船田中
船田 中(ふなだ なか、1895年(明治28年)4月24日 - 1979年(昭和54年)4月12日)は、日本の政治家。衆議院議員(当選15回)。第51代・第56代衆議院議長、自由民主党副総裁、従二位勲一等旭日桐花大綬章。
政治家一家として知られた「船田三兄弟」の長兄。衆議院議員で行政管理庁長官をつとめた船田享二は次弟、やはり衆議院議員で運輸大臣や自治大臣などを歴任した藤枝泉介は三弟にあたる。澄夫人は第24代衆議院議長元田肇の五女。参議院議員や栃木県知事をつとめた船田譲は長男で、その長男(孫)の船田元も衆議院議員、その2度目の妻(孫嫁)の畑恵も参議院議員をつめとている。
なお名の「中」は「なか」が正しい読みで、「あたる」は誤読である。
来歴・人物
作新学院の設立者・船田兵吾の長男として栃木県宇都宮市に生まれる。船田家は先祖代々神職にかかわった。
一高、1918年(大正7年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、内務省に入省する。東京市助役、東京市長代理を経て、1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙に立候補し、当選。以後当選15回。
戦前は立憲政友会に所属し、1931年(昭和6年)には、犬養内閣首相秘書官[1]、1937年(昭和12年)には、第1次近衛内閣の法制局長官に就任する。1940年(昭和15年)、大政翼賛会政策局内政部長をつとめ、1945年(昭和20年)には護国同志会を結成。戦後、日本協同党の結成に参加するが、公職追放を受ける。
1951年(昭和26年)に追放解除となり、翌1952年(昭和27年)、第25回衆議院議員総選挙で自由党から立候補し当選、政界復帰を果たす。1955年(昭和30年)、保守合同に伴い自由民主党に参加。同年、第3次鳩山内閣の防衛庁長官に就任。また、自民党外交調査会長、安全保障調査会長を歴任し、親台湾・大韓民国派、タカ派としての立場を取った。党内では大野伴睦派に所属するが、大野の死後に派閥は分裂し、船田派を率いた。
第51代・第56代の衆議院議長(在任期間:1963年(昭和38年)12月7日 - 1965年(昭和40年)12月20日、1970年(昭和45年)1月14日 - 1972年(昭和47年)11月13日)。衆議院議長在職日数1780日は日本国憲法下2位である。
1977年(昭和52年)には自民党副総裁に就任した。作新学院理事長も務め、作新学院高OBの江川卓の後見人として江川事件に巻き込まれることにもなった。1979年(昭和54年)4月12日死去。享年83。
世界連邦運動の推進団体である世界連邦日本国会委員会第7代会長であった。
栄典
- 年月日不明(明治憲法時代) - 叙・正五位 / 叙・勲二等
- 1965年(昭和40年)4月29日 - 叙・勲一等 / 旭日大綬章受章
- 1973年(昭和48年)4月29日 - 旭日桐花大綬章受章
- 1979年(昭和54年)4月12日 - 叙・従二位 / 賜・銀杯一組
著書
- 『他山の石 - 敗戰獨逸から第三帝國建設へ』(1937年)
- 『東亜明朗化のために』(日本青年教育会、1938年)
- 『生産増強企業整備と物價問題其他』(1943年)
- 『青山閑話』(一新会、1970年)
- 『最近の内外情勢について』(1972年)
- 『激動の政治十年 - 議長席からみる』(1973年)
関連項目
脚注
- ↑ 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』26頁。
外部リンク
議会 | ||
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先代: 松田竹千代 清瀬一郎 |
衆議院議長 第56代:1970年 - 1972年 第51代:1963年 - 1965年 |
次代: 中村梅吉 山口喜久一郎 |
先代: 西村直己 |
衆議院予算委員長 1960年 - 1961年 |
次代: 山村新治郎 |
先代: 八木一郎 |
衆議院内閣委員長 1952年 - 1953年 |
次代: 稲村順三 |
公職 | ||
先代: 砂田重政 |
防衛庁長官 第5代:1955年 - 1956年 |
次代: 小瀧彬 |
先代: 瀧正雄 |
法制局長官 第37代:1937年 - 1939年 |
次代: 黒崎定三 |
党職 | ||
先代: 椎名悦三郎 |
自由民主党副総裁 第6代:1977年 - 1978年 |
次代: 西村英一 |
先代: 中村梅吉 |
自由民主党政務調査会長 第6代:1959年 - 1960年 |
次代: 椎名悦三郎 |
名誉職 | ||
先代: 千葉三郎 |
最年長衆議院議員 1976年 - 1979年 |
次代: 西村英一 |