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(内容を「 '''中曽根 康弘'''(なかそね やすひろ、1918年大正7年)5月27日 - ) 政治家。東京大学を卒業。内務省に入る。海軍...」で置換)
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{{政治家
 
|人名 = 中曽根 康弘
 
|各国語表記 = なかそね やすひろ
 
|画像 = Yasuhiro Nakasone in Andrews cropped.jpg
 
|画像サイズ = 250px
 
|画像説明 = [[1983年]][[1月21日]]、[[アンドルーズ空軍基地]]にて({{年数|1918|5|27|1983|1|21}}歳)
 
|国略称 = {{JPN}}
 
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1918|5|27|100歳}}
 
|出生地 = {{JPN}} [[群馬県]][[高崎市]]
 
|没年月日 =
 
|死没地 =
 
|出身校 = [[東京大学|東京帝国大学]][[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|法学部]][[政治学部|政治学科]]卒業
 
|前職 = [[内務省 (日本)|内務省]]官僚<br/>[[拓殖大学]]総長・理事長
 
|現職 = [[世界平和研究所]]会長<br/>拓殖大学名誉総長
 
|所属政党 = ([[民主党 (日本 1947-1950)|民主党]]→)<br/>([[国民民主党 (日本 1950-1952)|国民民主党]]→)<br/>([[改進党]]→)<br/>([[日本民主党]]→)<br/>([[自由民主党 (日本)|自由民主党]]→)<br/>([[無所属]]→)<br/>自由民主党
 
|称号・勲章 = [[従六位]]<br/>[[大勲位菊花大綬章]]<br/>衆議院[[名誉議員]]有資格者<br/>[[学士(法学)|法学士]](東京帝国大学・[[1941年]])<br/>[[フランス|フランス共和国]][[ルイ・パスツール大学]][[名誉博士]]<br/>[[中華人民共和国]][[上海交通大学]][[名誉教授]]<br/>[[群馬県名誉県民]]<br/>[[正論大賞]]特別賞
 
|親族(政治家) = 長男・[[中曽根弘文]]<br>孫・[[中曽根康隆]]
 
|配偶者 = 妻・[[中曽根蔦子]]
 
|サイン = NakasoneY kao.png
 
|ウェブサイト =
 
|サイトタイトル =
 
|国旗 = JPN
 
|職名 = 第71-73代 [[内閣総理大臣]]
 
|内閣 = [[第1次中曽根内閣]]<br/>[[第2次中曽根内閣]]<br/>[[第2次中曽根内閣 (第1次改造)|第2次中曽根第1次改造内閣]]<br/>[[第2次中曽根内閣 (第2次改造)|第2次中曽根第2次改造内閣]]<br/>[[第3次中曽根内閣]]
 
|選挙区 =
 
|当選回数 =
 
|就任日 = [[1982年]][[11月27日]]
 
|退任日 = [[1987年]][[11月6日]]
 
|所属委員会 =
 
|議員会館 =
 
|元首職 = 天皇
 
|元首 = [[昭和天皇]]
 
|国旗2 = JPN
 
|職名2 = 第45代 [[行政管理庁長官]]
 
|内閣2 = [[鈴木善幸内閣]]<br/>[[鈴木善幸内閣 (改造)|鈴木善幸改造内閣]]
 
|選挙区2 =
 
|当選回数2 =
 
|就任日2 = [[1980年]][[7月17日]]
 
|退任日2 = 1982年11月27日
 
|元首職2 =
 
|元首2 =
 
|国旗3 = JPN
 
|職名3 = 第34-35代 [[経済産業大臣|通商産業大臣]]
 
|内閣3 = [[第1次田中角栄内閣]]<br/>[[第2次田中角栄内閣]]<br/>[[第2次田中角栄内閣 (第1次改造)|第2次田中角栄第1次改造内閣]]<br/>[[第2次田中角栄内閣 (第2次改造)|第2次田中角栄第2次改造内閣]]
 
|選挙区3 =
 
|当選回数3 =
 
|就任日3 = [[1972年]][[7月7日]]
 
|退任日3 = [[1974年]][[12月9日]]
 
|元首職3 =
 
|元首3 =
 
|国旗4 = JPN
 
|職名4 = 第25代 [[科学技術庁長官]]
 
|内閣4 = 第1次田中角栄内閣
 
|選挙区4 =
 
|当選回数4 =
 
|就任日4 = 1972年7月7日
 
|退任日4 = 1972年[[12月22日]]
 
|元首職4 =
 
|元首4 =
 
|国旗5 = JPN
 
|職名5 = 第25代 [[防衛大臣|防衛庁長官]]
 
|内閣5 = [[第3次佐藤内閣]]
 
|選挙区5 =
 
|当選回数5 =
 
|就任日5 = [[1970年]][[1月14日]]
 
|退任日5 = [[1971年]][[7月5日]]
 
|元首職5 =
 
|元首5 =
 
|国旗6 = JPN
 
|その他職歴1 = 第38代 [[運輸大臣]]<br/>'''([[第2次佐藤内閣 (第1次改造)|第2次佐藤第1次改造内閣]])''' '' ''
 
|就任日6 = [[1967年]][[11月25日]]
 
|退任日6 = [[1968年]][[11月30日]]
 
|国旗7 = JPN
 
|その他職歴2 = 第7代 科学技術庁長官<br/>'''([[第2次岸内閣 (改造)|第2次岸改造内閣]])''' '' ''
 
|就任日7 = [[1959年]][[6月18日]]
 
|退任日7 = [[1960年]][[7月19日]]
 
|国旗8 = JPN
 
|その他職歴3 = 衆議院議員
 
|就任日8 = [[1947年]][[4月26日]]
 
|退任日8 = [[2003年]][[10月10日]]
 
}}
 
'''中曽根 康弘'''(なかそね やすひろ、[[1918年]]([[大正]]7年)[[5月27日]] - )は、[[日本]]の[[政治家]]。[[位階]]は[[従六位]]。[[勲等]]は[[大勲位菊花大綬章|大勲位]]。
 
  
衆議院議員(20期)、[[科学技術庁長官]](第[[第2次岸内閣 (改造)|7]]・[[第1次田中角栄内閣|25]]代)、[[運輸大臣]]([[第2次佐藤内閣 (第1次改造)|第38代]])、[[防衛大臣|防衛庁長官]]([[第3次佐藤内閣|第25代]])、[[経済産業大臣|通商産業大臣]](第[[第1次田中角栄内閣|34]]・[[第2次田中角栄内閣|35]]代)、[[行政管理庁長官]]([[鈴木善幸内閣|第45代]])、[[内閣総理大臣]](第[[第1次中曽根内閣|71]]・[[第2次中曽根内閣|72]]・[[第3次中曽根内閣|73]]代)、[[自由民主党総務会]]長、[[自由民主党幹事長]][[自由民主党総裁]](第11代)などを歴任した<ref name="jiten">日外アソシエーツ編『新訂 政治家人名事典 明治〜昭和』(日外アソシエーツ、2003年) 436頁、437頁、日外アソシエーツ編『新訂現代政治家事典―中央・地方の政治家4000人』(日外アソシエーツ、2005年) 377頁、378頁参照。</ref>。対米関係上の愛称は「ヤス」。
+
'''中曽根 康弘'''(なかそね やすひろ、[[1918年]]([[大正]]7年)[[5月27日]] - )
  
衆議院議員連続20回当選([[1947年]] - [[2003年]])。現職は[[財団法人#公益財団法人|公益財団法人]]「[[世界平和研究所]]」会長、[[拓殖大学]]第12代総長・理事長、名誉総長、[[東アジア共同体評議会]]会長。[[新憲法制定議員同盟]]会長。
+
政治家。東京大学を卒業。内務省に入る。海軍に入隊,復員後警視庁に勤務し,1947年に衆議院議員に当選。以来当選 20回 (2003) 。[[自由民主党]]では河野派に属し,1959年科学技術庁長官となる。[[河野一郎]]の死後,河野派の大半を継承。 1966年中曽根派を形成,佐藤政権の運輸大臣,防衛庁長官,党総務会長,田中内閣の通産大臣を歴任。三木政権下では党幹事長となった。 1977年福田政権下の党総務会長。 1982年 11月,自民党総裁,内閣総理大臣となる。内政面では行政改革や緊縮財政,3公社の民営化を進めた反面,民間活力の導入と規制緩和が地価の暴騰をもたらした。外交では「西側陣営の一員」の姿勢をアピールし,防衛費の対国民総生産 GNP比率1%枠を突破。また靖国公式参拝を行なった。 1986年の衆参ダブル選挙では自民党に 300議席をこえる記録的勝利をもたらしたが,選挙公約を破り,売上税の導入をはかって国民の不信を買い,1987年退陣。 1989年[[リクルート事件]]に関与し国会証人喚問を受けた。 2003年,政界を引退した。
  
[[群馬県]]出身。[[東京大学|東京帝国大学]][[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|法学部]][[政治学部|政治学科]]卒業後、[[内務省 (日本)|内務省]]に入省する。[[短期現役士官|海軍短期現役制度]]で戦時中に[[大日本帝国海軍|海軍]]主計士官に転じるも、終戦後には内務省に再勤する。退官後、衆議院議員に当選。以来、[[政策科学研究所 (派閥)|中曽根派]]を形成するなど[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]内で頭角を現し、[[科学技術庁長官]]をはじめとして[[運輸大臣]]、[[防衛大臣|防衛庁長官]]、[[経済産業大臣|通商産業大臣]]、[[行政管理庁長官]]などの[[国務大臣|閣僚]]経験を経て、[[1982年]](昭和57年)から[[1987年]](昭和62年)にかけて[[内閣総理大臣]]を務める<ref name="jiten"/>。[[日本国有鉄道|国鉄]]、[[日本電信電話公社|電電公社]]、[[日本専売公社|専売公社]]、[[日本航空]]の民営化を達成した事績が特に知られる。また[[アメリカ]]の[[ロナルド・レーガン]]大統領と「ロン・ヤス」関係と呼ばれる信頼関係を構築して日米安全保障体制の強化にも努めた。
+
{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
[[2004年]](平成16年)[[7月19日]]に[[鈴木善幸]]が亡くなったことにより最年長の首相経験者となり、[[昭和|昭和時代]]の歴代総理大臣の中で最後の存命者となった。歴代総理大臣の中では[[東久邇宮稔彦王]](死去時102歳48日)に次ぐ長寿の首相経験者であり、現行憲法下で首相就任を果たした人物としては最高齢である。[[2018年]](平成30年)5月27日には満100歳を迎えた。これも首相経験者としては東久邇宮稔彦王に続く2人目、現行憲法下で首相就任を果たした人物としては初となる。
 
 
 
公称の身長は178cmであり、歴代の内閣総理大臣では[[大隈重信]]の公称180cmに次ぐ第2位の長身といわれている。
 
 
 
== 略歴 ==
 
*[[1918年]](大正7年)5月27日 - [[群馬県]][[高崎市]]末広町に生まれる。
 
*[[1935年]](昭和10年) - 旧制高崎中学(現・[[群馬県立高崎高等学校]])4年修了。
 
*[[1938年]](昭和13年) - [[静岡高等学校 (旧制)|静岡高等学校]](現・[[静岡大学]])文科丙類卒業。
 
*[[1941年]](昭和16年) - [[東京大学|東京帝国大学]][[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|法学部]][[政治学部|政治学科]]を卒業後、[[内務省 (日本)|内務省]]に入るが、[[短期現役士官|海軍短期現役制度]]により[[中尉|海軍主計中尉]]に[[任官]]<ref name="jirei623"/>。[[呉鎮守府]]に配属され、第二設営隊の主計長に任命される。[[日本の降伏|終戦時]]は海軍主計[[少佐]]。[[戦後|終戦後]]、内務省に復帰。
 
*[[1946年]](昭和21年) - 内務省を依願退職。
 
*[[1947年]](昭和22年) - [[第23回衆議院議員総選挙]]で立候補、初当選。
 
*[[1953年]](昭和28年) - [[ハーバード大学]]の夏期セミナーに留学。大学院生だった[[ヘンリー・キッシンジャー|キッシンジャー]]などと人脈を築いた。
 
*[[1954年]](昭和29年)- 3月、当時、[[日本学術会議]]を飛び越して、日本で初めて超党派の政治家らと「原子力予算<ref>2億3500万円。[[ウラン]]の質量235に因む。</ref>」を[[国会 (日本)|国会]]に提出し成立させる。[[正力松太郎]]にこの頃近づき、正力派結成の参謀格として走り回る。2人で政界における[[日本の原子力政策]]推進の両軸となる。
 
*[[1959年]](昭和34年) - [[第2次岸内閣 (改造)|第2次岸内閣改造内閣]]の[[科学技術庁長官]]として入閣。[[原子力委員会]]の委員長に就任。
 
*[[1966年]](昭和41年) - [[春秋会|旧河野派]]が分裂し、[[政策科学研究所 (派閥)|中曽根派]]が結成される。
 
*[[1967年]](昭和42年) - [[第2次佐藤内閣 (第1次改造)|第2次佐藤内閣第1次改造内閣]]の[[運輸大臣]]に就任。 第12代[[拓殖大学]]総長に就任(1971年より名誉総長)。
 
*[[1968年]](昭和43年) - プロスポーツ団体の連合体である日本プロスポーツ会議創立に伴い初代会長。
 
*[[1970年]](昭和45年) - [[第3次佐藤内閣]]で[[防衛大臣|防衛庁長官]]となる。
 
*[[1971年]](昭和46年) - [[第3次佐藤内閣 (改造)|第3次佐藤内閣改造内閣]]で[[自由民主党総務会#総務会長|自民党総務会長]]に就任。
 
*[[1972年]](昭和47年) - [[第1次田中角栄内閣]]の[[経済産業大臣|通商産業大臣]]に就任(科学技術庁長官兼務)。[[第2次田中角栄内閣]]では通産大臣専任となる。
 
*[[1974年]](昭和49年) - [[三木内閣]]で[[自由民主党幹事長|幹事長]]に就任。
 
*[[1977年]](昭和52年) - [[福田赳夫内閣 (改造)|福田赳夫内閣改造内閣]]でまた総務会長となる。
 
*[[1978年]](昭和53年) - [[自由民主党総裁選挙]]に初出馬する。
 
*[[1979年]](昭和54年) - 総選挙の敗北を受けた「[[四十日抗争]]」時には[[大平正芳]]首相に対して退陣を要求する。
 
*[[1980年]](昭和55年) - [[鈴木善幸内閣]]の[[行政管理庁長官]]に就任。
 
*[[1982年]](昭和57年) - 第71代内閣総理大臣に就任。[[第1次中曽根内閣]]を発足。[[日本国有鉄道|国鉄]]、[[日本電信電話公社|電電公社]]、[[日本専売公社|専売公社]]の[[民営化]]を行う。[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]に[[安倍晋太郎]]を起用。
 
*[[1983年]](昭和58年) - [[第2次中曽根内閣]]発足。[[内閣官房長官]]に[[藤波孝生]]、[[文部大臣 (日本)|文部大臣]]に[[森喜朗]]を任命。
 
*[[1984年]](昭和59年) - [[第2次中曽根内閣 (第1次改造)|第2次中曽根内閣第1次改造内閣]]発足。[[内閣官房副長官]]に[[山崎拓]]を抜擢した。
 
*[[1985年]](昭和60年) - [[プラザ合意]]により、[[円高]]を容認。12月には内閣改造を行う([[第2次中曽根内閣 (第2次改造)|第2次中曽根内閣第2次改造内閣]])。[[農林水産大臣]]に[[羽田孜]]を、[[自治大臣]]に[[小沢一郎]]を起用する。
 
*[[1986年]](昭和61年) - 衆参同日選で大勝。[[第3次中曽根内閣]]発足。[[日本の大蔵大臣・財務大臣一覧|大蔵大臣]]に[[宮澤喜一]]を、[[運輸大臣]]に[[橋本龍太郎]]を任命。
 
*[[1987年]](昭和62年) - [[売上税]]の導入失敗が原因で支持率が急降下するが、やがて人気を取り復した。[[竹下登]]を後継総裁に指名して退陣。
 
*[[1989年]](平成元年) - [[リクルート事件]]に関与して自民党から離党。
 
*[[1990年]](平成2年) - 派閥を[[渡辺美智雄]]に譲る。
 
*[[1991年]](平成3年) - 自民党に復党。
 
*[[1996年]](平成8年) - 自民党の[[比例北関東ブロック]]における終身一位を保証される。
 
*[[1997年]](平成9年) - [[大勲位菊花大綬章]]を受章。
 
*[[1999年]](平成11年) - [[江藤隆美]]、[[中尾栄一]]、[[与謝野馨]]、[[村上正邦]]、[[佐藤静雄 (衆議院議員)|佐藤静雄]]らで構成する中曽根派と[[亀井静香]]率いる亀井グループが合併し「[[志帥会]]」を結成。中曽根は最高顧問に就任。
 
*[[2001年]](平成13年) - 森首相退陣後の総裁選に出馬した[[亀井静香]]に総裁選辞退を進言し、亀井はこれを受諾する。
 
*[[2003年]](平成15年) - [[小泉純一郎]]首相から定年制導入のために引退を要請され、当初は反対するも最終的には政界から引退。
 
*[[2018年]](平成30年) - 首相経験者として2人目となる満100歳を迎えた。
 
 
 
== 来歴・人物 ==
 
=== 内務省入省まで ===
 
[[画像:1919. Yasuhiro Nakasone.JPG|thumb|240px|1919年、1歳の中曽根]]
 
[[群馬県]][[高崎市]]に[[材木]]商・[[中曽根松五郎]]の二男として生まれた。生家は[[関東]]有数の材木[[問屋]]「古久松」である。敷地は3[[ヘクタール]]もあって、そこに住居と工場があり、働いている職人が中曽根の学生時代には150人、住み込みの[[家政婦|女中]]が20人ぐらいは常時いたという<ref>『{{small|新総理}} 中曾根康弘の研究』139頁</ref>。
 
 
 
地元の小学校へ進学後、[[群馬県立高崎高等学校|旧制高崎中学]]、[[静岡高等学校 (旧制)|旧制静岡高校]]を経て[[東京大学|東京帝国大学]][[法学部]][[政治学科]]へ進む。
 
 
 
同大学を卒業後、[[内務省 (日本)|内務省]]に入省。同期入省組に[[早川崇]]や[[小沢辰男]]、[[大村襄治]]らがいた<ref group="注釈">なお、後に中曽根政権で官房長官に迎えた[[後藤田正晴]]は内務官僚としての先輩に当たる。</ref>。
 
 
 
=== 海軍時代 ===
 
[[画像:Nakasone Yasuhiro in Imperial Japanese Navy.JPG|thumb|200px|海軍時代の中曽根]]
 
[[短期現役士官|短期現役制度]](第六期二年現役主計科士官)に応募し、[[海軍経理学校]]にて初任教育を受け、[[1941年]](昭和16年)[[4月18日]]附で[[大日本帝国海軍|海軍]]主計[[中尉]]に任官<ref name="jirei623">{{アジア歴史資料センター|C13072080800|昭和16年4月18日(発令4月18日付)海軍辞令公報(部内限)第623号 p.31(原本304上段、任海軍主計中尉)、p.34(原本307上段、海軍経理学校補修学生被仰付)}}</ref>。同年8月11日附で[[青葉型重巡洋艦]]1番艦「[[青葉 (重巡洋艦)|青葉]]」([[第一艦隊 (日本海軍)|第一艦隊]]、第六戦隊所属)に配属される<ref name="jirei687">{{アジア歴史資料センター|C13072081700|昭和16年8月11日(発令8月11日付)海軍辞令公報(部内限)第687号 p.18(原本610下段)}}</ref>。[[高知県]]の[[土佐湾]]沖の[[太平洋]]で訓練を受けた。
 
 
 
同年11月20日、第二設営班班員に補職<ref name="jirei752">{{アジア歴史資料センター|C13072083200|昭和16年11月20日(発令11月20日付)海軍辞令公報(部内限)第752号 p.24(原本1249)上段}}</ref>
 
。11月26日に[[広島県]][[呉市]]の[[呉鎮守府]](司令長官[[豊田副武]]大将、参謀長[[中島寅彦]]少将)に到着<ref name="終わり海軍90">[[#松浦、海軍|終わりなき海軍]]90-93頁『喜びは任務遂行の瞬間にある』</ref>。同鎮守府参謀長より第二設営隊の主計長に任命され、工員3000名と[[海軍陸戦隊]]の糧食・弾薬・資材、[[零式艦上戦闘機|零戦]]・[[一式陸上攻撃機]]の武器・燃料を調達して輸送船団に積み込むよう命令される<ref name="終わり海軍90"/>。11月29日に出港するまで、昼間は編成に明け暮れ、夜は積み込みの指揮で、ほとんど寝る暇もなかったという<ref name="終わり海軍90"/>。
 
 
 
11月29日、輸送船団は出発<ref name="終わり海軍92">[[#松浦、海軍|終わりなき海軍]]92-93頁『民衆の一人として生きぬけ!』</ref>。中曽根は「台東丸」に乗船した。この船にはかなりの刑余者([[前科]]のある者)がおり、大学を出て海軍で短期訓練を受けただけだった中曽根は一計を案じ、全員を甲板に集めた<ref name="終わり海軍92"/>。この中から一番凄そうな親分肌の者を選んで班長にすると、古田と名乗る前科八犯の男と酒を呑み交わし、親分(中曽根)・子分(古田)の関係となって人心掌握に努めた<ref name="終わり海軍92"/><ref name="終わり海軍94">[[#松浦、海軍|終わりなき海軍]]94-95頁</ref>。
 
 
 
同年[[12月8日]]の[[太平洋戦争]]開戦以後、輸送船団はアメリカ領フィリピンの[[ミンダナオ島]]の[[ダバオ]]に上陸する<ref name="終わり海軍94"/>。上陸後、飛行場の設営がはじまると[[アメリカ合衆国|アメリカ]]軍の[[ボーイング]][[B-17 (航空機)|B-17]][[爆撃機]]の爆撃を受けた<ref name="終わり海軍94"/>。
 
 
 
次に[[ボルネオ島]]の[[バリクパパン]]に向かうのだが、途中の[[マカッサル海峡]]で14隻のうち、4隻が撃沈される。日本軍輸送船団約20隻がバリクパパンの湾に進入したところ、湾内に[[オランダ]]と[[イギリス]]の[[駆逐艦]]および[[潜水艦]]が突入してくる<ref name="終わり海軍95">[[#松浦、海軍|終わりなき海軍]]95-96頁</ref>。こちらには軽巡洋艦「[[神通 (軽巡洋艦)|神通]]」がついていたが、船団の中に取り込まれてしまって身動きが取れない状態だった。中曽根が乗船している前後左右の4隻は[[轟沈]]、さらに接近してきた敵駆逐艦から副砲や[[機関銃]]で攻撃され、輸送船も炎上する<ref name="終わり海軍95"/><ref name="終わり海軍96">[[#松浦、海軍|終わりなき海軍]]96-98頁</ref>。中曽根が情況を確認すると、船倉は阿鼻叫喚の地獄絵図になっており、多数の重傷者を出していた<ref name="終わり海軍95"/>。班長も脚部ほぼ切断の重傷であり、中曽根は軍医長に託したものの、班長は部下の治療を優先させているうちに戦死した<ref name="終わり海軍96"/>。この戦いで戦死した仲間達の遺体は、バリクパパンの海岸で、荼毘([[火葬]])に付した<ref name="終わり海軍96"/>。中曽根はそのときの思いを俳句にして詠んでいる<ref group="注釈">『終わりなき海軍』97ページでは「大きな波 黙祷の列の 足に来ぬ/戦友(とも)を焼く 鉄板をかつぎ 浜に出ぬ」</ref>。
 
{{Cquote|'''友を焼く 鉄板を担ぐ 夏の浜'''
 
 
 
'''夏の海 敬礼の列の 足に来ぬ'''}}
 
当時の経験を振り返り、中曽根はこう語った。
 
{{Quotation|彼ら、戦死した戦友をはじめ、いっしょにいた二千人は、いわば日本社会の前線でいちばん苦労している庶民でした。美辞麗句でなく、彼らの愛国心は混じり気のないほんものと、身をもって感じました。『私の体の中には国家がある』と書いたことがありますが、こうした戦争中の実体験があったからなのです。この庶民の愛国心がその後私に政治家の道を歩ませたのです。 <ref name="naka">中曾根康弘『自省録-歴史法廷の被告として-』([[新潮社]] 2004年6月) ISBN:4-10-468701-4</ref>}}
 
 
 
1月24日の本海戦は[[バリクパパン沖海戦]]と呼称され、護衛艦隊旗艦は「神通」(第二水雷戦隊旗艦)ではなく[[川内型軽巡洋艦|同型艦]]の軽巡洋艦「[[那珂 (軽巡洋艦)|那珂]]」(第四水雷戦隊司令官[[西村祥治]]少将)、泊地に突入してきた敵艦はオランダ・イギリスの艦艇ではなくアメリカ海軍の駆逐艦4隻(ジョン・D・フォード、ポープ、パロット、ポール・ジョーンズ)、沈没艦は潜水艦により輸送船1隻、米海軍駆逐艦により輸送船3隻と哨戒艇1隻で、船尾に被弾した輸送船は「朝日山丸」(死傷者約50名)、マカッサル海峡で沈んだ輸送船は空襲による「南阿丸」1隻である<ref>{{Cite book|和書
 
|author = 防衛庁防衛研修所戦史室
 
|authorlink =
 
|year = 1969
 
|month = 5
 
|title = 戦史叢書26 {{small|蘭印・ベンガル湾方面}} 海軍進攻作戦
 
|publisher = 朝雲新聞社
 
|pages=198-203
 
|ref = 戦史叢書26海軍進攻作戦
 
}}</ref>。
 
中曽根はその後も主計科士官として従軍。1943年(昭和18年)8月18日附で、中曽根主計大尉は高雄海軍施設部部員([[高雄警備府]])に任命される<ref name="jirei1195">{{アジア歴史資料センター|C13072092500|昭和18年8月21日(発令8月18日付)海軍辞令公報(部内限)第1195号 p.40(原本1624上段)}}</ref>。
 
<!--[[1944年]][[10月]]の「[[捷号作戦|捷一号作戦]]」(いわゆる「[[レイテ沖海戦]]」)には[[戦艦]]「[[長門_(戦艦)|長門]]」乗組みの主計士官として参加し、戦闘記録の作成に当たっている。 …中曽根が長門主計長だった事の確認取れず。コメントアウト。 -->
 
1944年(昭和19年)11月1日、中曽根は[[横須賀鎮守府]]附となる<ref name="jirei1636">{{アジア歴史資料センター|C13072101800|昭和19年11月6日(発令11月1日付)海軍辞令公報(甲)第1636号 p.25(原本2526一段)}}</ref>。
 
終戦時の階級は海軍主計少佐であった。
 
<!--慰安婦問題については、政界引退、その後、の章に譲り、また情報元を確認できるものだけを表記した-->
 
 
 
首相就任後、戦争に関しては1985年10月29日衆議院予算委員会での[[東中光雄]]委員との質疑応答において、皇国史観には賛成しない、東京裁判史観は正当ではない、対米英と対中対アジアで認識が異なる、国民の大多数は祖国防衛のために戦い、一部は反植民地主義、アジア解放のために戦ったと4点を挙げた。さらに中国、アジアに対しては侵略戦争だったが、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[イギリス]]とは普通の戦争だった、[[中華人民共和国|中国]]、アジアには侵略、[[大韓民国|韓国]]には併合という帝国主義的行為を行ったので反省し詫びるべきと答えた<ref name=nakasone1>「中曽根康弘」語録: 哲人政治家の素顔 71〜75</ref><ref name=nakasone2>第百三回国会衆議院予算委員会議録第二号(昭和60年10月29日)pp.26-28</ref>。
 
 
 
=== 政治家への転身 ===
 
戦後、内務省に復帰し [[内務大臣 (日本)|内務]][[大臣官房]][[事務官]]、[[香川県]]警務課長、[[警視庁 (内務省)|警視庁]][[警視]]・[[監察官]]を務める。その後退官し、[[第23回衆議院議員総選挙|1947年衆議院議員選挙]]に当選。以後[[1955年]]の[[保守合同]]までの所属政党は、[[民主党 (日本 1947-1950)|民主党]]、[[国民民主党 (日本 1950-1952)|国民民主党]]、[[改進党]]、[[日本民主党]]。この間、反[[吉田茂]]勢力として、自主憲法制定や再軍備を標榜し、長く野党議員として過ごしている。
 
 
 
[[1954年]]3月2日、一議員でありながら[[原子力]]研究開発のための予算を上程、これを通した(具体的には科学技術研究助成費のうち、原子力平和的利用研究費補助金が2億3500万円、ウラニウム資源調査費が1500万円、計2億5000万円。これが現在に至るまでの自民党の原子力是認につながっている)。[[1955年]]の[[保守合同]]に際しては、長らく行動を共にした[[北村徳太郎]]が旧鳩山派である河野一派に合流したことから、[[春秋会|河野派]]に属した。[[第2次岸内閣 (改造)|第2次岸改造内閣]]において、[[渡邊恒雄]]を介して[[大野伴睦]]の支持を受け、[[科学技術庁]]長官として初入閣。党内で頭角を現し、河野派分裂後は[[中曽根派]]を形成し一派を率いた。
 
 
 
[[1956年]]には「[[憲法改正の歌]]」を発表するなど、[[憲法改正|改憲]]派として活発に行動し、マスコミからは「青年将校」と呼ばれた。同年11月27日の[[日ソ共同宣言]]を批准した衆議院[[本会議]]において、自由民主党を代表して同宣言賛成討論を行ったが、内容は[[ソビエト連邦|ソ連]]に対する厳しい批判だったり「涙を呑んで渋々賛成。」等と述べたため、社会党や共産党が抗議、その結果、約50分間の演説全文が衆議院議事録から削除される異例の出来事もあった。
 
 
 
初当選した選挙で白塗りの自転車に日の丸を立てて運動をしたことはよく知られているが、若い頃から総理大臣を目指すことを公言し、[[憲法改正]]や[[首相公選制|首相公選論]]の主張など大胆な発言やパフォーマンスを好んだことや、同世代の日本人としては大柄な体躯や端正な風貌もあって、早くから存在感を示していた。なお、既に1965年には[[福井県]]の[[九頭竜ダム]]建設を巡る[[落札]]偽計事件([[九頭竜ダム#ダムと和泉村|九頭竜川ダム汚職事件]])に名前が挙がるなど、疑惑とも無縁でなかった。[[日本共産党]]の機関誌『[[しんぶん赤旗]]』は、行政管理庁長官時代の1980年に行われた総選挙においても、[[富士通]]や[[日本製作所]]から違法献金を受け取ったと報じた<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik/2002-12-31/05_AC001.html 長崎県知事選の違法献金事件 自民党に衝撃 特定寄付の禁止 「政治資金」で届けても違法 選挙の集金構造にメス ]2002年12月31日 しんぶん赤旗</ref>。
 
 
 
=== 三角大福中 ===
 
[[第2次佐藤内閣第1次改造内閣]]で[[運輸大臣]]、[[第3次佐藤内閣]]で[[防衛庁長官]]を歴任する。運輸大臣として入閣した際には、それまで[[佐藤栄作]]を「右翼片肺内閣」と批判していたのにもかかわらず入閣したため[[風見鶏]]と揶揄され、以後これが中曽根の代名詞になった。
 
 
 
運輸大臣時代は[[成田空港問題]]にかかわり、1968年4月6日に[[友納武人]][[千葉県知事]]とともに[[新東京国際空港公団]]と条件賛成派の「用地売り渡しに関する覚書」取り交わしに立ち会っている。「札束を積めば農家なんてすぐ土地を売る」と反対派の訴えに耳を貸さない政治家が多い中、同年8月9日には自宅にアポなしで訪れた[[戸村一作]]ら[[三里塚芝山連合空港反対同盟|反対同盟]]と面会している<ref>{{Cite book|author=原口和久|title=成田 あの1年|date=|year=2002|accessdate=|publisher=崙書房|pages=37-40|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>。
 
 
 
防衛庁長官時代には、1970年に防衛庁の事務方で権勢を振るっていた[[海原治]]が国防会議事務局長として新聞記者との懇談会で防衛計画について批判したことが、3月7日の衆議院[[予算委員会]]で取り上げられた際に、中曽根は防衛庁長官として「事務屋なので政策論を述べる地位ではない。事務局長というのは庶務課長、極端にいえば文書を集め、文書を発送するお茶汲みに過ぎない」と発言し、海原も出席していた議場を騒然とさせた。[[三島事件]]を批判する声明を防衛庁長官として出したが、三島に近い一部保守系団体や民族派勢力[[右翼団体]]などから強く批判された(中曽根は自著の中で「三島と親しいように思われていたが深い付き合いがあったわけではない」と釈明している)。[[1972年]]の殖産住宅事件では、株取得で[[証人喚問]]される{{要出典|date=2013年9月}}。翌年に脱税容疑で逮捕された殖産住宅相互の東郷民安社長は旧制静岡高校時代からの友人であったため、親友も見殺しにすると囁かれた{{要出典|date=2013年9月}}。
 
 
 
こうして要職を経験する中で、いわゆる「[[三角大福|三角大福中]]」(三木武夫・田中角栄・大平正芳・福田赳夫、そして中曽根)の一角として、ポスト佐藤の一人とみなされるようになっていった。佐藤後継を巡る[[1972年自由民主党総裁選挙|1972年の総裁選]]に際しては、[[野田武夫]]ら派内の中堅、ベテラン議員や福田支持派から出馬要請を受けるが、日中問題で福田の姿勢に不満を抱いていた派内の[[河野洋平]]を始めとする若手議員が[[田中角栄]]支持に傾いていたことなどから、自らの出馬を取り止め、田中支持に回った。このことは田中が福田に勝利するにあたり決定的な役割を果たしたが、田中の買収などと後に[[週刊誌]]で憶測を呼ぶことにもなった。
 
 
 
[[第1次田中角栄内閣]]の[[経済産業大臣|通商産業大臣]]兼[[科学技術庁長官]]となり、[[第2次田中角栄内閣|第2次内閣]]では科学技術庁長官の任を離れ通産大臣に専任となる。[[三木内閣]]時代、[[自由民主党幹事長]]となり、[[福田赳夫内閣]]の総務会長を務めるなど党内の要職も務める。[[三木おろし]]の際には、三木以外の派閥領袖としては事実上唯一の主流派となった。
 
 
 
[[1976年]]、[[ロッキード事件]]への関与を疑われ、側近の[[佐藤孝行]]が逮捕されたが、自らの身には司直の手は及ばなかった。ここでも悪運の強さが幸いしたとされる。後に“(刑務所の)塀の上を歩いて内側に落ちたのが田中角栄、外側に落ち勲章までもらったのが中曽根”と揶揄された。[[第34回衆議院議員総選挙|同年の衆院選]]では事件との関係から落選すら囁かれたが、辛うじて最下位で当選した。[[1978年]]に「[[明治|明治時代]]生まれのお年寄りがやるべき時代ではない」と世代交代を訴える形で総裁選挙に名乗りをあげるが落選し、[[第1次大平内閣]]では幹事長ポストを要求するも、逆に蔵相を提示され拒否した<ref group="注釈">実際幹事長に就任したのは[[斎藤邦吉]]で、蔵相に就任したのは[[金子一平 (政治家)|金子一平]]。</ref>。非主流派としていわゆる[[四十日抗争]]でも反大平連合に属したが、[[ハプニング解散]]の際には派内の強硬論に耳を貸さず、早くから本会議での造反に反対するなど、三木・福田とは温度差があった。そのため大平後継では本命の一人だったが、当時は田中角栄の信頼を勝ち得ておらず、総裁の座を逃した。
 
 
 
[[鈴木善幸内閣|鈴木内閣]]では主流派となるとともに、行政管理庁長官として[[行政改革]]に精力を注ぎ、[[鈴木善幸]]首相の信頼を得る。中曽根自身は蔵相ポストを希望していたものの、派の後輩の[[渡辺美智雄]]にその座を奪われるという屈辱を味わう<ref group="注釈">河野一郎の没後に河野派を中曽根が引き継ぐことを進言したのは、当時1年生議員の渡辺である。</ref>。しかし、財政再建の手段として行政改革にスポットライトが当たる中、行政管理庁長官として職務に励み、首相就任後分割民営化などの答申をすることになる[[土光敏夫]]の信頼も得ることになった。
 
 
 
=== 総理大臣就任 ===
 
[[1982年]]11月の自民党総裁選で、盟友の渡邉恒雄は中曽根擁立のため、田中角栄の秘書[[早坂茂三]]に引き合わせ働きかけた<ref>魚住昭 『渡邉恒雄 メディアと権力』p. 132-134, 355-360, 講談社、2000年。ISBN 4-06-209819-9</ref>。早坂と、中曽根の秘書の[[小林克己]]は渡邉と同じ元[[日本共産党]]党員という繋がりがあった。田中派の支持も得た中曽根は、党員による総裁予備選挙において圧倒的な得票を得て総裁の地位を獲得、[[1982年]]11月に[[鈴木善幸]]の後を受けて第71代[[内閣総理大臣]]に就任する。行政改革の推進と「戦後政治の総決算」を掲げ<ref group="注釈">これはのち[[安倍晋三]]に、「戦後レジームからの脱却」「[[美しい国]]」志向として引き継がれる。</ref>[[1987年]]まで一国の総理の座にあり、日本歴代第7位(戦後5位・昭和時代では3位)の長期政権となった。従来の官僚頼みの調整型政治を打破し[[懇談会|私的諮問機関]]を多数設け、首相というより[[大統領]]型のトップダウンを標榜した政治姿勢は注目され、「大統領型首相」とも呼ばれた。
 
 
 
ただし政権発足初期は、総裁派閥から出すのが常識だと思われていた[[内閣官房長官]]に田中派の[[後藤田正晴]]を起用し、党幹事長に同じく[[二階堂進]]<ref group="注釈">二階堂はロッキード事件との関与が濃いとされながらも訴追されなかった「灰色高官」の一人とされ、金権政治批判を受けやすい立場にあった。</ref>を据え、その他田中派閣僚を7人も採用するなど、[[田中角栄]]の影響力の強さを批判され「田中曽根内閣」「角影内閣」さらには「直角内閣」などと揶揄された。これは[[1983年]]10月に田中がロッキード事件の一審判決で実刑判決を受け、中曽根が「いわゆる田中氏の政治的影響を一切排除する」声明を出した後に行われた[[第37回衆議院議員総選挙|同年12月の総選挙]](田中判決選挙)での自民党過半数割れへとつながり、中曽根は[[新自由クラブ]]との統一会派結成により[[第2次中曽根内閣]]を形成し、自分とは政治信条が合わない[[田川誠一]]を[[自治大臣]]兼[[国家公安委員会委員長]]として迎える苦渋を味わった。[[1984年]]には[[福田赳夫]]元首相に野党の[[公明党]]や[[民社党]]まで加わった「[[二階堂擁立構想]]」まで持ち出されたが、[[1985年]]2月に田中が[[脳梗塞]]で倒れて政治生命を事実上失うと、官房長官として留まった後藤田の協力もあって、政権運営の主導権は中曽根の手に移った。中曽根は自民党単独政権の回復に執念を見せ、「[[死んだふり解散]]」とも呼ばれながら[[衆参同日選挙]]を強行した[[1986年]]7月の[[第38回衆議院議員総選挙|衆院選]]と[[第14回参議院議員通常選挙|参院選]]で自民党を圧勝させた。衆院選での公認候補300議席は当時単独政党では戦後最多であり、これに[[追加公認]]4人、さらに開票直後に解党した新自由クラブからの合流5人などが加わった。参院選での72人当選(追加公認2人)、非改選議員と合わせた所属議員数145人も自民党史上最多であった。中曽根は党規約改正による総裁任期1年延長という実利を得た上、「保守回帰」と呼ばれた1980年代後半の政治潮流の創設者として歴史に名前を残した。なお、この選挙期間中の街頭演説で、「大型間接税は導入致しません」「この顔が嘘をつく顔に見えますか」と発言した。1985年8月の[[日本航空123便墜落事故|日航機墜落事故]]において{{要出典|範囲=「真実は墓場まで持って行く」と発言した|date=2018年3月}}。
 
 
 
一方で[[改憲]]こそ首相在任中は明言しなかったが、“戦後政治の総決算”を掲げ、[[教育基本法]]や“[[自虐史観|戦後歴史教育]]”の見直し、[[靖国神社]]公式参拝、[[防衛費1%枠]]撤廃等、強い復古調姿勢により左派勢力から猛反発を買い、「右翼片肺」「[[軍国主義]]者」「総決算されるべきは戦後ではなく自民党」などといった激しい批判を浴びた。教育改革については、[[文部省]]と[[日教組]]の二項対立の教育改革に終止符を打つため1984年に自身の私的諮問機関として[[臨時教育審議会]](臨教審)を設置した。その後臨教審の答申は受け継がれ、1988年に内閣の主導による[[学習指導要領]]改訂を成し遂げた。これが[[日本教職員組合|日教組]]の歴史的分裂の契機となった。[[政府税制調査会]]の会長として税収の「直間比率」是正<ref group="注釈">[[所得税]]や[[法人税]]などの[[直接税]]と比較すると[[酒税]]・[[たばこ税]]・[[揮発油税]]などの[[間接税]]の税収額が低いため、大型消費税の導入と所得税・法人税の減税などを組み合わせて直接税と間接税の税収額を同じにしようという政策。</ref>の観点から[[付加価値税|売上税]]導入を唱えた[[加藤寛 (経済学者)|加藤寛]]をはじめ、[[石川忠雄]]、[[勝田吉太郎]]、[[香山健一]]、[[小堀桂一郎]]、[[西義之]]、[[佐藤誠三郎]]<ref group="注釈">佐藤誠三郎の妻の[[佐藤欣子]]は[[第15回参議院議員通常選挙|1989年の参院選]]で中曽根派の支援を受けて自民党から立候補したが、落選した。</ref>など、自らの主張に近い意見を持つ学識経験者を各諮問機関の中心人物に起用し、迅速な決定によるトップダウン型の政策展開に活用した。これは自民党内の非主流派や野党などからは「[[御用学者]]の重用」と批判され、選挙を経た国会議員によって構成される国会の委員会より、中曽根が任意で選任できる諮問機関での審議の方が重要と見られて報道される事態も招いた。
 
 
 
1986年に発生した[[伊豆大島]]の[[三原山]]噴火では、首相権限で[[海上保安庁]]所属の巡視船や南極観測船を出動させ、滞在者も含めた島民全員の救出に成功した。頭越しに決定を下された[[国土庁]]の官僚や野党などからは独断専行を非難されたものの、当時の[[内閣安全保障室]]長であった[[佐々淳行]]らは、後年の[[阪神・淡路大震災]]発生時における[[村山内閣]]の初動対応の遅れと比較して、その決断力と実行力を高く評価している。
 
 
 
一方、[[広島市]]の[[広島赤十字・原爆病院|原爆病院]]視察の際の「病は気から」発言や「黒人は知的水準が低い」「日本に差別されている[[少数民族]]はいない」、その発言について中曽根事務所が出した謝罪文に関しての質問に、女性蔑視と取られるような「まあ女の子が書いた文章だから。」などの失言で物議を醸すことも多かった(これら一連の事象については[[知的水準発言]]を参照)。
 
 
 
首相在任中2度あった総選挙([[第37回衆議院議員総選挙|1983年]]と[[第38回衆議院議員総選挙|1986年]])では、現職首相でありながらトップ当選できなかった(当時は[[中選挙区制]]であり、2位当選している)。これは戦後の首相では中曽根だけである。トップ当選したのはいずれも[[福田赳夫]]元首相で、首相経験者同士が同じ選挙区([[群馬県第3区 (中選挙区)|旧群馬3区]])で対決したことになる。中選挙区時代の旧群馬3区は、福田のほかに同じく首相を務めた[[小渕恵三]]や社会党書記長などを務めた[[山口鶴男]]といった大物がそろった、日本でも有数の激戦区でもあった([[上州戦争]]を参照)。なお、日本において現職首相が選挙で落選したことは過去に一度もない(首相経験者が落選した例は[[片山哲]]や[[石橋湛山]]、[[海部俊樹]]の例がある)。
 
 
 
[[安定成長期#輸出増大(ハイテク景気)|ハイテク景気]]や[[バブル景気]]といった好景気を演出し、支持率も高水準を維持して自民党も単独で史上最多の議席を獲得するとともに、任期後半には上記の通り田中の影響を脱した。好調すぎる高付加価値製品の対米輸出によって[[貿易摩擦]]問題も浮上したが、[[プラザ合意]]で[[円高]]路線が合意された後の内需拡大政策として民活(民間活力の意)と称し、[[国鉄分割民営化]]に伴い[[日本国有鉄道清算事業団]]が大規模に行った旧[[日本国有鉄道|国鉄]]用地売却<ref group="注釈">ただし、これは地価高騰抑制などの理由により、当初の債務返済計画通りには進まなかった。詳しくは該当項目参照のこと。</ref>を含んだ[[国有地]]の払い下げ等を行った。これにより、大都市圏やリゾート開発地をはじめとして日本全国で地価が高騰したが、それに対する金融引締め政策を行わなかったため[[バブル経済]]を引き起こしたという批判も根強い。また、このバブルにおいて横行した各種の[[マネーゲーム]]からは、やがて発覚したリクルート事件や、田川に次いで新自由クラブから[[労働省|労働大臣]]として中曽根政権に入閣し、1986年の自民党復党後は中曽根派に所属していた[[山口敏夫]]の失脚・収監など、政治家とカネを巡る問題が再び取りざたされるようになった。
 
 
 
=== 外交 ===
 
==== 日米・日韓関係 ====
 
[[画像:President Reagan and Prime Minister Yasuhiro Nakasone.jpg|thumb|200px|[[1983年]][[11月11日]]、[[日の出山荘]]にて[[アメリカ合衆国]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]][[ロナルド・レーガン]](左)と]]
 
[[画像:Ronald Reagan and Yasuhiro Nakasone 19860413.jpg|thumb|200px|[[1986年]][[4月13日]]、[[キャンプ・デービッド]]にて[[アメリカ合衆国]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]][[ロナルド・レーガン]](左)と]]
 
[[1982年]]11月当時、[[日米関係史|日米関係]]は最悪と呼べる状態だった<ref group="注釈">一方で、「総理就任時、日米関係は最悪と呼べる状態だった」「自分(中曽根)が外交関係を改善した」という認識を強く持ち、公式発言でもたびたび重ねたことが、鈴木善幸をはじめとする[[宏池会]]の逆鱗に触れ、(鈴木内閣と鈴木善幸本人への非難・皮肉とも受け取れた)[[二階堂擁立構想]]を生む原因となる。</ref>。時代背景は、[[ソビエト連邦|ソ連]]が[[大陸間弾道ミサイル]]SS20を[[ヨーロッパ]]に配備して、それに対抗する形でアメリカは[[MGM-31 (ミサイル)# パーシング II|パーシングII]]を配備しようと計画しており、東西[[冷戦]]構造が一段と厳しさを増し、一触即発の事態にもなりかねない核の脅威の中で、西側の首脳達は厳しい外交の舵取りを行っていた。そんな中、アメリカの[[ロナルド・レーガン]]大統領は、アジアが全く無防備であることを念頭において、日米共同宣言の中で「日米で価値観を一体にして防衛にあたる」とした。
 
 
 
1981年5月、当時の首相である[[鈴木善幸]]は、初めて『[[シーレーン]]千海里防衛術』を公表するが、渡米の帰りの機中で「[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|日米安保条約]]には軍事的協力は含まれない」と発言し、帰国後には「日米同盟に軍事的側面はない」と語って、共同声明に対する不満を表明してしまい、アメリカの世論を怒らせた。
 
 
 
そして[[参議院]]本会議では、鈴木首相・[[宮澤喜一]][[内閣官房長官]]と[[伊東正義]]外務大臣が日米同盟の解釈を巡って対立し、伊東外相が辞任するという前代未聞の事態にまで発展してしまう。これに武器技術供与の問題が重なることとなる。[[大村襄治]]防衛庁長官が[[ワシントンD.C.|ワシントン]]で[[キャスパー・ワインバーガー|ワインバーガー]][[アメリカ合衆国国防長官|国防長官]]と会談した際に、アメリカ側から武器技術供与は同盟国に対しては「[[武器輸出三原則]]」の枠外にしてほしいと頼まれていたのに、鈴木首相はこれに対応しなかった。
 
 
 
おまけに伊東の後任である[[園田直]]外務大臣が、[[大韓民国|韓国]]との関係を損なう事件を起こす。事の経緯は、韓国が、防衛および安全保障に絡み、5年間で60億[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]の政府[[借款]]を要請したことに対して、園田は経済協力の切り離しを要求して40億ドル以下に削減、その上「資金をもらう方が出す方に向かって、ビタ一文安くすることはまかりならんと言うのは筋違いだ」というような発言をして、韓国の反発を招いたものである。中曽根は総理になる前から、最初にこれらの問題を解決してしまおうと密かに計画する。
 
 
 
1983年1月の訪米にあたって、直前に韓国を訪ね、急ぎ[[日朝関係史|日韓関係]]の修復を図り、アメリカが執心していた[[防衛費]]の増加と対米武器技術供与の問題は、中曽根の判断で反対する[[大蔵省]]主計局と[[内閣法制局]]を押し切って問題を決着させた。これらの成果を手土産に、中曽根は首相になって初めての訪米の途についたのである。
 
 
 
訪米中に中曽根が語ったとされる「日米は運命共同体」発言、「[[日本列島]]不沈[[航空母艦|空母]]化」および「三海峡([[千島海峡|千島]]・[[津軽海峡|津軽]]・[[対馬海峡|対馬]])封鎖発言」により、アメリカとの信頼関係を取り戻し、[[ロナルド・レーガン]]大統領との間に[[愛称]]で呼び合うほどの“個人的に親密な”関係(「ロン・ヤス」関係)を築くことにも成功して日米安全保障体制を強化した<ref group="注釈">これ以後、日本国内閣総理大臣から、同様の関係を築くことが流行した。後任・[[竹下登]]の「ロン・ノブ」、ブッシュと[[小泉純一郎]]の「ジョージ・ジュン」など。</ref>。一連の防衛力強化政策の仕上げとなったのは、中曽根政権が最後に編成した1987年(昭和62年)度予算での「[[防衛費1%枠]]」撤廃だった。ブレーンの一人だった[[高坂正堯]]の意見を採用し、防衛費の予算計上額を日本の[[国民総生産]] (GNP) の1%以内にとどめる三木内閣以来の方針を放棄し、長期計画による防衛費の総額明示方式に切り換えて急速な軍備拡張への新たな歯止めとした。この決定により、日本政府はより積極的な防衛政策の立案が可能となり、米軍との協力関係はさらに緊密となった。これは米国への隷従の強化と取る向きもあり、また、“ヤスはロンの使い走り”(Messenger boy) と批判されることもある。
 
 
 
また、日本からの輸出の増加により日米間の通商、経済摩擦が深刻化したことから、アメリカの貿易赤字が増加したことに対処するために、日本国民に外国製品の購入(特にアメリカ製品を最低100ドル分、当時の為替レートで1万3千円相当)を呼びかけるなどの点でも、中曽根はアメリカからの要求へ積極的に応えた。この時の広告は「輸入品を買って、文化的な生活を送ろう」だった。
 
 
 
ただし、中曽根自身が引き起こした日米間の懸案として、1986年9月に自民党の全国研修会の講演で「アメリカの知的水準は非常に低い」と発言したことから「[[知的水準発言]]問題」が起きた。黒人([[アフリカ系アメリカ人]])や[[ヒスパニック]]系の議員連盟によってアメリカ下院に提出された中曽根非難決議案は本人の謝罪により採択が見合わされたが、その釈明に際して「日本は[[単一民族国家]]」と発言したことは[[北海道アイヌ協会|北海道ウタリ協会]]からの新たな抗議を呼び、[[北海道旧土人保護法]]などが存続していた[[アイヌ]]民族に関する内政問題へと転化していった<ref group="注釈">こうした背景やレーガンの歴史認識・過去の記憶を基に、「ロン・ヤス」は実態の無い関係であったと指摘されることも多く、これは同じくアメリカのプードル時代といわれた後年の「ジョージ・ジュン」の関係と比較しても歴然とした差が存在した。</ref>。
 
 
 
==== 不沈空母発言の真相 ====
 
ワシントン・ポストの外交記者[[ドン・オーバードーファー]]によれば、1983年1月に[[ワシントン・ポスト]]会長キャサリーン・グラハム会長宅で行われた朝食会にて、オーバードーファーの質問に対し中曽根が「日本の防衛のコンセプトの中には海峡やシーレーンの防衛問題もあるが、基本は日本列島の上空をカバーしてソ連の[[Tu-22M (航空機)|バックファイアー爆撃機]]の侵入を許さないことだと考えている。バックファイアーの性能は強力であり、もしこれが有事の際に日本列島や太平洋上で威力を発揮すれば日米の防衛協力体勢はかなりの打撃を受けることを想定せざるを得ない。したがって、万一有事の際は、日本列島を敵性外国航空機の侵入を許さないように周辺に高い壁を持った船のようにする」と答えたものを、通訳が「unsinkable aircraft carrier」つまり「不沈空母」と意訳した<ref group="注釈">ドン・オーバードーファー「ナカソネは『不沈空母』とは言わなかった---ワシントン・ポスト外交記者を辞めるに当たって」『THIS IS 読売』1993年8月号</ref>。同様の内容を中曽根も後年のインタビューで語っている<ref name=sankei20170112>{{Cite news
 
|url = http://www.sankei.com/world/news/170112/wor1701120029-n1.html
 
|title = 訪米時の中曽根康弘元首相「不沈空母」発言を記録
 
|work = 産経ニュース
 
|newspaper = [[産経新聞]]
 
|date = 2017-01-12
 
|accessdate = 2017-01-13
 
}}</ref>。
 
 
 
{{要出典範囲|後日オーバードーファーから、中曽根の秘書官に電話が入り、録音テープを調べ直したが「不沈空母」なる言葉はなかった、用いた言葉は「大きな船」であり、正確な内容をもう一度記載すると言ってきたが、中曽根は即座に訂正の必要はない、と答えさせた。|date=2015年10月}}
 
 
 
しかし2017年1月12日に日本の外務省が公開した外交文書によれば、冒頭の1983年のインタビューにて、中曽根が確かに日本列島について「不沈空母のように強力に防衛する」と述べていたことが明らかとなっている<ref name=sankei20170112 />。
 
 
 
==== ウィリアムズバーグ・サミット ====
 
[[画像:G-7 Summit 1983.jpg|thumb|200px|[[1983年]]、[[第9回先進国首脳会議]]にて(右から3人目)]]
 
中曽根は、1983年5月に開かれたウィリアムズバーグ・サミットに出席している。議題の中心は、ソ連がヨーロッパで中距離核ミサイル[[RSD-10 (ミサイル)|SS20]]を展開したことに対し、アメリカが[[MGM-31 (ミサイル)|MGM-31 パーシングII]]準中距離弾道ミサイルを配備すべきか否か、であった。
 
 
 
だが、前向きな姿勢なのはアメリカのレーガン大統領とイギリスの[[マーガレット・サッチャー|サッチャー]]首相のみで、[[フランス]]の[[フランソワ・ミッテラン|ミッテラン]]大統領、[[西ドイツ]]の[[ヘルムート・コール|コール]]首相、[[カナダ]]の[[ピエール・トルドー|トルドー]]首相などは消極的な姿勢をとり、会議は今にも決裂しそうな気配を見せていた。
 
 
 
そうした状況の中、中曽根は敢然と発言する。「日本は[[北大西洋条約機構|NATO]]の同盟国でもないし、[[日本国憲法第9条|平和憲法]]と[[非核三原則]]を掲げているから、従来の方針では、こういう時は沈黙すべきである。しかし、ここで西側の結束の強さを示してソ連を交渉の場に引きずり出すためにあえて賛成する。決裂して利益を得るのはソ連だけだ。大切なのは、われわれの団結の強さを示すことであり、ソ連がSS20を撤去しなければ、予定通り12月までにパーシングIIを展開して一歩も引かないという姿勢を示すことだ。私が日本に帰れば、日本は何時からNATOに加入したのか、[[集団的自衛権]]を認めることに豹変したのかと厳しく攻撃されるだろう。しかし、私は断言したい。いまや、安全保障は世界的規模かつ東西不可分である。日本は従来、この種の討議には沈黙してきた。しかし、わたしはあえて平和のために政治的危機を賭して、日本の従来の枠から前進させたい。ミッテラン大統領も私の立場と真情を理解し同調して欲しい」これを聞いたみなは沈黙してしまったが、間髪入れずにレーガン大統領が阿吽の呼吸で「とにかく声明の案文を作ってみる」と提案して机上のベルを押すと、すぐさま[[ジョージ・シュルツ|シュルツ]][[ アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]がレーガンの元に飛んできて、案文の作成を命じられた。
 
 
 
そして政治声明は、ソ連との間で[[INF]](中距離核戦力)削減交渉が合意に達しない場合は1983年末までに西ヨーロッパにパーシングIIを配備する、またそのために、サミット構成国、[[欧州共同体|EC]]に不退転の決意があることが謳われ、経済宣告も当然採択され、[[インフレーション|インフレ]]なき成長のための10項目からなる共同指針が示された。
 
 
 
==== クレムリンの機密文書 ====
 
ソ連が崩壊し、[[クレムリン]]の機密文書が出て来た際、ウィリアムズバーグ・サミット直後の1983年5月31日に開かれたソ連指導部の政治局秘密会議での速記録には、ショックの大きさが色濃く反映された記述があり、当時の[[アンドレイ・グロムイコ|グロムイコ]]外相は「領土問題などで、日本に対し多少融和的に出る必要がある」と主張しており、[[ユーリ・アンドロポフ|アンドロポフ]]書記長も「日本との関係で何らかに妥協を図らねばならない。たとえば、戦略的意味を持たない小さな島々の共同開発はどうか」などと発言した記録があった。
 
 
 
このソ連政治局の対日政策の再検討発言は、ウィリアムズバーグ・サミットでの中曽根の発言が、ソ連に深刻な打撃を与えたことを物語っているといえよう。
 
 
 
==== 日中関係 ====
 
以前より総理大臣の[[靖国神社]]参拝は恒例であったが、中曽根内閣の際に[[靖国神社問題|靖国神社参拝問題]]が持ち上がり、また日米同盟と防衛力の強化に努めた。この問題が対中関係として際立った印象を与えているのは、中曽根が首相として初めて8月15日に公式参拝をしたこと(8月15日に公式参拝をしたのは中曽根だけである。小泉純一郎は首相在任中の2006年8月15日に参拝しているが、公私の別を明らかにしていない)、当時[[中国共産党]]指導部の[[胡耀邦]]総書記ら[[親日]]傾向を持つグループとその反対勢力との権力争いがあり、その中で靖国参拝が問題として浮上、中華人民共和国からの抗議が激しくなっただけであるという見方もある。自身の著書の中で中曽根は「親日派の立場が悪くなることを懸念し靖国参拝を中止した」としている。胡耀邦と[[鄧小平]]は、当時日米同盟や日本の防衛力強化を歓迎すらしていた<ref>{{cite news|last =|first = |title = 中国 日本の自衛力増強に理解 83年の首脳会談で|publisher = [[日本放送協会|NHK]]|date = 2017-01-12|url = http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170112/k10010836861000.html |accessdate = 2017-01-15}}{{リンク切れ|date=2017年10月}}</ref><ref>[http://www.nids.go.jp/publication/briefing/pdf/2011/briefing_150.pdf 中国から見た日米同盟体制 - 防衛省防衛研究所]</ref>。東京裁判史観は否定しつつアメリカではなく、中華人民共和国には過去の歴史を謝罪すべきとする独自の歴史観を持っていた<ref name=nakasone1/><ref name=nakasone2/>。
 
 
 
[[角福戦争|角福対立]]時代には一貫して[[日中国交正常化]]支持の立場をとっていることから、中曽根の姿勢は中華人民共和国を親日化することが目的であったといえる。第二次対中円借款の実施、「新日中友好21世紀委員会」の設立、中華人民共和国からの留学生の多数受け入れと日本人青年の中華人民共和国訪問事業もその一環であり、中曽根内閣当時の1984年から中華人民共和国での沿海都市の[[経済特区]]指定と円高圧力も重なったこともあって日本の対中投資は本格化した。総理退任後は[[六四天安門事件]]での対中制裁の解除を鈴木善幸・竹下登とともに政府に働きかけを行ったり<ref>{{cite web
 
|last =
 
|first =
 
|title = Japan May Go Its Own Way on Economic Aid to China : Sanctions: Tokyo argues that Beijing should not be isolated from the world community. Kaifu will see Bush on Saturday.
 
|publisher = [[ロサンゼルス・タイムズ]]
 
|url = http://articles.latimes.com/1990-07-06/news/mn-163_1_economic-aid
 
|date = 1990-07-06
 
|accessdate = 2017-04-21
 
}}</ref>、訪中した際は[[江沢民]]<ref>[[青木直人]]「中国に喰い潰される日本 チャイナリスクの現場から」2007年1月</ref>や[[胡錦濤]]<ref>{{cite news
 
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|title = 胡錦濤主席と中曽根元首相が会談
 
|publisher = [[人民網]]
 
|date = 2008-04-30
 
|url = http://j.people.com.cn/2008/04/30/jp20080430_87546.html
 
|accessdate = 2017-02-02
 
}}</ref>にも歓待され、[[習近平]]が訪日した際の[[天皇特例会見]]でも関与が取り沙汰される<ref>{{cite news
 
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|title = 「特例会見」仕掛けたのは中曽根氏? 前原発言で「ドロドロ」戦争
 
|publisher = [[J-CAST]]
 
|date = 2009-12-16
 
|url = https://www.j-cast.com/2009/12/16056359.html
 
|accessdate = 2017-04-21
 
}}</ref>など中国共産党政府と強いパイプを持ち、[[上海交通大学]]の名誉教授を贈られている。
 
 
 
=== 民営化推進 ===
 
{{See also|国鉄分割民営化}}
 
中曽根内閣は戦後の自民党で最も[[新保守主義]]・[[新自由主義]]色が濃い内閣であった。[[日本専売公社]]、[[日本国有鉄道]]および[[日本電信電話公社]]の[[三公社五現業|三公社]]を[[民営化]]させた。これによって[[総評]]および総評を支持母体とする社会党を切り崩す意図があった{{要出典|date=2013年9月}}。また、長年半官半民であった[[フラッグキャリア]]の[[日本航空]]の完全民営化を推進させた。
 
 
 
次第に国民からの支持も安定し、[[1986年]]の衆参同日選挙([[死んだふり解散]])では衆参ともに自民党史上最多獲得議席となる圧勝となり、その功により総裁任期が1年延長された。しかし、経済政策ではアメリカの貿易赤字解消のため[[プラザ合意]]による円高ドル安政策を採り、これが結果的に日本を[[バブル経済]]に突入させたこともあり、批判の声も少なくない{{要出典|date=2013年9月}}。
 
 
 
=== 退任 ===
 
同日選大勝後、中曽根にとって最悪の状態となった。[[藤尾正行]]文部大臣が中曽根の自虐史観転換を批判する発言を雑誌に行い罷免され、中曽根自身も「黒人は知的水準が低い」「日本は単一民族」「女の子が書いた文章だから」などの失言が問題化し、さらに選挙中に「大型間接税は導入致しません」「この顔が嘘をつく顔に見えますか」と宣言していた売上税を導入しようとしたことから「公約違反」と追及され、[[支持率]]が一時的に急落する。
 
 
 
[[1987年]]4月の[[第11回統一地方選挙|統一地方選]]で敗北し、翌月に売上税は撤回を表明することになるが、選挙の敗北から18日後に行われた日米首脳会談でも準国賓待遇とは裏腹に、[[アメリカ合衆国下院|下院]]本会議は貿易相手国に[[日米貿易摩擦|黒字減らし]]を強要する包括貿易法案を290対137の大差で可決した。さらに、内需拡大と[[公定歩合]]の引き下げによるドル支えを露骨に強要した。このため[[NBC]]は「中曽根首相は『特別なあいさつ』を受けた」と皮肉っている。しかし、夏を越すと支持率が復活し、同年11月に余力を持ったまま退任する。[[安竹宮|ニューリーダー]]と呼ばれた[[竹下登]]、[[安倍晋太郎]]、[[宮澤喜一]]のうちから、事実上の後継者指名権を得て([[中曽根裁定]])竹下を後継に指名した。
 
 
 
中曽根自身の回顧によれば、後継候補に必要な条件として、自身が断念した売上税(消費税)の導入について党内をまとめられる人物、当時容態が悪化していた[[昭和天皇]]の不慮に備え、「[[大喪の礼]]」を滞りなく行える人物、の2件があり、竹下が最もふさわしいと判断したという。首相在任1,806日は歴代7位(戦後5位)、中曽根内閣は3次4年11ヶ月に及ぶ20世紀最後の長期政権となった。
 
 
 
=== リクルート事件 ===
 
[[1989年]]、自身が関与していた戦後最大の汚職事件といわれる[[リクルート事件]]が直撃した。野党は予算審議と引き換えに中曽根の証人喚問を要求したが、中曽根はこれを拒否し、竹下政権は竹下自身の不始末も手伝って瓦解した。その後、リクルート事件の責任を取って党を離れるものの復党し、1994年の首班指名選挙では[[村山富市]]首班に反発し、[[小沢一郎]]と共に[[海部俊樹]]を担ぐが失敗する。しかし、党からは貢献度を重視して不処分であった。
 
 
 
[[鳩山由紀夫]]は事件を機に、政官財の癒着の解明を目指して[[ユートピア政治研究会]]を党内で立ち上げ、中曽根らを糾弾した。その後、鳩山が[[新党さきがけ]]を経て、1996年に「友愛」を掲げて[[民主党 (日本 1996-1998)|旧民主党]]を創設した際、中曽根は「政治は友愛だの何だのと綺麗ごとを言うが中身がなく薄っぺらい。ソフトクリームのようにすぐ解けてしまうだろう。」と嘲笑したが、鳩山は「夏にはおいしい」と切り返し、政治理念を守り通して「友愛」がその年の流行語大賞となった<ref>http://singo.jiyu.co.jp/nendo/1996.html</ref>。自身は[[薩長連合]]になぞらえて[[保保連合構想|保保連合]]を一貫して主張した。
 
 
 
=== その後 ===
 
[[1991年]]の[[湾岸戦争]]では中東特使に任じられ、当時の[[イラク]]大統領[[サッダーム・フセイン]]と会談して日本人の人質全員解放を成功させた。[[1996年]]には[[小選挙区比例代表並立制]]導入の際、[[小選挙区制|小選挙区]]での出馬を他の候補に譲る代わりに、[[比例北関東ブロック]]での終身1位の保証を受ける。[[1997年]]2月に憲政史上4人目の議員在職50周年を迎え、同年4月に[[大勲位菊花大綬章]]を生前受章する。同年、[[第2次橋本内閣 (改造)|第2次橋本内閣改造内閣]]で腹心の[[佐藤孝行]]の入閣を希望したが、ロッキード事件で有罪が確定したことを批判されて佐藤は短期間で辞任に追い込まれ、橋本内閣も支持率急低下で大打撃を受け、[[第18回参議院議員通常選挙]]では自民党派が大敗し[[橋本龍太郎]]は総理を辞任した<ref>[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]2018年二月号、~竹下から安倍まで~ 総理17人のベスト3 [[御厨貴]]/[[後藤謙次]]、169頁</ref>。[[政策科学研究所 (派閥)|中曽根派]]が[[山崎拓]]率いる[[近未来政治研究会]]と分裂した後、[[1999年]]に[[亀井静香]]や[[平沼赳夫]]率いる亀井グループと合併し[[志帥会]]となり、最高顧問に就任する。
 
 
 
=== 政界引退後 ===
 
[[2003年]]の自民党の比例区における73歳[[定年]]制導入により、[[第43回衆議院議員選挙|2003年の総選挙]]では自民党の比例北関東ブロックからの立候補ができず、立候補を断念し衆議院議員から[[引退]]した(なお、比例名簿で終身比例名簿1位から退いたことで、比例当選最下位順位の[[早川忠孝]]が復活当選している)。
 
 
 
中曽根は[[中選挙区制]]から[[小選挙区制]]への移行に際し、比例北関東ブロックにおける終身1位を約束されていた。しかし「特例をもうけていいのか」と全国の県連などから批判が上がり(群馬県連でも世代交代を求める声があった)、[[小泉純一郎]]総裁は中曽根と宮澤の両長老に[[引退]]を勧告した。一度、党執行部が約束したことを小泉が一方的に破棄して中曽根に引退勧告したことは、一部で「きわめて非礼なものである」との批判も呼び、中曽根は「政治的テロだ」と強く反発し、立候補断念の記者会見でも「引退はしない」と公言した(詳細は[[上州戦争]]を参照)。なお、73歳定年制そのものは[[第42回衆議院議員総選挙|2000年の総選挙]]から導入されており、[[原健三郎]]・[[櫻内義雄]]の両元[[衆議院議長]]がこれにより引退しているが、中曽根と宮澤はこの時は特例により比例区定年制対象外となっている。
 
 
 
個人事務所を[[世界平和研究所]]内に置く(旧個人事務所を2009年まで43年間[[砂防会館]]内に置いた)。財団法人世界平和研究所で会長を務め、中曽根康弘賞を創設し、世界の平和・安全保障に関する研究業績を表彰する。
 
 
 
[[2005年]][[10月28日]]、党新憲法起草委員会が新憲法草案を発表した。中曽根が前文小委員長として前文をまとめたが、発表された草案では内容が変更されていた(中曽根原文より大幅に簡略化された内容となる)。
 
 
 
[[2007年]][[3月23日]]午後([[ブルームバーグ (企業)|ブルームバーグ]])における[[日本外国特派員協会]]での記者会見で、[[慰安婦問題]]について質問され、「日本軍による慰安婦の[[強制連行|強制動員]]事件について、個人的に知っていることは何もない。新聞で読んだことがすべてだ」と語った。また、自身の回顧録で海軍将校だった時に『三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである。しかしこれら民衆も、悲劇のクライマックスでは、古田班長のように、あるいは、従兵の佐々木のように、人間の尊厳をまざまざと見せつけてくれる尊い存在であったのである。』<ref name="終わり海軍96"/>と言及した「[[慰安所]]」とは兵隊相手の慰安婦による売春が行われていたものではないかとの質問には「徴用した工員たちのための娯楽施設を設営した」、「慰安所は軍人らが[[囲碁|碁]]を打つなど、休憩所の目的で設置した」と説明した<ref>[http://www.bloomberg.com/apps/news?pid=90003011&sid=auVti5ZLiSxw&refer=jp_asia%3Cbr%20/%3E 旧海軍時代に慰安所つくった記憶ない]([http://www.bloomberg.co.jp/ Bloomberg.co.jp])</ref><ref>[http://www.chosunonline.com/article/20070324000010 慰安婦:中曽根元首相、強制動員を否認](Chosun Online 『[[朝鮮日報]]』){{リンク切れ|date=2013年10月}}</ref><ref>自著『二十三歳で三千人の総指揮官』、関連書『終わりなき海軍』松浦敬紀著、『いま明かす戦後秘史に詳しい』[[鹿内信隆]]著</ref>。なお、2011年に[[日本共産党]]の機関誌『[[しんぶん赤旗]]』は、高知市の市民団体が現地女性を集めて慰安所を設置したことを示す資料を見付けたと報じた<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2011-10-28/2011102814_02_1.html 「土人女を集め慰安所開設」 中曽根元首相関与示す資料 高知の団体発表]2011年10月28日 しんぶん赤旗</ref>。
 
 
 
[[2008年]][[9月3日]]付の『[[読売新聞]]』朝刊に、9月1日に首相辞任の会見を行った[[福田康夫]]に関する文章を寄稿している。文中で「我々先輩の政治家から見ると、2世、3世は図太さがなく、根性が弱い。何となく根っこに不敵なものが欠けている感じがする」と述べている。
 
 
 
2008年[[12月7日]]に自宅で転倒し、右肩を[[骨折]]して入院したが順調に快復し、[[2009年]][[3月7日]]に開かれた[[鳩山一郎]]没後50年の会合でも演説するなど、活動を続けている。また同年10月、急逝した[[中川昭一]]元[[日本の大蔵大臣・財務大臣一覧|財務大臣]]の[[告別式]]に出席した際は、介添えを必要とせず自力で席を立って焼香をするなど、90歳を過ぎても矍鑠とした姿が見られる。
 
 
 
[[2013年]]12月4日夜、国会近くにある東京・[[紀尾井町]]の[[ホテルニューオータニ]]で、5月に95歳を迎えた中曽根の祝賀会が行われたが、企画者とされる[[山口敏夫]]元労相以外にも、[[山崎拓]]元幹事長、[[伊吹文明]]衆院議長、[[石破茂]]自民党幹事長、[[石原伸晃]]環境相、[[古屋圭司]]国家公安委員長、[[島村宣伸]]元農相、[[二階俊博]]衆院予算委員長、[[亀井静香]]元[[国民新党]]代表、[[渡辺喜美]][[みんなの党]]代表らが出席した。海外訪問中の[[村上正邦]]元労相や体調を崩している[[与謝野馨]]元官房長官を除けば、旧中曽根派の主だった人物が結集しており、旧中曽根派の同窓会のようだったと報道された<ref>「旧中曽根派同窓会」出席でささやかれる二階俊博・衆院予算委員長の〝野心〟 現代ビジネス 2013年12月7日<!--歳川隆雄「安倍政権 365日の激闘」(東洋経済新報社)--></ref>。
 
 
 
[[2015年]]5月には97歳の誕生日を迎えたが、同年8月7日の[[読売新聞]]に戦後七十年にあたっての長文の寄稿を行うなど健在ぶりを示している。
 
 
 
[[2017年]]5月には99歳の誕生日を迎えた。[[尾崎行雄]]記念財団は公式[[フェイスブック]]で「2003年の自民党の比例区における73歳定年制導入がなければ、中曽根元総理は恐らく尾崎の連続当選25回、在職連続63年の記録を塗り替えていただろう」というコメントを残している(計算上は、2003年以降も北関東ブロック比例1位の処遇が継続していて中曽根本人が辞退していなければ、2011年に在職連続64年となる。連続当選は2014年までで25回のタイ記録)。
 
 
 
[[2018年]]5月、日本の総理大臣経験者では史上2人目の100歳の誕生日を迎えた(前述)。関係者の話によれば、近年足腰が衰えたものの、都内の事務所を週2回程度訪れ、書類整理や来客との面会をこなしているという<ref>[https://www.jiji.com/jc/article?k=2018052700006&g=pol 中曽根元首相きょう100歳=改憲へ意欲衰えず] - 時事ドットコム 2018年5月27日</ref>。
 
 
 
=== 大連立構想を仲介 ===
 
{{Main|大連立構想 (日本 2007)}}
 
自民党と民主党の大連立を裏で仲介していたと報道されている。
 
 
 
=== ライフワーク ===
 
「自主憲法制定」をライフワークとしており、防衛力増強や「[[国鉄労働組合|国労]]つぶし」を行った。また、小泉総裁との関係が悪化したことから、自民党の新憲法起草委員会では前文小委員長であった中曽根が作成した憲法前文の試案は使用されなかった。このため、[[左派]]や[[護憲]]派だけでなく、[[右派]]や[[改憲]]派からも中曽根への批判がある。
 
 
 
== 政治姿勢 ==
 
=== 憲法改正 ===
 
前述のように[[改憲]]をライフワークとしている。議員引退後の現在もなお[[新憲法制定議員同盟]]会長を務めている。
 
 
 
=== 核武装 ===
 
日米同盟が破棄された時に備えて、日本は[[核兵器|核]]武装の準備をするべきと主張している。
 
 
 
=== 小泉内閣への評価 ===
 
小泉内閣の最大の功績として「[[アフガニスタン]]、[[イラク]]での国際貢献を目的とした[[自衛隊]]の海外派遣」を挙げる(中曽根も第3次内閣で[[イラン・イラク戦争]]での掃海艇派遣を検討していた)。また最大の失政として「憲政の常道に反し、[[参議院]]で否決された郵政民営化法案を成立させようと衆議院を解散したこと」([[郵政解散]])を指摘した。「小泉内閣は、私がやったような政治の本道―たとえば財政とか行革とか、教育―ではなくて、道路と郵政をやっただけだ。どちらかと言えばはじっこのことだ。それを劇場政治として面白くやったんだな。俺に言わせれば印象派の政治だ(笑)」とインタビューに答えている<ref>[[R25]]ロングインタビューVol.202</ref>。
 
 
 
=== 保守意識 ===
 
[[中曽根派]]が[[三木派]]と並んで[[自由民主党の派閥#歴史|保守傍流]]扱いされることに反発していた。なお[[自由民主党の派閥#歴史|保守本流]]は、[[自由党 (日本 1950-1955)|吉田自由党]]系の[[池田派]]・[[佐藤派]]の系列を指すのが通常で、佐藤派・保利系と合同した[[福田派]]まで含めることまではあっても、通常中曽根派は含まない。
 
 
 
=== 戦後政治の生き証人 ===
 
[[松村謙三]]から「緋縅の鎧を着けた若武者」と賞賛された新人議員時代や、いち早く一派を率いた時代から平成の世まで保守政界の一方の核にあった。保守合同以前は野党、自民党においても反主流時代が長く、保守本流の嫡流ともいえる宮澤喜一(2007年死去)とは別の意味で、国会や内閣、派閥取引の裏事情を知る生き証人として知られ、本人も長い政治生活を背景とした過去との比較などの発言をたびたび行う。
 
 
 
とりわけ、[[保守合同]]の立役者であり、自民党史上最高の軍師として鳴る[[三木武吉]]を比喩として使い、その時代の参謀型・調整型政治家を持ち上げる手段としていた。鈴木内閣時の金丸信に対しては、「三木武吉以来の人材だ!」とおだて上げ、[[加藤の乱]]鎮圧後の[[野中広務]]には、「三木武吉を超えましたなあ」と褒め上げている。
 
 
 
== 交友関係 ==
 
[[画像:Ronald Reagan Nancy Reagan and Yasuhiro Nakasone 19860413.jpg|thumb|200px|[[1986年]][[4月13日]]、[[キャンプ・デービッド]]にて[[ロナルド・レーガン|ロナルド]]・[[ナンシー・レーガン|ナンシー]]夫妻に携帯テレビを贈呈]]
 
[[画像:Mulroney Thatcher and Gorbachev at Reagan's funeral.jpg|thumb|200px|[[2004年]][[6月11日]]、[[ロナルド・レーガン]]の葬儀にて[[ミハイル・ゴルバチョフ]]、[[マーガレット・サッチャー]]、[[ブライアン・マルルーニー]]らと]]
 
 
 
;[[ロナルド・レーガン]]
 
:レーガンとは互いに「ロン」「ヤス」と呼び合うほどの親密な仲を築き、自著の中でも「たぐい稀な人間的魅力」と評している。
 
:1983年1月16日、[[ジョージ・H・W・ブッシュ|ブッシュ]]副大統領の晩餐会に招待された席上で、中曽根はこう述べた。
 
::「今回の渡米に同行している次女の美恵子は、小学生だった11歳の時、[[インディアナ州]][[ミシガンシティ (インディアナ州)|ミシガンシティ]]のモルト・ウィンスキー氏のお宅にホームスティしたのです。高校時代には互いに1年間、交換留学させました。ウィンスキー家とは20年近い交流が続いてます。今回の渡米に際しても、一家をあげてわざわざワシントンまで駆けつけてくれて、一同抱き合って再会を喜び合ったばかりです。かつて11歳の娘の美恵子をアメリカに送り出すとき、家内と『いつか総理大臣なって渡米する時が来たら、その時は美恵子が通訳をやってくれるといいなあ』と夢見たものですが、その後二十数年、政治家として家族とともに幾山河を越え風雪に耐えて、ここワシントンを訪れ、それが今、現実になって感無量です。国と国との関係も、ウィンスキー家と私の家とのように友情と信頼で築き上げたい」
 
:この話の途中で中曽根は感情がこみあげ、言葉を詰まらせてしまう。これを聞いていたブッシュ副大統領、[[ジョージ・シュルツ|シュルツ]]国務長官、[[キャスパー・ワインバーガー|ワインバーガー]]国防長官、[[ビル・ブロック|ブロック]]通商部代表、[[ハワード・ボールドリッジ|ボールドリッジ]]商務長官など、並んでいた閣僚がハンカチを取り出して目頭を押さえる一幕があった。翌朝シュルツから前夜の話を聞いたレーガン夫妻も目に涙を浮かべたという。
 
:1983年1月17日、『[[ワシントン・ポスト]]』紙の社主だったキャサリン・グラハムの朝食会に招かれ、その席上で「日本は不沈空母である」「日米は運命共同体である」と発言したと『ワシントン・ポスト』は大きく取り上げた。この会食の翌日にレーガンがホワイトハウスの私的な住居で朝食に招き、その時レーガンから「今後はお互いファーストネームで呼び合おう」と言われたという。
 
:[[ヘンリー・キッシンジャー]]は「もし政治が可能性の芸術であるならば、レーガンは掛け値なしに一流の芸術家」と発言し、中曽根もこれに同意している。
 
 
 
;[[マーガレット・サッチャー]]
 
:大英帝国伝統の血を引いた現代宰相で卓抜な能力を備え、強気ながらも一方で女性らしい非常にきめ細やかな繊細さを持っていると中曽根は評した<ref group="注釈">サッチャーの愛国心はかなりのもので、トルコの[[ダーダネルス海峡]]に架ける橋の工事を日本企業が請け負った際には、サミットの開会前に中曾根の元に来て、英国の勢力圏の仕事を日本が持っていくのはひどいと抗議している。</ref>。
 
 
 
;[[竹村健一]]
 
:中曽根は竹村を畏友と評し、竹村とは中曽根がまだ、総理・総裁候補だった頃からの付き合いであった。その当時から「体の中に国家を持っている」政治家として、竹村は中曽根を敬愛し続けているという。「竹村会」という勉強会の1月の全国大会では、毎年中曽根が基調講演を行っている。
 
 
 
;[[渡邉恒雄]]
 
:[[読売新聞]]会長の[[渡邉恒雄]]は初入閣や総理就任にも貢献した盟友であり、同じ憲法改正論者でもある一方で[[小泉純一郎]]の推し進めた[[郵政民営化]]や[[靖国神社]]参拝などには異議を唱えた。
 
 
 
;[[田中角栄]]
 
:永遠の競争相手として認めており、代議士会では論戦に明け暮れた仲である一方で総理就任の際は田中の影響力を利用した。同じ1918年5月生まれでもある。
 
 
 
;[[胡耀邦]]
 
:『[[三国志演義]]』の登場人物のようで、英雄的要素を持ち、度量も視野も広かったと評し、兄弟のような付き合いをした仲だという。
 
:1984年9月、「日中友好二十一世紀委員会」が発足した。これは胡耀邦と中曽根が「これからの日中関係は、外交辞令ではなく、本音で話し合えるチャンネルを作っておく必要がある」という意図の元に作られたという。
 
 
 
;[[全斗煥]]
 
:中曽根首相の就任から間髪を入れない訪韓は、教科書問題が沸騰した直後にという微妙な時期であったが、晩餐会での[[韓国語]]でのスピーチ<ref group="注釈">中曽根首相は1983年1月、韓国を訪れた。日程を順調に消化し、最大のヤマ場となる大統領官邸の大広間での晩餐会が始まった。大勢の来賓が招かれた中、全斗煥大統領の歓迎スピーチが終わり、次は中曽根首相の挨拶になった。来賓は、中曽根首相が日本の韓国統治についてどういう言葉で謝罪するのかに注目し、会場は水を打ったように静まり返った。首相はポケットから挨拶文を取り出し、ゆっくりと広げた。「ヨロブン、アンニョン ハシムニカ(ご来賓の皆さん、今晩は、{{lang|ko|여러분, 안녕하십니까}})…」会場は大きくどよめいたという。スピーチの中ほどで日本語になり、韓国語の通訳が入った。そして最後。「オヌルン、テダニ カムサハムニダ(本日は誠にありがとうございました、{{lang|ko|오늘은 대단히 감사합니다}})」会場は割れんばかりの拍手に包まれたという。帰国後、中曽根首相は「隣に座っていた全斗煥大統領は涙を浮かべていた」と語ったという。客席の中にもハンカチで涙を拭いていた人もいたようだ。中曽根首相の謝罪の言葉は脇に押しのけられた格好になった。([[町田貢]] 『日韓インテリジェンス戦争』 [[文藝春秋]] 2011年)</ref>や全斗煥大統領のカラオケで韓国語の歌を披露するといったパフォーマンスも奏功してか、学生など少数の左翼過激派を除く韓国人一般に好意的に受け止められた。この訪日の前に全斗煥大統領は既に中国と国交を持った日本政府に協力を要請して胡耀邦[[中国共産党中央委員会総書記|総書記]]と親しい中曽根首相を仲介役に[[中華人民共和国]]が韓国を国家承認すれば抱き合わせで中国と[[中朝友好協力相互援助条約|中朝同盟]]を結ぶ[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]を日本に国家承認させるとする計画を決定し<ref>{{Cite news | url = http://japanese.joins.com/article/296/198296.html | title = 全斗煥元大統領、訪日前に日本に圧力…天皇、初めて過去の歴史に遺憾表明 | work = | publisher = [[中央日報]] | date = 2015-03-31 | accessdate = 2017-12-20}}</ref>、[[1986年]]に訪中した中曽根首相は胡耀邦に「全斗煥から『中国との国交、それに至らぬとしても、交流を拡大するよう望むと伝えてほしい』と言われた。1つは[[LT貿易]]事務所のようなものか通商代表部を中韓間で設置、もう1つは[[ソウルオリンピック]]で協力してほしいということだった」<ref>{{Cite news | url = https://www.asahi.com/articles/ASKDN2G9XKDNUHBI002.html | title = 中曽根氏、中韓を仲介 外交文書で判明「希望伝えてと」 | work = | publisher = [[朝日新聞]] | date = 2017-12-26 | accessdate = 2017-12-27}}</ref>と述べて中韓が通商代表部を設置すれば日朝間でも貿易を行う用意があると提案した<ref name=nikkei171220>{{Cite news | url = https://www.nikkei.com/article/DGXMZO24847300Q7A221C1EAF000/ | title = 日朝貿易へ「用意ある」 中曽根首相、中国に提起 韓国の国交樹立要望伝達 86年会談、外交文書 | work = | publisher = [[日本経済新聞]] | date = 2017-12-20 | accessdate = 2017-12-20}}</ref>。後にソウル五輪への中国参加や中韓国交正常化は実現するも、胡耀邦総書記は韓国の対中姿勢を評価しつつ北朝鮮の態度を理由に日朝貿易や韓米中朝4カ国協議には否定的だった<ref name=nikkei171220/>。日韓関係はその後、紆余曲折を経ることとなり、全大統領も部下だった[[盧泰愚]]が大統領となるや政治力を奪われ、[[金泳三]]政権の下で冷遇された。そうした中で中曽根が、全の来日の際には必ず付き添うなど、過去の盟友に対しての一貫した友情は、[[日韓併合]]時代も経験した保守的な韓国人高齢者の間でも好意的に受け止められている。
 
 
 
;[[不破哲三]]
 
:『サンデー毎日』2009年7月19日号において対談を行い、互いに一定の評価をし合った<ref name="れんだいこ">[http://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/nihon/fuwaco/fuwanakasonetaidanco.html 「サンデー毎日誌上の不破と中曽根対談」考]</ref><ref>中曽根 康弘著『青山常運歩 中曽根康弘対談集』(毎日新聞社)</ref>。
 
 
 
== 宗教関連 ==
 
;[[靖国神社]]
 
:[[1985年]]に[[内閣総理大臣]]として公式参拝した。翌1986年は[[後藤田正晴|後藤田]][[内閣官房長官|官房長官]]の圧力に屈し、さらに胡耀邦の中国共産党内での立場に配慮し、参拝を中止した。[[1988年]][[3月11日]]、[[赤報隊]]から脅迫状が送りつけられる([[赤報隊事件]])。[[国会議員]]勇退後には[[A級戦犯]]分祀推進<ref name="47news20040527">{{Cite news
 
|url = http://www.47news.jp/CN/200405/CN2004052701003959.html
 
|title = 天皇陛下の靖国参拝実現を 86歳の誕生会で中曽根氏
 
|agency = [[共同通信社]]
 
|publisher = [[47NEWS]]
 
|date = 2004-05-27
 
|accessdate = 2015-03-04
 
}}</ref>や小泉総理の靖国参拝反対など大きく主張を転換した。
 
:[[島村宜伸]]は、中曽根の依頼を受けて靖国神社に対しA級戦犯の分祀を求めたことがあった旨を、2005年に述べている<ref>{{Cite news
 
|url = http://www.47news.jp/CN/200506/CN2005060701000874.html
 
|title = 中曽根氏依頼で分祀求める 島村農相が靖国神社に
 
|agency = [[共同通信社]]
 
|publisher = [[47NEWS]]
 
|date = 2005-06-07
 
|accessdate = 2015-03-04
 
}}</ref>。
 
:[[天皇]]の参拝実現を要望している。2004年に「遺族が一番考えているのは天皇陛下がいつ参拝してくれるかだ。首相ではなく、天皇陛下が参拝できるようにするのが首相の大きな仕事だ」と発言している<ref name="47news20040527"/>。
 
 
 
;[[禅]]
 
:自著において宗教観を語っており、どの宗教も心の底から信じられないとするが、[[座禅]]だけは好んで行っている<ref name="naka">中曾根康弘『自省録-歴史法廷の被告として-』([[新潮社]] 2004年6月) ISBN:4-10-468701-4</ref>。また雑誌の読書特集のインタビューで[[道元]]『[[正法眼蔵]]』を座右の書としていると語った。
 
 
 
;[[世界基督教統一神霊協会]]
 
:世界基督教統一神霊協会(統一教会)・[[国際勝共連合]]との関係について以下の指摘がある。
 
:[[1992年]]3月、[[出入国管理及び難民認定法]]の規定で日本に入国できなかった統一教会の教祖、[[文鮮明]]が特例措置で14年ぶりに日本に入国した際、文鮮明と会談した<ref>[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/123/1380/12304081380013c.html 第123回国会 参議院 予算委員会 第3号] 平成4年(1992年)4月8日</ref>。
 
:[[1992年]]9月、[http://www.chojin.com/history/30000.htm 統一教会発行「中和新聞」]によると、[[桜田淳子]]や[[山崎浩子]]が参加したことで注目を浴びた[[1992年]]の統一教会の[[合同結婚式]]に中曽根は元総理の名で祝辞を送ったとされている。
 
:[[1994年]]8月 勝共連合の幹部の誘いで文鮮明の側近である[[朴普煕]]と会談、[[1991年]]の文鮮明と[[金日成]]の会談の報告を受ける。[[金丸信]]が(「[[東京佐川急便事件]]」で)失脚したので、北朝鮮と日本を結ぶパイプ役をお願いしたとされる<ref>[[有田芳生]] 『「神の国」の崩壊 統一教会報道全記録』 [[教育史料出版会]] [[1997年]]</ref>。
 
:2006年3月21日、[[千葉県]]の[[幕張メッセ]]で開催された統一教会系列の「[[天宙平和連合]] (UPF)日本大会」にその活動趣旨に深い理解を示し、祝電を送ったという<ref>[[光文社]] 『[[FLASH (写真週刊誌)|FLASH]]』 [[2006年]]7月4日号</ref>。
 
 
 
== 渾名 ==
 
*「政界の[[風見鶏]]」
 
*「薮枯らし<!--河野派領袖の河野一郎が名づけた-->」
 
*「緋縅の鎧を着けた若武者」
 
*「[[青年]][[将校]]」
 
*「中曽根[[大勲位]]」
 
*「大勲位[[閣下]]」
 
*「ヤス」(ロン・ヤスとして、ロナルド・レーガンと並べて呼称される)
 
*「ヤストラダムス<ref group="注釈">「[[報道2001]]」において中曾根が語る先見性を予言者[[ノストラダムス]]に見立てて名づけられた。</ref>」
 
 
 
== 栄典 ==
 
戦後、生存者叙勲の復活が閣議決定された直後には「戦前の勲章の復活などは、いまの憲法にふさわしくない。第一、いまどき勲章をもらったって、いつ、どんな服につけるのかね」<ref>[[朝日新聞]]1963年11月3日</ref>と語っていたが、[[1997年]]4月29日、[[大勲位菊花大綬章]]を受章した。[[日本国憲法]]施行後、[[皇族]]・外国人以外で大勲位菊花大綬章を生前受勲したのは、[[吉田茂]]、[[佐藤栄作]]に次いで3人目である。その他の[[栄典]]としては、[[大日本帝国海軍]]の軍人であったとき、海軍主計[[少佐]]として[[従六位]]に叙されている。
 
 
 
また、[[フランス]]から[[レジオンドヌール勲章]](グラントフィシエ)、ドイツ共和国から[[功績勲章大十字章]]をそれぞれ受章した。
 
 
 
[[称号]]は、[[名誉博士]]([[ルイ・パスツール大学]])、名誉博士([[高麗大学校]])、名誉博士([[タンマサート大学]]、政治学)の名誉学位を受けている。その他、1997年(平成9年)には国会議員在職50年表彰を受けた(史上4人目)。
 
 
 
== 家族・親族 ==
 
[[画像:Yasuhiro Nakasone in Andrews with wife.jpg|thumb|200px|[[1983年]][[1月21日]]、[[アンドルーズ空軍基地]]にて妻の蔦子(左)と]]
 
* 生家<ref group="注釈">神一行著『閨閥 {{small|改訂新版}}』176頁によれば、「母の名前はゆく。その実家は[[安中市]]の名家で素封家であった。中曽根は女一人、男四人の二男。そのうち三男・良介は戦死、四男・昌吉は病死している。」という。</ref>
 
** 父・[[中曽根松五郎|松五郎]](材木商)
 
** 母・ゆく
 
** 兄・吉太郎
 
** 弟・良介、昌吉
 
* 自家
 
** 妻・蔦子(元[[明治大学]][[教授]][[小林儀一郎]]の三女)
 
** 長男・[[中曽根弘文|弘文]](政治家・外務大臣(麻生内閣))<ref group="注釈">[[神一行]]著『閨閥 {{small|改訂新版}}』178頁によれば、「その妻・真理子は、前川商事や前川産業、あるいは朝霧高原の開発などで有名な[[前川昭一]]の長女である。」という。</ref>
 
*** 孫・[[中曽根康隆|康隆]](弘文の長男。政治家・衆議院議員)
 
** 長女・美智子(双川文吾(弁護士[[双川喜文]]の長男、元明治大学専務理事[[双川喜一]]の孫)の妻)
 
*** 孫(長女・美智子と双川文吾の息子)の[[双川正文]]は[[フジテレビジョン|フジテレビ]]に入社し、現在は[[バラエティ番組|バラエティ]]制作センター勤務のサラリーマンである<ref group="注釈">「[[めちゃ×2イケてるッ!]]」のコーナー「[[フジTV警察24時]]」でもフジテレビの二世社員として紹介され、目の前で本庁からの助っ人だった[[はなわ]]に“''中曽根の孫もフジ、オンエアできるのか?''”と歌われた。また、[[インディーズ]]の[[お笑いタレント|お笑い芸人]]としても活躍している</ref>。
 
** 二女・美恵子(渥美直紀(元[[鹿島建設]]名誉会長[[渥美健夫]]の長男、元[[商船三井|大阪商船]]取締役<ref>神一行著『閨閥 {{small|改訂新版}}』169頁</ref>[[渥美育郎]]の孫、[[兵庫県]][[士族]]渥美遂<ref>猪野三郎監修『第十版 大衆人事録』(昭和9年)ア九二頁より</ref>の曾孫)の妻、元[[日本放送協会|NHK]]アナウンサー{{refnest|group="注釈"|1973年入局。同期には[[池上彰]](報道記者)、[[大塚範一]]・[[宮本隆治]](アナウンサー)などがいる<ref>[http://kozuchan.waraidama.jp/e3532296.html 同期っていいね!] 中村こずえのひとりごと 2012年3月25日</ref>。}}。)
 
* 他家
 
** 姪
 
*** 光子(元[[東京大学]]教授[[平山信]]の孫[[川上冽]]の妻)
 
*** 八重子([[斉藤知三郎]](元・大昭和製紙(現・[[日本製紙]])[[名誉会長]][[斉藤了英]]の三男、大昭和製紙(現・日本製紙)の創業者[[斉藤知一郎]]の孫)の妻)
 
 
 
=== 系譜 ===
 
;中曽根家([[群馬県]][[高崎市]])
 
* 系図1
 
{{familytree/start}}
 
{{familytree | HIM | | | | | | | | NAM | | | | | | | | SA1 | | | | | | TOK | | | | MIT |HIM=[[平山信]]|NAM=[[中曽根松五郎|中曽根<br/>松五郎]]|SA1=[[斉藤知一郎]]|TOK=[[豊田喜一郎]]|MIT=三井高長}}
 
{{familytree | |!| | | | | | | |,|-|^|-|.| | | | | |,|-|^|-|.| | | |,|-|^|-|.| | | |!| }}
 
{{familytree | KAC |y| KAJ | | NAK | | NAY | | | | SAR | | SAS |~| SAW | | TOS |y| TOH |KAC=千枝|KAJ=川上寿一|NAK=中曽根<br/>吉太郎|NAY='''中曽根康弘'''|SAR=[[齊藤了英|斉藤了英]]|SAS=[[斉藤滋与史]]|SAW=和可子|TOS=[[豊田章一郎]]|TOH=博子}}
 
{{familytree | | | |!| | | |,|-|^|-|.| | | |,|-|-|-|+|-|-|-|.| | | | | | | | | |!| | | }}
 
{{familytree | | | KAK |~| KAM | | SAY |~| SA3 | | SAT | | SAK | | | | | | | | TOA | | |KAK=川上冽|KAM=光子|SAY=八重子|SA3=斉藤知三郎|SAT=[[斉藤斗志二]]|SAK=斉藤公紀|TOA=[[豊田章男]]}}
 
{{familytree/end}}
 
 
 
* 系図2
 
{{familytree/start}}
 
{{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | | | KA1 | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |KA1=鹿島岩蔵}}
 
{{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |!| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | }}
 
{{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | | | KAI |y| KA2 | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | NA1 | | | | | | | |KAI=いと|KA2=鹿島精一|NA1=初代中曽根<br/>松五郎}}
 
{{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |!| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |!| | | | | | | | }}
 
{{familytree | INY | | | | YAJ | | | | | | | | | | | | KAU |y| KAM | | | | | | | | | | ATI | | | | KOG | | | | | | NA2 | | | | | | | |INY=[[稲山嘉寛]]|YAJ=[[梁瀬次郎]]|KAU=[[鹿島卯女|卯女]]|KAM=[[鹿島守之助]]|ATI=[[渥美育郎]]|KOG=小林儀一郎|NA2=[[中曽根松五郎|2代中曽根<br/>松五郎]]}}
 
{{familytree | |!| | | |,|-|^|-|.| | | |,|-|-|-|v|-|-|-|-|-|^|-|v|-|-|-|-|-|-|-|.| | | |!| | | |,|-|^|-|.| | | |,|-|^|-|.| | | | | | }}
 
{{familytree | INT |~| INH | | KAK |~| KA3 | | ISY |~| ISR | | HIM |~| HIW | | AKI |y| ATT | | KOY | | NAT |y| NAY | | NAK | | MAS |INT=稲山孝英|INH=弘子|KAK=公子|KA3=[[鹿島昭一]]|ISY=よし子|ISR=[[石川六郎]]|HIM=三枝子|HIW=[[平泉渉]]|AKI=伊都子|ATT=[[渥美健夫]]|KOY=小林義治|NAT=蔦子|NAY='''中曽根康弘'''|NAK=中曽根<br/>吉太郎|MAS=前川昭一}}
 
{{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |,|-|^|-|.| | | |,|-|-|-|v|-|^|-|-|-|-|-|.| | | |!| | }}
 
{{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | ATM | | ATN |~| ANM | | FUM |~| FUB | | NAH |~| NAM |ATM=渥美雅也|ATN=渥美直紀|ANM=美恵子|FUM=美智子|FUB=双川文吾|NAH=[[中曽根弘文]]|NAM=真理子}}
 
{{familytree/end}}
 
 
 
== 選挙歴 ==
 
{|class = "wikitable"
 
!当落!!選挙!!施行日!!選挙区!!政党!!得票数!!得票率!!{{small|得票順位<br/>/候補者数}}!!比例区!!{{small|比例順位<br/>/候補者数}}
 
|-
 
|当||[[第23回衆議院議員総選挙]]||1947年4月25日||[[群馬県第3区 (中選挙区)|群馬県第3区]]||[[民主党 (日本 1947-1950)|民主党]]||style="text-align:right"|'''65,484'''||style="text-align:right"|''''''||style="text-align:right"|'''1'''/10|| - || -
 
|-
 
|当||[[第24回衆議院議員総選挙]]||1949年1月23日||群馬県第3区||民主党||style="text-align:right"|'''45,261'''||style="text-align:right"|''''''||style="text-align:right"|'''2'''/14|| - || -
 
|-
 
|当||[[第25回衆議院議員総選挙]]||1952年10月1日||群馬県第3区||[[改進党]]||style="text-align:right"|'''71,967'''||style="text-align:right"|''''''||style="text-align:right"|'''1'''/10|| - || -
 
|-
 
|当||[[第26回衆議院議員総選挙]]||1953年4月19日||群馬県第3区||改進党||style="text-align:right"|'''65,878'''||style="text-align:right"|''''''||style="text-align:right"|'''1'''/7|| - || -
 
|-
 
|当||[[第27回衆議院議員総選挙]]||1955年2月27日||群馬県第3区||[[日本民主党]]||style="text-align:right"|'''83,399'''||style="text-align:right"|''''''||style="text-align:right"|'''1'''/6|| - || -
 
|-
 
|当||[[第28回衆議院議員総選挙]]||1958年5月22日||群馬県第3区||[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]||style="text-align:right"|'''70,852'''||style="text-align:right"|'''22.0'''||style="text-align:right"|'''2'''/7|| - || -
 
|-
 
|当||[[第29回衆議院議員総選挙]]||1960年11月20日||群馬県第3区||自由民主党||style="text-align:right"|'''76,274'''||style="text-align:right"|'''24.2'''||style="text-align:right"|'''2'''/7|| - || -
 
|-
 
|当||[[第30回衆議院議員総選挙]]||1963年11月21日||群馬県第3区||自由民主党||style="text-align:right"|'''84,504'''||style="text-align:right"|'''26.2'''||style="text-align:right"|'''2'''/6|| - || -
 
|-
 
|当||[[第31回衆議院議員総選挙]]||1967年1月29日||群馬県第3区||自由民主党||style="text-align:right"|'''72,731'''||style="text-align:right"|'''21.5'''||style="text-align:right"|'''2'''/6|| - || -
 
|-
 
|当||[[第32回衆議院議員総選挙]]||1969年12月27日||群馬県第3区||自由民主党||style="text-align:right"|'''106,823'''||style="text-align:right"|'''29.4'''||style="text-align:right"|'''1'''/7|| - || -
 
|-
 
|当||[[第33回衆議院議員総選挙]]||1972年12月10日||群馬県第3区||自由民主党||style="text-align:right"|'''93,879'''||style="text-align:right"|'''24.3'''||style="text-align:right"|'''2'''/5|| - || -
 
|-
 
|当||[[第34回衆議院議員総選挙]]||1976年12月5日||群馬県第3区||自由民主党||style="text-align:right"|'''56,454'''||style="text-align:right"|'''13.8'''||style="text-align:right"|'''4'''/6|| - || -
 
|-
 
|当||[[第35回衆議院議員総選挙]]||1979年10月7日||群馬県第3区||自由民主党||style="text-align:right"|'''95,961'''||style="text-align:right"|'''23.7'''||style="text-align:right"|'''2'''/6|| - || -
 
|-
 
|当||[[第36回衆議院議員総選挙]]||1980年6月22日||群馬県第3区||自由民主党||style="text-align:right"|'''96,930'''||style="text-align:right"|'''23.8'''||style="text-align:right"|'''2'''/6|| - || -
 
|-
 
|当||[[第37回衆議院議員総選挙]]||1983年12月18日||群馬県第3区||自由民主党||style="text-align:right"|'''117,970'''||style="text-align:right"|'''30.1'''||style="text-align:right"|'''2'''/5|| - || -
 
|-
 
|当||[[第38回衆議院議員総選挙]]||1986年7月6日||群馬県第3区||自由民主党||style="text-align:right"|'''115,381'''||style="text-align:right"|'''28.1'''||style="text-align:right"|'''2'''/5|| - || -
 
|-
 
|当||[[第39回衆議院議員総選挙]]||1990年2月18日||群馬県第3区||[[無所属]]||style="text-align:right"|'''86,552'''||style="text-align:right"|'''19.9'''||style="text-align:right"|'''3'''/7|| - || -
 
|-
 
|当||[[第40回衆議院議員総選挙]]||1993年7月18日||群馬県第3区||自由民主党||style="text-align:right"|'''64,387'''||style="text-align:right"|'''16.4'''||style="text-align:right"|'''4'''/7|| - || -
 
|-
 
|当||[[第41回衆議院議員総選挙]]||1996年10月20日||[[比例北関東ブロック|比例北関東]]||自由民主党||style="text-align:right"|''''''||style="text-align:right"|''''''||style="text-align:right"|''''''|| - || 単独1位
 
|-
 
|当||[[第42回衆議院議員総選挙]]||2000年6月25日||比例北関東||自由民主党||style="text-align:right"|''''''||style="text-align:right"|''''''||style="text-align:right"|''''''|| - || 単独1位
 
|-
 
!colspan="11"|当選回数20回 (衆議院議員20)
 
|}
 
 
 
== 主な著作 ==
 
=== 著書 ===
 
*『青年の理想』([[一洋社]]、[[1947年]])
 
*『日本の主張』([[経済往来社]]、[[1954年]])
 
*『南極』([[弘文堂]]、[[1963年]])
 
*『日本のフロンティア』([[恒文社]]、[[1966年]])
 
*『新しい保守の論理』([[講談社]]、[[1978年]])
 
*『心のふれあう都市-21世紀への提言-』([[サンケイ出版]]、[[1980年]])
 
*『政治と人生-中曽根康弘回顧録』(講談社、[[1992年]])
 
*『天地有情-五十年の戦後政治を語る』([[文藝春秋]]、[[1996年]])
 
*『二十一世紀日本の国家戦略』([[PHP研究所]]、[[2000年]])
 
*『自省録-歴史法廷の被告として』([[新潮社]]、[[2004年]])
 
*『日本の総理学』([[PHP新書]]、2004年)
 
*『保守の遺言』([[角川書店]][角川oneテーマ21新書]、[[2010年]])
 
*『わたしがリーダーシップについて語るなら』([[ポプラ社]]、2010年)
 
*『中曽根康弘が語る戦後日本外交』(新潮社、2012年)
 
 
 
=== 共著 ===
 
*([[竹村健一]]編)『内閣総理大臣中曽根康弘、防衛・憲法を語る-亡国の非武装中立論を撃つ』([[山手書房]]、1984年)
 
*([[佐藤誠三郎]]・[[村上泰亮]]・[[西部邁]])『共同研究「冷戦以後」』(文藝春秋、1992年)
 
*([[梅原猛]])『政治と哲学 日本人の新たなる使命を求めて』(PHP研究所、1996年)
 
*([[宮澤喜一|宮沢喜一]])『対論改憲・護憲』([[朝日新聞社]]、1997年)
 
**『憲法大論争 改憲vs.護憲』([[朝日文庫]]、2000年)
 
*([[石原慎太郎]])『永遠なれ、日本 元総理と都知事の語り合い』(PHP研究所、2001年/PHP文庫、2003年)
 
*([[竹村健一]])『命の限り蝉しぐれ-日本政治に戦略的展開を-』([[徳間書店]]、2003年)
 
*(木下義昭編)『戦後60年日本の針路を問う-世界日報30年の視点-』([[世界日報 (日本) |世界日報社]]、2005年)
 
*(聞き手:[[松本健一]])『政治は文化に奉仕する これからの政治と日本』([[シアテレ新書]]、2010年7月)- [[シアター・テレビジョン|DHCシアター]]の番組での対話集
 
*(梅原猛)『リーダーの力量 日本を再び、存在感のある国にするために』(PHP研究所、2010年11月)
 
 
 
== 脚注 ==
 
=== 注釈 ===
 
{{Reflist|group="注釈"}}
 
 
 
=== 出典 ===
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 論文 ==
 
*[http://ci.nii.ac.jp/author?q=%E4%B8%AD%E6%9B%BD%E6%A0%B9+%E5%BA%B7%E5%BC%98&count=100&sortorder=3http://ci.nii.ac.jp/author?q=%E4%B8%AD%E6%9B%BD%E6%A0%B9+%E5%BA%B7%E5%BC%98=3 Ciniiに登録されている論文] [[国立情報学研究所]]、2010-05-12閲覧。
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* {{Cite book|和書|author=[[松浦敬紀]]編著|year=1978|month=6|chapter=衆議院議員'''中曽根康弘'''(海軍主計大尉)“二十三歳で三千人の総指揮官”|title={{small|若い世代へ伝えたい残したい}} 終りなき海軍|publisher=[[文化社]]|isbn=|ref=松浦、海軍}}
 
*編者 - 週刊ブックス特別取材班『{{small|新総理}} 中曾根康弘の研究』 1982年
 
*日外アソシエーツ編『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』(日外アソシエーツ、2003年) ISBN 4816918051
 
*日外アソシエーツ編『新訂現代政治家事典―中央・地方の政治家4000人』(日外アソシエーツ、2005年) ISBN 4816918922
 
*[[早川隆]] 『日本の上流社会と閨閥』 [[角川書店]] 1983年 149-152頁
 
*[[広瀬隆]] 『私物国家 {{small|日本の黒幕の系図}}』 2000年 156、172、190、210、342頁
 
*[[神一行]] 『閨閥 {{small|改訂新版}} {{small|特権階級の盛衰の系譜}}』 角川書店 2002年 166-180頁、290-291頁
 
*中曽根康弘『天地有情』
 
*[[本澤二郎]] 『平成の妖怪中曽根康弘の大野望』
 
*『中曽根康弘悪の構図』
 
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[原子力基本法]]
 
*[[将官・佐官出身の国会議員の一覧]]
 
*[[名誉議員]]
 
*[[群馬県名誉県民]]
 
*[[日の出山荘]]
 
*[[総理大臣官邸]]:旧官邸からの建て替えを中曽根内閣で閣議決定
 
*[[親米保守]]
 
*[[ロッキード事件]]
 
*[[KSD事件]]
 
*[[リクルート事件]]
 
*[[ダグラス・グラマン事件]]
 
*[[バブル景気]]
 
 
 
== 関連人物 ==
 
*[[長嶋茂雄]] - 一時期中曽根は長嶋所有の家に住んでいた
 
*[[石原慎太郎]] - 回顧録では批判しているがその後は共著がある
 
*[[佐々淳行]]
 
*[[与謝野馨]] - 元秘書
 
*[[五島昇]] - 東京急行電鉄元会長・社長。生前親交を深めており、東急グループ内の1社を譲渡している。
 
*[[藤波孝生]]
 
*[[江田島平八]] - [[宮下あきら]]の漫画「[[魁!!男塾]]」に登場する架空の人物。中曽根とは学生時代の友人という設定で、江田島は彼を「中ちゃん」と呼ぶ。
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{Commonscat|Yasuhiro Nakasone}}
 
{{Wikiquote}}
 
* [http://www.iips.org/j-index.html 公益財団法人 中曽根康弘世界平和研究所]
 
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{{succession box
 
|title = {{Flagicon|日本}} [[内閣総理大臣]]
 
|before = [[鈴木善幸]]
 
|years = 第71・72・73代:1982年 - 1987年
 
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}}
 
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|title = {{Flagicon|日本}} [[行政管理庁長官]]
 
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|title = {{Flagicon|日本}} [[経済産業大臣|通商産業大臣]]
 
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}}
 
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|title = {{Flagicon|日本}} [[原子力委員会#歴代の原子力委員会委員長|原子力委員会委員長]]
 
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|after = [[木内四郎]]<br/>[[前田佳都男]]
 
}}
 
{{succession box
 
|title = {{Flagicon|日本}} [[防衛大臣|防衛庁長官]]
 
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|title = {{Flagicon|日本}} [[運輸大臣]]
 
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}}
 
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|title = [[自由民主党総務会|自由民主党総務会長]]
 
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{{succession box
 
|title = [[政策科学研究所 (派閥)|政策科学研究所会長]]
 
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|title = [[主要国首脳会議|先進国首脳会議議長]]
 
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{{end box}}
 
 
 
{{日本国歴代内閣総理大臣
 
|当代 = [[第1次中曽根内閣|71]]・[[第2次中曽根内閣|72]]・[[第3次中曽根内閣|73]]
 
|在任期間 = 1982年 - 1987年
 
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2019/4/27/ (土) 10:26時点における最新版

中曽根 康弘(なかそね やすひろ、1918年大正7年)5月27日 - )

政治家。東京大学を卒業。内務省に入る。海軍に入隊,復員後警視庁に勤務し,1947年に衆議院議員に当選。以来当選 20回 (2003) 。自由民主党では河野派に属し,1959年科学技術庁長官となる。河野一郎の死後,河野派の大半を継承。 1966年中曽根派を形成,佐藤政権の運輸大臣,防衛庁長官,党総務会長,田中内閣の通産大臣を歴任。三木政権下では党幹事長となった。 1977年福田政権下の党総務会長。 1982年 11月,自民党総裁,内閣総理大臣となる。内政面では行政改革や緊縮財政,3公社の民営化を進めた反面,民間活力の導入と規制緩和が地価の暴騰をもたらした。外交では「西側陣営の一員」の姿勢をアピールし,防衛費の対国民総生産 GNP比率1%枠を突破。また靖国公式参拝を行なった。 1986年の衆参ダブル選挙では自民党に 300議席をこえる記録的勝利をもたらしたが,選挙公約を破り,売上税の導入をはかって国民の不信を買い,1987年退陣。 1989年リクルート事件に関与し国会証人喚問を受けた。 2003年,政界を引退した。



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