア文明(クレタ文明)発祥のものと考えたが、1939年ピュロス王宮で線文字Bの刻まれた粘土版が発見され、実際にはこれはミケーネ文明で用いられたものと判明した。1952年にはミケーネ王宮、1971年にはティリンスでも、線文字Bを記した粘土版が発掘されている。ミケーネやチリンスの遺跡などは19世紀にシュリーマンによって発掘された。

ミケーネ文明は、紀元前1450年頃、アルゴリス地方で興り、ミノア文明と同じく地中海交易によって発展した。ミノア文明との貿易を通じて芸術などを流入し、ついにはクレタ島に侵攻、征服したと考えられる。このころ、ミケーネはトローアスイリオスを滅ぼし(トロイア戦争)、後にこれをホメーロスが叙事詩『イーリアス』の題材としたが、イリオスで大規模な破壊があったことは認められるものの、これが事実かどうかは推察の域を出ない。紀元前1150年頃、突如勃興した海の民によって、ミケーネ、ティリンスが破壊され、ミケーネ文明は崩壊した。これは後にスパルタを形成するドーリア人の手による。

ミノア文明の建築が開放的であったのに対し、ミケーネ文明の建築は模倣的で巨石を用い、円頂墓を作る等、堅牢な城壁で囲まれ閉鎖的なものとなっているが、これはミノア文明とは異なり外敵の脅威にさらされる可能性があった為と考えられている。中庭はミノア文明のそれとは異なり、動線の基軸として機能していない。中庭に代わる動線の基軸はメガロンと呼ばれる室内空間で、記念性を持った特権的な空間を構成し、中庭はその付属物である。 建物は対称性が重視されている。

のちのポリス社会と異なり、王が君臨し統治下の村々から農作物、家畜などを貢納させていた。貢納を受ける役人が存在していたが、エジプトメソポタミアほど統治機構の整備は進まなかった。

脚注

  1. デジタル大辞泉の解説【ミケーネ文明】”. コトバンク. . 2018閲覧.

関連項目

外部リンク



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