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|死没地 = 兵庫県[[西宮市]]
 
|死没地 = 兵庫県[[西宮市]]
 
|出身校 = 旧制兵庫県神戸市立楠木高等小学校<br />(後の神戸市立湊川多聞小学校)
 
|出身校 = 旧制兵庫県神戸市立楠木高等小学校<br />(後の神戸市立湊川多聞小学校)
|所属政党 = ([[第二院クラブ]]→)<br />([[革新自由連合]]→)<br />([[民社党|民社党・国民連合]]→)<br />[[無所属]]
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|称号・勲章 =  
 
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|配偶者 =  
 
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|ウェブサイト = http://www.yokoyamaknock.jp/index.htm  
 
|ウェブサイト = http://www.yokoyamaknock.jp/index.htm  
 
|サイトタイトル = ノックのあたま(横山ノックの公式ホームページ)
 
|サイトタイトル = ノックのあたま(横山ノックの公式ホームページ)
|国旗 = 大阪府
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|国旗 =  
|職名 = 第48-49代 [[都道府県知事|大阪府知事]]
 
|当選回数 = 2回
 
|就任日 = [[1995年]][[4月23日]]
 
|退任日 = [[1999年]][[12月22日]]
 
|退任理由 = 選挙運動中の強制わいせつ事件で起訴され引責
 
|国旗2 = JPN
 
|職名2 = [[参議院議員]](2・3・4期目)
 
|選挙区2 = ([[全国区]]→)<br />[[大阪府選挙区]]
 
|当選回数2 = 3回
 
|就任日2 = [[1977年]][[7月11日]]
 
|退任日2 = 1995年[[3月25日]]
 
|退任理由2 = [[第13回大阪府知事選挙]]に出馬し自動失職
 
|国旗3 = JPN
 
|職名3 = 参議院議員(1期目)
 
|選挙区3 = 全国区
 
|当選回数3 = 1回
 
|就任日3 = [[1968年]][[7月8日]]
 
|退任日3 = 1974年[[7月7日]]
 
 
|退任理由3 =  
 
|退任理由3 =  
 
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| その他 =  
 
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'''横山 ノック'''(よこやま ノック、本名 '''山田 勇'''(やまだ いさむ)、[[1932年]][[1月30日]] - [[2007年]][[5月3日]])は、[[お笑いタレント]]、元[[参議院議員]]、元[[都道府県知事|大阪府知事]]。[[兵庫県]][[神戸市]][[生田区]][[相生町 (神戸市)|相生町]]生まれ。[[ABO式血液型|血液型]]はO型。3人兄弟の長男(弟2人)。愛称は「ピッカリくん」「タコ小僧」「明石のタコ」「ノック先生」。[[立川談志]]一門でもあり、「立川禿談次」という高座名も持つ。個人事務所のやまだ真企画に所属していた。トレードマークは、[[日本電信電話公社|電電公社]]の[[マーク]]。
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'''横山 ノック'''(よこやま ノック、本名 '''山田 勇'''(やまだ いさむ)、[[1932年]][[1月30日]] - [[2007年]][[5月3日]]
  
== 来歴 ==
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昭和後期-平成時代のタレント,政治家。
1932年1月30日午前5時27分、[[兵庫県]][[神戸市]][[生田区]][[相生町 (神戸市)|相生町]]にて出生し、船員であった父の仕事で生後間も無く神戸(兵庫区)へ引越し。<!--公式サイトのプロフィールの内容と異なっています。コメントアウトを取る場合はそれなりの出典を提示してください。パペぽテレビで語っております。-->学歴は神戸市立楠木高等小学校卒業の[[義務教育]]のみを卒業した政治家であった。[[高等小学校]]卒業後に[[アメリカ合衆国軍|米軍]]施設に勤務しており、本名をもじった「サミー」と呼ばれていた。
 
  
=== 若手時代 ===
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昭和7年1月30日生まれ。昭和31年宝塚新芸座にはいる。翌年上方演芸にうつり秋田Kスケの名で秋田Oスケと漫才コンビをくむ。34年横山ノックの名で漫画トリオを結成,人気をあつめた。43年参議院議員(当選4回)。以後タレントと政治家の両面で活躍。平成7年大阪府知事に当選,11年再選されたが,同年強制わいせつ事件で辞職。平成19年5月3日死去。75歳。兵庫県出身。
[[1955年]]に宝塚新芸座に入団すると共に[[秋田Aスケ・Bスケ]]の2代目Bスケに弟子入りし、'''三田久'''として初舞台を踏む。その後、兄弟子のOスケ(のちの[[平和ラッパ・日佐丸]]の三代目平和日佐丸)と'''秋田Kスケ'''の名で漫才コンビ「秋田Oスケ・Kスケ」を結成。[[京都府|京都]][[新京極]]・[[富貴 (寄席)|富貴]]で初舞台。[[1958年]]に[[松竹芸能]]に移籍<ref>また、この年に結婚もしている</ref>。だが、Kスケに水面下で[[大宝芸能]]への移籍話が持ち上がり、松竹芸能に残留したOスケと袂を分かつことになる。このころの芸風はどたばた系のOスケがKスケをどつく「どつき漫才」であった。
 
 
 
=== 「横山ノック」誕生 ===
 
大宝に移籍後しばらくは秋田Kスケの名で活動していたが、[[亭号]]を返上し、再び'''三田久'''の名で活動する。その後、友人であり「[[HEP|北野劇場]]」に出演していた縁もあり[[関西テレビ放送|関西テレビ]][[プロデューサー]]・石田正治を介して彼の実父・[[横山エンタツ]]に再入門、Oスケ・Kスケを逆様にしたKOつまりノックアウト(Knockout)に由来した'''横山ノック'''の名で漫才コンビ「横山ノック・アウト」を結成したが、しばらくして解散した。
 
 
 
この頃に長女が誕生している。
 
 
 
[[1960年]]、'''小林龍太郎'''(後の[[上岡龍太郎]])と小林が紹介した田川元祥&リズムワゴンボーイズのドラマー・'''轟盛次'''(漫才師、[[轟一蝶・美代子]]の一蝶の長男)を誘って'''[[漫画トリオ]]'''を結成した。轟は'''横山フック'''、小林は'''横山パンチ'''と名乗らせた。しゃべくりだけの'''トリオ漫才'''と'''ニュース漫才'''は当時非常に斬新で話題となり、好評を博す。(後述)
 
 
 
漫画トリオ結成当初は[[吉本興業]]に所属していたが、後に個人事務所の'''京都芸能プロダクション'''(通称:京芸プロ)を設立し、東京[[新宿]]の[[新宿松竹文化演芸場|松竹文化演芸場]]にも連続出演。同演芸場のレギュラーだった[[立川談志]](当時・[[柳家小ゑん]])と兄弟分になる。吉本からの独立時に出された条件は「独立後も月に10日間は(吉本が運営する)花月の舞台に客演として出演し続けること」であったと言われ、当時としては珍しい円満退社であったとされている。
 
 
 
[[1963年]]、フックが離脱(事実上の解任)し[[白木みのる]]の付き人をしていた'''小島あきら'''(後の[[青芝フック]])を2代目に迎え入れた。
 
 
 
==== 漫画トリオ ====
 
ノックがボケ、フックとパンチがツッコミ。それまでのトリオ漫才は、[[かしまし娘]]、[[フラワーショウ]]、[[ちゃっきり娘]]、[[三人奴]]、[[宮川左近ショー]]などのように楽器を用いた音曲漫才だけであったが、ノックが「トリオで正統漫才をやりたい」とこだわって編み出した。
 
 
 
ノックはツッコミのセンスも高く、フックやパンチに対しても、ツッコミの指導を行うなどした。
 
 
 
[[レツゴー三匹]]と並び称されるところがあるが、レツゴー三匹が正児とじゅんの正統漫才に長作が歌や合いの手を入れるのと違い、あくまでも3人がタイミングよくネタをまわし続け、休む人物が基本的に発生しない。
 
 
 
例)ノック「今日」パンチ「君(ノック)んとこ行ったけど」フック「おらなんだ」
 
 
 
ノックが米軍に勤務し、パンチがジャズ喫茶に出入りしていたことからテンポを重視する傾向があったものと思われる(フックが代替わりしたのも、初代がノックの理想のテンポについていけなかったからである)。また、ノックがコンビ別れを繰り返し、今のスタイルではだめだ、と考え、新しいスタイルを模索していたことも遠因である。
 
 
 
ネタ自身もその影響が濃く、洋楽や米軍式行進なども取り入れていた。時事ネタも、そのノックの提唱した「新しいスタイル」の一環である。ネタはまず、パンチが左手、フックが右手を斜め上に差し出し、(3人で)「パンパカパーン、パンパンパ、パンパカパン」「今週のハイライト」というブリッジを言って始まる。なお、このブリッジの「パンパカパーン、パンパンパ、パンパカパン」は、フックがバンドマンだった頃に気に入っていた曲の一節だった。「ハイライト」は吸っていたタバコの銘柄からきている。このニュースネタ収集のため各種のニュースに触れていった結果、ノックは政治家への転身を考えるようになる。なお、このネタは旧うめだ花月に近所にあった喫茶店「アメリカン」で3人で考えた。
 
 
 
当時のノックはすでに禿げ上がっていたが、後頭部からヘアピンを使って[[ナポレオン1世]]のようなピンカールを付けていた。ところがある時、海外公演があり飛行機に乗ることになったため、探知機に引っかからないようヘアピンを外しピンカールかつらを付けることになった。帰国後、それを忘れていたパンチが「ええかげんにせぇ!」といつものように突っ込むとピンカールが観客めがけて飛んでいき、観客は悲鳴を上げた。なお、このピンカールは、ノック・上岡龍太郎司会のトーク番組「[[ノックは無用!]]」([[関西テレビ放送|関西テレビ]])1975年3月31日分において『断髪式』が執り行われ、「この髪形でお金儲けさせてもらったお礼も込めて」とそのまま局舎近所の[[堀川戎神社]]へ奉納された。
 
 
 
=== 漫才トリオ解散・参議院議員に ===
 
[[1968年]]に漫才トリオを解散し、[[参議院議員通常選挙]][[全国区]]に[[無所属]]で立候補し当選。以後は[[参議院議員]]としては分かりやすい[[政治]]の広報として、また、タレント業も継続し、『[[ノックは無用!]]』などのトボケ司会、上方漫才での大御所「先生」の称号を得るようになりながらも、相変わらず(後輩芸人からも)激しい突っ込みにさらされる親しみやすさで人気を博した。歌手としても [[1976年]]にレコード『ガンバレ! たこやきちゃん』を発売、関西を中心にヒットした<ref>『思い出のバカレコード大全』オークラ出版、2017年、108頁。ISBN 978-4-7755-2699-6。</ref>。参議院議員は全国区2回(1968年・1977年)、[[大阪府選挙区]]で2回(1983年・1989年)の当選を重ねた(1974年は全国区立候補も落選)。院内では[[第二院クラブ]]、[[民社党]]・国民連合に属した。
 
 
 
=== 参議院議員辞職、大阪府知事へ ===
 
[[1995年]]に参議院議員を辞職した後、[[政党]]に頼らない「'''無党派'''」であることを旗印にし、[[都道府県知事|大阪府知事]]に当選する<ref>同日、参院議員時代から付き合いのあった[[青島幸男]]が、同じく[[無党派]]を掲げて[[東京都知事]]に当選した。</ref>。当初は知事就任後もそれまで出演していたレギュラー番組に復帰するなどタレント活動を続けるつもりであったが、公務が多忙なことや、タレント活動を並行して行うことに府民から反発があったこともあり、ほんの一部を除いてタレント活動を封印し、大阪府の赤字解消を目標に掲げて施策を行った。一期目就任当初は[[大阪府議会|議会]]のほとんどが[[野党]]という[[オール野党]]状態ではあったが、同年[[8月30日]]には当時[[不良債権]]が大幅に膨らんで事実上死に体であった[[木津信用組合]]に対して[[業務改善命令|業務停止命令]]を発し、また行政改革への積極的な取り組みなど、一定の実績は積み上げていった。
 
 
 
元々の芸人としての知名度と愛着の持たれるキャラクターから府民の人気は高く、加えて[[アジア太平洋経済協力|APEC]]首脳会議の成功など実績も評価されたことで、[[1999年]]の二期目選挙では[[自由民主党 (日本)|自民党]]など主要政党が対立候補の擁立を見送らざるを得ない状況<ref>この時の対立候補は[[日本共産党|共産党]]推薦の候補([[鰺坂真]])のみで[[一騎討ち]]となり、互いの名字・愛称から「[[アジ]]と[[タコ]]の戦い」と言われた。</ref>となり、235万票という大阪新記録の得票によって事実上の[[信任投票]]となる形で当選した。[[芸能人]]としての人気と名声の獲得、学歴のハンディを乗り越えての[[首長]]という公職への就任、このときがノックの人生にとって絶頂期であった。
 
 
 
=== 強制わいせつ事件 ===
 
しかし、選挙活動の際に運動員をしていた女子大学生から、「選挙運動中に下着の中に手をいれられた挙げ句に性器を触られ、当日性交をするために自分の所へ訪れよと命令された」として[[強制わいせつ]]容疑で[[大阪地方検察庁|大阪地検]]特捜部に[[告訴・告発|告訴]]され、また強制わいせつと[[セクシャルハラスメント|セクハラ]]行為で[[民事訴訟]]を起こされた。それに対してノックは「事実無根」と完全否定し、女子大学生を[[虚偽告訴の罪|虚偽告訴]]容疑で逆告訴した。[[上坂冬子]]や[[曾野綾子]]などの一部[[保守]]系文化人は女子大学生側に対し、「胡散臭い」「なぜその場で声をあげなかったのか」と批判した<ref>毎日新聞1999年11月7日掲載「時の風」</ref>。[[裁判]]開始後、ノックは「公務の時間を奪われたくない」という理由で、答弁回避を選択。その一方、法廷外での[[記者会見]]や府議会では女子大学生を非難する発言を繰り返したことで批判を浴び、辞職を求めるデモも起きた。
 
 
 
[[1999年]]12月13日、[[大阪地方裁判所]]は、「原告が、風邪で高熱もあり容易に抵抗できなかった状況下で、被告により自己の腹部から足下を覆うように体に毛布を掛けられた上、約30分間にわたり、被告の右手をズボンや下着の中に差し入れられたり、指で陰部を直接弄ばれたというものであり、右行為態様は執拗かつ悪質である。また、わいせつ行為に及ぶ経過をみると、被告はわざわざ毛布1枚を持って車両を乗り換えるなどわいせつ行為の計画性も窺われるし、わいせつ行為後も、被告は、自らの行為を反省するどころか、原告に対して海外ブランド品を交付することにより事を解決しようとするなど、原告の人格を蔑視する態度を取っている」(カギ括弧内は判決文の引用)としてわいせつ行為を認定した他、横山の逆告訴や法廷外での発言を名誉毀損であると認定し、ノックに女子大学生に対して1100万円(セクハラ訴訟としては過去最高額)の支払いを命じた。その後民事とは別に、12月21日には大阪地方検察庁特別捜査部から強制わいせつ罪で[[在宅起訴]]され、知事を辞職した。[[2000年]]3月に開かれた刑事裁判の[[公判]]では、現場に居合わせた[[運転手]]、[[セキュリティポリス|SP]]が証人として出廷を求められた。ノックは一転して強制わいせつ罪の事実を認め、女子大学生に謝罪した。なお、在宅起訴時、ノックは病院に入院し、心臓の[[手術]]を受けている。刑事裁判の間、次の大阪府知事候補予想として[[西川きよし]]と[[上岡龍太郎]]が挙がった。それに対し、きよしはすぐに否定したが、上岡は各新聞媒体の記者に[[ギャグ]]で立候補の意思を表明するといった出来事があった。
 
 
 
=== 有罪判決・芸能界追放・芸能活動自粛 ===
 
2000年8月、強制わいせつ罪により[[懲役]]1年6か月・[[執行猶予]]3年の有罪判決を受けた。その後、ノックは[[控訴]]せず[[判決 (日本法)|判決]]が確定した。これにより知事としての高額の[[退職金]]の受給資格、そして将来の[[叙勲]]・[[栄典]]など、それまでの人生で築き上げてきた地位と名誉をすべて失うことになる。
 
 
 
判決を受け、当時吉本興業社長だった[[林裕章]]は「二度とあの方には協力しない」とコメントし、ノックとの協力関係を解消した。また[[松竹芸能]]やNHK、在阪民放(準キー局)各局も一様に「協力する意向はない」との考えを示し、[[マスメディア]]([[テレビ|TV]]・[[週刊誌]]など)から強い非難を受けた。[[太田房江]][[都道府県知事|知事]](当時)は「自ら犯したことをしっかり反省し、信頼回復には尚一層の努力をするべきである」とのコメントを行った。このような状況で事実上、芸能界から追放処分となり、TVから姿を消すこととなった。
 
 
 
=== 執行猶予満了後、晩年、そして最期 ===
 
[[2003年]]夏に執行猶予の期間が満了し、芸能活動の再開を模索した。テレビについては同年10月に[[京都放送|KBS京都]]のテレビ番組『[[とっぴもナイト]]』にゲストで出演してもらうという話があったが、各種メディアからの[[バッシング]]や視聴者からの反感が大きかったため、放送が見送られることとなった。その合間に、[[立川談志]]の独演会に[[月亭可朝]]と共に楽屋を訪ね、談志から出演を打診されたものの、結局断っている。[[2004年]][[11月29日]]には復帰を記念してワッハ上方で「なにをいまさら横山ノック~ノックとその仲間たち~」を開催、一門、喜味こいしらが出演、また元相方青芝フック、弟子の[[横山プリン]]の3人で漫画トリオ時代のネタを披露した(客席には元相方の上岡龍太郎の姿もあった)。その後、[[2006年]][[2月18日]]にバラエティ専門チャンネル・[[EXエンタテイメント]]の『ぜんタネ』(司会は上岡龍太郎の弟子の[[ぜんじろう]])にゲストで出演した。また、[[7月]]には[[ラジオ関西]]の番組にも出演したほか、9月には[[生國魂神社]]の「彦八まつり」に参加、観客の前で漫談を披露した。しかしながら、テレビ出演は『ぜんタネ』、舞台は「彦八まつり」が最後となった。
 
 
 
[[2007年]]2月に中咽頭[[ガン]]を患っている事が判明し、弟子たちにもガンに侵されている事を告げた。そして、「横山という亭号・名前を(後世に)残したい」と言い、復帰に向ける意気込みも見せていたが、2007年5月3日7時15分、中咽頭ガンのため兵庫県[[西宮市]]の病院で死去した。{{没年齢|1932|1|30|2007|5|3}}。当時の太田府知事は「突然の訃報に大変驚いている。知事在任中には行財政改革の推進などに力を尽くされ、府政の十年にわたる改革の礎をつくられた。今はただご冥福をお祈りする」とノックの知事時代の功績を称えるコメントを行った。ただ、大阪府はノックに対して強制わいせつ罪の有罪確定により退職金の分割返納を命じており、ノック自身は1期目の退職金を完済していなかったため、遺族に約3年分の残額の返納を要求する姿勢を見せた<!-- その後、どうなったか続報知っている方、加筆お願いします。 -->。死去から一ヶ月たった[[6月7日]]、後輩芸人など有志によって「横山ノックを天国へ送る会」が大阪の[[リーガロイヤルホテル]]で開催され、発起人の一人である上岡龍太郎は「横山パンチ」名義でお別れの会に出席し、献杯の挨拶では「ノックさん、あなたは僕の太陽でした。本当に有難う御座いました」と、笑いを交えながらもスピーチし、遺影に向かって涙声で別れを告げた。司会は『ノックは無用!』でノックの選挙期間中に代理司会を務めた[[桑原征平]]が務め、息子の一貴の長男(横山の孫、当時8歳)が「横山タコ」という名義で「タコチュ」というギャグを披露した。
 
 
 
== 公的場面での通名(芸名)使用について ==
 
[[国会議員]]は[[行政機関]]の一員ではないため通名使用が認められている。しかし、当時の[[参議院]]では本名使用に限っていたので、「山田勇」名義であった。[[都道府県知事]]は行政機関の一員であるため、公文書等では責任明確化の観点から通名の使用は認められない為、対外的に法的効果を有する文書等には本名の山田勇が用いられた。これは後任の[[太田房江]](現姓は齊藤房江)も同じであり、大阪府では2008年に[[橋下徹]]が知事に就任するまで13年にわたり、公務において本名と通名を使い分ける知事が続くこととなった。また、[[全国知事会]]ウェブサイト上の歴代大阪府知事一覧の名義は横山ノックではなく、本名の山田勇で掲載されている<ref>太田房江も本名の齊藤で掲載されている一方、千葉県知事の[[森田健作]](本名は鈴木栄治)は芸名の森田で掲載されている。</ref>。
 
 
 
== エピソード ==
 
[[島田紳助]]と[[板東英二]]が株式投資の相談をしていた時に、そこを通りがかったノックは「[[養命酒]]、いけるぞー!!」と二人に声を掛けた。早速、板東と紳助は[[養命酒製造]]株式会社の株式を購入したが、養命酒の株価は下落して、結果的に投資は失敗した。後日、紳助が「養命酒(の株を買ったが失敗したので)でエライ目(酷い目)にあいましたよ、養命酒(の株)はいいと教えてくれたのはどこの誰ですか?」とノックに言ったが、ノックは「身体に一番いいんだ!」と返答した。ノックは、ただ「薬味酒の養命酒が健康に良い」と言ったつもりだった<ref>[http://www.asagei.com/12179 板東英二「紳助の金庫番」裏所業 (2)「横山ノックの情報で大損」アサ芸+]</ref>。
 
 
 
== 出演番組 ==
 
<!-- 単発のゲスト出演は不要。レギュラー番組のみ記述をお願いします。「Wikipedia:ウィキプロジェクト 芸能人」参照 -->
 
* [[MBSテレビ|毎日放送]]([[Japan News Network|JNN]]系列)
 
** [[イカにもスミにも]]
 
** [[毎日放送開局40周年記念特別番組]] (ラジオ特番での出演)
 
** [[新伍Niタッチ!]]
 
** [[大正テレビ寄席]] ([[テレビ朝日|NETテレビ]] 放送していた当時毎日放送はNET系列)
 
** [[宇宙大爆笑]] ([[テレビ朝日|NETテレビ]] 放送していた当時毎日放送はNET系列)
 
** [[オールスター感謝祭]] ([[TBSテレビ|TBS]] 1991年秋~1994年秋ほか。解答者。司会の[[島田紳助]]から『'''ピッカリくん'''』と呼ばれた)
 
** [[ラジオはコミュニケーション「KANSAI 24時今日…明日」]] ([[MBSラジオ]])
 
* [[朝日放送テレビ|朝日放送]]([[All-nippon News Network|ANN]]系列)
 
** [[シャボン玉寄席]]
 
** [[ラブアタック!]]
 
** [[晴れ時々たかじん]]
 
** [[クイズ仕事人]]
 
** [[探偵!ナイトスクープ]]
 
** [[京都マル秘指令 ザ新選組]]
 
** [[文珍なぞなぞランド]]
 
** [[ポップ対歌謡曲]]([[朝日放送ラジオ|ABCラジオ]])
 
** [[歌謡大全集]] (ABCラジオ 1992年度)
 
** [[てなもんや三度笠]] (放送していた当時は[[TBSテレビ|TBS]]系列)
 
** ハイヒールのどんなんかな予備校
 
** サントリーミステリースペシャル・運命交響曲殺人事件
 
** 「養子探偵団 人妻ヌードモデルの秘密 雲の中の証人(村上波雄 役)」(1986年12月20日、ABC)
 
* [[関西テレビ放送|関西テレビ]]([[フジネットワーク|FNS]]系列)
 
** [[ノックは無用!]]
 
** [[痛快!エブリデイ]](月曜、府知事に立候補後は出演を控えていた。2007年[[5月7日]]追悼特集が番組内で放送される)
 
** [[ノンストップゲーム]]
 
** [[花の新婚!カンピューター作戦]]
 
** [[三枝の愛ラブ!爆笑クリニック]]
 
** [[新春かくし芸大会]] (フジテレビ 第31回に出演)
 
* [[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]([[日本テレビネットワーク協議会|NNS]]系列)
 
** [[スターもびっくり ものまね大行進]](司会)
 
** [[パンパカ天国]]
 
** [[2時のワイドショー]]
 
** [[鶴瓶上岡パペポTV]] (ゲスト出演)
 
** [[お昼のワイドショー]] ([[日本テレビ放送網|日本テレビ]])
 
* [[大阪放送|ラジオ大阪]]([[全国ラジオネットワーク|NRN]]系列)
 
** [[歌って笑ってドンドコドン]]
 
 
 
== 関係する人物 ==
 
* [[横山エンタツ]]([[お笑い芸人]]で、ノックの師匠)
 
* ラジオDJでタレントの山田一貴は、長男。
 
 
 
=== かつての相方 ===
 
* 秋田Oスケ 解散後、平和ラッパ(2代目)とコンビを結んで平和日佐丸(3代目)に改名。「[[平和ラッパ・日佐丸|ラッパ・日佐丸]]」の全盛期を築くが、ギャラの配分を巡って紛糾し、コンビを解消。のち、美人漫才師であった夫人とコンビを組むが、夫人が不倫の末駆け落ちして失踪しそのまま心中。これにショックを受け自殺した。1966年以降の演芸ブームに登場した「ラッパ・日佐丸」の日佐丸は4代目である。
 
* 横山アウト 東住吉区出身。巨漢でスポーツマンだったという。コンビを組む前は東映で仕出しをしていたともいわれる。解散後、少し吉本新喜劇にいたが、後に[[千日前]]・[[千日劇場]]の「センニチコメディ」に出演。コメディアンに転身する。千日劇場閉鎖後は[[梅田]][[トップホットシアター]]に出演。「コマ新喜劇」の常連となるが、同演芸場閉鎖と共に引退。息子は東京のコメディアン、田中章([[プリンプリン]])。
 
* 横山フック(初代) 元「田川元祥&リズムワゴン ボーイズのドラマー・轟盛次」。前名は横山青児。解任後、そのまま引退。[[EXテレビ]]での漫画トリオの元メンバーたちのトークによる回想企画で1度きりの出演をしている。娘が[[若井小づえ・みどり]]のみどりに弟子入りし豊間若葉の名で[[杉岡みどり]]と葉緑体という名でコンビを組んだ。
 
* 横山フック(二代目) 解散後青芝フックと改名し、青芝キックと漫才コンビを結成([[青芝フック・キック]])。現在はコンビを解消し、テレビ司会者など単独で活動。※
 
* 横山パンチ のちの[[上岡龍太郎]](上岡龍太郎の項を参照の事)※
 
* 横山ひとり
 
※青芝と上岡はノックの弟子と思われがちであるが、実際は師弟関係ではなく、青芝は横山エンタツ一門の弟弟子。上岡は漫画トリオ結成の時からの仲間である。
 
 
 
=== 弟子 ===
 
* [[横山やすし]]
 
: 死去に際しては「師匠より先に死ぬのは弟子として一番ダメなこと」と嘆き、告別式では「君の芸はとっくに僕を追い越していたよ。やすきよの漫才は漫画トリオをとっくに追い越していたよ。僕が死んだ時は一緒にネタ合わせして漫才をやろう」と弔辞を読んだ。また、2人目の妻、啓子夫人の仲人となったのもノックである。
 
* [[横山プリン]](横山やすしとも一時期コンビを組んでいた)
 
* [[乃木貴寛]]
 
* 旭堂南北
 
* 横山なつ吉
 
* 横山ひとり
 
* 横山ワン・ツー
 
* [[横山アラン・ドロン]]
 
* 横山トク
 
* 横山トンガ(漫才コンビ/横山トンガ・西川シンシ 結成年・解散年不明)後に吉本新喜劇に在籍(後には退団)。
 
* [[バラクーダ (コミックバンド)|岡本圭司]]
 
: 一番弟子の『横山やすし』に続き、[[1960年]]、二番弟子として岡本八(現在、コミックバンド・[[バラクーダ (コミックバンド)|バラクーダ]]のリーダーの岡本圭司)が加わり、横山やすしと10代の漫才コンビを結成するも、ネタ稽古に終わり、実現しなかったが、正式な弟子である。
 
 
 
=== 孫弟子 ===
 
* [[横山たかし・ひろし]]
 
* [[横山ひとし]]
 
* [[高井ギャラ]]
 
 
 
=== 曾孫弟子 ===
 
* 横山まさみ
 
* 横山アッチ
 
* 横山ともや・たきや(たかしの弟子)
 
* [[幸助・福助|福助]](たかし・ひろしの弟子であったが、当時の低迷していた1988年頃にたかし・ひろしが面倒見切れなくなりレツゴー三匹の所に預けられた)
 
 
 
=== 親交のあった人物 ===
 
*[[立川談志]]
 
*[[月亭八方]]
 
*[[秋山たか志]]
 
*[[坂田利夫]]
 
*[[笑福亭鶴瓶]]
 
*[[和田アキ子]]
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 出典 ==
 
* 横山ノック『知事の履歴書―横山ノック一代記』([[太田出版]])
 
* 田中萌子『知事のセクハラ 私の闘い』(2001年、[[角川書店]]、ISBN 4-04-704037-1)
 
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[秋田Aスケ・Bスケ]]
 
*[[青芝フック]](横山フック)
 
*[[上岡龍太郎]](横山パンチ)
 
*[[横山やすし]]
 
*[[タレント政治家]]
 
  
 
== 外部リンク ==
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.yokoyamaknock.jp/index.htm ノックのあたま(横山ノックの公式ホームページ)]
 
* [http://www.yokoyamaknock.jp/index.htm ノックのあたま(横山ノックの公式ホームページ)]
  
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2018/9/27/ (木) 14:23時点における版


横山 ノック(よこやま ノック、本名 山田 勇(やまだ いさむ)、1932年1月30日 - 2007年5月3日

昭和後期-平成時代のタレント,政治家。

昭和7年1月30日生まれ。昭和31年宝塚新芸座にはいる。翌年上方演芸にうつり秋田Kスケの名で秋田Oスケと漫才コンビをくむ。34年横山ノックの名で漫画トリオを結成,人気をあつめた。43年参議院議員(当選4回)。以後タレントと政治家の両面で活躍。平成7年大阪府知事に当選,11年再選されたが,同年強制わいせつ事件で辞職。平成19年5月3日死去。75歳。兵庫県出身。

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