隆慶帝
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隆慶帝 朱載垕 | |
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明 | |
第13代皇帝 | |
200px 明穆宗半身朝服像 | |
王朝 | 明 |
在位期間 | 1567年2月4日 - 1572年7月5日 |
都城 | 北京 |
姓・諱 | 朱載垕 |
諡号 | 契天隆道淵懿寛仁顕文光武純徳弘孝荘皇帝 |
廟号 | 穆宗 |
生年 |
嘉靖16年1月23日 (1537年3月4日) |
没年 |
隆慶6年5月26日 (1572年7月5日) |
父 | 嘉靖帝 |
母 | 孝恪太后杜氏 |
后妃 |
孝懿皇后李氏(追贈) 孝安皇后陳氏 |
陵墓 | 昭陵 |
年号 | 隆慶:1567年 - 1572年 |
隆慶帝(りゅうけいてい)は、明朝の第13代皇帝。諱は載垕(さいこう)(垕の字は后の下に土)。廟号は穆宗(ぼくそう)。日本では在位中の元号から一般的に隆慶帝と称されている。
生涯
嘉靖帝の第3子として生まれ、嘉靖18年(1539年)に裕王に封じられている。嘉靖帝の晩年、明朝は内政の乱れの他に、「南倭北虜」と称される倭寇とモンゴル系タタールによる侵攻にさらされていた。即位した隆慶帝は嘉靖期の弊政を改革すべく、嘉靖帝への諫言により罪を得ていた徐階、海瑞などの人材を登用し、それまで朝廷で権勢をふるっていた道士を一掃した。また疲弊する国庫を建て直すため、海外貿易を開放し、倭寇、タタールに対してある程度の貿易を認める柔軟策で、対外的にも安定した時代を現出した。
しかし隆慶帝自身は凡庸な皇帝であり、朝政を省みず、その政務は大学士に代行されていた。また酒色に溺れ、享楽を求めた生活のため、36歳で崩御した。
宗室
后妃
- 孝懿荘皇后李氏(皇子時代の嫡妃、皇后を追号された)、孝安皇后陳氏
- 孝定皇太后李氏
- 端静淑妃秦氏、 賢妃江氏、栄恪徳妃李氏、荘僖栄妃王氏、端恪恵妃馬氏、奇妃叶氏、端恵懿妃于氏、容妃韓氏、端妃董氏、恭恵荘妃劉氏、昭順英妃魏氏、昭栄恭妃李氏、昭靖敬妃荘氏、栄悼安妃銭氏、恭静和妃趙氏
- 妃孔氏、 妃劉氏、 妃陳氏、 妃解氏、 妃張氏
男子
女子
- 蓬莱公主 - 母は孝懿荘皇后。夭折。
- 太和公主 - 夭折。
- 寿陽公主朱堯娥 - 母は孝定皇太后。侯拱辰に降嫁した。
- 永寧公主朱堯媖 - 母は孝定皇太后。梁邦瑞に降嫁したが、2か月後に死別した。
- 瑞安公主朱堯媛 - 母は孝定皇太后。万煒に降嫁した。
- 延慶公主朱堯姫 - 王昺に降嫁した。
- 棲霞公主朱堯㜢 - 母は淑妃秦氏。夭折。