「ディエゴ・コリャード」の版間の差分

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'''ディエゴ・コリャード'''(Diego de Collado、[[ラテン語]]: Didacus Colladus、[[1589年]]? - [[1641年]]8月)は、[[ドミニコ会]]に所属する[[スペイン]]の[[宣教師]]。
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'''ディエゴ・コリャード'''(Diego de Collado、[[ラテン語]]: Didacus Colladus、[[1589年]]? - [[1641年]]8月)
  
== 来歴 ==
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スペインの宣教師,ドミニコ会に属する。元和5 (1619) 年日本に来て伝道。代理管区長となる。 1621年長崎の 26殉教者の列福調査判事に任命され,23年ローマに着いて殉教調査書をローマ聖庁に提出,24年イエズス会を非難した「ソテロ陳状」を発表した。ここで『日本文典』『日本語辞典』をラテン文で刊行し,日本事情を西洋に伝えた。ただし著作については自作ではないとの説もある。 35年再び東洋伝道の旅に出たが,38年マニラへの航行途中,海難にあい死んだ。
スペインの[[ミアハーダス]]([[w:Miajadas]])出身。[[1604年]]にドミニコ会に入会し、[[1611年]]に[[フィリピン]]の[[マニラ]]に派遣される。[[1619年]]に既に[[キリシタン禁止令]]が出されていた日本に潜入し、[[長崎市|長崎]]一帯で密かに布教活動を続けた。[[1622年]]に[[平山常陳事件]]で捕らえられていたドミニコ会同僚の[[ルイス・フロレス (神父)|ルイス・フロレス]]が[[火刑]]となり、続いて[[元和の大殉教]]が行われた。折りしも[[26聖人の殉教]]に関する[[教会法]]上の調査を行っていた自身は難を逃れたが、この事件に危機感を強め、同年11月に報告のためマニラに戻り、更に[[ローマ教皇領|ローマ教皇国]]に赴いた。
 
  
自らは、日本での迫害の一因に[[イエズス会]]による長年の日本布教の独占を挙げたことからイエズス会とドミニコ会・[[フランシスコ会]]の論争に発展したが、その主張は認められなかった。[[1632年]]に、[[布教聖省]]の許可を得て、[[キリシタン版]]文献で『[[日本文典 (コリャード)|日本文典]]』・『羅西日辞書』([[大塚光信]]・小島幸枝編、[[臨川書店]])・『懺悔録』(日本の信者たちの告白・回想録、大塚光信校注、[[岩波文庫]])を刊行した。[[1635年]]にマニラに戻り、アジアを拠点としたイエズス会に対抗する新しい教会組織作りを図るも失敗に終わり、スペイン本国へ追放されて帰国する途中に、乗船が遭難して死亡したと伝えられている。
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[[Category:スペインの宣教師]]
 
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2019/4/30/ (火) 00:39時点における最新版

ディエゴ・コリャード(Diego de Collado、ラテン語: Didacus Colladus、1589年? - 1641年8月)

スペインの宣教師,ドミニコ会に属する。元和5 (1619) 年日本に来て伝道。代理管区長となる。 1621年長崎の 26殉教者の列福調査判事に任命され,23年ローマに着いて殉教調査書をローマ聖庁に提出,24年イエズス会を非難した「ソテロ陳状」を発表した。ここで『日本文典』『日本語辞典』をラテン文で刊行し,日本事情を西洋に伝えた。ただし著作については自作ではないとの説もある。 35年再び東洋伝道の旅に出たが,38年マニラへの航行途中,海難にあい死んだ。



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