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細川氏綱 | |
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時代 | 戦国時代 |
生誕 | 永正11年(1514年) |
死没 | 永禄6年12月20日(1564年1月4日) |
幕府 | 摂津守護→室町幕府管領 |
主君 | 足利義稙→足利義晴→足利義輝 |
氏族 | 細川氏(細川京兆家) |
細川 氏綱(ほそかわ うじつな)は、戦国時代後期の武将で、室町幕府第35代にして最後の管領。摂津守護。第18代細川京兆家当主。細川尹賢の子で、父の盟友でもあった細川高国の養子。
生涯
父の従兄弟(従伯父)であった細川高国の養子となる。天敵であった細川晴元の反撃を阻めず敗死した養父と、その晴元方に転じて生き残りを模索しながら殺害された実父、2人の仇を討つべく晴元打倒の機を窺い続けた。
高国の弟である細川晴国とは年齢が近く、高国の嫡子稙国の没後は後継者の地位を巡って微妙な関係にあったと思われる。その立場を高国が配慮したためか大永6年(1526年)12月に細川次郎(氏綱)・八郎(晴国)が同時に元服させられている。翌7年(1527年)以降和泉に赴いたと思われ、後の蜂起の際に常に和泉から活動しているのは、こういった縁によるものと思われる。また、天文法華の乱に際し晴国が反晴元の兵を起こした際に、晴国より3歳年上で十分主体的な行動が可能であったはずの氏綱が何も動きを見せていないのは、高国の後継者を巡る微妙な関係が影響していたのではないかと推測されている。
天文7年(1538年)になり初めて細川上野玄蕃家の細川国慶と共に晴元を討つための兵を和泉で挙げる。以降も断続的に蜂起をしているが、これは畠山稙長や遊佐長教、筒井氏などの畿内の有力者や、山陰の尼子晴久もこれに連携して上洛を図らんとする広範囲に渡った軍事行動だったが、当初は晴元の強大な力の前に圧倒的に不利であった。
しかし天文15年(1546年)に晴元の家臣三好長慶を堺に赴いた隙に遊佐長教・筒井順昭らと共に堺を囲み長慶を越水城に撤退させ、その間に細川国慶が京を制圧し晴元らを丹波に敗走させる。更に12代将軍足利義晴の支持を獲得するまで晴元を追い詰めたものの、翌天文16年(1547年)に舎利寺の戦いなどで晴元方の反撃を受け、京を占拠していた国慶も戦死したため失敗に終わる。
ところが、三好政長(宗三)の処遇を巡って主君と仲違いした晴元軍の中核・長慶の氏綱側への転属が決め手となり、天文18年(1549年)に長慶が政長を江口の戦いで討ち取り、晴元が戦場を離れ京を放棄、遂に晴元を近江へと追放することに成功した。天文21年(1552年)には長慶と共に上洛し、右京大夫に任じられ、細川京兆家の家督となる。永禄6年12月20日(1564年1月4日)に山城淀城で没。
一般的に長慶の傀儡でしかなく、実権は全く無かったと認識される氏綱だが、近年の研究では上洛当初は東寺などの寺社が長慶のみならず氏綱からの書状を求めていたことや、内藤国貞の戦死後の松永長頼の家督譲渡の承認など丹波支配において複数の書状を出していること、永禄段階までは長慶は形式上とはいえ儀礼の場で氏綱を主君として立てていること、従来は長慶の被官として京支配に関わったと思われていた今村慶満・小泉秀清らは細川国慶に抜擢された被官であり、国慶の死後は主君である氏綱の被官にスライドしたと思われることなど、少なくとも天文年間においては畿内においてある程度の影響力を持っていたと思われ、「傀儡」という言葉で一括りにしてしまうことに疑問が呈されている。
参考文献
- 天野忠幸『戦国期三好政権の研究』清文堂出版、2010年。
- 下川雅弘『三好長慶の上洛と細川氏綱』(『三好長慶』宮帯出版社、2013年。ISBN 978-4-86366-902-4)
- 小谷利明『畠山稙長の動向』(『戦国期の権力と文書』高志書院、2004年)
- 岡田謙一『細川晴国小考』(『戦国・織豊期の西国社会』日本史史料研究会論文集 、2012年)
- 馬部隆弘『細川国慶の上洛戦と京都支配』(日本史研究 第623号、2014年7月)
- 馬部隆弘『細川国慶の出自と同族関係』(史敏 9号、2011年10月)
脚注
関連項目
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