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末永 雅雄(すえなが まさお、1897年(明治30年)6月23日 - 1991年(平成3年)5月7日)は、日本の考古学者。橿原考古学研究所初代所長。関西大学名誉教授。文学博士(龍谷大学、1948年、学位論文「近畿古文化の研究」)。大阪府南河内郡狭山村(現・大阪狭山市)生まれ。日本学士院会員。文化勲章受章者。大阪狭山市名誉市民。奈良県明日香村名誉村民。
Contents
人物
大学は卒業していないものの、高瀬真郷、関保之助らについて学を修め、後京都帝国大学の考古学研究室員として、濱田耕作に師事する。その後、京大に在籍しつつ、奈良県史蹟名勝天然記念物調査会嘱託として発掘・研究(唐古・鍵遺跡、石舞台古墳、円照寺裏山古墳等)を行う。
奈良県吉野郡の宮滝遺跡の発掘が1930年(昭和5年)から1938年(昭和13年)まで奈良県による本格的におこなわれた。その成果が『宮滝の遺跡』(1944年)として発刊された。1938年から橿原神宮外苑の整備に伴い、並行して橿原遺跡の調査を敢行したが、その際の調査事務所を橿原考古学研究所と呼び、調査員として、末永雅雄・酒詰仲男・澄田正一・日色四郎・島本一・吉田宇太郎・黒田昇義等が所属した。これが拡大、県営となって、奈良県立橿原考古学研究所となった。1938年7月に濱田が死去し、後任の教授に梅原末治が収まり、末永の他大学での講義のシラバスを巡って梅原との間に行き違いが生じ、京大考古学教室と半ば縁切れとなった。末永は龍谷大学に橋頭保を築き、そこで文学博士の称号も得た。
1950年(昭和25年)、関西大学の講師に就任。その後も、高松塚古墳を初め、大和地方の古墳を多く手掛ける。また、航空機による古墳観察を初めて実践した。多くの後進の考古学者(伊達宗泰、網干善教、森浩一など)を育てたことでも知られる。同年代の考古学者だった同じ大阪府出身の梅原末治とは確執があったと評価せざるを得ない状況があった。
受賞・叙勲・顕彰
- 1936年(昭和15年) 帝国学士院賞
- 1969年(昭和44年) 勲三等瑞宝章
- 1979年(昭和54年) 勲二等瑞宝章
- 1980年(昭和55年) 文化功労者
- 1988年(昭和63年) 文化勲章
- 1991年(平成3年) 贈従三位(没時叙位)、贈勲一等瑞宝章(没時陞叙)
主な著書
- 『日本上代の甲冑』 創元社、1944年
- 『日本の古墳』 朝日新聞社、1961年
- 『考古学の窓』 学生社、1968年 ISBN 4-311-20023-4
- 『古墳』 学生社、1969年9月 ISBN 4-311-20040-4
- 『日本武器概説』 社会思想社、1971年
- 『池の文化』 学生社、1972年 ISBN 4-311-20005-6
- 『古墳の航空大観 全3巻』 学生社、1975年1月 ISBN 4-311-75001-3
- 『考古学十二話』 中央公論社、1976年 ISBN 4-12-000667-0
- 『考古ものがたり 一学徒の研究史』 読売新聞社、1976年
- 『神話と考古学の間』 創元社、1980年 ISBN 4-422-20111-5
- 『和泉黄金塚古墳』 東京堂出版、1980年 ISBN 4-490-20047-1
- 『古墳の航空写真集』 学生社、1980年9月 ISBN 4-311-75006-4
- 『考古学調査に末永大作戦』 ブレーンセンター、1983年8月 ISBN 4-8339-0112-9
- 『近畿古文化の研究』 大塚巧芸社、1984年 ISBN 4-311-75012-9
- 『高松塚行幸記』 雄山閣、1984年6月 ISBN 4-639-00363-3
- 『日本考古学への道 一学徒が越えた』 雄山閣、1986年1月 ISBN 4-639-00540-7
- 『はにわ読本』 雄山閣、1987年6月 ISBN 4-639-00652-7
- 『末永雅雄著作集 全5巻』 雄山閣、1990年 ISBN 4-639-00957-7
- 『古墳の航空大観 写真篇』 学生社、1999年4月 ISBN 4-311-75026-9
- 『末永雅雄が語る大和発掘物語』橿原考古学協会、2004.8
記念論集
- 『末永先生古稀記念古代学論叢』(同記念会、1967年)
- 『末永先生米寿記念献呈論文集』乾・坤(同記念会、1985年)
参考文献
- 大阪狭山市立郷土資料館学芸委員会 『写真集 末永雅雄先生 常歩無限の一生』 大阪狭山市、大阪狭山市立郷土資料館、1992年。