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− | '''後志国'''(しりべしのくに)は、[[大宝律令]]の[[国郡里制]]を踏襲し[[戊辰戦争]]([[箱館戦争]])終結直後に制定された日本の地方区分の[[令制国|国]]の一つである。[[五畿八道]]のうち[[北海道 (令制)]]に含まれた。国名の由来は、[[阿倍比羅夫]]が郡領を置いた後方羊蹄(しりべし)の語音にちなみ、後志国を流れる尻別川のアイヌ語「シリ・ペッ」(山の・川)を採り、音訳して後志としたもの。命名者は[[松浦武四郎]]。[[道南]]から[[道央]]にかけての地域に位置し、現在の[[後志総合振興局]]管内のうち[[虻田郡]]と[[小樽市]]銭函4~5丁目相当区域を除いた大部分と、[[檜山振興局]]管内の[[せたな町]]以北および[[奥尻島]]にあたる。 | + | '''後志国'''(しりべしのくに) |
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− | ==沿革==
| + | 明治二年(一八六九)八月、蝦夷地を北海道と改め、十一ヵ国八十六郡を制定した際建置された国。 |
− | ここでは後志国成立までについても記述する。
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− | 『[[日本書紀]]』によると、[[蝦夷征討]]の行われた[[皇極天皇|斉明天皇]]6年3月[[阿倍比羅夫]]が弊賂弁嶋で[[粛慎 (日本)#斉明朝の粛慎討伐|粛慎]]の砦を陥落させたとあり、この弊賂弁嶋は現在の[[奥尻島]]であるといわれている(粛慎の本拠地、[[樺太]]とする説もある)。[[飛鳥時代]]当時、後志国域においては[[擦文文化]]が盛んであったが、後に[[渡島半島]]を中心とする地域では擦文文化と本州[[土師器]]文化の混合的文化である青苗文化が成立した。この青苗文化を足がかりに、主に[[北東北]]から移住し本州と[[蝦夷]]との交易に携わる[[渡党]]と呼ばれる人々が現れた。渡党の居住地は[[道南]]であったとされ、活動範囲は渡島半島周辺地域にも及んでいた。また、北海道の日本海側には唐子と呼ばれる蝦夷も居住していた。鎌倉時代以降、渡党や唐子は[[蝦夷管領]]の支配下に置かれていた。
| + | 西蝦夷地のうち日本海に面した奥尻・久遠・太櫓・瀬棚・歌棄・島牧・寿都・磯谷・岩内・古宇・積丹・美国・古平・余市・忍路・高島・小樽の十七場所をそのまま郡とし、一括して後志国と呼んだ。 |
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− | [[室町時代]]に入り、[[享徳]]3年に[[松前藩]]祖[[武田信広]]公が久遠郡域に上陸。それから間もない[[康正]]3年、[[長禄]]元年([[応仁の乱]]のちょうど10年前にあたる)に[[コシャマインの戦い]]があり[[余市]]以西の後志国域でも[[和人]]と[[蝦夷]]の争いが繰り広げられた。
| + | 名称は、ほぼその中央の磯谷と岩内との境に注ぐ尻別(しりべつ)川の名をとった。北海道国郡設置の原案作成を命ぜられた開拓判官松浦弘(武四郎)の案による。 |
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− | [[江戸時代]]には、松前藩によって開かれた'''場所'''と呼ばれる[[知行#知行概念の変質|知行地]]において松前藩家臣と蝦夷の人々との交易が盛んに行われ、この当時[[旧下ヨイチ運上家]]をはじめとする運上屋が各地に建てられていた。制度的な詳細は[[地方知行#商場知行制|商場(場所)知行制]]および[[場所請負制]]を参照されたい。場所と後に設置された郡の対応は下記のとおりである。
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− | *クドウ場所・・・後の久遠郡
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− | *オオタ場所・・・後の久遠郡
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− | *ヲコシリ場所・・・後の奥尻郡
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− | *フトロ場所・・・後の太櫓郡
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− | *セタナイ場所・・・後の瀬棚郡
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− | *シマコマキ場所・・・後の島牧郡
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− | *スツツ場所・・・後の寿都郡
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− | *ヲタスツ場所・・・後の歌棄郡
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− | *イソヤ場所・・・後の磯谷郡
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− | *イワナイ場所・・・後の岩内郡
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− | *フルウ場所・・・後の古宇郡
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− | *シャコタン場所・・・後の積丹郡
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− | *ビクニ場所・・・後の美国郡
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− | *フルビラ場所・・・後の古平郡
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− | *ヨイチ場所・・・後の余市郡
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− | *ヲショロ場所・・・後の忍路郡
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− | *タカシマ場所・・・後の高島郡
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− | *ヲタルナイ場所・・・後の小樽郡
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− | 江戸時代から[[明治時代]]初頭にかけての後志国の交通について、陸上交通は[[渡島国]][[爾志郡]]から久遠郡までは道([[北海道道740号北檜山大成線|道道北檜山大成線]]の前身)が通じていたものの、それ以北は太田、茂津多(モツタ)、雷電、[[積丹半島]]などの難所があり陸路が途絶える個所があったが、[[文化 (元号)|文化]]年間に岩内郡と余市郡を結ぶ余市山道([[国道276号]]・[[国道5号]]稲穂峠の前身)が開削され道中の宿場として笹小屋なども設けられた。[[安政]]年間には久遠郡から太櫓郡に至る太田山道、瀬棚郡と島牧郡を結ぶ狩場山道、磯谷・岩内両郡の境の雷電嶺(以上、[[国道229号]]の前身)、小樽郡の小樽-銭函間道路(国道5号の前身)などが開削され、通年の陸路での移動が可能となっている。また、後志国内の河川には藩政時代から[[三県一局時代#廃使置県|廃使置県]]までの間15箇所の渡船場数があり[[渡し船]]なども運行されていた。
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− | 海上交通は[[北前船]]の航路も開かれ寿都・余市・小樽などに寄港していた。
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− | [[江戸時代#江戸時代初期|江戸時代初期]]の[[寛文]]9年6月、[[日高国]]域を中心に和人と[[蝦夷]]([[アイヌ]])の戦い[[シャクシャインの戦い|シャクシャインの蜂起]]がおこり、その平定後、後志国域内の余市でも松前藩と蝦夷の間で恭順の確認が行われた。[[元禄]]元年以降、積丹の[[神威岬]]以北が[[女人禁制]]となる。[[江戸時代#江戸時代後期|江戸時代後期]]の[[文化 (元号)|文化]]4年には、国防上の理由から後志国域は[[天領|公議御料]]([[江戸幕府|幕府]]直轄領)とされた。[[文政]]4年には松前藩の元に戻されたものの、[[安政]]2年再び公議御料となり、久遠から出張[[陣屋]]の築城された寿都郡までが[[弘前藩|津軽藩]]、歌棄郡以北は[[庄内藩]]が警固を担当した。安政6年の6藩分領以降も、大半が津軽藩(瀬棚郡以南)と庄内藩(歌棄郡以北)の警固地(公議御料)のままであったが、島牧・寿都の2郡(場所)は津軽藩領となっていた。同年、神威岬の女人禁制が解かれている。[[幕末]]までに後志国域のほぼ全域が[[和人地]]となっていた。
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− | *[[明治]]2年([[1869年]])8月15日に後志国17郡が制定され、101村が含まれた。同年から[[廃藩置県]]までの間、9郡が道外の[[藩]]や[[旗本]]、寺院などによって分領支配される。
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− | *明治5年([[1872年]])、[[胆振国]][[虻田郡]][[黒松内町|黒松内村]]を移管され寿都郡に編入。
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− | *明治15年([[1882年]])2月8日、[[三県一局時代#廃使置県|廃使置県]]にともない久遠・奥尻・太櫓・瀬棚・寿都・島牧・歌棄・磯谷の8郡は[[函館県]]の、岩内・古宇・美国・積丹・古平・余市・忍路・高島・小樽の9郡は[[札幌県]]の所管となる。
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− | == 国内の施設 ==
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− | ===寺院===
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− | 寺院は、[[室町時代]]の[[文明 (日本)|文明]]元年6月5日に僧[[随芳]]が奥尻郡に松前山[[法源寺 (松前町)|法源寺]]の前身である草庵を建立、これは[[延徳]]2年大館([[渡島国]][[津軽郡 (北海道)|津軽郡]])に移転。[[江戸時代]]になると、[[元和 (日本)|元和]]3年5月に松前山法源寺の[[芳龍]]が奥尻郡(現在の青苗地区)に空谷山[[大仙寺]]を建立したが、これも[[寛文]]7年に[[松前城]]下蔵町に移転している。また江戸時代にはこのほか島牧郡の[[千走寺]]、磯屋郡の[[願翁寺]]、岩内郡の[[帰厚院]]、小樽郡の[[龍徳寺 (小樽市)|龍徳寺]]など多数が建立されている。
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− | ===神社===
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− | 後志国への[[和人]]の進出は古く、太田山神社は室町時代の[[嘉吉]]年間([[1441年|1441]]~[[1443年]])に創立されたと伝えられ、[[道南]]五大霊場のひとつとして信仰を集めている。また、古宇郡の厳島神社は[[安土桃山時代]]の、寿都神社と忍路神社は[[江戸時代]]前期の創建。下記の神社以外にも、江戸時代以前に創建されたものは多い。
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− | 和人の北海道進出の多くは漁業関係者であり、そのため沿岸部に個人的に祭祀した例が多い。特にニシン漁が栄えた地区に大規模の神社が多く、祭礼も盛大であった。[[積丹町]](美国・古平)・[[岩内町]]・[[余市町]]等がその例である。明治になり国策として、伊勢神道系に統一されていったと想定される。
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− | *久遠郡 [[太田山神社]](久遠郡[[せたな町]])
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− | *奥尻郡 [[少彦名神社 (奥尻町)|少彦名神社]](奥尻郡[[奥尻町]])
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− | *寿都郡 [[寿都神社]](寿都郡[[寿都町]])
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− | *岩内郡 [[岩内神社]](岩内郡[[岩内町]])
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− | *古宇郡 [[厳島神社 (神恵内村)|厳島神社]](古宇郡[[神恵内村]])
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− | *積丹郡 [[美国神社]](積丹郡[[積丹町]])[https://web.archive.org/web/20120210015342/http://www.kanko-shakotan.jp/gaido.html]
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− | *余市郡 [[余市神社]](余市郡[[余市町]])
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− | *忍路郡 [[忍路神社]]([[小樽市]])
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− | *高島郡 [[小樽稲荷神社]](小樽市)
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− | 余市神社について、[http://www.hokkaidojinjacho.jp/data/04/04017.html 北海道神社庁のページ]では1827年林長左衛門が伏見稲荷から分霊し湯殿山下に祭祀したと紹介されているが、1828年勧請の伏見稲荷の分霊は[[旧下ヨイチ運上家]]に併設されているモイレ神社である。余市神社は伊勢神道系の神を祭神としており、稲荷系の神は祭られていない。参照文献「余市町史」。余市神社のサイカチの木については口承伝説がある。
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− | == 地域 ==
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− | ===郡===
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− | 後志国は以下の17郡で構成された。
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− | *[[久遠郡]]
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− | *[[奥尻郡]]
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− | *[[太櫓郡]]
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− | *[[瀬棚郡]]
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− | *[[島牧郡]]
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− | *[[寿都郡]]
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− | *[[歌棄郡]]
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− | *[[磯谷郡|磯屋郡]]
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− | *[[岩内郡]]
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− | *[[古宇郡]]
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− | *[[積丹郡]]
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− | *[[美国郡]]
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− | *[[古平郡]]
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− | *[[余市郡]]
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− | *[[忍路郡]]
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− | *[[高島郡 (北海道)|高島郡]]
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− | *[[小樽郡]]
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− | === 江戸時代の藩 ===
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− | *[[松前藩]]領、[[蠣崎氏|松前氏]](1万石各→3万石各)1599年-1807年、1821年-1855年(後志全域)
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− | *[[弘前藩|津軽藩]]寿都陣屋、1859年-1868年(寿都場所・島牧場所)
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− | ;分領支配時の藩
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− | *[[福岡藩]]領、1869年-1871年(久遠郡・奥尻郡)
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− | *[[会津藩#斗南藩|斗南藩]]領、1870年-1871年(太櫓郡・瀬棚郡・歌棄郡)
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− | *[[弘前藩]]領、1869年-1871年(島牧郡西端)
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− | *[[鳥取藩]]領、1869年-1871年(島牧郡西部)
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− | *[[岡山藩]]領、1870年-1871年(島牧郡、鳥取藩領の東隣)
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− | *[[米沢藩]]領、1869年-1871年(磯屋郡北部)
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− | ※以上のほか、分領時には[[兵部省]]領のほか寺社領や[[旗本]]領もあった
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− | ===人口===
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− | [[壬申戸籍|明治5年(1872年)の調査]]における人口は1万9098人で、北海道の中では[[渡島国]]に次いだ。
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− | == 関連項目 ==
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− | {{Commonscat|Shiribeshi Province}}
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− | * [[令制国一覧]]
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− | * [[渡党]]
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− | * [[和人地]]
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− | * [[松前藩]]
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− | * [[箱館奉行#箱館奉行・松前奉行|箱館奉行]]
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− | * [[地方知行#商場知行制|商場(場所)知行制]]
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− | * [[場所請負制]]
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− | * [[北前船]]
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− | * [[旧下ヨイチ運上家]]
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− | * [[ソーラン節]]
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− | * [[北海道の分領支配]]
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− | * [[忍路環状列石]]
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− | * [[フゴッペ洞窟]]
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