「ドーリットル空襲」の版間の差分

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{{Battlebox
 
| battle_name=ドゥーリットル空襲
 
| campaign=ミッドウェー作戦
 
|colour_scheme=background:#ffff99; color:#2222cc
 
| image=[[ファイル:Army B-25 (Doolittle Raid).jpg|280px]]
 
| caption=空母から発艦するドーリットル隊所属のB-25
 
| conflict=[[太平洋戦争]]/[[大東亜戦争]]
 
| date=[[1942年]](昭和17年)[[4月18日]]
 
| place=[[東京]]周辺
 
| result=アメリカ軍による初の[[日本本土空襲]]
 
* [[ミッドウェー海戦]]の生起<ref name="覇者上298">[[#覇者上|大空の覇者上]]298-299頁「太平洋戦争の転換点」</ref>
 
その他は[[#影響]]を参照
 
| combatant1={{JPN1889}}     
 
| combatant2={{USA1912}}
 
| commander1=無し
 
| commander2=[[ジミー・ドーリットル]]中佐
 
| strength1=無し
 
| strength2=[[B-25 (航空機)|B-25]]x16機<br />空母[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]、[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]など<br />中華民国軍は基地を提供
 
| casualties1=潜水母艦1隻小破<br />監視艇5隻沈没、7隻損傷<ref name="写真14日本軍艦190">[[#写真日本の軍艦第14巻]]190-191頁「特設監視艇」</ref><br />戦闘機1、攻撃機1、爆撃機3機事故喪失<br />死者87人、家屋被害286戸以上
 
| casualties2=B-25全損16機<br />艦爆1機事故喪失<br />戦死1名、行方不明2名、捕虜8名
 
|}}
 
'''ドーリットル空襲'''(ドーリットルくうしゅう、[[英語]]:Doolittle Raid)は、[[第二次世界大戦]]中の[[1942年]](昭和17年)[[4月18日]]に、[[アメリカ軍]]が[[アメリカ陸軍航空軍]]の[[爆撃機]]([[航空母艦]]より発進)によって実施した[[大日本帝国|日本]]本土に対する初めての[[空襲]]である<ref>[[#実録八|実録八巻]]、691頁(ドーリットル空襲)</ref><ref>[[#毎日S19空決|空の決戦]]コマ31(原本59頁)「米國は開戰以來、常に日本本土空襲を呼號し續けて來た。現在とても同様であるが、米國がこれを敢行したのは一昨昭和十七年の四月十八日、帝都を僅かの機數で空襲したにとどまつてゐる。」</ref>。名称は爆撃機隊の指揮官であった[[ジミー・ドーリットル]]中佐に由来する<ref>[[#叢書102|戦史叢書102巻]]、373頁「ドーリットル空襲」</ref>。
 
  
== 概要 ==
+
{{テンプレート:20180815sk}}
'''ドーリットル空襲'''とは<ref>[[#叢書43|戦史叢書ミッドウェー海戦]]、59頁「二 ドゥリットル空襲」</ref>、[[太平洋戦争]]緒戦の[[1942年]](昭和17年)[[4月18日]]、[[ヨークタウン級航空母艦]]2隻([[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]、[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]])を基幹とする[[ウィリアム・ハルゼー・ジュニア|ハルゼー]]提督指揮下のアメリカ海軍機動部隊が[[太平洋]]を横断して[[日本列島]]([[本州]])東方海域に到達<ref>[[#叢書43|戦史叢書ミッドウェー海戦]]、61頁「参考」</ref><ref name="叢書八十360">[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、360-362頁「空襲と要撃の概要」</ref>。
 
「ホーネット」より[[B-25 (航空機)|B-25双発爆撃機ミッチェル]]16機が発進し、[[大日本帝国]]に対する[[太平洋戦争]]初の日本本土攻撃を実施した一連の[[空襲]]<ref name="写真14日本軍艦205">[[#写真日本の軍艦第14巻]]205頁「18土●米機動部隊本土空襲(ドーリットル空襲)」</ref><ref name="ニミッツ46">[[#ニミッツ1962|ニミッツ1962]]pp.46-47</ref><ref>[[#覇者上|大空の覇者上]]235-236頁「ノースアメリカンB-25ミッチェル」</ref>。
 
<!--日中戦争中、中華民国空軍のB-10が九州に飛来したため、日本本土に対する初飛来ではない-->
 
[[ジミー・ドーリットル]]中佐を指揮官とするB-25爆撃機16機は<ref name="叢書八十360" /><ref name="叢書102、S17.04.18">[[ドーリットル空襲#叢書102|戦史叢書102巻]]、116-117頁「昭和17年(1942年)4月18日 米機動部隊、日本本土初空襲<!-- 6-60、19-114、29-166~195、33-548、38-545・557、43-59、51-54、55-109、57-37、59-12・17・90、74-281、80-360、85-82、94-8、95-217-->」</ref>、日本本土各地([[東京]]、[[横須賀海軍工廠]]、[[横浜]]、[[名古屋]]、[[神戸]]、[[大阪]]等)に空襲を実施、民間人に被害があった<ref name="丸写真三44">[[#丸写真3巻|写真太平洋戦争3巻]]、44-47頁(佐藤和正「ドーリットル空襲/珊瑚海海戦」)</ref><ref>[[#大阪画報続|大東亜戦争記録画報続]]コマ94(原本177頁)「空襲の實施状況」</ref>。
 
軍事的な戦果は[[潜水母艦]]から[[航空母艦]]へ改造中の「[[龍鳳 (空母)|大鯨(龍鳳)]]」が直撃弾で損傷<ref name="写真14日本軍艦205"/>、また米軍機動部隊の掃討により[[漁船]]改造の特設監視艇隊に被害が出た程度だったが<ref>[[#変種|変わりダネ軍艦奮闘記]]、201-202頁「▽特設監視艇」</ref>、日本軍に与えた衝撃は極めて大きかった<ref name="ニミッツ46"/><ref name="叢書八十362">[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、362-363頁「空襲の及ぼした影響/精神的影響」</ref><ref name="叢書四三62">[[#叢書43|戦史叢書ミッドウェー海戦]]、62-63頁「米空母に対する関心急増」</ref>。
 
 
 
作戦遂行において[[中華民国]]の[[国民革命軍]]の支援を受けており、日本本土爆撃を終えたB-25のうち15機は[[中国大陸]]に不時着して放棄された<ref name="トール95">[[#トール2013|トール 2013]]pp.95-96『爆撃機はミッドウェイから来た?」</ref><ref name="ニミッツ46"/>。この際、搭乗員8名が日本軍の捕虜となり、その処遇を巡って問題になった<ref name="トール95"/><ref>[[#実録八|実録八巻]]、717-718頁(米国人捕虜処分問題)</ref>。また1機は[[ソビエト連邦]]支配地域に不時着して、搭乗員は抑留された<ref name="トール95"/><ref name="ニミッツ46"/>。
 
 
 
== 背景 ==
 
=== 相次ぐアメリカ本土攻撃 ===
 
[[ファイル:Japanese submarine I-10 at Penang port in 1942.jpg|right|200px|thumb|アメリカ本土沿岸で通商破壊戦を行った伊10]]
 
[[ファイル:WWII SF posters.gif|right|200px|thumb|[[サンフランシスコ]]市内に張り出されたシェルターへの避難案内と[[日系アメリカ人]]に対する強制退去命令]]
 
[[1941年]](昭和16年)[[12月8日]]に行われた[[真珠湾攻撃]]以降、アメリカ軍は[[日本軍]]に対し各方面で一方的な敗退が続いた<ref>[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、74-77頁「経過概要」</ref>。さらに真珠湾攻撃終了後、同作戦支援にまわっていた[[大日本帝国海軍|日本海軍]]・[[第六艦隊 (日本海軍)|先遣部隊]](指揮官[[清水光美]]第六艦隊司令長官)の一部潜水艦を抽出して先遣支隊が編成され、アメリカ大陸西岸で行動する<ref name="叢書八十128">[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、128-129頁「米西岸海上交通破壊戦」</ref><ref name="叢書九八105">[[#叢書98|戦史叢書98巻]]、105-106頁「二 ハワイ作戦後の先遣部隊の作戦/先遣支隊の作戦」</ref>。
 
[[伊十五型潜水艦|巡潜乙型潜水艦]]計9隻([[伊号第九潜水艦|伊9]]、[[伊号第十潜水艦|伊10]]、[[伊号第十五潜水艦 (初代)|伊15]]、[[伊号第十七潜水艦|伊17]]、[[伊号第十九潜水艦|伊19]]、[[伊号第二十一潜水艦|伊21]]、[[伊号第二十三潜水艦|伊23]]、[[伊号第二十五潜水艦|伊25]]、[[伊号第二十六潜水艦|伊26]]<ref>[[#学習研究社2009|学習研究社 2009]] 100頁</ref>。10隻との記録もある)は、[[太平洋]]のアメリカとカナダ、[[メキシコ]]の西海岸に展開し<ref>[[#叢書98|戦史叢書98巻]]、107頁「挿図第五 先遣支隊米西岸配備」</ref>、[[12月20日]]頃より[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]、特にアメリカに対する[[通商破壊]]戦を展開した<ref name="叢書八十128" /><ref name="叢書九八105" />。
 
 
 
その結果、約10日間の作戦でアメリカ西海岸沿岸を航行中のアメリカの[[タンカー]]や貨物船を5隻撃沈し、5隻大破させ、その総トン数は6万4669トンに上った<ref name="叢書九八108">[[#叢書98|戦史叢書98巻]]、108-109頁</ref>。中には西海岸沿岸の住宅街の沖わずか数キロにおいて、日中に多くの市民の目前で貨物船を撃沈した他、浮上して艦船への砲撃を行い撃沈するなど、活発な作戦を行った。
 
[[1942年]](昭和17年)[[2月24日]]には、日本海軍の[[伊号第十七潜水艦|伊17]]乙型大型潜水艦による[[カリフォルニア州]][[サンタバーバラ (カリフォルニア州)|サンタバーバラ]]のエルウッド[[石油]]製油所への砲撃を行いこれに成功するなど<ref>[[#叢書98|戦史叢書98巻]]、115頁(伊17行動)</ref><ref>[[#学習研究社2009|学習研究社 2009]] 102頁</ref>、一連の[[アメリカ本土攻撃|本土への先制攻撃]]を行った。
 
 
 
これらの日本軍による一連の本土への先制攻撃は、これまで殆ど本土を攻撃された経験のないアメリカ政府のみならず国民にも大きな衝撃を与えた<ref name="叢書八十128" /><ref name="叢書九八108" />。[[フランクリン・D・ルーズベルト]]大統領は日本軍の本土上陸は避けられないと判断し、[[ロッキー山脈]]でこれを阻止する作戦の立案を指示し、同時に[[ニイハウ島事件]]の影響もあり[[日系アメリカ人の強制収容]]も行うこととなった。
 
 
 
さらにアメリカ政府はこれらの日本軍の本土攻撃に対して、国民の動揺と厭戦気分を防ぐべくマスコミに対する報道管制を敷いたが、その後も日本軍の上陸や空襲の誤報が相次いだ。さらには上記の砲撃作戦の翌日には、ロサンゼルスに対する日本軍機の空襲を誤認した陸軍による高射砲戦が行われた結果、6人の民間人の死者を出すなど([[ロサンゼルスの戦い]])、アメリカ国内は官民を問わず大きな混乱と恐怖に覆われることとなった。
 
 
 
=== 日本海軍の米空母対策 ===
 
1930年(昭和5年)の時点で日本海軍は、アメリカ海軍が保有する[[レキシントン級航空母艦]]([[レキシントン (CV-2)|レキシントン]]、[[サラトガ (CV-3)|サラトガ]])による東京空襲と、空母艦載機による爆撃や[[毒ガス]]による市民への被害を指摘していた<ref name="中島1930空母19">[[#中島1930|中島、航空母艦]]コマ19-20(原本29-31頁)「(略)或は航空母艦を敵の海岸近くに派遣して之より爆撃機を放ち敵の海岸都市を空襲する事も出來る。此の點から云ふと我東京は甚だ不利である。将来萬一日米戰爭が起つた場合米國のレキシントン級の大航空母艦が太平洋上にある我が哨艦の目を潜つて伊豆大島の二百浬位沖合に現はれ、戰闘飛行機隊に依りて護衛さるゝ大爆撃機隊を放ち、我東京を空襲しないとも限らないのである。然るときには東京は五百瓲、千瓲の大爆彈に見舞はれ、東京驛の如き大建築も一撃の下に粉碎されるかも知れない、または一機に千發以上も搭載し得ると云ふ焼夷弾を市内至る所にばら撒かれ、彼の關東大震火災當時の如き惨状を呈するかも知れない。兎に角航空機の發達したる将来戰に於ける市民は安閑として居られないのである。戰爭は軍人の仕事だと思つて安心して居ると、何時頭の上から恐ろしい爆彈や焼夷彈を浴びせられるかも知れない。更に恐ろしいのは毒瓦斯である。敵の航空機が東京の市上に現はれ、毒瓦斯を振り撒いて行つたならば大變である。毒瓦斯は人家稠密いて居る市中に擴がつたならば中々飛散しない、そして市民は片つ端から之が爲に斃れねばならぬ。(以下略)」</ref>。
 
空母による空襲のほかにも、米軍航空部隊がソ連領や[[アリューシャン列島]]に基地を進め、陸上機により日本本土空襲を行う可能性もあった<ref name="叢書八十358">[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、358-360頁「本土空襲に対する懸念と処置」</ref>。1942年(昭和17年)2月下旬の図上演習では、米軍が[[ニア諸島]]のセミチ島([[アッツ島]]の近辺)に基地を建設し、開発されたばかりの[[B-29 (航空機)|米超大型爆撃機]]による帝都空襲に成功している<ref name="叢書八十345" />。
 
 
 
また連合艦隊司令長官[[山本五十六]]大将は、昭和16年1月の[[及川古志郎]]海軍大臣にあてた「戦備ニ関スル意見」の中で、日本本土が空襲された場合の国民の動揺を懸念していた<ref name="叢書八十358" />。大本営海軍部([[軍令部]])も本土空襲を懸念していたが、山本長官ほどの危機感はもっていなかった<ref name="叢書八十358" />。
 
いずれにせよ米機動部隊による本土空襲(特に[[東京|帝都]]空襲)を懸念していた日本海軍は、太平洋戦争開戦と共に[[日本列島]]東方約700浬に特設監視艇による哨戒網を構築し、基地航空隊の陸上攻撃機による長距離索敵との相乗で、米機動部隊を監視することにした<ref name="叢書八十358" /><ref name="叢書九八118" />。敵機動部隊来襲の場合、在内地艦船と航空部隊をもって邀撃する方針である<ref name="叢書九八118" />。ただし、監視艇・哨戒機の数は不十分であった<ref name="叢書八十358" />。
 
 
 
[[1941年]](昭和16年)12月8日の開戦時、アメリカ海軍は作戦行動可能な空母を7隻(真珠湾方面配備〈レキシントン、エンタープライズ〉<ref>[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、81-82頁</ref>、西海岸および大西洋方面配備〈サラトガ、ヨークタウン、ホーネット、ワスプ、レンジャー〉)保有していた。真珠湾攻撃で日本海軍はアメリカ太平洋艦隊の戦艦群に大打撃を与えたが、空母の捕捉には失敗した<ref name="叢書八十130">[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、130-133頁「対米空母対策と先遣部隊の用法変更」</ref>。大本営海軍部は「米海軍は小部隊によるゲリラ戦に出るだろう」と判断しており、山本長官は「ゲリラ戦」が米空母部隊による本土空襲と判断していたという<ref name="叢書八十130" />。
 
 
 
開戦以後、ハワイ方面の監視に従事していた日本海軍潜水艦部隊は幾度か米空母を発見するが、損害を与えられなかった<ref name="叢書八十130" /><ref name="叢書九八109">[[#叢書98|戦史叢書98巻]]、109-110頁「二潜戦の長期監視とサラトガ雷撃/長期監視」</ref>。
 
[[1942年]](昭和17年)1月初旬、[[伊号第三潜水艦]]がハワイ近海で米軍機動部隊を襲撃(失敗)<ref name="叢書九八109" />。同方面の日本海軍潜水艦が索敵したところ、1月12日に[[伊号第六潜水艦]]が「レキシントン型1隻撃沈」を報告する<ref name="叢書八十132">[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、132-133頁「レキシントン型撃沈の報とのそ影響」</ref><ref name="叢書九八111">[[#叢書98|戦史叢書98巻]]、111-112頁「サラトガを雷撃」</ref>。実際の戦果は空母[[サラトガ (CV-3)|サラトガ]]大破で、同艦は半年ほど修理を強いられた<ref name="叢書八十132" /><ref name="叢書九八118">[[#叢書98|戦史叢書98巻]]、118-120頁「対米機動部隊作戦」</ref>。
 
1月24日、[[クェゼリン環礁]]に帰投した伊六からの詳細報告により、連合艦隊はレキシントンの撃沈を確信する<ref name="叢書八十132" />。連合艦隊は「当分、米機動部隊は太平洋方面で行動しないだろう」と判断、警戒態勢を緩めるとともに、南雲機動部隊([[第一航空艦隊]])を[[ラバウル攻撃|ラバウル攻略作戦]]や南方作戦に転用した<ref name="叢書九八111" /><ref name="叢書八十169">[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、169-173頁「情勢緩和の誤判断とマーシャル被攻撃」</ref>。東方の情勢に懸念をもっていた[[宇垣纏]]連合艦隊参謀長も、各艦隊・部隊の意見に押し切られた<ref name="叢書八十169" />。
 
 
 
だがアメリカ軍空母機動部隊は1942年2月初旬の[[マーシャル・ギルバート諸島機動空襲]]を皮切りに、[[ウェーク島]]や[[南鳥島]]など、日本軍の警戒が手薄な拠点に牽制攻撃を敢行した<ref>[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、175-177頁「米軍の南太平洋強化、マーシャル奇襲」</ref><ref>[[#叢書43|戦史叢書ミッドウェー海戦]]、33-35頁「米空母の機動に手を焼く」</ref>。日本海軍は潜水艦や陸上基地航空隊で邀撃あるいは索敵攻撃をおこなったが、米機動部隊を補足できなかった<ref name="叢書八十169" /><ref name="叢書九八118" />。
 
連合艦隊参謀長[[宇垣纏]]少将は2月2日の陣中日誌『[[戦藻録]]』に「今回の事正に頂門の一針なり。開戦以来既に二ヶ月に垂んとす。彼も亦無策に終る筈なし。冒険性は彼の特徴なり。今や戦局南に西に火花を散らすの時機に投じたりと謂ふべく実効果と合はせ牽制の目的を達したり。今後と雖も彼として最もやりよく旦効果的なる本法を執るべし。'''其の最大なるものを帝都空襲なりとす。'''」と記した<ref name="叢書八十169" /><ref>[[#宇垣1979|宇垣 1979]]、76頁</ref><ref>[[#叢書43|戦史叢書ミッドウェー海戦]]、36頁(戦藻録2月2日)</ref>。宇垣は3月11日と12日の日誌にも同様の懸念を表し<ref>[[#叢書43|戦史叢書ミッドウェー海戦]]、37頁(3月11日、12日)</ref>、戦勝祝賀日の最中に本土空襲があることを想定して「其の結果思ふだに戦慄を禁ずる能はず」と述べている<ref>[[#宇垣1979|宇垣 1979]]、93頁</ref><ref>[[#トール2013|トール 2013]]pp.69-71『帝都空襲への恐れ」</ref>。
 
 
 
2月8日、連合艦隊は通信量の増大から「対米国艦隊第三法」を発動し、横須賀に在泊中の空母[[翔鶴 (空母)|翔鶴]]を出動させた<ref name="叢書八十169" />。[[第五航空戦隊]]と[[第一艦隊 (日本海軍)|第一艦隊]]の戦艦により「警戒部隊」を編成、米空母部隊の捕捉撃滅を命じたが異常はなく、2月15日に第三法解除に至った<ref name="叢書八十169" />。
 
3月10日、連合艦隊は通信情報から米機動部隊が日本本土に来襲すると判断、対米国艦隊作戦第三法を発令した<ref name="叢書九八118" /><ref name="叢書八十182">[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、182頁「その後の情報と措置」</ref>。警戒部隊・潜水艦部隊・陸上基地航空隊が出撃したものの米機動部隊は出現せず、3月18日の「第三法止メ」に至った<ref name="叢書九八118" /><ref name="叢書八十182" />。1月下旬以降、米軍機動部隊に関連する無線情報は1月31日・2月7日・17日・3月10日・28日の五回であったが、適中したのは1月31日と2月17日だけだった<ref name="叢書八十182" />。
 
 
 
以上のように、日本海軍は米軍機動部隊の奇襲に翻弄され、有効な対策をとれなかった<ref name="叢書八十315">[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、315-317頁「五 聯合艦隊の研究/米空母対策」</ref>。真珠湾方面は警戒が厳しくて、潜水艦による偵察ができなかった<ref name="叢書八十315" />。東太平洋方面の海軍航空兵力はトラック泊地方面の第二十四航空戦隊(常用陸攻27、飛行艇18、戦闘機27)、関東地区の木更津海軍航空隊と横須賀海軍航空隊にすぎず、反撃はおろか哨戒すら満足にできなかった<ref name="叢書八十315" /><ref name="叢書八十339" />。連合艦隊は受け身の不利を痛感し、敵空母をおびき出して撃滅するという着想に至る<ref name="叢書八十315" /><ref name="叢書八十339">[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、339-342頁「米空母撃滅企図―ミッドウェー作戦案」</ref>。軍令部や日本陸軍との折衝により二転三転したのち、連合艦隊は5月上旬に[[ポートモレスビー]]を攻略(1月下旬に発令済み)、6月上旬にミッドウェー作戦を実施、7月上旬にFS作戦、10月を目途にハワイ攻略作戦の準備という計画を練った<ref name="叢書八十339" />。
 
 
 
4月5日、大本営海軍部はミッドウェー攻略とアリューシャン西部要地攻略作戦に同意、採用を内定した<ref>[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、342-345頁「海軍部ミッドウェー作戦採用」</ref><ref name="叢書八十345">[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、345-346頁「アリューシャン西部要地攻略作戦の追加」</ref>。日本陸軍は「この作戦はハワイ攻略の前提ではないか」「アリューシャン作戦はソ連に悪影響を与えるのではないか」と疑っており、ミッドウェーおよびアリューシャン作戦に陸軍部隊の派遣を拒否した<ref name="叢書八十346">[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、346-347頁「ミッドウェー、アリューシャン作戦の追加」</ref>。
 
4月16日、[[永野修身]]軍令部総長は長期自給戦略態勢確立と戦争終末促進をはかる「第二作戦計画」について[[昭和天皇]]に上奏、裁可を得た<ref>[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、347-350頁「第二段作戦計画/大東亞戦争第二段作戦 帝国海軍作戦計画」</ref>。同日、軍令部は大海指第85号により連合艦隊([[山本五十六]]司令長官)と[[支那方面艦隊]]([[古賀峯一]]司令長官)に対し第二段作戦方針を指示した<ref name="叢書八十353">[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、353-354頁「第二段作戦方針の指示」</ref>。ミッドウェー作戦、FS作戦(フィジー、サモア方面)、インド洋作戦、ハワイ攻略準備について触れていたとみられる<ref name="叢書八十353" />。
 
 
 
=== 米空母艦載機による空襲計画 ===
 
[[ファイル:B-25 on the deck of USS Hornet during Doolittle Raid.jpg|thumb|200px|空母ホーネットに詰め込まれたB-25]]
 
[[ファイル:B-25 Mitchell "Sarinah".jpg|thumb|right|200px|B-25ミッチェル爆撃機]]
 
1941年(昭和16年)12月上旬の[[真珠湾攻撃]]以降も[[太平洋戦争]]の緒戦で、アメリカ軍は苦戦を強いられる。すでに述べたように、日本軍潜水艦によるアメリカ本土攻撃も、国民の士気に影響を与えた。この様な状況を受けて、アメリカ軍は[[士気]]を高める方策として日本の[[首都]][[東京]]を攻撃する計画を立てた<ref>[[#毎日S19空決|空の決戦]]コマ33(原本62頁)「米國の對日空襲計畫を考へて見ると、一昨年の春頃の米國の對日空襲計畫は、緒戰における大敗北によつて混亂した國内の民心を収攬するため、政治的に利用した揚言であつた。昭和十七年四月十八日の帝都空襲の如きも、僅か數機で行はれたに過ぎず、これによつて日本の生産地帯を壊滅せしめ得たとは米國自身も夢にも思つてはゐないに違ひない。「日本を空襲した」といふニュースが、當時の米國政府にとつては政治的に相當な價値があつたのであらう。これはルーズヴェルト一派の、米國の所謂ユダヤ系指導者達が、緒戦の敗戰を糊塗するために行つた芝居である。」</ref>。
 
しかし、当時アジア太平洋の各地域で敗退を続けていた[[アメリカ海軍]]の[[潜水艦]]は、警戒の厳しい日本本土を砲撃することのみならず、近付くにも大きな危険が伴うために、海軍艦船による砲撃は行えないと考えられた。
 
なおアメリカ海軍は日本海軍のような[[潜水艦搭載偵察機]]と、それを搭載する大型潜水艦を実用化していなかった。
 
[[アメリカ陸軍航空軍]]は長距離爆撃機を保有していたものの、その行動半径内に日本を収める基地は無く、[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[領域 (国家)|領土]]は[[日ソ中立条約]]のため、爆撃のための基地使用は行えなかった。
 
アメリカ海軍の空母艦載機は航続距離が短く、爆撃のためには[[航空母艦|空母]]を日本近海に接近させる必要があり、これは[[太平洋]]上で唯一動ける空母機動部隊が危険に晒されることを意味した。
 
 
 
ルーズベルト[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]は、真珠湾攻撃から2週間後の時点で、海軍に日本本土空襲の可能性を研究させていた<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、11頁</ref><ref>[[#覇者上|大空の覇者上]]240-241頁「報復攻撃」</ref>。1942年(昭和17年)1月、海軍作戦部作戦参謀[[フランシス・S・ロー]]海軍大佐(潜水艦出身)は空母[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]の状況を確認した際、「航続距離の長い陸軍航空軍の爆撃機を空母から発艦させ、日本本土を爆撃する」というプランを思いつく<ref name="トール75">[[#トール2013|トール 2013]]pp.75-77『日本本土を爆撃できないか」</ref>。ロー大佐は、造船所視察のために滞在中だった[[アーネスト・キング]]提督にアイデアを説明<ref>[[#覇者上|大空の覇者上]]241-242頁「日本爆撃のアイデア」</ref>。ロー大佐は、さらに航空作戦参謀ドナルド・B・ダンカン海軍大佐に報告した<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、12頁</ref><ref>[[#覇者上|大空の覇者上]]242-243頁「航空作戦参謀ドナルド・ダンカン」</ref>。アイデアは[[アーネスト・キング]]提督から[[ヘンリー・アーノルド]]陸軍航空軍司令官に伝えられ<ref>[[#覇者上|大空の覇者上]]243-244頁「作戦成功の鍵」</ref>、アーノルドは[[ジミー・ドーリットル]]中佐を任務の指揮官に選んだ<ref name="トール75"/><ref>[[#覇者上|大空の覇者上]]245-246頁「<ruby><rb>それは君のやることだ</rb><rt>イッツ・ユア・ベイビー</rt></ruby>」</ref>。2月1日、ノーフォーク沖でジョン・E・フィッツラルド海軍大尉とジェームス・F・マッカーシー海軍大尉が[[B-25 (航空機)|B-25]]をホーネットから発進させることに成功した<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、13頁</ref><ref>[[#覇者上|大空の覇者上]]252-253頁「極秘の発艦実験」</ref>。
 
 
 
航空軍爆撃機の空母からの発艦は実戦では初であり、この作戦の詳細はルーズベルト大統領にさえトップシークレットとされた。また、空母に着艦するのではなく、[[日本列島]]を横断して当時、[[日本軍]]と戦争中であり、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍の主要構成国の1国であった中華民国東部に[[中華民国国軍]]の誘導信号の下で着陸する予定となった<ref>[[#覇者上|大空の覇者上]]250-252頁「中国への通報」</ref>。[[蒋介石]](中華民国総統)自身は日本軍の報復を恐れて着陸の延期を執拗に要請しており、また中華民国軍飛行場への誘導電波発信機設置は間に合わなかった<ref>[[#覇者上|大空の覇者上]]276-277頁「設置されなかったホーミング・ビーコン」</ref>。アメリカ軍は[[ウラジオストク]]を避難場所とすることを検討してソ連に提案したが、日本と中立条約を結んでいた同国は拒否した<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、16頁</ref>。B-25を搭載する空母はホーネットとされ、姉妹艦の[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]が護衛に付くこととなった<ref>[[#覇者上|大空の覇者上]]266-268頁「空母機動部隊」</ref>。
 
 
 
B-25爆撃機の方は、第17爆撃隊(第34、第37、第95爆撃中隊、第89偵察中隊)から志願者を選別し24機を抽出した<ref>[[#覇者上|大空の覇者上]]254-256頁「エグリン飛行場/飛行教官ハンク・ミラー」</ref>。長距離飛行が要求されるため、燃料タンクを大幅に増設した<ref name="トール75"/><ref>[[#覇者上|大空の覇者上]]246-247頁「機体改修」</ref>。任務の性格上必要ないと判断された[[ノルデン爆撃照準器]]を取り外し<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、18頁</ref>、代わりに簡易照準器が搭載された<ref>[[#丸写真3巻|写真太平洋戦争3巻]]、15頁</ref>。500ポンド爆弾4発を搭載<ref>[[#丸写真3巻|写真太平洋戦争3巻]]、22頁(ホーネット甲板上爆弾写真)</ref>。4月1日、16機がサンフランシスコ・アラメダ埠頭で空母ホーネットの甲板にクレーンで搭載された<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、21頁</ref><ref name="トール73">[[#トール2013|トール 2013]]pp.73-74『空母ホーネットにのせられたB-25」</ref>。
 
 
 
=== 参加兵力 ===
 
'''第18任務部隊'''
 
* [[ウィリアム・ハルゼー|ウィリアム・F・ハルゼー]]中将
 
* 空母 「[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]」
 
** 重巡洋艦:[[ノーザンプトン (重巡洋艦)|ノーザンプトン]]
 
** 重巡洋艦:[[ヴィンセンス (重巡洋艦)|ヴィンセンス]]
 
** 軽巡洋艦:[[ナッシュビル (軽巡洋艦)|ナッシュビル]]
 
* 第52駆逐隊
 
** 駆逐艦:[[グウィン (DD-433)|グウィン]]、[[w:USS Grayson (DD-435)|グレイソン]]、[[メレディス (DD-434)|メレディス]]、[[w:USS Monssen (DD-436)|モンセン]]
 
*** 給油艦:[[w:USS Cimarron (AO-22)|シマロン]]
 
(4月13日、ミッドウェー環礁北方で第16任務部隊と合同。同部隊に編入)
 
 
 
'''第16任務部隊'''
 
* 空母 「[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]」
 
** 重巡洋艦:[[ソルトレイクシティ (重巡洋艦)|ソルトレイクシティ]]
 
** 重巡洋艦:[[ノーザンプトン (重巡洋艦)|ノーザンプトン]]
 
** 駆逐艦:[[w:USS Balch (DD-363)|バルチ]]、[[ベンハム (DD-397)|ベンハム]]、[[w:USS Fanning (DD-385)|ファニング]]、[[w:USS Ellet (DD-398)|エレット]]
 
*** 給油艦:[[w:USS Sabine (AO-25)|サビン]]
 
 
 
== 経過 ==
 
[[ファイル:James H Doolittle medal bomb.jpg|thumb|200px|爆弾に日本の勲章を取り付けるジミー・ドーリットル中佐]]
 
[[ファイル:No.23-NittoMaru.jpg|thumb|right|200px|第二十三日東丸]]
 
[[ファイル:No.23-NittoMaru-1942.jpg|thumb|right|200px|炎上する第二十三日東丸]]
 
[[ファイル:USS Hornet (CV-8) launching B-25 bomber during the Doolittle Raid on 18 April 1942 (80-G-41197).jpg|thumb|right|200px|空母ホーネットから発艦するB-25]]
 
[[ファイル:Yokosuka Japan Naval base.jpg|thumb|right|200px|横須賀軍港に対する空襲]]
 
 
 
=== 艦隊発見 ===
 
1942年(昭和17年)4月1日、16機のB-25を搭載した空母ホーネットおよび護衛の[[巡洋艦]]3隻、[[駆逐艦]]3隻は[[サンフランシスコ]]を出撃した<ref>[[#丸写真3巻|写真太平洋戦争3巻]]、16頁</ref><ref>[[#覇者上|大空の覇者上]]268-269頁「出発」</ref>。4月13日、第18任務部隊(ホーネット隊)は、ハルゼー提督直率の第16任務部隊(エンタープライズ、巡洋艦2隻、駆逐艦4隻)と合流し、日本へ向かった<ref>スタットフォード『THE BIG E』上90頁</ref><ref name="トール78">[[#トール2013|トール 2013]]pp.78-80『当部隊は東京へ向かう」</ref>。事情を知らないホーネット乗組員は、B-25を[[真珠湾]]に運ぶ任務だと噂していた<ref name="トール73"/>。エンタープライズ乗組員は、ソ連にB-25を輸送する任務だと噂している<ref name="big上91">スタットフォード『THE BIG E』上91頁</ref><ref name="トール78"/>。ドーリットル自身は、被弾した場合は搭乗員を脱出させたのち目標に[[特別攻撃隊|特攻]]する決意だったという<ref>[[#覇者上|大空の覇者上]]277-278頁「アメリカのカミカゼ」</ref>。
 
事前の計画では、4月18日午後に日本本土(本州)沿岸距離500浬地点でB-25隊は発進(各機500ポンド爆弾4個搭載)<ref name="叢書八五77">[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、77-78頁「米軍の作戦準備」</ref>。指揮官ドーリットル中佐機は夜間の東京に[[焼夷弾]]を投下、火災を目標に後続機が爆撃を敢行(ほかに名古屋、大阪、神戸を各1機が空襲)<ref name="叢書八五77" />。空襲終了後は全機中国大陸に脱出というものだった<ref name="叢書八五77" />。
 
 
 
攻撃予定日直前の[[4月18日]]02:10(03:15とも。以下時刻は24時間制で表記。)、エンタープライズは[[レーダー]]に2つの光点を発見する<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、28頁</ref><ref>スタットフォード『THE BIG E』上93頁</ref><ref>[[#覇者上|大空の覇者上]]280-281頁「総員配置」</ref>。米艦隊は[[SBD (航空機)|SBDドーントレス爆撃機]]を[[索敵]]のため発進させ、同機は{{coor dm|36|4|N|153|10|E|}}地点で[[哨戒艇]]を発見した<ref>スタットフォード『THE BIG E』上94頁</ref><ref name="トール82">[[#トール2013|トール 2013]]pp.82-84「敵に発見された模様」</ref>。
 
06:44、米艦隊は哨戒艇を視認。それは日本軍[[特設艦船#特設監視艇|特設監視艇]]「[[第二十三日東丸]]」(日東漁業、昭和10年建造、90トン)に発見されたことを意味した<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、29頁</ref><ref name="写真14日本軍艦190"/>。底引網漁船の「第二十三日東丸」は<ref>[[#変種|変わりダネ軍艦奮闘記]]、204-207頁「遂にキャッチした敵機動部隊」</ref>、軽巡[[ナッシュビル (軽巡洋艦)|ナッシュビル]]の[[砲撃]]と、F4Fワイルドキャット(エンタープライズ)の機銃掃射を受ける<ref name="トール82"/>。07:23に[[撃沈]]されて乗員14人全員は艇と運命を共にしたが、米軍側は巡洋艦の主砲[[砲弾]]915発(もしくは928発)、12.7mm機銃1200発、SBDドーントレス1機撃墜(乗員は脱出)と30分を必要とし<ref name="トール82"/>、「第二十三日東丸」に[[無線通信|無線]]を使う時間を与えた<ref>「舞鶴鎮守府戦時日誌(2)」pp.10(無線の伝播・解読で時差が生じている)</ref><ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、39、142頁</ref>。06:45に発信された『敵航空母艦2隻、駆逐艦3隻見ゆ』が「第二十三日東丸」最後の無電となった<ref>「第2監視艇隊戦時日誌(4)」pp.2-3</ref>。
 
後日(昭和18年3月15日附)、日本海軍は「第二十三日東丸」に対し[[感状]]を授与した<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070432300|昭和18年7月9日(金)海軍公報(部内限)第4435号 pp.33-34}}『○感状|感状 第二機動部隊 昭和十七年六月「アリユーシヤン」群島方面作戰ニ於テ濃霧ヲ冒シ惡天候ニ耐ヘ長馳「ダツチハーバー」ヲ反覆攻撃シ所在ノ敵艦船飛行機ノ大部ヲ撃破シ軍事施設ヲ潰滅シタルハ爾後ノ作戰ニ寄與セル所極メテ大ニシテ其ノ功績顕著ナリト認ム 仍テ茲ニ感状ヲ授與ス  昭和十八年三月十五日 聯合艦隊司令長官 山本 五十六|特設監視艇 第二十三日東丸 昭和十七年四月十八日敵機動部隊本土東方洋上ニ來襲スルヤ逸早ク之ヲ捕捉シ機ヲ失セズ敵發見ノ第一報ヲ發スルト共ニ爾後敵ノ執拗ナル攻撃ヲ冒シテ飽ク迄之ニ觸接シ其ノ最後ニ到ル迄刻々適切ナル敵情ヲ報告シタルハ我作戰ニ寄與セル所極メテ大ニシテ其ノ功績顕著ナリト認ム 仍テ茲ニ感状ヲ授與ス  昭和十八年三月十五日 聯合艦隊司令長官 山本 五十六」</ref>。
 
 
 
アメリカ軍は付近の哨戒艇を一掃する事を決意<ref>[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、82-83頁「哨戒部隊米空母発見」</ref>、エンタープライズを発進したドーントレス(アメリカ軍記録では[[F4F (航空機)|F4Fワイルドキャット戦闘機]])は周辺の哨戒艇を攻撃する<ref>スタットフォード『THE BIG E』上95頁</ref><ref>[[#丸写真3巻|写真太平洋戦争3巻]]、28-29頁</ref>。7:00に「粟田丸」、10:00に「海神丸」、11:00に「第一岩手丸」と「第二旭丸」、「長久丸」。11:30に「第一福久丸」、「興和丸」、「第二十六南進丸」。12:00には「栄吉丸」と「粟田丸」(2回目)、「第三千代丸」をそれぞれ攻撃した<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、39-42頁、142-151頁、206頁</ref>。以下、被害状況を記載する。
 
 
 
「第二旭丸」(第二哨戒隊)は1100に銃撃を受け、戦死1名・戦傷2名を出した<ref>[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、83頁〔第二旭丸〕</ref>。
 
 
 
「海神丸」は1100から銃撃を受けたが、被害軽微だった<ref>[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、83頁〔海神丸〕</ref>。
 
「福久丸」は1135に艦爆から攻撃を受けたが、被害はなかった<ref>[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、83頁〔福久丸〕</ref>。
 
「粟田丸」は1215に爆撃をうけ至近弾となり、軽傷1名を出したが船体の被害は軽微だった<ref>[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、83頁〔粟田丸〕</ref>。
 
「第三千代丸」は1222より機銃掃射を受け、戦死2名を出した<ref>[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、83頁〔第三千代丸〕</ref>。
 
「第二十六南進丸」は1140から6回におよぶ空襲を受け、戦死1名・戦傷5名を出した<ref>[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、83頁〔第二十六南進丸〕</ref>。
 
 
 
「長久丸」は[[機銃掃射]]で[[火災]]が発生して漂流、翌日03:00に沈没した<ref name="高松宮4巻229長久丸">[[#高松宮四|高松宮日記4巻]]、229頁「○42°N158°E、〇三〇〇漂流中ノ長久丸ヲ発見、戦死士官一兵一、生存者十三名収容。今ヨリ第二十三日東丸捜索ニ向フ、粟田丸艦長(十九=〇四三〇)」</ref><ref>[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、83頁〔長久丸〕</ref>。生存者は「粟田丸」に救助された<ref name="高松宮4巻229長久丸" /><ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、143-144頁</ref>。
 
 
 
「栄吉丸」はSBD1機と交戦して重傷2名を出し、航行不能となる<ref>[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、83頁〔栄吉丸〕</ref>。支援艦「[[赤城丸 (特設巡洋艦)|赤城丸]]」に曳航されて[[本土]]に向かった。
 
 
 
「第一岩手丸」(第三哨戒隊)は米軍機の爆撃と[[機銃掃射]]で航行不能になり、翌日17:00に沈没した<ref>[[#高松宮四|高松宮日記4巻]]231頁「○第十一潜水隊(一九-一七〇〇)第一岩手丸、十八日敵ノ空襲ヲ受ケ遭難漂流沈没ニ瀕セルニ会ヒ乗員ヲ収容セリ。戦死二、重傷一、生存者一一名、地点30°-51′N 155°-26′E」</ref><ref>[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、84頁〔第一岩手丸〕</ref>。[[船員]]は潜水艦「[[伊号第百七十四潜水艦|伊七四]]」に救助された<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、150頁</ref>。
 
 
 
12:50、「第二一南進丸」が至近弾で航行不能となり、翌日17:00に軽巡洋艦「[[木曾 (軽巡洋艦)|木曾]]」が[[自沈|砲撃処分]]した([[乗組員|乗員]]は木曽に救助)<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、148頁</ref><ref>[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、83頁〔第二十一南進丸〕</ref>。
 
 
 
「長渡丸」は12:30頃より空襲をうけたが、この時点では被害軽微だった<ref name="変種206">[[#変種|変わりダネ軍艦奮闘記]]、206-207頁「壮烈"長渡丸"の最期」</ref>。だが米機動部隊に遭遇、艇長(前田儀作兵曹長)は敵情を確認するため、あえて機動部隊に向けて突入した<ref name="変種206" />。13時には『米空母2隻、米巡洋艦2隻を発見』したと通報する<ref>「第3監視艇隊戦時日誌(1)」pp.40</ref>。空襲を受けて損傷<ref name="変種206" />。さらに約30分後の13:36、ナッシュビルが「長渡丸」を6インチ砲102発、5インチ砲63発と1時間を消費して沈めた。乗員9名が[[戦死]]し、5名がナッシュビルに救助されている<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、43、150頁</ref><ref>[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、84頁〔長渡丸〕</ref>。
 
 
 
アメリカ艦隊による一連の掃討により、特設監視艇隊は大きな被害を受けた<ref>[[#高松宮四|高松宮日記4巻]]233頁「○北方部隊(二九三=一九-一〇〇〇)四月十九日」</ref>。5隻沈没(第二哨戒隊3隻〈第二十三日東丸、長久丸、第二十一南進丸〉<ref>「第3監視艇隊戦時日誌(1)」p.31、[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、212頁</ref>、第三哨戒隊2隻〈長渡丸、第一岩手丸〉<ref>「第2監視艇隊戦時日誌(4)」pp.13</ref>)、7隻損傷(粟田丸、興和丸、第三千代丸、栄吉丸、第二旭丸、第二十六南進丸、海神丸)、戦死33名、戦傷者23名と記録されている<ref name="写真14日本軍艦190"/><ref>[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、84頁(第二、第三哨戒隊被害一覧)</ref>。
 
しかし、漁船改造の特設監視艇隊の報告は米軍機動部隊の奇襲計画を狂わせており、この点で空襲(作戦)に与えた影響は極めて大きかった<ref name="佐藤艦長文庫209">[[#佐藤、艦長(文庫)]]209-211頁「陰の貢献者たち」</ref><ref>[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、83頁〔第二十三日東丸〕</ref>。
 
 
 
米艦隊は発艦予定[[海域]]手前の予想外の遠距離で日本軍に発見されたため、当初の夜間爆撃の予定をとりやめ<ref name="big上91"/><ref name="写真14日本軍艦190"/>、予定より7時間早い07:20からB-25爆撃機を発艦させ始めた<ref>[[#覇者上|大空の覇者上]]282-283頁「搭乗」</ref>。最後のB-25が08:19に発艦した後、艦隊は直ちに退避を開始した<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、36頁</ref><ref>スタットフォード『THE BIG E』上97頁</ref>。
 
なお、B-25の7番機(テッド・W・ローソン中尉)の搭載爆弾には、駐日米海軍[[駐在武官|武官]]補佐官ステファン・ユーリカ海軍[[中尉]]の所有物で、かつて日本から授与された[[紀元二千六百年記念行事|紀元2600年祝典]][[記念章]]がドーリットルの手で装着されていた<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、82頁</ref>。ハルゼー提督(エンタープライズ乗艦)は「諸君、利息をつけて、この勲章を返してやれ、成功を祈る」と伝言している<ref>[[#丸写真3巻|写真太平洋戦争3巻]]、23頁(爆弾に勲章をつけるドーリットル写真)</ref>。
 
 
 
=== 空襲 ===
 
ドーリットル率いるB-25爆撃機16機は[[東京府]][[東京市]]、[[神奈川県]][[川崎市]]、[[横須賀市]]、[[愛知県]][[名古屋市]]、[[三重県]][[四日市市]]<ref>オールカラーでわかりやすい!太平洋戦争 [Kindle版] 102頁</ref>、[[兵庫県]][[神戸市]]を爆撃した<ref name="叢書八五87応戦">[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、87-89頁「本土各地空襲と応戦」</ref>。16機中15機が爆撃に成功した。以下、特筆すべき機を記載する。
 
 
 
ドーリットル機(機体番号40-2344)は[[茨城県]]から東京上空に侵入し、12:15に空襲を行った<ref>[[#覇者上|大空の覇者上]]285-286頁「東京初空襲」</ref>。[[陸軍造兵廠|東京第一陸軍造兵廠]]を目標としていたが、全く無関係の場所を爆撃してしまい、[[民間人]]に死傷者を出す<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、50頁</ref>。その結果、[[早稲田中学校・高等学校|早稲田中学]]の校庭にいた4年生の小島茂と他1名が死亡、[[外傷|重傷]]者4名、軽傷者15名、家屋50棟という被害が出た。
 
ドーリットル機は[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]の[[九七式戦闘機]]の追尾を振り切り、[[厚木海軍飛行場|海軍厚木基地]]近くを通過して海上に出た。この時厚木基地に配備されていた機体は、旧式の[[九六式艦上攻撃機]]だった<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、52頁</ref>。中国大陸到達時の天候は悪化しており、また中華民国軍飛行場には誘導電波装置が設置されていないため夜間着陸は不可能となり、ドーリットルは[[パラシュート|落下傘脱出]]を命じる<ref>[[#覇者上|大空の覇者上]]286-287頁「追い風」</ref>。午後9時30分(ホーネット発艦より約13時間、飛行距離約3620km)、搭乗員は自動操縦の機体から脱出した<ref>[[#覇者上|大空の覇者上]]287-288頁「三度目の落下傘脱出」</ref>。ドーリットル自身は作戦失敗(東京空襲は成功したが、B-25輸送任務には失敗)だと判断していた<ref>[[#覇者上|大空の覇者上]]289-290頁「B-25の残骸」</ref>。「軍法会議にかけられる」と悲観しており、部下に慰められたという<ref>[[#覇者上|大空の覇者上]]290-291頁「奈落の底」</ref>。
 
 
 
[[相模湾]]を北上して東京へ侵入しようとした4番機(機体番号40-2282、機長エベレット・W・ホームストロム[[少尉]])は、唯一爆弾を海上に捨てて離脱したB-25となった<ref name="覇者上293"/>。機長は日本軍機多数に迎撃され、[[機関銃|機銃]]も故障して離脱したと申告している<!--対応する日本軍機は存在しない。事実、後述の横須賀航空隊の零戦小隊も、対空砲火の中を飛ぶB-25を発見(味方機と誤認)したが、交戦はしていない<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、67頁</ref>。-->。
 
 
 
6番機(機体番号40-2298)は東京を目標としたのち、[[中国大陸]][[沿岸]]の日本軍の[[占領]]区域に不時着した<ref name="覇者上291"/>。爆撃手ダイター[[軍曹]]、[[航空機関士]]フィッツマーリス[[伍長]]が死亡し、機長ホールマーク中尉、[[副操縦士|副機長]]メダー[[少尉]]、ネルソン[[航空士]]が[[捕虜]]となった。
 
 
 
8番機(機体番号40-2242、エドワード・J・ヨーク大尉)は[[鹿島灘]]から東京へ侵入したが、機械不調のため燃料消費がはやかった<ref name="覇者上293">[[#覇者上|大空の覇者上]]293-294頁「残る一機」</ref>。8番機は北上して[[栃木県]][[西那須野駅]]、[[新潟県]][[阿賀野川]][[橋|橋梁]]<!-- 爆撃目標ということで鉄道橋だと思われますが、この橋は白新線、羽越本線、磐越西線のいずれでしょうか。 --->付近を爆撃しつつ、[[日本海]]へ抜けて[[ウラジオストク]]に向かった<ref>「舞鶴鎮守府戦時日誌(2)」pp.15-16</ref>。[[日本海]]を越えて19:35にソ連本土に不時着(ウラジオストク近郊の飛行場に着陸とも)したが、すぐにソ連警察によって[[拘留]]されてしまう<ref name="覇者上293"/>。乗員は捕虜的立場で各地を転々と移送されたのち、同盟国の[[イギリス]]の影響圏である[[イラク]](一部著作では[[イラン]])<ref name="覇者上293"/>に脱出して、[[1943年]](昭和18年)5月29日にようやくアメリカに帰還した<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、87頁</ref>。
 
 
 
他に2番機(機体番号40-2292)、3番機(機体番号40-2270)、4番機(機体番号40-2282)、5番機(機体番号40-2283)、7番機(機体番号40-2261)、9番機(機体番号40-2303)、10番機(機体番号40-2250)の計10機が東京を目標とした。また11番機(機体番号40-2249)と12番機(機体番号40-2278)が横浜を目標とした。
 
 
 
13番機(機体番号40-2247エドワード・E・マックエロイ中尉)は、[[房総半島]]の南部を横断して[[横須賀市|横須賀]]に向かった。13:00頃、記念艦「[[三笠 (戦艦)|三笠]]」の上空から爆撃を開始し、3発目の爆弾が、[[横須賀港|横須賀軍港]]第4[[ドック]]で[[潜水母艦]]から空母へと改装中だった「大鯨」([[龍鳳 (空母)|龍鳳]])に命中する<ref>[[#戦藻録1979]]105頁</ref>。「大鯨」では火災が発生した<ref>[[#S1701呉鎮日誌(7)]]p.45『十八日一九〇〇大鯨艦長(宛略)大鯨機密第六番電 十八日一三三五敵飛行機一機來襲右舷一〇六番ビーム水線部外舷ニ爆弾命中(破孔縦八米横十五米)小火災輕傷者三名微傷者四名ヲ生ズ」</ref>。13番機は日本海軍の中枢([[横須賀鎮守府]])を爆撃することに成功し、[[対空砲火]]の中を離脱した。
 
 
 
16番機(機体番号40-2268ウィリアム・G・ファロウ中尉)は、ホーネット発艦時にプロペラ接触事故で乗組員1名が左腕を切断した<ref name="覇者上291"/>。16番機は名古屋を目標としたのち[[和歌山市|和歌山]]に向かい、後に中国奥地で5名全員が捕虜となった<ref name="覇者上291"/>。この16番機は日本[[領土]]内の各地で民間人に対する機銃掃射を行い、これが後の[[死刑]][[判決]]に繋がった。
 
 
 
他にも14番機(機体番号40-2297)が[[名古屋市|名古屋]]を、15番機(機体番号40-2267)が[[神戸市|神戸]]を爆撃した。
 
 
 
空襲を終えた16機のB-25のうち、北のウラジオストクへ向かった8番機を除く15機のB-25は日本本土南岸の洋上を飛んで中国大陸へ向かった。この時、B-25は遭遇した[[船|船舶]]に対して、それが民間船であろうと機銃弾のある限り攻撃を行った<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、125-129頁</ref>。15:00、[[室戸岬]]沖で[[漁船]]「高島丸」が攻撃を受け重傷1名。16:00、[[足摺岬]]沖で漁船「第二三木丸」が2機に銃撃され、2名が死傷。17:15、[[鹿児島県]][[口永良部島]]近海で漁船「昌栄丸」が機銃掃射を受け、重傷1名が出た。
 
 
 
=== 日本軍の反応 ===
 
==== 日本海軍 ====
 
[[ファイル:IJN cruiser Takao on trial run in 1939.jpg|thumb|200px|right|重巡洋艦「高雄」]]
 
[[4月9日]]、日本海軍は真珠湾方面に哨戒機多数を確認、14-15日には北方方面での哨戒機多数出現から「アリューシャン方面に有力部隊行動中の算あり」との見方を持った<ref name="叢書八五78">[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、78-79頁「通信情報」</ref>。だが連合艦隊、第五艦隊とも、米機動部隊の本土来襲を予期できなかった<ref name="叢書八十360" /><ref name="叢書八五78" />。
 
 
 
[[4月18日]]06:30、「第二十三日東丸」から『空母2隻を含む機動部隊発見』という通報を受けた日本軍は、警戒を厳とする<ref name="叢書四三59">[[#叢書43|戦史叢書ミッドウェー海戦]]、59-60頁「空襲の概要」</ref><ref name="舞鶴日誌弐11">「舞鶴鎮守府戦時日誌(2)」pp.11</ref><ref>「横須賀海軍警備隊(6)」pp.45</ref>。しかし米空母機動部隊の発見位置は、本土より600浬以上東方であった<ref name="叢書四三59" />。日本海軍は、アメリカ軍の攻撃は[[航続距離]]の短い[[艦載機]]によるものと判断<ref name="トール89">[[#トール2013|トール 2013]]pp.89-91『東京が爆撃される」</ref>。米軍機(攻撃距離250浬)の発進および関東地方空襲は、翌日(4月19日)早朝と推測した<ref name="叢書102、S17.04.18" /><ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、6、154頁</ref>。
 
 
 
そこで[[連合艦隊]](旗艦[[大和 (戦艦)|大和]]、[[瀬戸内海]]桂島泊地所在)は「対米国艦隊作戦第三法」を発令<ref>[[#丸写真3巻|写真太平洋戦争3巻]]、34頁(石橋孝夫「ドーリットル空襲に対する日本海軍の反撃」)</ref><ref name="叢書八五85">[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、85-86頁「聨合艦隊の作戦指導」</ref>。第二艦隊司令長官[[近藤信竹]]海軍[[中将]](旗艦「愛宕」)の[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]に米[[機動部隊]]の捕捉・撃滅を命じる(連合艦隊機密第801番電)<ref name="トール89"/><ref name="叢書八五85" />。近藤中将は前進部隊指揮官として内地在泊艦艇を指揮することになった<ref name="叢書八十360" /><ref name="叢書八五85" />。
 
「愛宕」は空襲前日に横須賀に戻ったばかりで<ref name="叢書四三128">[[#叢書43|戦史叢書ミッドウェー海戦]]、128-130頁「作戦準備間に合わず」</ref><ref name="叢書八五80">[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、80-82頁「聨合艦隊の状況」</ref>、近藤長官以下第二艦隊首脳部は4月18日朝から[[軍令部]]に出張していた<ref name="中島作戦46">[[#中島作戦室|中島、作戦]]、46-47頁「至急出港」</ref>。
 
空襲時の横須賀には[[高雄型重巡洋艦]]2隻([[愛宕 (重巡洋艦)|愛宕]]、[[高雄 (重巡洋艦)|高雄]]〈整備中〉)<ref name="叢書八五80" />、水上機母艦「[[瑞穂 (水上機母艦)|瑞穂]]」<ref name="叢書八五85" />、第4駆逐隊の[[陽炎型駆逐艦]]2隻([[嵐 (駆逐艦)|嵐]]、[[野分 (陽炎型駆逐艦)|野分]])が在泊しており<ref name="叢書八五85" />、空母「[[祥鳳 (空母)|祥鳳]]」は東京湾で訓練中<ref>「軍艦祥鳳戦時日誌戦闘詳報(5)」pp.2</ref>、[[三河湾]]には重巡洋艦「[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]」(第四戦隊)、[[瀬戸内海]]には第五戦隊の[[妙高型重巡洋艦]]2隻([[羽黒 (重巡洋艦)|羽黒]]、[[妙高 (重巡洋艦)|妙高]])、呉軍港には軽巡洋艦「[[神通 (軽巡洋艦)|神通]]」([[第二水雷戦隊]]旗艦)が所在だった<ref name="叢書八五85" />。
 
上記艦艇に加え、日本に帰投中の重巡洋艦「[[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]]」(4月16日カムラン湾発)、第7駆逐隊、第8駆逐隊、第10駆逐隊が前進部隊に編入され<ref name="叢書八五85" />、米機動部隊の迎撃任務にあたることになった<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、6-7頁</ref><ref name="丸写真三37">[[#丸写真3巻|写真太平洋戦争3巻]]、37頁</ref><ref>「軍艦愛宕戦闘詳報(2)」pp.1-2</ref>。
 
 
 
同時に、連合艦隊は内海西部所在の警戒部隊(2月8日に編成<ref>[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、75頁「警戒部隊の編成」</ref>。指揮官[[高須四郎]]第一艦隊司令長官、第二戦隊〈伊勢、日向、扶桑、山城〉、第九戦隊〈北上、大井〉、空母部隊〈鳳翔、瑞鳳、三日月、夕風〉、矢風等)に、前進部隊の支援を命じた<ref name="叢書九八118" /><ref name="叢書八五85" />。駆逐艦が少ないため、4月17日に呉を出撃したばかりの第15駆逐隊(親潮、黒潮、早潮)が警戒部隊に編入された<ref name="叢書八五85" />。
 
第二六航空戦隊(基地航空隊)及び臨時に指揮下に入った航空部隊(第二十一航空戦隊、第四航空隊〈木更津陸攻隊〉、空母[[加賀 (空母)|加賀]]飛行隊)も戦闘準備を整え、木更津からは06:35より[[一式陸上攻撃機]]4機が発進した<ref name="叢書八五85" /><ref name="叢書八五86航空">[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、86-87頁「基地航空部隊」</ref>。
 
 
 
トラック泊地へ進出中の[[第六艦隊 (日本海軍)|第六艦隊]](先遣部隊指揮官[[小松輝久]]中将)は<!--4月16日内海西部発 -->、09:40に軍艦2隻(練習巡洋艦[[香取 (練習巡洋艦)|香取]]、甲標的母艦[[千代田 (空母)|千代田]])と東方先遣隊(潜水艦6隻)から潜水艦部隊を分離、掃航索敵を命じ、「千代田」には警戒部隊合同を命じた<ref name="叢書九八118" /><ref>[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、86頁「先遣部隊」</ref>。本土東方500浬附近所在の第三潜水戦隊([[伊号第八潜水艦]]、第11潜水隊、第12潜水隊)<!--4月15日呉出撃、クェゼリン方面へ移動中 -->も索敵攻撃を命じられた<ref name="叢書九八118" /><ref>[[#叢書98|戦史叢書98巻]]、121頁「挿図第六 先遣部隊散開線移動図」</ref>。
 
 
 
[[横須賀鎮守府]]は08:05に「第二十三日東丸」からの敵機動部隊発見第一報を受信し、08:20に航空部隊に対し「敵艦船攻撃第二法」<!--索敵攻撃、第一攻撃隊は陸攻12、第二攻撃隊は飛行艇、第三~第六は艦爆・艦攻・水偵 -->を下令した<ref name="叢書八五87横鎮">[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、87頁「横須賀鎮守府部隊」</ref>。08:30、横鎮管区に警戒警報が発令される<ref name="叢書八五87横鎮" />。軍令部は各方面鎮守府部隊の航空隊を[[横須賀鎮守府]]司令長官の指揮下に入れ、関東地方に集中することにした<ref name="叢書四三59" />。
 
 
 
また、これに先立ち最初にアメリカ軍の空母発見の報告を受けた[[第五艦隊#二代の第五艦隊|第五艦隊]]司令長官[[細萱戊子郎]]中将は、まず特設巡洋艦2隻([[粟田丸 (特設巡洋艦)|粟田丸]]〈第二哨戒隊支援艦〉、[[浅香丸 (特設巡洋艦)|浅香丸]]〈第三哨戒隊支援艦〉)に、哨戒隊支援および接触を命じた<ref name="丸写真三36">[[#丸写真3巻|写真太平洋戦争3巻]]、36頁</ref><ref name="叢書八五84a">[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、84-85頁「北方部隊」</ref>。つづいて帰投中の第二哨戒隊に、敵発見地点を基準として索敵するよう命じた<ref name="叢書八五84a" />。
 
[[釧路港]]で休養整備中だった部隊も出動を命じられた<ref name="叢書八五84a" />。特設巡洋艦[[赤城丸 (特設巡洋艦)|赤城丸]]は4月18日09:00に、第一哨戒隊の昌光丸と監視艇17隻は同日14:30に釧路を出撃、20日夜までには東経149度線の配備についた<ref name="叢書八五84a" />。
 
 
 
室蘭に停泊していた重巡洋艦[[那智 (重巡洋艦)|那智]](3月10日附北方部隊編入)は11:15に出撃<ref name="叢書八五84a" />。09:20に厚岸を出撃していた第二十一戦隊の軽巡洋艦2隻([[木曾 (軽巡洋艦)|木曾]]、[[多摩 (軽巡洋艦)|多摩]])は18:30に那智と合流し<ref name="叢書八五84a" />、共に米機動部隊の迎撃へと向かった<ref name="光栄海戦辞典56-57">[[#光栄海戦辞典]] pp.56-57</ref><ref name="丸写真三36"/>。迎撃へと向かった各部隊は上記のように米機動部隊が翌日19日に攻撃圏内へ入ると考えていたが、実際には既にB-25を発進後直ちに退避していた<ref name="叢書四三59" />。そのため、これらを捕捉することができなかった<ref name="光栄海戦辞典56-57"/>。
 
 
 
第二艦隊や警戒部隊は外洋に出て米機動部隊を捜索したが会敵できず、4月20日夕刻に作戦中止<ref>[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、91-92頁「艦艇による捜索」</ref><ref name="トール97">[[#トール2013|トール 2013]]pp.97-98</ref><ref name="中島作戦46"/>。21-23日にかけて各艦は母港へ戻った<ref>「軍艦祥鳳戦時日誌戦闘詳報(8)」pp.2</ref><ref name="中島作戦46"/>。
 
 
 
当時無敵を誇った[[第一航空艦隊|南雲機動部隊]](司令長官[[南雲忠一]]中将、参謀長[[草鹿龍之介]]少将、参謀[[源田実]]他)は[[インド洋]]で行われた[[セイロン沖海戦]]から日本への帰路についており、[[台湾]]近海を航行中だった<ref name="叢書八十360" /><ref name="草鹿回想111">[[#草鹿回想|草鹿回想]]、111-112頁「帝都空襲に司令部あわてる」</ref>。南雲麾下の[[第二航空戦隊]](司令官[[山口多聞]]少将)に属する空母2隻([[蒼龍 (空母)|蒼龍]]、[[飛龍 (空母)|飛龍]])にも迎撃命令が下ったが<ref>「舞鶴鎮守府戦時日誌(2)」pp.12</ref>、[[関東地方|関東]]沖合の米機動部隊を捕捉するには距離が遠すぎた<ref>碇義朗『飛龍 天に在り』(光人社 1994年)252頁</ref>。草鹿参謀長は「なにかに対するゼスチュアとするなら別問題であるが、戦争にゼスチュアは禁物である」と回想している<ref name="草鹿回想111"/>。
 
 
 
なお横須賀軍港には多数の艦艇が停泊しており、祥鳳・愛宕・高雄・嵐・野分・[[朝潮 (朝潮型駆逐艦)|朝潮]]・[[荒潮 (駆逐艦)|荒潮]]・[[潮 (吹雪型駆逐艦)|潮]]・[[漣 (吹雪型駆逐艦)|漣]]・第二十二駆潜艇等が発砲したが、いずれも命中弾はなかった<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、166頁</ref><ref>「軍艦祥鳳戦時日誌戦闘詳報(5)」pp.3-4</ref>。また、[[宮崎県]][[都井岬]]沖には第15駆逐隊([[親潮 (駆逐艦)|親潮]]、[[黒潮 (駆逐艦)|黒潮]]、[[早潮 (駆逐艦)|早潮]])が航行しており(前述のように警戒部隊編入を命じられていた)<ref name="叢書八五85" />、16:17に駆逐艦「[[黒潮 (駆逐艦)|黒潮]]」がB-25数機を発見し、[[主砲]]と機銃で攻撃したが、損害を与えることはできなかった<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、125頁</ref><ref>[[#S1701呉鎮日誌(7)]]p.53「十九日一五〇〇 十五驅司令(宛略)十五驅機密第二二四番電 十八日一六〇〇ヨリ一六四〇迄都井岬ノ五二度三六浬ニテ双発双方舵大型機(陸軍イ式重爆撃機ニ酷似)五機(編隊セズ)高度五〇乃至一〇〇米ニテ南西方ニ向ケ黒潮ハ内一機ニ米國マークヲ確認シ之ヲ撃攘セリ敵機ハバンクヲ行ヒ且車輪ヲ出シアリ塗色濃緑色ニシテ胴體後部ノ白色マーク(明瞭ナラザルモノ多シ)ノ外識別極メテ困難」</ref>。
 
 
 
==== 日本陸軍 ====
 
日本海軍からの通報を受けた[[大日本帝国陸軍|陸軍]]は、万一に備えて各地の[[陸軍飛行戦隊|飛行部隊]]と[[防空]]部隊に防衛と哨戒命令を出した<ref name="叢書八五87応戦" />。さらに敵爆撃機警戒警報を出したが、「敵機の[[高さ|高度]]は高い」の通達が各地の判断を惑わせる。このため各部隊はB-25編隊を発見しつつ、日本軍機と勘違いして上級司令部へ通報してしまう<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、155頁</ref>。また当時のB-25の米軍国籍マークは旧式スタイル(青い円の上に白い星、白い星の中心に赤い円)のため、自国の軍機と勘違いしてB-25に手を振る民間人もいたという<ref name="トール89"/>。
 
菅谷と岩屋監視哨はB-25を米軍機と断定して報告したが、[[電話交換手]]と監視隊本部との押し問答で15分を浪費し、情報は有効に生かされなかった<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、155-156頁</ref>。かろうじてB-25の通過前に迎撃を開始した[[高射砲]]部隊もあったが、旧式の[[八八式7.5cm野戦高射砲|八八式七糎野戦高射砲]]でB-25を捕捉することは出来なかった<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、158-161頁</ref>。逆に高射砲弾の破片が[[市民]]7名を負傷させた。陸軍よりも海軍の高射砲台の方が活発に射撃したが、1発の命中弾もなく終わる<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、162-166頁</ref>(また、各砲台は半分以上が工事中だった<ref>「横須賀海軍警備隊(6)」pp.6</ref>)。なお陸海軍とも[[三八式歩兵銃]]による対空射撃が多数記録されているが、全く命中しなかった<ref>「横須賀海軍警備隊(7)」pp.20</ref>。
 
 
 
==== 陸海軍航空隊 ====
 
[[ファイル:Kawasaki Ki-61.jpg|thumb|200px|right|三式戦「飛燕」一型(キ61-I)]]
 
[[三沢海軍航空隊]][[第十一航空艦隊 (日本海軍)|第十一航空艦隊]]第二六航空戦隊の[[木更津海軍航空隊|木更津基地]]からは、[[一式陸上攻撃機]]部隊が米艦隊捜索に発進した<ref name="叢書八五86航空" /><ref name="叢書八五89">[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、89-90頁「航空機による捜索」</ref>。第四索敵機(有川俊雄中尉)が09:30にB-25単機(国籍不明の双発飛行艇らしきもの、西進を報告)を発見したのみで、米艦隊発見には至らなかった<ref name="叢書八五86航空" /><ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、170頁</ref><ref>「木更津空調書(3)」pp.6</ref>。この陸攻は、米軍機動部隊に相当接近したと思われ<ref name="叢書八五89" />、エンタープライズは50 km まで接近した[[偵察機]]の存在を記録している<ref>スタットフォード『THE BIG E』上98頁</ref>。
 
午後12時30分、第十一航空艦隊は敵艦隊の位置がわからないまま、[[魚雷]]を装備した一式陸攻30機(第六空襲部隊22機、三沢空8機)、零戦12機、内地に帰還していた空母[[加賀 (空母)|加賀]]所属の[[零式艦上戦闘機|零戦]]12機を米艦隊発見地点に向かわせた<ref name="叢書八五89" /><ref>「木更津空調書(3)」pp.7-8</ref><ref>「三沢空行動調書(1)」pp.21-23</ref>。
 
しかし米艦隊は既に反転しており、出撃は空振りに終わった<ref>[[#坂井ら2000|坂井ら 2000]] 26頁</ref>。一式陸攻3機が墜落と不時着で失われ、零戦1機も不時着して大破した。各基地の航空隊は19日以降も索敵を行い、大部分は米軍機動部隊攻撃に備えて待機したが、もはや出番はなかった<ref>[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、92頁「空襲後の捜索」</ref><ref>[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、93-94頁「四月二十日以後の捜索」</ref>。
 
 
 
B-25の大半の侵入ルートにあった[[水戸陸軍飛行学校]]は、本来航空通信と機上射手の[[教育]]を目的としていたため、[[航空戦力]]がなかった。教官の平原金治[[曹長]]が九七式戦闘機で出撃したものの、B-25には追いつけなかった<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、99頁</ref>。しかしながら、試作戦闘機「キ61」(のちの[[三式戦闘機|三式戦闘機「飛燕」]])試作2・3号機に搭載した[[一式十二・七粍固定機関砲|ホ103 一式十二・七粍固定機関砲]]射撃試験のため、水戸飛校を訪れていた[[陸軍航空審査部|陸軍飛行実験部実験隊]]の[[荒蒔義次]][[少佐]]、梅川亮三郎准尉がキ61で迎撃している。荒蒔機は装備の弾薬筒を代用弾([[演習弾]])から実弾に変更するため離陸が遅れ、会敵出来なかったものの、梅川機は代用弾のまま先行離陸、B-25の11番機(ロスグリーニング大尉)を捕捉し、白煙をふかせた。11番機は東京に侵入することができず、偶然発見した[[香取航空基地|香取海軍飛行場]]を爆撃し、[[九十九里浜]]を抜けて離脱した<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、99-103頁</ref>。なお、これによって撃破されたB-25は4番機(ホームストロム少尉)ともされている<ref>渡辺洋二『未知の剣 陸軍テストパイロットの戦場』 文春文庫、2002年。p63</ref>。なお11番機は日本軍戦闘機2機の[[撃墜]]を報告したが、キ61は無事帰還した。また[[川崎市|川崎]]を爆撃した9番機(ハロルド・F・ワトソン中尉)は、機関銃を4丁装備した引き込み脚の戦闘機から攻撃を受けたと報告している<!--対応する日本機は存在しない<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、175頁</ref>-->。
 
 
 
さらに正午に翌日[[ラバウル航空隊]]へ送るために試験飛行をしていた海軍の[[月光 (航空機)|十三試双発陸上戦闘機]]が[[横浜市|横浜]]上空に[[高角砲]]の[[弾幕]]と山肌スレスレを飛行する[[尾翼#双尾翼|双尾翼]]の双発機を目撃し、[[操縦]]していた小野飛曹長は[[九六式陸上攻撃機]]かと思ったものの、当日早朝に敵空母機動部隊発見の報告から警戒警報が出されていたことから米軍機かもしれないと考え、実弾を積んでいなかったため攻撃は行わず、急いで木更津基地へ滑り込んだ{{要出典|date=2010年12月}}。
 
 
 
[[横須賀海軍航空隊|横須賀航空隊]]からは、[[宮崎勇 (軍人)|宮崎勇]]飛行兵曹ら3機の零戦が発進し、哨戒飛行にあたっていた。零戦を順次上空哨戒に発進させていたところ、B-25の空襲がはじまった<ref name="叢書八五87応戦" />。零戦隊は『双発機2機が試験飛行で飛ぶので注意せよ』との通達を受けており、対空砲火の中を飛ぶB-25を通達のあった味方機と誤認した。零戦隊が敵機だと知らされたのは[[着陸]]してからだった<ref>[[#宮崎1993|宮崎 1993]] 14-16頁</ref>。
 
 
 
[[東海地方|東海地区]]では、B-25到達までに時間があったことから、空襲前に[[要撃機|迎撃機]]が発進した。鈴鹿海軍航空隊から[[九六式艦上戦闘機]]9機、[[九六式艦上攻撃機]]、[[九七式艦上攻撃機]]6機が出撃したが、空振りに終わった。「陸上爆撃機は高高度襲来」の思い込みから高高度で待機し、少数機が低空で飛行するB-25を見落とした結果だった。逆に洋上哨戒に出た九七式艦上攻撃機1機が不時着し、乗員は救助された<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、177頁</ref>。陸軍からは[[明野陸軍飛行学校]]が臨時防空戦闘機隊を編成し、[[一式戦闘機|一式戦闘機「隼」]]3機、九七式戦闘機15機に教官が搭乗して離陸した。この部隊もB-25と遭遇できずに帰還した<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、178頁</ref>。[[阪神]]地区では、陸軍の[[飛行第13戦隊 (日本軍)|飛行第13戦隊]]が空襲にまったく対応できず、出撃記録も不明である。ただし、B-25の15番機が神戸上空で九七式戦闘機2機を目撃している。海軍は阪神地区の防空を担当しておらず、動きはなかった。[[岩国海軍航空隊|岩国航空隊]]が所属機を横須賀に派遣したのみである。
 
 
 
洋上では、[[佐伯海軍航空隊]]所属の[[九九式艦上爆撃機]]2機が15:47に[[高知県]][[足摺岬]]沖でB-25を発見した。井上文刀[[大尉]]は追跡を命じたが、速度の遅い艦上爆撃機ではいかんともしがたく、振り切られた。
 
 
 
== 結果 ==
 
[[ファイル:Doolittle Raider RL Hite blindfolded by Japanese 1942.jpg|thumb|right|200px|捕虜となったB-25搭乗員を連行する[[憲兵 (日本軍)|憲兵]]下士官]]
 
[[ファイル:Tokio Kid Say.png|thumb|right|200px|搭乗員を処刑した事に対するアメリカのプロパガンダ諷刺画]]
 
日本側の被害は死者87名、重傷者151名(うち後日死亡1名)、軽傷者311名以上、[[家屋]]全壊・全焼112棟(180戸)以上、半壊・半焼53棟(106戸)以上であった<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、211頁</ref>。このうち9名は日本軍高射砲の破片によると認められている<ref>「昭和十七年四月十八日空襲被害状況」pp.2</ref>。[[国際法]]上禁止されている[[非戦闘員]]に対する[[攻撃]]を[[故意]]に行った機もあった<ref>[[#英米の空爆原理]]コマ6(原本2-3頁)「昭和十七年四月十八日は我等日本人としては忘れることの出來ない日である。それは日本が始めて敵機に依つて空襲の洗禮を受けた日である。あの日我等の何人が良く敵機の來襲を現實に起るものとして夢にも考へたてゐたであらうか。全く寝耳に水であつた。被害程度は幸ひにも日本々土としては一寸したカスリ傷を受けた程度に過ぎなかつたが、敵の射手が白晝低空飛行しながら學校の運動場で遊んでゐる小學兒童に對して掃射死傷せしめたと云ふ一事は決して輕少な問題ではない。我が軍律が陸上で囚はれの身となつた其時の敵搭乗員を戰時俘虜として取扱はずに殺人罪としてそれぞれ處断したのは誠に當然のことであつた。」</ref>。
 
[[葛飾区]]にある[[水元]][[国民学校]]では、高等科の生徒、石出巳之助が[[機銃掃射]]を受け死亡した<ref name="sakuramoto">{{cite web|url=http://www.sakuramo.to/profile/student008.html |title=第8回 教育塔(2) |author=[[櫻本富雄]] |accessdate=2010-06-06}}</ref>。この学童には「悲運銃撃善士」という[[戒名]]が与えられた<ref name="sakuramoto" />。[[朝日新聞社]]は『[[鬼畜]]の敵、校庭を掃射』等を報じている<ref name="安田&amp;石橋1994.p.87">[[#安田&石橋1994|安田&石橋 1994]]、87頁</ref><ref>「写真週報 267号」p.5</ref>。
 
 
 
また、日本軍の航空機と勘違いし、手を振った学童に対しても機銃掃射したが死者は出なかった。ただし、このB-25(3番機)は学校屋上に設置されていた防空監視[[櫓 (城郭)|櫓]]を見て軍事施設と誤認した可能性がある<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、64頁</ref>。14番機は[[国立病院機構名古屋医療センター|名古屋病院]]を爆撃したが、これは[[第3師団 (日本軍)|第3師団]]司令部を狙った攻撃がそれたためである<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、112頁</ref>。16番機は他のB-25に比べて積極的に機銃掃射を行った。
 
 
 
爆撃機隊は[[日本列島]]を横断し、[[中華民国]]東部にて乗員は[[パラシュート]]脱出した<ref name="トール95"/>。この結果、15機のB-25が全損となった(11機落下傘脱出、4機着水)<ref name="覇者上291">[[#覇者上|大空の覇者上]]291-292頁「一一機落下傘脱出、四機着水」</ref>。8番機はソ連の[[ウラジオストク]]に不時着、乗員は抑留された(詳細前述)<ref name="トール95"/>。爆撃機隊のうち、乗員[[戦死]]が1名、[[行方不明]]が2名、[[捕虜]]となったのが8名(後日3名処刑、1名病死。詳細後述)<ref>[[#丸写真3巻|写真太平洋戦争3巻]]、17頁</ref><ref name="覇者下260">[[#覇者下|大空の覇者下]]260-261頁「捕虜になった八名」</ref>。ドーリットル中佐は陸軍准将へ二階級特進、隊員全員は重慶で[[蒋介石]]と[[宋美齢]](蒋介石夫人)と晩餐会を共にした<ref name="覇者上294">[[#覇者上|大空の覇者上]]294-296頁「帰国」</ref>。5月5日、ドーリットルは[[ダグラス DC-3|ダグラスDC-3]]で重慶を出発し、中東・アフリカ経由で5月18日にアメリカ(ワシントン)へ帰国<ref name="覇者上294"/><ref>[[#覇者上|大空の覇者上]]295頁(ドゥリットルの帰路、多分当時の世界最速の地球半周、13日間)</ref>。[[名誉勲章|議会名誉勲章]]を授与された<ref>[[#覇者上|大空の覇者上]]296-298頁「ホワイトハウスへ」</ref>。他の隊員も順次帰国し、熱烈な歓迎を受けた<ref>「ル大統領、日本空爆隊員を顕賞」</ref>。ただし、捕虜搭乗員への配慮から、作戦の全貌は秘密にされた。
 
 
 
[[昭和天皇]]は[[杉山元]][[参謀総長]]からではなく[[東久邇宮稔彦王]][[防衛総司令部|防衛総司令官]]に「真相を直接報告せよ」と[[勅|勅命]]した。それに対し、東久邇宮防衛総司令官は「敵機は一機も撃墜できませんでした。また今のような体制では国内防衛は不可能です」と答申する<ref>[[#松本2007|松本 2007]]、228-229頁</ref>。なお、[[大本営]]は「敵機9機を撃墜。損害軽微」「わが空地上両航空部隊の反撃を受け、逐次退散中なり」と発表した<ref>「四月十八日空襲に関する第一報?第四報」pp.1</ref><ref>[[#安田&石橋1994|安田&石橋 1994]]、86頁</ref><ref>[[#大阪画報前]]コマ97(原本185頁)「四月十八日●敵機京濱地方に襲來、又名古屋、四日市、和歌山、神戸等にも來る、何れも撃退、敵機九機を撃墜した。」</ref>。[[中部軍 (日本軍)|中部軍]]に至っては、空襲直後に「東京防空隊ノ撃墜セシ機数7」を報告している<ref>「舞鶴鎮守府戦時日誌(2)」pp.14</ref>。
 
しかし当日は[[晴天]]であり、墜落した航空機など[[市民]]からは一機も確認されなかった。このため、大本営の発表に対し、「[[皇軍]]は空機(9機と[[空気]]をかけた[[駄洒落]])を撃墜したのだ」と[[揶揄]]するものもいた<ref>佐々木冨秦・網谷りょういち「続・事故の鉄道史」([[日本経済評論社]]、1995年)の77頁で、著者の佐々木冨秦が[[読売新聞社]]の記者をしていた兄の話として記述されている。</ref><ref name="淵田2007.p.175">[[#淵田2007|淵田 2007]]、175頁</ref>。そのため陸軍は中国大陸に不時着したB-25の残骸を回収し、4月25日から[[靖国神社]]で展示して、国民の疑念を晴らそうとした<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、191頁</ref>。4月26日の[[朝日新聞]]は『まさしく[[大東亜戦争|大東亜戦]]下の靖国神社臨時大祭にふさわしい景観』と評している<ref>[[#安田&石橋1994|安田&石橋 1994]]、89頁</ref>。陸軍報道部は「指揮官はドゥ・リトルだが、実際(被害)はドゥ・ナッシング」と発表した<ref name="淵田2007.p.175"/><ref name="トール95"/>。この空襲のため[[東京六大学野球]]の開会式が中止となった<ref>[[西本幸雄]]、[[私の履歴書]]</ref>。
 
 
 
朝日新聞は4月19日朝刊で『[[バケツ]]、火叩きの殊勲、我家まもる[[女子]]、街々に健気な[[隣組]]』『初空襲に一億たぎる闘魂、敵機は燃え、堕ち、退散。"必消"の民防空に凱歌』『われに必勝不敗の国土防衛陣あり』等を報じ、[[日本国民]]の冷静さを強調した<ref>[[#安田&石橋1994|安田&石橋 1994]]、88頁</ref>。一方、日本軍は空襲に対して疑心暗鬼となっていた。空襲前日の4月17日、[[伊豆諸島]]沖を航行していたソ連商船「セルゲイ・キロフ」が駆逐艦「[[澤風 (駆逐艦)|澤風]]」の[[臨検]]を無視して逃走し、「澤風」が[[拿捕]]する。ソ連船は4月22日まで拘留された。足摺岬沖のソ連商船「バンゼッチ」も、九九式艦爆2機から[[威嚇]]射撃を受けた。これはソ連商船がB-25の行動を本国に報告しており、空襲と関係があるものと疑ったためである<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、182頁</ref>。駆逐艦「[[早潮 (駆逐艦)|早潮]]」はソ連商船の連行を命じられたが、悪天候のため一時見失った<ref>[[#高松宮四|高松宮日記4巻]]235頁「○「早潮」(二一-〇三三九受)」</ref>。
 
 
 
空襲後は各地の監視哨から存在しない敵大編隊発見の報告が入り、上級[[司令部]]を混乱させた<ref name="叢書八十362" /><ref>[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、93頁「空襲後の情報の混乱」</ref>。[[カモメ]]の大群を「敵味方不明の大編隊」とする報告や、存在しない米軍機との交戦報告が多数寄せられている<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、183-184頁</ref>。一例として、[[大阪警備府]]は「[[ブリストル ブレニム]]爆撃機と目下大阪上空にて防空隊と交戦中」と4月19日に報告した<ref>「舞鶴鎮守府戦時日誌(2)」pp.19</ref>。また陸海軍機に対する誤認と[[同士討ち|誤射]]が18日から21日にかけて多数発生し<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、186-188頁</ref>、[[鹿島海軍航空隊|鹿島空]]の九六式陸上攻撃機が陸軍戦闘機から誤射され、高橋光夫電信員が戦死した<ref>[[#高松宮四|高松宮日記4巻]]233頁「○六空襲(七二=一九-二〇五〇)」</ref>。誤認空襲警報により、天皇や皇族たちも臨時避難を余儀なくされた<ref>[[#実録八|実録八巻]]、691-692頁(御金庫室に御動座/この日の空襲警報は誤報)</ref>。
 
 
 
[[4月21日]]、神戸沖で公試中の水上機母艦「[[秋津洲 (水上機母艦)|秋津洲]]」(艦長[[黛治夫]]大佐)は「B-25を発見、砲撃して撃退した」と報告する<ref>[[#高松宮四|高松宮日記4巻]]236頁「○大阪「秋津洲」〔行間書込〕一五二五、公試中和田岬沖ニテB-25ヲ見テ砲撃、東ヘ撃攘スト。《輸送キカ》(神経戦ノ目的通リ)。」</ref>。実際は、[[九六式陸上攻撃機]]か[[ダグラス DC-3|ダグラス輸送機]]に対する[[同士討ち|誤射]]であり、弾丸の破片が[[関西汽船]]所有の小型客船「天女丸」に降り注いだ<ref>[[#高松宮四|高松宮日記4巻]]236頁「大阪湾内天女丸一五二八機銃掃射ヲ受ク。(ホントカ、然ラザレバ「秋津洲」ノ弾丸炸裂破片ナラン)(岩国空ノ九六陸攻ガウタレタ、モウ一ツ陸軍ノ「ダグラス」ガ通ツタ、ソレラシイ)」</ref><ref>[[#S1704横鎮日誌(4)]]p.24『二十一日二〇〇〇呉鎮長官|二十二日〇六〇〇軍令部總長(横鎮長官)(略)一.本二十一日霞ヶ浦航空隊ヨリ岩國航空隊ニ空輸中ノ岩國航空隊九六陸攻二機ハ大阪湾上空ニ於テ一五一五頃高度三〇〇米ニテ艦艇(大阪警備附通報ニ依レバ秋津洲)一隻ヨリ砲撃(機上確認三斉射)ヲ受ケ同時刻附近ニアリシ商船前記高射砲弾片ニヨルラシキ水柱ヲ認メ機銃掃射ヲ受ケタリト大阪警備府ニ報告セリ 當時海上濛氣稍深ク同飛行機ハ船舟ニ對シ「バンク」ヲ行ヒツツ飛行中ナリシガ同艦ヨリ射撃ヲ受クル迄其ノ所在ニ氣付カズ直ニ味方識別ヲ行ヒツツ避退セリ 被害ナシ(以下略)」</ref>。
 
 
 
一方、日本軍に[[逮捕]]された爆撃機搭乗員8人は、都市の[[無差別爆撃]]と[[非戦闘員]]に対する[[機銃掃射]]を実施した[[戦時国際法]]違反であるとして、[[捕虜]]ではなく[[戦争犯罪人]]として扱われた<ref>「6-1.各国ノ反響 新聞切抜」pp.17</ref>。アメリカは爆撃機搭乗員が捕虜になったことを知ると、「彼らは軍事目標のみを攻撃した」と事実とは異なる主張を展開した<ref>「スチムソン遂に「東京空襲捕虜」を自認」pp.2</ref>。5月6日、昭和天皇は[[蓮沼蕃]][[侍従武官長]]に以下の希望を述べた<ref name="松本2007.p.230">[[#松本2007|松本 2007]]、229-230頁</ref>。
 
 
 
# 日本[[武士道]]に反せざるよう<ref name="松本2007.p.230"/>
 
# [[国際関係]]に悪影響を及ぼさざるよう<ref name="松本2007.p.230"/>
 
# [[大日本帝国|帝国]][[臣民]]にして敵側に抑留せらある者(将来も起り得べし)に対する敵側の[[報復]]を誘わざるよう、穏便に行うこと<ref name="松本2007.p.230"/>
 
 
 
その後、[[上海市]]で開廷された[[軍事裁判]](第十三軍軍事裁判所)の結果、[[1942年]](昭和17年)8月28日に8名全員に対して「人道に反する行為を犯した罪」により[[死刑]]が言い渡された<ref>[[#実録八|実録八巻]]、803-804頁(本土空襲米国軍人の処分)</ref><ref>[[#英米の空爆原理]]コマ6-7(原本3-4頁)「ただこの問題に關し我等の斷言し得るは日本のこの處分方法が單に報復的のものではなくて将來に對する警告的のものであつた事である。陸軍報道部長谷萩少将は曰く、「我に捕はれた敵兵中或は意識的に軍事施設に非ざる病院、國民學校等を攻撃し、入院中の病院、頑是なき小學兒童を殺傷してゐるが、斯かる暴虐非道の行爲を爲せし者は俘虜として待遇することなく嚴重に處斷した次第でこの方針は将來も同様である」」</ref>。
 
10月13日、参謀総長は支那派遣軍総司令官に対し死刑執行を3名(操縦士2名、銃手1名)とし、残5名を無期監禁とするよう希望<ref name="実録八808">[[#実録八|実録八巻]]、808-809頁(死刑判決米国軍人に対する処置)</ref>。14日、減刑命令発令<ref name="実録八808"/>。[[10月15日]]、[[上海市|上海]]競馬場で操縦士2名と銃手1名が処刑された<ref name="実録八808"/>(ディーン・E・ハルマーク(ホールマーク)中尉、ウィリアム・ファロー中尉、ハロルド・スパッツ軍曹)。10月19日、大本営陸軍報道部長による談話発表<ref name="実録八808"/><ref>[[#大阪画報後|大東亜戦争記録画報後篇]]コマ126(原本242頁)十月十九日●大本營にては『去る四月十八日帝国本土を空襲し、わが方に捕へられたる米國機搭乗者中取調べの結果、人道を無視したるものは今般軍律に照し嚴重處分せられたり』と陸軍報道部長談を發表。又防衛司令官より『大日本帝國領土を空襲しわが構内に入れる敵航空機搭乗員にして暴虐非道の行爲ありたる者は軍律會議に附し死または重罰に處す、満州國またわが作戰地域を空襲しわが構内に入りたる者また同じ』と布告す</ref>。
 
 
 
[[1943年]](昭和18年)4月23日、アメリカはドーリットル隊員が処刑されたことをはじめて報道する<ref>[[#人種偏見]]61頁</ref>。また、日本政府に対して抗議を行う<ref>[[#英米の空爆原理]]コマ7(原本4頁)「ルーズベルト米國大統領は本年一九四三年三月十二日中立國を通じてこの事件に關する帝國政府の正式通告を受取るや否や直ちに正式抗議を日本に爲した旨發表したが、それは常に人道を口ぐせのやうに叫ぶ米國政治家の行動としては餘りに逆上した行動と言はねばならぬ。第一にこの米國搭乗員の日本小學兒童に對して加へた殺害方法は明白にゼネヴアで締結された陸戰法規に違背するものである。米國の指導者達はこの事を知らない筈はない。」</ref>。
 
同時に日本側の行為を『[[野蛮|野蛮人]]の蛮行』として非難し、大々的に[[プロパガンダ]]に利用した<ref>「6-1.各国ノ反響 新聞切抜」pp.26</ref>。また日本の指導者であった[[東條英機]]を「血に飢えた[[独裁者]]」であると[[宣伝]]し、現在もアメリカ国内ではそのように認識されている。[[1944年]](昭和19年)にこれら捕虜を描いた映画『[[パープル・ハート]]』が[[20世紀フォックス]]によって[[製作]]された<ref>[[#人種偏見]]62頁</ref>。[[ガダルカナル島の戦い]]や[[アッツ島の戦い]]を経た同時期に至ると、連合国の間では[[日本人]]絶滅政策を検討するようになった<ref name="人種偏見65">[[#人種偏見]]65-66頁「日本人絶滅政策」</ref>。米軍の調査によれば、約半数の米兵が「平和が回復されるまで日本人(軍人・民間人関係なく)は一人残さず殺すべきだ」と考えていたという<ref name="人種偏見65"/>。1944年(昭和19年)12月の世論調査(戦争終了後、日本人に対する処置について)では、アメリカ国民の13%が日本人の全員殺害を希望するようになった<ref name="人種偏見65"/>。ルーズベルト大統領首席補佐官[[ウィリアム・リーヒ]]提督は「日本は我々の[[カルタゴ]]」と表現している(1942年9月)<ref>[[#人種偏見]]68-69頁</ref>。
 
 
 
3人の[[遺体]]は[[火葬]]ののち[[国際赤十字]]を通じてアメリカ側に引き渡された。残り5人の死刑執行は猶予された(前述)。ロバート・J・メダー少尉は1943年(昭和18年)12月1日に[[南京市|南京]]で[[栄養失調]]による[[赤痢]]と[[脚気]]で死亡した。1人は1945年(昭和20年)当時[[重慶市|重慶]]で療養していたと報道された<ref>朝日新聞1945年9月28日朝刊</ref>。1945年(昭和20年)8月20日に捕虜が解放された。16番機爆撃手[[ジェイコブ・デシェーザー|ジェイコブ・ディシェイザー]]は1945年(昭和20年)8月20日に[[北京]]で解放されたあと[[キリスト教]]の[[伝道者]]となり、日本で[[布教]]活動をおこなった<ref>[[:en:Jacob|DeShazer ジェイコブ・ディシェイザー]]</ref><ref>『日本キリスト教歴史大事典』897頁</ref>。
 
[[真珠湾攻撃]]の飛行隊総隊長を務めた[[淵田美津雄]]中佐は戦後ディシェイザーの冊子を読んでキリスト教に興味を持ち<ref>[[#淵田2007|淵田 2007]]、337頁</ref>、1949年(昭和24年)に[[改宗]]した。淵田はアメリカ伝道活動中、[[ジミー・ドーリットル]]と対面している<ref>[[#淵田2007|淵田 2007]]、374頁</ref>。一方、ドーリットルは1945年(昭和20年)12月14日にマイアミでパーティを行ったが、攻撃隊参加者80名のうち20名(溺死2、事故死1、銃殺3、獄死1、他戦線での戦死13)が参加できなかった<ref name="覇者下262">[[#覇者下|大空の覇者下]]262-263頁「東京奇襲隊」</ref>。ドーリットル自身は「指揮官は気に入りの部下を持ってはいけない。それは承知しているが、彼らは特別である。私は彼らのことが気になる。彼らは我が家族の一員である」と記述している<ref name="覇者下262"/>。
 
 
 
== 影響 ==
 
=== アメリカ本土空襲 ===
 
開戦以来日本軍に対し各地で敗退続きだったアメリカ国内は、この空襲によって沸き立った<ref name="叢書八十362" />。一方、日本軍も東京初空襲に対抗して、ただちにアメリカ本土に対する攻撃を活発化させた。6月20日、シアトル方面に展開していた日本海軍の潜水艦「伊26」が、[[カナダ]]の[[バンクーバー島]]太平洋岸にあるカナダ軍の無線羅針局を砲撃した<ref name="叢書九八154">[[#叢書98|戦史叢書98巻]]、154-155頁「アリューシャン作戦/作戦経過」</ref>。翌6月21日、日本海軍の潜水艦「[[伊号第二十五潜水艦|伊25]]」が<ref name="叢書九八154" />、[[オレゴン州]]アストリアにあるフォート・スティーブンス陸軍基地を[[フォート・スティーブンス砲撃|砲撃]]した。
 
 
 
その後、連合艦隊司令長官[[山本五十六]]大将は、内地で整備中の第一潜水戦隊より潜水艦1隻をアメリカ大陸西岸に派遣し、米本土爆撃および通商破壊作戦を命じた<ref name="叢書九八223">[[#叢書98|戦史叢書98巻]]、223-224頁「「伊二十五潜」の米西岸作戦」</ref>。これはドーリットル空襲に対する報復の意味があった<ref name="叢書九八223" />。先遣部隊指揮官(第六艦隊司令長官)は伊25に対し米本土爆撃を命じる<ref name="叢書九八223" />。同艦は8月15日に横須賀を出撃、9月9日と同月29日に伊25艦載機がアメリカ西海岸の[[オレゴン州]]を2度に渡り空襲した([[アメリカ本土空襲]])<ref name="叢書九八223" />。この空襲による日米両陣営の被害はなかったものの、「ドーリットル空襲」後も敗退を続けたアメリカ政府及び軍は、国民への精神的ダメージを配慮してこの日本海軍機による空襲の事実を公表しなかった。なおこの空襲は、現在に至るまでアメリカ本土に対する唯一の外国軍機による空襲となっている。伊25は米貨物船2隻とソ連潜水艦L16を撃沈し、10月24日に横須賀へ帰投した<ref name="叢書九八223" />。
 
 
 
=== 珊瑚海海戦 ===
 
{{See also|珊瑚海海戦}}
 
米軍機動部隊迎撃のため日本軍は頻繁に無線交信をおこない、傍受したアメリカ軍暗号解読者達は日本軍艦船・基地の最新呼び出し符号を更新した<ref>[[#平塚2016|日米諜報戦]]、94-95頁</ref>。これは米軍にとって「最も貴重かつ有益」な情報だった<ref name="トール118">[[#トール2013|トール 2013]]p.118-119</ref>。彼等は新符号「MO」が[[ポートモレスビー]]であることを解読、南洋部隊(指揮官[[井上成美]]第四艦隊司令長官)の次期作戦および艦隊編成に対する手がかりを得た<ref>[[#平塚2016|日米諜報戦]]、95-96頁</ref><ref name="トール118"/>。
 
 
 
空母「エンタープライズ」と「ホーネット」は日本本土空襲作戦(本項目)に参加して、4月25日に[[真珠湾]]へ帰投<ref>[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、95頁「米機動部隊の動静」</ref>。5月7日-5月8日の珊瑚海海戦に参加することが出来なくなった(同海戦に参加した米軍空母は[[ヨークタウン (CV-5)|ヨークタウン]]と[[レキシントン (CV-2)|レキシントン]]の2隻。空母[[サラトガ (CV-3)|サラトガ]]は西海岸で修理中)<ref>[[#暁の珊瑚海(文庫)]]65頁</ref><ref>[[#ニミッツ1962|ニミッツ1962]]p.50</ref>。真珠湾での補給を終えた2隻(エンタープライズ、ホーネット)の作戦復帰および珊瑚海進出時期は、5月中旬と予定されていた<ref>[[#トール2013|トール 2013]]p.123</ref>。
 
 
 
=== ミッドウェー海戦 ===
 
{{See also|ミッドウェー海戦}}
 
この攻撃の報に、本土防空を受け持っていた陸軍はもとより<ref name="叢書八十365">[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、365-366頁「陸軍部の作戦指導等に及ぼした影響」</ref>、海軍の[[連合艦隊]]司令長官[[山本五十六]]大将は衝撃を受けた<ref name="叢書四三62" /><ref>[[#丸写真3巻|写真太平洋戦争3巻]]、48頁</ref>。山本長官は[[寺島健]]中将(予備役、兵31)にあてた書簡の中で「今考へれば矢張(やはり)布哇(ハワイ)の一撃はやっといてよかったとの感あると共に 結局布哇をとって仕舞はなければ 北廻りも用意となりうべきものと思はれ候」と述べている<ref>[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、364頁「参考」</ref>。
 
「ドーリットル空襲」が純軍事作戦というよりむしろ戦意高揚を狙った宣伝的作戦であることを見抜きつつ、次回の空襲は本格的な大規模攻撃になると想定し、各部署に警告を発した部隊もある<ref>「横須賀海軍警備隊(6)」pp.52-55</ref><ref>「横須賀海軍警備隊(7)」pp.23-25</ref>。「本土空襲を受けて山本長官は日本本土の安全確保のため、敵空母殲滅を視野に入れた[[ミッドウェー島]]攻略作戦を立案した」とされる説も見受けられる<ref name="淵田2007.p.178">[[#淵田2007|淵田 2007]]、178頁</ref>が、ミッドウェー作戦自体はドーリットル空襲以前から検討されていた(前述)<ref name="叢書八十339" /><ref>[[#トール2013|トール 2013]]pp.70-73</ref>。4月16日付の大本営海軍部指示(大海指第八十五号)にて、正式に裁可されている<ref name="叢書八十353" /><ref>[[#叢書43|戦史叢書ミッドウェー海戦]]、54-55頁「第二段作戦方針の指示」</ref>。
 
 
 
しかし、ドーリットル空襲以前から、日本海軍(とくに連合艦隊)はアメリカ海軍空母機動部隊の跳梁に悩まされていた<ref name="叢書四三38">[[#叢書43|戦史叢書ミッドウェー海戦]]、38-40頁「米空母誘出撃滅を企図―ミッドウェー作戦案」</ref><ref name="叢書八十363">[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、363-364頁「海軍の作戦指導に及ぼした影響」</ref>。
 
本空襲前に立案されたミッドウェー作戦は、「日本軍の[[ミッドウェー島]]の占領により、反撃に出てくる米艦隊・機動部隊を撃滅する」「ミッドウェー島の前線基地化により日本本土方面への米潜水艦活動を封殺し、飛行哨戒兵力の進出により、米空母の機動作戦を封じる」「10月予定のハワイ攻略作戦までの"つなぎ"」という、複数の目的をもっていた<ref name="叢書四三38" /><ref>[[#叢書43|戦史叢書ミッドウェー海戦]]、40-42頁「聨合艦隊時期作戦構想の内定」</ref>。
 
さらにミッドウェー作戦に反対していた[[軍令部]]と<ref>[[#叢書43|戦史叢書ミッドウェー海戦]]、42-44頁「海軍部、ミッドウェー作戦に反対」</ref>、関心が薄かった日本陸軍が<ref name="叢書八十346" /><ref>[[#叢書43|戦史叢書ミッドウェー海戦]]、49-50頁「作戦計画」</ref><ref>[[#叢書43|戦史叢書ミッドウェー海戦]]、63頁(日本本土の防空は、概ね陸軍の担当だった)</ref>、ドーリットル空襲を受けてミッドウェー作戦に俄然本気となったのも事実である<ref name="叢書四三62" /><ref>[[#亀井1995|亀井 1995]]、77頁</ref><ref name="叢書八五97">[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、97頁「本空襲の影響」</ref>。これには「空母から航続距離の長い爆撃機を発進させて空襲を敢行する」戦法に対し日本側に反撃の手段がなく、したがって「敵空母を積極的に補足撃滅する」「哨戒基地を前進させる」しか選択肢がなかったという側面がある<ref name="叢書八十363" />。
 
 
 
5月5日<ref>[[#叢書102|戦史叢書102巻]]、119頁「昭和17年(1942年)5月5日」</ref>、大海令第18号にて[[永野修身]]軍令部総長は山本長官にミッドウェー島とアリューシャン諸島占領作戦を認可し<ref>[[#叢書43|戦史叢書ミッドウェー海戦]]、92-94頁「大本營海軍部」</ref><ref>[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、420-423頁「大命と指示」</ref>、陸軍も同作戦に[[第7師団 (日本軍)|一木支隊]]を提供した<ref name="叢書八十365" /><ref>[[#叢書43|戦史叢書ミッドウェー海戦]]、187-188頁「一木支隊の指揮問題紛糾」</ref>。この[[アリューシャン方面の戦い|アリューシャン作戦]]には、日本軍にとって貴重な空母2隻([[隼鷹 (空母)|隼鷹]]、[[龍驤 (空母)|龍驤]])が投入された<ref>[[#叢書43|戦史叢書ミッドウェー海戦]]、231-232頁「作戦計画の概要」</ref>。
 
また[[第一航空艦隊|南雲機動部隊]]司令部や[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]司令部は、乗組員の休養、疲弊した艦の修理、人事異動によって低下した艦隊や航空隊の技量向上のため作戦延期を求めたが<ref name="叢書四三128" /><ref>[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、419-420頁「第二段作戦図演」</ref>、山本以下連合艦隊司令部は却下している<ref>[[#亀井1995|亀井 1995]]、84-86頁</ref><ref>[[#叢書43|戦史叢書ミッドウェー海戦]]、131-132頁「聨合艦隊作戦延期の要望を容れず」</ref>。
 
 
 
ドーリットル空襲がミッドウェー作戦に与えた影響の一つに、日本海軍の艦隊間における錯誤がある<ref name="叢書四三123">[[#叢書43|戦史叢書ミッドウェー海戦]]、123-124頁「ミッドウェー作戦の主目的混迷」</ref>。内地帰投後、[[東京]]の[[軍令部]]や[[海軍省]]を訪問して次期作戦の説明を受けた南雲機動部隊司令部や第二艦隊司令部は、ミッドウェー作戦の作戦目的を「哨戒基地の前進(ミッドウェー島の日本軍拠点化)により米空母の本土来襲を阻止するもの」と受け止めた<ref name="叢書四三123" />。ところが[[瀬戸内海]]所在の連合艦隊司令部は、ミッドウェー作戦の主目的を米軍機動部隊撃滅としていた<ref name="叢書四三123" />。この意識の違いは、戦艦[[大和 (戦艦)|大和]]における図上演習で露呈する<ref name="叢書四三123" />。連合艦隊参謀長[[宇垣纏]]少将は連合艦隊の意図を詳細に説明したが、連合艦隊・南雲機動部隊・第二艦隊間の作戦解釈は最後まで統一されなかったとみられる<ref name="叢書四三123" />。
 
 
 
=== 中国軍飛行場の破壊 ===
 
日本陸軍はドーリットル空襲の再発を防ぐため、作戦に利用された[[浙江省]]以南の国民革命軍の飛行場を利用できなくすることで、爆撃機による奇襲作戦を阻止しようとした<ref name="叢書八十365" />。これを受けて[[支那派遣軍]]が実施した作戦が、[[浙贛作戦]]である<ref name="トール97"/><ref name="叢書八五97" />。作戦は1942年5月中旬から7月にかけて実施され<ref name="叢書八五97" />、動員兵力約18万、3個[[陸軍飛行戦隊|飛行戦隊]]により、目的の飛行場の破壊と同地を守る[[顧祝同]]の率いる[[抗日戦争第3戦区|第三戦区]]軍34個師団を打ち破ることに成功する。同作戦は1942年9月30日に終了が発表された。連合国側は中国大陸から日本本土を空襲する作戦を立て、投入予定の[[B-24 (航空機)|B-24]]爆撃部隊が移動中であった。しかし[[浙贛作戦]]によって使用予定の飛行場が攻撃占領されたこともあり、この部隊は[[ルーマニア]]の油田への空爆作戦である[[タイダルウェーブ作戦]]に転用された。
 
 
 
=== 成増飛行場 ===
 
本空襲は、帝都防衛のあり方を問う大きなきっかけとなった<ref name="叢書八十365" />。[[東部軍管区 (日本軍)|東部軍]]司令官の[[中村孝太郎]][[陸軍大将|大将]]は、[[千葉陸軍高射学校|陸軍防空学校]]および高射砲第7連隊の高射機関砲を[[皇居]]周辺の日劇や国技館の屋上へ配備し、1942年[[4月20日]]に、独立飛行第47中隊を防衛司令官の指揮下に入れ、帝都防空の任に当たらせた。軍では、この目的にかなう飛行場として、[[成増飛行場]]を建設した。
 
 
 
=== 防空都市の建設 ===
 
政府は空襲をうけて東京が木造家屋が多いことと道路が狭いために火災による延焼が懸念された。このため都心部で[[大久保通り]]の拡幅工事などで強制的に立ち退きを要求され木造の民家の取り壊しが各地で行われた。[[日本ニュース映画社]]に映像記録が残されている。
 
 
 
== エピソード ==
 
=== 爆撃目標の情報源===
 
[[1934年]]にアメリカのスパイ[[モー・バーグ]]によって撮られた写真が東京や横浜など日本主要都市を爆撃し、軍需工場の位置を把握するのに利用された。 空母から出動した爆撃機が正確に軍需基地を爆撃したため日本を慌てさせ、1945年の[[東京大空襲]]作戦、広島と長崎への原爆投下などモー・バーグの写真は有用な情報として日本本土への攻撃に用いられた <ref>http://japanese.joins.com/article/548/142548.html?servcode=A00&sectcode=A00</ref>。
 
 
 
=== 皇族 ===
 
空襲実施にあたり、ドーリットル中佐は「皇居を爆撃すると日本の団結力が強まる」との観点から、[[皇居]]を爆撃目標から外していた<ref>[[#覇者上|大空の覇者上]]275-276頁「飛行計画」</ref>。4月18日8時30分の警戒警報発令により、[[永野修身]]軍令部総長は宮城に参内、11時30分から20分にわたり[[昭和天皇]]に状況を説明する<ref name="実録八689">[[#実録八|実録八巻]]、689頁(米軍機の帝都初空襲/御金庫室に御移動/賢所皇霊殿神殿は斎庫に御動座</ref>。正午0時28分の空襲警報発令により[[三種の神器]]を宮内省第二期庁舎金庫室へ移御、天皇・[[香淳皇后]]・[[島津貴子|貴子内親王]]は約30分後に同場所へ避難した<ref name="実録八689"/>。[[赤坂離宮]]の[[明仁|皇太子]]([[今上天皇]])、[[沼津御用邸]]の[[皇太后]]([[貞明皇后]])、他皇族たちも、それぞれ所在地の避難所に移った<ref name="実録八689"/>。午後2時、[[杉山元]]参謀総長は天皇に空襲状況を奏上<ref name="実録八690">[[#実録八|実録八巻]]、690頁(空襲状況の奏上/東條首相の奏上)</ref>。午後3時51分に空襲警報解除、天皇・皇后・[[常陸宮正仁親王|正仁親王]]・貴子内親王は4時18分に御常殿に戻った<ref name="実録八690"/>。[[東久邇成子|成子内親王]]・[[鷹司和子|和子内親王]]・[[池田厚子|厚子内親王]]は呉竹寮に戻った<ref name="実録八690"/>。同年[[10月26日]]の[[南太平洋海戦]]で、日本海軍は米空母[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]を撃沈し、空母[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]を撃破する(日本側は米空母3隻撃沈と誤認)<ref>[[#城日記|城英一郎日記]]198-199頁「(昭和17年)一〇月二六日(月)快晴」</ref><ref>[[#城日記|城英一郎日記]]203頁「(昭和17年)一一月五日(木)晴」</ref>。翌日、昭和天皇は[[城英一郎]]大佐([[侍従武官]])に対し、「敵空母〔を〕昨日の戦闘にて大に撃破せしたため、敵は空母にて本土空襲の可能性なくなりたるに非ずや」と下問<ref name="城日記199">[[#城日記|城英一郎日記]]199頁「(昭和17年)一〇月二七日(火)晴 当直」</ref>。城大佐は、アメリカには[[改造空母|特設空母]]が20隻以上あるので楽観できないと上聞している<ref name="城日記199"/>。
 
 
 
=== 東條機とすれ違う ===
 
首相であった[[東條英機]]は、この日の午前中に宇都宮市内を視察した後に次の目的地である水戸に大臣専用機([[一〇〇式輸送機]]ないし[[三菱MC-20]]旅客機、首相専用機か陸相専用機かは不明)で向かった。正午、専用機は水戸上空でドーリットル機と約20kmの距離ですれ違った<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、9頁</ref>。東條は同乗した秘書官に「あれはアメリカ(の飛行機)だぞ」と叫んだ。秘書官によれば双方の顔が見える距離まで接近していたという。アメリカ側も専用機を銃撃せずそのまま西へ向かった。専用機が飛行場に着陸してすぐ、東條は東京が空襲されたことを初めて知った<ref>[[#吉野2000|吉野 2000]] 6頁</ref>。東條は「すぐ飛行機で(東京に)帰る」と言い出したが、周囲が「東京の警戒を混乱させる」という理由で、水戸発午後3時の列車で帰京させた<ref>[[#半藤ら2010|半藤ら 2010]] 78頁</ref>。この列車は午後5時45分上野駅に着いた。東條は途中、[[天機奉伺]]の記帳のため皇居に寄り、首相官邸に各閣僚からの情報をまとめた後、午後8時に皇居に参内し、天皇に空襲に関する報告をした<ref>[[#吉野2000|吉野 2000]] 16頁</ref><ref name="実録八690"/>。なお、海軍の[[山本五十六]]連合艦隊司令長官は、軽い腹痛のため勤務を休んでいた<ref>[[#従兵長|近江2000]]、103-104頁</ref>。
 
 
 
=== シャングリラ ===
 
「ドーリットル空襲」の成功はすぐにアメリカ本国でも宣伝されたが、作戦の全容は長く秘匿された。空母ホーネットの名も例外ではなく、日本軍の捕虜となったB-25搭乗員達も「陸地から発進した」等、情報の秘匿につとめたが<ref>[[#高松宮四|高松宮日記4巻]]234頁「○南昌附近ノ河中ニ米重爆墜落(略)」</ref>、4月21日にホーネットの名前を明らかにしている<ref>[[#戦藻録1979]]107頁</ref><ref name="トール97"/>。[[プレスリリース|記者会見]]で空襲の成功を発表した[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト大統領]]は[[記者|記者団]]からの「爆撃機はどこから発進したのか?」という質問に対し、「発進地は[[シャングリラ]]」と答え、煙に巻いた<ref name="トール95"/>。[[淵田美津雄]](当時、赤城飛行長)は、空母[[赤城 (空母)|赤城]]艦上でルーズベルトの声明を聞き、実際に海図を広げてシャングリラの位置を探したという<ref name="淵田2007.p.176">[[#淵田2007|淵田 2007]]、176頁</ref>。
 
 
 
シャングリラとは1930年代のベストセラー[[小説]]で映画化もされた[[ジェームズ・ヒルトン]]著『[[失われた地平線]]』に出てくる架空の地名で、[[ヒマラヤ山脈|ヒマラヤ]]付近にあるとされる神聖な都である<ref name="淵田2007.p.176"/>。それを知らない記者には冗談が通じず「爆撃機は空母シャングリラから発進」と一部で誤って報道された。このエピソードが元になったものか、後日、本当に空母[[シャングリラ (空母)|シャングリラ]](CV-38 [[エセックス級航空母艦]]の1隻)が就役し、さらにその空母を用いて着艦フックなどの装備を搭載するなどの改修をしたPBJ(B-25の海兵隊仕様機)で発着艦試験が行われた<ref>[http://www.mission4today.com/index.php?name=ForumsPro&file=viewtopic&t=4318]</ref>。
 
 
 
=== 仇 ===
 
1943年12月10日、[[ビルマの戦い|ビルマ戦線]]([[一式戦闘機#ビルマ航空戦|ビルマ航空戦]])にて[[陸軍飛行戦隊|陸軍航空部隊]][[飛行第50戦隊]]の一式戦「隼」25機は、中国へ補給物資を空中輸送している[[輸送機]]4機とともに[[アメリカ陸軍航空軍]]のB-25 1機(捜索救助飛行隊ポーター大尉機)を確実撃墜したが、このB-25協同撃墜者の一人である[[前川美雄]][[伍長]]はドーリットル空襲で姉を亡くした人物であり、この撃墜は「姉の仇」となっている<ref>[[梅本弘]] (2010a),『第二次大戦の隼のエース』 大日本絵画、2010年8月、p.64</ref>。
 
 
 
=== B-21===
 
アメリカ軍が配備する[[B-2 (航空機)|B-2]]と[[B-52 (航空機)|B-52]]を置き換える予定の[[B-21 (航空機)|B-21]]は、ドーリットル空襲を行った部隊の通称『Doolittle Raiders』にちなみ'''レイダー'''(Raider)と命名された<ref>[http://news.northropgrumman.com/news/releases/air-force-names-the-b-21-bomber-the-raider Air Force Names the B-21 Bomber the Raider] - NORTHROP GRUMMAN NEWSROOM(英語)。2016年9月19日、2016年9月20日閲覧。</ref>。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* [https://www.jacar.archives.go.jp アジア歴史資料センター(公式)](国立公文書館)
 
** Ref.A06031081300「[[写真週報]] 218号」(昭和17年4月29日)「敵の空襲企図全く失敗に帰す{{small|来襲敵機ノース・アメリカンB-25の正体}}」
 
** Ref.A06031086200「[[写真週報]] 267号」(昭和18年4月14日)「ぼくらの友達を射殺した米機の仇はきっととるぞ!」
 
** Ref.A06031045100「週報 第289号」(昭和17年4月22日)「敵機来襲と国民の覚悟」
 
** Ref.A05020250900「昭和十七年四月十八日空襲被害状況」
 
** Ref.A05020244900「四月十八日空襲に関する第一報?第四報」
 
** Ref.A06032513600「部報第145号」 黒澤平八郎(情報課事務官)「我が本土初空襲と敵の意図」
 
** Ref.A03024825900「日本空襲飛行士はソ聯で優遇 サンフランシスコ英語放送五月七日」
 
** Ref.A03024829400「ル大統領、日本空爆隊員を顕賞 サンフランシスコ五月二十日」
 
** Ref.A03024854600「スチムソン遂に「東京空襲捕虜」を自認 TPトランスラジオ、ワシントン二十二日」
 
** Ref.A03025057700「国際○米洲方面 ドウリットル、東京空襲ハ航空母艦カラト発表」
 
** Ref.A03025060200「国際○東京空襲航空母艦乗組員ノ当時ノ談話飛行士ニハ三日前迄目的ヲ知ラセズト」
 
** Ref.A03025063200「米国内○東京空襲問題 東京空襲参加者ノ手記」
 
** Ref.B02032456100「2.昭和17年4月米機東京空襲関係(米搭乗員処刑関係を含む)/1.経緯/1 昭和17年6月1日から昭和17年12月31日」
 
** Ref.B02032456900「2.昭和17年4月米機東京空襲関係(米搭乗員処刑関係を含む)/6-1.各国ノ反響 新聞切抜」
 
* [http://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所)
 
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030324400|title=昭和17年1月1日~昭和17年4月30日 呉鎮守府戦時日誌(7)|ref=S1701呉鎮日誌(7)}}
 
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030316600|title=昭和17年4月1日~昭和17年4月30日 横須賀鎮守府戦時日誌(1)|ref=S1704横鎮日誌(1)}}
 
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030316700|title=昭和17年4月1日~昭和17年4月30日 横須賀鎮守府戦時日誌(2)|ref=S1704横鎮日誌(2)}}
 
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030316800|title=昭和17年4月1日~昭和17年4月30日 横須賀鎮守府戦時日誌(3)|ref=S1704横鎮日誌(3)}}
 
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030316900|title=昭和17年4月1日~昭和17年4月30日 横須賀鎮守府戦時日誌(4)|ref=S1704横鎮日誌(4)}}
 
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030317000|title=昭和17年4月1日~昭和17年4月30日 横須賀鎮守府戦時日誌(5)|ref=S1704横鎮日誌(5)}}
 
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030317100|title=昭和17年4月1日~昭和17年4月30日 横須賀鎮守府戦時日誌(6)|ref=S1704横鎮日誌(6)}}
 
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030317200|title=昭和17年4月1日~昭和17年4月30日 横須賀鎮守府戦時日誌(7)|ref=S1704横鎮日誌(7)}}
 
** Ref.C08030220900「第2監視艇隊戦時日誌(3)」
 
** Ref.C08030221000「第2監視艇隊戦時日誌(4)」
 
** Ref.C08030226200「昭和17年2月25日〜昭和17年7月31日 第3監視艇隊戦時日誌(1)」
 
** Ref.C08030459100「昭和16年11月20日〜昭和17年5月31日 横須賀海軍警備隊戦時日誌戦闘詳報(6)」
 
** Ref.C08030459200「昭和16年11月20日〜昭和17年5月31日 横須賀海軍警備隊戦時日誌戦闘詳報(7)」
 
** Ref.C08030459300「昭和16年11月20日〜昭和17年5月31日 横須賀海軍警備隊戦時日誌戦闘詳報(8)」
 
** Ref.C08030354100「昭和17年4月1日〜昭和17年4月30日 舞鶴鎮守府戦時日誌(2)」
 
** Ref.C08051606600「昭和16年12月〜昭和17年5月 木更津空 飛行機隊戦闘行動調書(3)」
 
** Ref.C08051609700「昭和17年4月〜昭和17年6月 三沢空 飛行機隊戦闘行動調書(1)」
 
** Ref.C08030745600「昭和17年3月〜 軍艦愛宕戦闘詳報(2)」
 
** Ref.C08030580900「昭和16年12月1日〜昭和17年5月7日 軍艦祥鳳戦時日誌戦闘詳報(5)」
 
** Ref.C08030581200「昭和16年12月1日〜昭和17年5月7日 軍艦祥鳳戦時日誌戦闘詳報(8)」
 
 
 
*[http://dl.ndl.go.jp/ 国立国会図書館デジタルコレクション] - [[国立国会図書館]]
 
**{{Citation |和書|author=|editor=朝日新聞社航空朝日編集部|year=1942|month=8|title=米英軍用機識別図説|chapter=|publisher=朝日新聞社|url={{NDLDC|1460410}}|ref=米英軍用機識別図説}}
 
**{{Citation |和書|author=|editor=朝日新聞社航空朝日編集部|year=1943|month=2|title=敵機解剖 : 大東亜戦・鹵獲・撃墜撃破飛行機写真集|chapter=|publisher=朝日新聞社|url={{NDLDC|1460422}}|ref=朝日、敵機解剖}}
 
**{{Citation |和書|author=伊藤千代蔵|editor=|year=1943|month=4|title=空襲と都市|chapter=|publisher=博聞堂|url={{NDLDC|1460426}}|ref=空襲と都市}}
 
**{{Citation |和書|author=|editor=英文大阪毎日学習号編輯局|year=1943|month=6|title=大東亜戦争記録画報. 前篇|chapter=|publisher=大阪出版社|url={{NDLDC|1906752}}|ref=大阪画報前}}
 
**{{Citation |和書|author=|editor=英文大阪毎日学習号編輯局|year=1943|month=6|title=大東亜戦争記録画報. 後篇|chapter=人道無視の日本空襲者 軍律に照らして嚴重處分|publisher=大阪出版社|url={{NDLDC|1906758/87}}|ref=大阪画報後}}
 
**{{Citation |和書|author=|editor=英文大阪毎日学習号編輯局|year=1943|month=6|title=大東亜戦争記録画報. 續篇|chapter=米機「本土空襲」の眞相 十六機中遁走僅か數臺|publisher=大阪出版社|url={{NDLDC|1906766/94}}|ref=大阪画報続}}
 
**{{Citation |和書|author=片倉藤次郎|editor=|year=1943|month=11|title=英米の空爆原理|chapter=二 米機の日本本土空襲|publisher=アジア青年社|url={{NDLDC|1460416/6}}|ref=英米の空爆原理}}
 
**{{Citation |和書|author=田代格|editor=|year=1944|month=6|title=空の決戦|chapter=|publisher=毎日新聞社|url={{NDLDC|1460417}}|ref=毎日S19空決}}
 
**{{Cite book|和書|author=中島武|editor=|year=1930|month=5|title=航空母艦|chapter=航空母艦の任務|publisher=三省堂|url={{NDLDC|1080552/19}}|ref=中島1930}}
 
**{{Citation |和書|author=|editor=読売新聞社|year=1944|month=7|title=敵機一覧.昭和19年版|chapter=|publisher=読売新聞社|url={{NDLDC|1124548}}|ref=読売、敵機一覧}}
 
 
 
<!--ウィキペディア推奨スタイル、著者五十音順-->
 
*{{Cite book|和書|author=[[宇垣纏]]著|others=[[成瀬恭]]発行人|origyear=1968|year=1979|title=[[戦藻録]]|publisher=[[原書房]]|ref=宇垣1979}}
 
*{{Cite book|和書|author=元連合艦隊司令部従兵長[[近江兵治郎]]|year=2000|month=7|title={{small|連合艦隊司令長官}}山本五十六とその参謀たち|publisher=テイ・アイ・エス|isbn=4-88618-240-2|ref=従兵長}}
 
*{{Cite book|和書|year=2009|month=8|title=帝国海軍太平洋作戦史|volume=1|series=歴史群像アーカイブ Filing book volume 9|publisher=[[学習研究社]]|isbn=978-4-05-605611-2|ref=学習研究社2009}}
 
*<!-- カトウ2004-12 -->{{Cite book|和書|author=[[加藤寛一郎]]|coauthors=|authorlink=|year=2004|month=12|title=大空の覇者 ドゥリットル上 {{small|東京奇襲1942}}|chapter=第九章 <ruby><rb>東京奇襲隊</rb><rt>トウキョウ・レイダーズ</rt></ruby>|publisher=講談社|ISBN=4-06-212701-6|ref=覇者上}}
 
*<!-- カトウ2004-12 -->{{Cite book|和書|author=[[加藤寛一郎]]|coauthors=|authorlink=|year=2004|month=12|title=大空の覇者 ドゥリットル下 {{small|欧州・日本本土爆撃}}|chapter=終章 それぞれの思い|publisher=講談社|ISBN=4-06-212702-4|ref=覇者下}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[亀井宏]]|year=1995|month=2|title=ミッドウェー戦記 {{small|さきもりの歌}}|series=光人社NF文庫|publisher=[[光人社]]|isbn=4-7698-2074-7|ref=亀井1995}}
 
*{{Cite book|和書|author=草鹿龍之介|authorlink=草鹿龍之介|month=1|year=1979|title=連合艦隊参謀長の回想|publisher=光和堂|isbn=4-87538-039-9|ref=草鹿回想}}
 
*{{Cite book|和書|author=工藤洋三|authorlink=工藤洋三|coauthors=[[奥住喜重]]編著|year=2008|month=8|title=写真が語る日本空襲|publisher=[[現代史料出版]] [[東出版]](発売)|isbn=978-4-87785-182-8|ref=工藤&奥住2008}}
 
*<!-- クナイ2016-03 -->{{Cite book|和書|author=[[宮内庁]]編|coauthors=|authorlink=|year=2016|month=3|title=昭和天皇実録 第八 {{small|昭和十五年至昭和十七年}}|chapter=|publisher=東京書籍株式会社|ISBN=978-4-487-74408-4|ref=実録八}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[坂井三郎]]ほか著|year=2000|month=3|title=零戦搭乗員空戦記|publisher=光人社|isbn=4-7698-0952-2|ref=坂井ら2000}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[佐藤和正]]|year=1993|title=艦長たちの太平洋戦争 {{small|34人の艦長が語った勇者の条件}}|publisher=光人社NF文庫|isbn=47698-2009-7|ref=佐藤、艦長(文庫)}}
 
** 海戦の原則 <駆逐艦「[[浜波 (駆逐艦)|浜波]]」司令・大島一太郎少将の証言>(ドーリットル空襲時、第22戦隊先任参謀として特別監視艇隊を指揮。)
 
*<!-- シオヤマ -->{{Cite book|和書|author=塩山策一ほか|coauthors=|year=2017|month=7|origyear=|title=変わりダネ軍艦奮闘記 {{smaller|裏方に徹し任務に命懸けた異形軍艦たちの航跡}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-4-7698-647-8|ref=変種}}
 
**{{small|元三十五突撃隊・海軍二等兵曹・艦艇研究家}}正岡勝直『にっぽん変わりダネ艦艇総まくり {{small|漁船や客船に軍艦旗をかかげて奮戦した特設特務艇の種類と装備と戦果}}』
 
**{{small|海戦史研究家}}北本大吉『ドーリットル空襲 二十三日東丸の殊勲 {{small|四月十八日の日東丸と長渡丸および五月十日の第五恵比寿丸の奮戦}}』
 
**{{small|元三十五突撃隊・海軍二等兵曹・艦艇研究家}}正岡勝直『知られざる黒潮部隊の栄光と悲惨 {{small|木の葉の如き小艇で太平洋の哨戒線についた特設監視艇隊の全容}}』 
 
*{{Cite book|和書|author=柴田武彦|authorlink=柴田武彦|coauthors=[[原勝洋]]|year=2003|month=11|title=ドーリットル空襲秘録 日米全調査|publisher=[[アリアドネ企画]] [[三修社]](発売)|series=Ariadne military|isbn=4-384-03180-7|ref=柴田&原2003}}
 
*<!-- ジョウ -->{{Cite book|和書|author=城英一郎著|editor=野村実・編|year=1982|month=2|chapter=|title={{smaller|侍従武官}} 城英一郎日記|publisher=山川出版社|series=近代日本史料選書|isbn=|ref=城日記}}
 
*<!--タカマツ-->{{Cite book|和書|author=[[高松宮宣仁親王]]著|coauthors=[[嶋中鵬二]]発行人|title=高松宮日記 第四巻 {{small|昭和十七年一月一日~昭和十七年九月三十日}}|publisher=中央公論社|year=1996|month=7|ISBN=4-12-403394-X|ref=高松宮四}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[ジョン・ダワー]]著|coauthors=[[猿谷要]]監修、[[斎藤元一]]訳|date=1987-9|title=人種偏見 {{small|太平洋戦争に見る日米摩擦の底流}}|chapter=第3章 戦争憎悪と戦争犯罪|publisher=TBSブリタニカ|isbn=4-484-87135-1|ref=人種偏見}}
 
*<!-- トール -->{{Cite book|和書|author=イアン・トール著|coauthors=村上和久訳|authorlink=|year=2013|month=6|title=太平洋の試練 {{small|真珠湾からミッドウェイまで 下}}|chapter=第八章 ドゥーリットル、奇跡の帝都攻撃|publisher=文藝春秋|ISBN=978-4-16-376430-6|ref=トール2013}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[中島親孝]]|year=2008|month=10|title=聯合艦隊作戦室から見た太平洋戦争 {{small|参謀が描く聯合艦隊興亡記}}|publisher=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2175-1|ref=中島作戦室}}
 
*<!-- ニミッツ1962 -->{{Cite book|和書|author=[[チェスター・ニミッツ]]/E・B・ポッター|coauthors=[[実松譲]]・富永謙吾訳|year=1962|month=12|title=ニミッツの太平洋海戦史|publisher=恒文社|isbn=|ref=ニミッツ1962}}
 
*{{Cite book|和書|author=半藤一利|authorlink=半藤一利|coauthors=[[横山恵一]]・[[秦郁彦]]・[[原剛 (軍事史家)|原剛]]|year=2010|month=2|title=歴代陸軍大将全覧 昭和篇 太平洋戦争期|publisher=[[中央公論新社]]|series=中公新書ラクレ 340|isbn=978-4-12-150340-4|ref=半藤ら2010}}
 
*{{Cite book|和書|author=平塚柾雄|year=2016|month=8|chapter=第三章 米軍に漏れていた日本の「MO」作戦|title=太平洋戦争裏面史 日米諜報戦 {{small|勝敗を決した作戦にスパイあり}}|publisher=株式会社ビジネス社|isbn=978-4-8284-1902-2|ref=平塚2016}}
 
*{{Cite book|和書|author=福田誠編著|others=伊藤竜太郎・松代守弘|origyear=1998|month=9|title=第二次大戦海戦辞典1939~45|publisher=[[光栄]]|ref=光栄海戦辞典}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[淵田美津雄]]|others=[[中田整一]]編・解説|year=2007|month=12|title=真珠湾総隊長の回想 {{small|淵田美津雄自叙伝}}|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4-06-214402-5|ref=淵田2007}}
 
*<!--ホウエイチョウ43 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 ミッドウェー海戦|volume=第43巻|year=1971|month=3|publisher=朝雲新聞社|ref=叢書43}}
 
*<!--ホウエイチョウ80 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<2> {{small|―昭和17年6月まで―}}|volume=第80巻|year=1975|month=2|publisher=朝雲新聞社|ref=叢書80}}
 
*<!--ホウエイチョウ85 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書  本土方面海軍作戦|volume=第85巻|year=1975|month=6|publisher=朝雲新聞社|ref=叢書85}}
 
*<!--ホウエイチョウ98 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書  潜水艦史|volume=第98巻|year=1979|month=6|publisher=朝雲新聞社|ref=叢書98}}
 
*<!--ホウエイチョウ102 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書  陸海軍年表 {{small|付 兵器・兵語の解説}}|volume=第102巻|year=1980|month=1|publisher=朝雲新聞社|ref=叢書102}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[松本健一]]|year=2007|month=12|title=畏るべき昭和天皇|publisher=[[毎日新聞社]]|isbn=978-4-620-31845-5|ref=松本2007}}
 
*<!--マル1990-9-->{{Cite book|和書|editor=雑誌『[[丸 (雑誌)|丸]]』編集部/編|date=1990-9|title=<small>写真</small> 日本の軍艦 第14巻 小艦艇II {{small|敷設艦・敷設艇 特設巡洋艦 二等駆逐艦 魚雷艇・震洋艇 雑務船・内火艇 病院船他/日本海軍作戦年表}}|publisher=光人社|isbn=4-7698-0464-4|ref=写真日本の軍艦第14巻}}
 
*<!--マル1995-2-->{{Cite book|和書|author=雑誌「丸」編集部|year=1995|month=2|title=写真 太平洋戦争<第三巻> {{small|ドーリットル空襲/珊瑚海海戦/ミッドウェー海戦}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2073-9|ref=丸写真3巻}}
 
*{{Cite book|和書|author=宮崎勇|authorlink=宮崎勇 (軍人)|year=1993|month=6|title=還って来た紫電改 紫電改戦闘機隊物語|publisher=光人社|isbn=4-7698-0651-5|ref=宮崎1993}}
 
*{{Cite book|和書|author=安田将三|authorlink=安田将三|coauthors=[[石橋孝太郎]]|year=1994|month=8|title={{small|読んでびっくり}} 朝日新聞の太平洋戦争記事 {{small|いま問われる新聞のあり方}}|publisher=[[リヨン社]] [[二見書房]](発売)|isbn=4-576-94111-9|ref=安田&石橋1994}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[吉野興一]]|year=2000|month=11|title=風船爆弾 純国産兵器「ふ号」の記録|publisher=[[朝日新聞社]]|isbn=4-02-257542-5|ref=吉野2000}}
 
*{{Cite book|和書|author=T・W・ローソン著・[[野田昌宏]]訳|year=1982|month=5|title=東京奇襲|publisher=朝日ソノラマ社|series=文庫版航空戦史シリーズ 9|isbn=4-2571-7009-3|ref=野田ら1982}}
 
:本空襲に参加したローソンの著作を、幼少期に本空襲を伝聞した野田が翻訳した。
 
 
 
== 関連項目 ==
 
 
 
* [[海軍]] - [[大日本帝国海軍]]- [[アメリカ合衆国海軍]]
 
* [[タイダルウェーブ作戦]]
 
* [[第二次世界大戦]] - [[太平洋戦争]]
 
* [[大日本帝国海軍艦艇一覧]]
 
* [[太平洋戦争の年表]]
 
* [[東京大空襲]]
 
* [[無差別爆撃]]
 
* [[ロサンゼルスの戦い]]
 
* [[東京上空三十秒]]
 
* [[パール・ハーバー (映画)]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{Commons|Doolittle Raid}}
 
* [http://www.hospita.jp/hospita/1034063.shtml 岡崎医院] - 日本で最初に空襲の被害を受けた建造物。現在は鉄筋コンクリートのビルになっている。
 
* [http://www.city.katsushika.lg.jp/museum/if-shiryoukan.html 葛飾区教育資料館] - 銃撃で死者を出した水元小学校の校舎を移築した資料館。機銃の銃弾と建物から切り取った弾痕が保存されている。
 
 
 
{{太平洋戦争・詳細}}
 
  
 
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