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− | {{Otheruses|古代中国の王朝}} | + | '''周'''(しゅう、{{ピン音|Zhōu}}、[[紀元前1046年]]頃 - [[紀元前256年]]) |
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− | {{基礎情報 過去の国
| + | 中国古代の王朝 (前 1050頃~256) 。伝説上の祖を[[后稷]] (こうしょく) という。もともと陝西または山西の奥にいた部族とみられるが,古公亶父 (ここうたんぽ) のとき,犬戎 (けんじゅう) の圧迫で渭水盆地にのぞむ岐山のふもとに移り,子の季歴から西伯昌 ([[文王]]) ,[[武王]]の3代で体制を整備し,武王が[[殷]]を滅ぼし前 11世紀に建国した。都は鎬京 (こうけい。陝西省西安付近) 。2代成王が東都らく邑 (らくゆう。河南省洛陽付近) を建設。3代康王にかけ天下は安定した。 10代厲王 (れいおう) の失政により,一時王統が絶え,11代宣王が中興した。 12代幽王は[[褒じ]] (ほうじ) への愛におぼれて暴政を行い,戎狄の侵入を受け殺され,13代平王がらく邑に遷都した (前 770) 。それ以前を西周 (前 1050~770) ,以後を東周 (前 770~256) と呼ぶ。東周期は春秋・戦国時代で,王の実権はなくなり,37代赧王 (たんおう) のとき,秦の昭王に滅ぼされた (前 256) 。 |
− | |略名 = 周
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− | |日本語国名 = 周
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− | |公式国名 = [[File:Zhou dynasty (Chinese characters).svg|20px]]
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− | |建国時期 =[[紀元前1046年|前1046年]]
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− | |亡国時期 =[[紀元前256年|前256年]]
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− | |先代1 = 殷
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− | |先旗1 = blank.png
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− | |次代1 = 秦
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− | |次旗1 = blank.png
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− | |位置画像 = China 2a.jpg
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− | |位置画像説明 = 紀元前771年頃の周の領土
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− | |公用語 =[[上古音|古代中国語]]
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− | |首都 = {{仮リンク|豊鎬|zh|豐鎬}}<ref>[[長安]]北西の[[:zh:灃河 (渭河)|灃水]]両岸にあった双子都市。</ref>([[豊京]]及び[[鎬京]])<small><br/>([[紀元前1046年|前1046年]] – [[紀元前771年|前771年]])</small><br/>[[洛陽市|洛邑]]<small><br/>([[紀元前771年|前771年]] – [[紀元前256年|前256年]])
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− | |元首等肩書 = 王
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− | |元首等年代始1 = [[紀元前1046年|前1046年]]
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− | |元首等年代終1 = [[紀元前1043年|前1043年]]
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− | |元首等氏名1 = [[武王 (周)|武王]]
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− | |元首等年代始2 = [[紀元前314年|前314年]]
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− | |元首等年代終2 = [[紀元前256年|前256年]]
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− | |元首等氏名2 = [[赧王 (周)|赧王]]
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− | |人口測定時期1 = [[紀元前273年|前273年]]
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− | |人口値1 = 約30,000,000
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− | |変遷1 = [[牧野の戦い]]
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− | |変遷年月日1 = [[紀元前1046年|前1046年]]
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− | |変遷2 = [[共和 (周)|共和]]
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− | |変遷年月日2 = [[紀元前841年|前841年]] - [[紀元前828年|前828年]]
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− | |変遷3 = [[洛陽市|洛邑]]遷都
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− | |変遷年月日3 =[[紀元前771年|前771年]]
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− | |変遷4 = 滅亡
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− | |変遷年月日4 = [[紀元前256年|前256年]]
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− | |通貨 = [[刀銭]]
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− | |national_motto =
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− | |continent = Asia
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− | |region = Pacific
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− | |country = China
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− | |era =
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− | |status = Kingdom
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− | |government_type = Monarchy/Feudalism
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− | |event_start = [[Battle of Muye]]
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− | |event_end =
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− | |date_event5 =
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− | |image_map = Zhou dynasty 1000 BC.png
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− | |image_map_caption = Population concentration and boundaries of the Western Zhou Dynasty (1050–771 BC) in China
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− | |capital = [[Haojing]], [[Luoyang]]
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− | |common_languages = [[Old Chinese]]
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− | |Philosophy = [[Hundred Schools of Thought]]
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− | |religion = [[Chinese folk religion]], [[Hundred Schools of Thought]]
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− | |currency = Mostly [[Ancient Chinese coinage#Pre-Imperial_.28770-220_BC.29|spade coins and knife coins]]
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− | |leader1 = [[King Wu of Zhou|King Wu]]
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− | |leader2 = King Nan of Zhou
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− | |year_leader1 = c. 1046–1043 BC
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− | |year_leader2 = 314–256 BC
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− | |title_leader = [[Chinese sovereign|King]]
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− | |legislature =
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− | |title_deputy = [[Chancellor (China)|Chancellor]]
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− | |stat_year1 = 273 BC
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− | |stat_area1 =
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− | |stat_pop1 = 30,000,000
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− | |stat_year2 = 230 BC
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− | |stat_area2 =
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− | |stat_pop2 = 38,000,000
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− | }}
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− | {{中国の歴史}}
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− | '''周'''(しゅう、{{ピン音|Zhōu}}、[[紀元前1046年]]頃 - [[紀元前256年]])は、[[中国]]古代の[[王朝]]。[[殷]]を倒して王朝を開いた。[[紀元前771年]]の洛邑遷都を境に、それ以前を'''西周'''、以後を'''東周'''と、2つの時期に区分される。[[国姓]]は[[姫 (姓)|姫]](き)。周代において[[中国]]文明が成立したとみられる<ref>[[ヴァルフラム・エバーハルト]](1909-89)による。W・エバーハルト、白鳥芳郎監訳『古代中国の地方文化-華南・華東』六興出版、1987年。また[[佐々木高明]]『日本文化の多重構造−アジア的視野から日本文化を再考する』小学館、1997年、p.58</ref>。
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− | == 歴史 ==
| + | {{テンプレート:20180815sk}} |
− | === 克殷 ===
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− | 周の伝説上の始祖は[[后稷]]と言い、帝[[舜]]に仕えて、農政に功績があったという。[[古公亶父]]の時代に周の地に定住したと言われている。
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− | 古公亶父には3人の息子があり、上から[[太伯・虞仲]]・[[季歴]]と言った。季歴の子の昌(後の[[文王 (周)|文王]])が誕生する際にさまざまな祥瑞<ref>めでたい兆し。[[聖人]]が生まれる際にはそのようなことが起きるとされていた。</ref>が起こり、古公亶父は「わが子孫で栄えるのは昌の子孫であろうか」と言っていた。古公亶父が季歴に後を継がせたいと考えていることを知った[[太伯・虞仲|太伯と虞仲]]は出奔して南の荊蛮の地に赴いた。太伯は[[句呉]]<ref>[[紀元前586年]]、[[寿夢]]が国号を[[句呉]]から[[呉 (春秋)|呉]]に改めた。</ref>(こうご)と号して国を興し、荊蛮の人々は多くこれに従った。
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− | 昌は後を継ぐと古公亶父の期待通りに周の勢力を拡大させ、[[殷]]より西伯<ref>国を東西南北に分けた時に西を管轄する権限を持つ諸侯。王の判断を待たずに独断で武力を用いてその地方を治めることを許される。</ref>に任ぜられる。文王が西伯の地位にあった時にすでに周は殷を上回る力を備えていたが、文王はあくまで殷の臣下の地位に甘んじた。
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− | 文王の息子の[[武王 (周)|武王]]は弟[[周公旦]]・[[呂尚|太公望]]・[[召公セキ|召公奭]]らの助力を借りて暴虐が募ったとされる[[帝辛]](紂王)を[[牧野の戦い]]で破り、周王朝を建てた。
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− | === 成康の治 ===
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− | {{main|成康の治}} | |
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− | しかし武王は建国まもなくして死去する。後を継いだ[[成王 (周)|成王]]は未だ幼少であり、殷の残存勢力は侮れないものがあった。ここで周公旦が[[摂政]]として政治を見ることになった(周公旦が即位したという説もある)。心配されたとおり、殷の遺民たちを治めさせていた[[武庚]]禄父と、周公旦の兄弟であるが周公旦が政権を握ることに不満を持つ[[管叔鮮]]と[[蔡叔度]]が共謀して乱を起こす({{仮リンク|三監の乱|zh|三监之乱}})。周公旦は成王の命を受けてこれを鎮圧し、その後7年して成王が成長した後に、周公は一臣下に戻った。
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− | 成長した成王は周公旦・召公奭を左右に政務に取り組み、[[東夷]]を討って勢威を明らかにした。成王の後を継いだのが[[康王 (周)|康王]]である。康王は召公と畢公を左右にしてよく天下を治めた。成王・康王の時代は天下泰平であり、40年にわたり刑罰を用いることがなかったという。
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− | === 衰退 ===
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− | その後は徐々に衰退する。4代目の[[昭王 (周)|昭王]]は南方へ遠征を行ったが失敗し(後代の文献では遠征中に死亡したとされているが、同時代にその記述はない)、それ以降周は軍事的に攻勢から守勢に転じるようになった。5代目の[[穆王 (周)|穆王]]以降、王は[[親征]]することが無くなり、盛んに祭祀王として祭祀儀礼を行うことことで軍事的に弱まった王の権威を補っていくことになった<ref>[[佐藤信弥]]『周-理想化された古代王朝-』[[中公新書]] 2016年 ISBN 978-4-12-102396-4 p.72-79</ref>。
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− | 6代目の[[共王 (周)|共王]]から9代目の[[夷王 (周)|夷王]]までの王は影が薄いが、この時期に礼制が改められ、王が臣下を職務に任命する冊命儀礼などを通じて臣下に対する周王室への求心力の維持を図り、ひとまずの安定を得た<ref>佐藤信弥『周-理想化された古代王朝-』p.82-107</ref>。しかし、夷王は[[紀 (春秋)|紀侯]]の讒言を信じて[[哀公 (斉)|斉の哀公]]を[[釜茹で]]の刑(烹)に処しており、その諸侯に対する暴虐さ・暗愚さが次代の[[厲王 (周)|厲王]]らへと受け継がれていった<ref>佐藤信弥『周-理想化された古代王朝-』p.108</ref>。
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− | 10代[[レイ王 (周)|厲王]]は、周りに分け与えられるべき財を全て独占したために諸侯の間で不満が高まり、最終的には大反乱が起き、厲王は辺境に逃げ出した。王が不在となった後、宰相の共伯和が太子静(11代[[宣王 (周)|宣王]])を擁して政治を行った。共伯和の伯をとって、のちにこの時代のことを'''共和'''と呼ぶようになった。なお、これには別説があり、{{仮リンク|周定公|zh|周定公}}と{{仮リンク|召穆公|zh|召穆公}}の2人の大臣が合議制で「共に和して」政治を行ったので共和と言うという説もある。現代で[[共和制]]というのは、この別説が由来となっている。
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− | 宣王の治世でわずかに周の国勢は回復したが、宣王も後半期には政治に倦むようになったために再び衰退する。
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− | 12代[[幽王 (周)|幽王]]の時代、[[申 (曖昧さ回避)|申]]から迎えていた皇后を廃し[[褒姒]]を皇后としたため、申の怒りを買い、申は[[犬戎]]を伴い王都へと攻め込んだ。幽王は殺され、褒姒の子の伯服(伯盤)も殺された。そこで、[[携王 (周)|携王]]が即位した。これに反対する諸侯は、王子宜臼を擁し、東の洛邑(王城・成周)(現在の[[河南省]][[洛陽市]]付近)へ移り、[[平王 (周)|平王]]を立てた。周は東西に分かれて争い、東の平王が打ち勝った。ここから周は'''東周'''と呼ばれ、時代区分では[[春秋時代]]に移行する。
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− | === 春秋戦国時代 ===
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− | {{main|春秋時代|戦国時代 (中国)}}
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− | 春秋時代の周は、往時と比するべくもない程まで没落した。平王の孫である[[桓王 (周)|桓王]]は王権の再強化を図ったが、[[繻葛の戦い]]([[紀元前707年|前707年]])で一諸侯に過ぎない[[鄭]]に敗れた事で諸侯に対する統制力を喪失した。
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− | さらに、王室内で幾度も王位継承争いが発生したために周王室の力は弱体化し<ref>佐藤信弥『周-理想化された古代王朝-』p.166-169</ref>、洛邑(王城・成周)周辺のみを支配する小国となっていった。現代の[[湖北省]][[随州市]]付近にあった{{仮リンク|曽 (春秋)|label=曽|zh|曾国 (姬姓)}}の春秋時代の侯の墓に納められていた青銅器の銘文には、「周室既卑(しゅうしつすでにひくく)」と書かれている<ref>佐藤信弥『周-理想化された古代王朝-』p.146</ref>。それでも権威だけは保持しており、諸侯たちはその権威を利用して諸侯の間の主導権を握ろうとした([[春秋五覇]])。周王室側も[[覇者]]をはじめとする諸侯に対して、西周以来の伝統と権威を強調することで祭祀を主催する立場の維持を図った<ref>佐藤信弥『周-理想化された古代王朝-』p.172-175</ref>。
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− | しかし、その権威も春秋時代後半からは低下していった。例えば春秋時代の[[秦]]の[[景公 (秦)|景公]]の墓の出土品の銘文では秦の君主を本来周王の称号であったはずの「[[天子]]」と称している<ref>佐藤信弥『周-理想化された古代王朝-』p.178-179</ref>。また[[孔子]]の登場以降、西周の時代を理想化した礼制の整備が[[儒家]]や諸侯によって行われていくが、それらに対して周王室は全く主導権を発揮しておらず<ref>佐藤信弥『周-理想化された古代王朝-』p.182-202</ref>、祭祀を主催する立場すら失っていた。
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− | 戦国時代に入ると、かつての覇者・[[晋 (春秋)|晋]]や[[呂尚|太公望]]の子孫である[[斉 (春秋)|斉(姜斉)]]といった周王室と歴史的に結びつきが強い諸侯が滅び、周王の権威や存在意義はますます低下していった。[[魏 (戦国)|魏]]の[[恵王 (魏)|惠王]]は「[[夏 (三代)|夏]]王」・「[[天子]]」を称し、周王朝に取って代わる意思を示すほどであった<ref>佐藤信弥『周-理想化された古代王朝-』p.205-206</ref>。東周23代目の王[[顕王 (周)|顕王]]は秦に対して春秋時代に覇者に対して行っていた儀礼を行うことで、秦の保護を受けようとしたが、既に春秋時代に天子を称していた秦の[[恵文王 (秦)|恵文王]]は王を称し、後には七雄の諸侯のみならず小国の[[宋 (春秋)|宋]]や北辺の[[中山国]]の君主までもが王を称するようになった。秦の[[昭襄王 (秦)|昭襄王]]と[[田斉]]の[[ビン王 (斉)|湣王]]に至っては一時「西帝」「東帝」と帝号を称した<ref>佐藤信弥『周-理想化された古代王朝-』p.206-208</ref>。
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− | === 滅亡 ===
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− | 最後の王である赧王の在位中は周王室の影響力はわずかに王畿(現在の[[洛陽]]附近)に限定され、周王室も[[貞定王 (周)|貞定王]]の末子[[桓公 (周)|掲]](桓公)を始祖とする[[西周公]]([[武公 (西周)|武公]])と[[東周公|東周君]]([[昭文君|君傑]])の勢力に分裂しており、赧王は西周の武公を頼って西周(河南)に遷都した。祖父の[[顕王 (周)|顕王]]の時代より[[秦]]の勢力が急速に拡大しており、諸々の政策でも周の勢力挽回は成功しなかった。
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− | [[紀元前256年]]、武公の西周は諸侯と通じて韓と交戦中の[[秦]]軍を妨害したため秦の将軍[[キュウ|楊摎]]の攻撃を受けた。西周君は秦へおもむき謝罪しその領土を秦に献上した。このため赧王は秦の保護下に入り、まもなく崩御した。秦が[[九鼎]]を移し、王畿を占拠したことで西周は滅亡することとなった。
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− | 赧王の死後も、[[昭文君]]の東周は7年間存続した。昭文君は[[楚 (春秋)|楚]]の力を借りて六国の諸侯を連合させ、秦を討伐しようとしたが失敗し、その統治する地域は秦に奪われた。
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− | ただ、国として滅びたのみで元の王族だった者達はそのまま存続を許された。
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− | == 政治 ==
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− | 周の官制については周の諸制度について周公旦が纏めたとされる『[[周礼]]』に非常に詳しい記述があるが、この書物の成立は戦国時代以降と見られているのでこれを以って周の官制を論ずるには無理がある。[[金文]]によると周には卿事寮(けいじりょう)・太史寮(たいしりょう)と呼ばれる2つの組織があった。卿事寮の長官は太保・太師の2つがあり、のちに太師だけになる。下に[[大司馬|司馬]](軍事担当)・司土(司徒、土地管理担当)・司工(司空)の職があり、各諸侯の下にも同じ職があった。太史寮の長官を太史と呼び、[[歴史]]の編纂・各種儀礼・祭祀などを行う。
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− | 身分制度については『[[春秋左氏伝]]』によると、王の下に諸侯がおり、その下に大夫(たいふ)と呼ばれる一種の貴族層があり、その下に士と呼ばれる層があり、その下が庶民となっている。ただし大夫と士と言う階級は金文には無い。前述したように取引される対象である一種の奴隷階層があったことは間違いなく、主に主人に代わって農作業を行っていた。この中には職工と思われる職もあり、[[青銅器]]の[[鋳造]]に関わっていたと考えられる。
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− | 土地制度については[[井田制]]が行われていたとされるが、この制度も実際に行われていたかは疑問視する声が多い。
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− | == 文化 ==
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− | 殷の青銅器文化はその芸術性において最高の評価を与えられている。周も基本的にはその技術を受け継いでいたのだが、芸術性においては簡素化しており、殷代に比べればかなり低い評価となっている。
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− | この時代の青銅器はほぼ全てが祭祀用であり、実用のものは少ない。器には占卜の結果を鋳込んである。これが金文と呼ばれるもので、この時代の貴重な資料となっている。殷代と比べて周代はこの文が非常に長いものとなっていることに特徴がある。
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− | またそれまでの絶対的な祖先崇拝が薄められたことも殷と周との違いとして挙げられる。殷では祖先に対する崇拝と畏れが非常に強く、祭祀を怠ったりすればすぐにでも祟られるという考えを持っていた。
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− | これらの青銅器に文字を鋳込む技術は王室の独占技術であったようで、諸侯には時に王室から下賜されることがあった。春秋時代に入るときの混乱から技術が諸侯にも伝播して諸侯の間でも青銅器に文字を鋳込むことが行われ始めた。
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− | 建築の分野では周に入ってからそれまでの茅葺きから[[瓦]]が一般的になったことがわかっている。
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− | [[投壺]](とうこ)が始まったのも周代とされる。
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− | == 都市と領土 ==
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− | [[画像:China_map0420.gif|left|thumb|300px|西周王朝、この時代、領土は点と点とを結んだネットワーク状のもので面領域ではない。よって周王朝の勢力領域を確定するのは困難であるので領域は設定せず、邑名だけ記入した。]]殷代から春秋時代にかけての[[華北]]は、[[邑]]と呼ばれる[[都市国家]]が多数散在する時代であった。殷代、西周時代の邑は君主の住まいや[[宗廟]]等、邑の中核となる施設を丘陵上に設けて周囲を頑丈な城壁で囲い、さらにその周囲の一般居住区を比較的簡単な土壁で囲うという構造のものであった。戦時に住民は丘陵上の堅固な城壁で囲まれた区画に立てこもり防戦した。
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− | 東周時代には、外壁が強化され、内壁=城と、外壁=郭からなる二重構造、つまり、「内城外郭式」がとられるようになった。華北の城壁は、無尽蔵にある[[黄土]]を木の枠にしっかりとつき固め、堅い層を作りそれを重ねてゆく[[版築]]という工法によって築造されている。こうして作られた城壁は、極めて堅固な土壁となる。水には弱いが、もともと華北は雨量が少ない上、[[磚]]と呼ばれる、黄土を焼成して作られた煉瓦で城壁を覆い防水加工を施すため、あまり水の浸食を受けることもない。人為的破壊が無い限り城壁はかなり長い寿命を維持することができる。
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− | 邑は、城壁に囲まれた都市部と、その周辺の耕作地からなる。そして、その外側には、未開発地帯が広がり、狩猟・採集や牧畜経済を営む非都市生活の部族が生活していた。彼らは「[[夷狄|夷]]」などと呼ばれ、自らの生業の産物をもって都市住民と交易を行ったがしばしば邑を襲撃し、略奪を行った。また、邑同士でも農耕や交易によって蓄積された富などを巡って武力を用いた紛争が行われていた。こうした紛争などにより存続が難しくなった小邑は、より大きな邑に政治的に従属するようになっていった。さらに春秋時代の争乱は、中小の邑の淘汰・併合をいっそう進めた。大邑による小邑の併合や、鉄器の普及による開発の進展で農地や都市人口が大規模に拡大したために、大邑はその領域を拡大して邑と邑の間に広がっていた非都市生活者の生活領域や経済活動域を消滅させてゆく。また、軍事が邑の指導者層である都市貴族戦士に担われる戦車戦から増大した農民人口によって担われる歩兵戦に重点が移行するとともにそれまで温存されていた大邑に従属する小邑が自立性を失って中央から役人が派遣されて統治を受ける「[[県]]」へと変えられていった。こうして、春秋末から戦国にかけて、華北の政治形態は、都市国家群から領域国家群の併存へと発展していった。
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− | {{-}}
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− | === 主要諸侯 ===
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− | [[史記]]三世表には、周建国当時の有力な諸侯として以下の11国が記される(記載順)。
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− | *'''[[魯]]'''-姫姓[[侯爵]] 開祖:[[周公旦]]([[武王 (周)|武王]]の同母弟)
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− | *:現在の[[山東省]]南部を領す。都城は[[曲阜]](現在の[[山東省]][[済寧市]][[曲阜市]])。
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− | *'''[[斉 (春秋)|斉]]'''-姜姓呂氏侯爵 開祖:[[呂尚]]
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− | *:現在の[[山東省]]北部を領す。都城は[[臨淄]](現在の[[山東省]][[淄博市]][[臨淄区]])。
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− | *'''[[晋 (春秋)|晋]]'''-姫姓侯爵 開祖:{{仮リンク|唐叔虞|zh|唐叔虞|en|Shu Yu of Tang}}([[成王 (周)|成王]]の同母弟)
| |
− | *:現在の[[山西省]]一帯、[[黄土高原]]東部の[[汾河|汾水]]河谷周辺を領す。都城は唐(後に「晋」に改称、現在の[[山西省]][[太原市]][[晋源区]])。
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− | *'''[[秦]]'''-嬴姓趙氏 西周代では[[大夫]]・東周にいたり侯爵 開祖:{{仮リンク|非子|zh|非子|en|Feizi}}
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− | *:現在の[[甘粛省]]西部、東に周の根拠地である[[陝西省]]の渭水盆地を望む高地を領す、周王室の東遷に伴い政治権力の空白となった渭水盆地に勢力を伸ばし、やがてこの盆地の政治的中枢部である[[関中]]に重心を移す。当初の都城は[[秦邑]](現在の[[甘粛省]][[天水市]][[張家川回族自治県]])。
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− | *'''[[楚 (春秋)|楚]]'''-羋姓熊氏[[子爵]] 開祖:{{仮リンク|熊繹|zh|熊繹|en|Xiong Yi}}
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− | *:現在の[[河南省]]西部から[[湖北省]]・[[湖南省]]一帯、概ね[[漢江 (中国)|漢江]]以南の[[長江]]中流域を領す。都城は[[淅川県|丹陽]](現在の[[河南省]][[南陽市 (河南省)|南陽市]][[淅川県]])。
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− | *'''[[宋 (春秋)|宋]]'''-子姓[[公爵]] 開祖:[[微子啓]]([[殷]]の[[帝辛]](紂王)の異母兄)
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− | *:現在の[[河南省]]東部一帯を領す。都城は[[睢陽区|商邱]](現在の[[河南省]][[商丘市]][[睢陽区]])。
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− | *'''[[衛]]'''-姫姓伯爵(後に侯爵、さらに公爵へと陞爵) 開祖:[[康叔]]([[武王 (周)|武王]]の同母弟)
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− | *:現在の[[河南省]]北部[[黄河]]北岸部を領す。都城は[[朝歌]](現在の[[河南省]][[鶴壁市]][[淇県]])。
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− | *'''[[陳 (春秋)|陳]]'''-嬀姓侯爵 開祖:[[胡公 (陳)|胡公]]([[五帝]]の一人である[[舜]]の末裔と伝えられる)
| |
− | *:現在の[[河南省]]中部一帯を領す。都城は[[淮陽県|宛丘]](現在の[[河南省]][[周口市]][[淮陽県]])。
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− | *'''[[蔡]]'''-姫姓侯爵 開祖:[[蔡叔度]]([[武王 (周)|武王]]の同母弟)
| |
− | *:現在の[[河南省]]南部を領す、都城は当初[[上蔡]](現在の[[河南省]][[駐馬店市]][[上蔡県]])、[[新蔡]](現在の[[駐馬店市]][[新蔡県]])に遷都後、[[鳳台県|下蔡]](現在の[[安徽省]][[淮南市]][[鳳台県]])に遷る。
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− | *'''[[曹 (春秋)|曹]]'''-姫姓[[伯爵]] 開祖:[[曹叔振鐸]]([[武王 (周)|武王]]の同母弟)
| |
− | *:現在の[[山東省]]西部を領す、都城は[[定陶区|陶丘]](現在の[[山東省]][[カ沢市|菏沢市]][[定陶区]])。
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− | *'''[[燕 (春秋)|燕]]'''-姞姓伯爵 開祖:[[召公奭]](周王朝姫氏の同族)
| |
− | *:現在の[[河北省]]北部を領す、都城は[[薊]](現在の[[北京市]][[房山区]])。
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− | == 歴代王 ==
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− | # [[夷王 (周)|夷王]]
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− | # [[厲王 (周)|厲王]]
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− | #* [[共和 (周)|共和]](前841年 - 前828年)
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− | # [[宣王 (周)|宣王]](前827年 - 前782年)
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− | # [[幽王 (周)|幽王]](前781年 - 前771年)
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− | #* [[携王 (周)|携王]](前771年 - 前759年)
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− | ;{{big|東周}}
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− | # [[平王 (周)|平王]](前770年 - 前720年)
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− | # [[桓王 (周)|桓王]](前719年 - 前697年)
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− | # [[荘王 (周)|荘王]](前696年 - 前682年)
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− | # [[釐王 (周)|釐王]](前681年 - 前677年)
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− | # [[恵王 (周)|恵王]](前676年 - 前652年)
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− | # [[襄王 (周)|襄王]](前651年 - 前619年)
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− | # [[頃王 (周)|頃王]](前618年 - 前613年)
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− | # [[匡王 (周)|匡王]](前612年 - 前607年)
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− | # [[定王 (周)|定王]](前606年 - 前586年)
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− | # [[簡王 (周)|簡王]](前585年 - 前572年)
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− | # [[霊王 (周)|霊王]](前571年 - 前545年)
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− | # [[景王 (周)|景王]](前544年 - 前520年)
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− | # [[悼王 (周)|悼王]](前520年)
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− | # [[敬王 (周)|敬王]](前519年 - 前477年)
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− | # [[元王 (周)|元王]](前476年 - 前469年)
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− | # [[貞定王 (周)|貞定王]](前468年 - 前441年)
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− | # [[哀王 (周)|哀王]](前441年)
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− | # [[思王 (周)|思王]](前441年)
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− | # [[考王 (周)|考王]](前440年 - 前426年)
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− | # [[威烈王 (周)|威烈王]](前425年 - 前402年)
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− | # [[安王 (周)|安王]](前401年 - 前376年)
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− | # [[烈王 (周)|烈王]](前375年 - 前369年)
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− | # [[顕王 (周)|顕王]](前368年 - 前321年)
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− | # [[慎ケン王 (周)|慎靚王]](前320年 - 前315年)
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− | # [[赧王 (周)|赧王]](前314年 - 前256年)
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− | ;{{big|西周君}}
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− | ;{{big|東周君}}
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− | # 恵公
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− | # [[昭文君]]
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− | # 武公
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− | # 周靖公
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− | [[画像:Zhou Dynasty Chart.jpg|right|thumb|260px|基本的に左が年長。重要でない人物は省略してある。]]
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− | == 備考 ==
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− | * 周人は元々[[赤髪]]の人達であったという言い伝えがある<ref>[[陳舜臣]] 『中国の歴史 (三)』 [[講談社文庫]] 11刷1997年(1刷1990年) ISBN 4-06-184784-8 p.344.</ref>。
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− | == 関連項目 ==
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− | * [[夏商周年表プロジェクト]]
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− | * [[夏商周年表]]
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− | * [[周原]]
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− | == 脚注 ==
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− | <references/>
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− | == 参考文献 ==
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− | * 『中国史1』山川出版社
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− | * [[佐藤信弥]]『周-理想化された古代王朝-』[[中公新書]] 2016年 ISBN 978-4-12-102396-4
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− | {{Wiktionary|周}}
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| [[Category:夏殷周|*しゆう]] | | [[Category:夏殷周|*しゆう]] |
| [[Category:中国の王朝]] | | [[Category:中国の王朝]] |