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− | {{Infobox Christian leader | + | {{テンプレート:20180815sk}} |
− | |敬称接頭辞=
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− | |名前=セオボールド・エイドリアン・パーム<br>{{lang|en|Theobald Adrian Palm}}
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− | |敬称接尾辞=
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− | |画像=Theobald Adlian Palm.jpg
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− | |画像サイズ=200px
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− | |画像説明=
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− | |別名=
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− | |生年月日={{生年月日と年齢|1848|1|22|死去}}
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− | |出生地={{UK}}、[[イギリス領セイロン]]、[[コロンボ]](現・[[スリランカ|スリランカ民主社会主義共和国]])
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− | |没年月日={{死亡年月日と没年齢|1848|1|22|1929|1|11}}
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− | |死没地={{UK}}[[イングランド]]、[[ケント (イングランド)|ケント州]][[エイレスフォード]]
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− | |墓所={{UK}}
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− | |墓所座標=
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− | |国籍={{UK}}
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− | |宗派=[[キリスト教]][[長老派]]
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− | |居住地=
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− | |両親=父:ジョン、母:ルイザ
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− | |配偶者=メアリ(先妻)<br />イザベル・メアリ・コラス(後妻)
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− | |子供=
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− | |職業=[[宣教師]]、[[医師]]
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− | |専門職=
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− | |出身校=[[エディンバラ大学]]、[[グラスゴー大学]]
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− | |署名=
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− | '''セオボールド・エイドリアン・パーム'''(Theobald Adrian Palm、[[1848年]][[1月22日]] - [[1929年]][[1月11日]])は、日本で活動したオランダ系[[スコットランド人]][[宣教師]]である。また、日本の[[脚気]]や[[クル病]]の報告でも知られる<ref>({{Harvnb|大西|2003|pp=317}})</ref>明治時代は'''パン'''とも表記された。<ref group="注釈">パームは、明治時代の日本での医療行為により「パンの医者」「パンの病院」と言われ市民から慕われた。({{Harvnb|大西|2003|pp=307}})</ref>
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− | == 生涯 ==
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− | === 初期 ===
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− | セオボールド・パームは1848年、[[イギリス領セイロン]](現[[スリランカ]])の首都[[コロンボ]]に、[[オランダ]]系スコットランド人宣教師である父ジョン・パームと母ルイザ・パームの間に生まれた。<ref>({{Harvnb|大西|2003|pp=305}})</ref>
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− | 1870年より、父ジョンがオランダの[[ロッテルダム]]のスコットランド人教会の[[牧師]]になるが、パームは[[エディンバラ医療宣教会]]の寮に寄宿して、宣教師としての訓練を受けながら、1873年に[[エディンバラ大学]][[医学部]]を卒業し、医学士と[[外科]]医学修士を取得した。<ref>({{Harvnb|大西|2003|pp=305}})</ref>
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− | === 来日 ===
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− | [[1873年]](明治6年)7月12日に、同じ頃日本に派遣されるスコットランド一致[[長老派教会]]の宣教師[[ロバート・デイヴィッドスン]]と医療宣教師[[ヘンリー・フォールズ]]と一緒の壮行会に出席した。<ref>({{Harvnb|大西|2003|pp=306}})</ref>
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− | [[1874年]](明治7年)2月12日にメアリと結婚して、3月に日本へ向けて出発、5月15日に[[横浜市|横浜]]に到着する。パームは到着後に[[ジェームス・カーティス・ヘボン|ヘボン]]を訪ね、相談の結果、しばらく[[築地]]に滞在して[[日本語]]を学ぶことになった。[[陶山昶|陶山]](陶山昶)という日本語教師を雇い、水谷宗五郎、哲子というコックを雇った。<ref>({{Harvnb|大西|2003|pp=306}})</ref>
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− | 翌[[1875年]](明治8年)1月16日に長女が誕生するが、1月19日に妻メアリが死去する。そして、1月25日には長女も死去する。
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− | === 新潟宣教 ===
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− | 悲しみから立ち上がり、4月から[[新潟県|新潟]]で医療伝道を開始することになった。<ref group="注釈">[[日米修好通商条約]]で開港された五港([[函館市|函館]]、新潟、横浜、[[神戸市|神戸]]、[[長崎市|長崎]])の中で宣教師がいなかった唯一の港ということで新潟が選ばれた。({{Harvnb|大西|2003|pp=307}})</ref>パームには陶山と水谷夫妻、さらに[[聖公会]]のイギリス人[[ジョン・パイパー]]が同行した。
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− | 4月15日にパーム一行は[[三国峠]]を越えて、21日に新潟入りをした。早速、湊町三丁目に日本家屋を借りて住み、その一部を説教所に当てて、昼は医療活動に従事して、夏ごろから米国[[オランダ改革派]]宣教師[[マーティン・ワイコフ]]の教え子[[雨森信成]]を紹介され、雨森が説教の通訳をした。しかし、新潟の現地人に拉致されて頭痛になった雨森は、3ヶ月で[[ブラウン塾]]に戻ることになった。雨森の代役として、[[日本基督公会]]の青年長老の[[押川方義]]が志願し、1875年12月に到着する。この年の末までに、新潟で日曜礼拝が行われるようになり、1876年まで5人がパームより洗礼を受けた。<ref>({{Harvnb|大西|2003|pp=309}})</ref>
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− | [[1876年]](明治9年)には住居を町の中心部に移し、二軒隣の家を病院兼神学生養成所にした。1877年新年からは、[[佐渡島|佐渡]]、亀田、水原、葛塚、中条、[[新発田市|新発田]]、沼垂、[[長岡市|長岡]]などに、伝道と医療の働きを拡大する。定期的に巡回する伝道出張所の数は10箇所に及んだ。[[1879年]](明治11年)にパームは中条に家を購入して説教所にした。4月には新しい夫人のイザベル・メアリ・コラスと共に中条を巡回した。
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− | [[1880年]](明治13年)までに88名がパームから洗礼を受けた。[[1881年]](明治14年)には会員73人で新潟教会(現[[日本基督教団新潟教会]])を組織した。<ref>({{Harvnb|大西|2003|pp=311}})</ref>
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− | 1880年に8月6日に[[新潟大火]]により診療所が焼失したが、エディンバラ医療宣教会から援助により、南浜通二番町に移転し、病院を建設し、[[パーム病院]]と改称した。この大火のきっかけで、押川方義と[[吉田亀太郎]]が宮城県伝道のために仙台に移動した。<ref>({{Harvnb|大西|2003|pp=312}})</ref>
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− | [[1883年]](明治16年)4月に大阪で[[第二回在日宣教師会議|第二回在日プロテスタント宣教師協議会]]が「現地教会の自給」というテーマで開催された。パームはその会議で「医療伝道の位置」というテーマで講演した。<ref group="注釈">宣教師会議で、医療宣教師の世界中での需要関係から中国やインドへさらに派遣すべきであると主張していた。({{Harvnb|大西|2003|pp=318}})</ref>
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− | その半年後の1883年10月30日に、賜暇休暇のためにイギリスに帰国する。<ref group="注釈">賜暇帰国の後再来日をすることを約束していたが、その約束を果たすことができなかった。({{Harvnb|大西|2003|pp=318}})</ref>
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− | === 晩年 ===
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− | その後、パームはスコットランド各地で医療活動にあたり、[[1929年]](昭和4年)1月11日[[ケント州]][[エイレスフォード]]で死去した。<ref>({{Harvnb|大西|2003|pp=318}})</ref>
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− | ==脚注==
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− | {{脚注ヘルプ}}
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− | {{reflist|group="注釈"}}
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− | ===出典===
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− | {{reflist|2}}
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− | == 参考文献 ==
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− | *{{Citation|和書|year=1988|title=日本キリスト教歴史大事典|publisher=教文館|ISBN=9784764240056}}
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− | **{{Citation|和書|last=五十嵐|first=喜和|author-link=五十嵐喜和|contribution=パーム|title=日本キリスト教歴史大事典|pages=1135}}
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− | *{{citation|和書|last=大西|first=晴樹|author-link=大西晴樹|contribution=パーム|title=長老・改革教会来日宣教師事典|publisher=新教出版社|year=2003|isbn=4-400-22740-5}}
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− | *{{citation|和書|last=守部|first=喜雅|author-link=守部喜雅|title=日本宣教の夜明け|publisher=[[いのちのことば社]]|year=2009|isbn=978-4-264-02638-9}}
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− | {{スコットランド一致長老教会}}
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− | {{明治時代の来日宣教師}}
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− | {{DEFAULTSORT:はあむ せおほると}}
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− | [[Category:イギリスの宣教師]]
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− | [[Category:医療宣教師]]
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− | [[Category:在日宣教師]]
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− | [[Category:在日イギリス人]]
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− | [[Category:イギリスの医師]]
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− | [[Category:明治時代の外国人]]
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− | [[Category:日本基督教団の人物]]
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− | [[Category:スコットランドの人物]]
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− | [[Category:オランダ系イギリス人]]
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− | [[Category:エディンバラ大学出身の人物]]
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− | [[Category:コロンボ出身の人物]]
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− | [[Category:1848年生]]
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− | [[Category:1929年没]]
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