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|一宮    = [[新田神社 (薩摩川内市)|新田神社]](鹿児島県薩摩川内市)<br/>[[枚聞神社]](鹿児島県[[指宿市]])
 
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'''薩摩国'''(さつまのくに)は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[西海道]]に属する。
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'''薩摩国'''(さつまのくに)
 
 
== 沿革 ==
 
[[大宝 (日本)|大宝]]2年([[702年]])8月1日の薩摩・[[多禰国|多褹]]叛乱を契機に、10月3日までに'''唱更'''国(はやひとのくに)が置かれたのが、薩摩国の始まりである<ref>『続日本紀』巻第2、大宝2年8月丙申(1日)条、10月丁酉(3日)条。新日本古典文学大系『続日本紀』一の58-61頁。</ref>。唱更の更は、中国の[[漢]]代に兵役についている者を更卒と呼んだことに由来し、唱更は辺境の守備にあたることをいう<ref>新日本古典文学大系『続日本紀』一の345頁、補注2の157。</ref>。
 
 
 
国名は、大宝4年([[704年]])に全国の[[国印]]を鋳造したときまでに'''薩麻'''国に改められた<ref>鎌田元一「律令制国名表記の成立」、『律令公民制の研究』、塙書房、2001年。</ref>。[[8世紀]]半ば以降の不明な時点に薩摩国に改称した。
 
 
 
7世紀末の段階で南九州に(全てではなく、飛び石的に)[[評]]が設置されていた。それは、文武天皇3年([[699年]])南九州や九州西部の島嶼部の人々が、覓国使(べっこくし)を侮辱するという事件が起こった時、衣評督である衣君県も加わっていた。
 
 
 
=== 近世以降の沿革 ===
 
* 「[[旧高旧領取調帳]]」の記載によると、[[明治]]初年時点では全域が'''[[鹿児島藩]]'''領であった。(307村・319,146石余)
 
** [[伊佐郡]](49村・51,340石余)、[[薩摩郡]](29村・38,647石余)、[[日置郡]](50村・46,562石余)、[[谿山郡]](8村・12,577石余)、[[揖宿郡]](11村・12,893石余)、[[頴娃郡]](8村・10,875石余)、[[鹿児島郡]](25村・27,368石余)、[[給黎郡]](8村・9,634石余)、[[甑島郡]](14村・3,508石余)、[[阿多郡]](20村・18,211石余)、[[川辺郡 (鹿児島県)|川辺郡]](36村・30,444石余)、[[高城郡 (鹿児島県)|高城郡]](11村・12,657石余)、[[出水郡]](38村・44,424石余)
 
* 明治4年[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により'''[[鹿児島県]]'''の管轄となる。
 
* 明治30年([[1897年]])[[4月1日]]
 
** [[北伊佐郡]]・[[大隅国]][[菱刈郡]]の区域をもって[[伊佐郡]]が発足。旧・菱刈郡域が薩摩国の所属となる。
 
** [[川辺郡 (鹿児島県)|川辺郡]]のうち川辺郡十島([[硫黄島 (鹿児島県)|硫黄島]]、[[黒島 (鹿児島県)|黒島]]、[[竹島 (鹿児島県)|竹島]]、[[口之島]]、[[臥蛇島]]、[[平島 (鹿児島県)|平島]]、[[中之島 (鹿児島県)|中之島]]、[[悪石島]]、[[諏訪之瀬島]]、[[宝島 (鹿児島県)|宝島]])の所属郡が[[大島郡 (鹿児島県)|大島郡]]に変更。大隅国の所属となる。
 
 
 
== 国内の施設 ==
 
=== 国府 ===
 
国府は、『[[和名抄]]』、『[[色葉字類抄]]』、『[[拾芥抄]]』、易林本の『[[節用集]]』、いずれも記載がない。
 
 
 
現在の[[薩摩川内市]]の大園、石走島の近辺と推定される。初期の調査は、国府の域内にある[[鹿児島県立川内高等学校|川内高校]]の平田信芳教諭と郷土史研究クラブの生徒によってなされ、[[1964年]]([[昭和]]39年)にこの高校が関連[[遺跡]]を発見した。[[国衙]]の遺跡はまだ見つかっていない。
 
 
 
=== 国分寺・国分尼寺 ===
 
; [[薩摩国分寺]]跡
 
: [[薩摩川内市]][[国分寺町 (薩摩川内市)|国分寺町]]。
 
 
 
=== 神社 ===
 
; [[延喜式内社]]
 
: 『[[延喜式神名帳]]』には、以下に示す小社2座2社が記載されている。大社はない。
 
* [[頴娃郡]] [[枚聞神社]] ([[指宿市]])
 
* [[出水郡]] [[加紫久利神社]] ([[出水市]])
 
 
 
; [[総社]]・[[一宮]]
 
* 総社 不詳 - 新田神社境外末社の九楼守公神社とする説がある。
 
* 一宮 '''[[新田神社 (薩摩川内市)|新田神社]]''' (薩摩川内市) - 式外社。国府の近くにあった。
 
: 元々の一宮は[[枚聞神社]]であった。鎌倉時代ごろから、新田神社が擡頭して枚聞神社と一宮の座を争うようになり、鎌倉時代末から南北朝時代のころに[[守護]]の[[島津氏]]の力を背景に新田神社が一宮となった。明治時代に定められた[[近代社格制度|社格]]も新田神社の方が上になっている。
 
二宮は不詳であるが、加紫久利神社が二宮とされることがある。三宮以下は存在しない。
 
 
 
=== 安国寺利生塔 ===
 
* 安国寺跡 - 鹿児島県薩摩川内市[[中郷 (薩摩川内市)|中郷町]]。
 
* 安國寺 - 鹿児島県薩摩川内市中郷町。
 
 
 
== 地域 ==
 
 
 
現在は[[桜島]]を除く[[鹿児島市]]、[[指宿市]]全域、[[枕崎市]]全域、[[南九州市]]全域、[[南さつま市]]全域、[[日置市]]全域、[[いちき串木野市]]全域、[[薩摩川内市]]全域、[[さつま町]]全域、[[阿久根市]]全域、[[出水市]]全域、[[長島町]]全域、旧[[菱刈町]]と旧[[西太良村]]を除く[[伊佐市]]、[[三島村]]、[[十島村]]が含まれる。人口の過半数が鹿児島市に集中している。
 
 
 
=== 郡 ===
 
高城郡には薩摩[[国府]]が置かれ、その北の出水郡とともに[[肥後国]]から計画的に植民が進められ、隼人に対する中央政府の最前線となっていた。[[養老]]4年(720年)の[[大隅国]]での[[隼人の反乱]]に際しては、これら2郡が補給基地となった。[[天平]]8年([[735年]])の『薩摩国正税帳』では「出水・高城のほかに隼人十一郡」とされ、下記の14郡のうち[[伊佐郡]]を除いた13郡があり、前2郡の他は[[隼人]]が治めていたことが分かる。その約200年後の[[10世紀]]の『和名抄』によると、薩摩国は13郡・35郷から構成されていた。なお、[[近世]]初頭に伊佐郡が成立し、薩摩国は14郡となった。
 
 
 
*[[出水郡]]
 
*[[高城郡 (鹿児島県)|高城郡]]
 
*[[薩摩郡]]
 
*[[伊佐郡]]
 
*[[甑島郡]]
 
*[[日置郡]]
 
*[[伊作郡]](後に阿多郡と統合)
 
*[[阿多郡]]
 
*[[谿山郡]]
 
*[[川辺郡 (鹿児島県)|河辺郡]]
 
*[[給黎郡]]
 
*[[揖宿郡]]
 
*[[頴娃郡]]
 
*[[鹿児島郡]]
 
 
 
=== 江戸時代の藩 ===
 
*[[薩摩藩]]、[[島津氏|島津家]](77万石)
 
 
 
== 人物 ==
 
=== 国司 ===
 
{{main|薩摩国司}}
 
 
 
=== 守護 ===
 
==== 鎌倉幕府 ====
 
*1197年 - 1227年:[[島津忠久]]
 
*1227年 - 1265年:[[島津忠時]]
 
*1265年 - 1281年:[[島津久経]]
 
*1281年 - 1318年:[[島津忠宗]]
 
*1318年 - 1333年:[[島津貞久]]
 
 
 
==== 室町幕府 ====
 
*1333年 - 1363年:[[島津貞久]]
 
*1336年 - 1342年:[[阿蘇惟時]]
 
*1363年 - 1366年:[[島津師久]]
 
*1366年 - 1376年:[[島津伊久]]
 
*1376年 - {{0}}{{0}}?{{0}}{{0}}:[[今川貞世]]
 
*1393年 - 1411年:[[島津元久]]
 
*1411年 - 1425年:[[島津久豊]]
 
*1425年 - 1470年:[[島津忠国]]
 
*1470年 - 1474年:[[島津立久]]
 
*1474年 - 1507年:[[島津忠昌]]
 
*1507年 - 1515年:[[島津忠治]]
 
*1515年 - 1519年:[[島津忠隆]]
 
*1519年 - 1527年:[[島津勝久]]
 
*1527年 - 1566年:[[島津貴久]]
 
*1566年 - 1602年:[[島津義久]]
 
 
 
=== 戦国大名 ===
 
*[[島津氏]]
 
 
 
== 薩摩国の合戦 ==
 
{| class="wikitable"
 
!年
 
!合戦
 
!交戦勢力
 
|-
 
|[[養老]]4{{smaller|〜}}5年{{smaller| (720–21)}}
 
|[[隼人の反乱]]
 
|[[隼人|ハヤト族]] &nbsp;vs. &nbsp;[[ヤマト王権]]
 
|-
 
|[[長徳]]3年{{smaller| (997)}}
 
|[[新羅の入寇#長徳の入寇|長徳の入寇]]
 
|南蛮人{{smaller|(高麗国人?奄美島人?)}} vs. &nbsp;九州全域の沿岸住民
 
|-
 
|[[応永]]20年{{smaller| (1413)}}
 
|[[伊集院頼久の乱]]
 
|[[島津久豊]] &nbsp;vs. &nbsp;[[伊集院頼久]]
 
|-
 
|[[天正]]15年{{smaller| (1587)}}
 
|[[九州征伐#薩摩の戦い|平佐城の戦い]]
 
|[[島津氏]] &nbsp;vs. &nbsp;[[豊臣政権]]
 
|-
 
|[[文久]]3年{{smaller| (1863)}}
 
|[[薩英戦争]]
 
|薩摩藩 &nbsp;vs. &nbsp;[[イギリス]]
 
|-
 
|[[明治]]10年{{smaller| (1877)}}
 
|[[西南戦争]]
 
|[[士族反乱|不平士族]] &nbsp;vs. &nbsp;[[明治政府]]
 
|}
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
<references />
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* [[青木和夫]]・[[稲岡耕二]]・[[笹山晴生]]・[[白藤禮幸]]校注『[[続日本紀]]』一(新日本古典文学大系12)、岩波書店、1989年。
 
* [[角川日本地名大辞典]] 46 鹿児島県
 
* [http://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース]
 
  
== 関連項目 ==
+
現在の鹿児島県西半部の薩摩半島を中心に甑 (こしき) 島列島を含む旧国。[[西海道]]の一国。中国。もと熊襲 (くまそ) 国,日向 (ひむか) 国のなかにあり,「記紀」にみえる吾田 (あた) の地があった。『続日本紀』には唱更 (はやひと) 国とあり,いまの薩摩国なりとある。薩摩隼人がこれである。和銅2 (709) 年には『続日本紀』に,薩摩,多ね (たね) の両国とあるので互いに独立した一国であったことが知られる。『旧事本紀』には薩摩国造がみえ,天平 18 (746) 年の『薩摩国正税帳』には薩摩君が郡司として記されている。『延喜式』には出水 (いつみ) ,高城 (たかき) ,薩摩,甑嶋,日置,伊作,阿多,河辺,頴娃(えの) ,揖宿 (いふすき) ,給黎 (きひれ) ,谿山 (たにやま) ,麑嶋の 13郡があり,『和名抄』には郷 34が載せられている。国府,国分寺は薩摩川内市に置かれた。律令制下,最遠国の一つとして奈良時代には班田制は施行されず,延暦 19 (800) 年にいたって初めて施行されている。平安時代中期以降には,近衛家を領家とする島津荘が成立し,その下司 (げし) として[[島氏]]が台頭した。鎌倉時代に[[島津忠久]]が源頼朝の御家人となり島津荘地頭職 (じとうしき) を安堵された。かくて島津氏は鎌倉,室町時代を通じて薩摩国のほかに日向国,大隅国の3国の守護を兼ね,天正 15 (1587) 年豊臣秀吉に攻められ降伏したが旧領3国は安堵され,江戸時代には 77万石の大名として幕末に及び長州藩と結んで討幕の中心的存在となった。明治4 (1871) 年の廃藩置県で鹿児島県となった。
{{Commonscat|Satsuma Province}}
+
{{Wiktionary|薩摩国}}
 
* [[令制国一覧]]
 
* [[三国名勝図会]]
 
* [[薩摩焼]]
 
* [[サツマイモ]]
 
  
 
{{令制国一覧}}
 
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{{薩摩国の郡}}
 
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 +
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[[Category:日本の旧国名]]
 
[[Category:日本の旧国名]]

2018/10/19/ (金) 00:26時点における版


薩摩国(さつまのくに)

現在の鹿児島県西半部の薩摩半島を中心に甑 (こしき) 島列島を含む旧国。西海道の一国。中国。もと熊襲 (くまそ) 国,日向 (ひむか) 国のなかにあり,「記紀」にみえる吾田 (あた) の地があった。『続日本紀』には唱更 (はやひと) 国とあり,いまの薩摩国なりとある。薩摩隼人がこれである。和銅2 (709) 年には『続日本紀』に,薩摩,多ね (たね) の両国とあるので互いに独立した一国であったことが知られる。『旧事本紀』には薩摩国造がみえ,天平 18 (746) 年の『薩摩国正税帳』には薩摩君が郡司として記されている。『延喜式』には出水 (いつみ) ,高城 (たかき) ,薩摩,甑嶋,日置,伊作,阿多,河辺,頴娃(えの) ,揖宿 (いふすき) ,給黎 (きひれ) ,谿山 (たにやま) ,麑嶋の 13郡があり,『和名抄』には郷 34が載せられている。国府,国分寺は薩摩川内市に置かれた。律令制下,最遠国の一つとして奈良時代には班田制は施行されず,延暦 19 (800) 年にいたって初めて施行されている。平安時代中期以降には,近衛家を領家とする島津荘が成立し,その下司 (げし) として島氏が台頭した。鎌倉時代に島津忠久が源頼朝の御家人となり島津荘地頭職 (じとうしき) を安堵された。かくて島津氏は鎌倉,室町時代を通じて薩摩国のほかに日向国,大隅国の3国の守護を兼ね,天正 15 (1587) 年豊臣秀吉に攻められ降伏したが旧領3国は安堵され,江戸時代には 77万石の大名として幕末に及び長州藩と結んで討幕の中心的存在となった。明治4 (1871) 年の廃藩置県で鹿児島県となった。





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