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{{出典の明記|date=2013年11月28日 (木) 13:53 (UTC)}}
 
'''知識人'''(ちしきじん、{{Lang-en-short|intellectual}})とは、[[職業]]的または個人的に、[[知性]]を用いて、[[批判的思考]]や[[分析]]的[[思考]]を行い、公共的議論に参加しようとする人物のこと。'''有識者'''(ゆうしきしゃ)とも。
 
  
== 知識人をめぐる言説 ==
+
'''知識人'''(ちしきじん、{{Lang-en-short|intellectual}})
知識人の[[定義]]はけっして容易くないが、知識人についての[[言説]]を比較すると、頭脳労働に従事しているすべての人(いわゆる[[ホワイトカラー]])がすべて知識人といえるわけではないし、[[作家]]や[[大学人]]など知識生産に従事する人のすべてが知識人というわけでもない。また、知識人になるためには、[[高等教育]]を受けることが必須ではない。
 
  
知識人というものの定義は、多くの場合、[[社会学]]的に論じることのできる[[事実判断]]の領域から決定されるというよりは、知識人とはこのようであるべし、という[[価値観|価値判断]]の問題として提起されている。要するに知識人というものの定義は、知識人論というものと相関的であるといえる。
+
高い知識や教養を持つ人。インテリ。
  
このような[[意味]]での知識人の定義はすでに歴史的な厚みをもっており、この歴史を参照枠とすることによって、ある程度まで恣意的でない知識人像を得ることができる。
 
 
実際、[[フランス]]では、[[19世紀]]末の[[ドレフュス事件]]の際、[[モーリス・バレス]]や[[フェルディナン・ブリュヌティエール]]によって用いられたのをきっかけに、知識人({{Lang-fr-short|intellectuel}})という[[言葉]]が、広く知られるようになったと言われている。バレスやブリュヌティエールは反ドレフュス派であり、[[エミール・ゾラ]]、[[オクターヴ・ミルボー]]、[[アナトール・フランス]]などドレフュス擁護の論陣を張った文人たちに対して、彼らが[[地政学]]や軍事的問題といった方面には疎いにもかかわらず無闇にドレフュスを擁護していると非難して、彼らに対して知識人という言葉を投げつけたのである。
 
 
したがって、このとき知識人とは軽蔑的意味をもっており、抽象的思考をするあまり現実感覚を見失って、ろくに知りもしない話題に安易に口を出すといった[[ニュアンス]]を帯びていた。
 
 
これとはまったく逆の方向から知識人について論じたのが[[ジュリアン・バンダ]]である。バンダは著書『教養人の裏切り (''Trahisons des clercs'') 』(邦題『知識人の裏切り』)において、[[真理]]や[[正義]]といった普遍的価値の代弁者たるべき知識人が、政治的な議論に熱中するあまり、本質を見失っていると論じている。
 
 
しかし、その後この[[言葉]]が広まっていくにつれ、以上のような否定的意味よりも肯定的意味が強調されるようになり、狭い専門性に閉じこもることなく、公共的議論に積極的に参入していく人たちについて用いられることが増えていった。
 
 
[[アメリカ合衆国]]の社会学者[[チャールズ・ライト・ミルズ]]が著書『社会学的想像力』で行った大学人に対する批判もこのような知識人論の一種であると考えられる。すなわちミルズは、大学人たちが専門性に特化するあまり公共的議論に参加する能力を失いつつあることを警告し、この点では[[ジャーナリスト]]のほうが知識人的であるとしたのである。
 
 
フランスの哲学者[[ジャン=ポール・サルトル]]は、知識人の大きな役割を社会参加に置き、[[フランス共産党|共産党]]に入党して(その後離党)、様々な政治的出来事に対して発言を行った。
 
 
今日このような意味での知識人の代表的存在といえるのが[[ノーム・チョムスキー]]である。チョムスキーの発言は大きな政治的影響力をもつようになっている。しかし、チョムスキー自身は知識人の役割が一人歩きすることに対して警戒しており、いわゆる知識人の発言とされるものはほとんどの場合支配的[[イデオロギー]]を擁護する役割しか果たさないと述べている。
 
 
[[福田恒存]]は知識人について、以下のように述べている{{Sfn|竹内|2012|p=340}}。
 
{{quotation|……知識人を自認する事によつて、専門の職能人としての怠慢をごまかし、その資格からの転落を防がうとしてゐる知識人が余りに多過ぎはしないでせうか。といふより、くどい様ですが、さういふ人々を知識人と呼ぶと定義すべき実情です。例は幾らでもあります。知識人が職業化した時、平和屋になり、テレビ・タレント化して行くのです。これもくどい様ですが、さうして知識人が職業化すれば、それが職業である以上、危機を食ひ物にする利己心に支配されざるを得ず、大義名分と利己心との混同といふ自己欺瞞に追ひ込まれて行くのは必然と言へませう|「知識人とは何か」『福田恒存全集』6}}
 
 
<!--
 
一般に、[[高等教育]]を受け[[頭脳労働]]に従事している人々を指す。
 
 
== 語義 ==
 
しばしば[[大衆]]の[[対義語]]として用いられ、日常生活の範囲でしか思考せず、[[知識]]の過程に参加しない者を[[蔑視]]する意味合いも含む。
 
 
何をもって知識とするかは、時代や場所により異なる。[[西洋]]では、古来[[観察]]と[[実験]]が重視され、[[近代科学]]の萌芽となった。しかし、伝統[[中国]]では、[[儒教]]の素養が知識とされ、[[科挙]]の問題でも、「[[論語]]」の一節の空欄を埋めるなど、[[機械暗記]]が知識とされた。
 
 
旧[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]の[[国章]]には、[[ハンマー]]と[[ムギ|麦穂]]と[[ディバイダ]]があしらわれたが、ハンマーは[[労働者]]、麦穂は[[農民]]、ディバイダは知識人を表した。
 
 
日本では左翼系論客が知識人と呼ばれる事が多い。-->
 
 
== 脚注 ==
 
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== 参考文献 ==
 
* [[西部邁]]『知識人の[[生態]]』[[PHP新書]]、1996年 ISBN 9784569553658
 
* [[茂木健一郎]]『思考の補助線』
 
*{{Cite book|和書|last=竹内|first=洋|authorlink=竹内洋|title=メディアと知識人 - 清水幾太郎の覇権と忘却|date=2012|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=978-4120044052|ref=harv}}
 
  
 
== 関連項目 ==
 
== 関連項目 ==
 
* [[インテリ]]
 
* [[インテリ]]
 
* [[文化人]]
 
* [[文化人]]
* [[おたく|オタク]]
+
 
* [[有識者]]
 
* [[ニューヨーク知識人]]
 
* [[教養市民層]]
 
  
 
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2018/8/15/ (水) 10:23時点における版

知識人(ちしきじん、: intellectual

高い知識や教養を持つ人。インテリ。


関連項目